5月15日の読売新聞朝刊7面に「「認知症」と「キーウ」…呼び名を変えた意味と重み」と題するコラムが載っていた.その議論にたいへん共感した. *
日本政府は3月末,ウクライナの首都の慣習的な呼び名だった「キエフ」を「キーウ」と呼び変えることを決定した.ロシア語の発音ではなく,ウクライナ語の発音に沿った方向での変更である.地名は現地語での読み方を採用するのが筋であるという議論は常にあったにせよ,なぜこのタイミングで変更したのかと問えば,答えは明らかだろう.日本政府がロシアのウクライナ侵攻に異を唱え,ウクライナを支援することを決定したからである.合わせて「オデッサ」は「オデーサ」へ,「チェルノブイリ」は「チョルノービリ」へと変わった.同様に,モルドヴァの首都もロシア語に基づく「キシニョフ」からルーマニア語に基づく「キシナウ」に呼び変える方向で調整が進んでいるという.要するに,今回の一連の地名の呼び名変更は,きわめて政治的な性格をもつのだ.
先のコラムは,「痴呆」や「ぼけ」から「認知症」への呼び名変更を引き合いに出しながら,次のように議論している.
新たな呼び名が定着して当たり前になってくると,「なぜわざわざ変えたのか?」は注目されなくなる可能性がある.
実際,認知症という言葉が生まれた事情を知る人は,今はもう多くないと思われる.では,言葉を切り替えた意味(負のイメージを払拭する)は,社会に引き継がれているだろうか.
「残念ながら,そこは十分ではない」と,相模原市認知症疾患医療センター長を務める大石智医師(47)は指摘する.たとえば,認知症の症状がある人のことを「ニンチ」と表現する向きがある.そこには,その人を軽んじる雰囲気も読み取れる.負のイメージを払拭するために言葉を変えたのに,今は認知症という新たな言葉に負のレッテルを貼ってしまう危険がある.
公的な呼び名の変更は,その時々の社会的・政治的な思惑の産物であることが多い.基本的にはその時々で PC (= political_correctness) の観点から「より良い」呼び名が選ばれ,古い呼び名はたいてい廃用となっていく.この点だけみれば概ね「改善」といってよいかもしれないが,古い表現が消えてしまえば,なぜ呼び名の変更が必要だったのかという理由も,どのように呼び名が変更されたのかという過程も,ともに忘れ去られてしまうだろう.何がどう「改善」したのかが,人々の記憶から消えていってしまうのである.すると,ある程度の時間を経た後に,それらの新表現に関して同じような呼び名の問題が再び生じた場合に,かつての経験や反省を活かすことはできないだろう.
今後「キーウ」を使っていくことは重要だと考える.しかし,それと同じくらい重要なのは,「キエフ」をやめて「キーウ」に変更したのだという過程の記憶である.ただし,人間の記憶は当てにならないので,やはり記録しておき,折に触れて記録を取り出し,示していくことが大事だろう.
同じ趣旨の記事として「#4105. 銅像破壊・撤去,新PC,博物館」 ([2020-07-23-1]) も参照されたい.
クリスマスイブですね.クリスマスに関連する話題を5本お届けします.
(1) Christmas は,Christ + mass (キリストのミサ)という成り立ちです.英語 mass は低母音,フランス語 messe は中母音,語源の(後期)ラテン語 missa は高母音となり,言語ごとにチグハグ.ということは,日本語「ミサ」はラテン語系統(スペイン語やポルトガル語も同様に高母音)とみてよいですね.
(2) クリスマスにお似合いの「雪だるま」は,単数形 snowman [ˈsnəʊ mæn] に対して複数形 snowmen [-men].何の問題もなさそうですね.ところが,クリスマスカードを配達してくれる「郵便集配人」は,単数形 postman [ˈpoʊst mən] に対して複数形 postmen [-mən].-man 複合語の単複形の母音は厄介です.
(3) 性に関する PC (= political_correctness) により,chairman は chair(person) に,そして salesman は salesperson になったりしたけれど,さすがに snowman は *snowperson にならなかったですね.しかし,『ジーニアス英和大辞典』には snow figure という見出し語があり驚いた!
(4) at は時間的にも空間的にも狭い場合に,それに対して on は相対的に広い場合に用いると習うことが多いと思います.しかし,at Christmas は広く「クリスマスシーズンに」(12月24日から1月1日くらいまで)を指し,on Christmas は狭く「12月25日に」を指します.前者 at Christmastide (cf. 「#4246. Christmastide」 ([2020-12-11-1])) のことで,後者は on Christmas Day のことだからですが,何だかチグハグです.
(5) クリスマスの挨拶といえば Merry Christmas.しかし,イギリス英語ではしばしば Happy Christmas とも.また,キリスト教色を避けて Happy Holidays もあります.
皆さん,よいクリスマスを!
いよいよ始まった今学期の社会言語学の授業では「言語と性」という抜き差しならぬテーマを扱う.このテーマから連想される話題は多岐にわたる.あまりに広い範囲を覆っているために,一望するのが困難なほどである.実際に,授業の履修生に連想される話題を箇条書きで挙げてもらったところ,のべ1,000件を優に超える話題が集まった.重複するものも多く,整理すればぐんと減るとは思われるが,それにしても凄い数だ(←皆さん,協力ありがとう).その一部を覗いてみよう.
・ (英語を除く)主要な印欧諸語にみられる文法性 (grammatical gender)
・ 代名詞にみられる性差
・ 職業名や称号を巡るポリティカル・コレクトネス (political_correctness)
・ LGBTQ と言語
・ 擬人化された名詞の性
・ 人名における性
・ 「男言葉」と「女言葉」
・ 性に関するスラングやタブー語
・ 性別によるコミュニケーションの取り方の違い
・ イントネーションの性差
そもそも,古今東西すべての言語で,「男」 (man) と「女」 (woman) という2つの単語が区別されて用いられている点からして,もう言語における性の話しは始まっているのである.最先端の関心事である LGBTQ やポリティカル・コレクトネスの問題に迫る以前に,すでに性は言語に深く刻まれている.
最先端の話題ということでいえば,10月2日の読売新聞朝刊で,JAL が乗客に対する「レディース・アンド・ジェントルメン」の呼びかけをやめ「オール・パッセンジャーズ」へ切り替える決定をしたとの記事を読んだ.人間の関心事としては最重要なものの1つとして認識される性,それが人間に特有の言語という体系に埋め込まれていないわけがないのである.
「言語と性」のテーマの広さを味わうところから議論を始めたいと思っている.こちらの hellog 記事セットをどうぞ.
BLM 運動が,世界で雪崩をうったように拡がっている.英米などでは,黒人差別への抗議のジェスチャーとして,奴隷制に関わる歴史的(英雄的)人物の銅像を破壊・撤去する動きが繰り広げられている.平行的に,言葉の問題への波及も見逃せない.7月13日のウェブ上の記事「IT用語も『奴隷』廃止の動き 『slave』は『フォロワー』や『レプリカ』にを読んで,おっと思った.master, slave, whitelist, blacklist などの表現が不適切であるとして,IT業界において leader, follower, allowlist, denylist 等の別の表現に置換される動きが起こってきているという.
銅像破壊・撤去と,この「新しいPC」 (political_correctness) というべき2つの現象は,とてもよく似ている.まず,社会の潮流により,既存の伝統的な表現形式が,部分的に自主的に取り下げられているという点が共通している.
もう1つの共通点は,もとの表現形式が取り下げられたことにより,確かに一見すると問題はなくなったようにみえるが,決して問題が解決されたわけではないということだ.ネガティブにいえば,そのモノが見えなくなることでかえって何が問題だったのかが思い出せなくなるわけであり,時間をかけて意識的な問題解決が試みられなかっただけに,いつか容易に再燃する可能性もあるという点だ.
一方,銅像破壊・撤去と「新しいPC」には簡単に比較できない点もある.銅像はいったん取り下げられば,確かに人々が目にする機会はなくなる.しかし,master や slave という表現は,IT用語としては控えられるようになるかもしれないが,別の(本来の)語義としては現役であり,今まで通り人々の口にものぼるし耳にも入ってくる.換言すれば,銅像は視界から消えればその意義(歴史的英雄性)も同様に見えなくなる(ように思われる)が,言葉はすぐに完全に消えることはなく,別の語義としてではあれ,相変わらず用いられ続けるということだ.むしろ,言葉自体は根強く生き残ることが多い(cf. 「#1338. タブーの逆説」 ([2012-12-25-1])).
目下の銅像破壊・撤去に関して,その銅像を博物館に保管・展示することで教育・研究の素材として活かすべきだと論じている識者もいる.これは良案だと思う.
では,言葉についてはどうだろうか.IT用語における master と slave の置換については,別の表現に置換して「ハイ終わり」では,やはり満足できない.銅像を博物館に保管・展示するのと同様に,言葉の博物館が欲しい.それは,英語の場合でいえば OED のような歴史的原則に基づいた辞書に「差別的」語義を記録しておくことだろう.私は OED は専門的には奇跡的なレベルの辞書だと思っているが,それでもやはり物理的存在感のある博物館とは異なり,一般的にいえば存在感が薄い.英語に限らずだが,もっと物理的な存在感のある「言葉の博物館」が本当にあるとよいなと常々思っている.
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