現代英語の動詞の命令法の形態は,原形に一致する.一方,古英語に遡ると,命令法では原形(不定詞)とは異なる形態を取り,さらに2人称単数と複数とで原則として異なる屈折語尾を取った.
しかし,さらに歴史を巻き戻してゲルマン祖語にまで遡ると,再建形ではあるにせよ,数・人称に応じて,より多くの異なる屈折語尾を取っていたとされる.以下に,ゲルマン祖語の大多数の強変化動詞について再建されている屈折語尾を示す (Ringe 237) .
indicative | subjunctive | imperative | ||
active | infinitive -a-ną | |||
sg. | 1 -ō | -a-ų | --- | participle -a-nd- |
2 -i-zi | -ai-z | ø | ||
3 -i-di | -ai-ø | -a-dau | ||
du. | 1 -ōz(?) | -ai-w | --- | |
2 -a-diz(?) | -a-diz(?) | -a-diz(?) | ||
pl. | 1 -a-maz | -ai-m | --- | |
2 -i-d | -ai-d | -i-d | ||
3 a-ndi | -ai-n | -a-ndau |
Bybee による形態論の本を読んでいて,通言語的にみて接続法 (subjunctive) と命令法 (imperative) との関係が深い旨の記述があった.英語史の観点からは「#2476. 英語史において動詞の命令法と接続法が形態的・機能的に融合した件」 ([2016-02-06-1]) で取り上げたが,印欧語族以外の言語も含めた上で,改めて議論できそうだ.Bybee (186) より引用する.
Since the subjunctive is usually a marker of certain types of subordination, it is very difficult to say what the subjunctive "means" in any given language. There is a long literature on this problem in European languages, and no satisfactory solution. At most, it might be said that the subjunctive has a very general meaning such as "non-asserted" and then it takes more specific meanings from the context in which it occurs.
Considered cross-linguistically, there is evidence of a relation between the subjunctive and imperative or related moods. When subjunctive forms are used in main clauses, they have an imperative function in Maasai, Basque and Yupik, and/or a hortative function in Tarascan, Pawnee and Maasai, in keeping with their non-asserted subordinate clause functions. The marking of subjunctive parallels that of indicative or imperative in most languages. In Maasai and Pawnee, the subjunctive is a prefix, just as the imperative is, and in Tarascan, Ojibwa and Georgian the subordinating mood is expressed in the same way as the imperative or optative
接続法と命令法(および関連する他のいくつかの法)はしばしば機能的にも形態的にも近親であるということが,通言語学的にも示唆されたわけだ.その上で改めて英語史に戻ってみるのもおもしろい.英語史では,形態的にいえば接続法と命令法はもともと異なっていたが,徐々に融合してきたという興味深い現象が起こっているからだ.
関連して以下の記事も参照.
・ 「#2475. 命令にはなぜ動詞の原形が用いられるのか」 ([2016-02-05-1])
・ 「#3538. 英語の subjunctive 形態は印欧祖語の optative 形態から」 ([2019-01-03-1])
・ 「#3540. 願望文と勧奨文の微妙な関係」 ([2019-01-05-1])
・ Bybee, Joan. Morphology: A Study of the Relation between Meaning and Form. John Benjamins, Amsterdam/Philadelphia, 1985.
日本英語英文学会30周年記念号として,こちらの本が出版されています(先日ご献本いただきまして,関係の先生方には感謝申し上げます).
・ 渋谷 和郎・野村 忠央・女鹿 喜治・土居 峻(編) 『今さら聞けない英語学・英語教育学・英米文学』 DTP出版,2020年.
上記リンク先より目次が閲覧できますが,英語学・英語教育学・英米文学の各分野から,重要なキーワード,トピック,テーマが厳選されています.ページがきれいに偶数で揃っていることからも想像できる通り,すべての話題がページ見開きで簡潔に記述されているというのが本書の最大の特徴だと思います.ありそうでなかった試みとして,この工夫には感心してしまいました.各々の記述は簡潔ではあるものの,他の文献への参照も多く施されており,卒業論文やレポートなどの研究テーマ探しにもたいへん役立つのではないかと思いました(私自身もさっそくゼミ生などに紹介しました).
英語学分野で取り上げられている話題を一覧すると,各著者の専門分野に応じて理論的なものから文献学的ものまで幅広くカバーされていますが,ここでは英語史の観点から2つほどピックアップしてみます.
野村忠央氏による「定形性」(§52)は,動詞の定形 (finite form) と非定形 (non-finite form) という用語・概念に関する導入となっています.英語史において動詞の現在形,接続法(あるいは仮定法),命令形,不定詞は形態がおよそ「原形」に収斂してきた経緯がありますが,形態が同じだからといって機能が同じわけではないことが理論的かつ平易に解説されています.また,形が常に一定で変わらないのに「不定詞」という呼び方はおかしいのではないか,という誰しもが抱く疑問にも易しく答えています.
定形とも非定形とも考えられそうな歴史上の「接続法現在」について,村上まどか氏が「仮定法原形」(§64)で取り上げているので,こちらも紹介します.I demand that the student go to school regularly. のような文における go の形態や関連する統語を巡る問題です.この問題についていくつかの参考文献を挙げながら解説し,この用法においては that 節が省略されにくいなどの興味深い事実を指摘しています.こちらも英語史上の重要問題です.
上記2つの問題と関連する hellog からの記事セットをこちらにまとめましたので,関心のある方はどうぞ.
本書で参照されている参考文献を利用して視野を広げていけば,よい研究テーマにたどり着く可能性があります.教育的配慮の行き届いた書としてお薦めします.
・ 渋谷 和郎・野村 忠央・女鹿 喜治・土居 峻(編) 『今さら聞けない英語学・英語教育学・英米文学』 DTP出版,2020年.
昨日の記事に引き続き「原形の命令用法」に関する問題.松瀬は昨日引用した論文とは別の関連論文のなかで,より突っ込んだ英語教育の観点からこの問題に切り込んでいる.「原形の命令用法」を押し出すことで,関連する諸現象とともに一貫した英文法を提供できるのではないかという.その「まとめ」を引用したい (78) .
結局,現代英語で命令形を構成する主要動詞要素は(たとえ言語的事実は,命令法を体現する定形動詞の摩耗形であったとしても,独自の動詞形態を持たない以上)「原形(不定詞)」と捉えざるを得ず,「動詞の法」の観点からは決してそれを定形と呼ぶわけにはいかないが,「文の法」としては定形とも見なされるので,その意味で「命令文」と呼ぶことも可能であると結論づけられる.しかも,従属節接続法現在形でも,法助動詞が現れないときには,命令形と同様に原形のみが現れるとする見方は,その義務や勧告を表す意味機能との親和性とも相俟って,非常に統一感のある捉え方だと言っていい.命令法と接続法現在形を原形が表す非事実的法性で一括りに捉えることができるということである.確かに,「法」の概念自体は英語教育の現場では等閑視されている項目であろうが,「原形」という言い方は非常によく使われている現状を考えたとき,むしろこれを前面に押し出した指導法には大いにメリットがあると思われる.
学校では,いわゆる三単現の -s については,(本来なら非常に重要で,理解に不可欠な)直説法という概念は無視して,やかましく指導されるが,それに真っ向から反する,従属節接続法現在形の he do という連鎖を理解するためには,法に関しての知識がどうしても必須である.そこでたとえ「法」という言葉は使わないにしても,両者間にある事実性と非事実性という対立を教員は是非とも指摘しなければならない.その際,動詞の「原形」は非事実的法性(の一部)を担うという考え方を披瀝することは,法や定形性の意味的理解を深める上でも十分に有効であろう.
通時的な事実を十分に押さえた上で,あえてその発想から決別し,共時的な体系化を図るという論者の姿勢は,おおいに真似したいところだ.また,引用後半にあるように,この問題は裏から迫った「3単現の -s」の問題とも換言できそうで,示唆に富む.
・ 松瀬 憲司 「定形か非定形か---英語の命令「文」について---」『熊本大学教育学部紀要』第63巻,2014年,73--79頁.
現代英語について命令法 (imperative mood) を認めるか否かという問題は,英語学でもたびたび議論がなされてきた.法 (mood) を純粋に形態論的なカテゴリーと解するならば,伝統文法でいう動詞の「命令形」は原形(不定詞)と同一であるから,ここに独自の法を設定する必要はないということになる.むしろ,原形(不定詞)を基本に据えて,その用法の1つとして命令用法があると考えるほうがすっきりする.命令用法と原形の他の諸用法には,意味的な「非事実性」および統語意味的な「非定性」という共通項も見出され,その点でも理論的に都合がよい.さらにいえば,従来「接続法現在」と呼ばれてきたものも形態的には原形と異ならないのだから,やはり同じグループに入ることになるだろう.実際,「接続法現在」はまさに「非事実性」を持ち合わせている.
上で述べてきたことは,原形,命令形,接続法現在形とそれらの用法は「非事実性」の法として1つにくくることができるという提案だが,ある意味で「非事実性」の典型ともいえる「未来」への言及が,これらと同形(=原形)によって担われないのはなぜかという問題は残る.「仮定」や「思考」の表現においても同様である.このように法,時制,定性,非事実性などの諸カテゴリーが複雑に交錯する問題を扱うのは決して容易ではない.「命令法」の扱いを改めようと一押しすると,「未来時制」の扱いに不都合が生じる,といった玉突きが生じるからだ.
上の議論は,およそ松瀬の議論の要約である.松瀬論文では,通時的・共時的な観点からこの問題に迫っているが,その「まとめ」は次の通り (98) .
高度に屈折した古典語では,法を区別する手立ては十分すぎるほどあり,その存在意義もまた十分にあったが,完全とまでは言えず,同じ動詞形態が複数の法を表すことも一部だがあった.おそらくそのような形態上の重複という形式面と,直説法現在が未来の事象までも射程に入れることが可能だったという意味的側面とが相まって,有標の接続法ではなく,無標の直説法のなかに未来時を設定することが常態化していたのではないかと考えられる.
それに対して,動詞の語形変化が古英語に比べて極めて簡素化された現代英語では,もはや動詞形態としての法を明示することができない状況にあるが,それでも事実的法性は,〔中略〕'stance' marker として機能する.will などの法助動詞や if などの特殊なマーカーおよび,従属節を従える場合でも,suggest や require といった主節動詞の持つ意味によって過不足無く伝えることができる.このように考えれば,未来時の指示は,典型的には法助動詞 will という stance marker により,その非事実的法性を表す有標な構造と捉えることができ,そこには直説法や接続法といった法概念を特に持ち込む必要はないことになる.さらに付け加えれば,非事実的法性を表す有標構造には,時として従属節に(節たり得ない)非定形動詞である原形(不定詞)が現れる.それは別の見方をすれば,〔中略〕伝統的な命令法を,その動詞を定形動詞ではなく原形(不定詞)と見なした場合,まさにその命令法形が従属節に埋め込まれているとも考えられるわけで,だとすると逆に,非事実的法性を表す原形(不定詞)の一用法として従来の命令法を捉えることもでき,命令法自体を法の一種として別立てにする必要も同時になくなることになる.
英語学的に「命令」をどう扱うべきかという問題は,当然ながら英語教育にも関わってくるだろう.
・ 松瀬 憲司 「未来時に「事実性」はあるのか---英語の直説法と接続法---」『熊本大学教育学部紀要』第62巻,2013年,91--100頁.
一昨日と昨日の記事 ([2018-08-31-1], [2018-09-01-1]) に補足する.Biber et al (§11.2.3.4, p. 918) によると「主語+助動詞」が「助動詞+主語」となる環境には,先の記事で挙げたものに加えて,もう2種類(以下の A と C)ある.祈願の may の構文 (B) について調べている途中に出くわしたものなので,それと合わせて3点を引用する.A と B は古い用法の残存ということなので,ぜひ歴史的な観点から迫っていきたい構文の問題だ.
11.2.3.4 Special cases of inversion in independent clauses
Some uses of inversion are highly restricted and usually confined to more or less fixed collocations. Types A and B described below are remnants of earlier uses and carry archaic literary overtones.
A Formulaic clauses with subjunctive verb forms
The combination of the inflectionless subjunctive and inversion gives the highlighted expressions below an archaic and solemn ring:
Be it proclaimed in all the schools Plato was right! (FICT)
If you want to throw your life away, so be it, it is your life, not mine. (FICT)
"I, Charles Seymour, do swear that I will be faithful, and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth, her heirs and successors according to law, so help me God." (FICT)
Long Live King Edmund! (FICT)
Suffice it to say that the DTI was the supervising authority for such fringe banks. (NEWS)
B Clauses opening with the auxiliary may
The auxiliary may is used in a similar manner to express a strong wish. This represents a more productive pattern:
May it be pointed out that the teacher should always try to extend the girls helping them to achieve more and more. (FICT†)
May God forgive you your blasphemy, Pilot. Yes. May he forgive you and open your eyes. (FICT†)
The XJS may be an ageing leviathan but it is still a unique car. Long may it be so! (NEWS)
Long May She Reign! (NEWS)
C Imperative clauses
Imperative clauses may contain an expressed subject following don't . . . .
A と B の意味的・統語的類似性に注目すべきである.ともに命令,勧告,祈願などの「強い希望」が感じられる.歴史的には,may などの法助動詞は屈折による接続法の代用として発達してきた側面があり,両者が意味的に近い関係にあることは当然といえば当然である.だが,こうして現代英語にも古風な表現としてではあれ共存しており,かつ統語的にも倒置が生じるという点で振る舞いが似ているのは,非常に興味深い.
・ Biber, Douglas, Stig Johansson, Geoffrey Leech, Susan Conrad, and Edward Finegan. Longman Grammar of Spoken and Written English. Harlow: Pearson Education, 1999.
4月は新歓の季節ということで,この話題.wassail /ˈwɒseɪl, ˈwɑːsl/ という語は,名詞として「(主にクリスマスの)祝いの酒」を,動詞として「酒盛りをする;酒で祝う」を意味する.ここには,今はなき be 動詞の命令形が化石的に埋め込まれている(Crystal 21 を参照).
古英語での乾杯の挨拶は,相手が単数の場合には wes hal "(you (sg.)) be in good health",相手が複数の場合には wesað hale "(you (pl.)) be in good health" と言った.wes や wesað は,現在では使われていない be 動詞の一種 wesan の2人称命令形(それぞれ単数と複数)である(cf. 「#2600. 古英語の be 動詞の屈折」 ([2016-06-09-1])).hal(e) は,現代英語で「健全な;健康な」を表わす whole や hale の古英語形であり,「万歳」という呼びかけに対応する hail とも同根である(cf. 「#1783. whole の <w>」 ([2014-03-15-1])).古英語のウェストサクソン福音書では,Luke 1.28 で天使がマリアに対して Hal wes ðu と挨拶する箇所がある.
中英語では wesan 系列の be 動詞の命令形は消失していったが,くだんの乾杯の表現は wassail として固定化した状態で生き残った.なお,wassail に対する返しの挨拶は,drinkhail である.
古ノルド語にも同種の表現 ves heill があり,英語表現の語源説としてはむしろこの古ノルド語形の影響が大きいとされるが,現在は wassail はいかにも伝統的なイギリス風の乾杯の仕方として知られている.
・ Crystal, David. The Story of Be. Oxford: OUP, 2017.
標題の言語変化について,「#2475. 命令にはなぜ動詞の原形が用いられるのか」 ([2016-02-05-1]) と「#2476. 英語史において動詞の命令法と接続法が形態的・機能的に融合した件」 ([2016-02-06-1]) で少しく触れた.屈折語尾の弱化・消失は,とりわけ古英語期から中英語期にかけて起こった英語史上の大変化だが,動詞命令形の屈折語尾については,周辺的で影が薄いためか,あまり本格的な記述がなされていないように思われる.しかし,この問題は動詞における「数の一致」の標示手段に関する問題として統語形態上の重要性をもつし,中英語期において2人称の「数」はいわゆる t/v_distinction というポライトネスに直結する問題でもあるから,見かけ以上に追究する価値のあるテーマなのではないか.
この件について,中尾 (162) に当たってみると,次のようにあった.
命令法――単・複数
単数は {-ø} (sing/her (=hear)).ただし,母音,<h> の前では -e も起こる.複数接辞は直説法・複数のそれとほぼ同じ方言分布を示す ({-es, -eth}).ただし主語表現を直続させるときは {-e} (helpe ye).15世紀半ばごろから {-ø} が複数の範疇にも進出して来るようになる(AncrR にすでにその例が起こる).
p. 277 にも関連する記述があった.
命令法は屈折接辞 (helpes, helpeth) または語順 (helpe ye) によりあらわされる.前者は主語が複数,あるいは「丁重な呼び掛け」の単数の場合に用いられる.主語表現を伴うことはきわめてまれである.後者は単数および複数主語の場合に用いられる.
ここから,中英語期の命令法・複数は,(1) 屈折語尾について直説法・複数と同じ方言分布を示すということ,(2) 「丁重な単数」の2人称にも用いられたこと,(3) 15世紀半ば頃からゼロ屈折に置換されるようになってきたことが分かる.しかし,これ以上の詳細な記述はない.
後期中英語の様々な方言や異写本テキストなどで分布を調査したり,さらに時代を遡って初期中英語辺りの分布を見てみること等が必要かもしれない.
・中尾 俊夫 『英語史 II』 英語学大系第9巻 大修館書店,1972年.
[2016-02-05-1]の記事に引き続き,命令に動詞の原形が用いられる件について.先の記事の引用中にあったが,Mustanoja (473--74) が命令形と間投詞 (interjection) の近似に言及している.その箇所を引用しよう.
There is a striking functional resemblance between the imperative and the interjections. Both are functionally self-contained exclamatory expressions, both are little articulate (the singular imperative has no ending or has only -e, and the subject-pronoun is seldom expressed), and both are greatly dependent on intonation. In fact many interjections, primary and secondary, are used to express exhortations and commands (a-ha, hay, hi, harrow, out, etc. . . .), and many imperatives are used as interjections (abide, come, go bet, help, look . . . cf. present-day interjections like come on, go away, hear hear, say, say there, etc.)
さらに,Mustanoja (630--31) では,動詞の命令形が事実上の間投詞となっている例が多く挙げられている.
Brief commands, exhortations, and entreaties are comparable to interjections. Thus in certain circumstances the imperative mood of verbs may serve as a kind of interjection: --- abyd, Robyn, my leeve brother (Ch. CT A Mil. 3129); --- come, þou art mysbilevyd (Cursor App. ii 823); --- go bet, peny, go bet, go! (Sec. Lyr. lvii refrain); --- quad Moyses, 'loc, her nu [is] bread' (Gen. & Ex. 3331); --- help, hooly croys of Bromeholm! (Ch. CT A Rv. 4286; in this and many other cases help might equally well be interpreted as a noun). Somewhat similar stereotyped uses of the imperative are herken and listen, which occur as conventional opening exclamations in numerous ME poems (herkneþ, boþe yonge and olde; --- lystenyþ, lordynges . . . .
動詞による命令をある種の感情の発露としてとらえれば,動詞という品詞に属するという特殊事情があるだけで,それは確かに間投詞と機能的に似ている.そこで不変化詞であるかのように動詞の原形が用いられるというのは,不思議ではない.
・ Mustanoja, T. F. A Middle English Syntax. Helsinki: Société Néophilologique, 1960.
昨日の記事「#2475. 命令にはなぜ動詞の原形が用いられるのか」 ([2016-02-05-1]) の内容と密接に関わるものとして,標記の問題がある.英語史では,動詞の単数系列の命令形と接続法現在形が,形態的に融合してきた経緯がある.それと並行して,両者の機能,すなわち命令ととりわけ勧告の発話行為 (speech_act) もが融合してきたという経緯があり,現代英語においては,もはや形態においても機能においても,かつてあった区別が不明瞭となるに至っている.両者の融合への道筋は,1つには間接的な観点から記述することができる.命令形は,昨日の記事で述べたように,語根形(無屈折形)へ向かいやすかったし,一方,接続法現在は形態・機能的に衰退し,結果として直説法現在へ呑み込まれた.
しかし,命令形と接続法現在形の融合は,より直接的に両者の機能的な類似によって促進されたとも論じられるかもしれない.とりわけ勧告・忠告・奨励を表わすのに用いられる接続法については,それが機能上命令という発話行為に近似していることは容易に理解できるだろう.
昨日の記事で引用した Fischer (249) は,上記の点について次のように述べている.
In Middle English the forms of the imperative singular and the subjunctive present singular coalesced . . . . In function, the hortatory subjunctive and the imperative were practically similar already in Old English, where one finds them used side by side . . . . In the plural there was still a morphological distinction . . . when the subject pronoun did not immediately follow the verb. This situation was not to last, as the hortatory subjunctive was on its way out. . . . By the middle of the fifteenth century the plural imperative ending disappears.
この Fischer の発言は,2人称の単複両系列において命令法と接続法の融合が形態ベースであるとともに機能ベースでもあったことを示唆しているように読める.
複数系列の命令形についても,単数系列と同様に,15世紀半ばまでには無語尾となっていたとあるが,確かにその前段階の Chaucer 辺りでは,歴史的な単複の形態的区別がすでに事実上の自由変異と化している.例えば,Chaucer (CT III.186--7 [2:186--7]) では "Telle forth youre tale, spareth for no man,/ And teche us yonge men of youre praktike." などと語尾の有無が目まぐるしく切り替わっている.
さらに時代を遡って古英語の様子をみてみると,Traugott (185) は,命令法と接続法の機能的区別は,9世紀末までにはおよそ失われつつあったとしている.
Because the imperative and subjunctive contrast morphologically, we assume that there was a difference in meaning, at least in early OE times, between more and less directive, more and less wishful utterances. By the time of Alfredian OE this difference was losing ground in many registers; charms, medical prescriptions and similar generalised instructions are normally in the subjunctive.
これらの見解を総合すると,問題の融合は,やはり形態ベースであると同様に機能ベースでもあったと考えるのが妥当かもしれない.
・ Fischer, O. Syntax. In The Cambridge History of the English Language. Vol. 2. Ed. N. Blake. Cambridge, CUP, 1992. 207--398.
・ Traugott, Elizabeth Closs. Syntax. In The Cambridge History of the English Language. Vol. 1. Ed. Richard M. Hogg. Cambridge: CUP, 1992. 168--289.
標題は,英語の命令文に関して,「#2289. 命令文に主語が現われない件」 ([2015-08-03-1]) と並んで,長らく疑問に感じていることである.
歴史的には,命令形と不定形は別個のものである.例えば,古英語の「行く」を表わす動詞について,2人称単数への命令は gā,2人称複数への命令は gāþ,不定形は gān であり,それぞれ形態は異なっていた.中英語以降,これらの屈折語尾が水平化し,形態的に軒並み go へと収斂した.
このような歴史的背景はあるにせよ,現代英語を共時的な観点から眺めれば,典型的な命令に用いられる動詞の形態は,いわゆる原形(不定形)の形態と完全に一致している.したがって,通時的な観点を抜きに記述するのであれば(そしてそれは母語話者の文法を反映していると思われるが),命令形と原形という用語を区別する必要はなく「命令には動詞の原形を用いる」と言って差し支えない.もしこれが真に母語話者の共時的感覚だとすれば,原形の表わす不定性と命令の機能が同一の形態のなかに共存していることに関して,認知上どのようにとらえられているのだろうか.
この問題について,松瀬 (83) で参照されていた Fischer (249) のコメントに当たってみた.
The imperative has a tendency to become invariant in form (this happened also in other Germanic languages), because it functions like a self-contained, exclamatory expression. Mustanoja (1960: 473) compares its function to that of (invariable) interjections. In an example like,
(109) Help! Water! Water! Help, for Goddes herte! (CT I.3815 [1:3807])
help is as much an interjection as an imperative.
命令と感嘆はある種の感情の発露として機能的に似通っており,それゆえに裸の語根そのもの(英語の場合には,すなわち原形)が用いられると解釈できるだろうか.細江 (157) が感嘆文との関連で述べている言葉を借りれば,このような語根形は「言語が文法的形式にとらわれず,その情の急なままに原始的自然の言い方に還元された」ものととらえることができる.
・ 松瀬 憲司 「"May the Force Be with You!"――英語の may 祈願文について――」『熊本大学教育学部紀要』64巻,2015年.77--84頁.
・ Fischer, O. Syntax. In The Cambridge History of the English Language. Vol. 2. Ed. N. Blake. Cambridge, CUP, 1992. 207--398.
・ 細江 逸記 『英文法汎論』3版 泰文堂,1926年.
標題は,長らく気になっている疑問である.現代英語の命令文では通常,主語代名詞 you が省略される.指示対象を明確にしたり,強調のために you が補われることはあるにせよ,典型的には省略するのがルールである.これは古英語でも中英語でも同じだ.
共時的には様々な考え方があるだろう.命令文で主語代名詞を補うと,平叙文との統語的な区別が失われるということがあるかもしれない.これは,命令形と2人称単数直説法現在形が同じ形態をもつこととも関連する(ただし古英語では2人称単数に対しては,命令形と直説法現在形は異なるのが普通であり,形態的に区別されていた).統語理論ではどのように扱われているのだろうか.残念ながら,私は寡聞にして知らない.
語用論的な議論もあるだろう.例えば,命令する対象は2人称であることは自明であるから,命令文において主語を顕在化する必要がないという説明も可能かもしれない.社会語用論の観点からは,東 (125) は「英語は主語をふつう省略しない言語だが,命令文の時だけは省略する.この主語(そして命令された人も)を省略する文法は,ポライトネス・ストラテジーのあらわれだといえよう」と述べている.関連して,東は,命令文以外でも you ではなく一般人称代名詞 one を用いる方がはるかに丁寧であるとも述べており,命令文での主語省略を negative politeness の観点から説明するのに理論的な一貫性があることは確かである.
しかし,ポライトネスによる説明は,現代英語の共時的な説明にとどまっているとみなすべきかもしれない.というのは,初期近代英語では,主語代名詞を添える命令文のほうがより丁寧だったという指摘があるからだ.Fennell (165) 曰く,". . . in Early Modern English constructions such as Go you, Take thou were possible and appear to have been more polite than imperatives without pronouns."
初期近代英語の命令や依頼という言語行為に関連するポライトネス・ストラテジーとしては,I pray you, Prithee, I do require that, I do beseech you, so please your lordship, I entreat you, If you will give me leave など様々なものが存在し,現代に連なる please も17世紀に誕生した.ポライトネスの意識が様々に反映されたこの時代に,むしろ主語付き命令文がそのストラテジーの1つとして機能した可能性があるということは興味深い.上記の東による説明は,よくても現代英語の主語省略を共時的に説明するにとどまり,通時的な有効性はもたないだろう.
この問題については,今後も考えていきたい.
・ Fennell, Barbara A. A History of English: A Sociolinguistic Approach. Malden, MA: Blackwell, 2001.
・ 東 照二 『社会言語学入門 改訂版』,研究社,2009年.
現代英語では,2人称に対する命令文では,通常,主語の you は省略される.ただし,相手に対するいらだちを表わしたり,特定の人を指して命令する場合には,会話において you が現われることも少なくない.その場合には "Come on! You open up and tell me everything." のように,you が動詞の前位置に置かれ,強勢を伴う.
しかし,初期近代英語までは,主語の you や thou が省略されずに表出する場合には,動詞の後位置に現われた.荒木・宇賀治 (406) および細江 (149) に引用されている,Shakespeare や聖書からの例を挙げよう.
・ Bring thou the master to the citadel (Oth II. i. 211)
・ So in the Lethe of thy angry soul Thou drown the sad remembrance of those wrongs Which thou supposest I have done to thee. (R 3 IV. iv. 250--2)
・ So speak ye, and do so. --- James, ii. 12.
・ Go, and do thou likewise. --- Luke, x. 37.
18世紀以降は,主語が動詞に前置される語順が次第に優勢となったが,否定命令文では,いまだに "Don't you be so sure of yourself." のように,you は don't の後位置に置かれる(強勢は don't のほうに落ちる).これは,古い英語の名残である.同様の名残に,現代英語の mind you, mark you, look you なども挙げられる.これらの you は動詞の目的語ではなく,あくまで命令文において明示された主語である.いずれも,「いいかい,よく聞け,忘れるな,言っておくが」ほどの意味で,略式の発話において内緒話を導入するときや聞き手の注意を引くときに用いる.you に強勢が置かれる.
・ Mind you, this is just between you and me.
・ Cellphones are becoming more and more popular. Mind you, I don't like cellphones.
・ I've heard they're getting divorced. Mind you, I'm not surprised --- they were always arguing.
・ She hasn't had much success yet. Mark you, she tries hard.
・ Her uncle's just given her a car --- given, mark you, not lent.
OED によると,mind you の初例は1768年(語義12b),mark you は Shakespeare (語義27b),look you も Shakespeare (語義4a)であり,近代英語期からの語法ということになる.なお,Look ye. 「見よ」については,「#781. How d'ye do?」 ([2011-06-17-1]) の記事も参照.
・ 荒木 一雄,宇賀治 正朋 『英語史IIIA』 英語学大系第10巻,大修館書店,1984年.
・ 細江 逸記 『英文法汎論』3版 泰文堂,1926年.
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow