01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
2024 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2023 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2022 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2021 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2020 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2019 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2018 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2017 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2016 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2015 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2014 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2013 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2012 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2011 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2010 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2009 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
[2011-12-23-1]の記事「#970. Money makes the mare to go.」で取り上げた諺について,調べてみた.OED でのこの諺(の変種)の初例は1659年のもので,そこでは the grey mare (葦毛の雌馬)が目的語となっている.
1659 Howell Lex., Prov. 6/2 Money makes the grey Mare to go.
the grey mare は慣用的に「かかあ天下」 (the wife who rules her husband) を意味し,それ自身が別の諺 the grey mare is the better horse (女房が夫を尻に敷く)の一部となっている.これは,「葦毛の馬が良馬」と言い張る妻の強引さに負けて,葦毛の雌馬を買わされた男の故事に基づく諺と言われる.こちらの諺の初例は,OED では16世紀のことである.
さて,Simpson の英語諺辞典によると,Money . . . の variation としては,1500年より前から見られる.つまり,この諺の発想や教訓は,標題の形で文証されるよりもずっと早くから英語として知られていたことになる.
a a1500 in R. L. Greene Early English Carols (1935) 262 In the heyweyes ther joly palfreys Yt [money] makyght to . . praunce. 1573 J. SANFORDE Garden of Pleasure 105v Money makes the horsse to goe. 1670 J. RAY English Proverbs 122 It's money makes the mare to go. 1857 KINGSLEY Two Years Ago p. xvi. I'm making the mare go here . . without the money too, sometimes. I'm steward now. 1930 L. MEYNELL Mystery at Newton Ferry xiii. 'Tis money makes the mare go. . . They're all afteer it, every one of them. 1978' Countryman Spring 183 Weardale farmer's advice to daughter about to reject proposal of marriage from a wealthy tradesman: 'Never cock your snoop at money, my lass, 'cos it's money that makes the mare to go'.
上記の例には原形不定詞が用いられている異形もみられるが,実は,現代でも主要な辞書では to がカッコに入れられている.
mare の語源については,古英語では m(i)ere に遡り,これは mearh "horse" の女性形である.この古英語 mearh は同義の Gmc *marχjōn, IE *marko- へと遡る.もともと「馬丁」を意味していた marshal (司令官)もこの語根に由来する.
・ Simpson, J. A., ed. The Concise Oxford Dictionary of Proverbs. Oxford: OUP, 1982.
昨日の記事「#976. syntagma marking」 ([2011-12-29-1]) で取り上げた橋本萬太郎を知ったのは,先日の日本歴史言語学会にて,北海道大学の清水誠先生の「ゲルマン語の「nの脱落」と形容詞弱変化の「非文法化」」と題する研究発表のなかでその名前が触れられていたからである.
古英語や,部分的に中英語にも見られたゲルマン諸語の形容詞弱変化の典型的な語尾 -n が摩滅してゆくことによって,本来は性・数・格の一致という文法的機能を有していた弱変化の屈折体系が「非文法化」してゆく過程について論じる研究発表だった.-n を含む形容詞弱変化語尾が完全に消失してしまったのであれば非文法化も何もないわけだが,ぎりぎりのところで -e などの母音語尾が残っており,それでいてその語尾はかつてのような統語的な一致を示すわけではないという中途半端な段階が,いくつかのゲルマン語に見られる.例えば,アフリカーンス語では,かつての屈折語尾に由来する -e 語尾の有無は,形容詞語幹の形態的条件によって自動的に決まってくるものであり,統語的な条件は勘案されないという.
清水先生は,形容詞屈折語尾の非文法化とは,別の言い方をすれば,それが「形容詞+名詞」を連結する単なる「テープ」へ変容したということであると指摘する.「テープ」とは,形容詞と名詞の連結度を強めるために母音や -n を中間に挟み込むという syntagma marker としての働きにほかならない.それは音便 (euphony) としても役立つと思われ,統語的機能は限りなく弱いとしても,存在意義がまったくないということにはならなそうだ.また,多くのゲルマン語で,叙述用法では形容詞の屈折語尾が保たれにくいという事実が見られるが,これは関係する名詞との連結度が限定用法の場合よりも弱いためと説明できるだろう.
たまたま,目下,中英語の形容詞屈折体系の崩壊 (ilame) に関心があるので,崩壊の過程で化石的に残っていた形容詞屈折語尾は,あくまで syntagma marker として,つなぎの「テープ」として,機能していたにすぎない,と考えることができるかもしれないと,清水先生の発表を聴いて思った次第である.
中英語期のあいだ,形容詞屈折語尾は消失しそうになりながらも,しぶとく生きながらえていた.統語的な一致の意識がかろうじて残っていたゆえとも考えられるが,それとは別に,言語に普遍的な syntagma marking からの要求があったがゆえ,と想像することもできるかもしれない.speculative ではあるが,刺激的な議論となりうる.
・ 橋本 萬太郎 『現代博言学』 大修館,1981年.
橋本萬太郎による syntagma marking という考え方を知った.
[2011-06-02-1]の記事「#766. 言語の線状性」で触れたように,言語(特に音声言語)は線状性 (linearity) の原則に従わざるを得ない.音韻論,形態論,そして特に統語論においてよく知られているように,言語能力は階層 (hierarchy) により2次元で構成されているが,その物理的実現としての音声は時間に沿って1次元で配されるほかない.そこで,話者は,実現としては1次元とならざるを得ない音声連続のなかに,その背後にある2次元的な階層を匂わせるヒントを様々な形でちりばめる.そして,聴者はそれを鍵として2次元的な階層を復元する.このヒントの役割,背景にある2次元の統語単位の範囲を標示する機能を,橋本は syntagma marking と呼んでいる.
ヒントの種類は多岐にわたる.母音調和などの音韻的手段,性,数,格などを表わす屈折接辞や統語的一致を示す屈折接辞という形態的な手段,強勢,音調,イントネーション,休止などの超分節音的な手段にいたるまで様々だ.例えば,[2011-11-09-1]の記事「#926. 強勢の本来的機能」で述べた強勢の contrastive あるいは culminative な役割とは,換言すれば,語という統語単位の範囲を示す syntagma marking のことである.橋本の言を借りて説明を補おう (159) .
つまり,言語によっては,
出てこられる母音の種類の制約(アルタイ諸語)
アクセントの縮約(日本語,朝鮮語など)
音節音調のサンディー(閩語,客家語)
音域の制約(南東諸島,南アジア諸語)
屈折語尾(主なインド・ヨーロッパ語)
語末分節音(子音・母音)のサンディー(サンスクリット)
のように,物理的事件としては,さまざまであるが,言語事象としては,これを一歩抽象化すれば,これらにすべて,それぞれの言語におけるシンタグマのマーカーとしての,普遍的な役割のあることが,わかってくるのである.
さらに,橋本は言語の一般原理としての syntagma marking について次のようにも述べている (394--95) .
シンタグマ・マーキングには,このほかにも,言語によって,休止(ポーズ)をつかったり,シンタグマとシンタグマのさかいめの母音をかえたりするというような,いろいろなやりかたがある.その多様性こそ,まさしく,無限であるかもしれないが,記号体系の形式上の特徴として,一歩抽象化すれば,すべて,シンタグマ・マーカーとして,一般的にとらえることができるのである.その表記そのもの,マークそのものは,「あまりにも抽象的」で,発音もできないかもしれない.しかし,そのマーキングに相当するところの,個々の言語の物理的「事件」は,その言語をしっているひとなら,だれでも,容易に音声の段階に,その言語なりのかたちに再現できる.その意味では,みぎにことわったとおり,それは,「音素」や「音韻」にくらべても,まさるともおとらぬ,現実性をもった理論構成物なのである.
英語史の観点からとりわけ興味深いのは,現代英語では syntagma marker としての屈折体系は衰退しているが,代わりに強勢体系がそれを補っているのではないかという橋本の言及である (160--61) .前者の衰退が先か,後者の発達が先かは,ニワトリとタマゴの関係であると述べていながらも,相互に関係が深いだろうということは示唆している.
屈折の衰退という英語史上(そしてゲルマン語史上)の大きな問題を考えるにあたって,新たな視点を見つけた思いがする.
・ 橋本 萬太郎 『現代博言学』 大修館,1981年.
昨日の記事「#974. 3人称代名詞の主格形に作用した異化」([2011-12-27-1]) で,子音を違えるという異化作用によって homonymic clash を回避した可能性について論じたが,それは3人称代名詞の主格に限っての議論だった.では,斜格はどうだったかというと,状況は異なっていた.
3人称複数代名詞の th- 形の受容のタイミングが格により異なっていたことは,英語史上,よく知られている.複数主格形 they の受容は初期中英語だが,斜格形の their や them などは後期中英語の Chaucer でも一般的ではなかった.そして,この受容の時間差は,通常,頻度の差と関係していると説明される.主格は斜格に比べて使用頻度が高く,それだけ区別する必要性も大きい.homonymic clash を回避すべき機会が多い分,主格のほうが早く刷新形を受け入れた,というわけだ.
主格と斜格の頻度の差による説明は,3人称複数の th- 形についてなされるのが普通だが,同じ議論は3人称複数以外の代名詞形態についても適用できそうだ.古英語の人称代名詞体系では,昨日取り上げた主格だけではなく,斜格においても homonymy がみられた.例えば,Late West-Saxon 方言の標準的なパラダイム ([2009-09-29-1]) に従えば,his は男性単数属格かつ中性単数属格,him は男性単数与格かつ中性単数与格かつ複数与格,hīe は女性単数対格かつ複数対格であり,衝突の機会は確かにあった.近代英語以降の観点からみれば,結論としてはこれらの衝突も回避されたことになるが,これら斜格での刷新形の受容のタイミングは,主格に比べれば遅かったようである.一例として,中性単数属格の his が its に置換されたのは,[2009-11-11-1]の記事「#198. its の起源」で見たとおり,近代英語になってからだ.
斜格では,中英語期に対格と与格の融合 (syncretism) という一大変化が進行しており,単純に主格の発達と比べることはできない.斜格は,主格にみられるような異化作用によってではなく,格の融合によってそのパラダイムを再編成したといってしかるべきだろう.とはいえ,やはり主格に比べれば衝突が許容されやすい傾向,換言すれば刷新形の受容が(あったとすればの話しだが)遅れる傾向は強いといえそうだ.その際に考えられる理由は,やはり頻度の差ということ以外には考えつかない.
古英語から中英語にかけての時代は,3人称代名詞体系が大変化を被った時代である.古英語では3人称代名詞は一貫して h で始まる形態を保持しており,性・数・格の区別は主として h に後続する母音によってなされていた.his, him, hīe, hit などの同音異義 (homophony) は確かに存在したが,体系に異変を生じさせるほどの問題とはなっていなかった.(古英語,中英語,現代英語の人称代名詞体系の比較には,##155,181,196 を参照.)
ところが,中英語期に近づくと,母音の水平化が進行し,特に主格形において homophony が顕著になってきた.古英語の男性単数主格 hē,女性単数主格 hēo,複数主格 hīe が,母音の区別の曖昧化により,いずれも he のような形態へと収斂してしまう機会が増えてきたのである.方言によっては最小限の母音の区別が保たれ,h- 形の保たれた場合もあるが,北部方言を代表とする多くの方言では,同音異義衝突 (homonymic clash) を避けるかのように,刷新形を受け入れていった.このようにして,現代英語の分布である男性単数主格 he,女性単数主格 she,複数主格 they の原型が作られた.
以上の homonymic clash 回避の議論は,[2011-04-10-1]の記事「#713. "though" と "they" の同音異義衝突」や[2011-06-28-1]の記事「#792. she --- 最も頻度の高い語源不詳の語」でも触れた.今回新たに考えたのは,衝突の回避とは,形態的な区別を明確化する言語変化として,広く異化 (dissimilation) の問題とも捉えられないかということである.男性単数主格の h-,女性単数主格の sh-,複数主格の th- に加え,中性単数主格が古英語形 hit から h を落としていったことも注目すべきである([2010-08-07-1]の記事「#467. 人称代名詞 it の語頭に /h/ があったか否か」を参照).結果的に,互いの語頭子音(の有無)で明確に区別されるようになったのがおもしろい.
かつては一律に語頭子音 h- をもち,主として後続する母音によって区別していた性や数が,今やむしろ語頭子音を違えることで明確に区別されるようになったというのだから,言語変化は不思議だ.後からみれば,音韻変化によって崩れかけた3人称代名詞体系が異化作用によって崩壊を逃れたかのようである.言語体系の治癒力 (therapeutic power) というものを想定したくなる言語変化の事例だろう.
2011年12月の半ばにゼミ学生が提出した卒業論文のタイトルをリストアップする(緩やかな分野別の順序で).2009年,2010年のリストと合わせて,##973,608,266 を参照.
(1) イギリス英語における単数普通名詞と複数普通名詞の頻度 --- 書き言葉と話し言葉のジャンル別観点から ---
(2) 名詞不規則複数形のゆれについての通時的研究
(3) 書き言葉における do/make を用いた複合述語の増加
(4) 近代英語後期における be 完了形の減少
(5) 現代アメリカ英語から見る HELP + 不定詞構文における to 不定詞と原形不定詞 --- 形態と有生性の観点から ---
(6) 味覚形容詞「酸っぱい」と "sour" にみる共感覚表現の日英比較
(7) アメリカにおける性差別に関する PC 表現の変遷
(8) カナダ英語がアメリカ英語に及ぼした語彙における影響
(9) 動詞と共起する「関連」の前置詞 about, over, on における用法の差異
(10) アメリカ英語の綴字改革における Noah Webster の影響力はどの程度のものなのか
(11) 書き言葉の媒体の変化が与える綴り字への影響
(12) 話しことばに現われるジェンダーに隠れた年齢差
(13) インドにおける多様性と統一性 --- インド英語における現地語由来の語彙に現われた特徴 ---
(14) The Identity Problem in Singlish Controversy
昨年度までと同様に,扱われている話題は多岐にわたる.前年度から続く特徴としてはコーパス利用が14件中10件もあることである.授業でコーパスを紹介する際に,テーマによっては卒論での使用も考慮に入れてみては,と述べているのだが,当初の予想よりコーパスへの関心が高い.
分野としては,伝統的な英語学の区分けによれば形態,統語,意味,語用,語彙,語法,綴字の研究があり,音声が見られないくらいである.社会言語学的な関心も目立っており,コーパスにより比較的手軽に扱えるようになってきた英語変種の研究が増えている.地域変種でいえば,英米のほか,カナダ,インド,シンガポールの英語が取り上げられた.
時代でいえば,2件が近代英語に触れているが,それ以外はすべて現代英語である.(11) はインターネット上のデータを用いた最新の Netspeak の考察を含んでおり,現代というよりは現在進行中の話題だ.
これだけテーマに幅があると着いて行くのが大変だが,その過程で私も学べることが多く,楽しいのも事実である.来年度も variation の広さに期待したい.
昨日の記事「#971. 「help + 原形不定詞」の起源」 ([2011-12-24-1]) の冒頭で触れたが,同構文が使役の意味を帯びてきているということについて考えたい.
Leech et al. (190) は,次の例文を挙げて help の使役性を指摘している.
(19) He made important contributions to a number of periodicals such as Il Leonardo, Regno, La Voce, Lacerba and L'Anima which helped establish the respectability of anti-socialist, anti-liberal and ultra-nationalist ideas in pre-war Italy. [F-LOB J40]
(20) The right person may just happen to come along, or it may be necessary to take certain steps to help this happen. [BNC B3G]
いずれの例においても,「助ける」という prototypical な意味というよりは「貢献する,可能とする」という使役に近い意味 ("weak causation") が認められる.その使役性の強さは,2つ目の例文でいえば "enable such a thing to happen" と "make such a thing happen" の中間的な強さではないかとも述べている (190) .
Mair (121--26) は,help の使役的意味の発生を,文法化 (grammaticalisation) の過程として論じている.help が「助ける」という語彙的な意味を失い,より文法的な機能と呼んでしかるべき「使役」の意味を獲得しつつあること,あたかも助動詞であるかのように直後に原形不定詞を取る構文が増えてきていること.これらは,本動詞が助動詞化してゆく過程,広くいえば文法化の過程にほかならない.[2009-07-01-1]の記事「#64. 法助動詞の代用品が続々と」と合わせて考えたい問題である.
・ Leech, Geoffrey, Marianne Hundt, Christian Mair, and Nicholas Smith. Change in Contemporary English: A Grammatical Study. Cambridge: CUP, 2009.
・ Mair, Christian. Three Changing Patterns of Verb Complementation in Late Modern English: A Real-Time Study Based on Matching Text Corpora." English Language and Linguistics'' 6 (2002): 105--31.
昨日の記事「#970. Money makes the mare to go.」 ([2011-12-23-1]) で,使役動詞 make に後続する to 不定詞について調べたが,今日は現代英語で使役的な意味を帯び始めているといわれる help に不定詞が後続する構文を取り上げたい.
「help + (目的語 +) 不定詞」の構文については,現代英語において不定詞の形態が to 不定詞から原形不定詞へ移行しつつあるとして,多くの関連研究がある.20世紀半ば以降,原形不定詞が増加していると言われるが,実のところ help と構造をなす原形不定詞の起源はかなり古くまで遡る.
まず,OED を見てみよう."help", v. B.5. で,help が不定詞を後続させる構文について述べられている.目的語(不定詞の意味上の主語)を伴わない場合が 5.a.,伴う場合が 5.b. で扱われており,いずれも to 不定詞の使用が普通だが,原形不定詞の使用を示す最も早い例が16世紀に現われる.次のような注記があった.
In this and b the infinitive has normally to, which however from 16th c. is often omitted: this is now a common colloq. form.
OED では中英語に原形不定詞の使用はなかったと明記しているわけではないが,それを示唆しているように読めそうだ.
ところが,Mustanoja (532) によれば,中英語からの例は確かにある.
. . . the subject of the infinitive, originally a dative, is no doubt looked upon as an accusative in ME. The infinitive usually takes to, but not invariably: --- mine friende þe ic halp to sweriȝen (Vices & V 9); --- alle þat halpe hym to erie, to selle or to sowe (PPl. B vii 6); --- to helpe him to werreye (Ch. CT A Kn. 1484); --- Rymenhild help me winne (Horn 991); --- somme hulpen erie his half acre (PPl. B vi 118); --- I wol thee helpe hem carie (Ch. CT C Pard. 954). Chaucer has four cases of help with the plain infinitive and seventeen with the infinitive with to or for to. The two instances found in the Book of London English (non-literary prose of Chaucer's time) are followed by an infinitive with to (for to): --- Þe wheche dede paien diverse sommes of monye for to helpe to destruye Þe weres yn Tempse (151); --- [dyverse percelles paied] to ij wemen for her travayle yn helpynge to make clene Þe halle (174).
ここで,MED に当たってみると,"helpen (v.)" 1. (b) の用例にも少数だが原形不定詞の例があった.
今回は,この構文が中英語にまで遡ることまではわかった.近代以降の同構文の発達については,コーパスを用いた Mair の研究(特に pp. 121--26)が詳しい.
・ Mustanoja, T. F. A Middle English Syntax. Helsinki: Société Néophilologique, 1960.
・ Mair, Christian. Three Changing Patterns of Verb Complementation in Late Modern English: A Real-Time Study Based on Matching Text Corpora." English Language and Linguistics'' 6 (2002): 105--31.
標記の文は,「お金は(しぶとい)雌馬をも歩かせる(=地獄のさたも金次第)」という諺である.m の頭韻が効いているほか,一見非文法的にみえる to があることにより強弱のリズム (trochee) が実現しており,韻律的には完璧な諺だ.
現代標準英語の規範文法では,使役の make に to 不定詞が連なることは許されていないが,古い英語では可能だった.諺という固定表現において化石的に残存した珍しい例である.使役の make に to 不定詞が可能だったことは,現代英語でも受動態では He was made to wait for some time. のように to が「復活」することと関連する.かつては原形不定詞も to 不定詞もあり得た,しかしやがて前者が優勢となり,後者は受動態という限定された統語環境で生き残るのみとなった.これが,make における不定詞選択の歴史の概略である.
中英語での make の不定詞選択について,Mustanoja (533) を参照しよう.
. . . both forms of the infinitive occur with this causative verb: --- heo makede him sunegen on hire (Ancr. 24); --- she maketh men mysdo many score tymes (PPl. B iii 122); --- þe veond hit makede me to don (Ancr. 136); --- alwey the nye slye Maketh the ferre leeve to be looth (Ch. CT A Mil. 3393). In the Book of London English 1384--1425, make is accompanied by the plain infinitive in three cases and by the infinitive with to in five.
MED "māken (v. (1))" では,15. (b) が使役の make を扱っているが,多くの用例を眺めると,to 不定詞の使用も普通にみられる.OED では,"make", v.1 53.a. が to 不定詞との構造を,53.b. が原形不定詞との構造を記述している.いずれも中英語最初期から用例が見られる.
関連する話題について一言.現代英語に起こっている統語変化に,help が to 不定詞でなく原形不定詞を伴う傾向が強まってきているという現象がある.だが,help でも受動態ではいまだに to 不定詞が優勢のようであり,これは make の不定詞選択の歴史と平行しているようにみえ,興味深い.
・ Mustanoja, T. F. A Middle English Syntax. Helsinki: Société Néophilologique, 1960.
[2010-12-08-1]の記事「#590. last name はいつから義務的になったか」で,ノルマン征服以降,イングランドで名前に last name を付す慣習が発達したことを取り上げた.
last name の典型は,of を伴って出身地などの地名を用いるものであり,その最も有名な初期の例の1つが,The Owl and the Nightingale の l. 191 に現われる(そして作者その人ではないかと疑われる) Mayster Nichol of Guldeuorde である.Atkins 版 (19) では次のような注記がある.
191. Maister Nichole of Guldeforde. The full designation of Nicholas is not without its interest, pointing as it does to certain changes characteristic of the 11th and 12th centuries. Under Norman influence the single personal names of the O.E. period had become supplemented by surnames denoting, amongst other things, place of birth. Thus in the later sections of the A. S. Chron. such names as Rotbert de Bælesne 81104), Willelm of Curboil (1123), Hugo of Mundford (1123) are found.
固有人名に限るわけではないが,人を表わす名詞と地名とを結びつける of については,OED の "of", prep. 47.a. に説明がある.この of の本来の意味は「?出身の,?から来た」であり,古英語の an monn of ðǣre byriȝ や Ða men of Lunden byriȝ などに見られるが,11世紀には必ずしも出自を示すわけではなく「?に住む」という所属の意味へと変化していった.
関連して,[2011-07-19-1]の記事「#813. 英語の人名の歴史」を参照.
・ Atkins, J. W. H., ed. The Owl and the Nightingale. New York: Russel & Russel, 1971. 1922.
12月17日,18日に,日本歴史言語学会の設立総会および第一回大会が大阪大学で開催された.関心があるので出席してみたが,いくつかの興味深い発表があった.特に,輿石哲哉氏の発表「英語の語形成史と形容詞のタイプについて」が語彙借用史の観点からおもしろかった.
形容詞には,意味的に2種類が区別されるという.1つは,評価を含み,程度を示すことのできる qualitative adjective (QA) で,good, beautiful, kind などがその典型である.これらは評価を示すものであり,very で強調できるし,比較級も作れる.もう1つは,評価を含まず,関係を示す relational adjective (RA) であり,Indian, linguistic, opposite などがその典型である.通常,強調したり比較級にすることはできない.
輿石氏の主張のなかで興味深かったのは,RA は QA よりも指示性が強く,名詞に一歩近いということである.換言すれば,評価を示す QA こそが形容詞のプロトタイプであり,RA は多かれ少なかれそこから逸脱しているために,形容詞的な性格が弱く,逆に名詞的性格が強いといえる.さて,語の借用といえば,数的に名詞が圧倒していることが知られている (##902,879,666,667) .このことは,形容詞でいえば典型的な形容詞である QA よりも,名詞に一歩近い形容詞である RA のほうが,より多く借用されているという事実と関連するのではないか.以上が,輿石氏の主張の一部であった.
確かに,日本語でも名詞に「の」や「な」や「的」をつければ,どんな名詞でも形容詞な用法へと転化できる.この形容詞の意味・機能を "relation" と呼ぶのであれば,relation の種類 のほうが quality の種類よりもずっと多いことは頷ける.名詞の数と同じだけ対応する形容詞があるということになるからだ.これは借用語に限ったことではないだろう.借用語か本来語かにかかわらず,形容詞全体における QA と RA の割合は,そもそも後者に大きく偏っていると考えられる.
だが,借用語に限ると,興味深い事実が浮かび上がってくる.現代英語ではなく,フランス借用語が本格的に流入した中英語の時代に絞った場合の話しだが,借用語形容詞を眺めてみると,どうも上記の予想に反して QA の割合がなかなか多そうである.形容詞の具体例は,[2011-02-16-1]の記事「#660. 中英語のフランス借用語の形容詞比率」で挙げた形容詞一覧を参照されたい.QA の多いことが見て取れるだろう(もちろん,この一覧はクレパンによる抜粋であり,網羅的ではないが).また,この一覧は,本来語の QA と比較されるくらいに高頻度の基本語を多く含んでいることにも気づくかもしれない.英語におけるフランス借用語の形容詞に,案外と QA が多いこと,特に高頻度で基本的な QA が多いことは,注目に値する事実である.
##948,949,950,951 の記事で,厳密に論理的には説明のつけられない譲歩表現 Be it never so humble (= "no matter how humble it is") について触れた.中英語ではごく普通に見られる表現で,つい最近も The Owl and the Nightingale にて例に出くわした.しかし,その例では,ただでさえ解釈の困難な譲歩表現が複雑な統語的文脈のなかで現われており,全体として極めて難解な読みの問題となっている.
Atkins 版から,C と J テキストの ll. 341--48 を再現しよう.
(C text)
341: Eurich murȝþe mai so longe ileste
342: þat ho shal liki wel unwreste:
343: vor harpe, 7 pipe, 7 fuȝeles [song]
344: mislikeþ, ȝif hit is to long.
345: Ne bo þe song neuer so murie,
346: þat he ne shal þinche wel unmurie
347: ȝef he ilesteþ ouer unwille:
348: so þu miȝt þine song aspille.
(J text)
341: Eurych mureþe may so longe leste,
342: Þat heo schal liki wel vnwreste:
343: For harpe, 7 pipe, 7 foweles song
344: Mislikeþ, if hit is to long.
345: Ne beo þe song ne so murie,
346: Þat he ne sal þinche vnmurie
347: If he ilesteþ ouer vnwille:
348: So þu myht þi song aspille.
問題は,ll. 345--48 の構文である.Atkins は,p. 32fn にてこの譲歩表現について次のように説明を与えている.
345. neuer so murie. Instance of an irrational negative in a concessive clause---a construction found in O.E. and other Teutonic languages (see W. E. Collinson, M.L.R. x. 3, pp. 349--65) as well as occasionally in A.-Norman, where it is apparently due to English influence (see J. Vising, M.L.R. XI. 2, pp. 219--21): cf. A.S. Chron. (1087), nan man ne dorste slean oðerne man, næfde he næfre swa mycel yfel gedon.
この箇所の Atkins の解釈については,l. 346 の ne は redundant と解されると述べていることから,"No matter how merry the song may be, it shall seem very unmerry if it lasts . . ." と読んでいることが想像される.だが,この場合 l. 346 の行頭の þat の役割を無視していることになり,その説明が欠けている.
Cartlidge も,ne と unmurie で合わせて "unmerry" として解釈しており,þat についても無言であるから,Atkins の読みに近いと考えられる.Cartlidge の与えている現代英語訳は,"No matter how merry the song might be, it won't seem at all amusing if it lasts too long, undesirably, . . ." (10) である.
þat の問題を解決しようとしている読みに,Stanley (114) がある.
345ff. The construction is difficult. Perhaps translate (assuming ellipsis), 'However joyous the song may be, it is never so joyous that it will not seem very miserable if it. . . .' he in lines 346f refers to song, a masc. n.
この読みでは,ne は redundant ではなく,þat は主節部の省略された so . . . that 構文の þat だと説明されている.Burrow and Turville-Petre (94) もこの読みに従っている.
345--6 The logic of these lines requires their expansion: 'However delightful the song may be, (it will never be so delightful) that it will not seem very tiresome.'
筆者としては,þat 問題を解決している Stanley 派の読みに賛成である.譲歩表現中の so が,本来続くはずだった so . . . that 構文の so と重なり合い,妙な構文として現われたということではないか.繰り返し現われる否定辞によって論理がほぼ解読不能の域に達しているが,so . . . that 構文の主節部の省略,あるいはより適切には syntactic contamination ([2011-05-04-1]の記事「#737. 構文の contamination」を参照)としてであれば,理解可能になる.
・ Atkins, J. W. H., ed. The Owl and the Nightingale. New York: Russel & Russel, 1971. 1922.
・ Cartlidge, Neil, ed. The Owl and the Nightingale. Exeter: U of Exeter P, 2001.
・ Stanley, Eric Gerald, ed. The Owl and the Nightingale. Manchester: Manchester UP, 1972.
・ Burrow, J. A. and Thorlac Turville-Petre, eds. A Book of Middle English. 3rd ed. Malden, MA: Blackwell, 2005.
先日 Graddol を読んでいて,英語の未来予測に関連する章で,次のような英文に出くわした.
Futurologists inhabit a frontierland between historical facts and guesses about the future. Most of the practical techniques of strategic planning used by large corporations employ some kind of mix of empirical evidence together with the insight and judgement borne of practical experience. (16)
問題は,赤字で示した borne の語義・用法である.現代英語の規範文法では,動詞 bear の過去分詞形は,語義・用法によって born と borne の2形が区別される.Fowler (113) によると,使い分けは以下の通りである.
born(e). The pa.pple of bear in all senses except that of birth is borne (I have borne with this too long; he was borne along by the wind); borne is also used, when the reference is to birth, (a) in the active (has borne no children), and (b) in the passive when by follows (of all the children borne by her only one survived). The pa.pple in the sense of birth, when used passively without by, or adjectivally, is born (he was born blind; a born fool; of all the children born to them; melancholy born of solitude; she was born in 1950).
この動詞の過去分詞形の歴史的 variation を探ると,born, borne のほか過去形と同形の bore もありえた.OED "bear, v.1" 44 によると,17世紀前半には,3者のうち borne が語義にかかわらず優勢だったが,同世紀後半には torn, worn などとの類推のためか born が語義にかかわらず優勢となり,一方で bore も異形として頻度が増してきた.しかし,18世紀後半には,bore が廃され,borne が復活するという動きがあり,現在にまで続く語義・用法の使い分けが確立した.
近代英語中期における激しい異形間の攻防戦の背景と,最終的に Fowler の示すような規範が確立した背景については未調査だが,borne と born の両形のあいだに発音上の区別はなく,あくまで綴字上のみの問題であることこそが,規範文法として生きながらえてきた理由なのかもしれない.
さて,問題の borne of だが,文脈上の意味は「実際の経験から生まれた洞察力と判断力」と取れるが,「生まれた,生じた」という語義で用いられているのであれば born のほうが適切なはずではないかという疑問が浮かぶ.Fowler や OED の記述にもある通り,「生む」という物理的行為に焦点が当てられる場合には borne が適切となることはわかったが,その場合には,後続する典型的な前置詞は行為者を表わす by であり,起源を表わす of の例はどこにも触れられていない.of で修飾されている以上,「生む」行為が具体的にイメージされていることは確かで,それゆえに born ではなく borne が選ばれていると考えられそうだが,いろいろと辞書を参照しても明示的な説明が得られなかったので少々納得がいかなかった.
それならばと BNCWeb で borne of を検索してみたら,10件がヒット.適宜省略した形でコンコーダンスラインを示そう.
(1) . . . with a set of expectations borne of years of reading about the Masters . . .
(2) . . . a legacy of bigotry borne of his wish to improve his family's social standing.
(3) . . . with an indifference borne of familiarity.
(4) . . . through instinct borne of experience.
(5) It was a confidence borne of a quarter-of-a century of growing medical ascendancy . . .
(6) With skill borne of long practice . . .
(7) by fears borne of self-selected memories and infused by a false jingoism . . .
(8) It was partially borne of English desperation . . .
(9) . . . ignorance through lack of education, and idleness borne of enforced unemployment . . .
(10) I have also come away with lasting friendships, borne of total trust, respect and deep affection.
borne of に修飾される直前の名詞には傾向があることがわかる.期待,信念,直感,恐怖,怠惰など,主に心理作用を表わす名詞と共起しているようだ.コンコーダンスラインから湧き出てくる borne of の意味は,「?から生じる」からもう一歩踏み込んで「?によって生み育てられた」,さらには「?に裏付けられた」とまで読み込んで然るべきではないか.用例は少ないわけだが,学習者辞書にぜひとも1行を付け加えたい語義・用法である.
・ Graddol, David. The Future of English? The British Council, 1997. Digital version available at http://www.britishcouncil.org/learning-research-futureofenglish.htm.
昨日の記事「#964 z の文字の発音 (1)」 ([2011-12-17-1]) の話題について,もう少し調べてみたので,その報告.
アメリカ英語での zee としての発音について,Mencken (445) が次のように述べている.
The name of the last letter of the alphabet, which is always zed in England and Canada, is zee in the United States. Thornton shows that this Americanism arose in the Eighteenth Century.
この記述だと,zee の発音はアメリカ英語独自の刷新ということになるが,昨日も触れたように,zee の発音は周辺的ではあったが近代英語期のイギリス英語にれっきとして存在していたのだから,誤った記述,少なくとも誤解を招く記述である.より正しくは,Cassidy and Hall (191) の記述を参考にすべきだろう.
Though zed is now the regular English form, z had also been pronounced zee from the seventeenth century in England. Both forms were taken to America, but evidently New Englanders favored zee. When, in his American Dictionary of the English Language (1828), Noah Webster wrote flatly, "It is pronounced zee," he was not merely flouting English preference for zed but accepting an American fait accompli. The split had already come about and continues today.
昨日も記した通り,歴史的には z の発音の variation は英米いずれの変種にも存在したが,近代以降の歴史で,各変種の標準的な発音としてたまたま別の発音が選択された,ということである.アメリカ英語独自あるいはイギリス英語独自という言語項目は信じられているほど多くなく,むしろかつての variation の選択に際する相違とみるべき例が多いことに注意したい.
なお,ニュージーランド英語では,近年,若年層を中心に,伝統的なイギリス発音 zed に代わって,アメリカ発音 zee が広がってきているという.Bailey (492) より引用しよう.
In data compiled in the 1980s, children younger than eleven offered zee as the name of the last letter of the alphabet while all those older than thirty responded with zed.
・ Mencken, H. L. The American Language. Abridged ed. New York: Knopf, 1963.
・ Cassidy Frederic G. and Joan Houston Hall. "Americanisms." The Cambridge History of the English Language. Vol. 6. Cambridge: CUP, 2001. 184--252.
・ Bailey, Richard W. "American English Abroad." The Cambridge History of the English Language. Vol. 6. Cambridge: CUP, 2001. 456--96.
z に関しては,z の各記事で取り上げてきた.今回も,z の話題.
z はアルファベット最後の文字だが,これには理由がある. z は,セム諸語やギリシア語(6番目の文字 ζ "zeta" として)では普通に用いられていた.しかし,ラテン語には必要とされなかったので,ローマ人は当初は取り入れていなかった.ところが,後にギリシア語の借用語を表記するのに用いられるようになったのがきっかけで,アルファベットの文字列の最後に加えられ,やがて市民権を得ることとなった (Crystal 2003) .現代では,z は言語によって様々な音価,様々な役割で用いられている.
英語においては,-ize と -ise の対立がよく知られている.この対立は,大雑把にいって英米変種を区別するものとして知られているが([2010-02-26-1], [2010-03-07-1] の記事を参照),z にまつわるもう1つの重要な対立は,z 自身の文字としての発音に見られる.一般に,BrE では /zɛd/, AmE では /ziː/ と発音される.この違いは何によるものだろうか.
OED によると,ノルマン征服以来,イギリスでは zed の発音が途切れることなく行なわれてきたと考えられる.17世紀前後には,†zad, †zard, izzard, ezod, uzzard などの異形も行なわれていた.このなかで,2音節形はギリシア語 ζ "zeta" の発達形に,ロマンス諸語で母音が語頭音添加 (prosthesis) されたものに由来する.
ところが,優勢だった zed に対抗して,近代英語初期に音声学者が新しい発音を「発明」した.Alexander Gill の Logonomia Anglica (1619) では ez の発音が,Charles Butler の The English Grammar (1633) では ze の発音が提示されたのである.これは,y の文字の発音としてかつて ya や yi が提案されたのと同じように,アルファベットの他の文字の発音との平行性を実現するための,意図的な策,おそらくは教育的な配慮だったと考えられる.例えば,ze の発音により,z は b, c, d, e, g, p, t, v のそれぞれの標準的な発音と脚韻を踏むことになる.
このような流れで,zee の発音は zed と並んでイギリスでも部分的には行なわれるようになったようだが,後には衰退した.一方,2つの発音はアメリカへも持ち込まれ,後のアメリカでの選択は zee に軍配が上がった.z の発音にまつわる英米差は,多くの英語の英米差と同様,同じ選択肢のなかでの異なる選択に起因するものだとわかる.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
この5日間,人工言語についての記事を書いてきた (##958,959,960,961,962) .書きながら考えてきたことなのだが,人工言語の歴史を学ぶことは,自然言語の特徴や英語史の問題を考察する上で,新しい視点をもたらしてくれるようである.人工言語が必ずしも成功を収めていない事実と英語の実質的な世界的展開とのあいだに何らかの関係があるとすれば,それを探ることは有意義だろう.以下,この新しく得られそうな視点に関連して,5点ほど箇条書きでメモしておく.
(1) 自然言語の特徴が浮き彫りになる
人工言語に対する賛否両論は,そのまま,英語のような自然言語が世界共通語として機能している状況への人々の様々な反応を反映している.人工言語の長所と短所は自然言語の短所と長所に対応していることが多い.例えば,[2011-12-14-1]の記事「#961. 人工言語の抱える問題」の (2) に示したアイデンティ標示機能は,自然言語には必然的に備わっているが人工言語には欠けている.民族主義の興隆と人工言語の普及運動とが歴史的に反比例の関係になりやすかったことも,この点と関係しているだろう.一方で,程度の差はあれ双方がともに抱えている問題もある.例えば,同記事の (3) 言語的偏狭と (5) 反感は,双方ともに免れているとはいいがたい.
(2) 世界共通語としての英語の抱える問題が浮き彫りになる
英語に限らず自然言語の常ではあるが,言語的な不規則性が学習効率を妨げているという主張が,しばしば人工言語支持者からなされる.人工言語におけるその解決策案を参照すれば,多くの人が,英語の語学的な問題がどのような点にあると考えているかを推し量ることができる(綴字と発音の乖離,<th> 音,イディオム等々).また,人工言語支持者がしばしば示す英語への反感の根拠を探ることで,英語そのものが問題である側面と,英語が代表している自然言語一般の問題である側面とが区別できるかもしれない.
(3) 英語の抱える問題への解決策が議論できる
上の (2) で示されるような英語の問題に対する解決策として,どのような策が実現可能であるか,議論できるようになる.[2011-12-13-1]の記事で取り上げた Basic English や,理念的にその延長線上にあると考えられる辞書の defining vocabulary など,英語そのものを改革するような策ではなく,英語学習・教育に応用して成果をあげられるような現実的な策を提案できるようになるのではないか.
(4) 人々の世界共通語への期待の大きさが認識される
自然言語(英語)支持者と人工言語支持者は立場は違えど,共通して目指している方向がある.現代世界で日増しに高まる国際コミュニケーションの需要に応えることのできる世界共通語の希求と期待である.両者の立場は場合によっては180度異なるともいえるが,究極的に追い求めているものは同じ理想である.未来の世界共通語に寄せられている期待の大きさは,それほどまでに大きい.はたして,英語は,あるいはエスペラント語は,この重圧に耐えられるのか.
(5) ピジン語やクレオール語の再解釈を促す
Basic English に象徴される英語の語彙の単純化や,計画的に人工言語に埋め込まれた簡便な文法などが指向しているのは,学習の容易さである.Basic English や人工言語はあくまで人為的な人造物だが,より自然な形で学習の容易さを実現していると解釈できるものに,ピジン語やクレオール語がある.ピジン英語やクレオール英語は一般には劣った言語として捉えられることが多いが,世界共通語への期待という文脈に位置づければ,簡単化した自然言語として再評価することができるかもしれない.ピジン語あるいはクレオール語を,即,世界共通語の議論に結びつけることはもちろん突飛だが,少なくとも Basic English や人工言語と並べて比較することには意味があるのではないか.
過去4日の記事 (##958,959,960,961) で人工言語について取り上げてきたが,19世紀後半,人工言語への熱狂が再燃した時期に,彗星の如く現われて一世を風靡したエスペラント語 (Esperanto) について語らないわけにはいかない.
エスペラント語の生みの親 Ludwig Lazarus Zamenhof (1859--1917) は,当時ロシア帝国領にあった東ポーランドの Białystok に生まれた.ユダヤ人の家系に生まれた彼はロシア語を母語とし,民族間の軋轢のなかで成長し,眼科医となる.複雑な多民族,多宗教の環境で,彼が囲まれていた言語は Yiddish, Hebrew, Polish, German, Russian, Lithuanian と多数である.このような環境で培われた寛容と忍耐の精神に支えられ,Zamenhof は国際言語の発明という構想を抱くようになり,何年もの実験の後,1887年,Doktoro Esperanto (エスペラント語で「希望する者」の意)の筆名で解説書 Lingvo Internacia をロシア語で著わした.筆名にちなんで後にエスペラント語と呼ばれることになる言語の最初の指南書である.
1889年,最初のエスペラント語の雑誌 La Esperantisto が刊行.1893年には,エスペラント語の公式な組織が立ち上がった.Zamenhof は旧約聖書,『ハムレット』,アンデルセン童話,モリエールの劇,ゲーテ,ゴーゴリなどの翻訳を手がけ,エスペラント語を洗練させていった.1905年,Boulogne で最初の国際エスペラント語大会が開かれ,20カ国から700人の代表が参加.大会はその後現在に至るまで毎年開催されている.1905年に出版された Fundamento de Esperanto はエスペラント語の文法の原理をまとめたものであり,エスペランティスト (Esperantist) のバイブルともいえる著である.
1921年には,当時国際連盟事務次長であった新渡戸稲造が,エスペラント語の思想に共鳴し,国際連盟総会でエスペラント語の利点を訴えるという場面もあった.エスペラント語の採用には至らなかったが,この言語を国際的に印象づける機会にはなった.その後,政治的な含みを付されたエスペラント語は,その支持者とともに,ナチス政権やスターリン政権下で弾圧されたが,戦後に活動を復活させ,1954年にはユネスコが The Uiversala Esperanto-Asocio (世界エスペラント協会) (1908年創立)を諮問団体として認定.1966年には,100万人以上の署名とともに国際連合の公用語への提案がなされたが,これは受け入れられなかった.
現在,50の国内協会,22の国際協会が存在し,100を超える定期刊行物,3万を超える著書がエスペラント語で刊行されている.ワルシャワ,北京,ウィーンなどではラジオ放送も存在する.言語の話者人口の推計の常として,エスペラント語の話者人口についても確かなことはわからない.少ない推計で数十万人,多い推計で1500万人以上という数字がきかれる (Crystal 356) .総合的にいって,人類史上,最も成功した人工言語といってよいだろう.
世界の中で,ヨーロッパ諸国を除けば,日本はエスペラント語の普及活動の盛んな国である.1919年創立の日本エスペラント学会がその活動の中心である.上述の新渡戸のほか,二葉亭四迷,新村出(言語学者)などが関心を寄せてきたという歴史もある.ヨーロッパ内では,フィンランド,オランダ,スウェーデン,デンマークでの活動が目立つ.いずれも比較的弱小な言語を母語とする国であり,エスペラント語の理念が理解されやすいためだろう.
一方で,エスペラント語に対しては,根強い反発が存在することも確かである.国際共通言語としては自然言語(特に英語)を採用すべきだとする論者もあるし,他の人工言語の支持者もある.また,エスペラント語が政治的プロパガンダと結びつけられる傾向があることも,うさんくささを強めているようだ.
私はエスペランティストではないが,大学時代に多少学んだ(大学の授業として「エスペラント語」があった).現在では大学の授業としてどのくらい開講しているのだろうと気になったが,授業でのエスペラント語なるHPを見つけた.細々とあるようである.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1997. 199--205.
国際共通語としての使用を念頭に提案された人工言語の抱える最大の課題は,当然のことながら,国際的に広く認知され,受容されるということだが,19世紀後半以降の状況を眺めてみると,その課題はまったく克服されていないといってよい.その背景には,人工言語にまつわる言語的,社会的,政治的な問題がある.Crystal (357) より,そのいくつかを箇条書きしよう.
(1) 動機づけ.駆け出しの人工言語であれば,当初の話者数はほぼゼロである.ここから話者数を増やしてゆくにはどうすればよいのか.これは,あらゆる社会改革が直面する問題だろう.エスペラント語の発案者 Zamenhof もこの問題に悩まされ,入門書の最後に "I, the undersigned, promise to learn the international language proposed by Dr Esperanto, if it appears that 10 million people have publicly given the same promise." という約束の宣言を読者に要求するという案を打ち出した.結果としては奏功しなかったようだ.
(2) アイデンティティ問題.コミュニケーションと並んで,言語の重要な役割の1つに,話者のアイデンティティを標示するという機能がある.話者は,地域方言,社会方言,使用域の差異を利用して常に自己表現をしているのであり,言語のこの機能はことのほか重要だというのが,社会言語学の知見である.一方,人工言語は,[2011-12-12-1]の記事の (4) で示した通り,方言差がなく標準的であることを理想として掲げる.自然言語の果たす重要な機能の1つが,人工言語では奪われてしまうことになる.民族主義の勃興と人工言語熱の冷却が,歴史上18世紀後半と20世紀半ばの2回にわたって,同じタイミングで観察されたことは,注目すべきである.
(3) 言語的偏狭.提案されてきた人工言語は軒並みヨーロッパの言語を基盤としている.言語的,政治的中立を目指すには,バイアスがかかりすぎているのではないか.人工言語は,世界の言語の多様性を軽視する傾向がある.
(4) 意味の相違.人工言語の評価としては,音韻,形態,統語の基盤がどの自然言語に置かれているかなど,形に注目が集まりがちだが,意味の相違への関心は少ない.諸言語間で,形態は対応するが意味は異なるために注意を要する false friends ( F "faux amis" ) というものがあるが,人工言語と自然言語の間でも同様の問題が起こりうる.ここでいう意味とは,denotation だけでなく connotation をも含む.例えば,英語の "capitalism" に相当する人工言語の単語について理解される意味は,アメリカ人の場合と,中国人の場合では異なっている可能性がある.
(5) 反感.多くの人が国際的共通語としての人工言語の趣旨には賛同するものの,人工言語の熱狂的な支持者が抱いている政治的,宗教的信条にある種の危険を感じている.支持団体によっては宗教的な色彩を帯びており,国家当局の弾圧の対象になる場合すらある.1930年代,ドイツやソ連で,エスペラント語話者の弾圧が行なわれた例がある.
人工言語に限らず国際共通語の議論においては,これまで (4) の意味的な観点は特に軽視されてきたように思う.語の意味は当該言語の文化や歴史と密接に結びついていることを考えると,(2) とも関連してくるだろう.
人工言語の普及の難しさを論じるに当たっては,綴字改革の難しさの議論を想起せずにいられない.2つの改革運動は性質が異なってはいるが,言語改革として類似した側面も多々ある.[2010-12-24-1]の記事「#606. 英語の綴字改革が失敗する理由」,[2011-01-21-1]の記事「#634. 近年の綴字改革論争 (1)」を合わせて参照されたい.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1997. 199--205.
昨日の記事「#958. 理想的な国際人工言語が備えるべき条件」 ([2011-12-12-1]) の最後に触れた,Charles Kay Ogden (1889--1857) による Basic English について取り上げる.
19世紀後半から始まった国際人工言語への熱 ([2011-12-11-1]) は,様々な現実によるその理想の頓挫とともに,20世紀が進むにつれて冷めてきた.一方,国際コミュニケーションの需要は激増しており,国際共通語の必要も爆発的に高まってきた.人工言語の創案に取って代わるべきアイディアは,広く行なわれている既存の自然言語を単純化するというものだった.主要な西欧の言語はすべて,このように簡略化された "modified natural language" の提案を試みた.そのなかで最も有名な試みが,"British American Scientific International Commercial" の acronym (頭字語)をとった Basic English である.
英国の作家・言語学者 Ogden によって1926--30年にかけて考案されたこの簡略版の英語は,850の語彙(600の名詞,150の形容詞,100の操作詞)から成っている.動詞は18個しかないが,他の語との結びつきにより,標準英語の約4,000の動詞の代わりとなることができる.assemble に代えて put together, invent に代えて make up, photograph に代えて take pictures の如くである.
1940年代には,Churchill や Roosevelt などという著名人によっても支持されたが,語彙が少ない分,複雑な統語構造で補われなければならなかったこと,イディオムが増えざるを得なかったことなどの理由もあり,やがて衰退した.たとえ語彙を極度に単純化したとしても,そのためにかえって統語や意味の点で不便が生じ,言語体系全体としてはむしろ不経済となり得ることが,現実に感じられたのだろう(関連して,[2010-02-14-1]の記事「#293. 言語の難易度は測れるか」を参照).
Basic English は現在では歴史的な意義をもつのみとなっているが,その精神は世界の英語教育のなかに反映されている.限られた数の知っている語の組み合わせにより複雑な概念を表現する能力や,基本語で平易に表現する技量を身につけることは,外国語教育においては重要な課題である.近年の学習者用英英辞典学習において採用されている "defining vocabulary" の考え方も,Basic English の思想の延長線上にあるといえる.ELF (English as a Lingua Franca) や世界標準英語という呼称が聞かれるようになってきた昨今,Basic English という試みそのものではないにせよ,その考え方は,改めて有効となってくるのではないだろうか.
以上の記事は,Crystal (358) および Basic-English Institute の記述を参考にして執筆した.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1997. 199--205.
昨日の記事「#957. 19世紀後半から続々と出現した人工言語」 ([2011-12-11-1]) で人工言語 (artificial language) を話題にしたが,その普及は自然言語に遠く及んでいないのが現実である.確かに,最も有名な人工言語といってよいエスペラント語 (Esperanto) は,少ない推計でも数十万人,多い推計では1500万人以上の話者(主として第2言語話者)を擁するとされ,並の自然言語に比べれば普及しているとみなすことは可能かもしれない(関連して[2010-01-26-1]の記事「#274. 言語数と話者数」を参照;なお,ヨーロッパ以外でエスペラント語話者の多いのは日本である).
しかし,国際的な人工言語として意図されてはいるとはいえ,世界エスペラント協会の会員の大半は東欧人であり,地理的な(そして政治的な)偏りの見られることは否定できない.「普及」の定義にもよるが,エスペラント語ですら国際的に広く行なわれているとは言い難いのだから,他の人工言語の普及の程度は推して知るべしである.
では,国際的に普及すべき理想的な人工言語とはどのようなものだろうか.どのような条件を備えていれば,多くの人が納得し,受け入れるような理想の人工言語となり得るのだろうか.人工言語の創案者や支持者は,次のような条件を指摘している (Crystal 357) .
(1) 学びやすいこと.文法が規則的で単純であり,語形と意味の関係が透明であり,綴字が音標的であり,発音が容易であることが必要である.
(2) 母語と関連していること.自然言語との相互翻訳が容易である必要がある.柔軟な構造をもっており,母語のイディオムを反映することができ,言語の普遍的特徴を多く備えており,国際的に使用されてきた歴史的基盤のある語根をもっていることが望ましい.
(3) 豊富な機能を果たせること.日常の話し言葉や書き言葉のみならず,科学,宗教,通商,スポーツ,政治などの専門的な領域でも機能を果たせる必要がある.国際コミュニケーションのメディアでの使用にも耐えられるようでなければならない.
(4) 標準的であること.方言による変異があってはならない.これを守るためには,権威ある機関による監視が必要だろう.
(5) 政治的,言語的に中立であること.すべての国に受け入れられるためには,中立の確保が肝要である.多くの人工言語の支持者は,これを人類の平和共存のために不可欠な条件と考えている.
(6) 洞察を促すものであること.理想的な人工言語は,単に国際コミュニケーションの手段としてだけでなく,明晰で論理的な思考を促す道具としても有効であることが望ましい.これは,特に17世紀の a priori な人工言語が目指していた哲学的な理想である.
いずれの条件もそれぞれ満たすことが難しいが,同時に満たすのはなおさら難しい.言語的条件,政治的条件,哲学的条件が同居しており,いずれに優先順位を与えるかによって論者の間に対立が生じかねないことは自明である.そして,実際にそのような理由で論者の間に対立が生じてきた.特に (2) と (5) などは,ある特定の母語と関連していながら,同時に言語的に中立であるという矛盾する条件を要求しているのだから,問題の根は深い.
この理想的な条件の羅列のなかに,英語などの国際的な影響力をもつ自然言語への反発心を探ることは容易である.その判断自体が主観を帯びざるを得ないとはいえ,上記の条件のうち,例えば英語が満たしている条件は (3) くらいではないか.
ただし,このような理想的な条件をただ冷笑的に眺めているだけでは生産的ではない.完全には満たせずとも,国際コミュニケーションのためにはこうであれば良いという努力目標として捉えるのであれば,その方向へ一歩でも近づくことは有益だろう.自然言語である英語を,特に語彙に関して (1) の観点から改良しようとした試みの1つに,Charles Kay Ogden (1889--1857) の考案した Basic English がある.これについては明日の記事で.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1997. 199--205.
英語や日本語などの自然発生した言語に対して,意図的に設計された人工言語 (artificial language) というものがある.[2009-05-09-1]の記事「#10. 言語は人工か自然か?」で触れた通り,人工言語という呼称に問題がないわけではないが,広く用いられている用語である.代わりに補助言語 (auxiliary language) という用語が用いられることもあるが,周知のように,英語などの自然言語が国際コミュニケーションのために補助的に使用されている事実があり,この呼称も問題をはらんでいる.ここでは,より広く流通している人工言語という用語を採用する.
異なる言語の話者どうしの間でコミュニケーションをとるための共通語 (lingua franca) として,普遍的な言語を希求する思いそれ自体は,西洋では古典時代から見られた.現在までに数百にのぼる人工言語が提案されてきたというから驚きだ.しかし,人工言語の追求が本格的に始まったのは,西洋人が世界を探検し,異なる文化や言語へと目を向け始めた17世紀のことといってよい.この時代は,lingua franca としてのラテン語が衰退し始めた時期でもある.Francis Bacon (1561--1626), René Descartes (1596--1650), Gottfried Wilhelm Leibnitz (1646--1716) などが哲学的な記号体系としての人工言語を提案したが,実用性はゼロだった.これらの試みは,自然言語ではなく哲学に基づいた全く異質の言語,一種コンピュータ言語を思わせる言語の創造であり,a priori な人工言語と呼ぶことができる.
しかし,17世紀に始まった人工言語の熱狂は,18世紀後半にはすっかり冷めていた.普遍的な言語の構想は,18世紀後半の民族主義の高まりと反比例して,下火になっていったのである.再び人工言語熱が高まったのは,19世紀の最後の四半世紀である.今度は,既存の自然言語(事実上すべて西洋の言語)を模した a posteriori な人工言語が様々な形で策定された.今回の熱狂の背景には,国際コミュニケーションの必要性が以前とは比べられないほど増してきたこと,英語などの特定言語が国際共通語となる場合に否応なく生じる政治的な不平等感などがあった.したがって,英語の世界化という英語史上の主要な問題と,19世紀後半に生じた人工言語熱とは,無関係ではない.
最も有名で,最も成功した人工言語はエスペラント語 (Esperanto) だが,それ以外にも幾多の人工言語が提案されてきた.Crystal (355) から,その一部を年代別に並べよう.主要なものについては,赤字で示した.当時の熱の高さがわかるだろう.
数こそあるが,第1次世界大戦後は,民族主義の高まりとともに,再び人工言語への熱は冷めていった.そして,既成事実の上に,英語という自然言語が世界共通語への道をひた走ることとなったのである.
Date | Language | Inventor | Comment |
---|---|---|---|
1880 | Volapük ("World Language") | Johann Martin Schleyer | 8 vowels, 20 consonants; based largely on English and German. |
1887 | Esperanto ("Lingvo Internacia") | Ludwig Lazarus Zamenhof | 5 vowels, 23 consonants, mainly West European lexicon; Slavonic influence on syntax and spelling. |
1902 | Idiom Neutral | V. K. Rosenberger | A former supporter of Volapük; strongly influenced by Romance. |
1903 | Latino Sine Flexione (Interlingua) | Giuseppe Peano | Latin without inflections; vocabulary mainly from Latin words. |
1904 | Perio | ||
1905 | Lingua Internacional | ||
1906 | Ekselsioro | ||
1906 | Ulla | ||
1906 | Mondlingvo | ||
1907 | Lingwo Internaciona (Antido) | ||
1907 | Ido | Louis de Beaufront or Louis Couturat | A modified version of Esperanto (the name means "derived from" in Esperanto). |
1908 | Mez-Voio | ||
1908 | Romanizat | ||
1909 | Romanal | ||
1911 | Latin-Esperanto | ||
1914 | Europeo | ||
1915 | Nepo | ||
1921 | Hom Idyomo | ||
1922 | Occidental | Edgar von Wahl | Devised for the western world only; largely based on Romance. |
1923 | Espido | ||
1928 | Novial | Otto Jespersen | Mainly Ido vocabulary and Occidental grammar. Novial = New + International Auxiliary Language. |
1937 | Néo | ||
1943 | Interglossa | Lancelot Hogben | Published only in draft form. |
1951 | Interlingua | International Auxiliary Language Association | A Romance-based grammar, with a standardized vocabulary based on the main Western European languages. |
1955 | Esperantuisho | ||
1956 | Globaqo | ||
1958 | Modern Esperanto | ||
1960 | Delmondo | ||
1962 | Utoki | ||
1972 | Eurolengo | ||
1981 | Glosa | W. Ashby and R. Clark | A modified version of Interglossa. Contains a basic 1,000-word vocabulary, derived from Latin and Greek roots. |
1986 | Uropi |
現代英語で,可算名詞の数が「より多い」場合で,比較基準との差分が大きいときには,many more people などと,比較級の強調に much ではなく many を用いるのが規則である.この many は,more を修飾しているので機能としては副詞的であり,統語上 people と直接関係しているわけではないが,当然,意味上は関連しているために much では不適切との意識が働くのだろう.用例はいくらでもある.
・ Many more questions were buzzing around in my head.
・ Many have already died, and in the nature of things many more will die.
・ They provided a far better news service and pulled in many more viewers.
・ How many more can she possibly make?
・ Thousands were saved yesterday, but many more remained trapped.
many の副詞としての用法を理解していれば,多いのか少ないのか混乱するような many fewer なる表現にも驚かないだろう.
・ The squid has many fewer tentacles than the nautilus --- only ten --- and the octopus, as its name makes obvious, has only eight.
・ How many fewer places are there today than there were two years ago?
・ Making love burns up more calories than playing golf and not that many fewer than throwing a frisbee.
では,この many の品詞は何か.統語的には副詞的なので,『ジーニアス英和大辞典』では素直に副詞として扱っている.比較級を強める much や far と同列に考えても,副詞としての品詞付与は納得されるかもしれない.
しかし,many には多数を表わす不定数詞としての用法があり,その副詞的用法と解釈することもできる.one more people, two more people, a few more people, some more people, several more people などの表現を参照すれば,many more people はその延長線上に位置づけるのが自然だろう.more の差分を表わすのに,数詞や不定数詞が前置されている構文ととらえるのが理にかなっている.
OED "more" 4.a. に,関連する記述があった.
4. a. Additional to the quantity or number specified or implied; an additional amount or number of; further. Now rare exc. as preceded by an indefinite or numeral adj., e.g. any more, no more, some more; many more, two more, twenty more; and in archaic phrases like without more ado.
This use appears to have been developed from the advb. use as in anything, nothing more (see C. 4b).
比較と関連する文脈で不定代名詞がその程度を表わすのに用いられる例としては,[2011-07-12-1]の記事「what with A and what with B」で触れた something like this があろうか.much the same なども関連してくるかもしれない.
なお,歴史的に見ると,many more 相当表現は少なくとも中英語にはすでに行なわれていたことが,MED "mō (adj.)" に挙げられている例文から確認される.
・ By bethleem be many mo placys of goode pasture..þan in oþer placys.[ 固定リンク | 印刷用ページ ]
・ Thai bith mony mo than we haue shewid yet.
##953,954,955 の記事で,最近公開された COCA ( Corpus of Contemporary American English ) の n-gram データベースを利用してみた.COCA に現われる 2-grams, 3-grams, 4-grams, 5-grams について,それぞれ最頻約100万の表現を羅列したデータベースで,手元においておけば,工夫次第で COCA のインターフェースだけでは検索しにくい共起表現の検索が可能となる.
ただし,各 n-gram のデータベースは,数十メガバイトの容量のテキストファイルで,直接検索するには重たい.そこで,SQLite データベースへと格納し,SQL 文による検索が可能となるように検索プログラムを組んだ.以下は,検索結果の最初の10行だけを出力する CGI である.
# 1-grams で,前置詞を頻度順に取り出す(ただし,case-sensitive なので再集計が必要)
select * from one where pos1 like "i%" order by freq desc;
# 2-grams で,ハンサムなものを頻度順に取り出す
select * from two where word1 = "handsome" and pos1 = "jj" and pos2 like "nn_" order by freq desc;
# 2-grams で,"absolutely (adj.)" で強調される形容詞を頻度順に取り出す([2011-03-12-1]の記事「#684. semantic prosody と文法カテゴリー」を参照)
select * from two where word1 = "absolutely" and pos2 = "jj" order by freq desc;
# 3-grams で,高頻度の as ... as 表現を取り出す
select * from three where word1 = "as" and word3 = "as" order by freq desc;
# 4-grams で,高頻度の from ... to ... 表現を取り出す
select * from four where word1 = "from" and pos1 = "ii" and word3 = "to" and pos3 = "ii" order by freq desc;
# 5-grams で,死因を探る; "die of" と "die from" の揺れを観察する
select * from five where word1 in ("die", "dies", "died", "dying") and pos1 like "vv%" and word2 in ("of", "from") and pos2 like "i%" order by word3;
n-gram データベースを最大限に使いこなすには,このようにして得られた検索結果をもとにさらに条件を絞り込んだり,複数の検索結果を付き合わせるなどの工夫が必要だろう.
[2011-12-06-1], [2011-12-07-1]の記事で,COCA ( Corpus of Contemporary American English ) の 3-gram データベースから取り出した,現代英語における頭韻を踏む2項イディオム (binomial) と脚韻を踏む2項イディオムの例を見てきた.分析するなかで,両リストのなかで重複する2項イディオムが散見されたので,取り出してみた.これぞ,頭韻と脚韻の両方を兼ねそなえた,完璧な語呂合わせとしての共起表現である.(検索結果を収めたテキストファイルはこちら.)整理した50表現を挙げよう.
Saturday and Sunday, personal and professional, himself or herself, quantity and quality, morbidity and mortality, quantitative and qualitative, security and stability, best and brightest, latitude and longitude, sixteenth and seventeenth, whenever and wherever, sensitivity and specificity, watching and waiting, majority and minority, basketball and baseball, fight or flight, ranting and raving, forties and fifties, cooperation and coordination, nature and nurture, pushing and pulling, tossing and turning, twisting and turning, grandchildren and great-grandchildren, skiers and snowboarders, communication and collaboration, cooking and cleaning, psychiatrists and psychologists, biggest and best, development and deployment, slipping and sliding, communication and cooperation, Dungeons and Dragons, heterosexual and homosexual, healthier and happier, grandmother and grandfather, stopping and starting, sixteen or seventeen, hooting and hollering, competence and confidence, stalactites and stalagmites, waxing and waning, positive and productive, reading and rereading, patience and perseverance, bedroom and bathroom, consultation and collaboration, going and getting, grandfather and grandmother, protection and promotion
多くは,頭韻と脚韻が語呂として偶然に一致したと考えるよりは,語幹どうしに語源的な関連があるがゆえに頭韻を踏んでいるのであり,同じ接尾辞を用いているがゆえに脚韻を踏んでいるのだ,と解釈すべきだろう.
単なる語呂遊びというなかれ.上記の例は,音と意味の調和をいやおうなく感じさせ,2項の間に一種の必然性すら呼び起こすかのような,高度に修辞的な表現といえるだろう.fight or flight, nature and nurture, competence and confidence, positive and productive などは,単なる高頻度の共起表現であるという以上に,教訓的,ことわざ的ですらある.
昨日の記事「#953. 頭韻を踏む2項イディオム」 ([2011-12-06-1]) に引き続き,今回は,脚韻を踏む高頻度の binomial を COCA ( Corpus of Contemporary American English ) の n-gram データベースにより拾い出したい.昨日と同様に,3-gram を用い,"A and/but/or B" の形の共起表現で,かつ A と B が脚韻を踏んでいるような例を取りだした.検索結果を納めたテキストファイルはこちら.
検索結果を眺めていて今更ながら気付いたことなのだが,脚韻は頭韻に比べてパターンが見つけやすい.特に顕著なのは,脚韻の多くが,語幹の語尾に依存しているというよりは,接尾辞に依存していることだ.-ing, -ed, -ly, -al, -y, -ion, -er などの屈折接尾辞や派生接尾辞が活躍している.
positive and negative, national and international, internal and external, Friday and Saturday, teaching and learning, gifted and talented, elementary and secondary, hunting and fishing, personal and professional, presence or absence, reliability and validity, coming and going, winners and losers, physical and psychological, formal and informal, directly and indirectly, advantages and disadvantages, rising and falling, physically and mentally, buyers and sellers
また,これも考えてみれば,さもありなんという事例なのだが,複合語の第2要素に同じ形態素を用いることにより韻を踏んでいる例も多い.一種の self-rhyme ではある.
Friday and Saturday, children and grandchildren, Saturday and Sunday, hardware and software, himself or herself, formal and informal, parents and grandparents, direct and indirect, buyers and sellers, mother and grandmother, father and grandfather, Afghanistan and Pakistan, anything and everything, football and basketball, indoor and outdoor, direct or indirect, servicemen and women, likes and dislikes, urban and suburban, indoor and outdoor
接尾辞を多用する屈折や派生,そして right-headed な複合を好む英語においては,脚韻を利用した2項イディオムの形成が容易であり,頻繁であることは,自然に理解できそうだ.逆から見れば,語幹の語頭音を利用する頭韻の2項イディオムの形成は,相対的に難しいということになるのかもしれない.
[2011-07-26-1]の記事「#820. 英仏同義語の並列」で,2項イディオム (binomial idiom) を紹介した.and, but, or などの等位接続詞で結ばれる2項からなる表現は現代英語でも顕在であり,よく見られるものには,語呂のよいもの (euphony) が多い.英語において語呂の良さといえば,[2011-11-26-1]の記事「#943. 頭韻の歴史と役割」で取り上げた頭韻 (alliteration) が,典型の1つとして挙げられる.
ところで,11月22日に,大規模オンライン・コーパス COCA ( Corpus of Contemporary American English ) などで知られるコーパス言語学者 Mark Davies が,COCA に基づく n-gram を無償で公開した.2, 3, 4, 5語からなる,それぞれ最頻100万の共起表現 (collocation) を,頻度数とともに列挙したデータベースで,ダウンロードしてオフラインで自由に処理できる.
・ Visit N-GRAMS: from the COCA and COHA corpora of American English. For downloading, directly visit Free lists.
・ Also visit Word frequency lists and dictionary: from the Corpus of Contemporary American English for other COCA-derived n-grams and frequency lists.
ここで,COCA n-gram から現代英語の2項イディオムに見られる頭韻を探して出してみようと思い立った.3-gram データベースを利用し,"A and/but/or B" の形の共起表現を探った.話者の意識していないところでも,頭韻は日常表現のなかに相当活用されているはずだとの予想のもとでの検索だったが,実際に多数の例を拾い出すことができた.検索結果のテキストファイルはこちら.2項の語頭の子音字が一致しているものを取り出しただけなので,それが表わす子音が一致しているとは限らず,注意が必要である.それでも,相当数の生きた日常的な頭韻の例を拾い出すことができた.
検索結果上位には,his or her, four or five, six or seven, this or that, Saturday and Sunday など,なるほどとは思わせるが,それほど興味深く感じられない例が少なくない.しかし,イディオム的な性格のもう少し強い,次のような共起表現も次々と挙がり,検索の甲斐があったと満足した.
public and private, rules and regulations, pots and pans, command and control, flora and fauna, free and fair, death and destruction, go and get, safety and security, signs and symptoms, fame and fortune, families and friends, fresh or frozen, peace and prosperity, past and present, quantity and quality, morbidity and mortality, slowly but surely, professional and personal, name and number, facts and figures, pencil and paper, state and society, small but significant, clear and convincing
n-gram については,[2010-12-25-1]の記事「#607. Google Books Ngram Viewer」も参照.
##948,949,950 の記事で,一見すると論理の通らない譲歩構文について取り上げてきた.この問題を考えるきっかけとなったのは,Chaucer の The Parson's Tale (l. 90) に,この構文を用いた次の文が現われたことである(Riverside版より引用).
But nathelees, men shal hope that every tyme that man falleth, be it never so ofte, that he may arise thurgh Penitence, if he have grace; but certeinly it is greet doute.
複数人で日本語訳書を参照しながらこの箇所を読んでいたのだが,すんでのところで「それほど度々ではないとしても」という解釈で素通りしてしまうところだった.ここは,むしろ「たとえ度々であったとしても」が適切な訳である.訳書の間でも解釈に相違が見られたので,この構文を詳しく調べてみようと思った次第である.
かくしてこの問題は一件落着となった.一通り調べた後で,中英語における当該表現の使用について Mustanoja を参照し忘れていたことに気づき,早速見てみると,pp. 321--22 に以下の記述があった.
Never so, indicating an unlimited degree or amount, has been used in concessive clauses since the end of the OE period. It is not uncommon in ME texts: --- were he never knight so strong (Havelok 80); --- be he never so vicious withinne (Ch. CT D WB 943). Parallel expressions have been recorded in some other Germanic languages, particularly in High and Low German, where nie sô is used in the same way as never so from the earliest times down to the close of the Middle Ages. . . . The corresponding affirmative forms ever so is modern English.
ゲルマン諸語のほかフランス語やアングロ・ノルマン語にも相当する表現があったという.虚辞 (expletive) として否定辞を加える感覚は,英語だけのものではなかったということになる.
・ Mustanoja, T. F. A Middle English Syntax. Helsinki: Société Néophilologique, 1960.
[2011-12-01-1], [2011-12-02-1]の記事で議論してきた,譲歩表現 never so (= ever so) の問題を続ける.
never so と ever so がほぼ同義であるということは一見すると理解しがたいが,nonassertion の統語意味的環境では,対立が中和することがある( nonassertion については[2011-03-07-1]と[2011-03-08-1]の記事を参照).例えば,Quirk et al. (Section 8.112 [p. 601]) は次のように言及し,例文を挙げている.
In nonassertive clauses ever (with some retention of temporal meaning) can replace never as minimizer; this is common, for instance, in rhetorical questions:
Will they (n)ever stop talking? Won't they ever learn? (*Won't they never learn?)
I wondered if the train would (n)ever arrive.
最後の例文にあるように,動詞 wonder に続く if 節内では,肯定と否定の対立が中和されることが多い.節内が統語的に肯定であれば文全体に否定の含意が生じ,統語的に否定であれば肯定の含意が生じるともされるが,意味上の混同は免れない.wonder は「よくわからない」を含意するのであるから,結局のところ,続く if 節,whether 節は nonassertion の性質を帯びるということだろう.
・ He was beginning to wonder whether Gertrud was (not) there at all.
・ He's starting to wonder whether he did (not) the right thing in accepting this job.
・ I wonder if he is (not) over fifty.
・ I wonder if I'll (not) recognize him after all these years.
・ I wonder whether it was (not) wise to let her travel alone.
ここで,be it never so humble と be it ever so humble の問題に戻ろう.条件節としての用法であるから,nonassertion の性質を帯びていることは間違いない.論理的には「どんなにみすぼらしくとも」という譲歩の意味に対応するのは be it ever so humble という統語表現だが,日本語でも「どんなにみすぼらしかろうが,なかろうが」と否定表現を付加することができるように,英語でも or never の気持ちが付加されたとしても不思議はない.英語では,or により選言的に否定が付加されるというよりは,否定によって肯定が完全に置換された結果として be it never so humble が生じたのではないか.
言い換えれば,never の否定接頭辞 n(e)- は,統語意味論で 虚辞 (expletive) と呼ばれているものに近い.
・ Quirk, Randolph, Sidney Greenbaum, Geoffrey Leech, and Jan Svartvik. A Comprehensive Grammar of the English Language. London: Longman, 1985.
昨日の記事[2011-12-01-1]の続編.be it never so humble という表現で,なぜ「どんなにみすぼらしくとも」 (= "no matter how humble it may be") の意味が生じるのかについて,疑問を呈した.
この問題を考えるに当たって,『新英和大辞典第6版』で never so の同用法について ever so と同義であるという記述があること,OED の対応する記述に "(Cf. EVER 9b.)" とあることが注目に値する.OED の ever の項を見てみると,次のようにある.
ever so: prefixed in hypothetical sentences to adjs. or advbs., with the sense 'in any conceivable degree'. Sometimes ellipt. = 'ever so much'; also dial. in phrases like were it ever so, = 'however great the need might be'. Similarly, ever such (a).
This expression has been substituted, from a notion of logical propriety, for never so, which in literary use appears to be much older, and still occurs arch., though app. not now known in dialects. See NEVER.
つまり,驚くことに be it never so humble と be it ever so humble は同義ということになる.ever を用いた統語表現の初例は1690年で,never のものより5世紀半以上も遅れての出現だ.現代英語にも例はある.if I were ever so rich や Home is home, be it ever so humble などがあり,確かに never と ever は交替可能である.また,BNCWeb で "be it never so" を検索すると,6例のみではあるが得られた.その中から文脈の比較的わかりやすかった3例を挙げよう.
・ In a field that is patchy in space and time, be it ever so small, we may expect that the populations of a species such as white clover will, at any time, reflect selective forces from its past.
・ If the cause is a self-replicating entity, the effect, be it ever so distant and indirect, can be subject to natural selection.
・ . . . each had his or her part to play, be it ever so humble.
never so と ever so が交替可能であるというところまでは明らかになったが,では,なぜそうなのか.上の OED からの引用文の2段落目に,疑問を解く鍵が隠されているように思える.論理的には ever so のように肯定の強めでないと妙である,と昨日の記事でも触れたが,同じ感覚は OED の編者にも共有されていたことが "substituted, from a notion of logical propriety" からわかる.never so は論理的には適切に説明づけられないということになれば,では,なぜこの表現が生まれ得たのか.事実としては,より古くに生まれ,特に中英語では盛んに用いられたのであるから,やはり謎は謎のままである.
しかし,ever so と never so のほかにも,論理的には相反するはずの肯定版と否定版が,ほぼ同義となる統語的文脈というものが存在する.明日の記事で,改めてこの問題に迫ろう.
標記の文のような,譲歩を表わす特殊な表現が現代英語にある.前半部分が "however humble" あるいは "no matter how humble" ほどの意味に相当する,仮定法現在を用いた倒置表現だ.倒置を含まずに,if や though を用いたり,仮定法過去を用いたりすることもある.OED の定義としては,"never" の語義4として以下のようにある.
never so, in conditional clauses, denoting an unlimited degree or amount.
以下に,辞書やコーパスから例文を挙げてみよう.
・ She would not marry him, though he were never so rich.
・ Some vigorous effort, though it carried never so much danger, ought to be made.
・ Were the critic never so much in the wrong, the author will have contrived to put him in the right.
・ 'I am at home, and that is everything.' Be it never so gloomy --- is there still a sofa covered with black velvet?
辞書では《古》とレーベルが貼られているし,BNCWeb で "be it never so" を検索するとヒットは7例のみである.いずれにせよ,頻度の高い表現ではない.
倒置や仮定法を用いるということであれば,古い英語ではより多く用いられたに違いない.実際に中英語ではよく使われた表現で,MED, "never" 2 (b) には幾多の例が挙げられている.定義は以下の通り.
(b) ~ so, with adj. or adv.: to whatever degree; extremely; ~ so muchel (mirie, hard, wel, etc.), no matter how much, however much, etc.; also with noun: if he be ~ so mi fo, however great an enemy he may be to me;
OED によると,この表現の初例は12世紀 Peterborough Chronicle の1086年の記事ということなので,相当に古い表現ではある.
Nan man ne dorste slean oðerne man, næfde he nævre swa mycel yfel ȝedon.
中英語最初期から現代英語まで長く使われてきた統語的イディオムだが,なぜ上記の意味が生じてくるのか理屈がよく分からない.否定の never と譲歩が合わされば,「たとえ?でないとしても」と実際とは裏返しの意味になりそうなところである.
2024 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2023 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2022 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2021 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2020 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2019 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2018 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2017 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2016 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2015 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2014 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2013 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2012 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2011 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2010 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2009 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
最終更新時間: 2024-11-26 08:10
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow