標題の諺は「アダムが耕しイヴが紡いだとき,だれがジェントルマンであったのか」を意味する.14世紀後半のイングランドでは,英仏百年戦争 (hundred_years_war) と黒死病 (black_death) により人々が窮乏生活にあえいでいた.そんな中,1381年に農民一揆 (Peasants' Revolt) が勃発した.この一揆は,すぐに Richard II により鎮圧されたが,英語の復権にあずかって力があった事件として英語史上にも名を残している.
この農民一揆の指導者の1人が John Ball (d. 1381) である(もう1人が Wat Tyler (d. 1381)).Ball は聖職者だったが,階級社会を批判する説教をしたとして破門されていた.彼はロンドンの Blackheath で標題の文句を唱え,群衆を扇動して一揆へ駆り立てたとされる.後に Ball は審問され絞首刑となった.その後500年の時が流れ,19世紀後半の詩人・工芸美術家の William Morris (1834--96) が,社会主義の主張を込めて小説 A Dream of John Ball (1888) を著わし,Ball を有名にした.諺としては,後期中英語から近代英語にかけて知られていたようである.
delve は現代英語では「掘り下げる,徹底的に調べる」を意味し,This biography delves deep into the artist's private life. や If you're interested in a subject, use the Internet to delve deeper. のように用いる.しかし,古英語の語源形 delfan は文字通り「掘る;耕す」の意味で,現代の比喩的な語義が発達したのは17世紀半ばのことである.
農民一揆という歴史的事件から生まれた諺として記憶しておきたい.
・ Speake, Jennifer, ed. The Oxford Dictionary of Proverbs. 6th ed. Oxford: OUP, 2015.
先日の記事「#4338. 講座「英語の歴史と語源」の第9回「百年戦争と黒死病」のご案内」 ([2021-03-13-1]) でお知らせしたように,3月20日(土)の15:30?18:45に,朝日カルチャーセンター新宿教室にて「英語の歴史と語源・9 百年戦争と黒死病」を開講しました.数ヶ月に一度,ゆっくり続けているシリーズですが,いよいよ中世も終わりに近づいて来ました.
今回も厳しいコロナ禍の状況のなかで参加していただいた皆さんには感謝致します.熱心な質問やコメントもたくさんのいただき,ありがとうございました.
今回は,黒死病が重要テーマの1つということもあり,タイムリーを狙って「[特別編]コロナ禍と英語」という話題から始めました.その後,14--15世紀の2大事件ともいえる百年戦争 (hundred_years_war) と黒死病 (black_death) を取り上げ,その英語史上の意義を論じました.このような歴史上の大事件は,確かに後世の私たちにも強烈な印象を与えますが,その時代までに醸成されていた歴史の潮流を後押しする促進剤にすぎず,必ずしも事件そのものが本質的で決定的な役割を果たすわけではないと議論しました.現在のコロナ禍も大きな社会変化を引き起こしていると言われますが,本当のところは,既存の潮流を促進しているという点にこそ歴史上の意義があるのかもしれません.
今回の講座で用いたスライドをこちらに公開しておきます.以下にスライドの各ページへのリンクも張っておきます.
1. 英語の歴史と語源・9 「百年戦争と黒死病」
2. 第9回 百年戦争と黒死病
3. 目次
4. 1. [特別編]コロナ禍と英語
5. OED の特集記事
6. 2. 英語の地位の低下と復権(1066?1500年)
7. 英語の復権の歩み (#131)
8. 3. 百年戦争 (Hundred Years War)
9. 百年戦争前後の略年表
10. 百年戦争と英語の復権
11. 4. 黒死病 (Black Death)
12. 黒死病の社会(言語学)的影響 (1)
13. 黒死病と社会(言語学)的影響 (2)
14. 英語による教育の始まり (#1206)
15. 実は当時の英語(中英語)は繁栄していた
16. 黒死病は英語の復権に拍車をかけたにすぎない
17. まとめ
18. 参考文献
次回のシリーズ第10回は2021年5月29日(土)の15:30?18:45を予定しています.印欧祖語から始まった講座も,いよいよ近代に突入します.お題は「大航海時代と活版印刷術」です.この話題について,再び皆さんと議論できればと思います.講座の詳細はこちらからどうぞ.
来週3月20日(土)の15:30?18:45に,朝日カルチャーセンター新宿教室にて「英語の歴史と語源・9 百年戦争と黒死病」と題してお話しします.関心のある方は是非お申し込みください.趣旨は以下の通りです.
14世紀のイングランドは,英仏百年戦争 (1337--1453年) の勃発と,それに続く黒死病の蔓延(1348年の第一波)など数々の困難に見舞われました.これらの社会的な事件は,ノルマン征服以来定着していたフランス語による支配を転換させ,英語の復権を強く促す契機となりました.いよいよ英語はイングランドの国語という地位へと返り咲き,近代にかけて勢いを増していくことになります.標題の歴史的大事件のもつ英語史上の意義を考えてみたいと思います.
とりわけ黒死病が英語に与えたインパクトという問題に注目します.目下,新型コロナウィルスにより世界中の政治,経済,社会が大きな影響を受けていますが,英語をはじめとする諸言語もまたその影響下にあり,変容を余儀なくされています.疫病と言語の関わりは一般に思われているよりもずっと深いのです.650年ほど前にヨーロッパを襲った疫病は,いかにして英語とその歴史に衝撃を与えたのか.この問題について,一緒に検討していきたいと思います.同時に,目下の新型コロナウィルスと英語に関する話題も盛り込む予定です.
本ブログでも百年戦争 (hundred_years_war) や黒死病 (black_death) について幅広く扱ってきましたので,各記事をご覧ください.
新型コロナウィルス (COVID-19) が世界中で大流行しています.一刻も早く事態が終息することを願っています.英語史ブログ運営者としては,この時節に及んで中世ヨーロッパにもたらされた災禍である黒死病 (black_death) に触れないわけにはいきません.あえてこの話題を取り上げる次第です.
とはいえ,新しいことは何もありません.本ブログでは,英語史における黒死病の意義についてすでに多くの記事で検討してきました.以下にリンクを張りましたので,ぜひ関連する記事をご一読ください.とりわけお薦めは「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]) です.これは,2017年9月2日に朝日カルチャーセンター新宿教室で開いた「講座 歴史の動きと英語の変化」の第3回として「黒死病と英語」の題目の下で話した内容にもとづいています.エッセンスのみを記載していますが,ポイントは押さえているはずです.
・ 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1])
・ 「#139. 黒死病と英語復権の関係について再々考」 ([2009-09-13-1])
・ 「#144. 隔離は40日」 ([2009-09-18-1])
・ 「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1])
・ 「#2990. Black Death」 ([2017-07-04-1])
・ 「#3053. 黒死病により農奴制から自由農民制へ」 ([2017-09-05-1])
・ 「#3054. 黒死病による社会の流動化と諸方言の水平化」 ([2017-09-06-1])
・ 「#3055. 黒死病による聖職者の大量死」 ([2017-09-07-1])
・ 「#3056. 黒死病による人口減少と技術革新」 ([2017-09-08-1])
・ 「#3057. "The Pardoner's Tale" にみる黒死病」 ([2017-09-09-1])
・ 「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1])
・ 「#3061. 誤用と正用という観念の発現について」 ([2017-09-13-1])
・ 「#3062. 1665年のペストに関する Samuel Pepys の記録」 ([2017-09-14-1])
・ 「#3065. 都市化,疫病,言語交替」 ([2017-09-17-1])
・ 「#3196. 中英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-26-1])
・ 「#3212. 黒死病,死の舞踏,memento mori」 ([2018-02-11-1])
・ 「#3780. Foley による「標準英語の発展」の記述」 ([2019-09-02-1])
1348年に初めてイギリスに飛び火した黒死病は,1066年のノルマン征服により下落していた英語の地位を回復するのにあずかって大きかったとするのが英語史の通説です.逆にいえば,もし黒死病が起こらなかったらば,英語は近代の入り口までにイングランドの国語としての地位を回復できなかった,あるいは回復したとしてももっと遅かっただろうという結論になります.さらに想像力をたくましくすれば,後の英語の世界的展開もなかった,あるいは遅れた,あるいは異なる形をとっていた,ということにもなり得ます.そうであれば,読者の皆さんも英語など学んでいなかったかもしれませんし,この英語史ブログも存在しなかったかもしれません.
上記の通説は英語史の一面を正しくとらえた説であると私も考えています.一方で黒死病の流行は世界史上著名な事件としてあまりによく知られているだけに,その効果や意義が過大評価されやすいという側面もあるのではないかと(自戒を込めて)考えています.英語復権 (reestablishment_of_english) の歩みは,ノルマン征服直後より始まっており,その後ゆっくりとではあるものの着実に進んでいたというのが歴史的事実です.黒死病はそのような従来の緩慢な傾向に,14世紀半ばというタイミングで拍車をかけたということでしょう.黒死病は英語の復権に一役買ったとはいえ,あくまで多数の要因の1つだったという解釈が妥当でしょう.
では,その他の多数の要因とは何でしょうか.これについては,英語の復権に関する reestablishment_of_english の記事群を読んでいただければと思います.そのなかでとりわけ重要な記事にのみ,以下にリンクを張っておきます.
・ 「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1])
・ 「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1])
・ 「#139. 黒死病と英語復権の関係について再々考」 ([2009-09-13-1])
・ 「#706. 14世紀,英語の復権は徐ろに」 ([2011-04-03-1])
・ 「#1207. 英語の書き言葉の復権」 ([2012-08-16-1])
・ 「#1821. フランス語の復権と英語の復権」 ([2014-04-22-1])
・ 「#2334. 英語の復権と議会の発展」 ([2015-09-17-1])
・ 「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1])
・ 「#3894. 「英語復権にプラス・マイナスに貢献した要因」の議論がおもしろかった」 ([2019-12-25-1])
私たちが普段学び,用いている標準英語 (Standard English) が,歴史上いかに発展してきたかという話題は,英語史の最重要テーマの1つであり,本ブログでも standardisation の記事を中心に様々に取り上げてきた(とりわけ「#3231. 標準語に軸足をおいた Blake の英語史時代区分」 ([2018-03-02-1]),「#3234. 「言語と人間」研究会 (HLC) の春期セミナーで標準英語の発達について話しました」 ([2018-03-05-1]) を参照).
英語の標準化の歴史は,どの英語史の概説書でも必ず取り上げられる話題だが,人類言語学の概説書を著わした Foley の書いている "The Development of Standard English" という1節が,すこぶるよい文章である.要点を押さえながら,教科書的な標準英語の発展を非常に上手にまとめている.3ページ弱にわたるので,引用するのにも決して短くはないが,授業の講読の題材としても使えそうなので,PDFでこちらに用意しておく.
この記述がすぐれている点の1つは,標準英語のベースとなるロンドン英語が諸方言の混合物であることについて,歴史的経緯を分かりやすく説明してくれていることだ.もともと南部方言的な要素を多分に含んでいたロンドンの英語が,14--15世紀のあいだに,経済的に繁栄していた中東部からの人口流入を受けて中部方言的な要素を獲得した.ここには,14世紀後半からの黒死病に起因する人口流動性の高まりも相俟っていたろう.さらに,15世紀中には,羊毛製品で経済的に潤った北部方言の話者も,多くロンドンの上流層へ流れ込み,結果として,諸方言の混合としてのロンドン英語が成立した.そして,これが後の標準英語の母体となっていったのである.
もう1つ注目すべきは,英語史に限定されない一般的な立場から,言語の標準化の3つの条件を提示して議論を締めくくっている点である.1つは,経済的・政治的に有力な地域の言語・方言が標準語の土台となるということ.もう1つは,その言語・方言がエリート集団のものであること.最後に,文学伝統をもった言語・方言が標準語の土台となりやすいことだ.この下りだけでも,以下に直接引用しておきたい.
To summarize, the rise of Standard English . . . exhibits a number of important general points about the how and whys of language standardization: first, if economic and political power is centralized in a particular area, the language of that area has a strong likelihood of being the basis of the standard, as the center imposes its hold upon the periphery (Standard French based on the Parisian dialect is another example of this); second, the standard is likely to be based on the speech of economically and politically powerful social groups, the elite, as their speech becomes imposed upon or diffused to lower status groups; ability to speak this dialect now becomes emblematic of higher social standing and thus a desirable skill, a kind of symbolic resource further empowering the elite, who may control access to the dialect through the education system, as is clearly the case in most modern nation-states; and third, a language or dialect which is the basis of literate forms and other cultural activities is a strong candidate for an imposed standard (Standard Italian based on the Tuscany dialect of Dante exemplifies this). (Foley 403)
・ Foley, William A. Anthropological Linguistics: An Introduction. Malden, MA: Blackwell, 1997.
英語死における黒死病 (black_death) の意義について,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]),「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1]),「#139. 黒死病と英語復権の関係について再々考」 ([2009-09-13-1]),「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]) をはじめとする諸記事で考えてきた.
14世紀半ばの黒死病の到来は中世ヨーロッパの死生観を変え,「死の舞踏」 (dance of death, danse macabre) のモチーフの流行をもたらすなど,文化史や社会史において甚大な影響を及ぼしたとも言われるが,松田の近著『煉獄と地獄』によれば,正確には「死の普遍性を再認識する契機となった」と捉えるべきだろうという.死の普遍性という捉え方は,古今東西,それこそ普遍的であり,特に中世のヨーロッパに特有のはずはない.むしろ,黒死病はその普遍的な言説のなかに取り込まれていったとみるべきではないか.松田 (19--20) を引用する.
こうした〔黒死病の〕光景は一四世紀のヨーロッパの多くの都市に共通して見られ,死の普遍性を再認識する契機となったことだろう.一五―一六世紀に「死の舞踏」の壁画がシチリアからイングランド北部に至るまで広く人気を博した背景には,この悲惨な共通体験があったとヨハン・ホイジングは『中世の秋』(一九一九年)で指摘した.両者を直接の因果関係で結びつけることは短絡的だとしても,「死の舞踏」にはドリュモーが指摘した「神罰の様相,死の攻撃の凶暴さ,貧富老若を問わぬ死の平等性」というペストの三つの特徴がそのままあてはまると感じられたことは想像に難くない.
ペストという共通体験は,死の文学における地域性を見えにくくしていると言えるかもしれない.しかし,本書で扱う中世後期のポピュラーな死の文学ジャンルやモチーフ――現世蔑視,三人の生者と三人の死者,往生術,死語世界探訪譚,死の舞踏など――は,いずれも特定の地域に限定されたものではなく,少なくとも西ヨーロッパの複数の言語で同時的に見られるものばかりである.文学史的な見方をするならば,死の文学に関しては聖書にまで遡るモチーフや比喩の伝統が確立していて,ペストといえどもその受け継がれてきた表現形態や機能を大きく変革することはなかったと考えることができる.実際,ペストが神に対する絶望のような神学的問題を引き起こすことは稀で,むしろ原因追及の矛先は,中世の天変地異の解釈がしばしばそうであったように,人間の道徳的堕落へと向けられた.ペストは死神を介して与えられた神罰であり,その衝撃は最終的に教化という死の文学の機能のなかに吸収されて,予定調和的に処理されたと言えるだろう.
上でみたように,黒死病と「死の舞踏」のモチーフの流行の間に直接の因果関係があるかどうかは別として,後者は中世から近代にかけてのヨーロッパの死生観をヴィジュアルに示したものとして際立っている.松田 (223) によれば,
この死の遍在性を端的に視覚化したモチーフとして,中世の終わりから近代初期にかけて流行した「死の舞踏」がある.「死の舞踏」とは,腐乱あるいは白骨化した屍がさまざまな階級や職業,年齢の生者の手を取って,ときに踊るようなステップであの世へと誘う姿を描いたもので,屍と生者が一組となって通常三〇組ほどの列を成す.パリのイノサン墓地の四方を取り囲む納骨堂の回廊に一四二四年に描かれた一連の壁画を嚆矢とするとされ,一五世紀から一六世紀にかけてヨーロッパ各地で製作された.現在でもフランス,イタリア,ドイツの教会を中心にかなりの数が保存されている.
黒死病以降の人々にとって,死はこれまで以上に身近になり,いまわの際にのみ恐れおののく対象ではなく,日頃から意識すべき対象,つまり memento mori そのものとなった.これを松田は,終章の副題として「薄く引き延ばされた死」と表現している.
死は人間にとって普遍的ではあるが,その扱い方は文化によっても時代によっても変異するし,変化もする.中英語期から初期近代英語期の各世紀のコーパスで,「死」,「死」の類義語,「死」と関連するキーワード等を分析し,通時比較してみると,死のモチーフの流行度の推移が測れたりするかもしれない.文化研究を念頭においた語彙調査の対象としておもしろそうだ.
・ 松田 隆美 『煉獄と地獄 ヨーロッパ中世文学と一般信徒の死生観』 ぷねうま舎,2017年.
「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1]) に引き続き,中英語期の主要な出来事の年表を,Algeo and Pyles (123--24) に拠って示したい,
1066 | The Normans conquered England, replacing the native English nobility with Anglo-Normans and introducing Norman French as the language of government in England. |
1204 | King John lost Normandy to the French, beginning the loosening of ties between England and the Continent. |
1258 | King Henry III was forced by his barons to accept the Provisions of Oxford, which established a Privy Council to oversee the administration of the government, beginning the growth of the English constitution and parliament. |
1337 | The Hundred Years' War with France began and lasted until 1453, promoting English nationalism |
1348--50 | The Black Death killed an estimated one-third of England's population, and continued to plague the country for much of the rest of the century |
1362 | The Statute of Pleadings was enacted, requiring all court proceedings to be conducted in English. |
1381 | The Peasants' Revolt led by Wat Tyler was the first rebellion of working-class people against their exploitation; although it failed in most of its immediate aims, it marks the beginning of popular protest. |
1384 | John Wycliffe died, having promoted the first complete translation of scripture into the English language (the Wycliffite Bible). |
1400 | Geoffrey Chaucer died, having produced a highly influential body of English poetry. |
1476 | William Caxton, the first English printer, established his press at Westminster, thus beginning the widespread dissemination of English literature and the stabilization of the written standard. |
1485 | Henry Tudor became king of England, ending thirty years of civil strife and initiating the Tudor dynasty. |
マクニールは著書『疫病と世界史』のなかで,都市を中心とする文明は疫病とそれによる人口減少の脅威にさらされており,都市機能の維持のために常に周辺からの人口流入を必要とすると述べている (116) .
まず第一にこの上なく明白なことは,人的資源の再生産構造が,文明という環境を利用してはびこる病気との絶えざる接触からくる人口の恒常的な減少傾向に,対応するものとならねばならなかったということである.都市というものは,ごく最近まで,周囲の田園地帯から相当な数の流民を絶えず受け入れていなければ,その成員数を維持してゆくことができなかった.ともかく,都市生活は住民の健康にとってそれほど危険が大きかったのだ.
周辺部から都市への人口の流入により,ときには都市において言語交替 (language_shift) が起こってきたともいう.例えば,古代メソポタミアで紀元前3000--2000年のあいだに,セム語人口が従来のシュメール語人口を置き換えたケースについて,次のように述べている.「恐らくこの種の人口移動の直接の結果である.推測するに,セム語を話す民衆が大量にシュメールの諸都市に流れ込んだので,古い言語を話す住民を圧倒してしまったのだ.〔中略〕この言語交代の要因としてまず考えられるのは,都市の急激な膨張であり,さらに可能性が強いのは病気,戦争,飢餓等による都市住民の異常な現象である.」 (マクニール,p. 118).
マクニール (119) は,19世紀の東欧からも例を引いている.
およそ一八三〇年代以降そして特に一八五〇年以後,都市の急速な膨張と新種の疫病であるコレラの蔓延という二つの要因が相まって,ハプスブルク帝国に永年の間確立していた文化的構造が崩壊するに到った.ボヘミアとハンガリーの町々に移り住んだ農民は改めてドイツ語を習得しようとするのが長い間の習慣だった.彼らの子孫は,二,三世代後には,言語においても意識においてもドイツ人になりきってしまう.十九世紀に入るとこのプロセスが崩れ始める.帝国内の諸都市に移住したスラブ語とハンガリー語を話す住民の数がある線を越えたとき,新来者が日常用語としてドイツ語を習得する必要はなくなった.やがて,民族主義的理念が根を下ろし,ドイツ的であることは非愛国的とみなされるに到る.その結果,わずか半世紀のうちに,プラハはチェコ語,ブダペストはハンガリー語が使用される都市に変わったのである.
異なる言語を話す人々が何らかの人口移動により共存するようになると,そこに人口統計学的,社会言語学的なダイナミズムが生まれ,言語交替が起こるということは,自然のことだろう.しかし,「何らかの人口移動」とは,征服や植民地化などに伴うものばかりではなく,疫病による人口減少の埋め合わせであるとか,技術革新にアクセスするための都市への引きつけであるとか,様々なタイプのものがありうる.マクニールは,それらのなかで疫病の流行に関わるものが歴史の普遍的なパラメータの1つであると力説している.
・ ウィリアム・H・マクニール(著),佐々木 昭夫(訳) 『疫病と世界史 上・下』 中央公論新社〈中公文庫〉,2007年.
17世紀のイングランドの海軍大臣 Samuel Pepys (1633--1703) は,1660--69年ロンドンでの出来事を記録した日記 The Diary of Samuel Pepys で知られる.1665--66年にロンドンを襲った腺ペスト (The Great Plague) についても,不安をもって記録している.関連する箇所をいくつか抜き出そう.
Sunday 30 April 1665 . . . . Great fears of the sickenesse here in the City, it being said that two or three houses are already shut up. God preserve as all!
Sunday 7 June 1665 . . . . This day, much against my will, I did in Drury Lane see two or three houses marked with a red cross upon the doors, and "Lord have mercy upon us" writ there; which was a sad sight to me, being the first of the kind that, to my remembrance, I ever saw. It put me into an ill conception of myself and my smell, so that I was forced to buy some roll-tobacco to smell to and chaw, which took away the apprehension.
Sunday 10 June 1665 . . . . In the evening home to supper; and there, to my great trouble, hear that the plague is come into the City (though it hath these three or four weeks since its beginning been wholly out of the City) . . . .
Saturday 16 September 1665 . . . . At noon to dinner to my Lord Bruncker, where Sir W. Batten and his Lady come, by invitation, and very merry we were, only that the discourse of the likelihood of the increase of the plague this weeke makes us a little sad, but then again the thoughts of the late prizes make us glad.
上の3つめの引用にあるとおり,ペストがシティに入ってきたのは6月10日頃である.6月下旬には,ロンドン市長と市参事会の連名でペスト条例が公布されている.当時のロンドンの人口は25万人ほどという説があるが,その1/5ほどがわずか1年のあいだに腺ペストに倒れたというから,その勢いは凄まじい(蔵持,pp. 219--226).ペストは翌1666年には下火になっていたものの,くすぶってはいた.ペストが完全に制圧されたのは,皮肉にも9月2日のロンドン大火によってだった.その日の Pepys の日記 (Sunday 2 September 1666) も参照されたい.
・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.
ここ数日間,英語史上にもインパクトのあった黒死病 (black_death) について集中的に考えてきた.関連して蔵持著『ペストの文化誌』を読んでいたときに,衛生観念と言語の正誤の観念に似ている側面があることに気づいた.
蔵持 (326) によれば,清潔と不潔という観念が生じたのはルネサンス以降であり,その対立の秩序,すなわち衛生観念が本格的に現われたのは18世紀中葉から19世紀初頭だろうという.その議論で,次のように述べている (325) .
象徴人類学者のメアリー・ダグラスによれば,「汚れとは,絶対に唯一かつ孤絶した事象ではありえない.つまり,汚れがあるところには必ず体系が存在するのだ.秩序が不適当な要素の拒否を意味するかぎりにおいて,汚れとは事物の体系的秩序づけと分類との副産物」だという.ありていにいえば,汚れもまた,それが不潔なものとして除去されるには,汚れを忌避すべきものと意味づけする,集団的ないし個人的な清潔への意識の秩序が存在しなければならない.時には,清浄=祓穢という優れて儀礼的なカタルシスに突き動かされた,感性と想像力の秩序が不可欠ともなる.
汚れを汚れと感じるためには,対置される清潔に対する感受性が必要である.不潔と清潔は「衛生観念」という秩序のもとで常にペアである.これは構造主義の発想そのものだ.
同じことは,文法や語法の正誤についても言える.誤りを誤りと感じるためには,対置される正用に対する感受性が必要である.誤りと正しさは「言語的衛生観念」という秩序のもとで常にペアである.
英語の文法や語法の正誤の観念が明確に現われたのは,奇しくも18世紀中葉から19世紀初頭,次々と規範文法書が出版された時代である.それより前の時代には,明確な意味での言語上の「誤用」と「正用」はなかったといってよい.文法の「誤り」とは,18世紀の文法書が生み出した「不潔」のことだったのである.
・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.
ここ数日,集中的に英語史における黒死病の意義を考えてきた.これまで書きためてきた black_death の記事を総括する意味で「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド (HTML) を作ってみたので,こちらよりご覧ください.
13枚からなるスライドで,目次は以下の通り.
1. 英語史における黒死病の意義
2. 要点
3. 黒死病 (Black Death) とは?
4. ノルマン征服による英語の地位の低下
5. 英語の復権の歩み (#131)
6. 黒死病の社会(言語学)的影響 (1)
7. 黒死病と社会(言語学)的影響 (2)
8. 英語による教育の始まり (#1206)
9. 実は中英語は常に繁栄していた
10. 黒死病は英語の復権に拍車をかけたにすぎない
11. 村上,pp. 176--77
12. まとめ
13. 参考文献
HTML スライドなので,そのまま hellog 記事にリンクを張ったり辿ったりでき,とても便利.英語史スライドシリーズとして,ほかにも作っていきたい. * *
中英語文学における黒死病の表象は様々あるが,Chaucer の The Canterbury Tales の "Pardoner's Tale" より,pestilence が Deeth と同一視されながら言及されている箇所を引こう.黒死病以後の強烈な memento mori の強迫観念,あるいは黒死病が死(神)のイメージと重ね合わされていることが,よく感じられるくだりである.Riverside Chaucer より関連箇所 (ll. 661--91) を引く.
Thise riotoures three of whiche I tell,
Longe erst er prime rong of any belle,
Were set hem in a taverne to drynke,
And as they sat, they herde a bell clynke
Biforn a cors, was caried to his grave.
That oon of hem gan callen to his knave:
"Go bet," quod he, "and axe redily
What cors is this that passeth heer forby;
And looke that thou reporte his name weel."
"Sir," quod this boy, "it nedeth never-a-deel;
It was me toold er ye cam heer two houres.
He was, pardee, an old felawe of youres,
And sodeynly he was yslayn to-nyght,
Fordronke, as he sat on his bench upright.
There cam a privee theef men clepeth Deeth,
That in this contree al the peple sleeth,
And with his spere he smoot his herte atwo,
And wente his wey withouten wordes mo.
He hath a thousand slayn this pestilence.
And, maister, er ye come in his presence,
Me thynketh that it were necessarie
For to be war of swich an adversarie.
Beth redy for to meete hym everemoore;
Thus taughte me my dame; I sey namoore."
"By Seinte Marie!" seyde this taverner,
"The child seith sooth, for he hath slayn this yeer,
Henne over a mile, withinne a greet village,
Bothe mam and womman, child, and hyne, and page;
I trowe his habitacioun be there.
To been avysed greet wysdom it were,
Er that he dide a man a dishonour."
物語の主人公である3人の放蕩者が,酔っ払いながら黒死病の象徴である「死」(=伝染病)を探しだそうと決意する場面の描写だ.物語の最後には,彼らも「死」の餌食となる.暗喩に満ちた韻文だが,引用の前半にある黒死病の犠牲者の葬儀の描写は,穏やかならぬリアリズムを感じさせもする.このような描写に特徴づけられる「ペスト文学」は1つの文化といってよく,現実のむごさに比例して精彩を放つものなのだろう.黒死病蔓延の時代背景を理解するために,以下を薦めておきたい.
・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.
・ ジョン・ケリー(著),野中 邦子(訳) 『黒死病 ペストの中世史』 中央公論新社,2008年.
・ ウィリアム・H・マクニール(著),佐々木 昭夫(訳) 『疫病と世界史 上・下』 中央公論新社〈中公文庫〉,2007年.
・ 村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.
英語史における黒死病 (black_death) の意義は,黒死病→人口減少→英語母語話者の社会的台頭→英語の復権といった因果関係の連鎖に典型的にみることができる.しかし,もっと広い視野から歴史の因果関係を考察すると,黒死病→人口減少→賃金上昇→技術革新という連鎖も認められ,この技術革新が間接的に英語の復権をサポートしたという側面もありそうだ.
ケリーが『黒死病 ペストの中世史』のなかの「必要が新しい技術を生む」という節で,次のように述べている (376--77) .
人口減少は技術革新にも大きな影響を及ぼした.労働力が急激に減少したことから,人手を省くための装置の開発が各分野で進み,書籍作りにもその動きが見られた.十三世紀と十四世紀には,商人や大学教育を受けた専門職や職人などの階級が成長したことから,書籍への需要が着実に伸びた.しかし,中世の造本はきわめて労働集約的な作業だった.まず,数人の写字生が手分けして一冊の本を一折りずつ書き写す.労働賃金が安かった黒死病以前の時代には,この方法でも儲けが出たが,黒死病以後の高賃金の時代になると,そうはいかなかった.そこでドイツのマインツに生まれた野心家の若者ヨハネス・グーテンベルクの登場である.大量死の時代からおよそ百年後の一四五三年,グーテンベルクは世界初の印刷機を世に送り出した.
以上より,1世紀ほどの時間幅があるとはいえ,黒死病→人口減少→賃金上昇→技術革新→印刷術の発明,という連鎖が得られた.印刷術の発明の後に続く連鎖については,「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]) と「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]) を参照されたい.黒死病が,最終的には英語の社会的地位の向上につながる.
ケリー (377--79) は,黒死病に起因する技術革新や制度変化が,造本のほか,鉱業,漁業,戦争形態,医療,公衆衛生,高等教育など多くの分野で生じたことを示しており,すでに近代的な科学の方法論を取り入れる素地ができあがりつつあったとも述べている.例えば,高等教育の変化について「ペスト流行後の学問の衰退と聖職者兼教育者の不足」に言及している(ケリー,p. 379).当時の大学の置かれていた状況については「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1]) および「#3055. 黒死病による聖職者の大量死」 ([2017-09-07-1]) を参照.
・ ジョン・ケリー(著),野中 邦子(訳) 『黒死病 ペストの中世史』 中央公論新社,2008年.
連日,黒死病 (black_death) の話題を取りあげている.昨日の記事「#3054. 黒死病による社会の流動化と諸方言の水平化」 ([2017-09-06-1]) では Gooden の英語史読本を参照したが,黒死病を手厚く扱っているもう1つのポピュラーな英語史読本として,Bragg (60--61) を挙げよう.黒死病の英語史における意義に関して特に目新しことを述べているわけではないが,さすがに読ませる書き方ではある.
In 1348 Rattus rattus, the Latin-named black rodent, was the devil in the bestiary. These black rats deserted a ship from the continent which had docked near Weymouth. They carried a deadly cargo, a term that modern science calls Pasteurella pestis, that the fourteenth century named the Great Pestilence and that we know as the Black Death.
The worst plague arrived in these islands, and much, including the language, would be changed radically.
The infected rats scaled out east and then north. They sought out human habitations, building nests in the floors, climbing the wattle and daub walls, shedding the infected fleas that fed on their blood and transmitted bubonic plague. It has been estimated that up to one-third of England's population of four million died. Many others were debilitated for life. In some places entire communities were wiped out. In Ashwell in Hertfordshire, for instance, in the bell tower of the church, some despairing soul, perhaps the parish priest, scratched a short poignant chronicle on the wall in poor Latin. "The first pestilence was in 1350 minus one . . . 1350 was pitiless, wild, violent, only the dregs of the people live to tell the tale."
The dregs are where our story of English moves on. These dregs were the English peasantry who had survived. Though the Black Death was a catastrophe, it set in train a series of social upheavals which would speed the English language along the road to full restoration as the recognised language of the natives. The dregs carried English through the openings made by the Black Death.
The Black Death killed a disproportionate number of the clergy, thus reducing the grip of Latin all over the land. Where people lived communally as the clergy did in monasteries and other religious orders, the incidence of infection and death could be devastatingly high. At a local level, a number of parish priests caught the plague from tending their parishioners; a number ran away. As a result the Latin-speaking clergy was much reduced, in some parts of the country by almost a half. Many of their replacements were laymen, sometimes barely literate, whose only language was English.
More importantly, the Black Death changed society at its roots --- the very place where English was most tenacious, where it was still evolving, where it roosted.
In many parts of the country there was hardly anyone left to work the land or tend the livestock. The acute shortage of labour meant that for the first time those who did the basic work had a lever, had some power to break from their feudal past and demand better conditions and higher wages. The administration put out lengthy and severe notices forbidding labourers to try for wage increases, attempting to force them to keep to pre-plague wages and demands, determined to stifle these uneasy, unruly rumblings. They failed. Wages rose. The price of property fell. Many peasants, artisans, or what might be called working-class people discovered plague-emptied farms and superior houses, which they occupied.
引用中に,聖職者が特にペストの餌食となったことにより,イングランド社会におけるラテン語の影響力が減じたとある.含意として,相対的に大多数の人々の母語である英語が影響力を増したと読める.しかし,聖職者がとりわけ被害を受けたというのが本当なのかどうかについては論争があり,真実は必ずしも明らかにされていない.とはいえ,「聖職者というのは,埋葬に立ち会い,終油の秘蹟をさずけ,あるいは救助活動に身を捧げたりで,患者や死者との接触度が一般人よりもはるかに大きく,それだけ危険度も高かった」(村上,p. 131)というのは,理に適っているように思われる.なお,聖職者は教育者でもあったことも付け加えておこう (cf. 「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1])) .
・ Bragg, Melvyn. The Adventure of English. New York: Arcade, 2003.
・ 村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.
英語史では中世における英語の復権と関連して,たいてい黒死病のことが触れられる.しかし,簡単に言及されるにとどまり,突っ込んだ説明のないものも多い.そのなかで,一般向けの英語史読本を著わした Gooden (67--68) は,黒死病に対して1節を割くほどの関心を示している.読み物としておもしろいので引用しておこう.なお,引用の第2段落の1部は,Black Death の語源と関連して「#2990. Black Death」 ([2017-07-04-1]) でも取りあげた.
The Black Death had a devastating effect on the British Isles, as on the rest of Europe. The population of England was cut by anything between a third and a half. Probably originating in Asia, the plague arrived in a Dorset port in the West country in 1348, rapidly spreading to Bristol and then to Gloucester, Oxford and London. If a rate of progress were to be allotted to the plague, it was advancing at about one-and-a-half miles a day. The major population centres, linked by trading routes, were the most obviously vulnerable but the epidemic had reached even the remotest areas of western Ireland by the end of the next decade. Symptoms such as swellings (the lumps or buboes that characterize bubonic plague), fever and delirium were almost invariably followed within a few days by death. Ignorance of its cause heightened panic and public fatalism, as well as hampering effectual preventive measures. Although the epidemic petered out in the short term, the disease did not go away, recurring in localized attacks and then major outbreaks during the 17th century which particularly affected London. One of them disrupted the preparations for the coronation of James I in 1603; the last major epidemic killed 70,000 Londoners in 1665.
The term 'Black Death' came into use after the Middle Ages. It was so called either because of the black lumps or because in the Latin phrase atra mors, which means 'terrible death', atra can also carry the sense of 'black'. To the unfortunate victims, it was the plague, or, more often, the pestilence. So Geoffrey Chaucer calls it in The Pardoner's Tale, where he makes it synonymous with death. The words survive in modern English even if with a much diminished force in colloquial use: 'He's a pest.' 'Stop plaguing us!' Curiously, although pest in the sense of 'nuisance' has its roots in pestilence, the word pester comes from a quite different source, the Old French empêtrer ('entangle', 'get in the way of').
The impact of the pestilence on English society was profound. Quite apart from the psychological effects, there were practical consequences. Labour shortages meant a rise in wages and more fluid social structure in which the old feudal bonds began to break down. Geographical mobility would also have helped in dissolving regional distinctions and dialect differences.
黒死病による人口減少により,生き残った労働者の賃金が上がり,彼らの社会的地位が上昇するとともに彼らの母語である英語の社会的地位も上昇した,というのが黒死病の英語史上のインパクトと言われる.しかし,引用の最後にあるように,人々が社会的にも地理的にも流動化したという点にも注目すべきである.これにより,人々がますます混交し,とりわけロンドンのような都会では諸方言が水平化してゆく契機となった (cf. dialect levelling) .黒死病は,確かに英語の行く末に間接的な影響を与えたといえるだろう.
・ Gooden, Philip. The Story of English: How the English Language Conquered the World. London: Quercus, 2009.
1348年に起こった黒死病 (black_death) について,本ブログでも何度か取りあげてきた(cf. 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]),「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1]),「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1])).今回は,英語史における黒死病の意義を考えるにあたって,特に農業経済の変化に焦点を当てつつ,広い視野から当時の歴史的背景を紹介したい.
黒死病に関する McDowall (46--47) からの文章を引こう.
Probably more than one-third of the entire population of Britain died, and fewer than one person in ten who caught the plague managed to survive it. Whole villages disappeared, and some towns were almost completely deserted until the plague itself died out.
The Black Death was neither the first natural disaster of the fourteenth century, nor the last. Plagues had killed sheep and other animals earlier in the century. An agricultural crisis resulted from the growth in population and the need to produce more food. Land was no longer allowed to rest one year in three, which meant that it was over-used, resulting in years of famine when the harvest failed. This process had already begun to slow down population growth by 1300.
After the Black Death there were other plagues during the rest of the century which killed mostly the young and healthy. In 1300 the population of Britain had probably been over four million. By the end of the century it was probably hardly half that figure, and it only began to grow again in the second half of the fifteenth century. Even so, it took until the seventeenth century before the population reached four million again.
The dramatic fall in population, however, was not entirely a bad thing. At the end of the thirteenth century the sharp rise in prices had led an increasing number of landlords to stop paying workers for their labour, and to go back to serf labour in order to avoid losses. In return villagers were given land to farm, but this tenanted land was often the poorest land of the manorial estate. After the Black Death there were so few people to work on the land that the remaining workers could ask for more money for their labour. We know they did this because the king and Parliament tried again and again to control wage increases. We also know from these repeated efforts that they cannot have been successful. The poor found that they could demand more money and did so. This finally led to the end of serfdom.
Because of the shortage and expense of labour, landlords returned to the twelfth-century practice of letting out their land to energetic freeman farmers who bit by bit added to their own land. In the twelfth century, however, the practice of letting out farms had been a way of increasing the landlord's profits. Now it became a way of avoiding losses. Many "firma" agreements were for a whole life span, and some for several life spans. By the mid-fifteenth century few landlords had home farms at all. These smaller farmers who rented the manorial lands slowly became a new class, known as the "yeomen". They became an important part of the agricultural economy, and have always remained so.
Overall, agricultural land production shrank, but those who survived the disasters of the fourteenth century enjoyed a greater share of the agricultural economy. Even for peasants life became more comfortable. For the first time they had enough money to build more solid houses, in stone where it was available, in place of huts made of wood, mud and thatch.
黒死病の勃発する1358年より前にも,疫病,人口増加,農地不足はすでに大きな問題となっており,農業経済は行き詰まっていた.農奴制 (serfdom) も持ちこたえられなくなっており,賃金労働者たる自由農民 (yeoman) という新しい身分が出現し始めていた.そこへ黒死病が到来し,生産者人口が激減するに及んで,生き残った生産者の社会的地位が高まった.このようにして,とりわけ自由農民の層が15世紀にかけて存在感と発言力を増していった.そして,彼らの話す言葉こそが,英語だったのである.
McIntyre (15) が述べている通り,"the greater the influence a particular group has within society, the more likely it is that the language spoken by that group will be seen as prestigious."である.英語は,中世イングランドの農業経済の変化(農奴制から自由農民制へ)とともに復権を果たしたといえる.
ただし,黒死病が必ずしも農業経済に直接の影響を及ぼしたわけではない,それは旧来の学説だとする見方も,近年影響力を高めてきているようではあるマクニール(下巻,p. 58 を参照).
・ McDowall, David. An Illustrated History of Britain. Harlow: Longman 1989.
・ McIntyre, Dan. History of English: A Resource Book for Students. Abingdon: Routledge. 2009.
・ ウィリアム・H・マクニール(著),佐々木 昭夫(訳) 『疫病と世界史 上・下』 中央公論新社〈中公文庫〉,2007年.
14世紀半ばにイングランド(のみならずヨーロッパ全域)を襲った Black Death (黒死病; black_death)の英語史上の意義については,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]),「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1]),「#139. 黒死病と英語復権の関係について再々考」 ([2009-09-13-1]) で論じてきた.
この世界史上悪名高い疫病につけられた Black Death という名前は,実は後世の造語である.『英語語源辞典』によると,英語での初例は1758年と意外に遅く,ドイツ語のder schwarze Tod のなぞり (loan_translation) とされる.16世紀よりスウェーデン語で swarta dödhen が,デンマーク語で den sorte död がすでに用いられており,それがドイツ語でなぞられたものが,一般的な疫病の意味でヨーロッパ諸語に借用されたものらしい.14世紀半ばのイギリス史上の疫病を指す用語としての Black Death は,1823年に "Mrs Markham" (Mrs Penrose) が導入し,1833年には医学書で上述のようにドイツ語を参照して使われ出したとされ,それ以前には the pestilence, the plague, great pestilence, great death などと呼ばれていた.
なぜ「黒」なのかという点については,この病気にかかると体が黒くなることに由来すると言われるが,詳細は必ずしも明らかではない.参考までに,Gooden (68) には次のように解説されている.
The term 'Black Death' came into use after the Middle Ages. It was so called either because of the black lumps or because in the Latin phrase atra mors, which means 'terrible death', atra can also carry the sense of 'black'.
・ Gooden, Philip. The Story of English: How the English Language Conquered the World. London: Quercus, 2009.
[2009-09-12-1]の記事「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」で,「黒死病によって年配のフランス語教師たちがいなくなったために,フランス語やラテン語を知らない人びとが英語で発言する機会が増えた」ことが,イングランドにおける英語の復権とフランス語の衰退に貢献したのではないかという論を紹介した.
黒死病の余波に苦しんだ14世紀後半のイングランドの grammar school で,ラテン語を解釈するための媒介言語としてフランス語ではなく英語が用いられるようになったのは,事実である.Oxford でラテン語を教えていた2人の教師 John Cornwall と Pencrich の一種の「教育改革」について,John Trevisa が次の興味深いコメントを残している.Baugh and Cable (150) の引用を再現しよう (from Polychronicon, II, 159 [Rolls Series], from the version of Trevisa made 1385--1387) .
Þis manere was moche i-vsed to fore þe firste moreyn and is siþþe sumdel i-chaunged; for Iohn Cornwaile, a maister of grammer, chaunged þe lore in gramer scole and construccioun of Frensche in to Englische; and Richard Pencriche lerned þat manere techynge of hym and oþere men of Pencrich; so þat now, þe ȝere of oure Lorde a þowsand þre hundred and foure score and fyue, and of þe secounde kyng Richard after þe conquest nyne, in alle þe gramere scoles of Engelond, children leueþ Frensche and construeþ and lerneþ an Englische, and haueþ þerby auauntage in oon side and disauauntage in anoþer side; here auauntage is, þat þey lerneþ her gramer in lasse tyme þan children were i-woned to doo; disauauntage is þat now children of gramer scole conneþ na more Frensche þan can hir lift heele, and þat is harme for hem and þey schulle passe þe see and trauaille in straunge landes and in many oþer places. Also gentil men haueþ now moche i-left for to teche here children Frensche. (150--51)
1349年の黒死病の流行の後,この2人の教師とその影響を受けた他の教師は,フランス語ではなく英語によりラテン語解釈を施すという語学教育へ切り替えた,とある.そして,1385年までにはこの新しい教授法が一般的になっていたことが読み取れる.Trevisa のコメントは,冒頭に要約した論を直接に支持するものではないが,黒死病と教師の欠乏との因果関係,ラテン語教育と媒介言語の問題などについての考察を促してくれる重要な史料である.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 5th ed. London: Routledge, 2002.
黒死病が英語の復興に一役買ったことについては,本ブログで何度か記事にしたが,黒死病に関連して直接の言語的な影響もいくつかあった.その一例として quarantine 「隔離,隔離期間,隔離所,検疫,検疫所」が挙げられる.
語源はラテン語の quadrāgintā 「40」にさかのぼり,「隔離」としてはイタリア語から quarantine という形態で英語に入ってきた.もとは,疫病を運んでいると疑われる船から乗客を上陸させずに差し止める期間が40日間だったことにちなむが,後に日数にかかわらず「隔離,検疫」という一般的な意味で用いられるようになった.OED によると英語での初例は1663年で,その例文がこの意味変化を裏付けている.
Making of all ships coming from thence . . . to perform their 'quarantine for thirty days', as Sir Richard Browne expressed it . . . contrary to the import of the word (though, in the general acceptation, it signifies now the thing, not the time spent in doing it). ( Pepys Diary, 26 Nov. )
英語での初例こそ17世紀だが,船を係留する慣習自体は1377年にペスト予防のためにレバントやエジプトからイタリアへ入港してくる船を差し止めたことから始まった.シチリア島のラグーサ市評議会が感染地区からやってきた人々に30日間の隔離を命じたのが始まりで,期間がのちに40日に延びたというから,場合によってはイタリア語で「30」を意味する *trentina が代わりに用いられることになっていたかもしれない.
1348年以降にヨーロッパを席巻した黒死病の産みだした,歴史を背負った語である.
・クラウズリー=トンプソン 『歴史を変えた昆虫たち』増補新装版 小西正泰訳,思索社,1990年,129頁.
昨日[2009-09-12-1]に続き,黒死病と英語復権の話題.ただ,今回はより一般的に,ある事件(例えば黒死病)が歴史上にもつ意義を論じる際の問題点を考えてみる.
本ブログでも,これまでに「○○の英語史上の意義」というような話題をいくつか扱ってきた([2009-08-24-1], [2009-07-24-1], [2009-06-26-1]).私は,歴史記述は,あらゆる事実を年代的に羅列することではなく,現代にとって意義を有する事実をピックアップしてそれを時間順にストーリーとして組み立てることだと考えている.これは英語の歴史にも当てはめられるはずである.
では,どの事実が「意義を有する」のかというと,その答えは記述者の見方ひとつで決まる類のものであり,客観的に決められるものではない.黒死病と英語復権の例をとっても,直接的な因果関係があると結論づける論者もいるかもしれないし,すでに存在していた英語復権の傾向に拍車をかけただけというとらえ方もできる.
『歴史を変えた昆虫たち』を著したクラウズリー=トンプソンや『ペスト大流行』を著した村上陽一郎氏は,ともに「拍車論」を採っている.この点は,私も同意する.村上氏は歴史記述について参考になる意見を述べているので,ここに引用したい.
その意味で,多くの史家の指摘するとおり,黒死病そのものは,時代の担っていた趨勢のなかから,次代へ繋がるものをアンダーラインした上でそれを加速させ,その時代に取り残されるものに引導を渡すという働きをしたにせよ,次代を作り出す何ものかを積極的に生み出したわけではなかった.
たしかに黒死病は,流行病としては人類の歴史上,おそらく最悪のものの一つであった.しかし,その異常事態の上に映し出されたものは,良かれ悪しかれその時代そのものであって,その時代の要素が,いささか拡大されて見えるにとどまる.逆に見れば,あれほど未曾有の異常な時間も,歴史のなかに呑み込まれてしまえば,一つのエピソードにすぎないのでもある.
そしてこのことは,ある歴史的時代や事態を見るに当たって,ともすれば,それが次代に対してもつ影響力,次代を導くことになる要素にのみ光を当てがちなわれわれにとって,噛みしめるべき良き教訓である.( 176--77 )
あとがきで触れているように,著者は歴史研究を志した当初から「私の心の片隅に巣食って離れなかったのは,その歴史に刻まれた死としての黒死病への思いであった」.そこに歴史上の意義を見いだしたからこそ『ペスト大流行』という書を著したのだろうが,その本人が「一つのエピソード」としているのは,非常な謙遜である.
黒死病と英語復権という英語史の話題を考える際にも,黒死病だけにスポットを当てて,その英語復権との因果関係を探るというよりは,英語復権という大きな時代の流れをアンダーラインする一事件として黒死病を捉えるという謙虚な態度が必要なのだろう.
・村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.
・クラウズリー=トンプソン 『歴史を変えた昆虫たち』増補新装版 小西正泰訳,思索社,1990年.
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow