[2009-05-05-1]の続き.世界全体として確認された症例数をプロットしたらS曲線が観察されたことは述べたが,それでは国ごとの拡大パターンはどうなっているだろうか.WHOによる近況から本日の最新のデータを付け加えて,世界全体,メキシコ,アメリカと三つのグラフを比較してみた.
ここから分かるのは,メキシコにおいて,やはり予想されたS曲線が描かれていることだ.5/1辺りが"take-off"ポイントだろうか.世界全体のS曲線は,多分にメキシコにおけるS曲線が効いている結果だということが観察される.一方,アメリカの状況は漸増であり,今のところ明確なS曲線とはなっていないように思われる.このことは,影響を受けているある特定のカテゴリー(この場合メキシコという国)においてS曲線が観察されると,他のカテゴリーではそうでなくとも,全体としてはS曲線が描かれるということを示唆する.
言語変化のケースでも,全体としてS曲線が描かれるときには,カテゴリー毎に別々のグラフも作成してみる必要があるかも知れない.その中で全体のS曲線に特に貢献しているカテゴリーが見つけられれば,それこそが当該の言語変化の震源だと同定することができる.言語変化を過度に豚インフルエンザと比較することは注意すべきだが, Lexical Diffusion の理論化に際して示唆深い.
参考までに,これまでの豚インフルエンザの数値データを掲げておく.
date | cases | countries | USA | Mexico |
4/24_pm | 15 | 2 | 7 | 18 |
4/25_am | ||||
4/25_pm | ||||
4/26_am | ||||
4/26_pm | 38 | 2 | 20 | 18 |
4/27_am | ||||
4/27_pm | 73 | 4 | 40 | 26 |
4/28_am | ||||
4/28_pm | 105 | 7 | 64 | 26 |
4/29_am | ||||
4/29_pm | 148 | 9 | 91 | 26 |
4/30_am | ||||
4/30_pm | 257 | 11 | 109 | 97 |
5/01_am | 331 | 12 | 109 | 156 |
5/01_pm | 367 | 13 | 141 | 156 |
5/02_am | 615 | 15 | 141 | 397 |
5/02_pm | 658 | 16 | 160 | 397 |
5/03_am | 787 | 17 | 160 | 506 |
5/03_pm | 898 | 18 | 226 | 506 |
5/04_am | 985 | 20 | 226 | 590 |
5/04_pm | 1085 | 21 | 286 | 590 |
5/05_am | 1124 | 21 | 286 | 590 |
5/05_pm | 1490 | 21 | 403 | 822 |
[2009-05-02-1]の記事「pandemicと英語史」で,語彙拡散という考え方を紹介した.流行病が伝播するパターンと言語変化のパターンは似ており,ともに時間軸に対してS曲線を描くというものである.
拡大が懸念されている豚インフルエンザは,2008/05/04(Mon) 現在,日本では疑われる例はないが,16カ国・地域に広がっており,WHOは警戒水準を最高のフェーズ6へ引き上げる可能性を示唆している.韓国では二次感染の疑いが生じているという.
二次感染とはまさに拡大が拡大を呼ぶ契機であり,S曲線でいえば変化のスピードが急勾配になる "take-off" の引き金となりうるものである.そこで,WHOや各国政府は,水際作戦や患者の隔離などあらゆる手段を講じて,この "take-off" を防ごうとしているわけである.
ひるがえって,言語変化のS曲線を考えてみる.言語変化の実際の事例を見てみると,実はS曲線が描かれることは必ずしも多くない.語彙拡散のS曲線はあくまで言語変化の進行パターンの理想的なモデルであり,そこから逸脱する例はいくらでも存在する.むしろ理想的な例は少ないかもしれない.現実には,多くの例で "take-off" が妨げられるのである.それでは,言語の場合,その妨害要因とは一体何なのだろうか.
ある言語変化が理想的なS曲線を描かない場合,大きく分けて四つの考え方があるのではないだろうか.
(1) そもそもその言語変化は語彙拡散流に進行しているのではなく,別のパターンに従っている,あるいはどんなパターンにも当てはめられない
(2) その言語変化は途中で勢いを失い,止まってしまった
(3) ある時点では失速あるいは中止したように見えるだけで,もっと長期的なスパンで見ると,全体としてはS曲線を描く
(4) 進行途中で,逆方向の言語変化や干渉する言語変化が同時に起こったため,本来のパターンが崩される
ほかに可能性があるだろうか(考えがある人は教えてください!).
例えば,中英語において名詞の複数形語尾として-sが拡大する過程は,およそ語彙拡散流のS曲線を描くことがわかっている.しかし,イングランドの South-West Midland 方言などでは,いったん "take-off" したかに思われた曲線ががくっと下がる時代があり,そのあと再び上昇した.つまり,S曲線ならぬN曲線である.
このirregularな変化の背景にあったのは,-s語尾とライバル関係にあった-n語尾(現代英語の oxen や children に見られる)の拡大である.-s語尾だけでなく-n語尾も同時に拡大していたため,互いに競合しあって,理想的なS曲線が現れなかったということになる.つまり,上に挙げたタイプでいえば(4)である.
このような事例をできるだけたくさん集めて,どのタイプが多いのか,あるタイプが起こるときに背後にどのような条件や環境があるのか,を研究する必要がありそうだ.
豚インフルエンザは,人為的な努力で(2)のタイプに落ち着いてほしい・・・.
豚インフルエンザが拡大の兆しを示している.連日新聞などの報道を見ていて,epidemicやpandemicといった流行病は,実は英語史といくつかの点で関連があることを密かに思っていた.
(1) pandemic はギリシャ語の接辞からなる合成語
(2) 中世ヨーロッパの黒死病と英語の復権の関係
(3) 感染病の伝播のパターンは言語変化の進行パターンと似ている点
以上についてこんなPDFスライドを作ってみた.
(3)で示したのは 語彙拡散 ( Lexical Diffusion )という言語変化理論である.疫病学,社会学,経済学,生物学,言語学などで共有しうる新しいモデルで,私が目下とりわけ注目している話題である.今後もこの話題に触れる機会はいろいろとありそう.
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