英語史でも北米植民史でも,1607年は,イギリス人(と英語)の北米入植が初めて成功した年として歴史に刻まれている.Jamestown (Virginia) への入植である.
実際には,それ以前にも失われた植民地として有名な Roanoke Island (North Carolina)への入植の試みがあった.1587年,Sir Walter Raleigh に率いられた人々がこの島に入植している.その後1587年に Roanoke の総督が117名の入植者を残していったんイングランドに戻ったが,総督が1590年に再び島に帰ってきたときには,入植者はみな消えていたという.今もって何が起こったのかが分かっていない怪事件である.「#3866. Lumbee English」 ([2019-11-27-1]) で紹介した,Lumbee 族が一枚かんでいたのではないかとも取り沙汰されているが,どうだろうか.
イギリスによる「成功した」北米植民の第1弾は,したがって,1607年の Jamestown といってよい.では,第2弾はいつのことで,どこだったのだろうか.1620年の,いわゆる "Pilgrim Fathers" と呼ばれる清教徒による Plymouth (Massachusetts) の植民かと思いきや,これは実は第4弾なのだという.Trudgill (20) により,第2弾と第3弾の様子を概説しよう.
第2弾は,1609年の Bermuda 島である.アメリカ本土の東900キロに浮かぶ島で,Jamestown に向かっていた船が,この無人島で難破したのがきっかけだという.その後1612年に,ヴァージニア会社により60人が植民のために島に送られた.1616年からはアフリカ出身の奴隷も送り込まれている.
第3弾は,1610年の現カナダ東部の Newfoundland である.だが,実は Newfoundland はそれ以前にも長らく英語との接触があった.1497年にイギリス船に乗り込んだイタリアの航海家 Giovanni Caboto (英語名 John Cabot)が,この地に至っている.また,イギリスのみならずヨーロッパでは鱈の漁場として知られてもいた.1610年の植民は,ジェイムズ1世の勅許の下,ブリストルの商人冒険家協会によってなされた.17世紀半ば以降,イギリスが Newfoundland の植民地経営を公式に放棄したという経緯はあるものの,英語使用に関して言えば1610年以降,現在まで途切れていないことになる.
・ Trudgill, Peter. "The Spread of English." Chapter 2 of The Oxford Handbook of World Englishes. Ed. by Markku Filppula, Juhani Klemola, and Devyani Sharma. New York: OUP, 2017. 14--34.
Trudgill (23) が,1763年を英語の世界的拡大を語る上で重要な年とみている.1763年の英語史上の意義とは何か.
Then in 1763 a very significant event occurred: Britain gained control of the Cape Breton Island area of Nova Scotia, which had remained in French hands until then. This meant that for the first time the English language had effected a complete takeover of a very long contiguous stretch of the east coast of the North American continent: There was now an English-language presence all along the coast from Newfoundland in the north, right down to the border between Georgia and (Spanish-controlled) Florida in the south.
そう,イギリスが,そして英語が,北米大西洋岸の長いストレッチを押さえた年だったのである.「長いストレッチ」を確認するのには,ボンヌ図法の地図を用いるとなかなか効果的 ((C)ROOTS/Heibonsha.C.P.C) .
この年は,世界史でいうところの七年戦争(1756--1763年; Seven Years' War)が終結した年である.イギリスが財政支援するプロイセンと,オーストリア・ロシア・フランスなどとの間の戦争で,プロイセンのフリードリヒ2世の好指揮などにより前者が勝利した.この戦争には英米植民地戦争という側面もあり,北アメリカとインドにおいて両国が激突した.
この北アメリカでの戦いはフレンチ・インディアン戦争 (French and Indian War) とも呼ばれるが,英仏の角逐について『世界大百科事典 第2版』の解説がとてもわかりやすい.
比喩的にいえば,点(交易所)をつなぐ線(水路)で半弧状にイギリス植民地を包囲したフランス植民地と,これを面(農業地)の拡大によってのみこもうとしたイギリス勢力とが,オハイオ川流域で衝突して起こった重商主義戦争で,これにこの地方のインディアン諸部族がまきこまれた.
初期の戦局ではフランスとインディアンの軍が優勢を保ったが,1758年にイギリスのピット首相が強力な指導力を発揮するに及び,戦局は逆転.イギリスがケベックやモントリオールを奪取し,勝敗が決せられた.そして,1763年のパリ講和会議により,フランスは北アメリカにおける領土を失うことになった.こうしてイギリスはカナダを含めた北アメリカ(の大西洋岸のことではあるが)の支配権を獲得した.
これ以前にも,イギリスは1713年に New Brunswick を獲得しており,1732年に Georgia の植民も成功させている.1740--50年代には Nova Scotia に本国から移民を多く送り込んだ.さらに1758年には Prince Edward Island を占拠している.そして,最後に上記のように1763年に Nova Scotia を,そして Cape Breton Island を獲得し,上記の「長いストレッチ」がつながったわけだ.
上記の英仏植民地戦争の帰趨と,結果としての各言語の勢力分布は,およそ一致していると考えてよい.ただし,イギリスの支配下に入ったケベックでは,言語文化としてはフランス的な要素が色濃く継承され現在に至っているなど,例外もないわけではない.もう1点挙げれば,「#1733. Canada における英語の歴史」 ([2014-01-24-1]) で触れたように,上記戦争中に Nova Scotia などから追放されたフランス系の人々住民がアメリカ南部の Louisiana などへ移住しており,現在でも彼らの子孫たちが Louisiana で Cajun (< Acadian) と呼ばれるフランス語の変種を話している.
・ Trudgill, Peter. "The Spread of English." Chapter 2 of The Oxford Handbook of World Englishes. Ed. by Markku Filppula, Juhani Klemola, and Devyani Sharma. New York: OUP, 2017. 14--34.
「#1733. Canada における英語の歴史」 ([2014-01-24-1]) および「#1734. Canada の国旗と紋章」 ([2014-01-25-1]) でカナダを取り上げたが,今回はカナダの州 (province) と準州 (territory) の名前について.
カナダは世界第2位の面積を誇る巨大な大陸国家だが,政治区画としては10州と3準州からなる.Nunavut は1999年に設立されたばかりの準州で,住民の多くが先住民族である.
Northwest Territories は文字通りなので除外し,語源辞典等により調べた,12(準)州の名前を構成する主要素の起源をアルファベット順に掲げる.
・ Alberta は,Queen Victoria の4番目の娘 Princess Louise Caroline Alberta にちなむ.
・ Brunswick は,George II, Duke of Brunswick にちなむ.
・ Columbia は,ハドソン湾会社の時代の Columbia District より引き継がれた.「コロンブスの地」の意.
・ Labrador は,ポルトガル語 lavrador (yeoman farmer) に由来するとされ,John Cabot の命名とも想定されるが,未詳.
・ Manitoba は,北米先住民の言語 Algonquian の manito bau (spirit straight) より.この manito は,1698年に英語へ manitou として入っており,「(アルゴンキアン族の)霊,魔;超自然力」を表わす.
・ Newfoundland は,「新しく発見した土地」として John Cabot により命名されたもの.
・ Nova Scotia は,ラテン語で "New Scotland" の意.
・ Nunavut は,北米先住民の言語 Inuit で "our land" を意味する.
・ Ontario は,北米先住民の言語 Iroquoian の Oniatariio (the fine lake) のフランス語形より.
・ Prince Edward は,George III の4番目の息子 Prince Edward Augustus, the Duke of Kent にちなむ.
・ Quebec は,北米先住民の言語 Algonquian の kabek (the place shut in) より.
・ Saskatchewan は,北米先住民の言語 Cree の kisiskatchewani (swift-flowing river) より.Rocky 山脈に発する川に当てられた名前.
・ Yukon は,北米先住民の言語 Athapascan の yukon-na (big river) より.ベーリング海峡に注ぐ川に当てられた名前.
昨日の記事「#1733. Canada における英語の歴史」 ([2014-01-24-1]) で,カナダにおける英語の歴史を概観した.そのなかで,カナダが1965年に国旗のデザインをカエデをかたどった現在のもの (Maple Leaf flag) に変更したことに触れた.National Symbols - Anthems and Symbols - Canadian Identity によると,それ以前のカナダの国旗としては様々なデザインがあったが,旗竿に近い上端の区画 (canton) に,英領であることを表わすものとして Union Jack が配されたものが多かった.例えば,1957年の時点では以下の左のものが採用されていた.
「#1715. Ireland における英語の歴史」 ([2014-01-06-1]),「#1718. Wales における英語の歴史」 ([2014-01-09-1]),「#1719. Scotland における英語の歴史」 ([2014-01-10-1]) に引き続き,主たる英語圏の歴史シリーズとしてカナダを取り上げる.
カナダの地へは,今から1万年ほど前に,まずイヌイットが到来した.彼らは狩猟・漁労の生活を営んだ.紀元1000年頃,ヴァイキングたちがヨーロッパ人として初めてカナダに到着した.しかし,ヨーロッパ人による本格的なカナダの探検の開始は,コロンブスが新世界を発見した15世紀末を待たなければならなかった.
1497年,John Cabot (1425--99) は,イングランド王 Henry VII の許可を得て,アジアの富を求めてBristol を西へと出航した.Cabot が見つけたのはアジアではなくカナダの東海岸だったが,Cabot の航海は多くの船乗りの探検欲をそそり,その後のカナダの探検と開発に貢献することとなった.だが,実際のところ,Cabot が到着した頃のカナダ東海岸は,イギリス,フランス,スペイン,ポルトガルの漁師たちにはすでに鱈の漁場として知られていたようだ.
1534年,フランス王は Jacques Cartier (1491--1557) をアジア航路の発見のために送り出した.Cartier は Newfoundland を超えて,Saint Lawrence 湾へ入り込み,そこでイロコイ族 (Iroquois) から聞いた語で「村」を意味する kanata を書き留めている.これが Canada の起源とされる.こうしたカナダ探検を通じて,フランスはビーバーの毛皮貿易に商機を見いだし,カナダへの関与を深めていくことになった.New France と呼ばれることになったカナダ東部は1663年にフランス領となり,植民地人口は1万人ほどになっていた.彼らは,現在の約670万人のフランス系カナダ人の祖先である.フランスは,交易,探検,キリスト教の布教の旗印でミシシッピ川を下り,1682年にはメキシコ湾に到達していた.こうして,18世紀初頭の最盛期には,フランスは北米に広大な権益を確保するに至った.
一方,イングランド人も遅れてカナダへの権益を求め始めていた.16世紀後半には Newfoundland の St. John's に北米初の植民地を建設し,ハドソン湾会社 (Hudson's Bay Company) を設立してハドソン湾付近の交易を独占した.18世紀の間に英仏の対立は避けられなくなり,1754--63年にはフレンチ・インディアン戦争 (French and Indian War) で衝突.イギリスの勝利によりカナダの広大な領土が英植民地となった.この戦争の間に,New Brunswick, Nova Scotia, Prince Edward Island, 南東 Quebec,東 Maine を含む Acadia から,数千というフランス系移民たちがアメリカ南部の Louisiana などへ追放されることになった.現在も Louisiana で話されているフランス語の変種 Cajun (< Acadian) の話し手は,当時のフランス系移民の末裔である.
アメリカ独立戦争に際して,イギリスに忠誠的だった王党派 (Loyalist) の人々は,アメリカに残ることを潔しとせず,4万人という規模で Nova Scotia へ,後に内陸部へと移住した.比較的文化程度の高い中産階級の人々がここまで大量に移民するということは,歴史上,まれである.さらに,England, Scotland, Ireland からの直接の移民もおこなわれ,カナダにおける英語人口が増えた.これらの大量の英語を話す移民により,英領北アメリカにおいてイギリス色の濃い Upper Canada (現在の Ontario)とフランス色の濃い Lower Canada (現在の Quebec)が区別されるようになった.第2次独立戦争ともいわれる1812年の英米間の戦いでは,Upper Canada が戦場となり,アメリカとカナダとの分離意識が強まることとなった.
1867年,カナダは Nova Scotia, New Brunswick, Ontario, Quebec から成る英自治領となり,1931年には独立を達成.英連邦 (The Commonwealth of Nations) の一員として残るも,1965年には Union Jack を組み込んだ国旗を廃して,現在のカエデの国旗を採用.1982年には自前の憲法を制定し,完全に主権を獲得した.しかしながら,カナダは立憲君主制は保持しており,エリザベス女王を国家元首としている(カナダの紙幣にはエリザベス女王が描かれている).
現在,カナダは多言語国家である.カナダ人の約60%が英語母語話者,約20%がフランス語母語話者であり,ほかにも先住民や移民により計100以上の言語が話されている.
以上,主として Svartvik and Leech (90--95) を参照して執筆した.カナダにおける英語の広がりについては,「#1698. アメリカからの英語の拡散とその一般的なパターン」 ([2013-12-20-1]) および「#1701. アメリカへの移民の出身地」 ([2013-12-23-1]) も参照.
参考までに,ブライアン・ウィリアムズ (60--61) より,カナダ史の年表を掲げておく.
紀元前2000ごろ | イヌイットが北アメリカへやってくる. |
紀元前800ごろ | バフィン島でドーセット分化が誕生. |
紀元後800ごろ | 氷河が後退し,北アメリカで農耕がはじまる. |
1000ごろ | レイフ・エリクソンの率いるバイキングが北アメリカに上陸(おそらくニューファンドランド・ラブラドルと,もう1カ所). |
1020ごろ | バイキングの北アメリカ探検が終わる. |
1075ごろ | アラスカのチューレ・イヌイットが北極文化で優勢となる. |
1497 | ジョン・カボットがニューファンドランドとケープ・ブレトンに上陸. |
1534 | ジャック・カルティエがセント.・ローレンス川を探検し,セント・ローレンス湾の沿岸をフランス領と宣言する. |
1583 | ニューファンドランドがイギリス初の海外植民地となる. |
1627 | フランスが北アメリカにつくった植民地「ニューフランス」を統治するため,ニューフランス会社が設立される. |
1670 | ロンドンの貿易商たちがハドソン湾会社を設立.ハドソン湾を囲む地域の商業圏を支配する. |
1701 | 20年間の外交の末,38の先住民族国家がフランスと平和条約を結ぶ. |
1756 | 七年戦争で,大きさでも経済力でも勝るイギリスの植民地をニューフランスが獲得. |
1763 | パリ条約が結ばれ,七年戦争が終わる.ミシシッピ川の東にあったフランス領植民地はイギリスの領土になる.ニューフランスはケベック植民地と名称が変わる. |
1783 | モントリオールの毛皮商人たちがノースウェスト会社を設立.西部と北部を通って太平洋まで,交易所ができる. |
1791 | ケベックがローワー・カナダ(現在のケベック)とアッパー/カナダ(現在のオンタリオ)とに分けられる. |
1812--14 | 1812年戦争.五大湖では海戦がおこなわれ,ヨーク(現在のトロント)はアメリカ軍の攻撃を受けたが,アメリカのカナダ侵略の試みは失敗した. |
1821 | ハドソン湾会社とノースウェスト会社が合併し,何年もつづいていたはげしい競争が終わる. |
1841 | カナダ・イースト(ローワー・カナダ)とカナダ・ウェスト(アッパー・カナダ)がカナダ州として再び統合される. |
1867 | 英国領北アメリカ法により,英自治領カナダが誕生.ここにはオンタリオ,ケベック,ノバ・スコシア,ニューブランスウィックが含まれていた. |
1870 | マニトバ,つづいてブリティッシュ・コロンビア,プリンス・エドワード・アイランドが州になる. |
1885 | カナディアン・パシフィック鉄道が完成 |
1898 | ユーコン川上流でゴールドラッシュが起こる.ユーコンは準州の地位を与えられる. |
1905 | アルバータとサスカチェワンが州になる. |
1931 | ウェストミンスター憲章により,イギリスの自治領に完全な自治があたえられる. |
1947 | カナダとイギリスは,連合王国内で同等の地位をもつことになる. |
1949 | カナダは北大西洋条約機構の設立メンバーとなる.イギリスはニューファンドランドをカナダへ返還. |
1965 | それまでのイギリス色の濃い国旗に代わり,楓の葉のデザインの国旗ができる. |
1967 | モントリオールで万国博覧会が開かれ,イギリスではないカナダとしての自覚が生まれる. |
1968 | ケベックの完全な独立を勝ちとることを目的に,ケベック党が組織される. |
1970 | ケベック独立を訴える急進的分離独立主義のグループ,ケベック解放戦線がイギリスの商務官を誘拐,ケベックの大臣を殺害. |
1982 | カナダは完全な自由を得る.イギリスからすべての法的権利が移行された後,新憲法が制定される. |
1984 | ピエール・トルドー首相が引退し,次の選挙で進歩保守党のブライアン・マルルーニーが勝利. |
1992 | カナダ,アメリカ,メキシコが,北米自由貿易協定に調印する. |
1993 | マルルーニーが進歩保守党党首を辞任.その後をキム・キャンベルがカナダ初の女性首相として引き継いだ.しかしその数ヶ月後,首相はジャン・クレティエンに代わる. |
1995 | ケベックの州民投票で,わずか1%の差で独立が否決される. |
1998 | ケベックの大多数の住民が独立を望む場合,連邦政府の許可があって初めて独立できることを,カナダ最高裁が定めた. |
1999 | ヌナブトが準州になる.住民の多くが先住民族である準州として最初. |
2003 | トロントで,東南アジア以外で最大のSARS(新型肺炎)の大発生. |
2003 | ケベック州選挙で自由党がケベック党を破り,独立賛成派の党による支配が終わる. |
2003 | ジャン・クレティエンが10年間努めた首相の座を引退.後任はポール・マーティン. |
2006 | 保守党がカナダ政府の支配権を握る.スティーブン・ハーパーが首相に就任. |
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