名前プロジェクト (name_project) の一環として,固有名と異名について考えている.見方によれば,一神教における神は固有名中の固有名といってよい.このような神を何と呼ぶかという問いは,言語学を超えて神学や宗教学の領域に踏み込むことになる.あまりに大きな話題なので,今回は『宗教学事典』の「名前」の項 (350--51) に依拠して述べる.
キリスト教では神の名をみだりに唱えることは禁止されている.神聖なるもの,あるいは「畏るべき」「魅する」ものを直接名指しすることはタブー (taboo) としてはばかられるためである(cf. 「#5251. 「名前」 --- 『宗教学事典』より」 ([2023-09-12-1])).
ヒンドゥー教でも同様に神の名はタブーであるため,婉曲表現 (euphemism) による「異名」が数多くある.例えば,シヴァの名前は「縁起のいい」を意味する一般の形容詞にすぎない.
イスラムでは,神アッラーの諸側面を表わす99の神の「美称」が神学的に整理されている.アッラーという名前そのものについても語源が諸説ある.ちなみに,ヤハウェについても同様に紛々としている.
あらためてキリスト教の神に戻ると,その無限性や超越性を示すために,様々な異名が案出されてきた.そのなかには撞着語法 (oxymoron) によるものも多い.例えば「輝く闇」「不眠の眠」「不動の動」「超本質」「超卓越」「反対の一致」などである.このような矛盾を含んだ名づけの背景にある思弁は「否定神学」といわれる.
否定神学にみられる神の名づけとその名前は,私たちが日常的に理解するものとはかけ離れたものである.この乖離こそが,前者が世界に意味づけを与えることを可能にしている.同項 (351) によれば,
固有名は,それについての確定記述と同一ではない,と S. A. クリプキは論じる.固有名は,あたかも人間の「顔」(E. レヴィナス)のように一気に把握されるのである.したがって,固有名を執拗に忌避する否定神学は,いわば「顔なき顔」の神と向き合っているのである.ところで,人間の顔は,コンテキストを瞬時に伝達する「ハイ・コンテキスト性」(斉藤環)を備えている.ユダヤの神は,その名を「私は「私である」である」 (I am that I am =エフイェ アシェル エフイェ)」(出エジプト記3:14)と答えた.これは,いかなる確定記述をも拒否する極限的固有名たる「顔なき顔」としての神が,それでも顔であるがゆえに,世界にコンテキストを,すなわち意味を与えている,という究極の自己啓示である.
タブーと婉曲表現,ここに極まれり.
・ 星野 英紀・池上 良正・氣田 雅子・島薗 進・鶴岡 賀雄(編) 『宗教学事典』 丸善株式会社,2010年.
古今東西の言語で,性に関する語句はタブー (taboo) となりやすく,様々な婉曲表現 (euphemism) が発達するのが通例である.英語でも「性交」を意味する語句は枚挙にいとまがない.公的に用いても問題ない「上」の語句から,俗語 (slang) として日陰でしか使われない「下」の語句まで,実に幅広い.Hughes (242) がその氷山の一角として,次のように挙げている.
reproduction
generation
copulation
coition
intercourse
congress
intimacy
carnal knowledge
coupling
pairing
mating
at roughly which point the line is drawn, below which are found:
shagging
banging
bonking
fucking
上下を2分するおよその線が下から5行目に引かれているが,本当は下のクラスに属する語句の方が圧倒的に多い.書き切れないし書くのも憚られるものが多いので,あえて省略しているということだろう.憚られるものをいくつか小声で紹介すれば beast with two backs, bum dancing, bottom wetting, a squirt and a squeeze など.この目的で俗語辞典をめくってみれば,数百件はくだらない(大多数が下のクラス).
上下を分ける線の位置については,そもそも絶対的に定めることはできない.判断は個人によっても異なるし,時代によっても変化してきた.おそらく世代間でも線引きの仕方や認識はいくらか異なるだろう.調べてみれば,興味深い通時的研究になりそうだ.
・ Hughes, Geoffrey. Swearing: A Social History of Foul Language, Oaths and Profanity in English. London: Penguin, 1998.
英語の歴史において,God (神)はタブー性 (taboo) の強い語であり概念である.「#4457. 英語の罵り言葉の潮流」 ([2021-07-10-1]) でみたように,現代のタブー性の中心は宗教的というよりもむしろ性的あるいは人種的なものとなっているが,「神」周りのタブーは常に存在してきた.これほど根深く強烈なタブーであるから,その分だけ対応する婉曲表現 (euphemism) も豊富に開発されてきた.Hughes (13) が時系列に多数の婉曲表現を並べているので,再現してみよう.
Term | Date | Euphemism |
---|---|---|
God | 1350s | gog |
1386 | cokk | |
1569 | cod | |
1570 | Jove | |
1598 | 'sblood | |
1598 | 'slid (God's eyelid) | |
1598 | 'slight | |
1599 | 'snails (God's nails) | |
1600 | zounds (God's wounds) | |
1601 | 'sbody | |
1602 | sfoot (God's foot) | |
1602 | gods bodykins | |
1611 | gad | |
1621 | odsbobs | |
1650s | gadzooks (God's hooks) | |
1672 | godsookers | |
1673 | egad | |
1695 | od | |
1695 | odso | |
1706 | ounds | |
1709 | odsbodikins (God's little body) | |
1728 | agad | |
1733 | ecod | |
1734 | goles | |
1743 | gosh | |
1743 | golly | |
1749 | odrabbit it | |
1760s | gracious | |
1820s | ye gods! | |
1842 | by George | |
1842 | s'elpe me Bob | |
1844 | Drat! (God rot!) | |
1851 | Doggone (God-damn) | |
1884 | Great Scott | |
1900 | Good grief | |
1909 | by Godfrey! |
英語史における罵り言葉 (swearing) を取り上げた著名な研究に Hughes がある.英語の罵り言葉も,他の言葉遣いと異ならず,各時代の社会や思想を反映しつつ変化してきたこと,つまり流行の一種であることが鮮やかに描かれている.終章の冒頭に,Swift からの印象的な2つの引用が挙げられている (236) .
For, now-a-days, Men change their Oaths,
As often as they change their Cloaths.
Swift
Oaths are the Children of Fashion.
Swift
英語の罵り言葉の歴史には,いくつかの大きな潮流が観察される.Hughes (237--40) に依拠して,何点か指摘しておきたい.およそ中世から近現代にかけての変化ととらえてよい.
(1) 「神(の○○)にかけて」のような by や to などの前置詞を用いた誓言 (asseveration) は減少してきた.
(2) 罵り言葉のタイプについて,宗教的なものから性的・身体的なものへの交代がみられる.
(3) C. S. Lewis が "the moralisation of status word" と指摘したように,階級を表わす語が道徳的な意味合いを帯びる過程が観察される.例えば churl, knave, cad, blackguard, guttersnipe, varlet などはもともと階級や身分の名前だったが,道徳的な「悪さ」を含意するようになり,罵り言葉化してきた.
(4) 「労働倫理」と関連して,vagabond, beggar, tramp, bum, skiver などが罵り言葉化した.この傾向は,浮浪者問題を抱えていたエリザベス朝に特徴的にみられた.
(5) 罵り言葉と密接な関係をもつタブー (taboo) について,近年,性的なタイプから人種的なタイプへの交代がみられる.
英語の罵り言葉の潮流を追いかける研究は「英語歴史社会語彙論」の領域というべきだが,そこには実に様々な論題が含まれている.例えば,上記にある通り,タブーやそれと関連する婉曲語法 (euphemism) の発展との関連が知りたくなってくる.また,典型的な語義変化のタイプといわれる良化 (amelioration) や悪化 (pejoration) の問題にも密接に関係するだろう.さらに,近年の political correctness (= pc) 語法との関連も気になるところだ.slang の歴史とも重なり,社会言語学的および語用論的な考察の対象にもなる.改めて懐の深い領域だと思う.
・ Hughes, Geoffrey. Swearing: A Social History of Foul Language, Oaths and Profanity in English. London: Penguin, 1998.
4月5日より始まっていた「英語史導入企画2021」のコンテンツ紹介記事は,今回で最終回となります.話題は「office, john, House of Lords --- トイレの呼び方」です.トリを飾るに相応しいテーマですね! トイレの英語文化史あるいは英語文化誌というべき内容で,Historical Thesaurus of the Oxford English Dictionary (= HTOED) を用いてこんなにおもしろい調査ができるのかと教えてくれるコンテンツです.コンテンツ内の図と点線を追っていくだけで,トイレの悠久の旅を楽しむことができます.
タブー (taboo),婉曲表現 (euphemism),類義語 (synonym) といった語彙論 (lexicology) 上の問題は,英語史の卒業論文研究などでも人気のテーマです.英語史語彙論研究に関心をもったら,これらのタグの付いた hellog の記事群を読んでみてください.また,以下に今回のコンテンツと緩く関連した記事も紹介しておきます.
・ 「#470. toilet の豊富な婉曲表現」 ([2010-08-10-1])
・ 「#471. toilet の豊富な婉曲表現を WordNet と Visuwords でみる」 ([2010-08-11-1])
・ 「#992. 強意語と「限界効用逓減の法則」」 ([2012-01-14-1])
・ 「#1219. 強意語はなぜ種類が豊富か」 ([2012-08-28-1])
・ 「#3885. 『英語教育』の連載第10回「なぜ英語には類義語が多いのか」」 ([2019-12-16-1])
・ 「#3392. 同義語と類義語」 ([2018-08-10-1])
・ 「#469. euphemism の作り方」 ([2010-08-09-1])
・ 「#4395. 英語の類義語について調べたいと思ったら」 ([2021-05-09-1])
・ 「#3159. HTOED」 ([2017-12-20-1])
・ 「#847. Oxford Learner's Thesaurus」 ([2011-08-22-1])
・ 「#4334. 婉曲語法 (euphemism) についての書誌」 ([2021-03-09-1])
・ 「#1270. 類義語ネットワークの可視化ツールと類義語辞書」 ([2012-10-18-1])
・ 「#1432. もう1つの類義語ネットワーク「instaGrok」と連想語列挙ツール」 ([2013-03-29-1])
・ 「#4092. shit, ordure, excrement --- 語彙の3層構造の最強例」 ([2020-07-10-1])
・ 「#4041. 「言語におけるタブー」の記事セット」 ([2020-05-20-1])
昨日「英語史導入企画2021」に公表されたコンテンツは,大学院生による「Oh My Word!?なぜ Word なのか?自己流考察?」である.
間投詞 Oh my God! はタブー (taboo) とされるほど強烈な響きをもち,一般的には使用が避けられる.それに代わる婉曲表現 (euphemism) として,(Oh my) Gosh!, (Oh my) goodness!, Oh my! などがよく知られているが,要するに音韻的に似た語による置換や省略などに訴えかけてオリジナル表現を匂わせるという方法を採っているのである.
コンテンツ発表者は,標題の My word! という間投詞も Oh my God! の婉曲表現の1つではないかと「自己流考察」を試みている.その心は,God の [g] と word の [w] が実は音声学的に近いという事実である.確かに調音音声学的にいえば,両者は軟口蓋唇音 (labiovelar) において接点をもつ.関連する本ブログの記事として「#1151. 多くの謎を解き明かす軟口蓋唇音」 ([2012-06-21-1]),「#3870. 中英語の北部方言における wh- ならぬ q- の綴字」 ([2019-12-01-1]),「#3871. スコットランド英語において wh- ではなく quh- の綴字を擁護した Alexander Hume」 ([2019-12-02-1]),「#3409. 日本語における合拗音の消失」 ([2018-08-27-1]),「#3410. 英語における「合拗音」」 ([2018-08-28-1]) を挙げておきたい.
共時的な観点から God と Word を結びつけてみる試みはおもしろい.
一方,歴史的にはどうだろうか.OED の word, n. and int. を参照すると次のようにある.
P3. e. my word (esp. as an exclamation) = upon my word at Phrases 1g(b)(ii).
1722 A. Philips Briton ii. iii. 14 He loves thee, Gwendolen:---My word, he does.
1821 London Mag. June 658/2 When the New Town Christeners had exhausted their Georges and Charlottes and Fredericks and Hanovers, (and, my word, they did extend the royalty).
1841 E. C. Gaskell Lett. (1966) 44 My word! authorship brings them in a pretty penny.
1857 F. Locker London Lyrics 72 Half London was there, and, my word, there were few..But envied Lord Nigel's felicity.
1874 A. Trollope Harry Heathcote ii. 49 'You dropped the match by accident?' 'My word, no. Did it o' purpose to see.'
1932 P. Hamilton Siege of Pleasure ii. 62 in Twenty Thousand Streets under Sky (1935) 'My word!' said Violet. 'You didn't half give me a turn.'
1960 C. Day Lewis Buried Day ii. 43 My word, how we did dress up in those days!
2004 G. Woodward I'll go to Bed at Noon xiii. 237 'That's an old Vincent,' said Janus Brian, 'my word. Haven't seen one of those for years'.
誓言 (asseveration) としての前置詞句 upon my word と同機能の間投詞として,18世紀前半に初出したようだ.一方,この誓言の前置詞句 upon my word は of my word などとともに1600年前後から用いられている.おそらくこの前置詞句が単独で間投詞として用いられるようになり,やがてこの前置詞が脱落した省略版も用いられるようになったということだろう.
昨日,学部生よりアップされた「英語史導入企画2021」の20番目のコンテンツは,goodbye の語源を扱った「goodbye の本当の意味」です.
God be with ye (神があなたとともにありますように)という接続法 (subjunctive) を用いた祈願 (optative) の表現に由来するとされます.別れ際によく用いられる挨拶となり,著しく短くなって goodbye となったという次第です.ある意味では「こんにちはです」が「ちーす」になるようなものです.
しかし,ここまでのところだけでも,いろいろと疑問が湧いてきますね.例えば,
・ なぜ God が good になってしまったのか?
・ なぜ be が bye になってしまったのか?
・ なぜ with ye の部分が脱落してしまったのか?
・ そもそも you ではなく ye というのは何なのか?
・ なぜ祝福をもって「さようなら」に相当する別れの挨拶になるのか?
いずれも英語史的にはおもしろいテーマとなり得ます.上記コンテンツでは,このような疑問のすべてが扱われているわけではありませんが,God be with ye から goodbye への変化の道筋について興味をそそる解説が施されていますので,ご一読ください.
とりわけおもしろいのは,別れの挨拶として日本語「さようなら(ば,これにて失礼)」に感じられる「みなまで言うな」文化と,英語 goodbye (< God be with ye) にみられる「祝福」文化の差異を指摘しているところです.
確かに英語では (I wish you) good morning/afternoon/evening/night から bless you まで,祝福の表現が挨拶その他の口上となっている例が多いように思います.高頻度の表現として形態上の縮約を受けやすいという共通点はあるものの,背後にある「発想」は両言語間で異なっていそうです.
英語の語彙や意味の問題として,婉曲語法 (euphemism) は学生にも常に人気のあるテーマである.隣接領域として taboo, swearing, slang のテーマとも関わり,社会言語学寄りの語彙の問題として広く興味を引くもののようだ.
そもそも euphemism とは何か.まずは Cruse の用語辞典より解説を与えよう (57--58) .
euphemism An expression that refers to something that people hesitate to mention lest it cause offence, but which lessens the offensiveness by referring indirectly in some way. The most common topics for which we use euphemisms are sexual activity and sex organs, and bodily functions such as defecation and urination, but euphemisms can also be found in reference to death, aspects of religion and money. The main strategies of indirectness are metonymy, generalisation, metaphor and phonological deformation.
Sex:
intercourse go to bed with (metonymy), do it (generalisation)
penis His member was clearly visible (generalisation)
Bodily function:
defecate go to the toilet (metonymy), use the toilet (generalisation)
Death:
die pass away (metaphor), He's no longer with us (generalisation)
Religion:
God gosh, golly (phonological deformation)
Jesus gee whiz (phonological deformation)
Hell heck (phonological deformation)
この種の問題に関心をもったら,まずは本ブログより「#469. euphemism の作り方」 ([2010-08-09-1]),「#470. toilet の豊富な婉曲表現」 ([2010-08-10-1]),「#992. 強意語と「限界効用逓減の法則」」 ([2012-01-14-1]) を始めとして (euphemism) の記事群,それから taboo の記事群にも広く目を通してもらいたい.
その後,以下の概説書の該当部分に当たるとよい.
・ Williams, Joseph M. Origins of the English Language: A Social and Linguistic History. New York: Free P, 1975. pp. 198--203.
・ Hughes, G. A History of English Words. Oxford: Blackwell, 2000. pp. 43--49.
・ Brinton, Laurel J. and Leslie K. Arnovick. The English Language: A Linguistic History. Oxford: OUP, 2006. pp. 80--81.
書籍レベルとしては,Bussmann (157) と McArthur (387) の参考文献リストより,以下を掲げる.
・ Allan, K. and K. Burridge. Euphemism and Dysphemism: Language Used as a Shield and Weapon. New York: OUP, 1991.
・ Ayto, J. Euphemisms: Over 3,000 Ways to Avoid Being Rude or Giving Offence. London: 1993.
・ Enright, D. J., ed. Fair of Speech: The Uses of Euphemism. Oxford: OUP, 1985.
・ Holder, R. W. A Dictionary of American and British Euphemisms: The Language of Evasion, Hypocrisy, Prudery and Deceit. Rev. ed. London: 1989. Bath: Bath UP, 1985.
・ Lawrence, J. Unmentionable and Other Euphemisms. London: 1973.
・ Rawson, Hugh. A Dictionary of Euphemisms & Other Doubletalk. New York: Crown, 1981.
具体的な語の調査にあたっては,もちろん OED,各種の類義語辞典 (thesaurus),Room の語の意味変化の辞典などをおおいに活用してもらいたい.
・ Cruse, Alan. A Glossary of Semantics and Pragmatics. Edinburgh: Edinburgh UP, 2006.
・ Bussmann, Hadumod. Routledge Dictionary of Language and Linguistics. Trans. and ed. Gregory Trauth and Kerstin Kazzizi. London: Routledge, 1996.
・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.
・ Room, Adrian, ed. NTC's Dictionary of Changes in Meanings. Lincolnwood: NTC, 1991.
「#4233. なぜ quite a few が「かなりの,相当数の」の意味になるのか?」 ([2020-11-28-1]) を受けて,この問題についてもう少し考えてみたい.各種の語法辞典を引いてみると,quite という副詞はとにかく使い方が難しいことが分かる.共起する形容詞の意味論的な特性などに応じて,「まったく;完全に」という強意を表わすかと思えば,「まずまず,そこそこ,割と」というむしろ程度を和らげるように用いられることもある.このような多義性をもち,かつ口語的な響きもをもつからだろう,意味論的に分析するだけでは埒が明かないことも多く,語用論やその他の観点からの考察も必要となってくる.厄介な副詞だ.
小西 (893) は,quite a/an の項目の最後で次のように述べている.
なお成句 quite a few/bit は quite a lot とほぼ同意の婉曲的な米国口語表現である.Quite a few people turned up.---CEED (非常に多くの人々が現れた).
ここでは「婉曲的」という用語が使われている.確かに quite には,上記の通り表現の勢いを和らげるという機能も認められる.具体的にいえば,quite が数量のように程度をもつ語句と共起すると,基本的には "downtoner" の役割,つまり程度を少し落として見せる役割を果たす.これによって程度が下げられ,同時に響きとしてのキツさも和らげられる.まさに婉曲表現 (euphemism) といってよい.
ところが,quite a few の場合,ここから予想外の発展を遂げたようだ.もともと数量の程度が低いことを意味する a few をさらに少なく見せるように quite を付け,下げて和らげて表現したところを,さらに「皮肉」効果によってまるまる反転させようなのである.当初は,ある口語的な文脈において particularized conversational implicature としてたまたま滲み出た皮肉的な意味にすぎなかったと思われるが,それが繰り返され常用化するに及んで,generalized conversational implicature へと昇格したものではないか.
もしこの筋書きが正しいならば,意味論・語用論界における「うっちゃり」の事例となる.
・ 小西 友七 編 『現代英語語法辞典』 三省堂,2006年.
いかがでしょう.汚いですが,英語の3層構造を有便雄弁に物語る最強例の1つではないかと思っています.日本語の語感としては「クソ」「糞尿」「排泄物」ほどでしょうか.
英語語彙の3層構造については,本ブログでも「#3885. 『英語教育』の連載第10回「なぜ英語には類義語が多いのか」」 ([2019-12-16-1]) やそこに張ったリンク先の記事,また (lexical_stratification) などで,繰り返し論じてきました.具体的な例も「#334. 英語語彙の三層構造」 ([2010-03-27-1]),「#1296. 三層構造の例を追加」 ([2012-11-13-1]) で挙げてきました.
もっと挙げてみよと言われてもなかなか難しく,典型的な ask, question, interrogate や help, aid, assistance などを挙げて済ませてしまうのですが,決して満足はしておらず,日々あっと言わせる魅力的な例を探し求めいました.そこで,ついに標題に出くわしたのです.Walker の swearing に関する記述を読んでいたときでした (32) .
A few taboo words describing body parts started out as the 'normal' forms in Old English; one of the markers of the status difference between Anglo-Norman and Old English is the way the 'English' version became unacceptable, while the 'French' version became the polite or scientific term. The Old English 'scitte' gave way to the Anglo-Norman 'ordure' and later the Latin-via-French 'excrement'.
これに出会ったときは,(鼻をつまんで)はっと息を呑み,目を輝かせてしまいました.
shit は古英語 scitte にさかのぼる本来語ですが,古英語での意味は「(家畜の)下痢」でした. 動詞としては接頭辞つきで bescītan (汚す)のように長母音を示していましたが,後に名詞からの影響もあって短化し,中英語期に s(c)hite(n) (糞をする)が現われています.名詞の「糞」の語義としては意外と新しく,初期近代英語期の初出です.
ordure は,古フランス語 ordure から中英語期に入ったもので,「汚物」「卑猥な言葉」「糞」を意味しました.語根は horrid (恐ろしい)とも共通します.
excrement は初期近代英語期にラテン語 excrēmentum (あるいは対応するフランス語 excrément)から借用されました.
現在では本来語の shit は俗語・タブー的な「匂い」をもち,その婉曲表現としては「匂い」が少し緩和されたフランス語 ordure が用いられます.ラテン語 excrement は,さらに形式張った学術的な響きをもちますが,ほとんど「匂い」ません.
以上,失礼しました.
・ Walker, Julian. Evolving English Explored. London: The British Library, 2010.
英語学(社会言語学)のオンライン授業に向けた準備の副産物として,今回は言語におけるタブー (taboo) に関する hellog 記事セットを紹介する.
・ 「言語におけるタブー」の記事セット
本ブログではタブーについても様々な記事を書いてきた.今回の講義で主に注目したのは,以下の点である.
(1) 言語におけるタブー表現は古今東西に例がみられ普遍的であること
(2) タブー化しやすい指示対象や領域が偏っていること
(3) すぐれて(社会)言語学的なトピックであること
(4) タブー表現に代わる婉曲表現の生み出し方にパターンがあること
(5) タブー表現には驚くべき負のパワーが宿っていること
(6) その負のパワーは,話者個人の集合からなる言語共同体がタブー表現に宿らせているものであること
タブー表現は,定義上使ってはいけない言葉ということだが,ではなぜ使われないにもかかわらず失われていかないのだろうか.そもそもなぜ存在するのだろうか.暗号 (cryptology) ,隠語 (slang),記号論 (semiotics),ポリティカル・コレクトネス (political_correctness) など言語学全域からのトピックと接点をもつ点に置いても,最も興味深い(社会)言語学のトピックの1つといって間違いない.
言語には変化の回転が速い領域というものがある.「#992. 強意語と「限界効用逓減の法則」」 ([2012-01-14-1]) や「#1219. 強意語はなぜ種類が豊富か」 ([2012-08-28-1]) で述べたように,強意語 (intensifier) や,タブー表現 (taboo) の響きをやわらげる婉曲表現 (euphemism) が次々と生まれては消えることは,よく知られている.視点を変えれば,これらの表現はライフサイクルが短いということになろう.
同様に,昨日の記事「#3267. 談話標識とその形成経路」 ([2018-04-07-1]) で取り上げた談話標識も,比較的ライフサイクルが短いとされている.実際,談話標識は歴史的に新しい表現が生まれては消える過程を繰り返してきた.昨日の記事でも示したように,談話標識は特に話し言葉において頻度が高いこと,そして種々の源から形成されうることが,背景にあるのだろう.この点について Lewis (909) が次のように述べている.
Discourse markers are known for their frequent renewal. Particularly subject to sociolinguistic factors and fashion, they tend to be "caught" easily, spreading quickly among social networks. Choice of markers therefore can reflect age, social position, and so on. Discourse markers date quickly: many of the most frequent discourse markers and connectives of the 20th century arose only in the 18th or 19th century, including of course, after all, still, I say.
ライフサイクルが速いといっても数世代以上の時間がかかるようであり,強意語や婉曲語法に見られるライフサイクルほど速いわけではなさそうだ.しかし,そのうちにきっと変わるにちがいないと言わしめるほどには「規則的な」言語変化の一種とみなせそうだ.また,引用の最初にあるように,談話標識に話者の世代を特徴づける性質があるというのも興味深い.歴史社会言語学的な観察対象になり得ることを意味するからだ.談話標識の流行としての側面は,もっと注目してもよいだろう.
・ Lewis, Diana M. "Late Modern English: Pragmatics and Discourse" Chapter 56 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 901--15.
「#2827. PC の歴史」 ([2017-01-22-1]),「#2832. PC の特異な点」 ([2017-01-27-1]) に関連して,political_correctness という社会言語学上の運動について.今回は,誕生から半世紀ほどを経た PC が時間のなかでどのように変質・拡大してきたか,Hughes に従って考えてみたい.
3点ほど指摘できるように思われる.1つは,PC がいくつかの段階を経て社会に受容されてきたという点である.PC は当初はあるイデオロギーをもった内集団で用いられ始めた.それが,内集団の外へも広がっていき,社会的に認知されるようになった.例えば,"political correctness" などのキーワードそれ自体が広く知れ渡ることになった.次に,批判的な反応が,とりわけ皮肉やパロディなどの形で目立つようになってきた.さらに,反抗的な反応として,あえて "politically incorrect language" を用いる "shock jocks" や "rappers" のような存在も現われてきた.このように,PC は受容の拡大と否定的な反応という段階を経ながら成長してきた.しかし,おもしろいのは否定的な反応が目立つようになったとはいえ,PC それ自体は決して失われていないことだ.Hughes (283) は,"Although discredited and mocked, it refuses to go away but appears in new guises." と述べ,これを "the paradox of political correctness" と呼んでいる.
2つ目に,PC が流行に乗るにつれ,カバーする領域が拡散し,明確に定義できなくなってきたということがある.性や職業名などの問題に始まったが,新しいところでは外見,動物の権利,環境に関する問題まで,広く PC の問題として内包されるようになった.Hughes (284) が挙げている PC の対象となる分野のリストによれば,"fatness, appearance, stupidity, diet, crime, prostitution, race, homosexuality, disability, animal rights, the environment, and still others" が含まれている.別の言い方をすれば,言語や態度や行動のタブー (taboo) の領域が以前と比べて拡大してきた,ということだろう.PC とは,1つの見方によれば,タブー領域の拡大だったのである!
3つ目に,PC の焦点が,PC 用語のもつ意味的・形態的な側面よりも,誰が誰に対して,いつ,どのような状況でそれを用いるかというコンテクストに当てられるようになってきた.Hughes (286) 曰く,"political correctness has increasingly become less absolute and more contextual, that is to say the emphasis is increasingly less on what is said, but more on who said it and when." 例えば,白人が黒人を指すのに侮蔑的な用語を使うのと,黒人が自らを指すのに同じ用語を使うのとでは,その効果はまったく異なる.用語そのものの問題ではなく,語用的な問題が意識されるようになってきたということだろう.
このように,PC とは社会とともに成長してきた概念である.
・ Hughes, Geoffrey. Political Correctness: A History of Semantics and Culture. Malden, ML: Wiley Blackwell, 2010.
英語史における2人称代名詞に関する語用論的問題,いわゆる T/V distinction の発達と衰退の問題は,t/v_distinction のいくつかの記事で取り上げてきた.今回は,高田に拠ってドイツ語の T/V distinction の盛衰の歴史を垣間見たい.
ドイツ語史は,T/V distinction について回る「敬意逓減の法則」の好例を提供してくれる.現代ドイツ語の du/Sie の2分法は,紆余曲折の歴史を経て落ち着いた結果としての2分法であり,ここに至るまでには,とりわけ近代期には複雑な段階を経験してきた.17--18世紀には,人々は相手を指すのにどの表現を使えばよいのか思い悩み,数々の2人称代名詞に「踊らされる」時代が続いていた.社会語用論的に不安定な時代と呼んでよいだろう.以下は,高田 (145) のまとめた「ひとりの相手に対するドイツ語呼称代名詞の史的発達」の表である(少々改変済み).上段にある代名詞ほど,相手の社会的身分が高い,あるいは自分と疎遠な関係にあることを示す.
この表は,ドイツ語史において2人称単数代名詞の敬称がいかに次々と生み出されてきたかを雄弁に物語っている.ゲルマン語の段階では,古英語などと同様に,2人称単数代名詞としてはT系統の形態が1つあるにすぎなかった.古英語の þū に対応する du である.この時代には王に対しても召使いに対しても対等に du のみが用いられていた.
9世紀後半になると,2人称複数代名詞であった Ihr が敬意を表す単数として用いられ始めた.これ自体は,「#1126. ヨーロッパの主要言語における T/V distinction の起源」 ([2012-05-27-1]) や「#1552. T/V distinction と face」 ([2013-07-27-1]) で触れたように,英語史やフランス語史にもみられた現象であり,しばしば権力と複数性との写像性 (iconicity) により説明される.ただし,ドイツ語史では英語史に比べてかなり早くにこの用法が現われたことは注目すべきである.こうして9世紀後半に始まった du/Ihr の2分法は,11世紀までには普及し,社会的な権力や地位,すなわち power というパラメータを軸に16世紀まで存続した.
16世紀になると長期にわたって安定していた du/Ihr の2分法が崩れ始めた.Ihr の敬意が逓減し,社会的な地位の高くない人にまで使われるようになった.その代替手段として der Herr, die Frau といった人物名称が用いられ始めたが,繰り返し使われるにつれて,これらの名詞句を受ける3人称単数代名詞 er や sie それ自体も呼称として用いられるようになった.ここに至って,新たな Er/Sie, Ihr, du の3段階システムができあがった.
18世紀に入ると,ドイツ語の呼称代名詞は「迷路」に迷い込んだ.その頃までには,高位の人に冠する称号として Eure Majestät (陛下)や Eure Ehre (閣下)や Eure Gnaden (閣下)のように,「威厳」「名誉」「恩寵」などの抽象名詞(たいてい女性名詞)を付す呼称が発達していた.これらの女性抽象名詞を前方照応する形で,3人称女性代名詞 sie が用いられていたが,これはたまたま3人称複数代名詞と同音だったために,後者にも敬称の機能が移った.ここに至って,Sie, Er/Sie, Ihr, du の4段階システムが成った.
18世紀後半には,4段階システムにおける最上位の Sie ですら敬意逓減の餌食となり,指示代名詞の複数形 Dieselben が新たな最上位の敬称として生み出され,5段階システムを形成した.ただし,Dieselben は前方の名詞と照応する形でしか用いられなかったし,書き言葉に限定されていたために,一般化することはなかった.
だが,世紀の変わり目に向けて,呼称代名詞をめぐる社会語用論の混乱は収束に向かう.最も古く,最も低位の du に「友情崇拝」 (Freundschaftskult) という社会的な価値が付され,積極的に評価されるようになってきたのだ.du に positive politeness の機能が付されるようになったといってもよいし,社会的階級あるいは power に基づく呼称体系から人間関係あるいは solidarity に基づく呼称体系へと移行したとみることもできる (cf. 「#1059. 権力重視から仲間意識重視へ推移してきた T/V distinction」 ([2012-03-21-1])).19世紀以降,du の役割の相対的な上昇と,細かな上位区分の解消により,現在あるような du/Sie の2分法へと落ち着いてゆき,ドイツ語は近代の社会語用論的な迷路から脱出することに成功した.
ドイツ語史の関連する話題としては「#185. 英語史とドイツ語史における T/V distinction」 ([2009-10-29-1]) と「#1865. 神に対して thou を用いるのはなぜか」 ([2014-06-05-1]) でも触れているので,そちらも参照されたい.
・ 高田 博行 「敬称の笛に踊らされる熊たち 18世紀のドイツ語古称代名詞」『歴史語用論入門 過去のコミュニケーションを復元する』(高田 博行・椎名 美智・小野寺 典子(編著)),大修館,2011年.143--62頁.
標記の日本語表現と英語表現は,それぞれ天皇と国王を指示する呼称であり至高の敬意を表わす.いずれの表現にも politeness や euphemism の戦略が複数埋め込まれており,よくぞここまで工夫したと思わせる語句となっている.
「陛下」は元来宮殿に上る階段の下を指した.そこには取次の近臣がおり,その近臣を経由して,伝達事項が天皇の上聞に達することになっていた.本来は場所を表わす語句によりそこにいる取次を間接的に指示し,さらにその取次を指示することにより上にいる天皇を間接的に指示するのだから,2重の換喩 (metonymy) であり,ポライトネスを著しく意識した婉曲表現でもある.「敬して遠ざく」の極致だろう.また,「下」は反意語「上」を否応なしに想起させ,天皇の至上性を暗示する点で,緩叙法 (litotes) の効果をも併せもつ.表現としては中国で天子の敬称として用いていたものが日本にも伝わったものであり,古くは天皇にはむしろ類義語「殿下」の称号が付された.明治以降,皇室典範の規程により,天皇と三后には「陛下」,三后以外の皇族には「殿下」と使い分けが定められ,今に至っている.
英語の Your Majesty も,ポライトネス戦略の点からは「陛下」に負けていない.まず,「#440. 現代に残る敬称の you」 ([2010-07-11-1]) でみたように,Your そのものが敬意を含んでいる (cf. t/v_distinction) .次に,Majesty はそれ自身の意味として至高の美徳を表わしている.加えて,その至高の美徳という抽象的な性質によって,具体的な王を間接的に指示している.ここには,換喩による間接性と婉曲性が感じられる.なお,抽象的な性質によって具体的な人や物を指す例は,She is our last hope., His latest novel is a complete failure., Our daughter is a great pride and joy to us. のような表現にも見ることができ,換喩として一般的なものである (cf. Stern 319--20) .
なお,Majesty のこの用法の初出は,OED によると,14世紀後半である.
a1387. J. Trevisa tr. R. Higden Polychron. (St. John's Cambr.) (1872) IV. 9 (MED), Whanne Alisaundre..wente toward his owne contray, þe messangers..of Affrica, of Spayne, and of Italy come in to Babilon to ȝilde hem to his lordschipe and mageste [L. ejus ditioni].
しかし,君主の敬称として定着したのは17世紀のことであり,それ以前には Henry III や Queen Elizabeth I が Your Grace や Your Highness と呼ばれるなど,諸形が交替した.James I に捧げられた The Authorised Version (The King James Version [KJV]) では,Your Highness と Your Majesty がともに用いられている.
「陛下」,Your Majesty,そして関連するいくつかの表現は,それぞれ異なるポライトネス・ストラテジーによってではあるが,最高度の敬意を表わすために作り出された感心するほど巧みな造語である.敬礼!
・ Stern, Gustaf. Meaning and Change of Meaning. Bloomington: Indiana UP, 1931.
shortening (短化)という過程は,言語において重要かつ頻繁にみられる語形成法の1つである.英語史でみても,とりわけ現代英語で shortening が盛んになってきていることは,「#875. Bauer による現代英語の新語のソースのまとめ」 ([2011-09-19-1]) で確認した.関連して,「#893. shortening の分類 (1)」 ([2011-10-07-1]),「#894. shortening の分類 (2)」 ([2011-10-08-1]) では短化にも様々な種類があることを確認し,「#1091. 言語の余剰性,頻度,費用」 ([2012-04-22-1]),「#1101. Zipf's law」 ([2012-05-02-1]),「#1102. Zipf's law と語の新陳代謝」 ([2012-05-03-1]) では情報伝達の効率という観点から短化を考察した.
上記のように,短化は主として形態論の話題として,あるいは情報理論との関連で語られるのが普通だが,Stern は機能的・意味的な観点から短化の過程に注目している.Stern は,「#1873. Stern による意味変化の7分類」 ([2014-06-13-1]) で示したように,短化を意味変化の分類のなかに含めている.すべての短化が意味の変化を伴うわけではないかもしれないが,例えば private soldier (兵卒)が private と短化したとき,既存の語(形容詞)である private は新たな(名詞の)語義を獲得したことになり,その観点からみれば意味変化が生じたことになる.
しかし,private soldier のように,短化した結果の語形が既存の語と同一となるために意味変化が生じるというケースとは別に,rhinoceros → rhino, advertisement → ad などの clipping (切株)の例のように,結果の語形が新語彙項目となるケースがある.ここでは先の意味での「意味変化」はなく意味論的に語るべきものはないようにも思われるが,rhinoceros と rhino の意味の差,advertisement と ad の意味の差がもしあるとすれば,これらの短化は意味論的な含意をもつ話題ということになる.
Stern (256) は,短化を形態的な過程であるとともに,機能的な観点から重要な過程であるとみている.実際,短化の原因のなかで最重要のものは,機能的な要因であるとまで述べている.Stern (256) の主張を引用する.
Starting with the communicative and symbolic functions, I have already pointed out above . . . that brevity may conduce to a better understanding, and too many words confuse the point at issue; the picking out of a few salient items may give a better idea of the topic than prolonged wallowing in details; the hearer may understand the shortened expression quicker and better.
The expressive function is partly covered by signals, but a shortened expression by itself may, owing to its unusual and perhaps ungrammatical, form, reflect better the speaker's emotional state and make the hearer aware of it. Clippings are very often intended to make the words express sympathy or endearment towards the persons addressed; nursery speech abounds in nighties, tootsies, etc., and clippings of proper names, transforming them into pet names, are often due to a similar desire for emotive effects . . . . The numerous shortenings (clippings) in slang and cant often aim at a humourous effect.
Conciseness and brevity increase vivacity, and thus also the effectiveness of speech; brevity is the soul of wit; the purposive function may consequently be better served by shortened phrases.
形態論や情報理論のいわば機械的な観点から短化をみるにとどまらず,言語使用の目的,表現力,文体といった機能的な側面から短化をとらえる洞察は,Stern の面目躍如たるところである.形態を短化することでむしろ新機能が付加される逆説が興味深い.
引用の文章で言及されている婉曲表現 nighties と関連して,「#908. bra, panties, nightie」 ([2011-10-22-1]) 及び「#469. euphemism の作り方」 ([2010-08-09-1]) も参照されたい.
・ Stern, Gustaf. Meaning and Change of Meaning. Bloomington: Indiana UP, 1931.
昨日の記事「#1908. 女性を表わす語の意味の悪化 (1)」 ([2014-07-18-1]) で,英語史を通じて見られる semantic pejoration の一大語群を見た.英語史的には,女性を表わす語の意味の悪化は明らかな傾向であり,その背後には何らかの動機づけがあると考えられる.では,どのような動機づけがあるのだろうか.
1つは,とりわけ「売春婦」を指示する婉曲的な語句 (euphemism) の需要が常に存在したという事情がある.売春婦を意味する語は一種の taboo であり,間接的にやんわりとその指示対象を指示することのできる別の語を常に要求する.ある語に一度ネガティヴな含意がまとわりついてしまうと,それを取り払うのは難しいため,話者は手垢のついていない別の語を用いて指示することを選ぶのである.その方法は,「#469. euphemism の作り方」 ([2010-08-09-1]) でみたように様々あるが,既存の語を取り上げて,その意味を転換(下落)させてしまうというのが簡便なやり方の1つである.日本語の「風俗」「夜鷹」もこの類いである.関連して,女性の下着を表わす語の euphemism について「#908. bra, panties, nightie」 ([2011-10-22-1]) を参照されたい.
しかし,Schulz の主張によれば,最大の動機づけは,男性による女性への偏見,要するに女性蔑視の観念であるという.では,なぜ男性が女性を蔑視するかというと,それは男性が女性を恐れているからだという.恐怖の対象である女性の価値を社会的に(そして言語的にも)下げることによって,男性は恐怖から逃れようとしているのだ,と.さらに,なぜ男性は女性を恐れているのかといえば,根源は男性の "fear of sexual inadequacy" にある,と続く.Schulz (89) は複数の論者に依拠しながら,次のように述べる.
A woman knows the truth about his potency; he cannot lie to her. Yet her own performance remains a secret, a mystery to him. Thus, man's fear of woman is basically sexual, which is perhaps the reason why so many of the derogatory terms for women take on sexual connotations.
うーむ,これは恐ろしい.純粋に歴史言語学的な関心からこの意味変化の話題を取り上げたのだが,こんな議論になってくるとは.最初に予想していたよりもずっと学際的なトピックになり得るらしい.認識の言語への反映という観点からは,サピア=ウォーフの仮説 (sapir-whorf_hypothesis) にも関わってきそうだ.
・ Schulz, Muriel. "The Semantic Derogation of Woman." Language and Sex: Difference and Dominance. Ed. Barrie Thorne and Nancy Henley. Rowley, MA: Newbury House, 1975. 64--75.
「#1559. 出会いと別れの挨拶」 ([2013-08-08-1]) で触れた Goffman の face-work の理論は,近年の語用論や社会言語学で注目される politeness 研究において有望な理論とみなされている.
言語によるコミュニケーションにせよ,その他の社会的な交流にせよ,人は肉体的,精神的なエネルギーを費やしながらそれに従事している.だが,なぜ人はわざわざそのようなことをするのだろうか.社会から課される種々の制限を受け入れてまで,交流を図るのはなぜだろうか.自らの欲求を満たすためにそうするのだというのであれば理解できるが,例えば phatic communion (交感的言語使用)はどのようにして欲求の満足に関係するというのだろうか.アメリカの社会学者 Goffman は,人はみな face という概念をもっており,それを尊重し合うという行為 (face-work) によって社会生活を営んでいると主張した.Goffman (213) の定義によると,face とは次のようなものである.
The term face may be defined as the positive social value a person effectively claims for himself by the line others assume he has taken during a particular contact. Face is an image of self delineated in terms of approved social attributes---albeit an image that others may share, as when a person makes a good showing for his profession or religion by making a good showing for himself.
日本語にも「面目を失う」「面子を重んずる」などの表現があるので face の概念は分かりやすいだろう.英語にも "to lose/save face" という言い方がある.
face-work の理論の骨子は,Hudson (113--14) が以下の通りに述べている.
The basic idea of the theory is this: we lead unavoidably social lives, since we depend on each other, but as far as possible we try to lead our lives without losing our own face. However, our face is a very fragile thing which other people can very easily damage, so we lead our social lives according to the Golden Rule ('Do to others as you would like them to do to you!') by looking after other people's faces in the hope that they will look after ours. . . . Face is something that other people give to us, which is why we have to be so careful to give it to them (unless we consciously choose to insult them, which is exceptional behaviour).
人には自他ともに認める「面子」がある.自分はそれを宣伝し,失わないように努力していると同時に,他人もそれを立て,傷つけないように努力している.これが,face-work の原理だ.
Brown and Levinson の politeness の研究以来,face には positive face と negative face の2種類が区別されると言われる.両者ともに自他の尊重を表わすが,前者はその人への尊重を示すこと,後者はその人の権利を尊重することに対応する.だが,この区別は必ずしも分かりやすいものではない.Hudson は代わりにそれぞれを solidarity-face と power-face と呼びかえている (114) .
Solidarity-face is respect as in I respect you for . . ., i.e. the appreciation and approval that others show for the kind of person we are, for our behaviour, for our values and so on. If something threatens our solidarity-face we feel embarrassment or shame. Power-face is respect as in I respect your right to . . ., which is a 'negative' agreement not to interfere. This is the basis for most formal politeness, such as standing back to let someone else pass. When our power-face is threatened we feel offended. . . . Solidarity-politeness shows respect for the person, whereas power-politeness respects their rights.
親しい者に呼びかける mate, love, darling, Hi! などは solidarity-politeness の例であり,目上の人に呼びかける敬称,please などの丁寧化表現,婉曲語法などは power-politeness の例である.英語に T/V distinction があった時代の親しみの thou と敬いの you は,向きこそ異なれ,いずれも相手の face を尊重する politeness の行為だということになる.
関連して,「#1059. 権力重視から仲間意識重視へ推移してきた T/V distinction」 ([2012-03-21-1]) と「#1552. T/V distinction と face」 ([2013-07-27-1]) の記事,および「#1126. ヨーロッパの主要言語における T/V distinction の起源」 ([2012-05-27-1]) に張ったリンク先の記事を参照されたい.「顔」についての日本語の読みやすい文献としては,岡本真一郎の『言語の社会心理学 伝えたいことは伝わるのか』の第3章を挙げておこう
・ Goffman, Erving. "On Face-Work: An Analysis of Ritual Elements in Social Interaction." Psychiatry 18 (1955): 213--31.
・ Hudson, R. A. Sociolinguistics. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1996.
・ 岡本 真一郎 『言語の社会心理学 伝えたいことは伝わるのか』 中央公論新社〈中公新書〉,2013年.
[2013-05-19-1], [2013-06-02-1], [2013-06-03-1]の記事を受けて,再び taboo の言語学的意義について.Brown and Anderson の言語学事典の "Taboo: Verbal Practices" の項を読み,taboo の言語学的な側面に新たに気付いたので,3点ほどメモしておく.
(1) 南アフリカの Sotho 語においては,女性が義理の父親の名前を口にすることは禁じられている.このような taboo は,Papua New Guinea の Kabana 語など他の言語にも見られる現象である ([2013-05-19-1]) .さて,この義父の名前が「旅人」を意味する Moeti だった場合,普通名詞としての moeti (旅人)も忌避されるようになるが,さらに eta (旅する),leeto (旅(単数)),maeto (旅(複数)),etala (訪れる),etile (旅した(完了形)),etisa (訪れさせる),etalana (互いに訪れ合う)など,その女性にとって忌避すべきと感じられるほどに十分な形態的関連がある一連の語句もともに忌避されるようになる.ここでは単なる音声的な類似以上に,形態的な関連というより抽象的,文法的なレベルでの類似性が作用していることになる.
(2) 同じく Sotho 語の例で,上記のような女性は,taboo とされている語を口にすることは許されないが,文字で書くことは許される.これは,書き言葉が話し言葉よりも間接的な機能を果たしていることを示唆する.各媒体のもつ語用論的な機能の差異を示す例として,興味深い.
(3) 中国語や日本語では,「死」との同音により「四」を忌み嫌う.部屋番号や祝いの席で四の数を避けるということは広く行なわれている.日本語の「梨」も縁起の悪い「無し」を連想させるとして,「有りの実」と言い換えることは「#507. pear の綴字と発音」 ([2010-09-16-1]) で見たとおりである.これらの背景には,同音異義という語彙の問題がある.同音異義は,程度の差はあれあらゆる言語に見られ,必ずしも taboo を招く間接的な要因となっているわけではないが,中国語や日本語に特に同音異義が多い点は指摘しておく必要がある.また,中国語の「死」と「四」は分節音としては同一だが声調は異なるということ,日本語の「梨」と「無し」もアクセントは異なるということは,同音異義の関連づけに際して,超分節的な韻律よりも分節音のほうが重視される傾向があるということを示唆する.これは,音韻や韻律の属する階層という理論的な問題に関わってくるかもしれない.
なお,Brown and Anderson の記事についている taboo に関する書誌は有用.
・ Brown, E. K. and Anne H. Anderson, eds. Encyclopedia of Language and Linguistics. 2nd ed. Elsevier, 2006.
[2013-05-19-1], [2013-06-02-1]の記事に引き続き,taboo について.今回は,taboo 語と同義語 (synonym) の関係に焦点を当て,その言語学的な意義を考える.
一般に言語には完全同義語は存在しない,あるいは非常に稀であるとされる.完全同義語とは1つの signifiant に対して2つ(以上)の singifié が結びつけられている記号のあり方を指す.学術用語や技術用語などに見られることはあるが,日常語彙では非常に珍しい.完全同義語は習得に余計な負担がかかると考えられるから,ほとんど存在しないことは理に適っている.
しかし,語彙交替が比較的頻繁である言語において,新形と旧形のペア,あるいは2つの新形のペアが,同一指示対象を指しながら共存し続けるという例がないわけではない.言語において語彙交替が頻繁な状況というのは,多数の言語との濃密な混交によるものなどが考えられるが,もう1つ考えられるのは,昨日の記事「#1497. taboo が言語学的な話題となる理由 (2)」 ([2013-06-02-1]) で取り上げた Twana 語にみられるような taboo の習慣と関係するものである.
Suarez は,アルゼンチンの Santa Cruz 州で話されている Chon 語族の Tehuelche 語に,異常なほど多くの完全同義語が存在するという事実を報告している(Ethnologueによると,同語族の Mapdungun と言語的に同化しているという.こちらの言語地図を参照 *)."head", "hair", "spoon", "kind of vulture", "gull", "knife", "horse", "dog" などの日常語に,2つ以上の完全同義語が存在するという.完全同義語であることを示すには,生起環境,denotation (明示的意味),connotation (含蓄的意味),register (使用域)などを詳細に検討する必要があるが,この点で Suarez (193) は説得力のある数点の議論を展開しており,これらが完全同義語であることは受け入れてよさそうだ.では,なぜ Tehuelche には,通言語的に稀とされる現象が観察されるのだろうか.
背景には,あだ名の習慣と死者の名前に関する taboo の習慣がある.Tehuelche では個人にあだ名をつける習慣が広く行なわれており,例えば太った女性を「大瓶」と呼ぶ如くである.ある人が死ぬと,1年間の服喪のあいだ,本名とともにあだ名も taboo の対象となる.本名は共時的に意味が空疎だが,あだ名は一般の語を基体にもつ派生的な表現として有意味であるから,後者の派生元の語を一般的に用いることができなくなるいうのは不便である.そこで代替語が生み出されることになる.例えば,「犬」をあだ名にもつ人が亡くなると,「犬」の語は使用禁止となり,代わりに「嗅ぐもの」などの表現が用いられることになる.
だが,服喪が終わっても,新表現「嗅ぐもの」が犬を意味する語として引き続き使われてゆくということもあるだろう.やがて「嗅ぐもの」が犬を意味する語として一般的に用いられるようになると,もはや語内の形態分析,意味分析がなされなくなり,直接的に犬を指示する語として定着するだろう.つまり,ここでは意味変化が生じたことになる.
このように taboo の習慣に動機づけられた語彙交替と意味変化が何度となく生じ,「犬」を表わす数々の表現が盛衰する.そのなかで,いくつかのものは長く生き残り,完全同義語として並存するという状況が生じる.通常,2つの完全同義語が現われると,一方が消えるなり,双方が connotation を違えるなりして完全同義語状態が解消されるものだが,文化的な要因により語彙の盛衰がとりわけ激しい Tehuelche にあっては,事情は異なるようだ.
語彙交替,意味変化,完全同義語の形成と継続 --- これらの語彙的,意味的な変化を促す文化装置として,Tehuelche の taboo はすぐれて言語学的な話題を提供している.
・ Suarez, J. A. "A Case of Absolute Synonyms." International Journal of American Linguistics 37 (1971): 192--95.
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