hellog〜英語史ブログ     ChangeLog 最新    

retronym - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-11-21 21:39

2019-04-14 Sun

#3639. retronym [synonym][retronym][terminology][lexicology][semantic_change][magna_carta]

 昨日4月13日の朝日新聞朝刊の「ことばサプリ」という欄にレトロニムの紹介があった.レトロニムとは「新語と区別するため,呼び名をつけ直された言葉」のことで,たとえば古い「喫茶」に対する新しい「純喫茶」,同じく「服」に対する「和服」,「電話」に対する「固定電話」,「カメラ」に対する「フィルムカメラ」などの例だ.携帯電話がなかったころは電話といえば固定式の電話だけだったわけだが,携帯電話が普及してきたとき,従来の電話は「固定電話」と呼び直されることになった.時計の世界でも,新しく「デジタル時計」が現われたとき,従来の時計は「アナログ時計」と呼ばれることになった.レトロニム (retronym) とは retro- + synonym というつもりの造語だろう,これ自体がなかなかうまい呼称だし,印象に残る術語だ.
 英語にもレトロニムはみられる.例えば,e-mail が現われたことによって,従来の郵便は snail mail と呼ばれることになった.acoustic guitar, manual typewriter, silent movie, landline phone なども,同様に技術革新によって生まれたレトロニムといえる.ほかに whole milk, snow skiing なども.
 コンピュータ関係の世界では,技術の発展が著しいからだろう,周辺でレトロニムがとりわけ多く生まれていることが知られている.plaintext, natural language, impact printer, eyeball search, biological virus など.
 歴史的な例としては,「#734. pandaBritain」 ([2011-05-01-1]),「#772. Magna Carta」 ([2011-06-08-1]) でみたように,lesser panda, Great Britain, Magna Carta などを挙げておこう.これらも一言でいえば「レトロニム」だったわけだ.術語というのは便利なものである.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2011-06-08 Wed

#772. Magna Carta [history][reestablishment_of_english][bl][retronym][magna_carta]

 英国は成文憲法を持たない.その代わりを務めるのが,Magna Carta大憲章」(1215年,The Great Charter),「権利請願」(1628年,The Petition of Right),「権利章典」(1689年,The Bill of Rights)の3つの基本法典だ.後者2つは近代期17世紀の産物だが,最初の大憲章は中世期13世紀とかなり早い.もっとも大憲章が基本法典として高い評価を与えられるのは17世紀のことであり,当時の「歴史の掘り起こし」の結果というべきである.それでも,13世紀イングランド国制史が Magna Carta をめぐって繰り広げられていたことは確かである.
 当時王位にあった John は,父王 Henry II,兄王 Richard I の保有していたフランスの広大な領土を戦争によって失った.1204年のノルマンディの喪失は特に手痛く,イングランドが大陸に足場をもつ帝国の一部から一島国へと回帰する歴史的契機となった(この出来事は,向こう2世紀にわたるイングランドでのフランス語の衰退と英語の復権の間接的な契機ともなっており,英語史にとっても大きい).その後も John はフランス王 Philip II へ領地奪還のための戦いを挑むが,1214年,ブーヴィーヌの戦いで大敗を喫する.兄王 Richard I から続く戦乱と戦費確保のための重税に苦しんでいた諸侯にとって,John の内外の失策は耐え難いものとなり,ついに1215年,貴族の一部が John を主君とみなさない旨を公言する.王はやむなく代理人を立てて不満分子と話し合い,協約文書を作成した.ラテン語で書かれたこの協約文書は,テムズ河畔 Runnymede の草原にて1215年6月15日に調印・発布された.
 「諸侯たちの要求事項」 (The Articles of the Barons) と呼ばれたこの協約の内容は63条からなる雑多な要求の羅列であり,全体的な統一や整備は感じられない.John への具体的で直接的な要求項目であり,後代に理解されたような立憲政治の礎という意図はなかった.したがって,近現代の大憲章の高い評価はある意味で過大であり時代錯誤的でもあるのだが,この文書によって被治者が王権に制限を加えようとしたこと,既得権や慣習が強調されたことの歴史的意義は大きい.
 John はこの協約文書に調印こそしたが,はなから遵守する意図はなく,直後にローマ教皇 Innocent III に頼み無効としてしまった.翌1216年には John が病死したため,貴族たちは継いだ Henry III のもとで協約文書を修正したうえで再発行した.1217年,1225年にも修正版が再発行され,以降,1225年版がたびたび確認されてゆくことになる.特に1297年の Edward I による確認は重要で,Magna Carta は制定法記録簿に収められることになった.しかし,この文書が中世期と初期近代期を通じて現実政治の場で大きな役割を果たしたということは,実はない.17世紀に忘却の淵から呼び覚まされ,新たな意義を付されたということである.
 さて,英語 The Great Charter,日本語「大憲章」はそれぞれラテン語 Magna Carta の訳語で,いかにも偉大な文書らしい響きだが,この Magna あるいは Great は,本来,質としての偉大さを表わすものではなく,量的な大きさを記述する形容詞にすぎなかった.1217年の修正版で,御料林に関する条項が切り離されて独立し「御料林憲章」 (The Charter of the Forest) とされたので,残る部分が「大憲章」という通称で呼ばれることになったにすぎない.この点では,[2011-05-01-1]の記事「pandaBritain」で指摘した giant pandaGreat Britain とまったく同種の来歴である.
 Magna Carta については,The British Library の Treasures in Full: Magna Carta が詳しい.Magna Carta をマルチメディアで学べる.

(後記 2013/03/28(Thu):同じ BL よりこちらの画像もすばらしい.)

 ・ 今井 宏 『ヒストリカル・ガイド イギリス 改訂新版』 山川,2000年.47--52頁.

Referrer (Inside): [2019-04-14-1] [2013-03-26-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2011-05-01 Sun

#734. pandaBritain [history][etymology][map][retronym]

 東北地方太平洋沖地震により影が薄くなってしまったが,本来この春にブレイクするはずだったのは,上野動物園に新しくやってきたパンダ,リーリーとシンシンである.いや,実際に上野に出ると,上野の山もアメヤ横丁も看板はパンダ一色である.
 panda の語源はネパール語の対応する動物名で,フランス語を経由して19世紀前半に英語に入ってきた.当初この単語はパンダ科レッサーパンダ属 (Ailurus fulgens) の動物,すなわち lesser panda 「レッサーパンダ」を意味していた.シンシンやリーリーのようなパンダ科ジャイアントパンダ属 (Ailuropoda melanoleuca) の動物,すなわち giant panda 「ジャイアントパンダ」を指示するようになったのは,OED では1901年が初例である.つまり,19世紀には panda といえば専らレッサーパンダのことを指していたが,20世紀初めにジャイアントパンダが現われるにいたって,両者を区別するために,それぞれ lesser pandagiant panda という新しい名称が割り当てられたのである.さらに,以降,単純に panda といえばジャイアントパンダを指示するようになった.ここには,panda の意味変化と,曖昧さの除去のための形容詞付加という言語変化を見て取ることができる.
 ここで類例として思い浮かぶのは Great Britain という呼称である.本来 Britain といえば,英国の主要な領土であるブリテン島を指した.これは,ケルト系原住民 Briton 「ブリトン人」にちなむ地名である.しかし,5世紀以降,ブリテン島に移住してきた the Angles, Saxons, and Jutes の西ゲルマン諸部族に追われ ([2010-05-21-1]),イギリス海峡を越えてフランス北西部に渡ったブリトン人が住み着いた土地も「ブリテン」と呼ばれることなったため,海峡をはさんで2つの「ブリテン」が共存するようになった.民族のルーツは1つとはいえ,異なる土地に同じ呼称では不便だったたため,新天地であるフランス北西部の半島一帯,すなわち現在の Brittany (フランス語で Bretagne,日本語で「ブルターニュ」)は Little BritainBritain the less などと称され,区別されるようになった.一方,故郷であるブリテン島は1707年に England と Scotland が連合王国を形成したときに正式に Great Britain と命名された(以上の経緯については唐澤氏の著書の pp. 26--28 を参照).panda の場合と同様,ここには Britain の指示対象の拡大に伴う曖昧さを除去する目的での形容詞付加という過程が見て取れる.(以下の地図は『ランダムハウス英語辞典』より.)

Map of Brittany

 ・ 唐澤 一友 『多民族の国イギリス---4つの切り口から英国史を知る』 春風社,2008年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow