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middle_voice - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-11-21 21:39

2024-09-30 Mon

#5635. easy-to-please 構文にみられる中動態的性質 [middle_voice][passive][voice][semantic_role][infinitive][syntax][adjective][complementation][construction][adverb]

 今回は,昨日の記事「#5634. eager-to-please 構文の古さと準助動詞化の傾向」 ([2024-09-27-1]) で触れなかったもう1つの構文,easy-to-please 構文について,その歴史的な特徴を考えてみます.
 Fischer et al. (171--72) によれば,easy-to-please 構文には (voice) に関わる重要な問題がつきまといます.

   The easy-to-please construction has undergone a number of changes. From around 1400, two slightly more complex variants of the construction are found. One has a stranded preposition in the subordinate clause, as in (28a). The other has a passive infinitive (28b).

(28) a þei fond hit good and esy to dele wiþ also
    'They found it good and easy to deal with as well.' (Curson(Trin-C)16557)
   b the excercise and vce [= 'use'] of suche ... visible signes [...] is good and profitable to be had at certein whilis [= 'times'] (Pecock,Represser,Ch.XX)


 (28a) はまさに現代の easy-to-please 構文ですが,(28b) は不定詞部分が to be had のように受動態となっている部分に注意が必要です.この違いは何なのでしょうか.この論点について,現代英語に引きつけて具体的に解説しましょう.現代の He is easy to please. において,文の主語 he と不定詞として現われる動詞 please の統語意味論的な関係は,"he is pleased" あるいは "someone pleases him" ということになります.前者をとれば,能動態ではなく受動態の解釈となりますが,不定詞として現われる動詞自体は受動態の標示を帯びていないために,形式と機能に食い違いが生じてしまっています.この態の観点からみると,上記の (28a) よりも (28b) のほうが理に適っているように思われますが,どうなのでしょうか.
 Fischer et al. (172) では,次のように議論が続きます.

The development in (28b) is reminiscent of that in the modal passive . . . , and some degree of mutual influence seems likely. Curiously, however, passive marking eventually became obligatory in the modal passive, but not so in the easy-to-please construction, where formal passives never became systematic and sometimes even disappeared again, as shown by the now-ungrammatical example in (29a). Fischer (1991: 175ff) suggests that formally passive infinitives tend to occur with easy-type adjectives when the relation between adjective and infinitive rather than between adjective and subjective is stressed (cf. 29a). In such cases, an adverb rather than an adjective is also often found, as in (29b).

(29) a when once an act of dishonesty and shame has been deliberately committed, the will having been turned to evil, is difficult to be reclaimed (1839, COHA)
   b Jack Rapley is not easily to be knocked off his feet (1819, Fischer ibid.)

From this, one might speculate that passive forms failed to fully establish themselves in this context because the meaning the construction conveys is not always purely passive. As (30) illustrates, the subject of many easy-to-please constructions combines both patient-like and agent-like qualities. While the subject undergoes the action, its intrinsic qualities also contribute to how that action unfolds. The construction could therefore be analysed as marking middle voice.

(30) more experienced opponents ... can sometimes be tricky to play against. (BNC)


 easy-to-please 構文と中動態という新たな関係が持ち上がってきた.

 ・ Fischer, Olga, Hendrik De Smet, and Wim van der Wurff. A Brief History of English Syntax. Cambridge: CUP, 2017.
 ・ Fischer, Olga. "The Rise of the Passive Infinitive in English". Historical English Syntax. Ed. D. Kastovsky. Berlin: Mouton de Gruyter, 1991. 141--88.

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2021-02-18 Thu

#4315. 能格言語の発想から英語をみる [ergative][case][middle_voice][passive][voice][semantic_role][transitivity]

 昨日の記事「#4314. 能格言語は言語の2割を占める」 ([2021-02-17-1]) にて,統語意味論的なカテゴリーとしての能格 (ergative) に触れた.英語は能格言語ではなく対格言語であり,直接には関係しない話題とも思われるかもしれないが,能格性 (ergativity) という観点から英語を見直してみると,新鮮な発見がある.動詞の自他の問題と密接に関わってくるし,受動態 (passive) や中動態 (middle_voice) の問題とも深く交わる.実際,動詞の自他の区別は英語の動詞や構文を考える際の伝統的で基本的な見方を提供してくれているが,これを能格性の視点から見直すと,景色がガランと変わってくるのだ.
 Malmkjær (532) の "Ergativity" の項の一部を引用する.

Complementary to the transitive model of the grammar is the ergative model, an additional property of the system of transivitity, which foregrounds the role of Agency in providing a 'generalised representational structure common to every English clause' (Halliday and Matthiessen 2004: 281). This system is simultaneous with those of process type and circumstance . . . . Here the key variable is not a model of extension, as in transitivity, but of causation: 'The question at issue is: is the process brought about from within, or from outside?' (Halliday and Matthiessen 2004: 287). Every process must have one participant central to the actualisation of the process; 'without which there would be no process at all' (Halliday and Matthiessen 2004: 288). This is the Medium and along with the process forms the nucleus of the clause. The Medium is obligatory and is the only necessary participant, if the process is represented as being self-engendering. If the process is engendered from outside, then there is an additional participant, the Agent. Options in the ergative model of transitivity define the voice, or agency, of the clause. A clause with no feature of 'agency' is neither active nor passive but middle (for example, Europeans arrives). One with agency is non-middle, or effective, in agency (for example, Europeans invaded Australia). An effective clause is then either operative or receptive in voice. In an operative clause, the Subject is the Agent and the process is realised by an active verbal group; in a receptive clause the Subject is the Medium and the process is realised by a passive verbal group (Australia was invaded by Europeans) (Halliday and Matthiessen 2004: 297).


 昨日も触れたように,世界の諸言語には対格言語 (accusative language) と能格言語 (ergative language) という2大タイプがある.各々 transitivity 重視の言語と ergativity 重視の言語と言い換えてもよい.文法観の大きく異なるタイプではあるが,一方に属する言語を他方の発想で眺めてみると,新たな洞察が得られる.結局のところ,人間が言語で表現したいことを表現する方法には少数のパターンしかなく,表面的には異なっているようにみえても,それはコード化の方法を少しく違えているにすぎない,と評することもできそうだ.

 ・ Malmkjær, Kirsten, ed. The Routledge Linguistics Encyclopedia. 3rd ed. London and New York: Routledge, 2010.
 ・ Halliday, M. A. K. and Matthiessen, C. M. I.M. An Introduction to Functional Grammar. 3rd ed. London: Edward Arnold, 2004.

Referrer (Inside): [2023-09-13-1]

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2021-01-20 Wed

#4286. 双数と中動相をいっぺんに理解できる「対話の作法」 [dual][middle_voice][number][voice][dual][category][greek]

 現代英語の学習者にとって馴染みのない文法カテゴリー (category) の成員を紹介したい.数のカテゴリーにおける双数 (両数とも;dual number) と態のカテゴリーにおける中動相 (中動態とも;middle_voice) だ.
 いずれも古い印欧諸語に見られるもので,実際,古英語にも人称代名詞には双数がみられたし (cf. 「#180. 古英語の人称代名詞の非対称性」 ([2009-10-24-1])),すでに形骸化してはいたが中動相を受け継ぐ hātan "be called" なる動詞もあった.現代英語ではその伝統は形式的には完全に失われてしまっているが,機能的にいえば対応するものはある.双数には you two, a pair of . . ., a couple などの表現が対応するし,中動相には受動態構文や再帰動詞構文などが対応する.
 英語からは形式的に失われてしまった,この双数と中動相の両方をフル活用している言語が,古代ギリシア語である.哲学者の神崎繁が,各々について,また互いの接点についてとても分かりやすく啓発的なエッセイ「対話の作法」を書いている (46--47) .

 日本語は,名詞の「単数」と「複数」の区別が明確でないので,英語を学ぶ時,不定冠詞の a をつけるのかつけないのか,語尾に s をつけるのかつけないのか,迷うことになるが,ギリシャ語には,「単数」と「複数」のあいだに,さらに「双数」というのがある.要するに,二つでひと組のものをまとめた表現で,それに合わせて動詞の変化も別にある.目も手も足もそれぞれ二つなので,それらを一組だと考えれば,同じ扱いとなる.
 同じく,動詞の能動態・受動態はわかりやすいが(日本語のギリシャ語教育では,どういうわけかそれを相と呼ぶ),「中動相」というのは,純粋に能動とも受動とも言えないもので,たとえば自分の体を洗うとき,はたして自分は洗っているのか,洗われているのか――そういう場合に,「中動相」が使われる.
 実はこの「双数」と「中動相」が重なっているものがある.それは「対話」である.対話は,二人の人間が行うものであり,複数の人間のあいだで行われるにしても,その都度,結局二人ずつで行われる.そして,「対話する」という動詞は,「彼ら二人は対話している(ディアレゲストン)」のように,まさに「双数・中動相」で用いられる.つまり,単に「話す」のではなく,同時に「話される」という双方向的な活動なのである.
 最近「党首討論」なるものがあるが,あれはお互い一方的に「話す」だけで,「話される」方はすっかり抜け落ちていたような気がする.さて,みなさんは,対話してますか?


 うーん,耳が痛い.大学の授業もオンラインでコミュニケーションが一方通行となる傾向が増しており,ディアレゲストンできていない気がする.
 以上,双数と中動相がいっぺんに理解できる好例でした.

 ・ 神崎 繁 「対話の作法」『人生のレシピ 哲学の扉の向こう』 岩波書店,2020年.46--47頁.

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2020-11-06 Fri

#4211. 印欧語は「出来事を描写する言語」から「行為者を確定する言語」へ [indo-european][person][verb][voice][impersonal_verb][middle_voice][passive][fetishism]

 連日の記事で,國分(著)『中動態の世界 意志と責任の考古学』の議論を紹介している(cf. 「#4205. 國分功一郎(著)『中動態の世界 意志と責任の考古学』」 ([2020-10-31-1]),「#4207. 「先に名詞ありき,遅れて動詞が生じた」説」 ([2020-11-02-1]),「#4208. It rains. は行為者不在で「降雨がある」ほどの意」 ([2020-11-03-1]),「#4210. 人称の出現は3人称に始まり,後に1,2人称へと展開した?」 ([2020-11-05-1])).最近,学生たちと動詞について広く議論しているところだったので,動詞の理解を深めるのにおおいに参考とさせてもらっている.
 國分 (175--76) は,動詞のあり方という観点から,印欧語の(前史を含んだ)長い歴史を,標記のように提示している.大きな仮説だが,これは認知言語学的な観点からみてもきわめて示唆に富む(以下では原文の太字あるいは圏点を太字で示している).

     出来事が主,行為者が従だった時代」

 われわれは一万年以上に及ぶかもしれぬ長大な歴史を俯瞰した.
 では,「共通基語」の時代よりも前の状態から始まるインド=ヨーロッパ語の変化の歴史を,以上のように動詞および態の変化という観点から眺めたとき,そこに見出される方向性とは何か? この途方のない問いにあえて答えてみよう.
 この変化の歴史の一側面を,出来事を描写する言語から,行為者を確定する言語への以降の歴史として描き出せるように思われる.
 名詞的構文の時代,動作は単なる出来事として描かれた.そこから生まれた動詞も,当初は非人称形態にあり,動作の行為者ではなくて出来事そのものを記述していた.
 だが動詞は後に人称を獲得し,それによって,動詞が示す行為や状態を主語に結びつける発想の基礎がそこに生まれる.とはいえ,動詞がその後に態という形態を獲得した後も,動詞と行為者との関係については,動作プロセスの内側に行為者がいるのか,それともその外側にいるのかが問われるままに留まっていた.そこにあったのは能動と中動の区分だったからだ.
 だがその後,動詞はより強い意味で行為を行為者に結びつけるようになる.能動と受動の区別によって,行為者が自分でやったのかどうかが問われるようになるからだ.


 この仮説によると,印欧語は,動詞の表わす動作そのものに注目する言語から,動作の主は誰なのかに異常な関心を示す言語へと化けたことになる.國分 (178) は上の引用の後の節で,行き着いた先の言語を「出来事を私有化する言語」とも呼んでいる.
 現代英語に照らしていえば,主語と目的語,自動詞と他動詞,能動態と受動態など,種々の統語的差異に神経質な言語となっているが,それは「動作の行為者を確定させたいフェチ」の言語だからということになろうか.

 ・ 國分 功一郎 『中動態の世界 意志と責任の考古学』 医学書院,2017年.

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2020-11-05 Thu

#4210. 人称の出現は3人称に始まり,後に1,2人称へと展開した? [person][verb][voice][impersonal_verb][middle_voice][indo-european][category][latin][terminology]

 先日の「#4207. 「先に名詞ありき,遅れて動詞が生じた」説」 ([2020-11-02-1]) と「#4208. It rains. は行為者不在で「降雨がある」ほどの意」 ([2020-11-03-1]) の記事に引き続き,國分(著)『中動態の世界 意志と責任の考古学』に依拠しつつ,今回は動詞の態 (voice) の問題から人称 (person) の問題へと議論を展開させたい.
 先の記事でみたように,印欧祖語よりさらに遡った段階では,It rains. のような非人称構文(中動態的な構文)こそがオリジナルの動詞構文を反映していたという可能性がある.仮にこの説を受け入れるならば,人称構文はそこから派生した2次的な構文ということになろう.
 これは動詞の問題にとどまらず,印欧語における人称とは何かという問題にも新たな光を投げかける.非人称的・中動態的な構文こそが原初の動詞構文だとすると,そこに人称という発想が入り込む余地はない.人称という文法カテゴリー (category) を前提としている現代の私たちからすれば,もし「その原初構文の人称は何か」と問われるのであれば,とりあえず(断じて1人称でも2人称でもないという意味で)消極的に「3人称」と答えることになるかもしれない.しかし,人称という文法カテゴリーが未分化だったとおぼしき,印欧祖語より前のこの仮説的な言語体系の内部から,同じ問題に答えようとすると,何とも答えに窮するのである.
 しかし,やがてこのような未分化の状態から,主体としての「私」と,私の重要な話し相手である「あなた」が前景化される契機が訪れ,それぞれが人称という文法カテゴリーを構成する重要な成員(後の用語でいう「1人称」と「2人称」)となった.一方,先の時代には名状しがたいものであった何かが,多分に消極的な動機づけで「3人称」と名づけられることになった.かくして1,2,3人称という区分ができあがり,現在に至る.と,こんなストーリーが描けるかもしれない.
 國分 (171) は,この点について次のように解説している(以下では原文の太字あるいは圏点を太字で示している).

     私に悔いが生じる」から「私が悔いる」へ

 これはつまり,動詞の歴史のなかで人称の概念はずいぶんと後になって発生したものだということでもある.
 たとえば,「私が自らの過ちを悔いる」と述べたいとき,ラテン語には非人称の動詞を用いた "me paenitet culpae meae" という表現があるが,これは文字通りには「私の過ちに関して,私に悔いが生じる」と翻訳できる(私が悔いるのではなく,悔いが私に生ずるのだから,これは「悔い」なるものを表現するうえで実に的確な言い回しと言わねばならない).
 だが,このような言い回しは人称の発達とともに動詞の活用に取って代わられていく.同じ動詞を一人称に活用させた paeniteo (私が悔いる)という形態が代わりに用いられるようになっていくからである.
 このような人称の歴史はその名称がもたらすある誤解を解いてくれる.動詞の非人称形態が後に「三人称」と呼ばれることになる形態に対応することを考えると,一人称(私)や二人称(あなた)の概念は動詞の歴史において,後になってから現われてきたものだということになる.
 「私」に「人称」という名称が与えられているからといって,人称が「私」から始まったわけではない.「私」(一人称)が,「あなた」(二人称)へと向かい,さらにそこから,不在の者(三人称)へと広がっていくというイメージはこの名称がもたらした誤解である.


 印欧語において,また言語一般において,人称とは何かという問題の再考を促す指摘である.この問題については「#3463. 人称とは何か?」 ([2018-10-20-1]),「#3468. 人称とは何か? (2)」 ([2018-10-25-1]),「#3480. 人称とは何か? (3)」 ([2018-11-06-1]),「#2309. 動詞の人称語尾の起源」 ([2015-08-23-1]) をはじめ person の各記事を参照.

 ・ 國分 功一郎 『中動態の世界 意志と責任の考古学』 医学書院,2017年.

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2020-11-03 Tue

#4208. It rains. は行為者不在で「降雨がある」ほどの意 [impersonal_verb][verb][noun][3sp][person][middle_voice][indeo-european]

 素朴な疑問のなかでもとびきりの難問の1つが It rains.It とは何かという問いである.昨日の記事「#4207. 「先に名詞ありき,遅れて動詞が生じた」説」 ([2020-11-02-1]) で少し触れたが,いまだに解決には至らない.軽々に扱えない深い問題である.しかし,考えるヒントはある.
 すでに本ブログでも何度か触れてきた國分功一郎(著)『中動態の世界 意志と責任の考古学』では,It rains. のような非人称構文で用いられる動詞,いわゆる非人称動詞 (impersonal_verb) は動詞の原初の形であると論じられている.昨日の記事 ([2020-11-02-1]) で紹介したように,國分は動詞は名詞から派生したものと考えているので,その点ではここの rains のような動詞は,名詞から一歩だけ動詞の領域に踏み込んだ動詞の赤ちゃんのような性質をおおいに保持しているということになる.関係する部分 (169--171) を少々長く引用しよう(以下では原文の太字あるいは圏点を太字で示している).

     It rains は「例外」ではなく「起源」である

 動詞が文法体系において新しいものであり,もともとは,動作名詞によって行為を表現する名詞的構文が利用されていたのだとすれば,現在のわれわれの動詞の捉え方そのものが変更を迫られよう.問題になるのは,いわゆる非人称構文である.
 英語の "It rains" という例文でよく知られる動詞の非人称的使用は,われわれには一種の例外,あるいは破格のように見える.主語として置かれた it が何ものをも指示していないからである.ラテン語の "tonat" (雷が鳴る)やギリシア語の "ὕει" (雨が降る)も同様の表現だが,これら三人称に活用した動詞はいずれもいかなる主語にも対応していない.
 だが,これらの文が例外的に思えるのは,「動詞の諸形態は行為や状態を主語に結びつけるものだ」という考えにわれわれが慣れきってしまっているからに過ぎない.非人称構文は,実際のところ,動詞の最古の形態を伝えるものだからである.
 〔中略〕
 とすると,動作名詞がその後たどった歴史がおおよそ次のように憶測できる.動作を示すことを担っていた語群(動作名詞)が,ある特殊な地位を獲得し,それによって名詞から区別されるようになる.動詞の原始的形態の発生である.しかし,それらはまだ名詞と完全に切り離されてはいない.名詞であった頃の特徴を完全に放棄してはいない.つまり,動作を表すことはできても,自在に人称を表す目印のようなものを直ちに獲得したわけではない.
 こうしてまずは単に動作あるいは出来事だけを表示する動詞が生まれる.コラールの言うところの「単人称 unipersonal」の動詞の創造である.

これはまさに〈単人称〉動詞の創造というべきものであって,ここで〈動詞〉は行為をある程度生命のあるものにしたけれども,しかしなおそれを,個体化された行為者と関連づけることなしに,つまり,非人称的に表現したのである.


 〔中略〕
 動詞を「個体化された行為者」と結びつけたがる今日のわれわれの意識では,こうした文は例外のように思われるが,〈名詞的構文〉から発展した動詞の最初期にあったのは,このような言い回しであったということである.動詞はもともと,行為者を指示することなく動作や出来事だけを指し示していた


 この洞察から,It rains. の謎にも迫ることができそうだ.It rains. は,行為者不在のままに「降雨がある」という事実を言い表わしているにすぎないということだ.It が何を指すのかという問いは私たちにとって自然な問いのようにみるが,その問い方自体を疑ってみる必要がある.

 ・ 國分 功一郎 『中動態の世界 意志と責任の考古学』 医学書院,2017年.

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2020-11-02 Mon

#4207. 「先に名詞ありき,遅れて動詞が生じた」説 [indo-european][verb][voice][impersonal_verb][syntax][sobokunagimon][middle_voice]

 「#4205. 國分功一郎(著)『中動態の世界 意志と責任の考古学』」 ([2020-10-31-1]) で紹介した著書に,印欧祖語以前の段階では,まず名詞的構文があり,後から動詞的構文が生じたという仮説を紹介している部分がある (165--66) .

 中動態や能動態といった態の概念は,言うまでもなく動詞に結びついている.動詞は今日われわれの知るインド=ヨーロッパ諸語において,文の中枢を担うものに見える.つまり,動詞がない言語を想像することは難しい.
 しかし,実は動詞は言語のなかにずいぶんと遅れて生じてきた要素であることが分かっている.フランスの古典学者ジャン・コラールは,その著書『ラテン文法』のなかで次のように述べている.
「動詞はわれわれには文の中枢的要素であるようにみえるが,今日われわれが知っているような形でのそれは,実は文法範疇のなかで遅れて生じてきたものなのである.〈動詞的〉構文以前においては〈名詞的〉構文があったのであり,そのかなめは動詞ではなくて動作名詞であった」.
 では,動詞が遅れて生じた要素であったとしたら,それはいつ頃生じたものなのだろうか?
 もちろん正確な年代を確定することはできないが,同書の訳者,有田潤が指摘するように,インド=ヨーロッパ諸語の共通の起源として想定されている「共通基語」はすでに動詞をもっていたと考えられるので,ここでコラールが言及しているのはそれ以前の時代の言語ということになる.


 このような観点に立つと,名詞的構文から派生したとおぼしき動詞(的構文)の残滓は,印欧諸語のなかに至るところに見つかる(←ここで能動態的に「見つけられる」としようかと思ったが,中動態的に「見つかる」としておいた).非人称動詞 (impersonal_verb) を用いた非人称構文がその代表格だろう.たとえば現代英語で It seems to me . . .It rains. というとき,そこには動詞的な意味合いを多分に含みつつもあくまで名詞的構文であった時代の匂いが残っていると見ることができる.形式主語と呼ばれるダミーの It は,体裁を整えるために添えられたの文字通りのお飾りであり,この構文の要諦は seemsrains が内包する名詞的な「外観」や「降雨」にほかならない.
 現代統語理論の句構造分析においては,動詞の存在が前提とされている.そして,その動詞を取り巻くように他の要素(項)が配置されるという洞察が一般的である.しかし,上記に照らせば,これは言語の統語論的前提として普遍的に受け入れられるものではないのかもしれない.

 ・ 國分 功一郎 『中動態の世界 意志と責任の考古学』 医学書院,2017年.

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2020-10-31 Sat

#4205. 國分功一郎(著)『中動態の世界 意志と責任の考古学』 [philosophy_of_language][voice][middle_voice][passive][review]

 國分功一郎(著)『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読了した.「中動態」 (middle_voice) あるいは「中間態」とも呼ばれる,古くは印欧語族に広くみられた態 (voice) に関する哲学的考察である.
 現代人の多くには馴染みの薄い態であるが,古代ギリシア語では一般的によくみられ,現代の印欧諸語にも何らかの形で残滓が残っている.また,日本語の「自発」を表わす動詞の表現なども,中動態の一種といえる.本ブログでは「#232. 英語史の時代区分の歴史 (1)」 ([2009-12-15-1]),「#2185. 再帰代名詞を用いた動詞表現の衰退」 ([2015-04-21-1]),「#3331. 印欧祖語からゲルマン祖語への動詞の文法範疇の再編成」 ([2018-06-10-1]) 等でその名称には触れたものの,まともに取り上げたことはなかった話題である.
 本書を分かりやすく要約することは至難の業だが,著者の最大の主張は,私たちが当たり前のようにみなしている能動態と受動態の対立を疑ってみようという呼びかけである.能動態と受動態の対立に慣れきっていると,中動態は,文字通り中間的な,立ち位置のよく分からないどっちつかずの存在であるようにみえる.しかし,それは対立の軸がずれているからではないか.対立させるべきは,能動態と受動態を合わせた1つの態と,中動態というもう1つの態なのではないか.中動態は何かの中間なのではなく,むしろ能動態と鋭く対立する態なのではないか.本書では,前半からこのような目から鱗の落ちるような議論が展開される.pp. 82--83 より著者の主張を引用しよう(以下では原文の圏点は太字で示している).

中動態を定義するためには,われわれがそのなかに浸かってしまって能動対受動というパースペクティヴを一度括弧に入れたうえで,かつて中動態が置かれていたパースペクティヴを復元しなければならないのだった.より具体的に言えば,その作業は,中動態をそれ単独としてではなくて,能動態との対立において定義することを意味する.
 するとここにもう一つ別の課題が現れる.
 中動態が能動態との対立においてその意味を確定していたのならば,まったく同じように,能動態もまた中動態との対立においてその意味を確定していたはずである.だとしたら,中動態と対立していたときの能動態を,現在のパースペクティヴにおける能動態と同一視してはならないことになる.中動態を定義するためには,中動態と対立していた能動態も定義し直さなければならないはずだ.
 われわれがそのなかに浸っているパースペクティヴを括弧に入れるとは,そのようなことを意味する.中動態を問うためには,われわれが無意識に採用している枠組みわれわれ自身を規定している諸条件を問わねばならないのだ.


 このように従来の態の見方を転倒させるような洞察が本書の最後まで続く.そのなかには,印欧語では動詞構文より前に名詞構文があったのではないかという仮説もあれば,中動態こそが原初の態だったのではないかという仮説もある.あらためて言語における態とは何なのかを問わずにはいられなくなる論考である.

 ・ 國分 功一郎 『中動態の世界 意志と責任の考古学』 医学書院,2017年.

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2015-04-21 Tue

#2185. 再帰代名詞を用いた動詞表現の衰退 [reflexive_pronoun][verb][personal_pronoun][voice][middle_voice]

 フランス語学習者から質問を受けた.フランス語には代名動詞というカテゴリーがあるが,英語にはないのはなぜかという疑問である.具体的には,Ma mere se lève tôt. (私の母は早く起きる)のような文における,se leve の部分が代名動詞といわれ,「再帰代名詞+動詞」という構造をなしている.英語風になおせば,My mother raises herself early. という表現である.普通の英語では riseget up などの動詞を用いるところで,フランス語では代名動詞を使うことが確かに多い.また,ドイツ語でも Du hast dich gar nicht verändert. (You haven't changed at all) のように「再帰代名詞+動詞」をよく使用し,代名動詞的な表現が発達しているといえる.
 このような表現は起源的には印欧祖語の中間態 (middle_voice) の用法に遡り,したがって印欧諸語には多かれ少なかれ対応物が存在する.実際,英語にも help oneself, behave oneself, pride oneself on など再帰代名詞と動詞が構造をなす慣用表現は多数ある.しかし,英語ではフランス語の代名動詞のように動詞の1カテゴリーとして設けるほどには発達していないというのは事実だろう.ここにあるのは,質の問題というよりも量の問題ということになる.英語で再帰代名詞を用いた動詞表現が目立たないのはなぜだろうか.
 この疑問に正確に回答しようとすれば細かく調査する必要があるが,大雑把にいえば,英語でも古くは再帰代名詞を伴う動詞表現がもっと豊富にあったということである.「他動詞+再帰代名詞」のみならず「自動詞+再帰代名詞」の構造も古くはずっと多く,後者の例は「#578. go him」 ([2010-11-26-1]) や「#1392. 与格の再帰代名詞」 ([2013-02-17-1]) で見たとおりである.このような構造をなす動詞群には現代仏独語とも比較されるものが多く,運動や姿勢を表わす動詞 (ex. go, return, run, sit, stand, turn) ,心的状態を表わす動詞 (ex. doubt, dread, fear, remember) ,獲得を表わす動詞 (buy, choose, get, make, procure, seek, seize, steal) ,その他 (bear, bethink, rest, revenge, sport, stay) があった.ところが,このような表現は近代英語期以降に徐々に廃れ,再帰代名詞を脱落させるに至った.
 現代英語でも再帰代名詞の脱落の潮流は着々と続いている.例えば,adjust (oneself) to, behave (oneself), dress (oneself), hide (oneself), identify (oneself) with, prepare (oneself) for, prove (oneself) (to be), wash (oneself), worry (oneself) などでは,再帰代名詞のない単純な構造が好まれる傾向がある.Quirk et al. (358) は,このような動詞を "semi-reflexive verb" と呼んでいる.
 以上をまとめれば,英語も近代期までは印欧祖語に由来する中間態的な形態をある程度まで保持し,発展させてきたが,以降は非再帰的な形態に置換されてきたといえるだろう.英語においてこの衰退がなぜ生じたのか,とりわけなぜ近代英語期というタイミングで生じたのかについては,さらなる調査が必要である.再帰代名詞の形態が -self を常に要求するようになり,音韻形態的に重くなったということもあるかもしれない(英語史において再帰代名詞が -self を含む固有の形態を生み出したのは中英語以降であり,それ以前もそれ以後の近代英語期でも,-self を含まない一般の人称代名詞をもって再帰代名詞の代わりに用いてきたことに注意.「#1851. 再帰代名詞 oneself の由来についての諸説」 ([2014-05-22-1]) を参照).あるいは,単体の動詞に対する統語意味論的な再分析が生じたということもあろう.複合的な視点から迫るべき問題のように思われる.

 ・ Quirk, Randolph, Sidney Greenbaum, Geoffrey Leech, and Jan Svartvik. A Comprehensive Grammar of the English Language. London: Longman, 1985.

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