17世紀のイングランドの海軍大臣 Samuel Pepys (1633--1703) は,1660--69年ロンドンでの出来事を記録した日記 The Diary of Samuel Pepys で知られる.1665--66年にロンドンを襲った腺ペスト (The Great Plague) についても,不安をもって記録している.関連する箇所をいくつか抜き出そう.
Sunday 30 April 1665 . . . . Great fears of the sickenesse here in the City, it being said that two or three houses are already shut up. God preserve as all!
Sunday 7 June 1665 . . . . This day, much against my will, I did in Drury Lane see two or three houses marked with a red cross upon the doors, and "Lord have mercy upon us" writ there; which was a sad sight to me, being the first of the kind that, to my remembrance, I ever saw. It put me into an ill conception of myself and my smell, so that I was forced to buy some roll-tobacco to smell to and chaw, which took away the apprehension.
Sunday 10 June 1665 . . . . In the evening home to supper; and there, to my great trouble, hear that the plague is come into the City (though it hath these three or four weeks since its beginning been wholly out of the City) . . . .
Saturday 16 September 1665 . . . . At noon to dinner to my Lord Bruncker, where Sir W. Batten and his Lady come, by invitation, and very merry we were, only that the discourse of the likelihood of the increase of the plague this weeke makes us a little sad, but then again the thoughts of the late prizes make us glad.
上の3つめの引用にあるとおり,ペストがシティに入ってきたのは6月10日頃である.6月下旬には,ロンドン市長と市参事会の連名でペスト条例が公布されている.当時のロンドンの人口は25万人ほどという説があるが,その1/5ほどがわずか1年のあいだに腺ペストに倒れたというから,その勢いは凄まじい(蔵持,pp. 219--226).ペストは翌1666年には下火になっていたものの,くすぶってはいた.ペストが完全に制圧されたのは,皮肉にも9月2日のロンドン大火によってだった.その日の Pepys の日記 (Sunday 2 September 1666) も参照されたい.
・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.
昨日の記事「#3059. ベンガル語の必修化を巡るダージリンのストライキ」 ([2017-09-11-1]) で Darjeeling について取り上げたので,関連して tea の話題を.「#2934. tea とイギリス」 ([2017-05-09-1]) で見たように,英語における tea の初出は1655年である.The Diary of Samuel Pepys より1660年9月25日の記録を引こう.tea が舶来の飲み物としてはやり始めた頃だったとわかる.
Tuesday 25 September 1660 . . . . To the office, where Sir W. Batten, Colonel Slingsby, and I sat awhile, and Sir R. Ford coming to us about some business, we talked together of the interest of this kingdom to have a peace with Spain and a war with France and Holland; where Sir R. Ford talked like a man of great reason and experience. And afterwards I did send for a cup of tee (a China drink) of which I never had drank before, and went away.
17世紀後半から18世紀にかけて,tea は洗練された嗜みとして庶民にも拡がっていき,コーヒーを追い抜いていくことなる.tea の人気振りは,関連する食器や家具などを表わす複合語が次々と現われた事実からも見て取ることができるだろう.Crystal (370) から,例を初出年とともに拾ってみよう.
tea-pot (1662), tea-spoon (1666), tea-table (1688), tea-house (1689), tea-water (1693), tea-cup (1700), tea-room (1702), tea-equipage (1702), tea-dish (1711), tea-canister (1726), tea-tongs (1738), tea-time (1741), tea-shop (1745), tea-things (1747), tea-treats (1748), tea-box (1758), tea-saucer (1761), tea-visit (1765), teaware (1766), tea-cloth (1770), tea-tray (1773), tea-set (1786), tea-urn (1786)
・ Crystal, David. The Stories of English. London: Penguin, 2005.
tea とイギリスは,私たちのイメージのなかで分かち難く結びついている.茶はヨーロッパの近代において熱烈に流行した輸入品であり,その語源や語誌もよく知られている.『英語語源辞典』によると次のようにある.
1599年ポルトガル人によってヨーロッパにはじめて導入された名称は cha.この Port. cha は英語では16C末の文献に,chaa (1598) として,フランス語では1607年に chia, tcha として借入されたが,フランス語ではまもなく英語と同様 Malay 経由の thé を用いるようになった.また Russ. chaĭ は直接中国標準語から借入したものである.ヨーロッパ諸語に多い厦門方言形は,最初その貿易をほとんど一手に引き受けていた東インド会社などのオランダ人を通じたものと考えられる.17--18Cの英語に見られる té, thé, tay /téi/ などは F thé の影響を示している.
つまり,cha 系統の形態は1598年にすでに見られるが,tea 系統での初例は17世紀も半ばの1655年になってからのことである.17世紀半ばには,茶はすでにイギリスでも人気を博しつつあったことが,Samuel Pepys (1633--1703) の日記 The Diary of Samuel Pepys の記載からわかる(日記の該当箇所はこちら).
しかし,17世紀半ばにイングランドで群を抜いて好評を博していた流行の飲み物といえば,むしろコーヒーだった.コーヒーハウスの流行によりコーヒーはその後も1世紀の間,時代を時めく社交ドリンクであり続けた.ところが,18世紀半ばには,コーヒーに代わって茶が習慣的に愛飲されるようになった.このコーヒーから茶への変わり身は何故か.これまで様々な説が提案されてきた.竹田 (176--78) は次のように諸説を提示し,評価している.
イギリスが“紅茶の国”になった理由には諸説ある.(1) 飲料水の性質(カルシウムなどを多量に含んだ硬水),(2) 紅茶に対する高い関税が引き下げられた,(3) 女王メアリー二世や妹のアン女王が紅茶を好んだ,(4) 富裕層を中心にアフタヌーン・ティーの習慣が広まった,(5) コーヒーが男性の飲み物であったのに対して,紅茶は女性に浸透して家庭の飲み物になった,などである.しかしオランダ東インド会社の台頭を前に,価格面におけるモカ・コーヒー貿易の比較優位性が失われ,イギリスは新たな利益の追求対象として中国茶貿易の独占を思い描くようになったという実利性に基づく政策転換が,その一番の理由であると考える.
さらに竹田 (177--78) は,イギリスにおける喫茶習慣の定着について,次のように述べている.
イギリス人が紅茶を飲む習慣を身につけたのは,一七世紀後半という説が一般的だ.イギリス国王チャールズ二世が一六六二年,ポルトガル王室から迎え入れた王女キャサリン・オブ・ブラガンザと結婚したことがきっかけで,紅茶文化が誕生したという.
父親のチャールズ一世が処刑された後,王政復古を経て息子のチャールズ二世がイギリス国王として復活し,ヨーロッパ王室で屈指のポルトガルから王家の血を導入したのである.イギリス王妃となったキャサリンは,宮廷の生活で高価な紅茶を楽しみ,さらにポルトガルから持参金の一部として自ら持ち込んだ希少価値の砂糖を混ぜるなど,紅茶と砂糖を嗜む宮廷文化を創造し,イギリス王室に新風を吹き込む立役者となった.
紅茶を飲む作法がこれを機会に,貴族階級において瞬く間に広がったと伝えられている.紅茶が持つ高級感は,こうした貴族文化に起因する.キャサリンというブランド名を考案し,日本国内で販売された紅茶は,キャサリン王妃の名前に由来する.
このように喫茶のきっかけは貴族文化にあったようだが,東インド会社の貿易商たちは,これに乗じてイギリス全体を「紅茶の国」として演出する作戦に乗り出したというわけである.
tea という語にまつわる英語史のこぼれ話は,オックスフォード大学の英語史学者 Simon Horobin による A history of English . . . in five words を参照.tea の母音部の発音と脚韻の歴史については,こちらのコラムも参照.
・ 竹田 いさみ 『世界史をつくった海賊』 筑摩書房,2011年.
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