昨日の記事「#3759. 周縁部から始まった俗語書記文化」 ([2019-08-12-1]) で引用した原より,関連する話題を取り上げたい.周縁部ではほかよりも早く俗語書記文化が発達したということだが,独自の文字の成立もまた,周縁部に特徴的なことだという.原 (213--14) を引用する.
スカンジナビアでは,ローマ帝国がまだ活力を保っていた後二世紀にルーン(ルーネ)文字が誕生し,北ドイツでは四世紀にウルフィラなる僧侶によって,ゴート文字を用いるゴート語新約聖書の翻訳が試みられた.文字の作製は文学の誕生以前の独自の書記文化創出であり,まさにローマ帝国周縁部での言語的権威創出の試みということができる.この点ではケルト語のオガム文字もそうした試みの一つだといえるが,三世紀末から八世紀の墓碑銘などの碑文に用いられたにすぎなかった.その意味ではこちらは失敗事例といったほうがいい.
これに対して,ラテン語が教養人のことばとしてふつうに用いられた地中海地域では,いつまでもラテン語の書きことばとしての権威が失われず,地元の言語の文字使用が結果として遅れた.さらにいえば,ローマ帝国期の俗ラテン語の時期を経て,古典ラテン語の権威が九世紀には確立し,一六世紀という近代はじめにまで持続したフランスでは,国家を超えるその権威をフランス語が引き継ごうとした.そこでフランス語のヨーロッパ全域にわたる普遍性が,まさにラテン語の生まれ変わりとして主張されることになる.
アルモリカの場合はガリアというさらにローマ文化の影響力の強い地域の一部をなしていたわけで,ラテン語の権威はほかのケルト語地域以上に強力に残存していたと考えられる.この時代のブレイス語文学の書きことばの証拠がないのはこうした事情が関係しているだろう.
周縁部ではラテン語=ローマ字の権威が相対的に低いだけに,自らの言語と文字を権威づけようとする気運が高まりやすいということだろうか.言語地理学的に非常におもしろい話題である.
なお,引用中で周縁部による文字作製の「失敗事例」と評されているオガム文字については,「#2489. オガム文字」 ([2016-02-19-1]) を参照.
・ 原 聖 『ケルトの水脈』 講談社,2007年.
オガム文字 (ogham) は,アイルランド全域,ウェールズ,コーンウォール,マン島,そしてスコットランドの一部で4世紀以降中世に至るまで用いられた20文字からなるアルファベット文字体系の1種である.エトルリア文字(あるいはローマン・アルファベット)がガリア人の手を経由してこの地のケルト語話者に伝わって変形したものらしい.アイルランドへキリスト教が伝播し,独自のケルト・キリスト教が発達するあいだにも用い続けられた.系統的にはルーン文字 (runic) とも何らかの関係があるといわれている(「#1849. アルファベットの系統図」 ([2014-05-20-1]) などを参照されたい).オガム文字という名前は,ルーン文字を作ったといわれるゲルマン神オーディン (Odin) に相当するアイルランド神オグマ (Ogma) に由来し,この詩と雄弁の神こそが考案者であると伝承されている.オガム文字で書き表されている言語はケルト語のほかピクト語 (Pictish) もあるようだが,現在知られている375点以上の碑銘のうち300点ほどはアイルランドの地で見つかっている.
オガム文字の字形は石(そして現存していないがおそらく木材)の角に刻みつけられた単純な幾何学的な斜線や点である.短い文章を刻むにも書写材料に長さが必要となるため,長文は書かれていない.字形の単純さは著しく,矢島はこの文字を「地球上でこれまで使われてきた文字のなかで,もっとも奇妙なもの」 (207) と評し,「この文字は,近代になってつくられたモールス信号とか,ある種の暗号の先駆者だったといってもよいように思われる」 (209) と述べている (cf. 「#1805. Morse code」 ([2014-04-06-1])) .
オガム文字の書字方向については縦に横に様々あるが,Encylopædia Britannica 1997 では "In many cases the ogham inscriptions run upward." とも言及されており,「#2483. 書字方向 (4)」 ([2016-02-13-1]) の話題と関連して興味深い.
Comrie et al. (188) より,字形のサンプルを示そう.
Comrie et al. (189) には,オガム文字の起源論について以下のように説明があった.
The origin of the script is uncertain. Some scholars have speculated that Ogham is based upon a secret finger-language of the Druidic priests, citing a medieval Irish manuscript in which such a finger-code is described. It has also been proposed that the script developed under the influence of the Latin or Greek alphabets and the Germanic runes .
ほかにオガム文字のサンプルや説明は,Omniglot: Writing Systems & Language of the World より Ogham alphabet にも詳しいので要参照.
・ 矢島 文夫 『解読 古代文字』 筑摩書房,1999.
・ Comrie, Bernard, Stephen Matthews, and Maria Polinsky, eds. The Atlas of Languages. Rev. ed. New York: Facts on File, 2003.
「#1715. Ireland における英語の歴史」 ([2014-01-06-1]) と「#1718. Wales における英語の歴史」 ([2014-01-09-1]) に続き,スコットランドの英語の歴史を概観しよう (Fennell 191--95) .
スコットランド北西部にはピクト人 (the Picts) と呼ばれる民族が住んでいた.ピクト人がいったい何ものなのか,ケルト系の言語を話していたのか,あるいは非印欧語を話していたのか,不明な点は多いが,オガム文字 (ogham) を使って碑文を書いていたことが知られている.
一方,アイルランド人がブリテン北部を侵略し,ゲール語を持ち込んだことは確かである.彼らはローマ人に Scoti と呼ばれた.ピクト人と Scoti は融合し,ゲール語を話す Alba 王国を建国した.この王国を,アングロサクソン人は Scotia と呼んだ.これが Scotland という国名の起源である.Alba 王国は,9世紀後半には南西部へ勢力を拡げ,Dun Eideann (Edinburgh) を含み Tweed 川にまでいたる Lothian 一帯を支配下においた.ここにおいて,ゲール語は Northumbria 方言の英語と隣接することになった.11世紀前半,ゲール語話者であった Malcolm II (953?--1034) と Macbeth (?--1057) はアングロサクソン人との戦いに勝利し,これ以降,長い間,Northumbria は Scotland と結びつけられるようになった.
Macbeth を殺害した Malcolm III (1031?--93) は,王権をイングランド風に近代化しようとした.その結果として,スコットランド王国内で英語が威信を得ることとなった.したがって,スコットランドでは当初から英語が近代化の象徴とみなされていたのである.折しも William 征服王による圧政の最中で,多くのイングランド人がスコットランドへ逃げてきたために,領土内の英語話者数も増えた.
14世紀以降,スコットランドの Balliol, Bruce, Stewart 王家はいずれも Lowland に基盤を置いていたために,王国の中心地はそれまでのゲール語を話す Highland から英語の伝統の濃い Lowland へと移動した.14世紀後半には,Lowland の英語は文学語として花咲き,その地位は確実なものとなっていた.15世紀後半には,この英語は イングランドにおける Inglis とは異なる言語変種として Scottis と呼ばれるようになった.ややこしいことに,それ以前には Lowland の英語話者は,Highland のゲール語を指して "Scottish" と呼んでいたのである.ここでも,スコットランドのアイデンティティが英語を話す Lowland に移ったことが示されている.
しかし,この Scottis,すなわち現在は Older Scots と呼ばれるこの変種は,この国の書き言葉標準変種とはならなかった.15世紀から16世紀初期にかけて,Older Scots による文学は,Robert Henryson, William Dunbar, Gavin Douglas, Sir David Lyndsay などにより黄金期を迎えたが,書き言葉標準の地位はイングランド発の Chancery English に基づく変種に占められた.その理由としてはいくつかあるが,(1) Henryson や Dunbar などの書き表した英語が Chaucer の英語をモデルとしており,イングランドへの接近を示していたこと,(2) Older Scots は教育の言語となるほどまでには威信を得られなかったこと,(3) 印刷本などによりイングランドの英語がすでにスコットランド内で出回っていたこと,(4) 聖書が Older Scots へ翻訳されなかったことなどが関与しているだろう.
だが,最大の理由は,1531年にスコットランドが Flodden の戦いでイングランド軍に負け,続いて宗教改革の波に洗われたことだろう.宗教改革者はイングランドの英語で信仰告白し,聖書を読んだのである.また,1603年に James VI がイングランド王 James I として即位し,the Union of Crowns が成ると,スコットランド王家による Scots の支援は途絶えることとなった.1707年の the Union of Parliaments もその傾向に拍車をかけた.18世紀からは,Scots の使用は非難されるまでになった.
しかし,スコットランド人の間の親密な会話においては,Scots は生き残った.詩の言語としても命脈を保ち続け,18世紀後半に Robert Fergusson (1750--74), Robert Burns (1759--96), Sir Walter Scott (1771--1832) などの文人が輩出した.しかし,Scots の著しい復権にはつながらなかった.
20世紀には,Scottish National Dictionary や A Dictionary of the Older Scottish Tongue や Linguistic Atlas of Scotland など,Scots の辞書やその他の参考書も出版されるようになり,Scots の3度目の復権の試みに貢献しているように見えるが,今後どうなるかはわからない.1999年にスコットランドで約3世紀ぶりに議会が復活して以来,政治的意味合いも付されて Scots の役割が熱い議論の的となっている.
・ Fennell, Barbara A. A History of English: A Sociolinguistic Approach. Malden, MA: Blackwell, 2001.
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow