昨夕,Voicy heldio にて「#893. 英語史の古典的名著 Baugh and Cable を読む (24) Celtic --- 和田忍先生との実況中継(前半)」を配信しました.Baugh and Cable の英語史の古典的名著 A History of the English Language (第6版)を原書で精読していくシリーズの特別回としてお届けしました(シリーズについては「#5291. heldio の「英語史の古典的名著 Baugh and Cable を読む」シリーズが順調に進んでいます」 ([2023-10-22-1]) を参照).
今回精読した第24節の題目は Celtic です.原文(原書で1ページほどの英文)は昨日の hellog 記事「#5309. ケルト語派の記述 --- Baugh and Cable の英語史より」 ([2023-11-09-1]) に掲載しています.そちらをご覧になりながらお聴きいただければと思います.
英語史研究者2人が,まだ明るい時間からグラスを傾けつつ専門分野について語るというのは,何とも豊かな時間です.それを少なからぬリスナーの方々にライヴでお聴きいただいたというのも,ありがたき幸せです.
案の定,60分では語り足りなかったので,続編をプレミアムリスナー限定配信チャンネルにて【英語史の輪 #52】英語史の古典的名著 Baugh and Cable を読む (24) Celtic --- 和田忍先生との実況中継(後半)」として収録・配信しています.最後に,ケルト語派について学ぶことの英語史上の意義についても議論していますので,よろしければそちらもお聴きください.
さて,ケルト語派に関心を抱いた方は,本ブログでも多くの記事でカバーしています.まずは,celtic, irish, scottish_gaelic, manx, welsh, cornish, breton などのタグ付きの記事群をご参照ください.今回精読した英文の内容と関わりが強い記事として,以下を挙げておきます.
・ 「#774. ケルト語の分布」 ([2011-06-10-1])
・ 「#779. Cornish と Manx」 ([2011-06-15-1])
・ 「#2803. アイルランド語の話者人口と使用地域」 ([2016-12-29-1])
・ 「#2968. ローマ時代以前のブリテン島民」 ([2017-06-12-1])
・ 「#3743. Celt の指示対象の歴史的変化」 ([2019-07-27-1])
・ 「#3747. ケルト人とは何者か」 ([2019-07-31-1])
・ 「#3757. 講座「英語の歴史と語源」の第2回「ケルトの島」を終えました」 ([2019-08-10-1])
・ 「#3761. ブリテンとブルターニュ」 ([2019-08-14-1])
また,heldio でもケルト語関連の話題は様々に配信しています.以下をリストアップしておきます.
・ 「#692. ケルト語派を紹介します」(2023/04/23)
・ 「#693. 英語史とケルト,英語史とブルターニュ --- 国立西洋美術館の「憧憬の地 ブルターニュ展」訪問に向けて」(2023/04/24)
・ 「#697. イギリスにおけるケルト系言語に対する言語政策」(2023/04/28)
・ 「#715. ケルト語仮説」(2023/05/16)
・ 「#731. ケルト語の書記文化の開花が英仏独語よりも早かった理由」(2023/06/01)
・ 「#696. コーンウォール語は死語? --- ブルトン語の親戚言語」(2023/04/27)
・ 「#714. Manx 「マン島語」 --- 1974年に死語となったブルトン語の親戚言語」(2023/05/15)
今日の配信回をお聴きになり B&C 精読シリーズに関心をもたれた方は,ぜひ本書(第6版)を入手し,シリーズの初回からでも途中からでも参加いただければと思います.間違いなく英語の勉強にも英語史の勉強にもなる本として選んでいます!
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
「#5139. 英語史において「ケルト語仮説」が取り沙汰されてきた言語項」 ([2023-05-23-1]) で紹介した項目の1つに "Lack of external possessor construction" がある.現代英語には「外的所有構造」が欠けており,原則として「内的所有構造」 (internal possessor construction) のみがあるとされる.そして,後者の特徴はケルト諸語との言語接触によって誘引されたものではないかという仮説が唱えられている.
内的所有構造とは my head のように,属格(所有格)により直接名詞を修飾して所有関係を示す構造のことである.一方,外的所有構造とは,*the head to me のような表現にみられるように,典型的には与格により間接的に名詞を修飾し,名詞句の外側から所有関係を示す構造のことである.
現代英語では内的所有構造が原則だが,古英語ではむしろ外的所有構造がみられた.例えば,Hickey (499) は古英詩 Poem of Judith より以下の例を挙げている.
þæt him þæt heafod wand forð on ða flore
lit.: that him-DATIVE that head ...
'that his head rolled forth on the floor'
古英語に限らず大多数のヨーロッパの諸言語では,外的所有構造が好まれてきた.バスク語,ハンガリー語,マルタ語などの非印欧諸語でも外的所有構造が用いられていることから,汎ヨーロッパ的な言語特徴とみなすことができる.
その稀な例外が,現代英語であり,ウェールズ語であり,コーンウォール語だという.これらのイギリス諸島に分布する(した)少数の言語では,内的所有構造が好まれる.他に内的所有構造が現われるのは,遠く離れたヨーロッパの東の外縁であり,トルコ語やレズギン語(カフカス諸語の1つ)にみられるが,これとイギリス諸島の諸言語が関係しているとは考えにくい.つまり,英語,ウェールズ語,コーンウォール語は内的所有構造を示す言語として地理的に孤立しているのである.
さて,英語史においては上記で示したとおり,古英語では外的所有構造を用いていたが,後に内的所有構造へと鞍替えした経緯がある.ここにウェールズ語やコーンウォール語などケルト諸語にみられた内的所有構造が,英語の所有構造に影響を及ぼした可能性が浮上する.
Hickey (500) は,この仮説の解説を次のように締めくくっている.
This transfer did not affect the existence of a possessor construction, but it changed the exponence of the category, a frequent effect of language contact, especially in language shift situations.
「#5134. 言語項移動の主な種類を図示」 ([2023-05-18-1]) の類型論でいえば,この場合の "transfer" は "Rearrangement" に該当するのだろうか.興味深い仮説ではある.
・ Hickey, Raymond. "Early English and the Celtic Hypothesis." Chapter 38 of The Oxford Handbook of the History of English. Ed. Terttu Nevalainen and Elizabeth Closs Traugott. New York: OUP, 2012. 497--507.
昨日の記事「#4670. アジェージュによる「フリジア語の再征服」」 ([2022-02-08-1]) に引き続き,アジェージュ (264) より「コーンウォールの不死鳥」と題する1節を引こう.コーンウォール語 (Cornish) はフリジア語 (Frisian) 以上に再生・復活という概念からかけ離れているように思われるが,どうだろうか.
四世紀にサクソン人が拡大すると,ケルノウ語〔コーンウォール語〕はカムリ語〔ウェールズ語〕から切り離され,コーンウォール半島のさらに西に閉じ込められた.こうして,ケルノウ語はケルト系の兄弟言語であるカムリ語から遠ざかるとともに,同じケルト語派のいとこ言語にあたるブレイス語〔ブルトン語〕からも分離した.十六世紀後半の宗教改革の犠牲になったケルノウ語は,そのころから徐々に衰退していき,一八〇〇年ごろには話しことばとして消滅してしまった.しかし,驚くべき現象がこの言語の歴史に生じた.ケルノウ語は,二十世紀になってよみがえったのである.運動の推進者にしてみれば,ケルノウ語の再生は,コーンウォールの住民とその伝統との結びつきからくる自然な結果と思われた.この結びつきについての反論の余地のない論理は,一九〇一年に創設されたケルト-ケルノウ協会の有力なメンバーであったH・ジェンナーがきわめて簡潔に言いあらわしている.「なぜコーンウォール人はケルノウ語を学ばなくてはならないのか? なぜなら彼らはコーンウォール人だからである」〔中略〕.再生させようとする言語形態はどの時代のものとすべきかという選択についての議論があることはある.しかし,言語の再生に情熱を傾けるグループのひとびとが,二〇〇年近く前に死んでしまったこのことばを日常生活のなかで使おうとしており,しかもそれに共鳴するひとびとの数がしだいに増えているという事実は,きわめて注目すべきである.なかには,イスラエス国家におけるヘブライ語の再生と比較する者もあるほどである.
宗教改革の時代は,イングランドがブリテン諸島の周辺地域へと「帝国」を拡大しようとした時代である.ブリテン島の南西端にあるコーンウォールもその餌食となり,同地に英語が浸透していくことになった.その後,コーンウォール語は実質的には死語となってしまったが,それを20世紀になってから地元の有志が再生・復活しようとしている,というのだ.
「#779. Cornish と Manx」 ([2011-06-15-1]) でも触れたように,このコーンウォール語の復興活動には象徴的な意義しかないという向きもある.確かに現実的には難しいかもしれない.しかし,「民族が言語を生み出す」ということの意味を改めて考えさせてくれる,現代の生きた事例ではある.
・ グロード・アジェージュ(著),糟谷 啓介・佐野 直子(訳) 『共通語の世界史 --- ヨーロッパ諸語をめぐる地政学』 白水社,2018年.
連日の記事で,英語の世界的拡大について Trudgill の論考を参照してきた.その最終節で,Trudgill (30) が洞察に満ちた指摘をしている.
Meanwhile, as all the events described above [= the expansion of English] were taking place around the world, back on the island of Britain, where the English language first came into being, Brittonic, the first language ever to be threatened by English, continued to hold its own in the forms of Welsh and Cornish, well over a millennium after contact with Germanic had first begun. Indeed, there were for a long time still parts of the English language's homeland, England, which remained non-English speaking. Some small border areas of England in Herefordshire and Shropshire---Oswestry, for example---remained Welsh-speaking until the middle of the eighteenth century. And Cornish . . . , which had survived the Anglo-Saxon incursions for many centuries, seems to have been lost as a viable native community language only in the late 1700s---although by that time there would have been very few monolingual Cornish speakers for several generations. When it eventually died out, England for the first time finally became a totally English-speaking country: the complete linguistic anglicisation of England had taken 1,300 years.
この4世紀ほどという近代の比較的短い間に,英語がブリテン諸島から羽ばたいて,劇的な世界的拡大を遂げたことを考えるとき,同じ英語がお膝元であるイングランドの完全英語化を達成するのに,5世紀のアングロサクソン人の到来から数えて1300年もかかったというのは,皮肉というほかない.そして,もう1つ平行する皮肉がある.同じこの4世紀ほどという近代の比較的短い間に,イギリスが陽の沈まぬ帝国としての権勢を誇るに至ったことを考えるとき,お膝元であるイングランドは歴史上ブリテン諸島全体を統一したこともなく,目下のスコットランド情勢を見る限り,ブリテン島自体の統一にすら不安を抱えているというのは,皮肉というほかない.21世紀の世界の英語化の可能性を議論する前に,この歴史的事実を踏まえておく必要があるだろう.
引用文で触れられているケルト系言語 Welsh と Cornish については「#1718. Wales における英語の歴史」 ([2014-01-09-1]),「#3742. ウェールズ歴史年表」 ([2019-07-26-1]),「#779. Cornish と Manx」 ([2011-06-15-1]) を参照.
・ Trudgill, Peter. "The Spread of English." Chapter 2 of The Oxford Handbook of World Englishes. Ed. by Markku Filppula, Juhani Klemola, and Devyani Sharma. New York: OUP, 2017. 14--34.
「#1715. Ireland における英語の歴史」 ([2014-01-06-1]),「#2361. アイルランド歴史年表」 ([2015-10-14-1]) の記事で,アイルランドと英語の歴史を概説した.そのウェールズ版について,これまでの記事で「#1718. Wales における英語の歴史」 ([2014-01-09-1]) などは書いてきたが,「ウェールズ歴史年表」はまだ掲げていなかったので,ここに略年表を示そう.以下は,桜井(著)『物語 ウェールズ抗戦史』の巻末の年表 (249--51) より.ウェールズがイングランドに併合される1536年より前までの歴史で,かつ時期によって扱いの濃淡もあるが,簡便で有用な略年表である.
60?61年頃 | イケニ族の女王ボウディッカの反乱 |
410年 | ローマのブリテン島撤退 |
5世紀半ば | アングロサクソン人のブリテン島侵入始まる |
476年 | ローマ帝国(西ローマ帝国)滅亡 |
5世紀終わり?6世紀初め | アンブロシウス・アウレリアヌス率いるブリトン人がベイドンの丘でアングロサクソン人に完勝 |
634年 | グウィネズ王カドワロン,ノーサンブリア王国を征服 |
900?950年 | ハウエル善良王の治世 |
1057年頃 | グリフィズ・アプ・サウェリンの全ウェールズ統一 |
1066年 | ノルマンの征服 |
ノルマン人のウェールズ侵攻開始 | |
1093年 | ノルマン人によるデハイバース王フリース・アプ・テウドゥールの殺害 |
1107?1111年 | フランドル人のウェールズ南西部移住 |
1155年 | フリース・アプ・グリフィズ(ロード・フリース),デハイバース王に即位 |
1174年 | ジェラルド・オブ・ウェールズ,ブレコンの副司教に就任 |
1176年 | ジェラルドの第1回セント・デイヴィッズ司教選挙始まる |
1195年 | グウェンウィンウィン,ポウィス王に即位 |
1198?1203年 | ジェラルドの第2回セント・デイヴィッズ司教選挙 |
1199 | サウェリン・アプ・ヨーワース(大サウェリン),北ウェールズ大公を名乗る |
1218年 | 大サウェリン,イングランドとウースター条約を結ぶ |
1258年 | サウェリン・アプ・グリフィズ(最後のサウェリン),ウェールズ大公を名乗る |
1276?1277年 | 第1次ウェールズ征服戦争 |
1282?1283年 | 第2次ウェールズ征服戦争.ウェールズの政治的独立終わる |
1400年 | オワイン・グリンドール蜂起.ウェールズ大公を名乗る |
1404年 | オワイン,全ウェールズ規模の議会を招集 |
1405年 | オワイン,フランスと同盟 |
1409年 | ハルレッヒ城,陥落.オワインの乱の事実上の終了 |
1412年 | オワイン最後の目撃譚 |
1457年 | ヘンリー・テューダー,南西ウェールズのペンブローク城に生まれる |
1461年 | ペンブローク城,陥落.4歳のヘンリー・テューダー,ヨーク派ウィリアム・ハーバートの保護下に |
1470年 | ウィリアム・ハーバート敗北.ヘンリー・テューダー,叔父のジャスパーと再会 |
1471年 | 14歳のヘンリー・テューダー,ブルターニュ公国に亡命 |
1485年8月 | 28歳のヘンリー・テューダー,フランスから船団を率いてウェールズに戻る.ボズワースの戦いでリチャード3世を斃す |
1485年10月 | ヘンリー・テューダー,ヘンリー7世としてイングランド国王に即位 |
歴史的に,アングロサクソン人とケルト人の関係は征服者と被征服者の関係である.通常,水が下から上に流れることがないように,原則としてケルト語から英語への語彙の流入もなかった.小規模な語彙の流入があったとしても,あくまで例外的とみるべきである.
「#1216. 古英語期のケルト借用語」 ([2012-08-25-1]) で示したものと重なるが,大槻・大槻 (58) より,アングロサクソン時代に英語に借用され,かつ現在まで生き残っているものを挙げると,bin (basket), dun (gray), ass (ass < Latin asinus) 程度のものである.また,ケルトのキリスト教を経由して英語に入ってきたものとしては clugge (bell), drȳ (magician) などがある.
中英語期以降にも散発的にケルト諸語からの借用がみられた.以下,世紀別にいくつか挙げてみよう(W = Welsh, G = Scottish Gaelic, Ir = Irish) .質も量も地味である.
・ 14世紀: crag 絶壁 (G/Ir), flannel フランネル (W), loch 湖 (G).
・ 15世紀: bard 吟遊詩人 (G), brog 小錐 (Ir), clan 氏族 (G), glen 峡谷 (G).
・ 16世紀: brogue 地方訛り (Ir/G), caber 丸太棒 (G), cairn ケルン (G), coracle かご船 (W), gillie 高地族長の従者 (G), plaid 格子縞の肩掛け (G), shamrock シロツメクサ (Ir), slogan スローガン (G), whisky ウィスキー (G), usquebaugh ウィスキー.
・ 17世紀: dun こげ茶の (G/Ir), tory トーリー党 (Ir), leprechaun レプレホーン (Ir).
・ 18世紀: claymore 諸刃の剣 (G).
・ 19世紀: colleen 少女 (Ir), ceilidh 集い (Ir/G), hooligan ちんぴら(Ir).
・ 20世紀: corgi コーギー犬 (W).
(W).
以上,大槻・大槻 (58--59) に拠った.関連して「#2443. イングランドにおけるケルト語地名の分布」 ([2016-01-04-1]),「#2578. ケルト語を通じて英語へ借用された一握りのラテン単語」 ([2016-05-18-1]) を参照.
・ 大槻 博,大槻 きょう子 『英語史概説』 燃焼社,2007年.
「#3100. イングランド宗教改革による英語の地位の向上の負の側面」 ([2017-10-22-1]) で,16世紀のイングランド宗教改革により,アイルランド,ウェールズ,コーンウォルでは英語の権威は高まったが,ケルト諸語の地位は落ちたと述べた.一方,ウェールズに関しては,「#1718. Wales における英語の歴史」 ([2014-01-09-1]) でみたように,聖書と祈祷書がウェールズ語に翻訳されたため,ウェールズ語がある程度保持される結果となったとも述べた.ウェールズ語については,宗教改革の影響により地位が貶められたのか,保持されたのか,どちらなのだろうか.やや複雑なウェールズの状況について,平田 (27) が明快に解説している.
宗教関係では,ロンドンの政府は一五六三年に「聖書および祈祷書をウェールズ語に翻訳する法律」を通過させて,聖書と祈祷書をウェールズ語に翻訳させた.これは,言語から見ると諸刃の剣となった.すなわち,一方では,ウェールズ語の保持に貢献したが,その半面で,ウェールズ語は宗教の言語と見なされて,政治の世界から締め出されることになった.それは重要性を持たない言語として,農村部の小作人に残存することになった.
つまり,一六世紀のウェールズ統治において,ウェールズ語の聖書と祈祷書により,ウェールズ人をイングランド国教会にとどめておく「国教会の政治学」が,英語を広める「英語の政治学」よりも優先していたのである.その結果,宗教儀式ではウェールズ語が使用され,この言語の存続が助長された.聖書や祈祷書の翻訳,イングランド国教会としての説教を現地語で説教できる牧師の派遣を維持することによって,皮肉なことに,抑圧するつもりだった現地語の威信が保たれた.これはイングランド側からは「歴史的失態」と呼ばれる.ウェールズ語の残存はこの「歴史的失態」に依っていた.要するに,宗教改革は,ウェールズ語の聖書をウェールズ人に与え,次の三世紀間,ウェールズ語は宗教の領域で維持された.
つまり,宗教改革を通じて,ウェールズ語は政治の世界からは追い出されたものの,宗教の世界では命脈を保ったということだ.2つの異なる「世界」に分けて考えることで,一見すると矛盾した宗教改革のウェールズ語への影響がクリアに理解できるようになった.
その4世紀後の20世紀中に,ウェールズにおけるウェールズ語の地位はめざましく復活していくことになるが,振り返ってみれば,それは16世紀に上記の経緯でウェールズ語の火を絶やさずに済んだからなのだろう.イングランド側にとって「歴史的失態」とみえる意味がわかる.
・ 平田 雅博 『英語の帝国 ―ある島国の言語の1500年史―』 講談社,2016年.
中英語の語彙借用といえば,まずフランス語が思い浮かび (「#1210. 中英語のフランス借用語の一覧」 ([2012-08-19-1])),次にラテン語が挙がる (「#120. 意外と多かった中英語期のラテン借用語」 ([2009-08-25-1]), 「#1211. 中英語のラテン借用語の一覧」 ([2012-08-20-1])) .その次に低地ゲルマン語,古ノルド語などの言語名が挙げられるが,フランス語,ラテン語の陰でそれほど著しくは感じられない.
しかし,実際のところ,中英語は上記以外の多くの言語とも接触していた.確かにその他の言語からの借用語の数は多くはなかったし,ほとんどが直接ではなく,主としてフランス語を経由して間接的に入ってきた借用語である.しかし,多言語使用 (multilingualism) という用語を広い意味で取れば,中英語イングランド社会は確かに多言語使用社会だったといえるのである.中英語における借用元言語を一覧すると,次のようになる (Crespo (28) の表を再掲) .
LANGUAGES | Direct Introduction | Indirect Introduction |
Latin | --- | |
French | --- | |
Scandinavian | --- | |
Low German | --- | |
High German | --- | |
Italian | through French | |
Spanish | through French | |
Irish | --- | |
Scottish Gaelic | --- | |
Welsh | --- | |
Cornish | --- | |
Other Celtic languages in Europe | through French | |
Portuguese | through French | |
Arabic | through French and Spanish | |
Persian | through French, Greek and Latin | |
Turkish | through French | |
Hebrew | through French and Latin | |
Greek | through French by way of Latin |
昨日の記事「#1741. 言語政策としての罰札制度 (1)」 ([2014-02-01-1]) の続き.昨日の記事では,沖縄の方言札の制度は,近代世界にみられた罰札制度の1例であると述べたが,実際にほかにも近代イギリスにおいて類例が記録されている.ウェールズとスコットランドで英語が浸透していった歴史は「#1718. Wales における英語の歴史」 ([2014-01-09-1]) と「#1719. Scotland における英語の歴史」 ([2014-01-10-1]) の記事で見たが,とりわけ19世紀後半には,公権力による英語の強制と土着言語の抑圧が著しかった.
ウェールズの例からみよう.1846年,イングランド政府はウェールズの教育事情,とりわけ労働者階級の英語習得の実態を調査する委員会を立ち上げた.翌年の3月に,報告書が提出された.この報告書は表紙が青かったので,通称 Blue Books と呼ばれることになったが,ウェールズ人にとって屈辱的な内容を多く含んでいたために The Betrayal (or Infamous, Treason) of Blue Books とも呼称された.中村 (79) より孫引きするが,Blue Books (462) に,Welsh not (or Welsh stick or Welsh) と呼ばれる罰札の記述がある.
The Welsh stick, or Welsh, as it is sometimes called, is given to any pupil who is overheard speaking Welsh, and may be transferred by him to any schoolfellow whom he hears committing a similar offence. It is thus passed from one to another until the close of the week, when the pupil in whose possession the Welsh is found is punished by flogging. Among other injurious effects, this custom has been found to lead children to visit stealthily the houses of their schoolfellows for the purpose of detecting those who speak Welsh to their parents, and transferring to them the punishment due to themselves.
中村 (80) は,同じことがスコットランドのゲーリック語にも適用されていたと述べている(以下,中村による M. Stephens, Linguistic Minorities in Western Europe, Gomer, 1978. p. 63. からの引用).
From the end of the nineteenth century Gaelic faced its most serious challenge --- the use of the States schools to eradicate what one Inspector called 'the Gaelic nuisance' ... The 'maide-crochaich'', a stick on a cord, was used by English-speaking teachers to stigmatise and punish children speaking Gaelic in Class --- a device which was to survive in Lewis as late as the 1930s.
また,中村 (80) は,証明する資料は手元にないとしながらも,アメリカ南西部で1960年代の中頃までスペイン語禁止令があったということにも言及している.
母語の抑圧のための罰札制度は,このように世界の複数の地域にあったことがわかるが,いずれも19世紀後半以降のものであるという点が興味を引く.独立発生した制度ではなく,模倣して導入された制度であると考えたくなるような年代の符合ではある.
・ 中村 敬 『英語はどんな言語か 英語の社会的特性』 三省堂,1989年.
「#1715. Irelandにおける英語の歴史」 ([2014-01-06-1]) に引き続き,Fennell (195--97) よりウェールズにおける英語の歴史を略述する.
Pembrokeshire 南部は,Henry I の時代の1108年に,英語を話すイングランド・フランドル人が植民化した.その証拠に,この地域には英語風の -ton をもつ地名が多い.The Gower Peninsula も中世の時代から英語化されていた.これらの南部地域は他のウェールズ語地域から切り離されて歴史を歩んできたようだ.
一方,中世の北ウェールズでは,スコットランドと同様に勅許自治都市が設けられ,それらの都市を中心に英語を話す市民が交易や商業を営んだ.都市部は英語,農村部はウェールズ語という分布は,中世から近代にかけて連綿と続いた.
16世紀の Tudor 朝はウェールズの併合を狙っており,その戦略の一環として,都市部の言語である英語の権威を法律により確保した.その結果,英語は教育の言語として行き渡ることになった.しかし,最も大きな衝撃は,1536年と1542年の Acts of Union だろう.このイングランドとの連合により,法律や行政における英語使用がウェールズで義務づけられ,Elizabeth I 時代においては英語を学ぶことが出世の機会につながった.宗教関係では,1563年に聖書と礼拝がウェールズ語に翻訳され,これはウェールズ語の保持に貢献したが,その反面ウェールズ語は政治の世界から締め出されることになった.
17--18世紀を通じて,ウェールズの英語化は徐々に進行していった.速度がゆっくりだったのは,個人のバイリンガルこそ増えたものの,英語共同体とウェールズ語共同体が混ざり合うことが少なかったからである.しかし,19世紀は産業革命と教育法 (1881) の効果で,労働者階級も英語を話す機会が増え,英語の威信が高まる一方でウェールズ語は汚名を着せられるようになった.この時代,出稼ぎ労働者がウェールズ南東部へやってきたが,その出身地は当初はウェールズ西部や北部だったものの,じきにイングランドに変わった,1901年までには,イングランド出身者はその2/3以上となっていたという.これにより,南東部の英語の浸透とウェールズ語の衰退が進行した.ウェールズにおいて英語のモノリンガルは1921年で63%,1981年で81%と推移した.現在ではモノリンガルのウェールズ語話者はいない.
現在,ウェールズ語復興の運動が進められており,BBC放送や文学の媒体としてウェールズ語が用いられる機会はあるが,今後どうなるのかは未知数である.
・ Fennell, Barbara A. A History of English: A Sociolinguistic Approach. Malden, MA: Blackwell, 2001.
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow