ある言語の体系や正書法を「本来非同期的な複数の時のかたちが一瞬出会った断面」ととらえる見解について,美学者・考古学者のクブラー (George Kubler [1912--96]) を引用・参照しながら「#3911. 言語体系は,本来非同期的な複数の時のかたちが一瞬出会った断面である」 ([2020-01-11-1]) の記事で論じた.また,クブラー流の歴史観・時間観に触発されて,他にも「#3083. 「英語のスペリングは大聖堂のようである」」 ([2017-10-05-1]),「#3874. 「英語の正書法はパリのような大都会である」」 ([2019-12-05-1]),「#3912. (偽の)語源的綴字を肯定的に評価する (1)」 ([2020-01-12-1]),「#3913. (偽の)語源的綴字を肯定的に評価する (2)」 ([2020-01-13-1]) の記事を書いてきた.
今回,クブラーの『時のかたち』を読了し,言語がそのなかで変化していく「時間」について,改めて考えを巡らせた.言語変化の速度 (speed_of_change) や言語史における時代区分 (periodisation) に関してインスピレーションを得た部分が大きいので,関連する部分を備忘録的に引用しておきたい.
物質の空間の占め方がそうであるように,事物の時間の占め方は無限にあるわけではない.時間の占め方の種類を分類することが難しいのは,持続する期間に見合った記述方法を見つけ出すことが難しかったからである.持続を記述しようとしても,出来事を,あらかじめ定められた尺度で計測しているうちに,その記述は出来事の推移とともに変化してしまう.歴史学には定められた周期表もなく,型や種の分類もない.ただ太陽時と,出来事を区分けする旧来の方法が二,三あるのみで,時間の構造についての理論は一切なかったのである.
出来事はすべて独自なのだから分類は不可能だとするような非現実的な考え方をとらず,出来事にはその分類を可能とする原理があると考えれば,そこで分類された出来事は,疎密に変化する秩序を持った時間の一部として群生していることがわかる.この集合体のなかには,後続する個々の出来事によってその要件が変化していくような諸問題に対して,漸進的な解決として結びつく出来事が含まれている.その際,出来事が急速に連続すればそれは密な配列となり,多くの中断を伴う緩慢な連続であれば配列は疎となる.美術史ではときおり,一世代,ときには一個人が,ひとつのシークエンスにとどまらず,一連のシークエンス全体のなかで,多くの新しい地位を獲得することがある.その対極として,目前の課題が,解決されないまま数世代,ときには何世紀にもわたって存続することもある.(189--90)
時代とその長さ
こうして,あらゆる事物はそれぞれに異なった系統年代に起因する特徴を持つだけでなく,事物の置かれた時代がもたらす特徴や外観としてのまとまりをも持った複合体となる.それは生物組織も同様である.哺乳類の場合であれば,その血液と神経は生物史(絶対年代)的な見地での歴史が異なっているし,眼と皮膚というそれぞれの組織はその系統年代と異なっている.
事物の持続期間は絶対年代と系統年代というふたつの基準で計測が可能である.そのために歴史的時間は未来から現在を通過して過去へと続く単純な絶対年代の流れに加えて,系統年代という多数の包皮から構成されているとみなすことができる.この包皮は,いずれも,それが包んでいるその内容によって持続時間が決定されるために,その輪郭は多様なものとなるが,大小の異なった形状の系に容易に分類することができる.誰しも自身の生活のなかの同じ行為の初期のやり方と後期のやり方からなるこのようなパターンの存在を見出すことができるが,ここで,個人の時間における微細な形式にまで立ち入るつもりはない.それらは,ほんの数秒の持続から生涯にわたるものまで,個人のあらゆる経験に見出すことができる.しかし,私たちがここで注目したいのは,人の一生より長く,集合的に持続して複数の人数分の時間を生きている形や形式についてである.そのなかで最小の系は入念につくり上げられた毎年の服装の流行である.それは,現代の商業化された生活では服飾産業によるものであり,産業革命以前には宮廷の儀礼によるものであった.そこではこの流行を着こなすことが外見的に最も確かな上流階級の証しだったのである.一方,全宇宙のような大規模な形のまとめ方はごくわずかである.それらは人類の時間を巨視的にとらえた場合にかすかに思い浮かぶ程度のものである.すなわち,西洋文明,アジア文化,あるいは先史,未開,原始の社会などである.そして最大と最小の中間には,太陽暦や十進法にもとづく慣習的な時間がある.世紀という単位の本当の優位性は,おそらく自然現象にも,またそれが何であれ,人為的な出来事のリズムにも対応していないことになるのかもしれない.その例外は,西暦千年紀が近づいたときに終末論的な雰囲気が人々を襲ったことや,フランス革命中に恐怖政治が行われた一七九〇年代との単なる数値の類似が一八九〇年以降に世紀末の無気力感を引き起こしたことぐらいである.(193--95)
私たちは,〔中略〕時間の流れを繊維の束と想定することができる.それぞれの繊維は,活動のための特定の場として必要に応え,繊維の長さは必要とその問題に対する解決の持続に応じてさまざまである.したがって,文化の束は,出来事という繊維状のさまざまな長さの期間で構成される.その長さはたいてい長いのだが,短いものも多数ある.それらはほとんど偶然によって並べられ,意識的な将来への展望や緻密な計画によって並べられることはめったにないのである.(228)
最後の引用にある比喩を言語に当てはめれば,言語体系とは異なる長さからなる繊維の束の断面であるという見方になる.「言語体系」を,その部分集合である「正書法」「音韻体系」「語彙体系」などと置き換えてもよい.これと関連する最も理解しやすい卑近な例として,数語からなる短い1つの英文を考えてみるとよい.その構成要素である各語の語源(由来や初出年代)は互いに異なっており,体現される音形・綴字や,それらを結びつけている文法規則も,各々歴史的に発展してきたものである.この短文は,異なる長さの時間を歩んできた個々の部品から成り立っており,偶然にこの瞬間に組み合わされて,ある一定の意味を創出しているのである.
・ クブラー,ジョージ(著),中谷 礼仁・田中 伸幸(訳) 『時のかたち 事物の歴史をめぐって』 鹿島出版会,2018年.
大母音推移 gvs を扱った最近の本格的な研究書として,Stenbrenden の Long-Vowel Shifts in English, c. 1150--1700: Evidence from Spelling (2016) がある.従来の大母音推移観に修正を迫る野心的な研究だ.もっとも,著者にいわせれば大母音推移の研究ではなく,長母音推移の研究だと主張するだろう.大母音推移と見ないところに,著者のポイントがあるからだ.
Stenbrenden は,「#3552. 大母音推移の5つの問題」 ([2019-01-17-1]) で挙げた「大母音推移」論の問題点とは部分的に重複するかたちでありながらも,独自の視点から5つの方法論上の問題点を指摘している (1--3) .
1つ目は,"functional explanations seem to be teleological, suggesting that languages in a sense know where they are heading and hence resort to chain-shifts to avoid mergers" (2) という,構造言語学的な発想に基づく連鎖的推移 (chain shift) の目的論 (teleology) に対する本質的な批判である.
2つ目は,"push chain", "drag chain", あるいは同時変化といった,推移の順番に関わる従来の説は,各音素の異音変異の広さを軽視してきたという指摘である.音素と異音の関係はもっと複雑なものであり,従来の見方では単純すぎるというわけだ.
3つ目は,"push chain" や "drag chain" という名付けは,あくまで現象を記述しているにすぎず,その現象を説明しているものではない.それにもかかわらず,名付けによってあたかも説明がなされたかのように錯覚してしまっているという問題がある.ラベルが貼り付けられると満足してしまい,一種の思考停止に陥ってしまうという批判だ.
4つ目は,当該の問題は,音声学的な基盤はそっちのけで,ひとえに音韻論(の類型論)の問題としてとらえられてきたという点である.調音,聴覚,韻律,生理といった音声学的なアプローチが欠如していたのではないか.
5つ目は,最適性理論 (Optimality Theory; ot) を始めとする理論的なアプローチは,勘違いしていることが多いのではないかという批判だ.ある理論によって当該の現象をうまく説明できない場合,常識的には理論側に問題があると考えるのが普通だが,しばしば現象のほうがおかしいのではないかという議論に発展することがあるという.これでは本末転倒である.
なかなか手厳しい批判だ.ここで指摘されているのは,「大母音推移の5つの問題」というよりも「大母音推移論の5つの問題」といったほうがよいだろう.
・ Stenbrenden, Gjertrud Flermoen. Long-Vowel Shifts in English, c. 1150--1700: Evidence from Spelling. Cambridge: CUP, 2016.
Aitchison (175--76) が,言語に内在する自己統制機能 (systemic_regulation) を取り上げつつ,言語を庭園に,話者を庭師に喩えている.その上で,この比喩の解釈の仕方には3種類が区別されると述べ,それらを解説している.
[L]anguage has a remarkable instinct for self-preservation. It contains inbuilt self-regulating devices which restore broken patterns and prevent disintegration. More accurately, of course, it is the speakers of the language who perform these adjustments in response to some innate need to structure the information they have to remember.
In a sense, language can be regarded as a garden, and its speakers as gardeners who keep the garden in a good state. How do they do this? There are at least three possible versions of this garden metaphor---a strong version, a medium version, and a weak version.
In the strong version, the gardeners tackle problems before they arise. They are so knowledgeable about potential problems that they are able to forestall them. They might, for example, put weedkiller on the grass before any weeds spring up and spoil the beauty of the lawn. In other words, they practice prophylaxis.
In the medium version, the gardeners nip problems in the bud, as it were. They wait until they occur, but then deal with them before they get out of hand like the Little Prince in Saint-Exupéry's fairy story, who goes round his small planet every morning rooting out baobab trees when they are still seedlings, before they can do any real damage.
In the weak version of the garden metaphor, the gardener acts only when disaster has struck, when the garden is in danger of becoming a jungle, like the lazy man, mentioned by the Little Prince, who failed to root out three baobabs when they were still a manageable size, and faced a disaster on his planet.
続く文脈で Aitchison は,強いヴァージョンの比喩に相当する証拠は見つかっていないことを説き,実際に取り得る解釈は,中間のヴァージョンと弱いヴァージョンの2つだろうと述べている.つまり,庭師は,庭園の秩序を崩壊させる要因の予防にまでは関わらないが,悪弊の芽が小さいうちに摘んでおくということはするし,あるいは秩序が崩壊寸前まで追い込まれた場合に大治療を施すということもする.話者(そして言語)は,予防医学ではなく対症療法を専門とする医師である,と喩えてもよいかもしれない.
言語変化の「予防」と「治療」という観点については,「#837. 言語変化における therapy or pathogeny」 ([2011-08-12-1]),「#835. 機能主義的な言語変化観への批判」 ([2011-08-10-1]),「#546. 言語変化は個人の希望通りに進まない」 ([2010-10-25-1]),「#1979. 言語変化の目的論について再考」 ([2014-09-27-1]),「#2533. 言語変化の "spaghetti junction" (2)」 ([2016-04-03-1]),「#2539. 「見えざる手」による言語変化の説明」 ([2016-04-09-1]) も参照.
・ Aitchison, Jean. Language Change: Progress or Decay. 4th ed. Cambridge: CUP, 2013.
連日の記事で,Joseph の論文 "Diachronic Explanation: Putting Speakers Back into the Picture" を参照・引用している (cf. 「#3324. 言語変化は霧のなかを這うようにして進んでいく」 ([2018-06-03-1]),「#3326. 通時的説明と共時的説明」 ([2018-06-05-1]),「#3327. 言語変化において話者は近視眼的である」 ([2018-06-06-1])) .言語変化(論)についての根本的な問題を改めて考え直させてくれる,優れた論考である.
今回は,Joseph より印象的かつ意味深長な箇所を,備忘のために何点か引き抜いておきたい.
[T]he contact is not really between the languages but is rather actually between speakers of the languages in question . . . . (129)
これは言われてみればきわめて当然の発想に思われるが,言語学全般,あるいは言語接触論においてすら,しばしば忘れられている点である.以下の記事も参照.「#1549. Why does language change? or Why do speakers change their language?」 ([2013-07-24-1]),「#1168. 言語接触とは話者接触である」 ([2012-07-08-1]),「#2005. 話者不在の言語(変化)論への警鐘」 ([2014-10-23-1]),「#2298. Language changes, speaker innovates.」 ([2015-08-12-1]) .
次に,バルカン言語圏 (Balkan linguistic_area) における言語接触を取り上げながら,ある忠告を与えている箇所.
. . . an overemphasis on comparisons of standard languages rather than regional dialects, even though the contact between individuals, in certain parts of the Balkans at least, more typically involved nonstandard dialects . . . (130)
2つの言語変種の接触を考える際に,両者の標準的な変種を念頭に置いて論じることが多いが,実際の言語接触においてはむしろ非標準変種どうしの接触(より正確には非標準変種の話者どうしの接触)のほうが普通ではないか.これももっともな見解である.
話題は変わって,民間語源 (folk_etymology) が言語学上,重要であることについて.
Folk etymology often represents a reasonable attempt on a speaker's part to make sense of, i.e. to render transparent, a sequence that is opaque for one reason or another, e.g. because it is a borrowing and thus has no synchronic parsing in the receiving language. As such, it shows speakers actively working to give an analysis to data that confronts them, even if such a confrontation leads to a change in the input data. Moreover, folk etymology demonstrates that speakers take what the surface forms are --- an observation which becomes important later on as well --- and work with that, so that while they are creative, they are not really looking beyond the immediate phonic shape --- and, in some instances also, the meaning --- that is presented to them. (132)
ここでは Joseph は言語変化における話者の民間語源的発想の意義を再評価するにとどまらず,持論である「話者の近視眼性」と民間語源とを結びつけている.「#2174. 民間語源と意味変化」 ([2015-04-10-1]),「#2932. salacious」 ([2017-05-07-1]) も参照.
次に,話者の近視眼性と関連して,再分析 (reanalysis) が言語の単純化と複雑化にどう関わるかを明快に示した1文を挙げよう.
[W]hen reanalyses occur, they are not always in the direction of simpler grammars overall but rather are often complicating, in a global sense, even if they are simplificatory in a local sense.
言語変化の「単純化」に関する理論的な話題として,「#928. 屈折の neutralization と simplification」 ([2011-11-11-1]),「#1839. 言語の単純化とは何か」 ([2014-05-10-1]),「#1693. 規則的な音韻変化と不規則的な形態変化」 ([2013-12-15-1]) を参照されたい.
最後に,言語変化の共時的説明についての引用を挙げておきたい.言語学者は共時的説明に経済性・合理性を前提として求めるが,それは必ずしも妥当ではないという内容だ.
[T]he grammars linguists construct . . . ought to be allowed to reflect uneconomical "solutions", at least in diachrony, but also, given the relation between synchrony and diachrony argued for here, in synchronic accounts as well.
・ Joseph, B. D. "Diachronic Explanation: Putting Speakers Back into the Picture." Explanation in Historical Linguistics. Ed. G. W. Davis and G. K. Iverson. Amsterdam: Benjamins, 1992. 123--44.
「#3324. 言語変化は霧のなかを這うようにして進んでいく」 ([2018-06-03-1]) で,言語変化において話者が近視眼的であることに触れた.言語変化をなしている話者当人の言語的視野は狭く,あくまで目先の効果しか見えていない.広範な影響や体系的な衝撃などには及びもつかない.つまり,言語を変化させるという話者の行動は,ほぼ完全に非目的論的であるということだ.
Joseph (128) はこの話者の近視眼性を繰り返し主張しつつ,逆に遠視眼的な言語変化論を批判している.例えば,長期間の複数世代にわたる言語変化を説明すべく提案されてきた言語年代学 (cf. 「#1128. glottochronology」 ([2012-05-29-1])) のような方法論は,受け入れられないとする.というのは,言語年代学では,実際の話者が決して取ることのない汎時的な観点を前提としているからである.例えば,2018年の時点に生きているある英語話者が,向こう千年の間に,どれだけの英単語を別の単語で置き換えなければ言語年代学の規定する置換率に達しないかなどということは,考えてもみないはずだからである.言語年代学の置換率は経験的に導き出された値ではあるが,それをゴールに据えた時点で,目的論的な言語変化論へと化してしまう.
英語を含め印欧諸語に数千年にわたって生じているとされる屈折の水平化という駆流 (drift) についても同様である.何世代にもわたり,一定方向に言語が変化しているようにみえるからといって,個々の話者が遠視眼的な観点から言語を変化させていると考えるのは間違いである.そうではなく,個々の話者は近視眼的な観点から言語行動をなしているにすぎず,それがあくまで集合的に作用した結果として,言語変化が一定方向へと押し進められると理解すべきだろう.
これは,Keller の唱える,言語変化に作用する「見えざる手」 (invisible_hand) の理論にほかならない.「#2539. 「見えざる手」による言語変化の説明」 ([2016-04-09-1]) も要参照.
・ Joseph, B. D. "Diachronic Explanation: Putting Speakers Back into the Picture." Explanation in Historical Linguistics. Ed. G. W. Davis and G. K. Iverson. Amsterdam: Benjamins, 1992. 123--44.
・ Keller, Rudi. "Invisible-Hand Theory and Language Evolution." Lingua 77 (1989): 113--27.
言語変化,とりわけ統語変化の進行の仕方について,言語学を分かりやすく紹介してくれることで定評のある Aitchison (100) が次のように要約している.
Syntactic change typically creeps into a language via optional stylistic variants. Particular lexical items provide a toehold. The change tends to become widely used via ambiguous structures. One or some of these get increasingly preferred, and in the long run the dispreferred options fade away through disuse. Mostly, speakers are unaware that such changes are taking place. Overall, all changes, whether phonetic/phonological, morphological, or syntactic, take place gradually, and also spread gradually. There is always fluctuation between the old and the new. Then the changes tend to move onward and outward, becoming the norm among one group of speakers before moving on to the next.
言語変化は,非常にゆっくりと進行するために,それが生じている世代の話者にとってすら案外気づかないものである.新旧両形が共存する期間には,「#3318. 言語変化の最中にある新旧変異形を巡って」 ([2018-05-28-1]) で述べたように,両者のあいだに何らかの含蓄的意味や使用域の違いが意識されることもあるが,さほど意識されずに,事実上ただの「揺れ」 (fluctuation) として現われることも多い.言語変化は語彙を縫って進むかのように体系内で伝播していく一方で,言語共同体の内部でもある話者から別の話者へと伝播していく (lexical_diffusion) .言語変化は creep (這う)ように進むという比喩は,言い得て妙である.
また,別の箇所で Aitchison (107) は,Joseph (140) を引用しながら,言語変化のローカル性,あるいは近視眼性に言及している.
[S]peakers in the process of using --- and thus of changing --- their language often act as if they were in a fog, by which is meant not that they are befuddled but that they see clearly only immediately around them, so to speak, and only in a clouded manner farther afield. They thus generalize only 'locally' . . . and not globally over vast expanses of data, and they exercise their linguistic insights only through a small 'window of opportunity' over a necessarily small range of data.
個々の話者は,大きな流れのなかにある言語変化の目的や結果は見えておらず,近視眼的に行動しているだけである.言語変化の「見えざる手」 (invisible_hand) の理論や目的論 (teleology) の話題にも直結する見解である.
標記のように,「言語変化は霧のなかを這うようにして進んでいく」ものなのだろう.
・ Aitchison, Jean. Language Change: Progress or Decay. 4th ed. Cambridge: CUP, 2013.
・ Joseph, B. D. "Diachronic Explanation: Putting Speakers Back into the Picture." Explanation in Historical Linguistics. Ed. G. W. Davis and G. K. Iverson. Amsterdam: Benjamins, 1992. 123--44.
言語の歴史における偏流 (drift) と,文法化 (grammaticalisation) が主張する言語変化の一方向性 (unidirectionality) は互いに関係の深い概念のように思われる.両者の関係について「#685. なぜ言語変化には drift があるのか (1)」 ([2011-03-13-1]),「#1971. 文法化は歴史の付帯現象か?」 ([2014-09-19-1]) でも触れてきたが,今回は Hopper and Traugott の議論を通じてこの問題を考えてみたい.
Sapir が最初に偏流と呼んだとき,念頭にあったのは,英語における屈折の消失および迂言的表現の発達のことだった.いわゆる「総合から分析へ」という流れのことである (cf. synthesis_to_analysis) .後世の研究者は,これを類型論的な意味をもつ大規模な言語変化としてとらえた.つまり,ある言語の文法が全体としてたどる道筋としてである.
一方,文法化の文脈でしばしば用いられる一方向性とは,ある言語における全体的な変化について言われることはなく,特定の文法構造がたどるとされる道筋についての概念・用語であり,要するにもっと局所的な意味合いで使われるということだ.
Drift has to do with regularization of construction types within a language . . ., unidirectionality with changes affecting particular types of construction. (Hopper and Traugott 100)
偏流と一方向性は,全体的か局所的か,大規模か小規模か,構文タイプの規則化に関するものか個々の構文タイプの変化に関するものかという観点から,互いに異なるものとしてとらえるのがよさそうだ.「一方向性」という用語が用いられるときには,日常用語としてではなく,たいてい文法化という言語変化理論上の術語として用いられということを意識していないと,勘違いする可能性があるので要注意である.
・ Hopper, Paul J. and Elizabeth Closs Traugott. Grammaticalization. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
ドーキンスの名著『盲目の時計職人』(原題 The Blind Watchmaker (1986))は,(ネオ)ダーウィニズムの最右翼の書である.言語変化論にとって生物の進化と言語の進化・変化の比喩がどこまで有効かという問題は決定的な重要性をもっており,私も興味津々なのだが,比喩の有用性と限界の境目を見定めるのは難しい.
ドーキンスの上掲書を通読するかぎり,言語に直接・間接に応用可能な箇所を指摘すれば,3点あるように思われる.(1) 非目的論 (teleology) の原理,(2) 言語の分岐と分類,(3) 意味の漂白化と語彙的充填だ.今回は (1) の非目的論について考えてみたい.
ドーキンス (24--25) は,生物進化の無目的性,すなわち「盲目の時計職人」性について次のように明言している.言語の進化・変化についても,そのまま当てはまると考える.
自然界の唯一の時計職人は,きわめて特別なはたらき方ではあるものの,盲目の物理的な諸力なのだ.本物の時計職人の方は先の見通しをもっている.心の内なる眼で将来の目的を見すえて歯車やバネをデザインし,それらを相互にどう組み合わせるかを思い描く.ところが,あらゆる生命がなぜ存在するか,それがなぜ見かけ上目的をもっているように見えるかを説明するものとして,ダーウィンが発見しいまや周知の自然淘汰は,盲目の,意識をもたない自動的過程であり,何の目的ももっていないのだ.自然淘汰には心もなければ心の内なる眼もありはしない.将来計画もなければ,視野も,見通しも,展望も何もない.もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら,それは盲目の時計職人なのだ.
言語変化も,その言語の話者が担っているには違いないが,その話者の演じるところはあくまで無目的の「盲目の時計職人」であると考えられる.確かに,話者はその時々の最善のコミュニケーションのために思考し,言葉を選び,それを実際に発しているかもしれない.それはその通りなのだが,後にそれが帰結するかもしれない言語変化について,すでにその段階で話者が何かを目論んでいるとは思えない.言語変化はそのように予定されているものではなく,その意味において無目的であり,盲目なのである.本当は,個々の話者は「盲目の時計職人」すら演じているわけではなく,結果的に「時計職人」ぽく,しかも「盲目の時計職人」ぽく見えるにすぎないのだろう.
言語変化における目的論に関わる諸問題については,teleology の各記事を参照されたい.
・ ドーキンス,リチャード(著),中嶋 康裕・遠藤 彰・遠藤 知二・疋田 努(訳),日高 敏隆(監修) 『盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か?』 早川書房,2004年.
「#2867. 言語変化の偶然と必然」 ([2017-03-03-1]) で論じた話題だが,九鬼周造の『偶然性の問題』を読んで,改めてこの問題について考えてみた.
偶然と必然は明らかに対立する概念である.しかし,私たちはときに「偶然の必然」や「必然的偶然」などのオクシモロンを口にする.なぜこのような矛盾した表現が可能なのだろうか.
九鬼 (74) によれば,因果的必然性と目的的偶然性は結びつきやすく,因果的偶然性と目的的必然性は結びつきやすい.つまり「異種結合」が起こりやすいという.
およそ機械観はその徹底した形においては因果的必然性のみより認めない.従って因果的偶然性の存在の余地はない.しかし,目的的必然性を否定し,その結果として,目的的偶然性を承認する.自然科学的世界観はこの傾向を代表している.それに反して,目的観が徹底的な形を取った場合には,目的的必然性によってのみ一切を説明しようとする.従って目的的偶然性は存在しない.その代りに,因果的必然性の否定の結果として,因果的偶然性は存在することができる.基督教神学が神の意志によってすべてを説明する場合,因果的偶然を意味する奇蹟の存在を認めるのはこの関係に基いている.この意味において,因果的必然性は目的的偶然性と結合しやすく,目的的必然性は因果的偶然性と結合しやすい.「偶然の必然」というような逆説的の語はこういう結合の可能性に基づいたものである.
つまり,ある現象が「必然でもあり偶然でもある」という言い方の1つの解釈は,それが因果的には必然だが目的的には偶然であるということだろう.この異種結合の解釈は,目的論 (teleology) ではなく機械論 (mechanism) の立場の解釈である.したがって,機械論的に理解すれば,言語変化もまた「必然でもあり偶然でもある」現象なのである.
この異種結合と関連して,九鬼 (244) が別の箇所で「偶然と運命」について論考している(以下,原著の傍点は下線で置き換えた).
偶然に対する形而上的驚異は運命に対する驚異の形を取ることがある.偶然が人間の実存性にとって核心的全人格的意味を有つとき,偶然は運命と呼ばれるのである.そうして運命としての偶然性は,必然性との異種結合によって,「必然―偶然者」の構造を示し,超越的威力をもって厳として人間の全存在性に臨むのである.
この考え方によれば,運命とは,ある人にとって「核心的全人格的意味」をもつ,因果的には必然だが目的的には偶然である現象と理解できるだろう.平たくいえば,人にとってきわめて重要な結果がもたらされた場合,本当は目的論的に偶然であったとしても,あたかも目的論的に必然であるかのようにとらえてしまう傾向があり,それを運命と呼びたがるということだ.
言語変化において,ときに運命と表現されることもある drift (偏流)について,この観点から考えてみるとおもしろい.印欧語族では数千年の間,屈折の衰退という drift が続いているとされるが,その駆動力の源泉が何であるかについては明確な出されていない.したがって,これをある種の運命であるととらえる論者がいる.そのような論者は,drift を印欧語族にとって「核心的全人格的意味」をもつものと信じており,それゆえに目的論的に必然の現象であるかのように感じて,運命と呼んでいるのではないか.つまり,drift という現象に多大な価値をおいているからこそ,ひょっとすると偶然の出来事にすぎないものを,運命という大仰な名前で,驚異をもって呼びたくなるのではないか.
言語変化の偶然,必然,運命の問題については,invisible_hand や spaghetti_junction の考え方も参照されたい.
・ 九鬼 周造 『偶然性の問題』 岩波書店,2012年.
昨日の記事 ([2018-01-18-1]) に引き続き,ドーキンスのミーム論について.先の記事で言語をミームと捉える視点を導入したが,注意すべきは,ここに目的論 (teleology) は一切含まれていないことだ.ドーキンスの説を目的論と結びつけるのは,「利己的な遺伝子」 (selfish genes) というキーワードがしばしば引き起こしてきた誤解である.同説を言語に応用する場合にも,この点には気をつけておかなければならない.ドーキンスも何度となく念押ししているが,ミームに関する箇所から引用しよう (303--04) .
ミームと遺伝子の類似点をもっと調べてみることにしよう.本書の全体を通じて私は,遺伝子を,意識をもつ目的志向的な存在と考えてはならないと強調してきた.しかし,遺伝子は,盲目的な自然淘汰のはたらきによって,あたかも目的をもって行動する存在であるかのように仕立てられている.そこで,ことばの節約という立場からは,目的意識を前提にした表現を遺伝子に当てはめてしまったほうが便利だというわけだった.たとえば,「遺伝子は,将来の遺伝子プールの中における自分のコピーの数を増やそうと努力している」と表現した場合,実際の意味は「われわれが自然界においてその効果を目にすることができる遺伝子は,将来の遺伝子プール中における自分の数を結果的に増加させることのできるような挙動を示す遺伝子だろう」ということなのだ.自己の生存のために目的志向的にはたらく能動的な存在として遺伝子を考えることが便利だったのとまったく同様に,ミームに関しても同じように考えれば便利なのではあるまいか.いずれの場合も,表現を神秘的に解釈されては困る.目的の観念はいずれにおいても単なる比喩にすぎないのだ.しかし,遺伝子の場合にこの比喩がどんなに有用だったかはすでに見たとおりである.われわれは,それが単なる比喩であることを十分承知した上で,遺伝子に対して,「利己的な」とか「残忍な」とかいう形容詞をさえ用いたほどである.これらの場合とまったく同じ心構えで,利己的なミームや残忍なミームを物色することができるだろうか.
ドーキンスは最後の自問に,Yes だろうと答えている.ミームは意識も先見能力ももたない自己複製子であり,あくまで非目的論的な存在である.したがって,ミームとしての言語を想定するならば,それもまた非目的論的に振る舞うだろうと推測される.
言語変化における teleology については,「#835. 機能主義的な言語変化観への批判」 ([2011-08-10-1]),「#1382. 「言語変化はただ変化である」」 ([2013-02-07-1]),「#2525. 「言語は変化する,ただそれだけ」」 ([2016-03-26-1]),「#1979. 言語変化の目的論について再考」 ([2014-09-27-1]),「#2837. 人類史と言語史の非目的論」 ([2017-02-01-1]) などを参照.
・ ドーキンス,リチャード(著),日高 敏隆・岸 由二・羽田 節子・垂水 雄二(訳) 『利己的な遺伝子』増補新装版 紀伊國屋書店,2006年.
生物観に革命を起こしたリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』 (1976年)は,生物における遺伝子 (gene) に対応するものが,人間の文化にも存在するとして,人文科学にも強烈なインパクトを与えてきた.言語は文化の最たるものであるから,ドーキンスの説は言語観にも影響を及ぼしている.実際,ドーキンスには言語について触れている箇所がある (291--92) .
人間をめぐる特異性は,「文化」という一つのことばにほぼ要約できる.もちろん,私は,このことばを通俗的な意味でではなく,科学者が用いるさいの意味で使用しているのだ.基本的には保守的でありながら,ある種の進化を生じうる点で,文化的伝達は遺伝的伝達と類似している.ジェフリー・チョーサーは,連綿と続く約二〇世代ほどの英国人を仲立ちとして,現代英国人と結びつきをもっている.仲立ちとなっているそれぞれの世代の人々は,ごく身近な世代の人々となら,息子が父親と話をする場合のように互いに話ができたはずだ.しかし,チョーサーと現代英国人との間で会話を交すのは不可能にちがいない.言語は,非遺伝的な手段によって「進化」するように思われ,しかも,その速度は,遺伝的進化より格段に速いのである.
ドーキンスは,言語を一例とするこのような文化における利己的な自己複製子をミーム (meme) と名付けた.ドーキンスより,この名付けに関する重要な箇所を引用しよう (10) .
私の考えるところでは,新種の自己複製子が最近まさにこの惑星上に登場しているのである.私たちはそれと現に鼻をつき合わせているのだ.それはまだ未発達な状態にあり,依然としてその原始スープの中に不器用に漂っている.しかしすでにそれはかなりの速度で進化的変化を達成しており,遺伝子という古参の自己複製子ははるか後方に遅れてあえいでいるありさまである.
新登場のスープは,人間の文化というスープである.新登場の自己複製子にも名前が必要だ.文化伝達の単位,あるいは模倣の単位という概念を伝える名詞である.模倣に相当するギリシャ語の語根をとれば <mimeme> ということになるが,私のほしいのは <ジーン(遺伝子)> ということばと発音の似ている単音節の単語だ.そこで,このギリシャ語の語根を <ミーム (meme)> と縮めてしまうことにする.私の友人の古典学者諸氏には御寛容を乞う次第だ.もし慰めがあるとすれば,ミームという単語は <記憶 (memory)>,あるいはこれに相当するフランス語の <même> という単語に掛けることができるということだろう.なお,この単語は,「クリーム」と同じ韻を踏ませて発音していただきたい.
言語も(その他の文化現象も)遺伝子と同じく利己的に(しかし非目的論的に)自己複製して進化する実体というわけだ.そして,遺伝子が生物を遺伝子機械たらしめているように,言語というミームも話者である人間をミーム機械たらしめているということになるだろうか.そうすると,言語は確かに人類史上かなり成功しているミームといってよさそうだ.
・ ドーキンス,リチャード(著),日高 敏隆・岸 由二・羽田 節子・垂水 雄二(訳) 『利己的な遺伝子』増補新装版 紀伊國屋書店,2006年.
昨日の記事 ([2017-11-02-1]) に引き続いての話題.カオス理論と言語変化の接点に注目した英語史研究者に Smith がいる.Smith (194) は,言語変化について次のように述べている.
Change . . . is the result of the complex interaction of extralinguistic and intralinguistic developments, and any resulting change itself interacts with further developments to produce yet more change. The conception is therefore a dynamic one . . . .
Smith (195) は,上のように述べた後で,このような多様な側面をもつ言語変化を「カオス理論」で説明され得る現象として提示している.
Such a multifarious conception of language change . . . seems to correspond to the most recent paradigm in both the natural and human sciences: 'chaos-theory'. Chaos-theory is really about order, about the way in which order results from complex interaction. The best-known popular example of this process --- the butterfly stamping in the forest causing a storm a thousand miles away --- is really about how a tiny innovation can make a difference, by interacting with other innovations to produce a snowball effect. If language is a metastable system deployed by interacting innovative and conservative language-users, it does not, in a chaotic world, require or imply some divine plan or overall grand design. Rather, living languages are the result of what Dawkins has called a 'blind watchmaker' effect, whereby order comes out of chaos.
Such an approach is hardly revolutionary, and . . . no claims of special newness are made here.
Smith は,言語変化を,言語に関与する種々の要素の "complex interaction" のたまものとしてとらえている.Smith の言語変化観については,「#1123. 言語変化の原因と歴史言語学」 ([2012-05-24-1]),「#1466. Smith による言語変化の3段階と3機構」 ([2013-05-02-1]),「#1928. Smith による言語レベルの階層モデルと動的モデル」 ([2014-08-07-1]) を参照.上の引用にもある "blind watchmaker" の比喩と関連して,teleology や invisible_hand の記事もどうぞ.
・ Smith, Jeremy J. An Historical Study of English: Function, Form and Change. London: Routledge, 1996.
偶然(及びその対立項としての必然)とは何か,という問いは哲学上の問題だが,言語変化の原因を探る際にも避けて通るわけにはいかない.統計学者・確率論者である竹内による「偶然」に関する新書を読んでみた.
竹内は,「偶然の必然的産物」 (139) という表現に要約されているように,偶然と必然は対立する概念というよりは,むしろ組み合わさって現象を生じさせる連続的な動因であると考えている.例えば,生物進化について「突然変異の起こり方には方向性はないが,自然選択の圧力のもとで,その積み重ねには方向性が生じ」ると述べている (138) .突然変異自体はあくまで「偶然」だが,その偶然を体現したものが何だったのかによって,次の一歩の選択肢が狭まり,ある特定の選択肢が選ばれる確率が高まる.そのように何歩か進んでいくうちに,最終的には選択肢が1つに絞られ,確率が1,すなわち「必然」となる.完全なる「偶然」から出発しながらも,徐々に「方向」が絞られ,ついには「必然」へと連なる,というわけだ.
ある壺に白玉と黒玉を入れる2つの試行を考えてみよう.まず,第1の試行.壺には同数の白玉と黒玉が入っているとする.そこから無作為に1つを取り出し,白玉か黒玉かを記録し,壺に戻す,ということを繰り返す.いずれかの玉が出る確率は,大数の法則により1/2となることは自明である.では次に第2の試行.ここでは,無作為に1つ取り出した後に,それと同じ色のもう1つの玉を加えて壺に戻すということを繰り返してみる.最初の取り出しでいずれの色が出るかの確率は1/2だが,例えばたまたま白玉が出たとして,それを壺に戻す際には,もう1つの白玉も加えた上で戻すので,次の取り出しに際しての確率の計算式は,少しく白玉が有利な式へと変わるだろう.その若干の有利さゆえに実際に次の回に白玉が出たとすると,その次の回にはさらに白玉が有利となるだろう.回を重ねるごとに白玉の有利さは増し,最終的には白玉を取り出す確率は限りなく1に近づいていくはずである.最初は偶然だったものが,最後にはほぼ必然となってしまう例である.
2つの試行から,偶然の蓄積される方法に2種類あることが分かる.1つ目ではいつまでたっても1/2という確率は変わらず,むしろ偶然が純化されていくかのようだ.言い換えれば,エントロピーの増大,あるいは情報量の減少である.一方,2つ目は,最初の偶然により徐々にある方向に偏っていき,最終的に必然に近づいていく.これは,エントロピーの減少,あるいは情報量の増大といえるだろう.竹内 (74) は,次のように述べている.
宇宙のいろいろな局面において,「エントロピー増大の法則」と「情報量増大の法則」がともに働いていると思う.つまり,宇宙には必然性の枠に入らない偶然性というものが存在し,そうして偶然性には大数の法則を成り立たせるような,極限において完全な一様性をもたらす性質のものと,累積することによって情報として働き,一定の環境の下で新たな秩序を作り出すようなものとの二種類がある.前者の偶然性はエントロピーの増大をもたらすが,後者は情報量の増大をもたらすのである.より詳しくいえば,偶然に作り出された新しい秩序が情報システムによって捉えられることによって,安定し維持されることになるのである.
ある現象が偶然でもあり必然でもあるというのは一見すると矛盾しているが,このように考えれば調和する.この見方は,言語変化論にも多くの示唆を与えてくれる.例えば,言語変化の方向性に関する議論に,unidirectionality の問題や invisible_hand や spaghetti_junction と呼ばれる仮説がある(「#2531. 言語変化の "spaghetti junction"」 ([2016-04-01-1]),「#2533. 言語変化の "spaghetti junction" (2)」 ([2016-04-03-1]),「#2539. 「見えざる手」による言語変化の説明」 ([2016-04-09-1]) などを参照).また,言語におけるエントロピーの問題については entropy の各記事で扱ってきたので,そちらも参照.
・ 竹内 啓 『偶然とは何か――その積極的意味』 岩波書店〈岩波新書〉,2010年.
近年,環境問題への意識の高まりから,人類史,地球史,宇宙史といった大きな規模での歴史が関心を呼んでいる.そのような広い視野の歴史からみると,人類の言語の歴史など刹那にすぎないことは,「#751. 地球46億年のあゆみのなかでの人類と言語」 ([2011-05-18-1]) や「#1544. 言語の起源と進化の年表」 ([2013-07-19-1]) でも確認した通りである.しかし,言語史も歴史の一種であるから,より大きな人類史などを参照することで,参考となること,学べることも多い.
解剖学者アリス・ロバーツの『人類20万年 遙かなる旅路』を読んだ.人類が,故郷のアフリカ大陸から世界へ拡散していった過程を「旅路」(原題は The Incredible Human Journey) と呼んでいるが,そこにはある種のロマンチックな響きが乗せられている.しかし,著者の態度は,実際にはロマンチックでもなければ,目的論的でもない.それは,次の文章からも知られる (39) .
祖先たちは何度もぎりぎりの状況をくぐり抜け,最も過酷な環境へも足を踏み入れて生きながらえてきた.その苦難に思いを馳せれば,畏怖と賞賛を感じずにはいられない.アフリカに生まれ,地球全体に住むようになるまでの人類の歩みは,たしかに畏敬の念を起こさせる物語である.
しかし,その旅を,逆境に立ち向かう英雄的な戦いのようにとらえたり,祖先たちが世界中に移住するという目的をもって旅立ったと考えたりするのは,軽率と言えるだろう.よく言われる「人類の旅」とは比喩にすぎず,祖先たちはどこかへ行こうとしたわけではなかった.「旅」や「移住」という言葉は,人類の集団が膨大な年月にわたって地球上を移動した様子を表現するのに便利ではあるが,わたしたちの祖先は積極的に新天地に進出していったわけではない.たしかに彼らは狩猟採集民で,季節に応じて移動していたが,ほとんどの期間,ある場所から他の場所へあえて移ることはなかった.人類であれ動物であれ個体数が増えれば周囲に拡散するというただそれだけのことだったのだ.
数百万年におよぶ人類の拡散を,抽象的な意味において「旅」や「移住」と呼ぶことはできるだろう.しかし,祖先たちはどこかを目指したわけでもなければ,英雄に導かれたわけでもなかった.環境の変化に押されてではあったとしても,人類という種が生きのびてきたことに,わたしたちは畏怖を覚え,祖先たちの発明の才と適応力に驚きを感じるが,彼らがあなたやわたしと同じ,普通の人間だったということを忘れてはならない.
この文章は,「人類」をおよそ「言語」に置き換えても成り立つ.人類の発展の経路が最初から決まっていたわけではないのと同様に,言語の歴史の経路も既定路線ではなく,一時ひととき,非目的論的な変化を続けてきただけである.言語とて「積極的に新天地に進出していったわけではない」.個々の言語の「適応力に驚きを感じる」のは確かだが,いずれも「普通の」言語だったということを忘れてはならない.
・ アリス・ロバーツ(著),野中 香方子(訳) 『人類20万年 遙かなる旅路』 文芸春秋,2013年.
[2010-07-03-1], [2016-04-13-1]に引き続き標題について.言語変化に対する3つの立場について,過去の記事で Aitchison と Brinton and Arnovick による説明を概観してきたが,Aitchison 自身のことばで改めて「言語堕落観」「言語進歩観」「言語無常観(?)」を紹介しよう.
In theory, there are three possibilities to be considered. They could apply either to human language as a whole, or to any one language in particular. The first possibility is slow decay, as was frequently suggested in the nineteenth century. Many scholars were convinced that European languages were on the decline because they were gradually losing their old word-endings. For example, the popular German writer Max Müller asserted that, 'The history of all the Aryan languages is nothing but gradual process of decay.'
Alternatively, languages might be slowly evolving to more efficient state. We might be witnessing the survival of the fittest, with existing languages adapting to the needs of the times. The lack of complicated word-ending system in English might be sign of streamlining and sophistication, as argued by the Danish linguist Otto Jespersen in 1922: 'In the evolution of languages the discarding of old flexions goes hand in hand with the development of simpler and more regular expedients that are rather less liable than the old ones to produce misunderstanding.'
A third possibility is that language remains in substantially similar state from the point of view of progress or decay. It may be marking time, or treading water, as it were, with its advance or decline held in check by opposing forces. This is the view of the Belgian linguist Joseph Vendryès, who claimed that 'Progress in the absolute sense is impossible, just as it is in morality or politics. It is simply that different states exist, succeeding each other, each dominated by certain general laws imposed by the equilibrium of the forces with which they are confronted. So it is with language.'
Aitchison は,明らかに第3の立場を採っている.先日,「#2531. 言語変化の "spaghetti junction"」 ([2016-04-01-1]) や「#2533. 言語変化の "spaghetti junction" (2)」 ([2016-04-03-1]) で Aitchison による言語変化における spaghetti_junction の考え方を紹介したように,Aitchison は言語変化にはある種の方向性や傾向があることは認めながらも,それは「堕落」とか「進歩」のような道徳的な価値観とは無関係であり,独自の原理により説明されるべきであるという立場に立っている.現在,多くの歴史言語学者が,Aitchison に多かれ少なかれ似通ったスタンスを採用している.
・ Aitchison, Jean. Language Change: Progress or Decay. 3rd ed. Cambridge: CUP, 2001.
一昨日の記事 ([2016-04-01-1]) に引き続き,"spaghetti junction" について.今回は,この現象に関する Aitchison の1989年の論文を読んだので,要点をレポートする.
Aitchison は,パプアニューギニアで広く話される Tok Pisin の時制・相・法の体系が,当初は様々な手段の混成からなっていたが,時とともに一貫したものになってきた様子を観察し,これを "spaghetti junction" の効果によるものと論じた.Tok Pisin に見られるこのような体系の変化は,関連しない他のピジン語やクレオール語でも観察されており,この類似性を説明するのに2つの対立する考え方が提起されているという.1つは Bickerton などの理論言語学者が主張するように,文法に共時的な制約が働いており,言語変化は必然的にある種の体系に終結する,というものだ.この立場は,言語的制約がヒトの遺伝子に組み込まれていると想定するため,"bioprogram" 説と呼ばれる.もう1つの考え方は,言語,認知,コミュニケーションに関する様々な異なる過程が相互に作用した結果,最終的に似たような解決策が選ばれるというものだ.この立場が "spaghetti junction" である.Aitchison (152) は,この2つ目の見方を以下のように説明し,支持している.
This second approach regards a language at any particular point in time as if it were a spaghetti junction which allows a number of possible exit routes. Given certain recurring communicative requirements, and some fairly general assumptions about language, one can sometimes see why particular options are preferred, and others passed over. In this way, one can not only map out a number of preferred pathways for language, but might also find out that some apparent 'constraints' are simply low probability outcomes. 'No way out' signs on a spaghetti junction may be rare, but only a small proportion of possible exit routes might be selected.
Aitchison (169) は,この2つの立場の違いを様々な言い方で表現している."innate programming" に対する "probable rediscovery" であるとか,言語の変化の "prophylaxis" (予防)に対する "therapy" (治療)である等々(「予防」と「治療」については,「#1979. 言語変化の目的論について再考」 ([2014-09-27-1]) を参照).ただし,Aitchison は,両立場は相反するものというよりは,相補的かもしれないと考えているようだ.
"spaghetti junction" 説に立つのであれば,今後の言語変化研究の課題は,「選ばれやすい道筋」をいかに予測し,説明するかということになるだろう.Aitchison (170) は,論文を次のように締めくくっている.
A number of principles combined to account for the pathways taken, principles based jointly on general linguistic capabilities, cognitive abilities, and communicative needs. The route taken is therefore the result of the rediscovery of viable options, rather than the effect of an inevitable bioprogram. At the spaghetti junctions of language, few exits are truly closed. However, a number of converging factors lead speakers to take certain recurrent routes. An overall aim in future research, then, must be to predict and explain the preferred pathways of language evolution.
このような研究の成果は言語の発生と初期の発達にも新たな光を当ててくれるかもしれない.当初は様々な選択肢があったが,後に諸要因により「選ばれやすい道筋」が採用され,現代につながる言語の型ができたのではないかと.
・ Aitchison, Jean. "Spaghetti Junctions and Recurrent Routes: Some Preferred Pathways in Language Evolution." Lingua 77 (1989): 151--71.
2日間にわたる標題の記事 ([2016-03-28-1], [2016-03-29-1]) についての第3弾.今回は,evolution の第3の語義,現在の生物学で受け入れられている語義が,いかに言語変化論に応用されうるかについて考える.McMahon (334) より,改めて第3の語義を確認しておこう.
the development of a race, species or other group ...: the process by which through a series of changes or steps any living organism or group of organisms has acquired the morphological and physiological characters which distinguish it: the theory that the various types of animals and plants have their origin in other preexisting types, the distinguishable differences being due to modifications in successive generations.
現在盛んになってきている言語における evolution の議論の最先端は,まさにこの語義での evolution を前提としている.これまでの2回の記事で見てきたように,19世紀から20世紀の後半にかけて,言語学における evolution という用語には手垢がついてしまった.言語学において,この用語はダーウィン以来の科学的な装いを示しながらも,特殊な価値観を帯びていることから否定的なレッテルを貼られてきた.しかし,それは生物(学)と言語(学)を安易に比較してきたがゆえであり,丁寧に両者の平行性と非平行性を整理すれば,有用な比喩であり続ける可能性は残る.その比較の際に拠って立つべき evolution とは,上記の語義の evolution である.定義には含まれていないが,生物進化の分野で広く受け入れられている mutation, variation, natural selection, adaptation などの用語・概念を,いかに言語変化に応用できるかが鍵である.
McMahon (334--40) は,生物(学)と言語(学)の(非)平行性についての考察を要領よくまとめている.互いの異同をよく理解した上であれば,(歴史)言語学が(歴史)生物学から学ぶべきことは非常に多く,むしろ今後期待のもてる領域であると主張している.McMahon (340) の締めくくりは次の通りだ.
[T]he Darwinian theory of biological evolution, with its interplay of mutation, variation and natural selection, has clear parallels in historical linguistics, and may be used to provide enlightening accounts of linguistic change. Having borrowed the core elements of evolutionary theory, we may then also explore novel concepts from biology, such as exaptation, and assess their relevance for linguistic change. Indeed, the establishment of parallels with historical biology may provide one of the most profitable future directions for historical linguistics.
生物(学)と言語(学)の(非)平行性の問題については「#807. 言語系統図と生物系統図の類似点と相違点」 ([2011-07-13-1]) も参照されたい.
昨日の記事 ([2016-03-28-1]) に引き続き,言語変化論における evolution の解釈について.今回は evolution の目的論 (teleology) 的な含意をもつ第2の語義,"A series of related changes in a certain direction" に注目したい.昨日扱った語義 (1) と今回の語義 (2) は言語変化の方向性を前提とする点において共通しているが,(1) が人類史レベルの壮大にして長期的な価値観を伴った方向性に関係するのに対して,(2) は価値観は廃するものの,言語変化には中期的には運命づけられた方向づけがあると主張する.
端的にいえば,目的論とは "effects precede (in time) their final causes" という発想である (qtd. in McMahon 325 from p. 312 of Lass, Roger. "Linguistic Orthogenesis? Scots Vowel Length and the English Length Conspiracy." Historical Linguistics. Volume 1: Syntax, Morphology, Internal and Comparative Reconstruction. Ed. John M. Anderson and Charles Jones. Amsterdam: North Holland, 1974. 311--43.) .通常,時間的に先立つ X が生じたから続いて Y が生じた,という因果関係で物事の説明をするが,目的論においては,後に Y が生じることができるよう先に X が生じる,と論じる.この2種類の説明は向きこそ正反対だが,いずれも1つの言語変化に対する説明として使えてしまうという点が重要である.例えば,ある言語のある段階で [mb], [md], [mg], [nb], [nd], [ng], [ŋb], [ŋd], [ŋg] の子音連続が許容されていたものが,後の段階では [mb], [nd], [ŋg] の3種しか許容されなくなったとする.通常の音声学的説明によれば「同器官性同化 (homorganic assimilation) が生じた」となるが,目的論的な説明を採用すると,「調音しやすくするために同器官性の子音連続となった」となる.
言語学史においては,様々な論者が目的論をとってきたし,それに反駁する論者も同じくらい現われてきた.例えば Jakobson は目的論者だったし,生成音韻論の言語観も目的論の色が濃い.一方,Bloomfield や Lass は,目的論の立場に公然と反対している.McMahon (330--31) も,目的論を「目的の目的論」 (teleology of purpose) と「機能の目的論」 (teleology of function) に分け,いずれにも問題点があることを論じ,目的論的な説明が施されてきた各々のケースについて非目的論的な説明も同時に可能であると反論した.McMahon の結論を引用して,この第2の意味の evolution の妥当性を再考する材料としたい.
There is a useful verdict of Not Proven in the Scottish courts, and this seems the best judgement on teleology. We cannot prove teleological explanations wrong (although this in itself may be an indictment, in a discipline where many regard potentially falsifiable hypotheses as the only valid ones), but nor can we prove them right; they rest on faith in predestination and the omniscient guiding hand. More pragmatically, alleged cases of teleology tend to have equally plausible alternative explanations, and there are valid arguments against the teleological position. Even the weaker teleology of function is flawed because of the numerous cases where it simply does not seem to be applicable. However, this rejection does not make the concept of conspiracy, synchronic or diachronic, any less intriguing, or the perception of directionality . . . any less real.
・ McMahon, April M. S. Understanding Language Change. Cambridge: CUP, 1994.
生物学における用語 evolution の理解と同時に,言語学で使われてきた evolution という術語の意味がいかにして「進化」してきたかを把握することが肝心である.McMahon の第12章 "Linguistic evolution?" が,この問題を要領よく紹介している(この章については,「#2260. 言語進化論の課題」 ([2015-07-05-1]) でも触れているので参照).
McMahon は evolution には3つの語義が認められると述べている.以下はいずれも Web3 から取ってきた語義だが,1つ目は19世紀的なダーウィン以前の (pre-Darwinian) 語義,2つ目は目的論的な (teleological) 含意をもった語義,3つ目は現在の生物学上の語義を表す.
(1) Evolution 1 (McMahon 315)
a process of continuous change from a lower, simpler, or worse condition to a higher, more complex, or better state: progressive development.
(2) Evolution 2 (McMahon 325)
A series of related changes in a certain direction.
(3) Evolution 3 (McMahon 334)
the development of a race, species or other group ...: the process by which through a series of changes or steps any living organism or group of organisms has acquired the morphological and physiological characters which distinguish it: the theory that the various types of animals and plants have their origin in other preexisting types, the distinguishable differences being due to modifications in successive generations.
今回は,最も古い語義 (1) について考えてみたい.この意味での "evolution" は,ダーウィン以前の発想を含む前科学的な概念を表す.生物のそれぞれの種は,神による創造 (creation) ではなく,形質転換 (transformation) を経て発現してきたという近代的な考え方こそ採用しているが,その形質転換の向かう方向については,「進歩」や「堕落」といった人間社会の価値観を反映させたものを前提としている.これは19世紀の言語学界では普通だった考え方だが,ダーウィン自身は生物進化論においてそのような価値観を含めていない.つまり,当時の言語学者たち(のすべてではないが)はダーウィンの進化論を標榜しながらも,その言語への応用に際しては,進歩史観や堕落史観を色濃く反映させたのであり,その点ではダーウィン以前の言語変化観といってよい.
この意味での evolution を奉じた言語学者の代表選手といえば,August Schleicher (1821--68) である.Schleicher は Hegel (1770--1831) の影響を受け,人類は以下の順に発達してきたと考えた (McMahon 320) .
a. The physical evolution of man.
b. The evolution of language.
c. History.
人類は a → b → c と「進歩」してきたが,c の歴史時代に入ってしまうと,どん詰まりの段階であるから,新しいものは生み出されない.したがって,あとは「堕落」しかない,という考え方である.言語も含めて,現在はすべてが堕落の一途をたどっているというのが,Schleicher の思想だった.
価値の方向こそ180度異なるが,同じように価値観をこめて言語変化をみたのは Otto Jespersen (1860--1943) である.Jespersen は印欧語にべったり貼りついた立場から,屈折の単純化を人類言語の「進歩」と見た (see 「#1728. Jespersen の言語進歩観」 ([2014-01-19-1]), 「#432. 言語変化に対する三つの考え方」 ([2010-07-03-1])) .
「#2525. 「言語は変化する,ただそれだけ」」 ([2016-03-26-1]) で McMahon から引用した文章でも指摘されているとおり,現在,多くの歴史言語学者は,この第1の意味での evolution を前提としていない.この意味は,すでに言語学史的なものとなっている.
・ McMahon, April M. S. Understanding Language Change. Cambridge: CUP, 1994.
言語学者でない一般の多くの人々には,言語変化を進歩ととらえたり,逆に堕落とみなす傾向がみられる.言語進化を価値観をもって解釈する慣行だ.この見方については「#432. 言語変化に対する三つの考え方」 ([2010-07-03-1]) や「#1728. Jespersen の言語進歩観」 ([2014-01-19-1]) で話題にした.
しかし,現代の言語学者,特に歴史言語学者は,言語はそのような価値観とは無関係に,ただただ変化するものとして理解しており,それ以上でも以下でもないと主張する.この立場については「#448. Vendryes 曰く「言語変化は進歩ではない」」 ([2010-07-19-1]) や「#1382. 「言語変化はただ変化である」」 ([2013-02-07-1]) で紹介した.この現代的な立場をずばり要約している1節を McMahon (324) に見つけたので,引用しておきたい.
The modern view, at least of historical linguists if not the general public, is simply that languages change; we may try to describe and explain the processes of change, and we may set up a complementary typology which will include a classification of languages as isolating, agglutinating or inflecting; but this morphological typology has no special status and certainly does not represent an evolutionary scale. In general, we have no right to attack change as decay or to exalt it as progress. It is true . . . that individual changes may aid or impair communication to a limited extent, but there is no justification for seeing change as cumulative progress or decline: modern languages, attested extinct ones, and even reconstructed ones are all at much the same level of structural complexity or communicative efficiency. We cannot argue that some languages, or stages of languages, are better than others . . . .
ここでは,言語変化は全体として特に進歩や堕落というような価値観を伴った一定の方向を目指しているわけではないが,個々の変化については,限られた程度においてコミュニケーションの助けになったり妨げになったりすることもあると述べられている点が注目に値する.これは,「#2513. Samuels の "linguistic evolution"」 ([2016-03-14-1]) で引用した Samuels (1) の "every language is of approximately equal value for the purposes for which it has evolved" の「およそ等価」という表現と呼応しているように思われる.
言語(変化)論と言語変化観とは切っても切り離せない.言語変化(論)には,時代の思潮の移り変わりを意識した言語学史的な観点をもって接近していかなければならないだろう.
・ McMahon, April M. S. Understanding Language Change. Cambridge: CUP, 1994.
・ Samuels, M. L. Linguistic Evolution with Special Reference to English. London: CUP, 1972.
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