指 (30) は,百年戦争による英語の復権の過程と関連して,イングランド軍隊でフランス語使用が禁止されていた点に触れている.
この戦争によってもたらされた注目すべき変化に,英語の「復権」がある.ノルマン系の王族や貴族たちは,フランス語を常用語とし,宮廷内や公の文書にもフランス語が用いられていた.大陸領土を失っても,フランス語使用の習慣は続いていたが,百年戦争に際し,英語使用への積極的な転換がみられた.敵国の言葉を使うことによる士気の低下を恐れ,エドワード三世は軍隊でのフランス語使用を禁止したのである.これを契機に英語が公の言葉として復活することになったが,二世紀もの間,表舞台から駆逐されていた英語は,その間「書き言葉」としては使用されなかったため,以前の古英語とはかなり異なったものになっていた.
なるほど,エドワード3世や彼に仕える取り巻きたちは,実のところフランス語シンパだったのだろうが,前線で戦う兵士の大半は英語しか知らないイングランド人である.イングランド軍隊の内部で敵兵の言語であるフランス語が飛び交っていたら,兵士たちの士気は上がらないだろう.王とて,兵卒の一人ひとりに協力してもらわなければ首尾よく戦いを進められない.そこで,自軍の兵卒とその母語たる英語に対して「妥協」する必要が生じる.このような論理で,百年戦争は英語の復権に着実な貢献をなしたのだろう.
また,指は,古英語から中英語への言語的な大変化の原因について「『書き言葉』としては使用されなかったため」としている.言語学的には屈折の衰退や語順の確立などを含め,ほかに言うべきこともあるが,社会言語学的な立場からは,この見解は確かに正しい.英語が地位の低い言語に下落したために,公式な書き言葉の世界から排除され,結果として話し言葉の世界に閉じ込められることになった.しかし,それは英語が書き言葉に特有の規制や monitoring の圧力から解放されたことを意味し,そのような圧力の存在しない話し言葉の世界において,英語が融通無碍に変異し,変化し得る条件が整えられたことを意味するのだ.
百年戦争と英語の復権の関係については,「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1]),「#706. 14世紀,英語の復権は徐ろに」 ([2011-04-03-1]),「#2334. 英語の復権と議会の発展」 ([2015-09-17-1]),「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1]) を参照.
・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.
昨日の記事「#3312. 言語における基層と表層」 ([2018-05-22-1]) で,言語の「基層」を構成する要素として,文法,音声・音韻,基礎語彙を挙げた.言語変化の速度を考察する際に,考察対象を基層における言語変化に限定するならば,一般に時代がくだるほど速度が鈍くなるということはあるかもしれない.日本語史の事情から敷衍して,野村 (14--15) が次のように述べている.
一般に近代化の進んだ社会では,特別な外部的要因がない限り,言語の変化は,近代やそれに近い時代において鈍いと筆者は考えている.なぜか.近代では書き言葉の(文字の)普及が進んでいるからである.
すでに述べたように,話し言葉は話した瞬間に消えてしまう.言葉をとどめる手段がない.話し言葉だけの社会では,歌謡などの暗誦でもない限り,過去の言葉は全く残らない.言葉を振り返ることは不可能なのである.これに対して,書き言葉は長期にわたって残存する.それを真似し続けることによって次第に文語体が生じるのだが,口語体であっても繰り返し筆記が行なわれれば,それは話し言葉の変化をおしとどめる方向の力として働くだろう.日本社会でも,古代よりは中世,中世よりは近世,近世よりは近代の方が読み書き能力が広く普及しているに違いない.そこで,より近代に近い社会の方が言語の基層における変化は乏しいのである.もちろん細かな言語変化はより近代に近い時代においてもたくさん生じているし,また,方言はふつう書きとどめられない.だから,地域地域で大きな変異が生ずるということも,大いにありうる.
時代が下るにつれて,基層における言語変化が乏しくなるという説は,間に2段階くらいの論理のクッションを入れるとわかりやすいだろう.つまり,一般に時代が下るにつれて識字率が上がる,識字率が上がるにつれて言語の規範意識が育つ,言語の規範意識が育つにつれて話し言葉の変化も抑制される,ということだ.これは妥当といえば妥当な見解だが,引用でも示唆されているとおり,主に標準変種についての説である.非標準変種において同じ議論が成り立つのかはわからないし,考察対象を基層でなく表層まで広げるとどうなるのかも検討してみる必要がある.
言語変化の速度 (speed_of_change) の問題や規範主義 (prescriptivism) が言語変化を遅らせるという議論については,以下を含む多くの記事で取り上げてきたので,ご参照ください.monitoring の各記事も参照.
・ 「#386. 現代英語に起こっている変化は大きいか小さいか」 ([2010-05-18-1])
・ 「#430. 言語変化を阻害する要因」 ([2010-07-01-1])
・ 「#622. 現代英語の文法変化は統計的・文体的な問題」 ([2011-01-09-1])
・ 「#753. なぜ宗教の言語は古めかしいか」 ([2011-05-20-1])
・ 「#795. インターネット時代は言語変化の回転率の最も速い時代」 ([2011-07-01-1])
・ 「#1430. 英語史が近代英語期で止まってしまったかのように見える理由 (2)」 ([2013-03-27-1])
・ 「#1874. 高頻度語の語義の保守性」 ([2014-06-14-1])
・ 「#2417. 文字の保守性と秘匿性」 ([2015-12-09-1])
・ 「#2631. Curzan 曰く「言語は川であり,規範主義は堤防である」」 ([2016-07-10-1])
・ 「#2641. 言語変化の速度について再考」 ([2016-07-20-1])
・ 「#2670. 書き言葉の保守性について」 ([2016-08-18-1])
・ 「#2756. 読み書き能力は言語変化の速度を緩めるか?」 ([2016-11-12-1])
・ 「#3002. 英語史が近代英語期で止まってしまったかのように見える理由 (3)」 ([2017-07-16-1])
・ 野村 剛史 『話し言葉の日本史』 吉川弘文館,2011年.
言語変化における話し手と聞き手の役割について,とりわけ後者の役割を相対的に重視する近年の説について,「#1070. Jakobson による言語行動に不可欠な6つの構成要素」 ([2012-04-01-1]),「#1862. Stern による言語の4つの機能」 ([2014-06-02-1]),「#1932. 言語変化と monitoring (1)」 ([2014-08-11-1]),「#1933. 言語変化と monitoring (2)」 ([2014-08-12-1]),「#1934. audience design」 ([2014-08-13-1]),「#1935. accommodation theory」 ([2014-08-14-1])),「#1936. 聞き手主体で生じる言語変化」 ([2014-08-15-1]),「#2140. 音変化のライフサイクル」 ([2015-03-07-1]),「#2150. 音変化における聞き手の役割」 ([2015-03-17-1]) などの記事で紹介してきた.
Samuels (31) は音変化を論じる章のなかで,話し手と聞き手の役割とその関係について,バランスの取れた見方を提示している.
As regards the current controversy as to whether articulatory or acoustic evidence is to be preferred, the study of change evidently demands both: the production of new variants is mainly articulatory in nature, their spread and imitation mainly acoustic, and both are continually coordinated by the process of monitoring.
話し手の調音 (articulation) に駆動された変化が,聞き手の音響 (acoustics) としての受容を通じて言語使用者の間に拡散し,その過程は集団の監視機能 (monitoring) により逐一調整される,というモデルだ.
昨日の記事「#2585. 言語変化を駆動するのは形式か機能か」 ([2016-05-25-1]) で,形式的(機械的)な駆動と機能的な駆動の関係について Samuels の見解を紹介したが,それぞれの駆動力は話し手の役割と聞き手の役割におよそ対応させられるようにも思われる.ただし,言語使用者は,通常,同時に話し手でも聞き手でもあるから,個人間のみならず個人の内部においても,常に両立場からの監視機能が働いているのだろう.
言語変化理論においては,(1) 話し手の行動,(2) 聞き手の行動,(3) モニタリング,の3要素を意識しておく必要がある.
・ Samuels, M. L. Linguistic Evolution with Special Reference to English. London: CUP, 1972.
昨日の記事 ([2014-08-11-1]) で引用した monitoring に関する Smith の文章で,Lyons が参照されていた.Lyons (111) に当たってみると,言語音の産出と理解について論じている箇所で,話者と聴者の互いの monitoring 作用を前提とすることが重要だという趣旨の議論において,feedback あるいは monitoring という表現が現われている.
In the case of speech, we are not dealing with a system of sound-production and sound-reception in which the 'transmitter' (the speaker) and the 'receiver' (the hearer) are completely separate mechanisms. Every normal speaker of a language is alternately a producer and a receiver. When he is speaking, he is not only producing sound; he is also 'monitoring' what he is saying and modulating his speech, unconsciously correlating his various articulatory movements with what he hears and making continual adjustments (like a thermostat, which controls the source of heat as a result of 'feedback' from the temperature readings). And when he is listening to someone else speaking, he is not merely a passive receiver of sounds emitted by the speaker: he is registering the sounds he hears (interpreting the acoustic 'signal') in the light of his own experience as a speaker, with a 'built-in' set of contextual cues and expectancies.
言語使用者は調音音声学的機構と音響音声学的機構をともに備えているばかりでなく,言語音の産出と理解において双方を連動させている,という仮説がここで唱えられている.関連して「#1656. 口で知覚するのか耳で知覚するのか」 ([2013-11-08-1]) を参照されたい.
Lyons は,主として言語音の産出と理解における monitoring の作用を強調しているが,monitoring の作用は音声以外の他の言語部門にも同様に見られると述べている.
It may be pointed out here that the principle of 'feedback' is not restricted to the production and reception of physical distinctions in the substance, or medium, in which language is manifest. It operates also in the determination of phonological and grammatical structure. Intrinsically ambiguous utterances will be interpreted in one way, rather than another, because certain expectancies have been established by the general context in which the utterance is made or by the previous discourse . . . . (111)
monitoring と関連して慣習 (established),文脈 (context),キュー (cue) というキーワードが出てくれば,次には共起 (collocation) や頻度 (frequency) などという用語が出てきてもおかしくなさそうだ.言語変化論の観点からは,Usage-Based Grammar や「#1406. 束となって急速に生じる文法変化」 ([2013-03-03-1]) でみた "clusters of bumpy change" の考え方とも関係するだろう.昨今は,従来の話者主体ではなく聴者主体の言語(変化)論が多く聞かれるようになってきたが,monitoring という考え方は,言語において「話者=聴者」であることを再認識させてくれるキーワードといえるかもしれない.関連して,聞き手の関与する意味変化について「#1873. Stern による意味変化の7分類」 ([2014-06-13-1]) も参照されたい.
・ Lyons, John. Introduction to Theoretical Linguistics. Cambridge: CUP, 1968.
Smith の抱く言語変化観を表わすものとして「#1466. Smith による言語変化の3段階と3機構」 ([2013-05-02-1]) と「#1928. Smith による言語レベルの階層モデルと動的モデル」 ([2014-08-07-1]) を紹介した.これらは機械的な言語変化の見方であり,人間不在の印象を与えるかもしれないが,Smith の言語変化論は決して言語の社会的な側面,話者と聴者と言語の関係をないがしろにしているわけではない.Smith (49) は,言語変化の種としての variation の存在,および variation のなかからの個々の言語項の選択という行為は,言語使用者が不断に実践している monitoring という作用と深い関わりがあると述べている.
Human beings are social creatures, and not simply transmitters (speakers) or receivers (hearers); they are both. When humans speak, they are not only producing sounds and grammar and vocabulary; they are also monitoring what they and others say by listening, and evaluating the communicative efficiency of their speech for the purposes for which it is being used: communicative purposes which are not only to do with the conveying and receiving of information, but also to do with such matters as signalling the social circumstances of the interaction taking place. And what humans hear is constantly being monitored, that is, compared with their earlier experience as speakers and hearers. . . . / This principle of monitoring, or feedback as it is sometimes called (Lyons 1968: 111), is crucial to an understanding of language-change.
話者は自分の発する言葉がいかに理解されるかに常に注意を払っているし,聴者は相手の発した言葉を理解するのに常にその言語の標準的な体系を参照している.話者も聴者も,発せられた言葉に逐一監視の目を光らせており,互いにチェックし合っている.2人の言語体系は音声,文法,語彙の細部において若干相違しているだろうが,コミュニケーションに伴うこの不断の照合作業ゆえに,互いに大きく逸脱することはない.2人の言語体系は焦点を共有しており,その焦点そのものが移動することはあっても,それは両者がともに移動させているのである.これが,言語(変化)における monitoring の役割だという.
人の言葉遣いが一生のなかで変化し得ることについて「#866. 話者の意識に通時的な次元はあるか?」 ([2011-09-10-1]) や「#1890. 歳とともに言葉遣いは変わる」 ([2014-06-30-1]) で考察してきたが,monitoring という考え方は,この問題にも光を当ててくれるだろう.個人が生きて言語を使用するなかで,常に対話者との間に monitoring 機能を作用させ,その monitoring の結果として,自らも言語体系の焦点を少しずつ移動させていくかもしれないし,相手にも焦点の移動を促していくかもしれない.
monitoring は,言語における規範主義とも大いに関係する.通常,話者や聴者の monitoring の参照点は,互いの言語使用,あるいはもう少し広く,彼らが属する言語共同体における一般の言語使用だろう.しかし,「#1929. 言語学の立場から規範主義的言語観をどう見るべきか」 ([2014-08-08-1]) で示唆したように,規範主義的言語観がある程度言語共同体のなかに浸透すると,規範文法そのものが monitoring の参照点となりうる.つまり,自分や相手がその規範を遵守しているかどうかを逐一チェックし合うという,通常よりもずっと息苦しい状況が生じる.規範主義的言語観の発達は,monitoring という観点からみれば,monitoring の質と量を重くさせる過程であるともいえるかもしれない.
・ Smith, Jeremy J. An Historical Study of English: Function, Form and Change. London: Routledge, 1996.
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