この夏に「名前プロジェクト」 (name_project) を立ち上げました.思いつきで始めた感がなきにしもあらずのプロジェクトですが,この数ヶ月間,主に英語史の観点から名前学 (onomastics) をかじり出しました.まだまだこの領域では素人同然ですが,学生や heldio リスナーの皆さんなどとの議論を通じて,少しずつおもしろさが分かってきました.以下,雑感を箇条書きします.
・ 名前学の関心の在処は言語地理文化ごとに異なる.例えば,イギリスでは地名の語源に関心が向くのに対して,アメリカでは名付けの動機への関心が強い.また,水系につける名前 (hydronymy) について,イギリスや大陸では河川名が考察対象になるのに対して,北欧諸国は湖沼名が主たる関心の対象となる等.
・ 固有名詞化 (onymisation) の理論は一般言語学的な射程をもつ.普通名詞がいつ,どのように,なぜ固有名詞化するのか等.
・ 名前学における書き言葉(文字)の役割はいかに? 日本語の名前学においてはきわめて重要な点だが,西洋の名前学では文字という観点からの考察は比較的薄い.
・ 英語名前史における姓 (last name, family name, surname, by-name) の発展途上期には,姓は必ずしも固定的なものではなく,もっとフレキシブルだったという事実は興味深い.
・ 名前学は限りなく学際的な分野である (cf. 「#5187. 固有名詞学のハンドブック」 ([2023-07-10-1]),「#5334. 英語名前学を志す学徒に Cecily Clark より悲報!?」 ([2023-12-04-1])),「#5339. 英語人名学の守備範囲とトレンド」 ([2023-12-09-1]),「#5343. onomastics (名前学)の対象と射程 --- Bussmann の用語辞典より」 ([2023-12-13-1])).
・ 名前のあり方は,社会の集権化や公的管理の進展とともに大きく変容してきた(cf. 人間のコミュニティネットワークの広がり,コミュニケーション技術の発展,個人主義の高まり,アイデンティティ意識の強化,制度化される名前)
・ 歴史的に名前を考察する際には「1人=1つの名前」という固定的な紐付けを前提としてはいけない.また,かつては公的名前と私的名前の境はずっと曖昧だった.
・ 英語史が言語接触の歴史だとすれば,英語語彙の歴史こそがその縮図であると言われる.しかし,実は英語名前史も,すぐれてその縮図ではないか.英語の名前も,外来の名前と接触して,激しく新陳代謝を遂げてきたからだ.とりわけ英語人名の名付けは伝統の維持とその破壊の繰り返しだった.
・ 中英語までは人名(姓)について世襲・相続の発想が希薄だったが,これは家系ではなく個人を特定するのが本来の目的であった西洋中世の紋章 (heraldry) にも通じる性質である.
思いつきを書き連ねてみました.これからも名前学をかじり続けていきます.
「名前プロジェクト」 (name_project) を立ち上げた関係で,onomastics (名前学,固有名詞学)をつまみ食いしながら学んでいる.今回は Bussmann の言語学用語辞典より onomastics の項を引いてみた.以下に引用し,この分野の概要をつかんでおきたい.
onomastics
Scientific investigation of the origin (development, age, etymology), the meaning, and the geographic distribution of names (⇒ proper noun). Onomastic subdisciplines include anthroponymy (the study of names of bodies of water), and toponymy (the study of geographic place-names), among others. Because place-names and personal names are among the oldest and most transparent linguistic forms, they are an important source of hypotheses about the history of language, dialect geography and language families. More recently, sociolinguistics (name-giving and use in society), psycholinguistics (psycho-onomastics and the physiognomy of names), pragmalinguistics and text linguistics have taken an active interest in onomastics. Onomastics also offers new insights into historical processes (pre- and early history, folklore, among others) as well as geography and natural history.
上記の引用のなかの "the physiognomy of names" 「名前の人相学」などの存在には驚く.何を研究する分野なのだろうか? 名前にまつわる音形とイメージの符合や,漢字名の画数の問題なども含まれるのだろうかなどと妄想が止まらない.
名前学の射程が広いことは「#5187. 固有名詞学のハンドブック」 ([2023-07-10-1]) や「#5339. 英語人名学の守備範囲とトレンド」 ([2023-12-09-1]) で触れてきた通りだが,ポテンシャルはまだまだ拡がっていきそうだ.
・ Bussmann, Hadumod. Routledge Dictionary of Language and Linguistics. Trans. and ed. Gregory Trauth and Kerstin Kazzizi. London: Routledge, 1996.
連日,固有名詞に関する話題をお届けしている.
地名や水域名によくみられるが,同一指示対象でありながら,時代によって異なる名前で呼ばれるケースがある.通時的な名前変化 (name change) の例である.一方,同じ時代に,同一指示対象に対して複数の名前が与えられているケースがある.共時的な多名性 (polynymy) の例である.固有名ではなく普通名でいえば,それぞれ「語の置き換え」 (onomasiological change) と「同義性・類義性」 (synonymy) に対応するだろうか.
昨日の記事「#5246. hydronymy --- 水域名を研究する分野」 ([2023-09-07-1]) で参照・引用した Strandberg (111) では,水域名の name change と polynymy について,実例とともに導入がなされている.
Name change is a common phenomenon in the history of hydronyms. In England, Blyth was replaced by Ryton, Granta by Cam, Hail by Kym, Writtle by Wid, etc. During a transitional stage of polynymy, there must often have existed both an older name and a new one. Trent (< Terente) is an alternative name for the river Piddle in Dorset. In Denmark, an older Guden and a younger Storå(en) were for a long time used in parallel for the same river.
Polynymy may also involve the simultaneous existence of different names for different parts of a (long) river. There are, for example, cases where the upper and lower reaches of a river have different names. The upper part of the Wylye in Wiltshire, England is called the Deverill, and the source of the French river Marne has the name Marnotte. A present-day name for a long river may have replaced several old ones denoting different stretches of it. The Nyköpingsån is a long and large river in Sweden; its name is formally secondary, containing the town name Nyköping. Two lost partial names of the Nyköpingsån (Blakka, Sølnoa) are recorded in medieval sources, while others, like *Sledh and *Vrena, may be or probably are preserved in names denoting settlements on the river; the current partial name Morjanån most likely goes back to an OSwed. *Morgha.
人名でいえば,同一人物が人生の節目に改名したり (name change),ニックネームやあだ名が複数ある (polynymy) ことに相当するだろう.固有名の最大の意義は,指示対象の同一性が固定名により恒久的に確保される点にあるはずと考えていたが,名前変化と多名性は,むしろその逆を行くものである.興味をそそられる現象だ.
・ Strandberg, Svante. "River Names." Chapter 7 of The Oxford Handbook of Names and Naming. Ed. Carole Hough. Oxford: OUP, 2016. 104--14.
固有名詞学 (onomastics) のなかでも土地・場所の名前を研究する分野として地名学 (toponymy) がある.この地名学と近いが,河川・湖沼・海洋などの水域の名前を扱う分野がある.水域名学 (hydronymy) だ.hydronymy は,ヨーロッパでは歴史学や考古学とも連動して重要な分野とされており,最古層の河川名をめぐって "alteuropäische Hydronymie" の仮説が提案されるなど,長い研究の蓄積がある.
「#5187. 固有名詞学のハンドブック」 ([2023-07-10-1]) で紹介したハンドブックの第7章となる "River Names" を読み終えた.すこぶるおもしろかった.初めて学ぶことが非常に多かったが,とりわけ hydronymy 研究にも「お国柄」というか国土地理の特徴が反映される点に興味をいだいた.イングランドやドイツでは hydronymy といえば河川名が対象となることが多いが,スウェーデン,デンマーク,ノルウェーのような北欧諸国は伝統的に湖沼名が対象となるという.各々の地域の地形や地勢がおのずと反映されるのだろう.
Strandberg (104) が次のように指摘している.
Hydronymic research in a country like Sweden has concerned itself to a very great extent with lake names; these can be as old as river names and contain the same words or roots. River names formed from names of lakes are common in Sweden. In Denmark and Norway, too, much research has been done on lake names. For topographical reasons, in areas of Europe such as England and Germany more attention has been paid to river names than to lake names.
文明は大河のもとに現われる.人間の生活は水,とりわけ淡水がなければ成立しない.水域は人間の社会活動にとっても重要であり,それと連動して水域名にも重要性が与えられるのだろう.「名前プロジェクト」 (name_project) としても,侮れない分野としての hydronymy に,今後注目していきたい(cf. 「#5217. 「名前プロジェクト」が立ち上がりました」 ([2023-08-09-1])).
・ Strandberg, Svante. "River Names." Chapter 7 of The Oxford Handbook of Names and Naming. Ed. Carole Hough. Oxford: OUP, 2016. 104--14.
地名には共時的,形式的な観点から階層性があるのではないか? Van Langendonck (33--34) で,そのような興味深い提案が紹介されている.
ZERO MARKING, as in city and town names: London, Berlin;
SUFFIXING, as in country names: Fin-land, German-y;
ARTICLE PREPOSING, as in names of, e.g. fields, regions, and rivers: the Highlands, the Rhine;
The use of CLASSIFIERS plus possibly an article, as in names of seas, oceans, or deserts: the North Sea, the Gobi Desert
この地名にみられる有標性の階層は,人間の組織的な関与の深さと連動しているのではないかという.人間社会にとって,都市や国はきわめて重要な対象だが,それに比べれば広域・河川・海・砂漠などは人間社会への影響が何段階か小さいように思われる.上記の階層は「人間中心の」連続体 ("'anthropocentric' cline") といってよさそうだ (Van Langendonck 34) .
さらに Van Langendonck (34) は,定冠詞の有無に関して,示唆に富んだ見解を述べている.
. . . English shows the humanized place-names (e.g. settlement names) omitting the article, whilst the non-human place-names (e.g. river names) tend to adopt the article. This can be observed where the names of former colonies or regions lose their article when they become independent countries: the Ukraine > Ukraine, The Congo > Congo, the Lebanon > Lebanon.
この見解を積極的に受け入れるとすると,どのような仮説を立てるのがよいだろうか.従属化にありながらも,さほど近しい存在ではないものには定冠詞 the がつきやすいが,それ以外の存在であれば the がつきにくいということになろうか.意味深長である.
・ Van Langendonck, Willy and Mark Van de Velde. "Names and Grammar." Chapter 2 of The Oxford Handbook of Names and Naming. Ed. Carole Hough. Oxford: OUP, 2016. 17--38.
「#1216. 古英語期のケルト借用語」 ([2012-08-25-1]),「#3740. ケルト諸語からの借用語」 ([2019-07-24-1]),「#3749. ケルト諸語からの借用語に関連する語源学の難しさ」 ([2019-08-02-1]),「#3750. ケルト諸語からの借用語 (2)」 ([2019-08-03-1]) などで英語における一般的なケルト借用語に焦点を当ててきたが,人名・地名などの固有名詞におけるケルト語要素についても,Durkin (81--82) にしたがって状況を覗いてみよう.
まず,人名について.古英語詩で有名な Cædmon の名前が真っ先に挙がる(「#2898. Caedmon's Hymn」 ([2017-04-03-1]) を参照).続いて,ウェストサクソン王国の諸王や貴族の名前で Ċerdiċ, Ċeawlin, Ċeadda, Ċeadwalla, Ċedd, Cumbra が見つかる.残念ながら,これらの意味については定説がない.
地名については人名よりも豊富な証拠があり,ケルト語要素を同定しやすいが,だからといって問題は簡単ではないようだ.その地理的な分布は,「#2443. イングランドにおけるケルト語地名の分布」 ([2016-01-04-1]) でみたように北部や西部に偏っている.Thames, Severn, Trent などの河川名は(前)ケルト語要素として同定しやすいものが多い (see 「#1188. イングランドの河川名 Thames, Humber, Stour」 ([2012-07-28-1])) .
Kent がケルト語要素を保っているのは,その位置(ブリテン島の南東部)を考えるとやや奇異に思えるが,これはアングロサクソン人のブリテン島渡来以前から知られていた地名だったからだろう.Chevening, Chattenden, Chatham, Dover, Reculver, Richborough, Sarr, Thanet などもケルト語(あるいは前ケルト語)要素を保持している.
他の関連する話題として,「#1736. イギリス州名の由来」 ([2014-01-27-1]) と「#3113. アングロサクソン人は本当にイングランドを素早く征服したのか?」 ([2017-11-04-1]) も参照.
・ Durkin, Philip. Borrowed Words: A History of Loanwords in English. Oxford: OUP, 2014.
「#3740. ケルト諸語からの借用語」 ([2019-07-24-1]) を受け,より専門的な語源学の知見を参照しながら英語へのケルト借用語について考えておきたい.主として参照するのは,Durkin の第5章 "Old English in Contact with Celtic" (76--95) である.
ケルト諸語から英語への借用語が少ないという事実は疑いようがないが,ケルト借用語とされている個々の単語については,語源や語史の詳細が必ずしも明らかになっていないものも多い.先の記事で挙げたような,一般の英語史書でしばしば取り上げられる一連の単語は比較的「手堅い」ものが多いが,その中にももしかすると怪しいものがあるかもしれない.本当にケルト語からの借用語なのかという本質的な問題から,どの時代に借用されたのか,あるいはいずれのケルト語から入ってきたのかといった問題まで,様々だ.
背景には,英語の歴史とケルト諸語の語源の両方に詳しい専門家が少ないという現実的な事情もある.また,ケルト語源学やケルト語比較言語学そのものも,発展の余地をおおいに残しているという側面もある.たとえば,河川名などの地名に関して「#1188. イングランドの河川名 Thames, Humber, Stour」 ([2012-07-28-1]) でみたように,ケルト語源を疑う見解もあるのだ.
さらに,時期の特定の問題も難しい.英語話者とケルト諸語の話者との接触は,前者が大陸にいた時代から現代に至るまで,ある意味では途切れることなく続いている.問題の語が,大陸時代にゲルマン語に借用されたケルト単語なのか,アングロサクソン人のブリテン島への渡来の折に入ってきたものなのか,その後の中世から近代にかけてのある時点において流入したものなのか,判然としないケースもある.
いずれのケルト語から入ってきたかという問題については,その特定に際して,「#778. P-Celtic と Q-Celtic」 ([2011-06-14-1]) で触れた音韻的な特徴がおおいに参考になる.しかし,この音韻差の発達は紀元1千年紀中に比較的急速に起こったとされ,ちょうどアングロサクソン人の渡来と前後する時期なので,語源の特定にも微妙な問題を投げかける.
今後ケルト言語学が発展していけば,上記の問題にも答えられる日が来るのだろう.今後の見通しについては,Durkin (80--81) の所見を参考にされたい.
・ Durkin, Philip. Borrowed Words: A History of Loanwords in English. Oxford: OUP, 2014.
「#1188. イングランドの河川名 Thames, Humber, Stour」 ([2012-07-28-1]),「#1216. 古英語期のケルト借用語」 ([2012-08-25-1]),「#2443. イングランドにおけるケルト語地名の分布」 ([2016-01-04-1]) で見てきたように,イングランドの河川名にはケルト語由来の要素からなるものが多い.
一般に河川名は,異民族による征服の歴史を経ても,古名が引き継がれる傾向が強いといわれる.その理由は[2012-07-28-1]でも少し論じたが,別の観点から,デイヴィスとレヴィット (62--63) が述べるような以下の事情も関与していただろう.
ケルト語は川の名前に最も多くみられる.概して,川の名前の約3分の2はケルト語である.その大部分は南部と東部よりも北部と西部にみられる.なぜそれほど多くの川の名前が残ったのであろうか.いくつかの川の場合,特に大きな河川の場合は,川の名前は交易上の通路としてイギリスと大陸の国々との間で広く知られるほど非常に重要であっただろう.大陸からの貿易商たちは紀元前何世紀も前からイングランドに,海を渡って来ていた.海を使う船乗りにとって,大きめの川はそのまま内陸部への侵入通路となるので,様々な民族にその名前は知られていたであろう.アングロ・サクソン人は侵略者であって貿易商ではなかった.しかし,侵略という正にその目的のためにもイングランドへの進入路には大きな関心を寄せていた.
小さめの河川や支流の場合は,上で述べたようなことは当てはまらない.結局,特別説明すべきものはなにもない.しかしながら,北アメリカではアメリカインディアンの言語がケルト語と似かよった運命を辿っており,大小の多くの河川には北米インディアンの名前が残っているということは注目してよい.その例としてはミシシッピー川,ミズーリ川,その他にも多くみられる.どの河川の名前が残り,どの川の名が残らないかという問題は歴史上の解けないなぞのひとつである.
別の箇所に「イングランド全体で,アングロ・サクソン語の地名は全体の約3分の2を占めている」(デイヴィスとレヴィット,52頁)という記述があるので,河川名に関してむしろケルト系が約3分の2を占めるというのは,驚くべき差異である.
河川名は古名を引き継ぎやすい理由としてもう1つ考えられそうなのは,河川(やその他の自然の地形)は,町や村や通りのような人工物ではないということがあるかもしれない.新たに作り出したり,スクラップ・アンド・ビルドできるものではなく,古来から屹然とそこに存在しているものである.自然に手を加えることができないのと同様に,既存の名前にも手を加えないでおくということではないか.地名 (toponym) と一口にいっても,地形の名前と町の名前とで趣が異なるのは当然かもしれない.
・ デイヴィス,C. S.・J. レヴィット(著),三輪 伸春(監訳),福元 広二・松元 浩一(訳) 『英語史でわかるイギリスの地名』 英光社,2005年.
英語国の地名の話題については,toponymy の各記事で取り上げてきた.今回は樋口による「イングランドにおけるケルト語系地名について」 (pp. 191--209) に基づいて,イングランドのケルト語地名の分布について紹介する.
5世紀前半より,西ゲルマンのアングル人,サクソン人,ジュート人が相次いでブリテン島を襲い,先住のケルト系諸民族を西や北へ追いやり,後にイングランドと呼ばれる領域を占拠した経緯は,よく知られている (「#33. ジュート人の名誉のために」 ([2009-05-31-1]),「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1]),「#1013. アングロサクソン人はどこからブリテン島へ渡ったか」 ([2012-02-04-1]),「#2353. なぜアングロサクソン人はイングランドをかくも素早く征服し得たのか」 ([2015-10-06-1])) .また,征服者の英語が被征服者のケルト語からほとんど目立った語彙借用を行わなかったことも,よく知られている.ところが,「#1216. 古英語期のケルト借用語」 ([2012-08-25-1]) や「#1736. イギリス州名の由来」 ([2014-01-27-1]) でみたように,地名については例外というべきであり,ケルト語要素をとどめるイングランド地名は少なくない.とりわけイングランドの河川については,多くケルト語系の名前が与えられていることが,伝統的に指摘されてきた (cf. 「#1188. イングランドの河川名 Thames, Humber, Stour」 ([2012-07-28-1])) .
西ゲルマンの諸民族の征服・定住は,数世紀の時間をかけて,イングランドの東から西へ進行したと考えられるが,これはケルト語系地名の分布ともよく合致する.以下の地図(樋口,p. 199)は,ケルト語系の河川名の分布によりイングランド及びウェールズを4つの領域に区分したものである.東半分を占める Area I から,西半分と北部を含む Area II,そしてさらに西に連接する Area III から,最も周辺的なウェールズやコーンウォールからなる Area IV まで,漸次,ケルト語系の河川名及び地名の密度が濃くなる.
征服・定住の歴史とケルト語系地名の濃淡を関連づけると,次のようになろう.Area I は,5--6世紀にアングル人やサクソン人がブリテン島に渡来し,本拠地とした領域であり,予想されるようにここには確実にケルト語系といえる地名は極めて少ない.隣接する Area II へは,サクソン人が西方へ6世紀後半に,アングル人が北方へ7世紀に進出した.この領域では,Area I に比べれば川,丘,森林などの名前にケルト語系の地名が多く見られるが,英語系地名とは比較にならないくらい少数である.次に,7--8世紀にかけて,アングロサクソン人は,さらに西側,すなわち Devonshire, Somerset, Dorset; Worcestershire, Shropshire; Lancashire, Westmoreland, Cumberland などの占める Area III へと展開した.この領域では,川,丘,森林のほか,村落,農場,地理的条件を特徴づける語にケルト語系要素がずっと多く観察される.アングロサクソン人の Area III への進出は,Area I に比べれば2世紀ほども遅れたが,この時間の差がケルト語系地名要素の濃淡の差によく現われている.最後に,Cornwall, Wales, Monmouthshire, Herefordshire 南西部からなる Area IV は,ケルト系先住民が最後まで踏みとどまった領域であり,当然ながら,ケルト語系地名が圧倒的に多い.
このように軍事・政治の歴史が地名要素にきれいに反映している事例は少なくない.もう1つの事例として,「#818. イングランドに残る古ノルド語地名」 ([2011-07-24-1]) を参照されたい.
・ 樋口 時弘 『言語学者列伝 ?近代言語学史を飾った天才・異才たちの実像?』 朝日出版社,2010年.
[2011-02-14-1]の記事に引き続き,Sir William Jones 以前の「印欧語比較言語学」的な研究や知見について,Robins の主として pp. 192--94 を参考にして,言及を付け加えたい.
Jones がヨーロッパ諸言語と Sanskrit との関係を明確に指摘したことは言語学史上きわめて重要な出来事だったが,それ以前にも同趣旨の指摘がないわけではなかった.ヨーロッパにおける Sanskrit への最初の言及は,16世紀末,イタリアの Filippo Sassetti に遡る.彼は,Sanskrit と Italian の語彙における類似を記録している.その後,ドイツの B. Schulze やフランスの Père Coeurdoux なる人物も Sanskrit とヨーロッパ諸言語の類似に気付いていた.
Sanskrit は別として,ヨーロッパ諸言語について語族の考え方に接近していた学者は16世紀より存在した.フランスの J. J. Scaliger (1540--1609) は,従来から抱かれていた Hebrew > Greek > Latin の直線的な発展の関係を廃し,その相互関係については不明としながらも11の語派を設定し,語族の考え方に近づいていた.Indo-European と Finno-Ugrian を混在させるなど,現代の観点からは妙な区分ではあったが,言語学史上,注目すべきアイデアをもっていたとして評価できる.
17世紀には,2人のスウェーデン人が別の注目すべき観察をおこなっている.G. Stiernhielm (1598--1672) は,相変わらず Hebrew をすべての言語の起源としながらも,聖書訳を通じて Latin と Gothic の類縁に気付いた.A. Jäger は,祖語に相当する言語がヨーロッパやアジアの一部へ拡散しながら,それぞれの語派へと発展したという,現代的な考え方に到達していた.彼は,祖語そのものは現存していないことにも気付いており,優れた勘を備えていたといわざるを得ない.
17世紀後半には,ドイツの Leibniz (1646--1716) が,ヨーロッパの諸言語を南北に2分する語族観を抱いた.この区分自体は正確ではないが,彼の歴史言語学の方法論は注目に値する.地名や河川名の分布を根拠に,言語(話者)の置換を想定したのである.この観点から Basque の地理的な孤立にも言及しており,発想はきわめて新しかった.
このように,Jones 以前にも,後の語族や比較言語学の考え方を匂わせる予兆はいくつも存在した.したがって,[2010-02-03-1]の記事「#282. Sir William Jones,三点の鋭い指摘」で挙げた Jones の功績は,厳密にいえば,いずれも彼のみに帰せられるものではなく,多分に誇張も交じっている.しかし,最も重要な点は,Jones 以前のいくつかの指摘が,いかに現代の視点からは注目すべきものであっても,当時としては孤立的,断片的であり,言語学史上の大きな流れにつながらなかったことである (Robins 168--69) .探検,貿易,植民により世界,世界観,言語観が広がり,言語への関心が熟しつつあった18世紀末というタイミングこそが,Jones を言語学史上の英雄に押し上げたのである.
・ Robins, R. H. A Short History of Linguistics. 4th ed. Longman: London and New York, 1997.
5世紀にアングロサクソン人がブリテン島を征服した後,彼らは被征服民であるケルト人から僅かながらも言語的影響を受けることとなった.古英語期におけるケルト語の影響の最たるものは,地名である.[2012-07-28-1]の記事「#1188. イングランドの河川名 Thames, Humber, Stour」でケルト地名についての慎重論を見たが,全体としてケルトの地名が多く残っていることは認めてよいだろう.
地名あるいは地域名として,Barr (cf. Welsh bar = "top", "summit"), Bernicia, Bredon, Brockhall, Brockholes (brocc = "badger"), Bryn Mawr, Cornwall, Creech, Cumberland, Cumbria, Deira, Duncombe (cumb = "a deep valley"), Exeter, Gloucester, Holcombe, Huntspill, Kent, Lichfield, Pendle (cf. Welsh pen= "top"), Pylle (pill = "a tidal creek"), Salisbury, Torcross, Torhill, Torr (torr = "high rock, peak"), Torhill, Winchcombe, Winchester, Worcester には,語の全体あるいは語の一部においてケルト語の etymon が含まれている.Avon, Exe, Esk, Usk, Dover, Wye などの河川名もケルト語である.
しかし,地名をのぞけば,ケルト語からの借用は僅少である.ass, binn (basket, crib), bratt (cloak), brocc (brock or badger), crag (a high steep rough mass of rock), cumb (valley), dun (dark colored), luh (lake), torr (outcropping or projecting rock, peak) などの語は,アングロサクソン人がケルト人との日常的な接触を通じて英語へ取り込んだものだろう.一方で,ancor (hermit), cine (a gathering of parchment leaves), clugge (bell), cross, cursian (to curse), drȳ (magician), gabolrind (compass), mind (diadem), stær (history) などの語は,アイルランドの宣教師によるケルト系キリスト教の普及を通じて英語に取り込まれた.
上に挙げたのは18語ばかりだが,古英語に借用されたケルト単語はおよそ網羅されている.一般には用いられない語も含まれており,ケルト借用語の存在感の薄さがわかるだろう.
以上,Baugh and Cable (75--77) を参照して執筆した.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 5th ed. London: Routledge, 2002.
従来の語源説では,標題のようなイングランドの主要な河川名は,ケルト系の言語に由来するとされてきた.5世紀にアングロサクソン人がイングランドに渡ってきたときに,これらの河川名を先住のケルト人から受け継いだという説だ.しかし,Kitson (36) によると,これらの名前はケルト語以前の古層を形成する alteuropäisch "Old European" に遡るとされる.
イングランド内には,Humber 川は12本流れており,Thames と類似した形態の河川名も多数ある (ex. T(h)ame, Teme, Team, Tamar, Tavy) .大陸ヨーロッパに目を向けても,やはり,このように類似した河川名の集団が広く分布している.地名学者のあいだでは,類似した河川名がヨーロッパ中に繰り返し現われることは常識の一部であり,その語源形の供給源としての alteuropäisch なる言語が想定されている.
Kitson (38) によれば,地名のなかでも主要な河川の名前はとりわけ保守的であり,異民族によって置換されることなく,代々受け継がれてゆく傾向が強い.河川は文明の発生に不可欠な要素と言われるが,人間生活にとって最高度の重要性をもつ地勢であることは間違いなく,どの人間集団もまず最初に名前を与えるべき対象だろう.一旦名前がつけられてしまば,よほどの動機づけがない限り,異民族の征服者や移住者へもそのまま継承されることが多い.
. . . it seems to hold pretty generally that of all classes of place-names, main river-names are the most resistant to change. In taking over a substantial body of river-names from their predecessors the Anglo-Saxons exhibited behaviour typical of immigrant populations worldwide, as Mississippi and Ohio bear witness. Yet the attitude of Anglo-Saxons to Celts, at least among their ideological leaders, at least by the end of the settlement period, was of not borrowing anything (or at least not admitting they had borrowed it). For Celts, who were certainly not autochthonous in Britain, and who are not known to have developed any colonialist ideology stronger than Vae Victis!, to have taken over no names at all from their predecessors would be preposterous. (Kitson 38)
語源が確かでないブリテン島の地名は,しばしばケルト語起源だろうと示唆される.しかし,そのなかには,あくまでケルト語経由であり,究極的には先行言語 (alteuropäisch) に由来するとみなすべきものが多々あるのではないか.もっとも,この議論のためには alteuropäisch の正体がもっと明らかにされなければならないが.
なお,Kitson は,河川名の保守性を,地名学における "uniformitarian principle" (38) と称している.論文のタイトルに含まれている "Linguistic Theory" は,この "uniformitarian principle" との関連だろう.Uniformitarian Principle (斉一論)については,[2010-11-04-1]と[2012-07-26-1]の記事を参照.
・ Kitson, Peter. "Notes on Place-Name Material and Linguistic Theory." Analysing Older English. Ed. David Denison, Ricardo Bermúdez-Otero, Chris McCully, and Emma Moore. Cambridge: CUP, 2012. 35--55.
metonymy を含む比喩 (trope) の研究は,意味論で盛んに行なわれてきた.そこでは,しばしば,固有名詞が一般名詞化した事例が取り上げられる.atlas, bloody mary, cardigan, dobermann (pinscher), hoover, jacuzzi, jersey, juggernaut, madeira, mercury, oscar, post-it, sandwich, tom (cat), turkey, wellington (boot) など枚挙にいとまがない.総称部の省略,固有名を記念しての命名,ヒット商品などにより,普通名詞化してゆく例が見られる.
しかし,逆の過程,一般名詞が固有名詞化する過程については,あまり研究対象とされてこなかった.この過程は,固有名詞学 (onomastics) では "onymisation" と呼ぶべきものである.Coates は,古英語の一般的な統語表現 sēo fūle flōde "the foul channel" が Fulflood という固有の河川名へ発展して行く過程を例に取りながら,onymisation を理論的に考察している.以下,Coates (30--33) を要約しよう.
まず,onymisation は,必ずしも形態的な変化を含意しない.確かに Fulflood の場合には,母音の変化を伴っているが,the White House などは,元となる "the white house" と比べて特に形態的な変化は生じていない(ここでは強勢の差異は考慮しないこととする).onymisation の本質は,語の形態にあるのではなく,常に固有名として使われるようになっているか,という点にある.後に見るように,実際には onymisation は形態変化を伴うことも多いが,それは過程の本質ではないということである.
次に,固有名詞になるということは,元となる表現のもっていた意味を失うということである.sēo fūle flōde は,「その」「きたない」「水路」という,生きた個別的な意味の和として理解されるが,Fulflood は通常分析されずに,直接に問題の河川を指示する記号として理解される.前者の意味作用を "semantic" と呼ぶのであれば,後者の意味作用は "onymic" と呼ぶことができるだろう.
現在,日常的には flood にかつての「水路」の意味はない.一般名詞としての flood は,古英語以来,意味を変化させてきたからだ.しかし,古い意味は固有名詞 Fulflood のなかに(敢えて分析すれば)化石的に残存しているといえる.この残存は,固有名詞 Fulflood が形態分析も意味分析もなされなかったからこそ可能になったのであり,onymisation の結果の典型的な現われといえる,意味を失うことによって残存し得たというのが,逆説的で興味深い.
さらに,Coates は,意味作用,進化論,言語獲得の知見から,"Onymic Reference Default Principle" (ORDP) を提唱している.これは,"the default interpretation of any linguistic string is a proper name" という仮説である.前提には,原初の言語使用においては,具体的で直接な指示作用 (onymic reference) が有利だったに違いないという進化論的な発想がある.
最後に,onymisation はしばしば形態的な変化を伴う.これは音韻的な摩耗や,一般語には見られない例外的な音韻変化というかたちを取ることが多い.固有名詞語彙は一般語彙のように音韻領域密度が高いわけではないので,発音に多少の不正確さや不規則さがあっても,固有名詞間の識別は損なわれないからだという.
Using an expression to refer onymically licenses the kind of attrition, or early and/or irregular sound change . . . because the phonological space of proper names is less densely populated than that of lexical words, and successful reference may be achieved despite less phonological precision. (33)
固有名詞あるいは固有名詞化という話題について,記号論的な立場から,ここまで詳しく考えたことはなかったので,Coates の論文をおもしろく読んだ.
・ Coates, Richard. "to þære fulan flóde . óf þære fulan flode: On Becoming a Name in Easton and Winchester, Hampshire." Analysing Older English. Ed. David Denison, Ricardo Bermúdez-Otero, Chris McCully, and Emma Moore. Cambridge: CUP, 2012. 28--34.
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