西洋における紋章 (coat of arms, armorial bearings, arms) を対象とした研究を紋章学 (heraldry) という.15世紀に始まったこの学問は現在まで連綿と続いてきているが,研究対象となる紋章とは何かという定義の問題を巡っては,万人が一致する答えはない.『紋章学辞典』を著わした 森 (v) の定義によれば,「中世ヨーロッパのキリスト教信仰の支配する貴族社会に始まり,楯にそれぞれ個人を識別できるシンボルを描いた世襲的制度」となる.
西洋の騎士の戦場での出で立ちは,甲冑に身を固めた完全武装である.お互いに顔も認識できない状況にあって,楯に描かれたシンボルをもって彼我の識別手段としたのが紋章の起源である.したがって,紋章とは,第一に騎士である(準)貴族に属する制度であり,また家系ではなく個人を識別するための道具立てである(この点が日本の家紋と異なる).そのため,同じ主権領内にあって2つの同じ紋章があってはならないのである.一方,世襲的に受け継がれていくというのも紋章の重要な特徴であるには違いない.実際,継承実績がなければ紋章ではなくエンブレム (emblem) とみなされるにすぎない.
紋章は11世紀初頭にドイツで始まったといわれる.紋章の普及に貢献したのは,馬上槍試合 (joust) である.そこでは,騎士は自らの楯形紋章の描かれた陣羽織 (surcoat) を鎧の上に着用して試合に参加する(ゆえに,紋章は "coat of arms" と呼ばれる).その試合開始にあたっては,審判(=紋章官 (herald))がラッパの吹鳴に続いて,各騎士の紋章を解説するのが習わしだった(ゆえに,「紋章の説明」はもともとドイツ語で「ラッパを吹く」を意味する "blazon" と称される).
史上初の継承実績を残す紋章は,イングランドの William Longespée, Earl of Salisbury (1226年没)のものといわれる.後に,紋章の役割は個人識別の手段から武勲や家門の誇示の手段へと変質し,さらにステータス・シンボルそのものへと発展した.また,国家,都市,教会,ギルドなどの集団や法人単位でも所有されるようになり,その社会的な位置づけも変わってきた.
中世後期からの豊かな歴史を誇る西洋の紋章は,持ち主の身分や性格のみならず政治的立場や歴史的役割をも現在に伝える貴重なテキストである.たとえば「#433. Law French と英国王の大紋章」 ([2010-07-04-1]) で示したエリザベス2世の大紋章は,英国の歴史を雄弁に物語る一級の史料なのである.
森 護 『紋章学辞典』 大修館書店,1998年.
父王 Henry II のアンジュー帝国を引き継いだ獅子心王 (Coeur de Lion or Lion-Heart) こと Richard I (1157--99,在位 1189--99) は,世間には人気の高い歴代イングランド王の1人である.第3回十字軍に参加してイェルサレムを目指し,善戦してサラディンとの和平を結ぶも,帰路に捕虜として捕えられ,莫大な身代金によりようやく釈放されて帰国し,戴冠した.この波瀾万丈なキャリアが,人々の関心を集めるのだろう.
しかし,イングランドの統治者としては,相当にひどいタイプである.何しろ在位10年ほどの間のほとんどを,遠征などのために大陸で費やしており,イングランドへの訪問は2回のみ,しかも総滞在期間はわずか6か月という始末である.当然ながら,「#1204. 12世紀のイングランド王たちの「英語力」」 ([2012-08-13-1]) で述べたように,英語には一切関心がなかった.ちなみに,王妃ベレンガリアに至っては,一度もイングランドの地を踏んでいないというから,さらに上手だ.
遠征にかかる費用や身代金のために借金地獄に陥った Richard I は,税収を確保するために国璽 (Great Seal) の改訂という驚くべき手段に訴えた.王家や王国の収支証明書は,国璽がないと無効になる.この国璽を改訂することによって,それまでに発行していた証明書を無効にする,つまり借金を反故にするという狙いである.おもしろいのは,図案の改訂の仕方である.改訂前の国璽に描かれている楯には,立ち上がったライオンが見え,おそらく見えない部分も合わせてライオン2頭が向かい合う図案だったと思われる.ところが,改訂後の国璽の楯には,歩き姿のライオン3頭が描かれている.この新図案は,後にイングランド王家に受け継がれていく紋章の図案であり,実際に現在でも用いられている(cf. 「#433. Law French と英国王の大紋章」 ([2010-07-04-1])).
この改訂について,森 (67--68) は次のように述べている.
ヨーロッパの紋章は,十字軍遠征に参加した騎士たちの間で,既に紋章を持ち始めたドイツ騎士たちのものに,各国の騎士が異常なほど関心を示して,これが一挙といえるほどに,各国への紋章の普及に貢献した.私見ではあるが,リチャード一世の最初の玉璽に見える楯のデザインは,決してスマートなものとは思えないし,リチャードも聖地で目にした他国の進んだ紋章デザインに刺激されて,二度目のシールにみるような楯に変えたのではなかろうか.
国璽の改訂は,いわば国王 Richard I の財政的愚行を象徴するできごとだったわけだが,それが現イギリス女王にまで引き継がれているというのが,なんとも皮肉である.なお,現行の大紋章の下部にある Dieu et mon droit (神とわが権利)というフランス語のモットーは,Richard I の戦場での雄叫びに由来するという.Richard I は,イギリスの紋章史においては絶大な影響力を誇った王といえるだろう.
英語史の観点からは,Richard I がそれほどまでにイングランド統治を無視してきたという事実に注目したい.これは英語に対する無関心ということでもあった.この言語的無関心により,英語は内外から締めつけられることなく,自由闊達に,ありのままの変化と変異を謳歌しつつ,豊かな言語へと成長していったのである.
・ 森 護 『英国王室史話』16版 大修館,2000年.
昨日の記事「#1733. Canada における英語の歴史」 ([2014-01-24-1]) で,カナダにおける英語の歴史を概観した.そのなかで,カナダが1965年に国旗のデザインをカエデをかたどった現在のもの (Maple Leaf flag) に変更したことに触れた.National Symbols - Anthems and Symbols - Canadian Identity によると,それ以前のカナダの国旗としては様々なデザインがあったが,旗竿に近い上端の区画 (canton) に,英領であることを表わすものとして Union Jack が配されたものが多かった.例えば,1957年の時点では以下の左のものが採用されていた.
[2010-03-29-1]の記事で触れた Law French について,佐藤 (31) からもう少し例を挙げたい.以下のフランス借用語句は本来的に法律用語であるが,一般化して広く使われるようになった名詞も少なくない.
accuse 「告発(告訴)する」, assize 「巡回裁判;陪審(審理)」, cause 「訴訟(事件)」, court 「法廷,裁判所」, crime 「犯罪」, damage 「損害(賠償金)」, demesne 「(権利に基づく土地の)占有」, dower 「寡婦産」, fee 「相続財産」, guile 「策略」, just 「公正な」, justice 「司法(官),裁判(官)」, petty 「(犯罪が)軽微な」, plea 「(被告の最初の)訴答,抗弁」, plead 「(訴訟事実などを)申し立てる」, property 「所有権」, puisne 「陪席判事」, session 「開廷期」, sue 「訴える」, suit 「訴訟」, summon 「召喚する」, heir male 「男子相続人」, issue male 「男子」, real estate 「不動産」
他に法律関連では,Le roi le veult 「王がそれをお望みだ」(王が裁可を下す時の形式文句)や Le roi s'avisera 「王はそれを考慮なさるだろう」(王が議案の裁可を拒むときの形式文句)という文としての表現が現在でも残っている.英国王の大紋章 ( great arms ) の銘文 ( motto ) として描かれている DIEU ET MON DROIT は「神とわが権利」を意味し,12世紀後半に Richard I が戦場で使った雄叫びに由来するといわれ,15世紀後半の Henry VI の時代に紋章に加えられたという(下図参照).ちなみに,英国王の大紋章には HONI SOIT QUI MAL Y PENSE という銘文も刻まれており,フランス語で「それを悪いと思う者に禍あれ」を意味する.これは1348年にガーター騎士団を創設した Edward III の発言に由来するとされる(森,p. 409).英国王の大紋章 "The Royal coat of arms" は英国王室の公式サイトから大画像を見ることができる.
・ 佐藤 正平 「英語史考」『学苑』 第227号,1959年,15--41頁.
・ 森 護 『英国王室史事典』 大修館,1994年.
(後記 2018/09/29(Sat):Wikipedia よりこちらの SVGもどうぞ.)
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