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2026-10-12 Mon
■ #6377. 『ケルズの書』とともに味わいたい至宝 --- Tara Brooch と Ardagh Chalice [dublin][tabihel][ireland][christianity][bchel][oe][latin][anglo-saxon][history][tabihel_dublin]
ダブリンの英語史に関連する場所を訪ねて歩く「旅hel」 (tabihel) シリーズ.「#6373. アイルランドの至宝『ケルズの書』を訪ねて --- The Book of Kells」 ([2026-10-08-1]) に続き,先月ダブリンで訪ねてきた至宝を取り上げたい.ダブリン中心部の Kildare Street に面したアイルランド国立博物館(考古学館)の至宝といえば,Tara Brooch と Ardagh Chalice の2つが挙げられる.

まずは Tara Brooch.外套を留めるための装飾ブローチで,紀元700年前後の作とされる.19世紀半ばに Meath 州の海岸近くで発見されたもので,実はアイルランド上王の座として名高い Tara の丘とは直接の関係はない.由緒ありげな名前を付けて売り出そうという動機で命名されたものだという.銀をベースに,金線細工,琥珀,ガラスで飾られた小さな円環のなかに,渦巻文様,組紐模様,動物文様がぎっしりと詰め込まれている.身につけたときには見えないはずの裏面にまで精緻な装飾が施されており,オシャレの極致だ.

続いて Ardagh Chalice.8世紀の作とされるミサ用の聖杯で,19世紀後半に Limerick 州 Ardagh 近郊の環状砦跡から発見された.銀の器に金線細工,七宝の装飾が配され,鉢の周りにはラテン語が刻まれている.簡素で端正な器形と,細部の贅を尽くした装飾との対比が見所だ.
2つの至宝は,時代的にも意匠的にも,『ケルズの書』と同じ文脈で鑑賞することができる.ケルト古来の渦巻文様,アングロサクソン的な組紐模様と動物文様,そして地中海世界のキリスト教的モチーフが各々の作品のなかで融合し完結しているのだ.いずれも,アイルランド・キリスト教が様々な文化の影響を受けて最も輝いていた,8世紀を中心とする時期の産物である.『ケルズの書』ではフォリオの上で展開されていた繊細な美意識が,金属細工にもそのまま息づいていることが分かる.
英語史にとって重要なのは,アイルランド・キリスト教の伝統がアイルランドに閉じていなかったことである.アイルランド系の修道士たちは Iona を拠点とし,さらにブリテン島北部の Lindisfarne へと進出した.Northumbria を中心とするブリテン島北部はこの島嶼キリスト教の流れを受け継ぎ,前回の記事でも触れた Lindisfarne Gospels に代表される古英語期のキリスト教文化を育んでいった.南から入った Augustine 以来のローマ系の伝道と並んで,この北からの流れが,アングロサクソン人のキリスト教化を支えたのである.
そして,アングロサクソンのキリスト教化はそのままラテン語の英語への流入を意味した.ラテン語はキリスト教という文化の乗り物だったのである.キリスト教とともに古英語に流れ込んだラテン借用語の数々,そしてラテン語のインスピレーションを受けつつも直接的な借用に頼らず本来語を駆使して新概念を表現した古英語の創造性については,目下 Baugh and Cable の超精読会で読み進めているところである.以下の記事などを参照.
・ 「#5686. B&C の第60節 "Latin Influence of the Second Period" の第1段落を対談精読実況生中継しました」 ([2024-11-20-1])
・ 「#5962. B&C の第62節 "The Earlier Influence of Christianity on the Vocabulary" (1) --- Taku さんとの超精読会」 ([2025-08-23-1]
・ 「#6262. B&C の第64節 "Influence of The Benedictine Reform on English" (1) --- Taku さんとの超精読会」 ([2026-06-19-1])
・ 「#6300. B&C の第65節 "The Application of Native Words to New Concepts" (1) --- Taku さんとの超精読会」 ([2026-07-27-1])
ブローチと聖杯を眺めながら,千数百年前の島嶼世界の芸術的熱量が,めぐりめぐって間接的に現代の英語の語彙にも刻み込まれているのを感じていた.
2026-10-11 Sun
■ #6376. 形容詞,食事,時間,語順にまつわるクイズ --- sorami さんの『英語語源ハンドブック』クイズ第19弾 [note][hee][helkatsu][hel_education][quiz][collocation][word_order][voicy][heldio]
隔週土曜日という決まったリズムで届けられる sorami さんの語源クイズシリーズ,10月3日に第19弾「授業で使える! 中学生向け英語語源クイズ#19~英語の朝昼晩・語順その2~」が公開されました.気づけばシリーズも20回目が目前です.
今回は全9問.形容詞に始まり,食事と時間の言葉を経て,最後は語順の話題へと着地する構成です.ネタバレにならない範囲で,いくつかの問いを紹介しましょう.
冒頭は形容詞を答える軽ジャブ問題です.通時的な意味変化 (semantic_change) の話題も復習的に取り上げられます.
続いて,クイズは1日の食事と時間をめぐる語彙へと進みます.それぞれお馴染みの単語ですが,意外な語源をもっていることがわかります.朝昼晩の言葉を並べてみると,日々の暮らしの言葉にこそ歴史の層が厚く積み重なっていることに気づかされますね.この話題には,皆さん興味を抱くのではないでしょうか
time と結びつく動詞を選ばせる問題も勉強になります.例えば kill time のように,同じ time でも組み合わせる動詞によって表現の性格ががらりと変わるのがおもしろいところです.語彙を点ではなく,コロケーションという線で捉える感覚が養われます.
そして最後は,副題にある通り「語順その2」です.前回第18弾の語順の問題を受けて,今回はコスタリカやプエルトリコといったスペイン語地名を入口に,名詞と形容詞の並び順を世界の言語のなかで比べてみるという趣向です.英語の「形容詞+名詞」の順は,実は世界的に見れば当たり前ではない.そんな気づきを中高生が得られるとすれば,これほど贅沢なクイズはありません.
いつもの通り,sorami さんの note 記事では,「授業の小ネタ,ウォームアップ,グループ活動などに自由に使っていただければ幸いです.ALTの先生を巻き込むのもありですね!」と述べられています.問題版と解答版の PDF も用意されていますので,全国の英語教員の皆さん,ぜひ授業で活用してみてください.
sorami さんのクイズ・シリーズの主な典拠となっているのは,刊行から1年4ヶ月ほどが経つ『英語語源ハンドブック』(研究社)です.ご好評いただき,先日第4刷が出来したところです.今年の6月30日には物書堂より『英語語源ハンドブック』アプリ版 (iOS) も発売されていますので,ぜひこちらよりチェックしてみてください.今回のクイズをきっかけに,毎日口にする「朝昼晩」の英単語の語源にも興味を持っていただければ幸いです.
・ 唐澤 一友・小塚 良孝・堀田 隆一(著),福田 一貴・小河 舜(校閲協力) 『英語語源ハンドブック』 研究社,2025年.
2026-10-10 Sat
■ #6375. Pittsburgh か Pittsburg か --- 地名の綴字論争 [ame][borough][spelling][standardisation][onomastics][toponymy][spelling_reform][orthography][gh][academy]
「#6371. 少なく見積もって80通りの綴字 --- borough」 ([2026-10-06-1]) や「#6372. 道路標識における Peterborough の省略綴字」 ([2026-10-07-1]) を書きながら思い出した話題の1つに,米国 Pennsylvania 州の都市 Pittsburgh の綴字をめぐるかつての論争がある.この地名の前半部分の Pitt は英国首相を務めた William Pitt (the Elder) にちなんだものだが,問題は後半要素の -burgh である.
拙訳『スペリングの英語史』の第7章「アメリカ式スペリング」に記述がある通り,米国の地名の綴字には,独立後の19世紀中もかなりの揺れがみられた.この状況を受けて,政府は地名の正書法を確立しようと「地理的名称に関する合衆国委員会」を設立した.当時の地名綴字をめぐる状況は,拙訳より少々長く引用するが,次の通りである(pp. 209--10) .
政府がスペリングを規制しようとする試みが成功を収めた一領域として,外来語をアメリカ式スペリングへ翻字したということがあった.これは地理的名称の場合には特に急を要することだった.地名においては,元来の形態がしばしば外国語に由来しており,固定したスペリングを採用することが実際的に必要とされたからだ.1890年には当時のベンジャミン・ハリソン大統領が地理的名称に関する合衆国委員会を設立し,その権限により政府官庁のなかでおよび地図類において統一した地名のスペリングを確定しようとした.この委員会の重要な機能は,アメリカ市民にとって発音の適切な案内役となるような地名のスペリングにすることだった.異綴りの問題,とりわけ外国語のスペリング習慣を用いた異綴りについては,ノア・ウェブスターが1803年のスペリング教本の序文で焦点を当てていたが,そこでは Ouisconsin (ウィスコンシン)や Ouabasche (ウォバッシュ)のような地名のフランス語のスペリングを保持することへの異論が唱えられた.
無学のアメリカ人は,このようにフランスの装いをした Ouisconsin や Ouabasche という名前の発音をどうして知りえようか.この発音が, Wisconsin や Waubash だと思うことがありえようか.われわれの市民は知りもしない正書法に,このように悩まされるべきではない.
1822年の地図で Wisconsin のスペリングが採用され,1845年の決議文ではこのスペリングが正しいと宣言されたものの,地理的名称に関する合衆国委員会が1901年に公刊した報告書でも,ウィスコンシン川について 'Wisconsin; river in Wisconsin (Not Ouisconsin, nor Wiskonsin)' (ウィスコンシン --- ウィスコンシンの川〔Ouisconsin でも Wiskonsinでもない〕)と注記されている.アメリカ先住民の言語からとられた名前もアメリカ化の過程を経て,より慣れたスペリング習慣に従うことになった.たとえば,Unéaukara(ナイアガラ) は現在では Niagara であり,Mauwauwaming (ワイオミング)は Wyoming となった一方で,Machihiganing (ミシガン)は Michigan となった.そのような名前がすべてこのようにアメリカ化したわけではなかった.多くのアメリカ先住民の名前は生き残っており,不注意な人が罠にはまってしまうような豊かで複雑怪奇な子音字の組み合わせを保存している.Tallahassee (タラハシー),Susquehanna (サスケハナ),Mississippi (ミシシッピ),Allegheny (アレゲーニー),Massachusetts (マサチューセッツ)などである.
このように,委員会の力は必ずしも強くなかったようだ.この辺りの事情は,英語圏において言葉の標準を定めるアカデミーが設立された試しが歴史上ないという事実にも通じており,興味深い.
そして,問題の Pittsburgh について,続く箇所を引用したい (p. 210) .
同委員会は, 今日のアメリカの地名にいまだ影響力の見られるような他の改革の導入にも功績があった.たとえば,borough (市)という語は boro と省略され,イギリス地名 Marlborough(マールボロ)とアメリカ地名 Marlboro の対比を生み出した.さらなる変化としては, burgh の語末の <h> を落として,Gettysburg(ゲティスバーグ) や Williamsburg(ウィリアムズバーグ) のような名前を生み出しもした.しかし,Pittsburgh (ピッツバーグ)は例外であり,語末の <h> を伴って綴らなければならない.これは,ピッツバーグ市民たちが故郷の町のスペリングを変えるのを拒んだからである.委員会はついに 1911年に態度を軟化させ,伝統的なスペリングを保存することを許可したが,同時にアメリカの地名のなかで最もよく綴り間違えられるスペリングとなってしまった.
この論争を知ってしまってからというもの,(いなそれ以前から?)私は borough 系の要素をもつ地名を綴る際には常に自信がなくなってしまった.
・ サイモン・ホロビン(著),堀田 隆一(訳) 『スペリングの英語史』 早川書房,2017年.
2026-10-09 Fri
■ #6374. 10月16日,専修大学で「3単現の -s の英語史」をお話しします [notice][hel_education][hel_lecture][helkatsu][nazesantangen][3sp]

来たる10月16日(金)の夕刻,専修大学文学部英語英米文学科主催の学術講演会にて,「3単現の -s の英語史」と題してお話しします.お招きくださったのは,khelf や heldio のhel活でも日頃からお世話になっている菊地翔太先生(専修大学)です.菊地先生は,講演会について10月1日に note 記事「堀田隆一先生のご講演「3単現の -s の英語史」(専修大学生田キャンパス)のご案内」を公開してくださっています.ありがとうございます.
学科主催の講演会ではありますが,一般の方でもご参加いただる会となっています.英語史に関心をお持ちの方,中学校で「3単現の -s」を習って以来モヤモヤを抱え続けてきた方,英語を教えている先生方など,どなたも歓迎です.ぜひ生田キャンパスまで足をお運びください.開催概要は以下の通りです.
・ 日時:2026年10月16日(金)5限 (16:35--18:05)
・ 会場:専修大学生田キャンパス 2号館 地下1階 Active! Studio 202
・ 主催:専修大学文学部英語英米文学科
・ 演題:「3単現の -s の英語史」
・ 参加:一般の方も参加可です(詳細は上記の菊地先生の note 記事をご確認ください)
今回の講演は,6月に刊行された拙著『英語史で解く 英文法の謎 --- なぜ「3単現の s」をつけるのか』(NHK出版新書),通称『なぜさんたんげん』の第1章第5節「なぜ3単現の s をつけるのか」の内容を,さらに深掘りしていくものです.新書では一般読者向けにコンパクトにまとめましたが,講演会では,そこからさらに一歩も二歩も踏み込んだ論点にも触れていきます.
講演では,まず3単現の -s に関する共時的な説明を確認します.そこでは「何を」「どのように」には答えてくれますが,「なぜ」には答えてくれません.そこで通時的な視点へと切り替えます.英語史の観点からみると,問うべきは「なぜ3単現に -s がつくのか」ではなく,むしろ「なぜ3単現以外では何もつかなくなってしまったのか」なのです.古英語の動詞 lufian (to love) の屈折表から出発し,屈折語尾の水平化の過程で3単現の語尾だけが生き残った経緯,さらに北部方言に由来する -s が本来の -th を置き換えていった経緯などをたどります.
後半では,Northern Present Tense Rule,3複現の -s,-th から -s への置換という3つの問題を取り上げ,数あるパラダイムのなかから,なぜ「3単現の -s を唯一の屈折標示としてもつパラダイム」が標準英語に採用されたのかを議論します.そして,現在も世界の英語諸変種に見られる多様な -s の分布に目を向けながら,「正しい英語」という発想を相対化してみたいと思います.たった1文字の語尾に,屈折の水平化,方言接触,標準化,社会的評価といった英語史の主要テーマが凝縮されていることを,皆さんと一緒に味わえればと思います.
なお,第1章第5節の内容は,NHK出版デジタルマガジンにて無料公開されています(「#6225. 近刊『なぜさんたんげん』の3単現の s を扱った節が公開されています」 ([2026-05-13-1]) を参照).そちらを予習としてお読みいただくと,当日の話がいっそう楽しめるはずです.同じ話題を授業向けにまとめたレジュメとしては「#6258. なぜ3単現にだけ s をつけるのか? --- 教室で使える『なぜさんたんげん』レジュメ」 ([2026-06-15-1]) もどうぞ.
当日,生田キャンパスで皆さんにお会いできることを楽しみにしています.
・ 堀田 隆一 『英語史で解く 英文法の謎 --- なぜ「3単現の s」をつけるのか』 NHK出版〈NHK出版新書〉,2026年.
2026-10-08 Thu
■ #6373. アイルランドの至宝『ケルズの書』を訪ねて --- The Book of Kells [book_of_kells][dublin][tabihel][ireland][christianity][manuscript][history][latin][link][tabihel_dublin]

ダブリンの英語史に関連する場所を訪ねて歩く「旅hel」 (tabihel) シリーズ.今回は,アイルランドが誇る至宝 The Book of Kells 『ケルズの書』を訪れたので,これを取り上げたい.上に掲げた写真は,同書のなかでもとりわけ有名な「Chi Rho ページ」である(実物写本は写真撮影不可で,これは展示パネルを撮影したもの).
『ケルズの書』は,ラテン語で記された4福音書を収めた,西欧中世を代表する装飾写本である.紀元800年前後,アイオナ島の修道院で制作が始められたとされる.細密画の緻密さは尋常でなく,ケルト的な古代から伝わるtriskele(三脚ともえ紋)を含む繊細な意匠,アングロサクソン的な動物文様や組紐模様,ラテン的な動植物のモチーフや技術,ギリシア風の鍵模様,コプト的な点描の多用など,実に多様な芸術文化がひとつの写本のなかに織り込まれている.まさに,当時のヨーロッパの文化的交差点を凝縮したような写本だ.
この至宝を所蔵しているのが,Trinity College Dublin の Old Library である.大学はは,『ケルズの書』と,後述する壮麗な書庫・閲覧室 Long Room の2つを,大学最高の至宝として位置づけている.
先日,事前に予約をとったうえで,朝8時半,開館直後を狙って訪れた.5分前に入口に着くと,すでに驚くほどの訪問客が待機していた.入館してまず案内されるのは,『ケルズの書』の成立背景や意匠を解説する展示パネルの並ぶ一室で,上掲の写真はここで撮影したものである.オーディオガイドを聴きながらじっくりと時間をかけて学べる仕組みになっており,たいへん勉強になった.
展示室を抜け,1段高いフロアに上がると,いよいよ写本の実物との対面である.ガラスケースのなかに大切に仕舞われ,とあるフォリオが開かれている.写真撮影は禁止,周りから覗き込むだけだが,ため息が漏れた.細密画そのものの芸術的価値はもちろんだが,紀元800年前後,うら寂しいアイオナ島の修道院で,修道僧たちがこれほど緻密な作業に長い時間をかけて取り組んでいたのかと思うと,畏れ多い気持ちになる.こうしてブリテン諸島にて小さくコツコツと育まれていったキリスト教文化が,歴史を通じて拡大し,今ではこの写本が国を代表する至宝として公開され,世界中から人々を引き寄せている.文化の力を目の当たりにした.
2階へ上がると,今度は壮麗な Long Room が広がる.目下,大規模な改装中で,書棚の書籍は多く退避されていたが,この部屋の威容は十分に伝わった.こうした荘厳な雰囲気のなかで研究ができたら,さぞかし素晴らしいだろう.
さらに,別館パビリオンでは,『ケルズの書』と Long Room をさらに掘り下げて紹介するデジタル展示が用意されており,これもまた見応えがあった.ショップを通り抜けて外に出たとき,私はすっかり満足していた.
「#3680. 『ケルズの書』がオンラインに」 ([2019-05-25-1]) で紹介した,写本の精密画像を自由に閲覧できるオンラインサイトと並んで,今回聴きながら展示を見て回った Audio Guide --- the book of kells experience もお薦めしたい.
英語史の観点からは,島嶼キリスト教文化の同じような文脈で,一足先の紀元700年頃にイングランド北部の島で制作されたとされる Lindisfarne Gospels が,しばしば『ケルズの書』と比較される.Lindisfarne Gospels もラテン語で書かれているが,10世紀頃のものとされる古英語の行間注釈が書き込まれており,早い段階の Northumbria 方言を伝える貴重な資料となっている点で一線を画す.こちらの写本の高精細画像は,こちらから閲覧できるので,あわせて見比べてみるとおもしろいだろう.
2026-10-07 Wed
■ #6372. 道路標識における Peterborough の省略綴字 [spelling][apostrophe][pcchron][tabihel][borough][onomastics][toponymy][shortening][orthography][gh][heltabi_202608][tabihel202608][tabihel_england]
昨日の記事「#6371. 少なく見積もって80通りの綴字 --- borough」 ([2026-10-06-1]) の記事と関連して,8月にイギリスの Peterborough をドライブで訪れたときのエピソードを1つ.
ロンドンからスコットランドを目指して北上する途中,英語史上の貴重な資料 The Peterborough Chronicle と結びつけられるイングランド中東部の町 Peterborough に立ち寄った.近づくにつれてハイウェイの道路標識にその町の名前が現われる頻度が増すのだが,地名としては長めの綴字なためか,運転しながらいくつかのヴァリエーションがあることに気付いた.
標準的綴字が定まっている現代における「道路標識の異綴字」の事例を発見し,興奮した.表記スペースに余裕がある場合には正式に Peterborough と綴られていたが,そうでない場合には略式の P'borough や Peterboro' が確認できた.運転していたので,あまり写真は撮れなかったのだが,最後の例について1枚撮ることができた.

2つの省略形は,省略のための戦略が異なる.前者 P'borough は,複合語地名の前半要素 Peter- のイニシャル取りという形態論的な方策に訴えかけている.4文字減らしてアポストロフィを加え,計3.5文字ほどを浮かせていることになる.一方,後者 Peterboro' は,後半要素 -borough の,表音機能としての価値が低いと目される末尾の綴字をそぎ落とすという音韻論的な方策といってよい.3文字減らしてアポストロフィを加え,計2.5文字ほどを浮かせていることになる.
省略効率としては前者が1文字分勝っているが,先に地名を知っていないかぎり P' から Peter- を復元できないという難点がある.一方,後者は,1文字分負けているが,フルの発音を復元できるという利点がある.などと考えているうちに,Peterborough の町に到着したのだった.
イギリス地名 Marlborough に対してアメリカ地名(そしてタバコの商標) Marlboro という点も思い起こされる.
2026-10-06 Tue
■ #6371. 少なく見積もって80通りの綴字 --- borough [spelling][scotland][england][onomastics][toponymy][anglo-saxon][oe][old_norse][tabihel][metathesis][i-mutation][through][med][oed][orthography][gh][tabihel_england]
イギリスには borough (要塞;市,町)のつく地名が多い.Scarborough, Peterborough,そしてロンドンの観光地にもなっている市場 Borough Market のなかでは独立した1語として用いられている.語源としては,ゲルマン祖語の強変化女性名詞 *burg-s に遡り,「避難する」を意味する動詞 *berg-an と語根を共有するとされる.そこから「砦,城」さらには,その周辺に広がる「市,町」へと語義が発展したのだろう.ゲルマン諸語に同根語がみつかり,古英語では burg, burh などの形で文証される.現代イギリス英語での発音は,単体では /ˈbʌrə/ となるが,地名要素の一部となる場合には /-brə/ と1音節になる.
ゲルマン諸語まで話しを広げず,英語内部の歴史に限っても,この語には異形・異綴字が非常に多い.各地で地名要素として埋め込まれることが多いので方言形が発達しやすく,また固有名詞の常として,とりわけ地元の人々の口にのぼる頻度が高いために省略形が生まれやすいのだ.歴史を通じて,多様な形で行なわれてきており,予想されるとおり中英語での綴字は百花繚乱である.
初期近代に入ると burrough の綴字がいったん優勢となったが,後にイングランドやアイルランドでは borough が標準化し,スコットランドでは burgh が定着した (ex. Edinburgh) .一方,スコットランドでは burgh に加えて,broch, brogh, brough のような1音節の形態も見られる.これは同根の古ノルド語の形態 borg の音位転換を経た形態で,スコットランドでは軟口蓋無声摩擦音を伴って /brox, brʌx/ などと発音される.スコットランド北東部の町 Fraserburgh を訪れたとき,地元ではその町が the Broch と呼ばれていることを知った.
古英語 burg/burh に話を戻そう.この語は古英語においては子音幹女性名詞であり,単数の属格・与格および複数の主格・対格にて,いわゆる i-mutation の効果が見られる.例えば地名として前置詞の後ろに現われやすい単数与格は byrig となる.y が出てくるとなれば,中英語では方言に従ってさらにこの母音が変異する.典型的には,イングランドの北部・東部では biri, 西部・南部では buri, 南東部では berie といった具合だ.結果として,現代でも各地の地名のなかに,こうした異形が分布していることになる.
さらに,異形から発達して独立した別の語となったとおぼしき burrow (ウサギの穴;隠れ場),やはり同根のフランス借用語 bourgh (市場町)も,この混乱に拍車をかける.
おかげで,Edinburgh や Peterborough を綴ろうとするとき,いつも悩むことになる.米国では Pittsburgh か Pittsburg かをめぐる綴字論争があったことも思い起こされる.
OED の borough/burgh と MED の burgh に列挙されている異綴字をざっと取り出してみたところ,以下の80種類の綴字が得られた.これはあくまで控えめな数字である.調べれば他の綴字も掘り出せるだろう.516通りの through と似た状況であることは,決して驚くことではない.
beri, berie, beri3, biri, bor3, bor3e, birie, borc-, bord-, boreg-, boret-, borewe, borgh, borghe, borh, borogh, borou, borough, boroughe, borowe, borowgh, borrough, borrowe, bort-, boru, boru3, borugh, borughe, borw, borw3, borwe, borwgh, bour3, bourg, bourgh, bourh, broch, brog-, brogh, brough, browch, browght, bruch, brugh, brughe, brught, bur3, bur3e, burc, burch, burcht, buregh, bureh, burehg, burewe, burg, burg-, burge, burgh, burghe, burh, buri, burie, burow, burowe, burrh, burrough, burrow, burrowe, burrowghe, burug, buru3, buruh, burw, burwe, burwgh, burwhe, bwrch, byrg, byrig
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