昨日の記事「#4670. アジェージュによる「フリジア語の再征服」」 ([2022-02-08-1]) に引き続き,アジェージュ (264) より「コーンウォールの不死鳥」と題する1節を引こう.コーンウォール語 (Cornish) はフリジア語 (Frisian) 以上に再生・復活という概念からかけ離れているように思われるが,どうだろうか.
四世紀にサクソン人が拡大すると,ケルノウ語〔コーンウォール語〕はカムリ語〔ウェールズ語〕から切り離され,コーンウォール半島のさらに西に閉じ込められた.こうして,ケルノウ語はケルト系の兄弟言語であるカムリ語から遠ざかるとともに,同じケルト語派のいとこ言語にあたるブレイス語〔ブルトン語〕からも分離した.十六世紀後半の宗教改革の犠牲になったケルノウ語は,そのころから徐々に衰退していき,一八〇〇年ごろには話しことばとして消滅してしまった.しかし,驚くべき現象がこの言語の歴史に生じた.ケルノウ語は,二十世紀になってよみがえったのである.運動の推進者にしてみれば,ケルノウ語の再生は,コーンウォールの住民とその伝統との結びつきからくる自然な結果と思われた.この結びつきについての反論の余地のない論理は,一九〇一年に創設されたケルト-ケルノウ協会の有力なメンバーであったH・ジェンナーがきわめて簡潔に言いあらわしている.「なぜコーンウォール人はケルノウ語を学ばなくてはならないのか? なぜなら彼らはコーンウォール人だからである」〔中略〕.再生させようとする言語形態はどの時代のものとすべきかという選択についての議論があることはある.しかし,言語の再生に情熱を傾けるグループのひとびとが,二〇〇年近く前に死んでしまったこのことばを日常生活のなかで使おうとしており,しかもそれに共鳴するひとびとの数がしだいに増えているという事実は,きわめて注目すべきである.なかには,イスラエス国家におけるヘブライ語の再生と比較する者もあるほどである.
宗教改革の時代は,イングランドがブリテン諸島の周辺地域へと「帝国」を拡大しようとした時代である.ブリテン島の南西端にあるコーンウォールもその餌食となり,同地に英語が浸透していくことになった.その後,コーンウォール語は実質的には死語となってしまったが,それを20世紀になってから地元の有志が再生・復活しようとしている,というのだ.
「#779. Cornish と Manx」 ([2011-06-15-1]) でも触れたように,このコーンウォール語の復興活動には象徴的な意義しかないという向きもある.確かに現実的には難しいかもしれない.しかし,「民族が言語を生み出す」ということの意味を改めて考えさせてくれる,現代の生きた事例ではある.
・ グロード・アジェージュ(著),糟谷 啓介・佐野 直子(訳) 『共通語の世界史 --- ヨーロッパ諸語をめぐる地政学』 白水社,2018年.
「#4541. 焼失を免れた Beowulf 写本の「使い途」」 ([2021-10-02-1]) でみたように,Beowulf 写本とそのテキストは,"myth of the longevity of English" を創出し確立するのに貢献してきた.主に文献学的な根拠に基づいて,その制作時期を紀元700年頃と推定することにより,英語と英文学の歴史的時間幅がぐんと延びることになったからだ.しかも,文学的に格調の高い叙事詩とあっては,うってつけの宣伝となる.
Beowulf の価値が高騰し,この「神話」が醸成されたのは,19世紀だったことに注意が必要である.なぜこの時期だったのだろうか.なぜ,例えばアングロサクソン学が始まった16世紀などではなかったのだろうか.Watts (52) は,これが19世紀的な現象であることを次のように説明している.
As a whole the longevity of English myth, consisting of the ancient language myth and the unbroken tradition myth, was a nineteenth-century phenomenon that lasted almost till the end of the twentieth century. The need to establish a linguistic pedigree for English was an important discourse archive within the framework of the growth of the nation-state and the Age of Imperialism. In the face of competition from other European languages, particularly French, it was perhaps necessary to construct English as a Kultursprache, and one way to do this was to trace English to its earliest texts.
端的にいえば,イギリスは,イギリス帝国の威信を対外的に喧伝するために,その象徴である英語という言語が長い伝統を有することを,根拠をもって示す必要があった,ということだ.歴史的原則に立脚した OED の編纂も,この19世紀の文脈のなかでとらえる必要がある(cf. 「#3020. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (1)」 ([2017-08-03-1]),「#3021. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (2)」 ([2017-08-04-1]),「#3376. 帝国主義の申し子としての英語文献学」 ([2018-07-25-1])).
16世紀には,さすがにまだそのような動機づけは存在していなかった.その代わりに16世紀のイングランドには別の関心事があった.それは,ヘンリー7世によって開かれたばかりのテューダー朝をいかに権威づけるか,そしてヘンリー8世によって設立された英国国教会をいかに正当化するか,ということだった.この目的のために,ノルマン朝より古いアングロサクソン時代に,キリスト教文典や法律が英語という土着語で書かれていたという歴史的事実が利用されることになった.テューダー朝はとりわけ宗教改革に揺さぶられていた時代であるから,宗教的なテキストの扱いには慎重だった.一方,Beowulf のような民族叙事詩のテキストには,相対的にいってさほどの関心が注がれなかったというわけだ.Watts (52) は次のように述べている.
The dominant discourse archive at this particular moment of conjunctural time [= the sixteenth century] was religious. It was the struggle to assert Protestantism after the break with the Church of Rome that determined the focus on religious, legal, constitutional and historical texts of the Anglo-Saxon era. The Counter-Reformation in the seventeenth century sustained this dominant discourse and relegated interest in the longevity of the language and the poetic value of texts like Beowulf till a much later period.
・ Watts, Richard J. Language Myths and the History of English. Oxford: OUP, 2011.
先週7月31日(土)15:30?18:45に,朝日カルチャーセンター新宿教室にて「英語の歴史と語源・11 「ルネサンスと宗教改革」」と題してお話しをしました.今回も多くの方々に参加いただきました.質問やコメントも多くいただき活発な議論を交わすことができました.ありがとうございます.
今回は,16世紀の英語が抱えていた3つの「悩み」に注目しました.現在,英語は世界のリンガ・フランカとなっており,威信を誇っていますが,400年ほど前の英語は2流とはいわずともいまだ1.5流ほどの言語にすぎませんでした.千年以上の間,ヨーロッパ世界に君臨してきたラテン語などと比べれば,赤ちゃんのような言語にすぎませんでした.しかし,そのラテン語を懸命に追いかけるなかで,後の飛躍のヒントをつかんだように思われます.16世紀は,英語にとって,まさに産みの苦しみの時期だったのです.
今回の講座で用いたスライドをこちらに公開します.以下にスライドの各ページへのリンクも張っておきますので,復習などにご利用ください.
1. 英語の歴史と語源・11「ルネサンスと宗教改革」
2. 第11回 ルネサンスと宗教改革
3. 目次
4. 1. 序論
5. 16世紀イングランドの5つの社会的変化
6. 2. 宗教改革とは?
7. イングランドの宗教改革とその特異性
8. 印刷術と宗教改革の二人三脚
9. 3. ルネサンスとは?
10. イングランドにおける宗教改革とルネサンスの共存
11. 4. ルネサンスと宗教改革の英語文化へのインパクト
12. 16世紀の英語が抱えていた3つの悩み
13. 5. 英語の悩み (1) - ラテン語からの自立を目指して
14. 古英語への関心の高まり
15. 6. 英語の悩み (2) - 綴字標準化のもがき
16. 語源的綴字 (etymological spelling)
17. debt の場合 (#116)
18. 他の語源的綴字の例
19. 語源的綴字の礼賛者 Holofernes
20. 7. 英語の悩み (3) - 語彙増強のための論争
21. R. コードリーの A Table Alphabeticall (#1609)
22. 一連の聖書翻訳
23. まとめ
24. 参考文献
25. 補遺1:Love’s Labour’s Lost
26. 補遺2:「創世記」11:1-9 (「バベルの塔」)の Authorised Version と新共同訳
次回の第12回はシリーズ最終回となります.「市民革命と新世界」と題して2021年10月23日(土)15:30?18:45に開講する予定です.
全12回ということで2年前に開始した「英語の歴史と語源」シリーズですが,ゆっくりと進めているうちに,気づいてみれば,残すところ2回となりました.本日は第11回のお知らせです.
2週間後の7月31日(土)15:30?18:45に,朝日カルチャーセンター新宿教室にて「英語の歴史と語源・11 「ルネサンスと宗教改革」」と題してお話しします.英語が世界的な地位を築いた現在からは予想すらできない,当時の英語が抱えていた様々な「悩み」に注目します.関心をお持ちの方は是非こちらよりお申し込みください.趣旨は以下の通りです.
16世紀イングランドでは,ルネサンスと宗教改革は奇妙な形で共存していました.ルネサンスに伴う知識の爆発はラテン語やギリシア語への憧れを生み出し,英語はそこから大量の単語を借用することで語彙を格段に豊かにしました.一方,宗教改革に伴う自国語意識の高まりから,英語そのものの評価も高まりました.このような相矛盾する言語文化の中で英訳聖書が誕生することになりました.英語がいよいよ輝きを増してきた時代に焦点を当てます.
今から4--5世紀も前の話しであり,ずいぶんと昔のことに聞こえるかもしれませんが,英語全盛の現代に直接つながる時代の話題です.歴史的に弱小言語だった英語が,いかにして現代にかけて威信と覇権を獲得することになったのか.これを真に理解するには,今回注目する16世紀,英語にとっての苦しみの時期を振り返っておくことが必要になります.現代における英語の覇権の起源について,皆さんと一緒に考えていきたいと思います.
「#3100. イングランド宗教改革による英語の地位の向上の負の側面」 ([2017-10-22-1]) で,16世紀のイングランド宗教改革により,アイルランド,ウェールズ,コーンウォルでは英語の権威は高まったが,ケルト諸語の地位は落ちたと述べた.一方,ウェールズに関しては,「#1718. Wales における英語の歴史」 ([2014-01-09-1]) でみたように,聖書と祈祷書がウェールズ語に翻訳されたため,ウェールズ語がある程度保持される結果となったとも述べた.ウェールズ語については,宗教改革の影響により地位が貶められたのか,保持されたのか,どちらなのだろうか.やや複雑なウェールズの状況について,平田 (27) が明快に解説している.
宗教関係では,ロンドンの政府は一五六三年に「聖書および祈祷書をウェールズ語に翻訳する法律」を通過させて,聖書と祈祷書をウェールズ語に翻訳させた.これは,言語から見ると諸刃の剣となった.すなわち,一方では,ウェールズ語の保持に貢献したが,その半面で,ウェールズ語は宗教の言語と見なされて,政治の世界から締め出されることになった.それは重要性を持たない言語として,農村部の小作人に残存することになった.
つまり,一六世紀のウェールズ統治において,ウェールズ語の聖書と祈祷書により,ウェールズ人をイングランド国教会にとどめておく「国教会の政治学」が,英語を広める「英語の政治学」よりも優先していたのである.その結果,宗教儀式ではウェールズ語が使用され,この言語の存続が助長された.聖書や祈祷書の翻訳,イングランド国教会としての説教を現地語で説教できる牧師の派遣を維持することによって,皮肉なことに,抑圧するつもりだった現地語の威信が保たれた.これはイングランド側からは「歴史的失態」と呼ばれる.ウェールズ語の残存はこの「歴史的失態」に依っていた.要するに,宗教改革は,ウェールズ語の聖書をウェールズ人に与え,次の三世紀間,ウェールズ語は宗教の領域で維持された.
つまり,宗教改革を通じて,ウェールズ語は政治の世界からは追い出されたものの,宗教の世界では命脈を保ったということだ.2つの異なる「世界」に分けて考えることで,一見すると矛盾した宗教改革のウェールズ語への影響がクリアに理解できるようになった.
その4世紀後の20世紀中に,ウェールズにおけるウェールズ語の地位はめざましく復活していくことになるが,振り返ってみれば,それは16世紀に上記の経緯でウェールズ語の火を絶やさずに済んだからなのだろう.イングランド側にとって「歴史的失態」とみえる意味がわかる.
・ 平田 雅博 『英語の帝国 ―ある島国の言語の1500年史―』 講談社,2016年.
初期近代のイングランドにおいて,聖書を読むことを重んじる宗教改革 (reformation) の後押しにより,識字率が高まったという見方について,「#3066. 宗教改革と識字率」 ([2017-09-18-1]) で紹介した.もちろん宗教改革だけが識字率向上の要因となったわけではなく,それと二人三脚で進んだ印刷術 (printing) の普及も大きな要因だったろう(「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]),「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]) を参照).
しばしば宗教改革の貢献が喧伝されるが,否,それは言われるほど大きな要因ではなかったとする説も出てきている.むしろ宗教改革以前からあった教育への需要こそが,初期近代の識字率を押し上げたのだという.素直といえば素直な見方だ.他の文献からの引用を通じてだが,Schaefer (1284) がその説を紹介している.
. . . counter to what may be expected from the new Christian denomination with its sola scriptura doctrine, the "Reformation, which laid so much emphasis upon the written word, did not provide for everyone to read it" (Orme 2006: 335). And in that respect there is yet another perception which has been recently corrected, namely that, in contrast to previous views, it was much less Protestantism that fostered literacy in England and elsewhere in (Northern) Europe. As Charlton and Spufford (2004: 19) state, "commercial needs for education overrode all others, both before and after the Protestant Reformation", an observation which also accounts for the yet increasing literacy in the following centuries.
この説を受け入れるならば,識字率の向上の原動力は,宗教的・政治的な情熱というよりも商業的・実利的な需要だったということになろうか.上記の引用元の書誌も挙げておこう.
・ Charlton, Kenneth and Margaret Spufford. "Literacy, Society and Education." The Cambridge History of Early Modern English Literature. Ed. David Lowenstein and Janel Mueller. Cambridge: CUP, 2004.
・ Orme, Nicholas. Medieval Schools: From Roman Britain to Renaissance England. New Haven, CN: Yale UP, 2006.
・ Schaefer, Ursula. "Interdisciplinarity and Historiography: Spoken and Written English --- Orality and Literacy." Chapter 81 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1274--88.
Algeo and Pyles の英語史年表シリーズの第3弾は初期近代英語期 (153--55) .著者らは初期近代英語期を1500--1800年として区切っていることに注意.「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1]) と「#3196. 中英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-26-1]) も参照.
1476 | William Caxton brought printing to England, thus both serving and promoting a growing body of literate persons. Before that time, literacy was confined to the clergy and a handful of others. Within the next two centuries, most of the gentry and merchants became literate, as well as half the yeomen and some of the husbandmen. |
1485 | Henry Tudor ascended the throne, ending the civil strife called the War of the Roses and introducing 118 years of the Tudor dynasty, which oversaw vast changes in England. |
1497 | John Cabot went on a voyage of exploration for a Northwest Passage to China, in which he discovered Nova Scotia and so foreshadowed English territorial expansion overseas. |
1534 | The Act of Supremacy established Henry VIII as "Supreme Head of the Church of England," and thus officially put civil authority above Church authority in England. |
1549 | The first Book of Common Prayer was adopted and became an influence on English literary style. |
1558 | At the age of 25, Elizabeth I became queen of England and, as a woman with a Renaissance education and a skill for leadership, began a forty-five-year reign that promoted statecraft, literature, science, exploration, and commerce. |
1577--80 | Sir Francis Drake circumnavigated the globe, the first Englishman to do so, and participated in the defeat of the Spanish Armada in 1588, removing an obstacle to English expansion overseas. |
1590--1611 | William Shakespeare wrote the bulk of his plays, from Henry VI to The Tempest. |
1600 | The East India Company was chartered to promote trade with Asia, leading eventually to the establishment of the British Raj in India. |
1604 | Robert Cawdrey published the first English dictionary, A Table Alphabeticall. |
1607 | Jamestown, Virginia, was established as the first permanent English settlement in America. |
1611 | The Authorized or King James Version of the Bible was produced by a committee of scholars and became, with the Prayer Book and the works of Shakespeare, one of the major examples of and influences on English literary style. |
1619 | The first African slaves in North America arrived in Virginia. |
1642--48 | The English Civil War or Puritan Revolution overthrew the monarchy and resulted in the beheading of King Charles I in 1649 and the establishment of a military dictatorship called the Commonwealth and (under Oliver Cromwell) the Protectorate, which lasted until the Restoration of King Charles II in 1660. |
1660 | The Royal Society was founded as the first English organization devoted to the promotion of scientific knowledge and research. |
1670 | The Hudson's Bay Company was chartered for promoting trade and settlement in Canada. |
ca. 1680 | The political parties---Whigs (named perhaps from a Scots term for 'horse drivers' but used for supporters of reform and parliamentary power) and Tories (named from an Irish term for 'outlaws' but used for supporters of conservatism and royal authority), both terms being originally contemptuous---became political forces, thus introducing party politics as a central factor in government. |
1688 | The Glorious Revolution was a bloodless coup in which members of Parliament invited the Dutch prince William of Orange and his wife, Mary (daughter of the reigning English king, James II), to assume the English throne, resulting in the establishment of Parliament's power over that of the monarchy. |
1702 | The first daily newspaper was published in London, followed by an extension of such publications throughout England and the expansion of the influence of the press in disseminating information and forming public opinion. |
1719 | Daniel Defoe published Robinson Crusoe, sometimes identified as the first modern novel in English, although the evolution of the genre was gradual and other works have a claim to that title. |
1755 | Samuels Johnson published his Dictionary of the English Language, a model of comprehensive dictionaries of English |
1775--83 | The American Revolution resulted in the foundation of the first independent nation of English speakers outside the British Isles. Large numbers of British loyalists left the former American colonies for Canada and Nova Scotia, introducing a large number of new English speakers there. |
1788 | The English first settled Australia near modern Sydney. |
英語史における印刷術の発明の意義について,スライド (HTML) にまとめてみました.こちらからどうぞ.結論は以下の通りです.
1. グーテンベルクによる印刷術の「改良」(「発明」ではなく)
2. 印刷術は,宗教改革と二人三脚で近代国語としての英語の台頭を後押しした
3. 印刷術は,綴字標準化にも一定の影響を与えた
詳細は各々のページをご覧ください.本ブログの記事や各種画像へのリンクも豊富に張っています.
1. 印刷術の発明と英語
2. 要点
3. (1) 印刷術の「発明」
4. 印刷術(と製紙法)の前史
5. 関連年表
6. Johannes Gutenberg (1400?--68)
7. William Caxton (1422?--91)
8. (2) 近代国語としての英語の誕生
9. 宗教改革と印刷術の二人三脚
10. 近代国語意識の芽生え
11. (3) 綴字標準化への貢献
12. 「印刷術の導入が綴字標準化を推進した」説への疑義
13. 綴字標準化はあくまで緩慢に進行した
14. まとめ
15. 参考文献
16. 補遺: Prologue to Eneydos (#337)
他の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]),「#3068. 「宗教改革と英語史」のまとめスライド」 ([2017-09-20-1]),「#3089. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-11-1]),「#3102. 「キリスト教伝来と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-24-1]),「#3107. 「ノルマン征服と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-29-1]) もどうぞ.
16世紀初頭に印刷術が果たした文化的役割は計りしれない.『クロニック世界全史』 (431) は,標題にあるように,宗教改革,絶対王政,近代国語の形成,大航海時代を支えた技術としての印刷術に注目している.
印刷術が普及するにともない,パンフレット類にとどまらず宗教改革者の著作にも,ラテン語ではなく自国語が使われるようになった.ルターの場合,1518?21年の4年間にドイツ語の著作は56%だったが,22?26年の5年間には87%へと急増している.
さらに版数で比較すると,ドイツ語の著作の割合はそれぞれ74%と93%になり,ドイツ語版の需要がますます高まっていたことがわかる.儲けを考えた印刷業者も,わかりやすいドイツ語による出版を推進したことは明らかである.とくにルターの翻訳したドイツ語聖書は,近代ドイツ語を生みだすもとになったといわれる.
近代国語の誕生は,この時期ちょうど中央集権体制を築こうとしていた絶対君主にも好都合だった.一つの法典を制定し,それがどこの土地でも理解され,同一の裁決が下されることは,支配を有効にするため欠かすことができなかったからである.
こうして印刷術は大航海時代の動きにのって世界各地に広がり,支配の手段や文化伝達のために利用されるようになった.日本には1590年,天正遣欧使節を伴って帰国したイエズス会巡察師ヴァリニャーノによって印刷機が伝えられ,布教活動に力を発揮した.さらにこれらキリシタン版といわれる種々の印刷物は,当時の日本語の読みや意味を現代に伝える役割もはたしている.
近代国家の国語に基づく統治方式について,引用の第3段落にあるように「支配を有効にするために欠かすことができなかった」という点は重要だろう.「#2858. 1492年,スペインの栄光」 ([2017-02-22-1]) でも触れたように,近代国家(帝国)にとって「言語は帝国の武器」だったのである.印刷術が,言語や宗教などの文化面はもちろん,絶対王政や帝国主義といった政治面にも相当の波及効果をもたらしたことは否定できない.
関連して,「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]),「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]),「#3066. 宗教改革と識字率」 ([2017-09-18-1]),「#3100. イングランド宗教改革による英語の地位の向上の負の側面」 ([2017-10-22-1]) を参照.
・ 樺山 紘一,木村靖二,窪添 慶文,湯川 武(編) 『クロニック世界全史』 講談社,1994年.
標題の2語は,いずれも「10分の1」が原義であり,「十分の一税」の語義を発展させた.語源的には密接な関係にある2重語 (doublet) である(「#1724. Skeat による2重語一覧」 ([2014-01-15-1]) の記事,および American Heritage Dictionary より tithe の蘊蓄を参照).
昨日の記事「#3104. なぜ「ninth(ナインス)に e はないんす」かね?」 ([2017-10-26-1]) で,ninth に相当する古英語の語形が,2つ目の n の脱落した nigoða という形であると述べた.tenth に関しても同様であり,基数詞 tīen(e) (West-Saxon), tēn(e) (Anglian)に対して序数詞では n が落ちて tēoþa (West-Saxon), tēogoþa (Anglian) などと用いられた.後者 Anglia 方言の tēogoþa が後に音過程を経て tithe となり,近代英語以降に受け継がれた(MED より tīthe (n.(2)) を参照).
一方,tenth は,初期中英語で基数詞の形態をもとに規則的に形成された新たな形態である(MED より tenth(e を参照).
tithe は「十分の一税」を意味する名詞としては,1200年ころに初出する.中世ヨーロッパでは,5世紀以降,キリスト教会が信徒に収入の十分の一の納税を要求するようになっていたが,8世紀からはフランク王国で全キリスト教徒に課せられる税となった.教会が教区の農民から収穫物の十分の一を強制的に徴収するようになったのである.9世紀以降,その徴収権は教会からしばしば世俗領主へと渡り,18--19世紀に廃止されるまで続いた.
ややこしいことに,イングランドでは,ローマ・カトリック教会の聖職者がローマ教皇に対する上納金も「十分の一税」(しかし今度は tenth)と呼ばれていたが,宗教改革の過程で,Henry VII は教皇にではなく国王に納めさせるように要求し,制度として定着した.さらに,都市部に課される議会課税も tenth (十分の一税)と呼ばれたので,一層ややこしい(水井,p. 16).
我が国の消費税も10%になるということであれば,これは tithe と呼ぶべきか tenth と呼ぶべきか・・・.
・ 水井 万里子 『図説 テューダー朝の歴史』 河出書房,2011年.
「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]),「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]),「#3066. 宗教改革と識字率」 ([2017-09-18-1]) を始めとする reformation のいくつかの記事で,16世紀のイングランド宗教改革が英語の地位を向上させた件について考えてきた.要するに,宗教改革を進める人々にとって,伝統的な権威を背負ったラテン語は敵性言語であり,むしろ英語やドイツ語など各々の土着語 (vernaculars) こそが重視されるべきだという雰囲気が醸成された.16世紀中にいくつも出版された聖書の英訳しかり,1549年の Thomas Crammer による The Book of Common Prayer (英語祈祷書)の編纂しかり,宗教改革は土着語たる英語の地位を高めるのに貢献した(「#1427. 主要な英訳聖書に関する年表」 ([2013-03-24-1]),「#1472. ルネサンス期の聖書翻訳の言語的争点」 ([2013-05-08-1]),「#2597. Book of Common Prayer (1549)」 ([2016-06-06-1]) を参照).
しかし,このような英語の地位の向上は,英語を母語とするイングランドの多くの人々にとってこそ朗報だったろうが,イングランドの周縁部でケルトの言語・文化を保っていた少数派にとっては必ずしも朗報ではなかっただろう.水井 (70) は,この辺りの事情に触れながら宗教改革と英語の地位の向上について説明している.
言語の問題はイングランドの辺境地域にどのようにして宗教改革を根付かせるかという大きな問題とかかわっていた.エドワード治世の宗教改革は,英語聖書だけでなく英語祈禱書の導入をともなっていたため,アイルランド,ウェールズ,イングランド内でもコーンウォルなどの英語と異なる言語が使用されている地域ほどこれらの導入には困難があったと考えられる.
しかし,イングランド全国の教区教会ではグレート・バイブルに対する教区民の関心は大変高く,大きな書物の周囲に人だかりができるほどであったという.カトリック教会の信仰にとって最も重要なラテン語は,聖職者や高度な教育を受けた人々に独占された言語であって民衆の信仰の内面化の妨げともみなされたが,プロテスタントの聖書主義はヨーロッパ各地に現地語での信仰生活を根付かせることに成功した.
ここで注意したいのは,アイルランド,ウェールズ,コーンウォルなどの英語を母語としない地域においても,英語の聖書や祈祷書が導入されたことである.つまり,これらの地域の人々にとってみれば,宗教改革は必ずしも「現地語での信仰生活を根付かせることに成功し」なかったのである.彼らにとっては,宗教の言語がラテン語から英語へシフトしたにすぎず,非母語であるという点では何も変化しなかった.イングランドの宗教改革は,周縁のケルト系の人々にとって,ローマによるラテン語の押しつけから解き放ってくれた解放者かもしれないが,イングランドによる英語の押しつけをもたらした圧制者でもあった.
水井 (85) 曰く,「ブリテン諸島における宗教改革は,英語という言語の使用を信仰の場で義務づけることにもつながったため,その後のケルト系諸言語の使用状況にも大きな影響を与えたのだといえる」.英語の帝国主義的な性格は,英語が世界語となった20--21世紀に特有のものではなく,早くも近代初期の16世紀からその萌芽が見られたといえるだろう.
・ 水井 万里子 『図説 テューダー朝の歴史』 河出書房,2011年.
英語史における宗教改革の意義について,reformation の各記事で考えてきた.現時点での総括として,「宗教改革と英語史」のまとめスライド (HTML) を公開したい.こちらからどうぞ. * *
15枚からなるスライドで,目次は以下の通り.
1. 宗教改革と英語史
2. 要点
3. 宗教改革とは?
4. 歴史的背景
5. イングランドの宗教改革とその特異性
6. ルネサンスとは?
7. イングランドにおける宗教改革とルネサンスの共存
8. 英語文化へのインパクト
9. プロテスタンティズムの拡大と定着
10. 古英語研究の開始
11. 語彙をめぐる問題
12. 一連の聖書翻訳
13. まとめ
14. 参考文献
15. 補遺:「創世記」11:1--9 (「バベルの塔」)の近現代8ヴァージョン+新共同訳
別の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]) もご覧ください.
今年は宗教改革500周年に当たる.1517年10月31日,ルターがヴィッテンベルクの城教会の北入口の扉に「95箇条の提題」を貼りだし,宗教改革が始まったとされる.以下に,森田 (122--25) による「宗教改革略年表」を再現したい.西ヨーロッパ全体に関わる年表だが,イングランドやスコットランドの主要な事件も含まれている(黄字で示した).宗教改革と英語(史)の関係を考慮する際のおともにどうぞ.
1483 | 11.10 | マルティン・ルター誕生(?1546.2.18.) |
1484 | 1.1 | ウルリヒ・ツヴィングリ誕生(?1531.10.11.) |
1488 | 4.21 | ウルリヒ・フォン・フッテン誕生(?1523.8.29?) |
1509 | 7.10 | ジャン・カルヴァン誕生(?1564.5.27) |
1516 | 2. | エラスムス『校訂新約聖書』 |
1516 | 4.16 | ツヴィングリ,アインジーデルン修道院の司牧司祭となる |
1517 | 10.31 | ルター「95箇条の提題」を発表 |
1519 | 1.1 | ツヴィングリ,チューリヒの司牧司祭となる |
1519 | エラスムス『パラクレーシス キリスト教哲学研究の勧め』単行本として出版 | |
1519 | 6.27--7.17 | ライプツィヒ討論会 |
1520 | 6.15 | ルターに対する波紋威嚇勅書「主よ,立ちて」が出される |
1520 | 8. | ルター「キリスト教界の改善について,ドイツ国民のキリスト教貴族に与える」 |
1520 | 9.28 | フッテン『ドイツ国民の諸身分に与える訴状』 |
1520 | 10. | ルター「教会のバビロン捕囚について」 |
1520 | 11. | ルター「キリスト者の自由」 |
1520 | 11. | ドイツ各地でルターの書物焼かれる |
1520 | 12.10 | ルター,破門脅迫勅書,教会法などの書籍を焼却 |
1521 | 1.3 | 教皇勅書「ローマ教皇にふさわしく」によりルター正式に破門さる |
1521 | 春 | 「神の水車」(パンフレット) |
1521 | ルフェーヴル・デターブル,モーで改革運動 | |
1521 | 4.17 | ルター,ヴォルムス帝国議会に召喚 |
1521 | 5.26 | ルター,ヴォルムス勅令により帝国追放刑 |
1521 | クラーナハ『キリストの受難とアンチ・キリストの受難』 | |
1522 | 9. | フッテン,ジッキンゲンら帝国騎士とともに,トリーア大司教を攻撃し,失敗する(騎士戦争) |
1523 | 1.29 | チューリヒの第一回公開討論会 |
1523 | 6. | ツヴィングリ『67箇条の提題の講解と論証』 |
1523 | 10.26 | チューリヒの第二回公開討論会 |
1523/24 | カールシュタット,オルラミュンデにおいて急進的改革を実施 | |
1524/25 | ドイツ農民戦争 | |
1525 | 1. | チューリヒ郊外のツォリコーン村で,再洗礼派運動誕生 |
1526 | 1. | マドリード条約 |
1526 | 5.21--6.8 | バーデン宗教討論会(スイス版ヴォルムス帝国議会) |
1526 | 5.22 | フランソワ一世,教皇とコニャック同名を結ぶ |
1526 | 8. | モハーチの戦い |
1526 | 8. | 第一回シュパイエル帝国議会,宗教改革に自由を与える |
1527 | 1. | フェーリクス・マンツ,リマト川にて溺殺刑 |
1527 | ザクセン選帝侯ヨーハン「巡察者のための訓令」を発布 | |
1527 | 5. | 皇帝軍,ローマ掠奪 |
1527 | 12. | チューリヒ,コンスタンツと「キリスト教都市同盟」締結 |
1528 | 1. | ベルン公開討論会,ベルン宗教改革を導入して,「キリスト教都市同盟」へ加入 |
1528 | 2. | 「パック事件」が起きる |
1529 | 4.22 | 第二回シュパイエル帝国議会,ヴォルムス勅令の再施行 |
1529 | 4. | オーストリア,スイスのカトリック諸邦と「キリスト教連合」(ヴァルツフート同盟) |
1529 | ルーカス・クラーナハ「律法と福音」 | |
1529 | 5. | 第一次カペル戦争 |
1529 | 8.3 | カンブレ和約 |
1529 | 9.26--10.15 | 第一次ウィーン包囲 |
1529 | 10.1--3 | マールブルク宗教会談,ルター派とツヴィングリ派,正餐論争で一致せず |
1529 | 11.4--1536.4 | イングランドで「宗教改革議会」召集 |
1530 | 1. | 「キリスト教都市同盟」にシュトラースブルク加入 |
1530 | 6. | アウクスブルク帝国議会,「アウクスブルク信仰告白」の朗読 |
1530 | 8. | エックら「カトリックの論駁書」 |
1530 | 11. | ウルジー,大逆罪の容疑で逮捕され,ロンドンへ護送される途中で病死 |
1531 | 2.27 | シュマルカルデン同盟結成 |
1531 | 10. | 第二次カペル戦争,ツヴィングリ戦死 |
1534 | 8. | イグナティウス・デ・ロヨラ,イエズス会を設立 |
1534 | 10.17--18 | 「檄文事件」 |
1534 | 11. | イングランド議会「国王至上法」制定 |
1535 | 『カヴァデイル訳聖書』刊行 | |
1535 | 7.6 | トマス・モア処刑 |
1536 | 2.7 | ジュネーヴ,ベルンと同盟 |
1536 | 2.26 | 「第一スイス信仰告白」 |
1536 | 3 | カルヴァン『キリスト教綱要』 |
1536 | 5.21 | ジュネーヴ,宗教改革導入を決定 |
1536 | 5 | 西南ドイツの福音派とルター派のあいだに「ヴィッテンベルク一致信条」成立 |
1536 | 7 | カルヴァン,ジュネーヴで宗教改革運動に参加 |
1537 | 1. | カルヴァン「教会組織に関する諸条項」 |
1538 | 4.23 | カルヴァン,市民総会の決定により都市外追放 |
1539 | 6. | 「六箇条法」制定,『大聖書(グレート・バイブル)』刊行 |
1539 | 9. | カルヴァン「サドレート枢機卿への返答」 |
1541 | 9.13 | カルヴァン,ジュネーヴへ帰還 |
1541 | 11. | 「ジュネーヴ教会規則」を制定 |
1545 | カステリョ,ジュネーヴより追放 | |
1546/47 | シュマルカルデン戦争 | |
1547 | 1.28 | 英王ヘンリ8世没 |
1547 | 4.24 | ミュールベルクの戦い,ザクセン選帝侯ヨーハン・フリードリヒ捕虜になる |
1547 | 3.31 | 仏王フランソワ一世没 |
1548 | 6. | 「よろいを着た」アウクスブルク帝国議会,「仮信条協定」制定 |
1551 | カルヴァン,ジェローム・ボルセックと二重予定説問題の論争 | |
1552 | 諸侯戦争 皇帝カール5世敗退 | |
1553 | 10.27 | ミカエル・セルヴェトゥス焚刑 |
1558 | ノックス『女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り』 | |
1555 | 9. | アウクスブルク宗教平和 |
1559 | ジュネーヴ・アカデミーの創設 | |
1559 | 4. | イタリア戦争の終結,カトー・カンブレジの和議 |
1559 | 5. | 「フランス信仰告白」 |
1560 | 3.15--16 | アンボワーズの陰謀 |
1560 | 8. | 「スコットランド信仰告白」 |
1562 | 3. | ヴァシー事件,ユグノー戦争始まる |
1566 | 「飢餓の年」 | |
1571 | 1. | イングランド「三九箇条」法制化 |
1572 | 8.23 | サン・バルテルミの虐殺 |
1573 | 7. | 「ブーローニュの王令」改革派はラ・ロシェルなどの都市で礼拝式を認められる |
1578 | 7. | 「規律(第二)の書」 |
1579 | 1.23 | ユトレヒト同盟締結 |
1588 | 5. | 「バリケードの日」パリ市民の蜂起 |
1588 | 8. | スペイン無敵艦隊イングランドに敗退 |
1589 | 8. | アンリ3世暗殺され,アンリ・ド・ブルボンがアンリ4世として即位 |
1593 | 「国教忌避者処罰例」「ピューリタン処罰法」 | |
1598 | 4.13 | ナントの王令 |
1609 | 4.9 | オランダ独立戦争,オランダとスペインがアントウェルペンで,十二年休戦条約を結ぶ |
1618 | 11. | ドルトレヒト会議,ホマルス派の全面的勝利 |
1648 | 10. | ウェストファリア条約 |
宗教改革は,識字率に影響を与えたといわれる.「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]),「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]) でみたように,宗教改革と印刷術の活用が二人三脚で進展したからである.実際,宗教改革の前夜である16世紀初頭と同世紀末とを比べると,識字率が大幅に増加したようだ.歴史的な識字率を正しく得ることは難しいが,様々な推計が増加を指摘している.
永田 (40--42) は,ドイツや西ヨーロッパ全体に関する各種の推計を紹介している.ある推計によれば,16世紀初めのドイツでは3--4%,都市部でも5%ほどだったが,1600年頃のハンブルクでは10%からその数倍の人々が文字を知っていたという.また,西ヨーロッパ全体についても,16世紀末には都市部で識字率が50%近くになっていたという見解もある.様々な推計を受けて,永田 (42) は,作業仮説として「十六世紀初頭に読み書きができるひとは五パーセント以下だったが,その世紀の終わりになると,都市部では三〇から五〇パーセント近くまで上昇した」という見解を採用している.
ただし,識字率が増加したとはいえ,みなが読めるというにはほど遠い状態である.そのような不完全な識字を補うために,宗教改革の推進派は,紙芝居の音読のような「集団読書」を行なったり,絵入りの冊子や木版画で人々を啓蒙しようとした.これらのメディア戦略が功を奏して,ドイツほかの地域で宗教改革が展開していったのである.
なお,時代は下って1900年頃のヨーロッパの識字率についても,次のような推計が引き合いに出されているので紹介しておこう.「一九〇〇年頃,プロイセン・ドイツの識字率は八八パーセント,オーストリアは七七パーセント,フランスは八二パーセント,イタリアは五二パーセントである」(永田,p. 42).ただし,一般にヨーロッパの識字の基準は甘く,自分の名前が読み書きできる程度でも文字を知っているとみなされたので,いくらか割り引いて評価する必要はありそうだ.
・ 永田 諒一 『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』 講談社〈講談社現代新書〉,2004年.
昨日の記事「#3063. Sir John Cheke の英語贔屓」 ([2017-09-15-1]) で Cheke の言語的純粋主義に焦点を当てた.英語史上,Cheke はこのほか正書法と綴字問題にも関わっていることで知られている(cf. 「#1940. 16世紀の綴字論者の系譜」 ([2014-08-19-1]),「#1939. 16世紀の正書法をめぐる議論」 ([2014-08-18-1])).そしてもう1つ,Cheke はギリシア語の発音について,社会的な意義をもつ論争を引き起こしたことで有名である.
ギリシア語の発音を巡っては,オランダの人文主義者 Desiderius Erasmus (1466?--1536) が先駆けて議論を提示していた.従来のギリシア語の音読では,異なる母音字で綴られていても同じように発音するという慣習があった.しかし,Erasmus はそれがかつては異なる母音を表わしていたに違いないと推測し,本来の発音がいかなるものだったかを Dialogus de recta latini graecique sermonis pronuntiatione (1528) で提示した.
Cheke も徹底的に古典ギリシア語の発音を研究していた.Cheke は,1540年にケンブリッジ大学のギリシア語教授となってから,慣習的なギリシア語の発音は誤りであるとして改革の必要性を説いたが,ケンブリッジ大学総長の Stephen Gardiner がそれを遮った.1542年に改革発音を禁じたのである.パリでも Erasmus の改革発音が「文法上の異端」として禁止された.従来の発音を維持することで権威を守りたい体制側のカトリックが,原語に忠実な発音へ改革しようとする反体制的なプロテスタントを押さえつけるという構図である.
Gardiner は何を恐れていたのだろうか.Knowles (68) より引用する.
It is difficult to believe that Gardiner was threatened by sounds and the study of pronunciation. What did present a threat, and a serious one, was the precise study of texts. This point had been understood by the Lollard translators. The Bible was at this time increasingly proclaimed by reformers as the ultimate authority, and, the more scholarly and accurate the written text, the more effectively it could be used to challenge the traditional oral authority of the church.
Gardiner was extremely conservative not only in language but also in politics and religion. When, after 1553, Queen Mary sought to return the English church to Rome, Gardiner was her lord chancellor; and in this capacity he played a role in the burning of heretics, and one of his potential victims --- had he not recanted --- was Sir John Cheke. After Gardiner's death in 1555, Cheke published the correspondence between himself and Gardiner under the title Disputationes de pronuntiatione graecae linguae. What is important and perhaps surprising in this story is that the study of pronunciation could be regarded as a political issue.
引用の最後で指摘されているとおり,この事件でおもしろいのは,外国語の発音の仕方という些細な問題が政治と宗教の論争にまで発展したことだ.言語においては,1音あるいは1字のうえに命が懸かっているという状況が,実際にありうる.非常におもしろいが,非常におそろしい.
colour から1文字だけ削除して color とすることを訴えて綴字改革に邁進した Noah Webster も,独立したアメリカへの愛国心に駆られて,ある意味で命を懸けていたのではなかったか.
・ Knowles, Gerry. A Cultural History of the English Language. London: Arnold, 1997.
14世紀後半の Wycliffe (一門)による聖書英訳は,英国史や聖書翻訳史のみならず英語史においても重要なできごとである.ラテン語原典から完訳した英訳聖書として初のものであり,時代をはるかに先取りした「宗教改革」ののろしだった.
Wycliffe は,いかにして聖書の英訳を正当化しようとしたか.その口上が,Wyclif's Treatise, De Officio Pastorali (Chapter 15) に見られる.中英語テキストの講読に適している箇所と思うので,Crystal (198) に掲載されている校訂テキストを引用しよう.
Also the worthy reume of Fraunse, notwithstondinge alle lettingis, hath translated the Bible and the Gospels, with othere trewe sentensis of doctours, out of Lateyn into Freynsch. Why shulden not Engliyschemen do so? As lordis of Englond han the Bible in Freynsch, so it were not aghenus resoun that they hadden the same sentense in Engliysch; for thus Goddis lawe wolde be betere knowun, and more trowid, for onehed of wit, and more acord be bitwixe reumes.
And herfore freris han taught in Englond the Paternoster in Engliysch tunge, as men seyen in the pley of York, and in many othere cuntreys. Sithen the Paternoster is part of Matheus Gospel, as clerkis knowen, why may not al be turnyd to Engliysch trewely, as is this part? Specialy sithen alle Cristen men, lerid and lewid, that shulen be sauyd, moten algatis sue Crist, and knowe His lore and His lif. But the comyns of Engliyschmen knowen it best in ther modir tunge; and thus it were al oon to lette siche knowing of the Gospel and to lette Engliyschmen to sue Crist and come to heuene.
骨子は明確である.お隣のフランスでも翻訳がなされているではないか.また,イングランド庶民にとっても,英語の聖書のほうが理解しやすいではないか.現代の我々にとっては実に明快な理由づけだが,14世紀のイングランドでは,この考え方は異端も異端だった.
さらに,この時代には,宗教的な異端性もさることながら,高尚なテキストを執筆するのに英語をもってするということ自体が,いまだ確立した慣習とはなっていなかった.もちろん同時代のチョーサーも文学を英語で書いたわけだが,それ自体一種の冒険であり,実験だったとも考えられる.ジャンルにもよるが,「英語で書く」という行為が当然でなかったことは,先立つ初期中英語でもそうだったし,後続する初期近代英語でも然り.関連して,「#2861. Cursor Mundi の著者が英語で書いた理由」 ([2017-02-25-1]),「#2612. 14世紀にフランス語ではなく英語で書こうとしたわけ」 ([2016-06-21-1]),「#1407. 初期近代英語期の3つの問題」 ([2013-03-04-1]),「#2580. 初期近代英語の国語意識の段階」 ([2016-05-20-1]) も参照されたい.
・ Crystal, David. The English Language. 2nd ed. London: Penguin, 2002.
英語の calling は,格式張ったレジスターで「天職,職業」を意味する.動詞 call の名詞形として,「呼ぶこと」の語義では初期中英語から文証されるが,「天職」の語義は16世紀前半のことである.OED によると,この語義 (8c) での初例は以下の通り.
c. A profession devoted to the service of God; an office or position within the church. Hence in extended use: any profession or way of life which a person feels called or destined to pursue.
. . . .
1544 R. Tracy Supplycacion to Kynge Henry VIII sig. Bviiiv, As the byshop is ignorante in Godes worde, so he admytteth suche as be vnlerned in Gods worde, evyn suche as by noo possybylite can execute the office of their callinge.
「神による召喚」であるから,聖書と結びつけられている表現であることが予想される.実際,例えば KJV より 1 Cor. 7.20 に,"Let every man abide in the same calling wherein he was called." と見える.
「神による召喚」から「天職」への意味変化は,英語の calling のみならず,ドイツ語 Beruf にも見られる.いや,正確にいえば,ドイツ語に発した意味変化が,対応する英語に及んだというべきである.つまり,一種の意味借用 (semantic_translation) だ.オランダ語 beroep,デンマーク語 kald,スウェーデン語 kallelse も同様である.
ドイツ語をはじめとするゲルマン諸語での意味変化は,16世紀のルターによる宗教改革を抜きにしては考えられない.プロテスタンティズムという大きな社会運動とそれに伴う聖書翻訳こそが,この意味変化の駆動者である.マックス・ヴェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 (96--97) より,Beruf の語義について解説した箇所を引用しよう(訳書の傍点は太字で示してある).
さて,〔「職業」を意味する〕ドイツ語の「ベルーフ」》Beruf《という語のうちに,また同じ意味合いをもつ英語の「コーリング」》calling《という語のうちにも一層明瞭に,ある宗教的な――神からあたえられた使命 (Aufgabe) という――観念がともにこめられており,個々の場合にこの語に力点をおけばおくほど,それが顕著になってくることは見落としえぬ事実だ.しかも,この語を歴史的にかつさまざまな文化国民の言語にわたって追究してみると,まず知りうるのは,カトリック教徒が優勢な諸民族にも,また古典古代の場合にも,われわれが〔世俗的な職業,すなわち〕生活上の地位,一定の労働領域という意味合いをこめて使っている》Beruf《「天職」という語と類似の語調をもつような表現を見出すことができないのに,プロテスタントの優勢な諸民族の場合にはかならずそれが存在する,ということだ.さらに知りうるのは,その場合何らか国語の民族的特性,たとえば「ゲルマン民族精神」の現われといったものが関与しているのではなくて,むしろこの語とそれがもつ現在の意味合いは聖書の翻訳に由来しており,それも原文の精神ではなく,翻訳者の精神に由来しているということだ.ルッターの聖書翻訳では,まず「ベン・シラの知恵」〔旧約聖書外典中の一書〕の一個所(一一章二〇,二一節)で現代とまったく同じ意味に用いられているように思われる.その後まもなくこの語は,あらゆるプロテスタント諸民族の世俗の用語のなかで現在の意味をもつようになっていったが,それ以前にはこれら諸民族の世俗的文献のどれにもこうした語義の萌芽はまったく認められないし,宗教的文献でも,われわれの知りうるかぎり,ドイツ神秘家の一人のほかにはそれを認めることができない.この神秘家がルッターにおよぼした影響は周知のとおりだ.
大きな文化史的事件が,小さな語の意味変化を生じさせた顕著な例である.
・ マックス・ヴェーバー(著),大塚 久雄(訳) 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 岩波書店,1989年.
[2017-05-02-1]の記事に引き続いての話題.この英語史上の問題に迫るには,先行するドイツ語史における情況を見ておくのが早い.というのは,宗教改革も印刷術もドイツにおいて始まったからだ.宗教改革者ルター (Martin Luther; 1483--1546) と,少々先立つ時代の活版印刷術の発明者グーテンベルク (Johannes Gutenberg; 1400?--68) の時代である.
ルターのドイツ語訳聖書 (1521) が俗語ドイツ語の地位を高めた事実について,野々瀬 (35--36) の解説を引く.
ルター訳聖書は,ドイツ語史の中でも重要な位置を占めている.当時ドイツ語には,多様な方言が存在し,統一的な共通語はまだ形成されていなかった.ルターは,この翻訳に際して,技巧をこらした複雑な表現ではなく,話し言葉を多く採用した.〔中略〕彼は,官房で使われていた法律家風の言葉だけでなく,民衆の言い回しの中にある豊かな表現を選抜して,それを多用した.ルターの言葉は,突然生み出された新しいものではなく,当時生きていたドイツのすべての言語的な伝統の系譜を集約したような貯水槽であった.ルターは,誰にでもわかる言語形式で聖書の翻訳を試みたのである.このような翻訳に従事することによってルターは,聖書全体を民衆に役立たせようと格闘した.ルター訳聖書は,商品として市場で普通に売買され,一般家庭で読まれるための書物となった.以降ルターのドイツ語訳聖書は,ドイツ語を学ぶための民衆の教材として扱われ,近代ドイツ文学の源泉の一つとなり,国語としてのドイツ語の成立に寄与したことは間違いない.宗教改革運動が聖書の翻訳に加えて教会の典礼での俗語の使用を促進したので,結果としてそのことが,中世では支配的であったラテン語の使用範囲を著しく狭め,俗語の地位を高めることに繋がった.またルター訳聖書は,ティンダル訳や欽定訳などの英訳聖書にも重大な影響を与えたのである.
ルター訳聖書は,俗語ドイツ語で書かれることによって,不動と思われていたラテン語の権威を脅かしたという点において,ドイツ語史上に大きな意義を有している.これを契機に,何世紀ものあいだカトリック教会の権威と結びつけられ,絶対的な地位を守り続けたラテン語の権威が,相対的に陰りはじめたのである.この影響はすぐに近隣国へも広がり,イングランドにおいても俗語たる英語への聖書翻訳が次々に企画され,実践されていくことになった.おりしも活版印刷はグーテンベルクの発明から半世紀を経て,軌道に乗り始め,宗教改革を支える強力な推進力となった.ドイツ語と同様,英語もラテン語に対抗しうるひとかどの言語として認識されるようになっていく.
以上を野々瀬 (41) の言葉でまとめよう.
宗教改革運動が,万人司祭主義と聖書中心主義を掲げて,原典に依拠した俗語訳聖書を出版したことによって,民衆にとって聖書は直接触れることのできる身近な存在へと変貌した.聖書の解釈権も俗人に開放された.聖書は,すべての社会層の日常生活の中に浸透し,熱心に読まれ始めたのである.その結果宗教改革は,ヨーロッパの教会におけるラテン語の権威を低下させ,書き言葉としての俗語の地位を高め,標準語の形成に寄与した.グーテンベルクの活版印刷術の発明が,そのような動きを後押しした.
・ 野々瀬 浩司 「ドイツ宗教改革期における聖書と共同体」『聖書テクストと共同体』 慶應義塾大学文学部編,2017年,29--42頁.
カーランスキー (230) は,著書『紙の世界史』の第10章「印刷と宗教改革」において,印刷術という最新テクノロジーが宗教改革を駆動したことについて,次のように述べている.
印刷機は宗教改革の申し子だといったほうがよほど真実に近いだろう.宗教改革は宣伝戦略として印刷を利用したはじめての運動だった.宗教改革があったからこそ,印刷はあの時代に,あの場所で発明されたのだ.つまるところ,ヨーロッパ人は印刷機の製造法も,金属の彫り方も,鉛の鋳造も,彫られた像にインクをつけて刷る方法も,ずいぶんまえから知っていて,その気になれば,いつでも可動活字で印刷を始められた.世情の混乱や新しい思想や変化への欲求が沸き返っているドイツで印刷が発明されたのは偶然ではない.プロテスタントの宗教改革運動には,この新しいテクノロジーの可能性を直観的に理解する力があったのだろう.プロテスタントは巧みに印刷機を使いこなした.以来,インターネットの隆盛を迎えるまで,印刷機はあらゆる運動を組織化する一種の手本としての機能を果たした.
それ以前は,思想を広める手段といえば,口頭の説教くらいのものだった.しかし,人々の識字率が上がってくると,文字広告がより効果的な手段として台頭してくる.宗教改革に内在していた,ある思想を広めたいという強い要求と人々の識字率の向上,そして印刷術というテクノロジーの誕生が,時代的にぴたっと符合したのである.こうして,宗教改革と印刷術はいわば二人三脚で進むことになった.
16世紀初頭のドイツで始まったこの二人三脚は,すぐにイングランドにも伝わった.ローマ・カトリック教会と断絶してイングランド国教会を設立したヘンリー8世は,イングランド国民の支持を取り付けるために,文字広告を,つまり印刷術を利用したのである.カーランスキー (258) は,これについて次のように説明している(原文の傍点は下線に替えてある).
イングランド国教会には大衆の支持が必要であり,イングランドの出来事をローマが指示することは許されるべきではないという主張なら大衆の教会を得られるかもしれない.だが,それを売って広めなければならない.王の腹心,トマス・クロムウェルはこの戦略を議会と協議する一方,ドイツのプロテスタントのように印刷業者を利用して大衆の支持を集めさせた.クロムウェルは,反教皇の大義を日常の英語で論じる一連の小論文を出版した.そうしたパンフレットもそのなかで論じられている考え方も大衆に充分に受け入れられるものだった.物事を進める際の新しい形はこんな背景で十六世紀に定着したのだ.
クロムウェルが,印刷術を利用して小論文という形の文字広告によりヘンリー8世の大義を民衆に受け入れさせようとした点が,重要である.そして,その媒介言語が,ローマ・カトリック教会と結びついたラテン語ではなく,皆が理解できる土着語たる英語であったことが,さらに重要である.ここにおいて,宗教改革,印刷術,土着の英語の3つが結びつくことになった.宗教改革が進めば,ますます多くの英語が印刷に付されてその地位が向上するし,英語の地位が向上して印刷される機会が増えれば,それだけ宗教改革の路線も強化された.一見結びつかないような様々な現象が,16世紀のイングランド社会を大きく動かしていたのである.
・ マーク・カーランスキー(著),川副 智子(訳)『紙の世界史 歴史に突き動かされた技術』 徳間書店,2016年.
イングランドにおいて本格的な古英語研究が始まったのは,近代に入ってからである.中英語期には,古英語への関心はほとんどなかったといってよい.では,なぜ近代というタイミングで,具体的には16世紀になってから,古英語が突如として研究すべき対象となったのだろうか.
16世紀は宗教改革の時代である.Henry VIII がローマ教会と絶縁し,自ら英国国教会を設立したのが,1534年.このとき改革派は,英国国教会とその教義の独自性および歴史的継続性を主張する必要があった.そこで持ち出されたのが,言語的伝統,すなわち英語の歴史であった.イングランドという国家と分かち難く結びつけられた英語という言語の伝統が,長きにわたり独自のものであり続けたことを喧伝するのが,改革派にとっては得策と考えられた.また,英語の伝統を遡るという営為は,王権神授説に対抗し,実際的にイングランドの法律や政治的慣行の起源を探るという当時の欲求に適うものでもあった.
古英語文献が印刷に付された最初のものは,Ælfric による復活祭説教集で,1566--67年に A Testimonie of Antiquity として世に出た.それから1世紀の時間をおいて,1659年には William Somner による初の古英語辞書 Dictionarium Saxonico-Latino-Anglicum が出版される.最初の古英語文法も,George Hickes によって1689年に出版されている.そして,1755年にはオックスフォード大学で最初の "Anglo-Saxon" 学の教授職が Richard Rawlinson により設定された(英語史上の1段階としての変種を表わすのに "Old English" ではなく "Anglo-Saxon" という用語が用いられてきたことについては,「#234. 英語史の時代区分の歴史 (3)」 ([2009-12-17-1]),「#236. 英語史の時代区分の歴史 (5)」 ([2009-12-19-1]) を参照).
このように,16--18世紀にかけて古英語研究が勃興ししてきた背景には,純粋に学問的な好奇心というよりは,宗教改革に端を発するすぐれて政治的な思惑があったのである.この経緯について,簡潔には Baugh and Cable (280fn) を,詳しくは武内の「第8章 イングランドのアングロ・サクソン学事始」を参照.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
・ 武内 信一 『英語文化史を知るための15章』 研究社,2009年.
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