今井むつみ・秋田喜美(著)『言語の本質』(中公新書,2023年)の第3章「オノマトペは言語か」の最終節「まとめ」にて,言語を特徴づける10の性質を勘案した上で,オノマトペ (onomatopoeia) が高い言語性を示すことが結論づけられている.比較対照されているメディアは,一般語,口笛,咳払い,音真似,泣きである.89ページの表3-1「一般語,オノマトペ,非言語音の言語性」を引用する.
一般語 | オノマトペ | 口笛 | 咳払い | 音真似 | 泣き声 | |
コミュニケーション機能 | ○ | ○ | ×/○ | ×/○ | ||
意味性 | ○ | ○ | ×/○ | ×/○ | × | × |
超越性 | ○ | ○ | × | × | ||
継承性 | ○ | ○ | ○ | ×/○ | × | |
習得可能性 | ○ | ○ | ||||
生産性 | ○ | ○ | × | × | × | × |
経済性 | ○ | ○ | × | × | × | × |
離散性 | ○ | ○ | × | × | × | × |
恣意性 | ○ | △ | × | × | × | × |
二重性 | ○ | △ | × | × | × | × |
「#5040. 英語で「ドアを閉めろ」を間接的に表現する方法19例 --- 間接発話行為を味わう」 ([2023-02-13-1]) でも話題にした通り,発話行為 (speech_act) は語用論の重要なテーマの1つである.哲学から言語学に波及してきた話題であり,哲学では言語行為という用語が一般的だ.以下では,参照する Senft の用語にも合わせる意味で「言語行為」を用いる.
言語行為とは何か.シューレンによれば,それは「社会的結束の力」 (socially binding force) をもつものとされ,言語の中核的な役割を担っていると強調される.少々長いが,Senft (46--47) より引用する.
シューレンは,言語行為に関するこの章において「言語行為の社会的結束の力 (socially binding force) に特別に注目し」,社会的結束の原則 (PRINCIPLE OF SOCIAL BINDING) を定式化することによって彼の考え方を披瀝し始める.彼はこの原則を「人間の言語だけでなく,人間と人間以外の意識的なコミュニケーションのすべての他の体系をも,公理化し定義するものである」と考える (Seuren 2009: 140) .この原則は次のように述べられる.
すべての本気の言語的発話は…話し手側の(強さは可変の)義務の請負 (COMMITMENT) ,(強さは可変の)聞き手に発せられた要請 (APPEAL) ,[その発話]に表現された命題,あるいは呼びかけ(Hey, you over there! (「おい,そこのお前!」))の中にある呼称 (APPELATION (sic)) に関して行動規則の設定 (INSTITUTION OF A RULE OF BEHAVIOUR) のいずれかの種類の,社会的結束の関係を創出するという点で力 (FORCE) をもつ.
言語行為がその人たちに関して有効である社会的な仲間は[発話]の力の場 (FORCE FIELD) を形成する. (Seuren 2009: 140)
シューレンにとって,この原則は一定の権利と義務をもつ人々,すなわち責任と個人の尊厳をもつ人々を結束する.これらの人々は「…説明責任があり,すべての本気の言語行為は,いかにささいな,あるいは重要でないものであっても,話し手と聞き手の間に説明責任関係を創出する」 (Seuren 2009: 140) .社会的結束の原則を「公理的」であり,「人間の言語だけでなく記号 (sign) によるいかなる形のコミュニケーションにとっても」定義的であると特徴づけることは(Seuren 2009: 158 も参照),この学者にとって「言語は第一義的に説明責任の創出のための道具であり,情報の転送のためのものでないこと」を意味する (Seuren 2009: 140) .シューレンは,言語行為に関連してこれらの考えを発展させ,次のことを強調する.
すべての言語行為は,社会的結束の関係あるいは事態を創出するという意味で行為遂行的である…言語の基本的な機能は,世界についての情報の移動という意味 (sense) での「コミュニケーション」ではなく,社会的結束,つまり<!-- for reference -->発話あるいは言語行為によって表現される命題に関して対人間の,社会的結束の特定の関係の創出である.この種の社会的結束が,人間の社会の1つの必須条件である社会の基底機構における中心的な要素であることが明らかになるであろう. (Seuren 2009: 147)
シューレンにとって,言語行為は言語学史においてあまりに軽視されてきた.言語はコミュニケーションの道具であるとか思考の道具だと言われることは多かったものの,「社会的結束の力」としてまともに理解されたことはなかった,という.これは,すぐれて社会語用論の視点からの言語観といってよい.
・ Senft, Gunter (著),石崎 雅人・野呂 幾久子(訳) 『語用論の基礎を理解する 改訂版』 開拓社,2022年.
・ Seuren, Pieter A. M. Language from Within Vol. I.: Language in Cognition. Oxford: OUP, 2009.
漫然と『丸善エンサイクロペディア大百科』をペラペラめくっていたところ,通信媒体の発達と累積性に関する記事が目にとまった (1772--73) .「#2931. 新しきは古きを排除するのではなく選択肢を増やす」 ([2017-05-06-1]) で取り上げた議論だが,とりわけ「通信媒体の累積性」では本質的なところをズバッと突いていて感心した.言語コミュニケーションの媒体の発展を論じる上で,非常に大事な洞察である.以下,長いがすべて引用する.
通信の発達,情報・マスコミの歴史
通信の発達
通信を遠くにあるものとの意思伝達とすれば,その発達は,主たる媒体によって,大まかに口頭,筆記,印刷,電気通信,相互作用的通信の時代に分類される.文字がない時代における通信の手段は,口頭によるか,視覚・聴覚を通じての信号・合図(のろし,太鼓など)によるしかない.文字をもつようになると紙の発明とともに手書き筆記が通信媒体の主要な手段となった.
印刷術の発明まで,重要な書物はカトリック修道院の書写室で書写されていた.平均的な個人が入手可能な書物の数は限定されており,識字率も非常に低かった.図書館は知識を流布する場所というより知識を蓄積する場所という傾向があった.
印刷術の発明は,書物を一般に開放した.ヨーロッパでは1455年に J. グーテンベルク (1397--1468) によって金属活字による活字活版印刷が発明された.この新たな技術は書物の広範な流布を意味し,16世紀後半の宗教改革運動や17世紀イギリス・ピューリタン革命期のイデオロギーの教化の必要によるパンフレット,新聞などの各種印刷物の出現をみた.ただし,識字率はなお低く,この発明の影響力は非常に緩慢なものであり,今日のように印刷物が大衆媒体といえるものになったのはグーテンベルクの発明から,380年も経過した1830年代のアメリカ(最初の大衆廉価新聞の創刊)においてであった.
1844年に S. F. B. モース (1791--1872) が実用化した電信は新聞の取材と伝達速度を瞬時のものとし始め,通信の歴史の新たな画期を形成した.電信網は,迅速で確実情報収集に死活をかけていた帝国主義者や商人によって,19世紀中葉からまたたく〔ママ〕に世界中に張りめぐらされ,世界を縮小した.
マスコミから双方向通信へ
新聞社が英米で先端技術を駆使して,発行部数100万を超える大量生産を可能とする大企業となった1890年代から電波を媒体とするラジオの登場する1920年までがマス・コミュニケーションの形成・定着期である.これに第二次世界大戦後に世界的にかつ決定的に普及したテレビが加わり,電気通信系マスメディアが通信の主流を占める.
この間,帝国主義,ファシズム,共産主義,世界大戦の戦時宣伝などのその都度の支配的イデオロギーの伝播を背景として,国内的には国内民衆の文化的統合,および対外的には帝国主義国の支配文化の世界的な流布とその正当化のために新しい媒体だけでなく,古い媒体も動員された.これらの支配的イデオロギーの伝達はすべて,ひとりから多数への情報伝達に付きまとう情報がもつ政治的な意味を浮かび上がらせる.
情報化時代といわれる今日におけるソ連の崩壊はひとりから多数への情報の統制のありようの限界と変化を暗示する.1980年代に本格化した新たな通信の形態の特徴は,通信衛星を利用した国際電話,ファックス,パソコン通信にみられるひとりからひとりへの通信の相互作用性,双方向性である.集団間の通信においても,テレビ会議がもっとも双方向性があり,文字放送,ケーブルテレビ,有線放送にしても他ジャンル,多チャンネルの情報から個々人の需要に応じて提供される点で,従来の一方方向型の伝達ではない.この通信の双方向性は,長らく情報を分断してきた国境を難なく越境し,情報の集中する中央と情報の遅れた地方という構図を突き崩し,情報を独占・管理してきた権力を動揺させている.
通信媒体の累積性
通信の歴史は,口頭,筆記,印刷,電気通信,相互作用的通信の時代に一応分類されるが,口頭による伝達は,文字と印刷術の発明の後も,口コミとして使用された.それどころか宗教的政治的な激動期にしばしば肉声として重要な役割を演じたし,ラジオ・テレビの登場後も電波を通じて意味を失っていない.手書きも印刷文書の時代になっても衰退することなく併存し,印刷時代の手書き文書の解読は今日の歴史家が尊敬されるための重要な仕事である.今日ワープロが文書作成の主流となっても肉筆の手紙がかえって尊重されることがしばしば報告されるように,口頭からコンピューターまでの歴史は身体性を隠蔽する方向に進んだようにみえても実際は身体性は消滅することはない.
通信の媒体は累積的な性質をもち,新しい媒体の出現はその都度,先行の媒体の機能を変えるが,先行媒体の完全な代替物とはならず,手書き筆記,印刷,電気通信ともいずれも現代まで続行している.これは,通信の歴史が媒体の変化とともに,情報の量の多さを追求してきた歴史であることを示す.
人類は,言語コミュニケーションにおいて情報の量を追求し続け,その過程で種々の媒体を発明してきたということになる.一方,情報の質についてはどうなのだろう,と考え込んでしまった.質の問題は,媒体に半ば依存するが,半ば独立したものでもあろう.
今回の話題と関連して書写材料の話題について,「#2465. 書写材料としての紙の歴史と特性」 ([2016-01-26-1]),「#2456. 書写材料と書写道具 (1)」 ([2016-01-17-1]),「#2457. 書写材料と書写道具 (2)」 ([2016-01-18-1]),「#2933. 紙の歴史年表」 ([2017-05-08-1]),「#3116. 巻物から冊子へ,パピルスから羊皮紙へ」 ([2017-11-07-1]) も参照.
・ 『丸善エンサイクロペディア大百科』 丸善,1995年.
「#3590. 「ことば遊び」と言語学」 ([2019-02-24-1]) で,ことば遊び word_play が言語学の歴とした研究対象となることを紹介した.今回は,言葉遊びの3類型について,滝浦 (397--99) に依拠しながら概説する.
(1) 即興型 --- 文脈を絡め取ることば遊び
広義の洒落を用いた言葉遊びである.同音・類音を利用して,文脈に寄生しつつ文脈を絡め取る点に特徴がある.「何か用か九日十日」のような文脈を脱線させ攪乱することを狙う「むだ口」や,「着た切り雀」のようなパロディとして原句との対照を意識させる「地口」などもこの類いである.もとの文脈が新たに生じたメッセージに絡め取られて,おもしろみが生じる.その場の状況に応じて即興的に展開することが多いタイプである.
(2) 技巧型 --- メッセージを二重化することば遊び
折句 (acrostic),アナグラム (anagram),回文 (palindrome) などのように,メッセージが何らかの点で二重化されているタイプのことば遊びである.折句については,「#1875. acrostic と折句」 ([2014-06-15-1]),「#1897. "futhorc" の acrostic」 ([2014-07-07-1]) の例を参照.アナグラムは,Salvador Dali の文字を入れ替えて Avida Dollars としたり,「加田玲太郎」を「誰だろうか」とする例などが挙げられる.回文は Madam, I'm Adam や「世の中馬鹿なのよ」など.即興で作るのは難しく,入念に作り込まれる点に特徴がある.
(3) ゲーム型 --- ゲームとしてのことば遊び
ルールに則って遊び続けることを目的とするゲーム感覚のことば遊び.典型例は,しりとり,クロスワード,言葉のなぞなぞなどである.伝達されるべき意味の内容はあまり問題ではなく,ことばはゲームの道具として用いられている.
ことば遊びは遊戯の1種であるから,上の3タイプも遊戯の一般的特質を備えているはずである.その特質は,無目的性,快楽性,無償性,無価値性といったものだろう.コミュニケーション論や記号論の観点からは,暗号 (cryptology) とも関連してきそうだ.「ことば遊び」は,どんどん広がっていき得るテーマだろう.
・ 滝浦 真人 「ことば遊び」『言語の事典』 中島 平三(編),朝倉書店,2005年.396--415頁.
ことば遊び(言語遊戯)は,言語学の研究対象としては常にマイナーな地位を占めてきた.分野名も定まっていないし,そもそも「ことば遊び」の総称的な名称も定まっているのかどうか怪しい.英語でも word play, verbal play, speech play, play of language などと様々な言い方が存在する.
しかし,まったく研究されてこなかったわけではなく,修辞学や文体論との関連で扱われてきた経緯はあるし,近年ではコミュニケーション論や語用論的観点からも考察され,分野としての発展可能性が開かれてきた.人工知能研究との関連でも注目されてきているようだ.
中島(編)の『言語の事典』のなかに,滝浦真人による「ことば遊び」と題する1章があり,興味深く読んだ.そのイントロ (396) によると,ことば遊びの基本的特徴として逸脱性と規約性の2面性が挙げられるという.
ことば遊びとは,常にコミュニケーションの規範をすり抜けていく“逸脱的”な営みである.ことば遊びが話の文脈を脱線させ,あるいはメッセージを二重化して隠し,時にあからさまに相手に謎をかけるとき,言語の情報伝達性という大前提は多かれ少なかれ裏切られている.
しかし同時に,ことば遊びは,単に統御を欠いた破壊的な営みであるわけではない.ことば遊びを人が“ともに遊ぶ”ことができるのは,それが常に一定の規約性を基盤とするからである.そして,その基盤が規約=慣習 (convention) であるがゆえに,ことば遊びは個々の言語文化に固有の形態を育む.
ことば遊びが,言語の“型”の問題であることを超えて,広くコミュニケーション一般の問題となるのは,こうした二面性においてである.
ことば遊びは,情報伝達性を前提としたごく普通の言語コミュニケーションとは異なっているが,では何がどの程度どのように異なっているのかが問題となる.形式的な観点はもとより機能的な観点からも迫る必要があるだろう.
英語のことば遊びに関しては,Crystal の英語学入門書が具体例を豊富に挙げつつ解説しており,有用である.
・ 滝浦 真人 「ことば遊び」『言語の事典』 中島 平三(編),朝倉書店,2005年.396--415頁.
・ Crystal, David. The English Language. 2nd ed. London: Penguin, 2002.
コミュニケーション (communication) は,言語学でもよく使われる用語だが,一方で日常的に広く使われる用語でもある.実際,言語学でもかなり緩く用いられている.定義を確かめておこうと思い,Crystal の言語学辞典を引いてみた.それによると,communication とは次の通りである (89--90) .
communication (n.) A fundamental notion in the study of behaviour, which acts as a frame of reference for linguistic and phonetic studies. Communication refers to the transmission and reception of information (as 'message') between a source and a receiver using a signalling system: in linguistic contexts, source and receiver are interpreted in human terms, the system involved is a language, and the notion of response to (or acknowledgement of) the message becomes of crucial importance. In theory, communication is said to have taken place if the information received is the same as that sent: in practice, one has to allow for all kinds of interfering factors, or 'noise', which reduce the efficiency of the transmission (e.g. unintelligibility of articulation, idiosyncratic associations of words). One has also to allow for different levels of control in the transmission of the message: speakers' purposive selection of signals will be accompanied by signals which communicate 'despite themselves', as when voice quality signals the fact that a person has a cold, is tired/old/male, etc. The scientific study of all aspects of communication is sometimes called communication science: the domain includes linguistics and phonetics, their various branches, and relevant applications of associated subjects (e.g. acoustics, anatomy).
Human communication may take place using any of the available sensory modes (hearing, sight, etc.), and the differential study of these modes, as used in communicative activity, is carried on by semiotics. A contrast which is often made, especially by psychologists, is between verbal and non-verbal communication (NVC) to refer to the linguistic v. the non-linguistic features of communication (the latter including facial expressions, gestures, etc., both in humans and animals). However, the ambiguity of the term 'verbal' here, implying that language is basically a matter of 'words', makes this term of limited value to linguistics, and it is not usually used by them in this way.
いろいろと説明されているが,核心部分を端的に解釈すれば,コミュニケーションとは「2者間における信号体系を用いた情報の精確なやりとり」となろう.言語は,このようなコミュニケーションを達成するための手段の1つということになる.しかし,言語はコミュニケーションのためだけに用いられているわけではない.言語は,しばしば上記のコミュニケーションの定義から逸脱するような用いられ方もする.言語の諸機能 (function_of_language) については,以下の記事を参照されたい.「#523. 言語の機能と言語の変化」 ([2010-10-02-1]),「#1071. Jakobson による言語の6つの機能」 ([2012-04-02-1]),「#1862. Stern による言語の4つの機能」 ([2014-06-02-1]),「#1776. Ogden and Richards による言語の5つの機能」 ([2014-03-08-1]) .
もちろん,コミュニケーションの定義に含まれる「情報」 (information) とは何か,という大きな問題が残っている.これも厄介な問題だが,当面は「#1089. 情報理論と言語の余剰性」 ([2012-04-20-1]),「#1098. 情報理論が言語学に与えてくれる示唆を2点」 ([2012-04-29-1]) を含む information_theory の各記事を参照されたい.
・ Crystal, David, ed. A Dictionary of Linguistics and Phonetics. 6th ed. Malden, MA: Blackwell, 2008. 295--96.
以前「#1281. 口笛言語」 ([2012-10-29-1]) について記事を書いたが,『日経サイエンス』日本語版の5月号に,口笛言語の研究の特集が掲載されていた.
近年の研究によれば,口笛言語は以前信じられていたよりも世界の多くの地域で実践されているようだ.かつては人類学者,宣教師,旅行家によって口笛言語は10例あまりとされていたが,過去15年間の研究により,世界中に70ほどあることが分かってきた.この数はもっと増えていく可能性がある.口笛言語は,言語学的には言語の「代用品」 (surrogate) という位置づけではあるが,脳の聴覚情報処理や人間のコミュニケーションに関する知見を広げてくれるものと思われる.*
特に興味を引かれるのが,口頭言語との対応という問題と,コミュニケーション距離に関する側面だ.カナリア諸島のゴメラ島で用いられるシルボ・ゴメーロというスペイン語(非声調言語)を代用する口笛言語は,母音と子音を,口笛のピッチ(音高)の変化や息の中断として表現する体系を備えている.口頭言語の音韻体系に相当するものが,口笛言語では,口笛の周波数と振幅の織りなす体系として組み替えられている.わずかな狭い周波数帯域内でも,すべて用を足せるというのも驚くべき事実だ.また,声調言語を代用する口笛言語の場合には,口笛のピッチは口頭言語における声調に対応し,非声調言語の場合とは異なる体系をもっているという.思ったよりもずっと複雑なシステムが作用しているようだ.
音響学的には,口笛は口頭言語に比べて長距離コミュニケーションに向いている.天気や地形などの好条件下では口笛言語は数km先まで伝わり,実際に山地や森林地帯での遠距離コミュニケーションに用いられていることが多い.もちろん,口頭言語と同様に,訓練次第で誰にも習得できるものである.
The World Whistles Research Association という団体があり,世界の口笛言語の情報を提供しているので,参考までに.
・ J. メイエ 「口笛言語」『日経サイエンス Scientific American 日本版』 2017年5月,60--67.
松田著『うわさとは何か』を読んだ.社会学のコミュニケーション論やメディア論の立場からの,うわさ (rumor) の分析だが,社会言語学的な観点からも関心をもって読めた.コミュニケーションを便宜的に,道具的 (instrumental) なものと自己目的的 (consummatory) なものに分けると,うわさは後者のほうに接近している.個人に関するうわさであるゴシップを考えると,内容に情報としての価値もあるにはあるが,多くの場合,ゴシップすること自体が目的である.人々はゴシップのためにわざわざ集まったり,ワイドショーを見たりするのである.
松田 (109--10) で述べられているが,うわさには「ここだけの話だけれど」という枕詞がつくことが多い.これは参与者の間に親密な人間関係,すなわち solidarity を作り出す言語的手段であり,実際にうわさの内容の秘密性が高ければ,solidarity はさらに高まる.
また,うわさの拡大は,参与者の「気持ちの共有」とも深く関係する(松田,p. 110).災害や戦時中にうわさやデマが広まりやすいのは,人々が同じように危機的な状況にいるからであり,その状況を解決するための情報を共有したいという事情もあるが,それ以上に,不安を解消するためにみんなと一緒にいたいという気持ちが生じる.うわさを生み出す状況と solidarity が高まる状況とは互いに助長し合う関係にある.
松田 (113--14) は,ゴシップの3つの機能に言及している.まず,「情報機能」がある.ゴシップそのものがある人についての情報であるということだけではなく,そのゴシップから何らかの教訓を引き出した場合には,間接的な情報を得たことになる.次に,「集団規範の形成・確認機能」がある.人はあるゴシップを他人と共有することで新しい集団を作り出したり,結束を強めたりするのである(いわゆる accommodation_theory とも関連する.「#1482. なぜ go の過去形が went になるか (2)」 ([2013-05-18-1]) 話題を参照).最後に,「エンターテインメントの機能」である.人は会話の促進剤として,単に楽しいものとしてゴシップする.
当然ながら,うわさやゴシップは言語を用いた談話 (discourse) の1つである.したがって,上記のゴシップの機能は,言語の機能の一部でもあるはずだ.言語の人間関係構築機能ということでいえば,関連して「#1771. 言語の本質的な機能の1つとしての phatic communion」 ([2014-03-03-1]),「#1071. Jakobson による言語の6つの機能」 ([2012-04-02-1]) の記事も要参照.
・ 松田 美佐 『うわさとは何か』 中央公論新社〈中公新書〉,2014年.
「#2122. コンテクストの種類」 ([2015-02-17-1]) で扱った話題について再考する.言語におけるコンテクスト (context) と一言でいっても,その内容や分類法については様々な立場がある.今回は,Crystal (322--23) の与えている3要素を紹介しよう.
・ Setting: The time and place in which a communicative act occurs, such as in church, during a meeting, at a distance, or upon leave-taking.
・ Participants: The number of people who take part in an interaction, and the relationships between them, such as the addressee(s) and bystander(s).
・ Activity: The type of activity in which a participant is engaged, such as cross-examining, debating or having a conversation.
それぞれ,言語行動に関する when/where, who, what におよそ相当すると考えてよいだろう.これら3要素の組み合わせにより広い意味での「文脈」が定まり,それにより,話者は言語使用に際して何らかの制限が課されることになる.どのような点について制限されるかといえば,例えば次の4項目が考えられる.
・ Channel: They influence the medium chosen for the communication (e.g. speaking, writing, signing, whistling, singing, drumming) and the way it is used.
・ Code: They influence the formal systems of communication shared by the participant, such as spoken English, written Russian, American Sign Language, or some combination of these.
・ Message form: They influence the structural patterns that identify the communication, both small-scale (the choice of specific sounds, words, or grammatical constructions) and large-scale (the choice of specific genres).
・ Subject matter: They influence the content of the communication, both what is said explicitly and what is implied.
これらを総合すると,例えばキリスト教の説教師が置かれる典型的なコンテクストは,次のようなものとなる.説教師 (participant) が,日曜日の朝に教会 (setting) で,信徒の集団 (participants) に向かって,英語の独り言 (code) という話し言葉 (channel) で,説教 (activity) を行なう.その際,宗教を語るにふさわしい文体や構成 (message form) で,精神的な話題 (subject matter) について語るだろう.逆からみれば,このようなすべての要件が合わさると,いかにも「説教」というコンテクストができあがるともいえる.
当然ながら,コンテクストは,使用域 (register) やジャンル (genre) の問題とも不可分である(「#839. register」 ([2011-08-14-1]) を参照).また,より広い立場から,「#1996. おしゃべりに関わる8要素 SPEAKING」 ([2014-10-14-1]) や「#1326. 伝え合いの7つの要素」 ([2012-12-13-1]) も関連するだろう.
・ Crystal, David. How Language Works. London: Penguin, 2005.
「#2700. 暗号によるコミュニケーションの特性」 ([2016-09-17-1]) で,暗号と通常の言語を比較対照した.現代の暗号が通常の言語と最も異なっている側面の1つに,コードの非対称性がある.だが,これは直感に反するため,もし言語に同じような非対称性が備わっていたら一体どのような言語コミュニケーションが展開するのか,想像するのも難しい.
20世紀後半に非対称鍵暗号が生まれるまで,人類の用いてきた暗号はすべて対称鍵暗号だった.対称鍵暗号では,送り手と受け手が同じ鍵のコピーをもっている.送り手はその鍵で平文をスクランブルして暗号文を作って送り,受け手はその鍵のコピーで解錠して平文を取り戻す.両者ともに共通の鍵(とアルゴリズム)があるからこそ,最終的にコミュニケーションが成り立つのである.この対称性は,言語にもみられる基本的な特性である.例えば日本語の文法を鍵(およびアルゴリズム)とすれば,日本語の話し手はその鍵で伝えたい内容を符号化して文を産出して送り,日本語の聞き手はその鍵のコピーで復号化して内容を取り戻す.符号化と復号化の過程では,文法の諸規則の適用順序こそ逆になるが,同じ一つの文法である.このように対称鍵暗号は通常の言語と根本的な特性を共有しているため,その原理を理解しやすい.
しかし,20世紀後半に非対称鍵暗号なるものが生まれた.非対称鍵暗号によるコミュニケーションでは,送り手と受け手の用いる鍵が,数学的に非常に精妙な方法で関連づけられてはいるものの,事実上異なっているのである.あたかも,送り手は英語で話しをしているが,受け手は日本語で聞き取っているかのようだ.このように表現すると英語から日本語への自動翻訳機が介在しているかのようなシチュエーションにも聞こえるが,この比喩は必ずしもうまくいかない.というのは,受け手側の鍵(この例では日本語文法)は,受け手が独自に作成し,他人に明かさずに保管していたものであり,さらに,受け手がそれを鋳型として送り手側の鍵(この例では英語文法)をも先に作りあげていたという状況があるからだ.つまり,受け手はコミュニケーションに先立って,ある人工言語の文法を作り上げ,それを鋳型として第2の人工言語の文法まで作り上げておく.その上で,第2の文法書を公開しつつメッセージの送り手に与え,送り手はその文法を用いて平文を暗号化し,受け手へ送信する.そして,受け手は,この暗号文を,(第2ではなく)第1の文法書に従って読み解く.この暗号文は,第2の文法で符号化されているにもかかわらず,決して第2の文法によっては復号化できないという奇妙な性質をもっているのである.
通常の言語コミュニケーションの感覚に慣れていると,この非対称鍵暗号によるコミュニケーションの仕組みは実に奇妙だ.しかし,まさに通常の言語の常識を破ったからこそ,非対称鍵の発明は暗号学史上の快挙としてみなされているのだろう.
昨日の記事「#2699. 暗号学と言語学」 ([2016-09-16-1]) の最後に触れたように,言語はメッセージを伝えたいという欲求とともに発達してきたと考えられるにもかかわらず,一方で人類はメッセージを秘匿したいという欲求を抱き,暗号技術を発達させてきた.これは,言語によるコミュニケーションに関する一種の矛盾と考えられるかもしれない.しかし,よく考えてみると,暗号は言語コミュニケーションの本質と矛盾するというよりも,むしろそのある側面を究極に推し進めたものとみなせるのではないか.というのは,暗号コミュニケーションにおいては,ある特定の相手にだけ,という強い限定はあるものの,むしろメッセージを伝えたいという欲求はことさらに強いからである.
実際「#1070. Jakobson による言語行動に不可欠な6つの構成要素」 ([2012-04-01-1]) の図において,中央の「ことば (message)」を「暗号」と読み替えても,この図はそのまま通用しそうである.しかし,異なるところもある.暗号コミュニケーションでは話し手と聞き手を直接つなぐ「接触 (contact)」の回路が意図的に強く限定されており,排他的であることだ.たしかに,通常の言語コミュニケーションにおいても,ある程度の排他性が想定される機会はある.例えば,ひそひそ話し,陰口,私信などでは,物理的な方法で接触が制限されている.ところが,暗号コミュニケーションでは,物理的な方法で接触を制限することも含みはするが,それ以上に重要な制限方法として「言語体系 (code) 」にひねりを加えるという手段を用いる.特定の話し手と聞き手にしか共有されない排他的なコードを用いることにより,記号論的に他者が接触できない状況を作り出しているのである.
このように,通常の言語コミュニケーションと対比すると,暗号コミュニケーションの本質が浮き彫りになる.話し手と聞き手が,排他的なコードにより排他的な接触の関係を作り上げて排他的なコミュニケーション回路を作るというのが,暗号コミュニケーションの前提のようだ.「山」に対して「川」という合い言葉は,原始的な暗号の一種だが,これは暗号コミュニケーションにおける phatic_communion を体現するものである (see 「#1771. 言語の本質的な機能の1つとしての phatic communion」 ([2014-03-03-1]),「#1071. Jakobson による言語の6つの機能」 ([2012-04-02-1])) .暗号を記号論的に論じてみるのもおもしろそうだ.
言語音は音の一種である.音は弾性体の中を伝わる縦波であり,典型的には空気などの媒質が進行方向に沿って往復運動し,伝搬されてゆく.人間を含め多くの動物が音を利用してコミュニケーションを取っている.言語音に関して,音響学的な基礎をさらっておこう.以下,数値の出典は,Crystal (34) および戸井 (26--28, 34) .
音(波)の振動の属性には,周波数と音圧レベルがある.周波数とは,1秒間の音波の振動数,すなわち音の高さを表わす.単位には Hz (ヘルツ)を用いる.20Hzより低い音は超低周波 (infrasonics) と呼ばれ,人間は揺れとして感じることはあるが,耳では感じ取れない.また,20000Hzより高い音は超音波 (supersonics) といい,やはり耳では感じ取ることができない.人間が音として感知できるのは20--20000Hzということになる.また,老化とともに聞き取れる音の範囲が狭くなり,特に周波数の高い音が聞き取りにくくなるとされる.
だが,言語としては,人間の聞き取れるこの広い帯域の隅から隅までを使いこなしているわけではない.発音する側の制約もあり,通常の発話では100--4000Hzが用いられる.通常,成人男性の発声は90--130Hzであり成人女性の発声は250--330Hzである.生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声は400Hzと高い.NHKの時報は440--880Hz,救急車のサイレンは770--960Hzである.
ちなみに,動物が聞き取れる音の範囲は人間と異なっている.鳥類は200--8000Hz,ゾウは10--12000Hz,イヌは15--50000Hz,ネコは60--65000Hz,イルカは150--150000Hz,コウモリは1000--120000Hzとまちまちである.それぞれが聞き取り能力を活用して種独自のコミュニケーションに役立てていることはよく知られている.
次に,音圧レベルに移ろう.こちらは音波の振幅に関する属性であり,音の大きさを表わす.単位には dB (デシベル)を用いる.人間の通常の会話は60dBほどであり,ささやき声は30dB,聞き取れる最も小さな音は0dBである.比較として,近くで聞く蝉の鳴き声は70dB,近くで聞く救急車のサイレンは80dB,ガード下で聞く列車の音は100dB,近くで聞く飛行機のエンジン音は120dBである.
・ Crystal, David. How Language Works. London: Penguin, 2005.
・ 戸井 武司(監修) 『音の大研究 性質・役割から意外な活用法まで』 2016年.
昨日の記事「#2534. 記号 (sign) の種類 --- 目的による分類」 ([2016-04-04-1]) に続き,今日は村越 (15) より記号(サイン)の「伝える手段による分類」の図を示そう.
情報の受け手視覚に訴えかけるサインの種類の多いことがわかるが,実にサインの86パーセントを占めるという.村越 (16--17) によると,
その理由は,視覚が光を媒体にしていることから第三者に届く情報が,他の感覚器官より格段に早い,ということなのです(光速は秒速約30万キロ)./この早い「視覚で」に「聴覚で」という(秒速約300メートル)声とか音を加えると,情報のほとんどすべてが「受け手」に伝えられることになります.音の伝わる早さが光に次ぐことから,ある意図したことを第三者に伝えようとする「情報の送り手」は,その手段として「受け手」の視聴覚に訴えることになるのです.
なお「視覚で」の「形」の「画像」を目的によってさらに下位分類すると,「美的表示」(抽象絵画,具象絵画,芸術写真,書)と「実用的表示」に分けられる.後者はさらに「対照即応的」なもの(写真,描写,地図,製図),「象徴的」なもの(シンボル,マーク,ピクトグラム,シグナル),「定性定量的」なもの(グラフ,ダイヤグラム,表)に区分されるという(村越,pp. 17--19).
関連して,ヒトの感覚器官とコミュニケーション手段の関係についての考察は「#1063. 人間の言語はなぜ音声に依存しているのか (1)」 ([2012-03-25-1]),「#1064. 人間の言語はなぜ音声に依存しているのか (2)」 ([2012-03-26-1]) の記事も要参照.
・ 村越 愛策 『絵で表す言葉の世界』 交通新聞社,2014年.
一昨日の記事 ([2016-04-01-1]) に引き続き,"spaghetti junction" について.今回は,この現象に関する Aitchison の1989年の論文を読んだので,要点をレポートする.
Aitchison は,パプアニューギニアで広く話される Tok Pisin の時制・相・法の体系が,当初は様々な手段の混成からなっていたが,時とともに一貫したものになってきた様子を観察し,これを "spaghetti junction" の効果によるものと論じた.Tok Pisin に見られるこのような体系の変化は,関連しない他のピジン語やクレオール語でも観察されており,この類似性を説明するのに2つの対立する考え方が提起されているという.1つは Bickerton などの理論言語学者が主張するように,文法に共時的な制約が働いており,言語変化は必然的にある種の体系に終結する,というものだ.この立場は,言語的制約がヒトの遺伝子に組み込まれていると想定するため,"bioprogram" 説と呼ばれる.もう1つの考え方は,言語,認知,コミュニケーションに関する様々な異なる過程が相互に作用した結果,最終的に似たような解決策が選ばれるというものだ.この立場が "spaghetti junction" である.Aitchison (152) は,この2つ目の見方を以下のように説明し,支持している.
This second approach regards a language at any particular point in time as if it were a spaghetti junction which allows a number of possible exit routes. Given certain recurring communicative requirements, and some fairly general assumptions about language, one can sometimes see why particular options are preferred, and others passed over. In this way, one can not only map out a number of preferred pathways for language, but might also find out that some apparent 'constraints' are simply low probability outcomes. 'No way out' signs on a spaghetti junction may be rare, but only a small proportion of possible exit routes might be selected.
Aitchison (169) は,この2つの立場の違いを様々な言い方で表現している."innate programming" に対する "probable rediscovery" であるとか,言語の変化の "prophylaxis" (予防)に対する "therapy" (治療)である等々(「予防」と「治療」については,「#1979. 言語変化の目的論について再考」 ([2014-09-27-1]) を参照).ただし,Aitchison は,両立場は相反するものというよりは,相補的かもしれないと考えているようだ.
"spaghetti junction" 説に立つのであれば,今後の言語変化研究の課題は,「選ばれやすい道筋」をいかに予測し,説明するかということになるだろう.Aitchison (170) は,論文を次のように締めくくっている.
A number of principles combined to account for the pathways taken, principles based jointly on general linguistic capabilities, cognitive abilities, and communicative needs. The route taken is therefore the result of the rediscovery of viable options, rather than the effect of an inevitable bioprogram. At the spaghetti junctions of language, few exits are truly closed. However, a number of converging factors lead speakers to take certain recurrent routes. An overall aim in future research, then, must be to predict and explain the preferred pathways of language evolution.
このような研究の成果は言語の発生と初期の発達にも新たな光を当ててくれるかもしれない.当初は様々な選択肢があったが,後に諸要因により「選ばれやすい道筋」が採用され,現代につながる言語の型ができたのではないかと.
・ Aitchison, Jean. "Spaghetti Junctions and Recurrent Routes: Some Preferred Pathways in Language Evolution." Lingua 77 (1989): 151--71.
おしゃべり (speech) には様々な種類がある.噂話もあればヤジもあるし,謝辞もあればお世辞もある.演説,告白,討論,説教,エレベーターピッチまで様々だ.では,これらの種々のおしゃべりを分類するのに,どのような基準が考えられるだろうか.別の言い方をすれば,これらコミュニケーション上の出来事がどのようにその目標を達成しているのか理解する上で関与的な要素は何だろうか.社会言語学者 Hymes は,頭字語 SPEAKING のもとに8つの要素を認めている.Hymes を要約した Wardhaugh (259--61) の記述にしたがって,簡単に説明しよう.
(1) Setting and Scene. 前者はおしゃべりが行われている時間と場所を指し,後者は抽象的で心理的な環境を指す.例えば,女王のクリスマスのメッセージや米大統領の年頭教書は,特有の Setting と Scene をもっている.日本でいえば,天皇陛下の新年のお言葉も特有な Setting と Scene をもっている.
(2) Participants. 話し手と聞き手.会話では両者が順番に発話するのが通常だが,演説や講義では主におしゃべりは一方通行で,かつ聞き手は複数である.留守番電話では,話し手と聞き手というよりは,メッセージの送り手と受け手というのが適当だろう.祈りにおいては,聞き手は神である.
(3) Ends. そのおしゃべりを通じて慣習的に期待されている目的,あるいは話し手が個人的に目指している目的.例えば法廷における発言は,判事,陪審員,被告,原告,証人のいずれによってなされるかによって大きく異なる目的をもつ.結婚式における誓いの発話は,社会的な目的を有していると同時に,新郎新婦の個人的な目的を有している.
(4) Act sequence. 具体的に使われた表現について,それがどのように使われたのか,現行の話題とどのような関係があるのかという観点をさす.そのおしゃべりでは,どのような表現が発話されており,実際に何が行われているのかという視点である.語用論でいう発話行為 (speech_act) の考え方に通じる.「#1646. 発話行為の比較文化」 ([2013-10-29-1]) を参照.
(5) Key. メッセージを伝える際のトーンや様式や気分など.おしゃべりが気軽か深刻か,あるいは精確か,衒学的か,儀式的か,軽蔑的か,皮肉的か等々.種々の非言語的な行動,身振り,姿勢などを伴うこともある.
(6) Instrumentalities. コミュニケーションの回路の選択肢.話しことばか書き言葉か,電話か電信かなどの媒介の選択肢にとどまらず,用いる言語,方言,コード,使用域の選択肢をもさす.code-switching は,複数の instrumentalities を使い分けるおしゃべりの仕方ということになる.
(7) Norms of interaction and interpretation. おしゃべりに付随する特定の行動や特性,及びそれらに関する規範をさす.声の大きさ,沈黙,視線合わせ,話し相手との立ち位置に関する物理的距離などにちての規範などが含まれる.「#1633. おしゃべりと沈黙の民族誌学」 ([2013-10-16-1]),「#1644. おしゃべりと沈黙の民族誌学 (2)」 ([2013-10-27-1]) を参照.
(8) Genre. 発話のジャンル.詩,ことわざ,なぞなぞ,説教,祈祷,講義,社説などの明確に区別される発話の種類をさす.
人々はこれら SPEAKING の各要素に常に注意を払いながらおしゃべりしていると考えられる.Wardhaugh (261) の言うように,おしゃべりは極めて複雑な営為である.
What Hymes offers us in his SPEAKING formula is a very necessary reminder that talk is a complex activity, and that any particular bit of talk is actually a piece of 'skilled work.' It is skilled in the sense that, if it is to be successful, the speaker must reveal a sensitivity to and awareness of each of the eight factors outlined above. Speakers and listeners must also work to see that nothing goes wrong. When speaking does go wrong, as it sometimes does, that going-wrong is often clearly describable in terms of some neglect of one or more of the factors. Since we acknowledge that there are 'better' speakers and 'poorer' speakers, we may also assume that individuals vary in their ability to manage and exploit the total array of factors.
文法や語彙を学習しただけでは言語をマスターしたとはいえない.上手におしゃべりするためには,SPEAKING に敏感であることが必要である.関連して「#1632. communicative competence」 ([2013-10-15-1]) と「#1652. 第2言語習得でいう "communicative competence"」 ([2013-11-04-1]) を参照.
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
昨日の記事 ([2014-08-12-1]) の最後に,言語変化における聴者の関与について触れた.言語変化は variation のなかからのある一定の選択が社会習慣化したものであると捉えるならば,言語選択における聴者の関与という問題は,言語変化論において重要な話題だろう.話者が聴者を意識して言葉を発するということはコミュニケーションの目的に照らせば自明のように思われるが,従来の言語変化の研究では,言語変化は話者主体で生じるという前提が当然視されてきた経緯があり,聴者は完全に不在とはいわずとも,限定的な役割を担うにすぎなかった.しかし,近年の研究においては聴者の役割が相対的に高まってきている.
言語学にも諸分野,諸派があるが,例えば社会言語学でも聴者の役割を重視した考え方が現われてきている.その1つに,audience design というものがある.Trudgill の用語辞典に拠ろう.
audience design A notion developed by Allan Bell to account for stylistic variation in language in terms of speakers' responses to audience members i.e. to people who are listening to them. Bell's model derives in part from accommodation theory. (11)
以下,東 (101--09) により補足して説明する.Allan Bell によって提唱された audience design は,話者が誰に対して注意 (attention) を払いつつ話しているのかによって,その文体的変異を説明しようとする仮説である.この仮説によれば,話し手 (Speaker) は,第一に聞き手 (Addressee) に最大限の注意を払うが,それ以外にも傍聴人 (Auditor),偶然聞く人 (Overhearer),盗み聞く人 (Eavesdropper) にもこの順序で多くの注意を払うものだという.話し手にとってその人が知られているか,認められているか,話しかけられているかという3つのパラメータで分析すると,それぞれ以下のような序列となる.
知られている | 認められている | 話しかけられている | |
聞き手 | + | + | + |
傍聴人 | + | + | - |
偶然聞く人 | + | - | - |
盗み聞く人 | - | - | - |
オーディエンスはふつう,話し手が話すのを聞くだけの役割,いわば受け身的なものだと思われているが,実はもっと積極的なもので,オーディエンスの持つ役割は思われているよりははるかに大きく,影響力大である.ちょうど役者が劇場で観客の歓声,拍手,あるいは野次に影響されるように,オーディエンスに答える形で,話し手は自分のスタイルを調整していくのだと考える.
最後に,上の表に示した audience の序列は絶対的なものではないことを付け加えておきたい.討論会の例のように,討論者は相手方の討論者を聞き手として話してはいるものの,もしかするとその聞き手よりも強く意識しているのは,会場にいる傍聴者かもしれないのだ.会場の支持を取り付けるために,むしろ傍聴者に向けて議論していると思われる場合がある.このとき,話し手の払う注意の量は「傍聴人>聞き手」となろう.
なお,話し手が誰にも何の注意も払わずに話すという場面はあるだろうか.独り言がそれに相当しそうだが,独り言では通常話し手自身を聞き手と想定しているだろう.では,そのような想定すらない独り言はありうるだろうか.口をついてぼそっと出る独り語や,意識せずに出る口癖などが近いかもしれない.独り言について,「#1070. Jakobson による言語行動に不可欠な6つの構成要素」 ([2012-04-01-1]) も参照.
・ Trudgill, Peter. A Glossary of Sociolinguistics. Oxford: Oxford University Press, 2003.
・ 東 照二 『社会言語学入門 改訂版』,研究社,2009年.
昨日の記事 ([2014-08-11-1]) で引用した monitoring に関する Smith の文章で,Lyons が参照されていた.Lyons (111) に当たってみると,言語音の産出と理解について論じている箇所で,話者と聴者の互いの monitoring 作用を前提とすることが重要だという趣旨の議論において,feedback あるいは monitoring という表現が現われている.
In the case of speech, we are not dealing with a system of sound-production and sound-reception in which the 'transmitter' (the speaker) and the 'receiver' (the hearer) are completely separate mechanisms. Every normal speaker of a language is alternately a producer and a receiver. When he is speaking, he is not only producing sound; he is also 'monitoring' what he is saying and modulating his speech, unconsciously correlating his various articulatory movements with what he hears and making continual adjustments (like a thermostat, which controls the source of heat as a result of 'feedback' from the temperature readings). And when he is listening to someone else speaking, he is not merely a passive receiver of sounds emitted by the speaker: he is registering the sounds he hears (interpreting the acoustic 'signal') in the light of his own experience as a speaker, with a 'built-in' set of contextual cues and expectancies.
言語使用者は調音音声学的機構と音響音声学的機構をともに備えているばかりでなく,言語音の産出と理解において双方を連動させている,という仮説がここで唱えられている.関連して「#1656. 口で知覚するのか耳で知覚するのか」 ([2013-11-08-1]) を参照されたい.
Lyons は,主として言語音の産出と理解における monitoring の作用を強調しているが,monitoring の作用は音声以外の他の言語部門にも同様に見られると述べている.
It may be pointed out here that the principle of 'feedback' is not restricted to the production and reception of physical distinctions in the substance, or medium, in which language is manifest. It operates also in the determination of phonological and grammatical structure. Intrinsically ambiguous utterances will be interpreted in one way, rather than another, because certain expectancies have been established by the general context in which the utterance is made or by the previous discourse . . . . (111)
monitoring と関連して慣習 (established),文脈 (context),キュー (cue) というキーワードが出てくれば,次には共起 (collocation) や頻度 (frequency) などという用語が出てきてもおかしくなさそうだ.言語変化論の観点からは,Usage-Based Grammar や「#1406. 束となって急速に生じる文法変化」 ([2013-03-03-1]) でみた "clusters of bumpy change" の考え方とも関係するだろう.昨今は,従来の話者主体ではなく聴者主体の言語(変化)論が多く聞かれるようになってきたが,monitoring という考え方は,言語において「話者=聴者」であることを再認識させてくれるキーワードといえるかもしれない.関連して,聞き手の関与する意味変化について「#1873. Stern による意味変化の7分類」 ([2014-06-13-1]) も参照されたい.
・ Lyons, John. Introduction to Theoretical Linguistics. Cambridge: CUP, 1968.
Smith の抱く言語変化観を表わすものとして「#1466. Smith による言語変化の3段階と3機構」 ([2013-05-02-1]) と「#1928. Smith による言語レベルの階層モデルと動的モデル」 ([2014-08-07-1]) を紹介した.これらは機械的な言語変化の見方であり,人間不在の印象を与えるかもしれないが,Smith の言語変化論は決して言語の社会的な側面,話者と聴者と言語の関係をないがしろにしているわけではない.Smith (49) は,言語変化の種としての variation の存在,および variation のなかからの個々の言語項の選択という行為は,言語使用者が不断に実践している monitoring という作用と深い関わりがあると述べている.
Human beings are social creatures, and not simply transmitters (speakers) or receivers (hearers); they are both. When humans speak, they are not only producing sounds and grammar and vocabulary; they are also monitoring what they and others say by listening, and evaluating the communicative efficiency of their speech for the purposes for which it is being used: communicative purposes which are not only to do with the conveying and receiving of information, but also to do with such matters as signalling the social circumstances of the interaction taking place. And what humans hear is constantly being monitored, that is, compared with their earlier experience as speakers and hearers. . . . / This principle of monitoring, or feedback as it is sometimes called (Lyons 1968: 111), is crucial to an understanding of language-change.
話者は自分の発する言葉がいかに理解されるかに常に注意を払っているし,聴者は相手の発した言葉を理解するのに常にその言語の標準的な体系を参照している.話者も聴者も,発せられた言葉に逐一監視の目を光らせており,互いにチェックし合っている.2人の言語体系は音声,文法,語彙の細部において若干相違しているだろうが,コミュニケーションに伴うこの不断の照合作業ゆえに,互いに大きく逸脱することはない.2人の言語体系は焦点を共有しており,その焦点そのものが移動することはあっても,それは両者がともに移動させているのである.これが,言語(変化)における monitoring の役割だという.
人の言葉遣いが一生のなかで変化し得ることについて「#866. 話者の意識に通時的な次元はあるか?」 ([2011-09-10-1]) や「#1890. 歳とともに言葉遣いは変わる」 ([2014-06-30-1]) で考察してきたが,monitoring という考え方は,この問題にも光を当ててくれるだろう.個人が生きて言語を使用するなかで,常に対話者との間に monitoring 機能を作用させ,その monitoring の結果として,自らも言語体系の焦点を少しずつ移動させていくかもしれないし,相手にも焦点の移動を促していくかもしれない.
monitoring は,言語における規範主義とも大いに関係する.通常,話者や聴者の monitoring の参照点は,互いの言語使用,あるいはもう少し広く,彼らが属する言語共同体における一般の言語使用だろう.しかし,「#1929. 言語学の立場から規範主義的言語観をどう見るべきか」 ([2014-08-08-1]) で示唆したように,規範主義的言語観がある程度言語共同体のなかに浸透すると,規範文法そのものが monitoring の参照点となりうる.つまり,自分や相手がその規範を遵守しているかどうかを逐一チェックし合うという,通常よりもずっと息苦しい状況が生じる.規範主義的言語観の発達は,monitoring という観点からみれば,monitoring の質と量を重くさせる過程であるともいえるかもしれない.
・ Smith, Jeremy J. An Historical Study of English: Function, Form and Change. London: Routledge, 1996.
多才な言語学者・人類学者,西江雅之先生による「ことば」論を読んだ.西江先生の講義は学生時代に受けたことがあり,久しぶりに西江節を心地よく読むことができた.
著者は,コミュニケーションのことを「伝え合い」と呼んでおり,そこにことばが占める割合は驚くほど小さいと述べる.続けて,生の伝え合いにおいては7つの要素があり,人はそれらの7つの要素を同時に使い分けているのだと主張する.その7つの要素とは,以下の通り (116) .
(1) 「ことば」
(2) 当人たちの身体や性格面での「人物特徴」
(3) 顔の表情の変化や視線の動きを含む「体の動き」
(4) 伝え合いをしている人物がいる周辺環境としての「場」
(5) 直接的な接触によるものや顔色の変化などに見られる「生理的反応」
(6) お互いの距離,当人たちが占めているスペース,そのときの時刻,伝え合いの内容を表現するためにかかる時間などの「空間と時間」
(7) 当人たちの社会生活上の地位や立場といった「人物の社会的背景」
7つの要素を挙げた後,著者は,これらは「互いに溶け合っている」のであり,「その要素の中の一つだけを独立させて伝え合いを行なうことはあり得ない」のだと強調する.そして,これがなかなかわかってもらえないのだと嘆きすらする.
重要なことは,この「七つの要素」は溶け合っているということ.その中の一要素だけを取り出して伝え合いをすることは,決してできないということです.この説は,この四〇年余りわたしが言い続けてきたことなのですが,みんなが一番わからないところらしい.ことばの専門家ではない人は比較的簡単に納得してくれるのですが,言語や哲学の専門家となると,まったくと言っていいほど関心を示してくれません.それほど,ある種の人びとの頭の中は,言語が圧倒的な位置を占めているんですね. (118)
この説について考えているときに,「#1259. 「Jakobson による言語の6つの機能」への批判」 ([2012-10-07-1]) で引用したムーナンの議論を思い出した.Jakobson の言語の6機能と西江の伝え合いの7要素とは互いに性格が異なるので直接比較できないが,いずれも説明上いくつかの因子へと分解してみせるものの,実際にはすべてが融和しており,分解は不可能なのではないか,ということだった.
(1) が主流派の言語学で扱う対象だとすれば,(2) 以下の要素は,最近になって発展してきた語用論 (pragmatics) ,社会言語学 (sociolinguistics),パラ言語学 (paralinguistics) などの領域に属することになる.
西江先生は,私が学生だった頃より,このような「傍流」の要素の重要性を主張してきたのかと,今さらながらに気づいた.だが,これらの分野は今や傍流ではなくなってきている.西江先生の炯眼に敬意を表したい.
・ 西江 雅之 『新「ことば」の課外授業』 白水社,2012年.
・ ジョルジュ・ムーナン著,佐藤 信夫訳 『二十世紀の言語学』 白水社,2001年.
ヒトを含めた動物のコミュニケーション手段には様々なものがあるが,ヒトの言語の最大の特徴は,Crystal (How 9--10) によれば (1) reproductiveness, (2) double articulation, (3) displacement である.かいつまんで言えば,(1) はどんなことでも表現できる自由度と生産性の高さを,(2) は「#767. 言語の二重分節」 ([2011-06-03-1]) の特徴を,(3) は今ここに関与するもの以外のこと(昨日のことや,別の場所で起こっていること)を話題とすることができる性質を,それぞれ表わす.身振り,アイコンタクト,表情などは確かに人同士のコミュニケーション手段ではあるが,表現が固定化されていて自由度や生産性は低く,二重分節のような複雑な構造を示さず,典型的には今ここにあることしか話題にしない.
だが,コミュニケーション手段によっては,3つの条件を満たしているかどうかは程度の問題にすぎないという側面もある.あるコミュニケーション手段が真の意味で言語と呼ばれてしかるべきか否か,微妙なケースがあるのだ.例えば,口笛によるコミュニケーションがそれだ.中米や南米の部族,ピレネー,トルコやカナリア諸島において,その土地の話し言葉に基づいた口笛によるコミュニケーション手段が確認されている.Crystal (Encyclopedia 404) に引用されている実例を要約しよう.メキシコ Oaxaca 州の部族で Mazateco 語の話者2人の間で交わされた口笛による会話である.
ある日,Eusebio Martinez は小屋の前に立っていた.彼は,遠く離れたところで道を歩いていたトウモロコシ売りの男に口笛で呼びかけた.市場へ売りにでかける途中だったそのトウモロコシ売りは,口笛でそれに答えた.異なる音色で何度か口笛の交換があり,それが終わるとトウモロコシ売りは,道を少し引き返し Eusebio の小屋のあるところまで上ってきて,一言もしゃべらずに,荷物を下ろした.Eusebio はトウモロコシを物色すると,小屋の中からお金をもってきて,支払いをした.そして,トウモロコシ売りは去っていった.以上のやりとりのあいだ,二人の間には一言も言葉による会話はなされなかったが,値段の取り決めを含めた一切のコミュニケーションは先の口笛のやりとりによって確かに行なわれていたのである.
二人の口笛での会話は,元となる言語による発話の,音節語ごとの音調に対応した4段階の音色によって表わされていた.文化的,語用論的に会話の文脈や目的は二人とも暗黙のうちによく共有されているので,二人の間での音調の「調律」作業こそ必要だが,音調に対応させて元の発話を復元することは,さほど困難ではないのだろう.元となる言語の発話の写しであるから,この口笛コミュニケーションも,上に定義した厳密な意味での言語とみなすことは一応のところ可能である.ただし,一般的にやりとりは短く,「文」も短く,利用される機会も少なく,男性にのみ用いられるということから,限りなく周辺的な「言語」とみてよいだろう.より正確には,Crystal (How 13) のいうように,言語の代用品として "surrogate" と呼んでおくのがよいかもしれない.
関連して,音声言語の特徴を論じた ##1063,1064,1065 の記事を参照.
・ Crystal, David. How Language Works. London: Penguin, 2005.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1997.
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