「井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル」を始めて3ヶ月ほどが経ちました.英語・言語に関して大学の講義ぽいものではなく,あくまで研究者どうしの廊下での立ち話し的な,ゆるめのおしゃべりを目指して,毎週日曜日と水曜日の18:00に10分間前後の動画をアップロードしています.多くの方々にチャンネル登録をしていただいています.ありがとうございます.今後もよろしくお願いいたします.
昨日,第25弾が公開されました.「新説! go の過去形が went な理由」です.YouTube という場を借りまして,私のトンデモ仮説!?を開陳させていただきました(笑).反証可能な仮説ではなく,あくまで私論にとどまるものではありますが,長らく抱いている考え方です.
その私論を単純化していえば,go/went に限らず英語(ひいては言語一般)に観察される数々の不規則な言語項目は,それをマスターしていない個人は英語話者集団の仲間に入れてあげないよ,という社会言語学上のリトマス試験紙として機能しているのではないかということです.「go といえば goed ではなく went」という,仲間うちのみに共有されている合い言葉を,きちんと習得しているかどうかを確かめるリトマス試験紙なのではないかと.
もちろんそのようなリトマス試験紙が,取り立てて go/went のペアである必要はありません.ほかのどんなペアでも良かったはずです.ですが,英語においては,たまたま不規則性を歴史的に体現してきた go/went が,社会言語学的なリトマス試験紙として選ばれ,利用されている,ということなのだろうと考えています.
「なぜ go の過去形が went なのか」という素朴な疑問には,2つの側面があります.1つは,なぜよりによって went という形なのですか,という問いです.こちらへの回答は英語史が得意とするところです.「#43. なぜ go の過去形が went になるか」 ([2009-06-10-1]),「#4094. なぜ go の過去形は went になるのですか? --- hellog ラジオ版」 ([2020-07-12-1]),「#4403. 『中高生の基礎英語 in English』の連載第3回「なぜ go の過去形は went になるの?」」 ([2021-05-17-1]) をご覧ください.
一方,なぜいつまでたっても go の過去形として goed が採用されないのか,という問いに対しては,異なる回答ができるように思われます.上記の社会言語学的な観点からの回答です.これについて「#1482. なぜ go の過去形が went になるか (2)」 ([2013-05-18-1]) や,拙著『英語の「なぜ?」に答えるはじめての英語史』の p. 78 をご覧ください.
言葉にはあちこちに不規則性という罠がちりばめられているのです.
・ 堀田 隆一 『英語の「なぜ?」に答えるはじめての英語史』 研究社,2016年.
私たちが意識しているか否かにかかわらず,言語行為はほぼ常に潜在的なフェイス侵害の可能性(フェイス・リスク)を含んでいる.フェイス・リスクが限りなく小さい場合には事実上ゼロと考えられるかもしれないが,理論上,程度の差はあれ常にフェイス・リスクは存在していると考えてよい.
Brown and Levinson (76--78) は,フェイス・リスクの大きさは相手との距離 (D),力関係 (P),事柄の負荷度 (R) の3要因によって決まるとして定式化した.滝浦 (30--31) の要約を引用することで,これを紹介しよう.
【フェイス・リスク見積もりの公式】
Wx = D (S, H) + P (H, S) + Rx
Wx (weightiness): ある行為 x の相手に対するフェイス・リスク
D (distance): 話し手 (speaker) と聞き手 (hearer) の社会的距離
P (power): 聞き手 (hearer) の話し手 (speaker) に対する力
Rx (rating [ranking] of imposition): 特定の文化内における行為 x の負荷度
つまり,ある行為 x のフェイス・リスク (Wx) は,ヨコの人間関係における話し手と聞き手の「社会的距離 (D)」,タテの人間関係における聞き手の話し手に対する「力 (P)」,そして,x という行為がその文化内でどの程度の負荷になると見なされているかの「負荷度 (R)」,という三要素が可算的に働いて決まってくるとブラウン&レヴィンソンは考えた.
概略としては,とてもよくできた公式である.細かいことをいえば,単純な加算でよいのか,各要素に適切な重み付けが必要なのではないか,といった批判はありうる.しかし,3つの要素がフェイス・リスクの見積もりに総合的に効くというのは,直感にも常識にもかなう.
3つめの要素である Rx に「特定の文化内における」という限定が付加されているのも意味深長である.滝浦 (31) の評価に耳を傾けよう.
この最後の点は,文化比較的ないみでも興味深い.たとえば,旅行に行く人に対して,旅先で特定の物を買ってきてくれるよう依頼する,という行為を考えよう.いまの日本の場合,この頼み事はあまり気安いものではないし,もし頼まれたとしたら結構煩わしく感じる人が多いことだろう.ところが,たとえば中国や台湾では事情が異なる.頼むことに抵抗を感じないという人が多いし,高額なものでなければ代金を渡さなくてもかまわないと考える人も少なくない.頼まれた側も,自分が人から頼りにされていることの証しとして誇りに思い,なるべく断らないのだという.
実際に計算できるかどうかはともかく,ブラウン&レヴィンソンの枠組みは,少なくとも概念的にはこうした差異もとらえられる幅を備えている.ブラウン&レヴィンソンに対する批判のなかには,文化差を考慮していないというものがある.しかし,いま見たように“文化差”の要因もパラメータとして組み込まれており,そうした批判は直ちには当たらない〔後略〕.
なるほど,形としては単純だが懐の深さを備えている公式である.関連して「#2126. FTA と FTA を避ける戦略」 ([2015-02-21-1]) も参照.
・ Brown, Penelope and Stephen Levinson. Politeness: Some Universals in Language Usage. Cambridge: CUP, 1987.
・ 滝浦 真人 『ポライトネス入門』 研究社,2008年.
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