ヨーロッパでは1300年頃までに,言語の多様性あるいは複数性の認識が定着しつつあった.もちろんそれ以前にもヨーロッパで様々な言葉が流通しているという感覚はあったが,リンガ・フランカたるラテン語が "the language" であるという認識があり,それ以下の種々の俗語 (vernaculars) は,そもそも「言語」の名に値しないと思われていたのである.俗語には俗語という呼称が相応しく,言語と呼びうるのはラテン語だけ,という言語観だった.
しかし,ダンテ (Dante Alighieri; 1265--1321) は早くも俗語の重要性,根本的な破壊力を見抜いていた.ダンテに続く時代は,おりしも教会大分裂 (1378--1417) あり,英仏百年戦争 (1337--1443) ありで,ヨーロッパ諸国家がそれぞれに独自性を主張し始めていた時代だった.伝統的な近代期に至るまでに,まだ少々時間があったが,すでに国家や言語の複数性の認識は芽生えていたばかりか,定着していたのである.この時代において,聖書の伝統的な逸話「バベルの塔」は,ある意味をもち始めていた.互 (45) を引用しよう.
こうした激動が示しているのは,複数の国家が各々の自律性を主張し,時には戦争に至るほど他国との違いに固執するようになったヨーロッパの状況にほかならない.当然,そこには各々の国で話されている言語の違いも含まれていただろう.そうして,複数の言語が存在する,という認識は強化される.その結果,ダンテが到達した,その真の意味は見失われたまま,「バベルの塔」の逸話は「諸言語の発生」を語るものとして流通した.それに呼応するように,十三世紀になると,以前にはほとんど見られなかった「バベルの塔」の図像が現れ,ダンテが『俗語論』を書いた十四世紀以降は劇的に増加していく.そうして言語の複数性を強く意識させられ,「バベル的状況」と呼びうる世界が出現した結果,国家間の抗争と並行して,言語間の優劣争いも激しくなる.
バベル的状況に対する認識は,十五世紀に入ってヨハネス・グーテンベルク(一四〇〇頃--六八年)が活版印刷を開発し,一四五〇年から五六年頃までに「グーテンベルクの聖書」と呼ばれるラテン語の大判聖書を印刷して以降,以前とは比較にならないほど多くの人々に共有されていっただろう.その結果,バベル以前の言語,すなわちアダムが語った「起源の言語」にみずからの言語の正統性を求める欲望もまた激化したはずだ.
言語の多様性と,その多様性のなかで優劣を巡る争いが生じるというのは,いかにも近代的な現象である.前者はポジティブ,後者はネガティブな側面ととらえることができそうだが,先日,ブリューゲルの「バベルの塔」(ボイマンス美術館版)を見て感じたのは,この二面性である.塔の偉容に感じられる人間の技術の粋というポジティブな側面と,塔の上部に懸かる怪しげな暗雲の醸すネガティブな側面.この両義的な雰囲気は,ブリューゲルに2世紀も先立つ時代のヨーロッパに,すでに芽生えていたと考えるべきかもしれない.多様性とは各々の独立性でもあり,それは互いの競合を促すことにもつながる.多様かつ平等というのは,実に難しいことである.
「#2962. ブリューゲル「バベルの塔」はオランダ語の権威づけをもくろんでいたか?」 ([2017-06-06-1]) も参照されたい.
・ 互 盛央 『言語起源論の系譜』 講談社,2014年.
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