昨今,世界英語 (World Englishes) について考察したり議論したりする機会が多くなってきた.私は英語史の立場から,世界英語現象を伝統的英米諸方言の話題の延長線上にあるものとしてとらえている.平たくいえば,世界英語は英語方言という広いテーマの1つであり,その点では英語史上のイギリス方言やアメリカ方言の話題と異ならない,という立場だ.単に方言展開の舞台が数カ国という狭い空間から世界という広い空間に拡大しただけで質的な違いはない,とみている.
もちろんこれは見方の問題であるし,すべてが見方次第である.世界英語の多様性と,例えばイギリス英語の多様性を比べるとき,相違点を列挙していくことはたやすい.
1. 世界英語にあっては,諸方言が展開する舞台は世界全体であり,狭いブリテン諸島のみとはわけが違う.
2. 世界英語にあっては,諸方言がいかにして発達してきたか,その方法や経路が明らかに多様である.
3. 世界英語にあっては,言語接触の果たす役割が段違いに大きい.
4. 世界英語にあっては,母語方言のみならず非母語方言も考慮に入れる必要がある.
5. 世界英語は20世紀後半から21世紀にかけての現代的な話題である.
5点のみ挙げたが,他にもいろいろと指摘することができるだろう.上記5点はそれぞれ興味深い論点ではあるが,異議を唱える(あるいは少なくとも議論の再考を促す)ことも同じくらい容易である.
1'. イギリス英語にあっては,諸方言が展開する舞台はブリテン諸島全体であり,狭いイングランドのみとはわけが違う.
2'. イギリスにあっては,諸方言がいかにして発達してきたか,その方法や経路が明らかに多様である.(古英語から現代英語に至るまでイングランド諸方言の発達を巡って未解決の問題が山積している.方言発達の方法や経路は十分に複雑で多様である.)
3'. イギリス英語にあっては,言語接触の果たす役割が大きい.(世界英語における言語接触の果たす役割が本当に「段違いに」大きいかどうかは慎重な議論を要する.というのは,そもそも英語史は言語接触の歴史といってもよいほどだからだ.)
4'. イギリス英語にあっては,母語方言のみならず非母語方言も考慮に入れる必要がある.(ウェールズやアイルランドの英語方言は,非母語方言として始まり発展してきた.)
5'. イギリス英語は20世紀後半から21世紀にかけての現代的な話題で「も」ある.(もちろん,それ以前の話題でもあったが.)
議論する上で2つの問題を切り分ける必要がない,と主張しているわけではない.見方を変えれば切り分けずに議論することもできるということを,英語史の立場から述べておきたい次第.
アフリカの4つの語族について「#3811. アフリカの語族と諸言語の概要」 ([2019-10-03-1]) で紹介した.先日「#4846. 遺伝と言語の関係」 ([2022-08-03-1]) で参照した篠田に,言語と遺伝子の関係に触れつつアフリカの語族について論じられている節があった.そちらから引用する (87--88) .
突然変異は世代を経るごとに蓄積しますから,同じ地域に長く暮らすほど個体間の遺伝的な違いは大きくなります.ホモ・サピエンスは他のどの地域よりも長くアフリカ大陸で生活していますから,アフリカ人同士は,他の大陸の人びとよりも大きな遺伝的変異を持っています.実際,人類の持つ遺伝的な多様性のうち,実に八五パーセントまではアフリカ人が持っていると推定されています.一方,言語もDNA同様,時間とともに変化していきます.そのスピードはDNAの変化よりもはるかに早く,一万年もさかのぼると言語間の系統関係を追えないほど変化するといわれていますが,同じような変化をすることから,言語の分布と集団の歴史のあいだには密接な関係があることが予想されます.
アフリカには,世界中に存在する言語の三分の一に当たる,およそ二〇〇〇の言語が存在します.それは,アフリカ大陸に長期にわたって人びとが暮らしていることの証拠でもあります.アフリカで話されている言語は大きく四つのグループに分かれており,北から,アフロ・アジア言語,ナイル・サハラ言語,ニジェール・コンゴ言語,コイ・サン言語が分布します.ただし,コイ・サン言語はさらに五つのグループに分かれており,互いの共通性はほとんどないといわれています.遠い昔に分岐した一群の言語族の総称と捉えるべきものです.ともあれ,言語グループの分布の様子と集団の遺伝的な構成には密接な関係があることがわかっています〔後略〕.
また,アフリカの人々の語族,遺伝子,地理的分布が互いに関係することに加え,彼らの生業も相関関係に組み込まれていくるという.アフロ・アジア語族は牧畜民や牧畜農耕民と関連づけられ,ナイル・サハラ語族は牧畜民と,ニジェール・コンゴ語族は農耕民と,コイ・サン語族は狩猟採集民とそれぞれ関連づけられる. *
篠田 (89) は「言語や生業,地理的分布の違いは,過去における集団の移動や融合の結果と考えられるので,化石やDNA,さらには考古学的な証拠や言語の系統を調べることで,現代のアフリカ集団の成立のシナリオを多角的に描くことができます」と同節を締めくくっている.
関連して「#3807. アフリカにおける言語の多様性 (1)」 ([2019-09-29-1]),「#3808. アフリカにおける言語の多様性 (2)」 ([2019-09-30-1]),「#3814. アフリカの様々な超民族語」 ([2019-10-06-1]) ほか africa の各記事を参照.
・ 篠田 謙一 『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』 中公新書,2022年.
5月18日,ロシアのウクライナ侵攻を受けて,スウェーデンとフィンランドが NATO への加盟を同時に申請した.本日の読売新聞朝刊7面に「対露最前線の島 強化急ぐ」と題する記事が掲載されていた.その島とは,バルト海に浮かぶスウェーデン領ゴットランド (Gotland) のことである. *
ゴットランドはスウェーデンの首都ストックホルムから約190キロの距離にある.一方,島からロシアの飛び地であるカリーニングラードまでの距離は約300キロである.古来ロシアと西欧をつなぐバルト海の要衝だったが,現在も地政学的な重要性は変わっていない.
ゴットランドの歴史は古い.島は紀元900年頃からスウェーデンの一部を構成していたが,住民は独自の言語と文化を守り続けてきた.島では現在に至るまでゴットランド語 (Gutnish, Gutnic) が用いられている.スウェーデン語の1方言とみなされることが多いが,スウェーデン語やデンマーク語とともに,北ゲルマン語群 (North Germanic) の東ノルド語 (East Norse) の独立したメンバーとみなすこともできる.(ゴットランド語の位置づけについては「#182. ゲルマン語派の特徴」 ([2009-10-26-1]),「#2239. 古ゲルマン諸語の分類」 ([2015-06-14-1]) を参照されたい.現代ゲルマン諸語の言語地図はこちらから.)
12世紀までに,ゴットランドの商人たちはロシアのノヴゴロドに貿易拠点を構えて,バルト海の貿易ルートを掌握していた.島の随一の町 Visby にはドイツ商人が住むようになり,ハンザ同盟に組み込まれるに至って14世紀半ばまでおおいに繁栄した.
しかし,1361年にデンマークのヴァルデマール4世が島を征服すると,バルト海の貿易ルートが変わり,ゴットランドは衰退していった.その後1645年にスウェーデンに譲渡されると,状況は好転していった.19世紀末にかけては,戦略的要衝として島が要塞化された.
そして,21世紀の現在.島の住民は6万人ほどにすぎないが,今回の国際的緊張のなか,北欧における最前線の1つとなっている.
昨日の記事「#4602. Barbados が立憲君主制から共和制へ」 ([2021-12-02-1]) で,カリブ海地域の英語事情の1つの典型を示すバルバドスの歴史を略述した.英語事情と関連して同地域よりもう1つ重要な国を挙げるのであれば,間違いなくジャマイカだろう.「#1680. The West Indies の言語事情」 ([2013-12-02-1]) で触れたように,バルバドスと同様にジャマイカでも英語ベースのクレオールが行なわれている.
ジャマイカでは,Jamaican Creole は下層語 (basilect) として用いられており,それに対して標準(ジャマイカ)英語が上層語 (acrolect) として使われている.両者の間には中層語 (mesolect) の多数の変種が認められ,典型的な post-creole_continuum) を構成している言語社会といってよい.この連続体について,Sand (2125) を参照して見てみよう(cf. 「#385. Guyanese Creole の連続体」 ([2010-05-17-1]) とも比較).
Standard (Jamaican) English | he went down there | ↑ | Acrolect |
he wen dong de | | | ||
(h)im go dong de | | | ||
(h)im dida go dong de | | | Mesolect | |
(h)im neva go dong de (negative only) | | | ||
Jamaican Creole | im ben go dong de | ↓ | Basilect |
昨日12月1日付けで,西インド諸島の小アンティル諸島にあるバルバドスが共和国となった.英連邦には残るものの,イギリスのエリザベス女王を元首とする立憲君主制から共和制に移行したことになる(cf. 「#1676. The Commonwealth of Nations」 ([2013-11-28-1])).同日,「女王の代理人」として総督を務めてきたサンドラ・メイソン氏が,バルバドスの初代大統領として就任した.就任式にはイギリスのチャールズ皇太子も参加し,平和な祝賀ではあったが,背景にはイギリス植民地としての歴史認識の見直しがあった.
この地へのイギリス人およびアイルランド人による入植は,4世紀ほど前の1627年にさかのぼる.当初は白人年季奉公労働者によるタバコ栽培で繁栄し,1642年には人口は3万7千人まで増えていた.しかし,疫病の流行と栽培品のサトウキビへの転換により,様相が一変した.サトウキビは広いプランテーションで栽培され,労働も過酷だったために,労働力がアフリカ出身の黒人奴隷によって置き換えられたのである.結果として,1685年には白人2万人に対して黒人4万6千人という人口比となっていた.現在,バルバドスの人口約29万人のうち,9割以上が黒人である.
17世紀後半に生じたこの人口構成の急激な変化は,バルバドスの言語状況にも多大な影響を及ぼした.それまでイギリス人とアイルランド人の話す英語が根づいていたが,この時期以降それがクレオール化したのである.Barbadian Creole (あるいは Bajun)と呼ばれるこのクレオール語は,現在,バルバドスにおいて標準英語とともに用いられている.バルバドスの英語事情の歴史は,この地域全体の英語事情の歴史を代表しているといってよい (Sand 2121) .
バルバドスは1966年にイギリスから独立したが,今回の共和制への移行は「第2の独立」という象徴的な意義をもつ.ほかにもエリザベス女王を元首とする立憲君主国はイギリス以外には世界に14カ国残っており,その多くが中米・カリブ海地域に位置する.今回のバルバドスの共和制移行を契機に,周辺諸国も続いていくのではないかという観測もなされている.
カリブ海地域における英語の歴史は,たいへんに複雑である.本ブログでも「#1679. The West Indies の英語圏」 ([2013-12-01-1]),「#1700. イギリス発の英語の拡散の年表」 ([2013-12-22-1]),「#1702. カリブ海地域への移民の出身地」 ([2013-12-24-1]),「#1711. カリブ海地域の英語の拡散」 ([2014-01-02-1]) ほか caribbean の各記事で取り上げてきたので,そちらを参照されたい.
・ Sand, Andrea. "Second-Language Varieties: English-Based Creoles." Chapter 135 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 2120--34.
日本政府は,新型コロナウィルスの新たな変異株「オミクロン株」の今後の拡大に対する懸念から,南部アフリカの国々に水際強化策を適用し始めた.具体的には,南アフリカ共和国,ナミビア,ジンバブエ,ボツワナ,レソト,エスワティニ,モザンビーク,マラウイ,ザンビアの9カ国からの帰国者には,入国後10日間の待機が求められることになるという(cf. 「#3289. Swaziland が eSwatini に国名変更」 ([2018-04-29-1])).
アフリカのこの一角は,英語(史)に引きつけていえば,重要なESL地域を構成している.南アフリカ共和国を除けば,多くの日本人にとって,なじみの薄い国々が多いだろう.周辺の地図もあまり見慣れていないのではないか.(C)ROOTS/Heibonsha.C.P.C より,南部アフリカの地図を掲載しておきたい.
今回の水際強化策の対象となっている9カ国についていえば,ポルトガル語を公用語としているモザンビークを除いて,すべての国が英語を公用語(少なくとも公用語の1つ)として採用している(アフリカにおける英語公用語事情は「#3290. アフリカの公用語事情」 ([2018-04-30-1]) を参照).確かにこの地域の英語話者人口は多く,「#2472. アフリカの英語圏」 ([2016-02-02-1]) の人口統計を参照すると,数千万人という規模で存在することがわかる.世界的な英語地域の1つといってよい.
南部アフリカの英語化の歴史は,イギリスによる植民地化の歴史と連動している.南アフリカ共和国の英語化の淵源は他国に比べて早く18世紀末にさかのぼるが,他国も19世紀後半にはその流れに巻き込まれることになった.多くが第二次世界大戦後の20世紀半ば以降に独立を果たしたが,旧宗主国の言語である英語が威信ある言語として公用語に採用され,現在に至る.
南アフリカ共和国と英語の接触の歴史は複雑で,これまでも「#343. 南アフリカ共和国の英語使用」 ([2010-04-05-1]),「#407. 南アフリカ共和国と Afrikaans」 ([2010-06-08-1]),「#408. South African English と American English の変種構成の類似」 ([2010-06-09-1]),「#1703. 南アフリカの植民史と国旗」 ([2013-12-25-1]),「#3291. 11の公用語をもつ南アフリカ共和国」 ([2018-05-01-1]) などで紹介してきたので,そちらをどうぞ.
日曜日ということで,ちょっとした謎掛けを.北米英語とかけてバスク語ととく,そのこころは? 答えは,北はフランス語,南はスペイン語に迫られています?♪
バスク語 (Basque) は,印欧語族に属していないヨーロッパの孤立した言語の1つである.フランス(北側)とスペイン(南側)の国境付近の一角で約100万人の母語話者により話されている言語だ.話者の大多数はおよそバイリンガルであり,スペイン側のバスク州に居住している.周囲ではスペイン語やフランス語といった世界的大言語が幅をきかせているため,バスク語は相対的な意味で小数民族の話す小言語とみなされている.
では,なぜこのようなバスク語が北米英語と引っかけられるのか.北米(アメリカ合衆国とカナダ)で主として話されている言語は,世界語たる英語である.話者人口の点ではバスク語とは比べようもないが,北米英語は,その植民史と地理に照らすと,カナダのケベックに代表されるフランス語圏(北側)と,メキシコをはじめとする中南米のスペイン語圏(南側)に挟まれている.現在でも,この言語地理学的環境は北米英語に少なからぬインパクトを与え続けており,カナダ英語はフランス語から,アメリカ英語はスペイン語から少なからぬ言語的影響を被っている(cf. 「#4529. 英語とメキシコの接点」 ([2021-09-20-1])).
この他愛もないインスピレーションは,Hall-Lew (373) を読んでいて出会った次の1文からヒントを得たものである.
Today, Spanish influence, versus French influence, is one major historical difference between Englishes in the Unite States and in Canada.
上記の共通点を除けば,(北米)英語とバスク語の関係はむしろほとんどないといってよいだろう.
・ Hall-Lew, Lauren. "English in North America." Chapter 18 of The Oxford Handbook of World Englishes. Ed. by Markku Filppula, Juhani Klemola, and Devyani Sharma. New York: OUP, 2017. 371--88.
普通,英語史においてメキシコが注目されることはないだろう.メキシコが北米史において重要な役割を果たしていることは分かっていても,スペイン語を主たる言語とするメキシコが(アメリカ)英語に対して語彙の分野である程度の影響を与えていることはあるにせよ,それ以上にどう深く関与しているのかは自明ではない.英語学・英語史の文脈での「北米」とは,アメリカ合衆国とカナダのことであり,メキシコは事実上含まれないというのが実情だろう.
私も基本的に上記の理解に甘んじてはいるのだが,英語の文脈でメキシコも忘れてもらっては困る,という珍しい論考に出会ったので紹介しておきたい.Hall-Lew (377--78) から引用する.
English use in Mexico is important to a discussion of English in North America not only for descriptive comprehensiveness but also because of its influence on U.S. Englishes. English is the primary language of at least one community in Mexico, the Mormon colonies in Casas Grandes Valley, Chihuahua . . . . English is also widely spoken in the communities on the U.S. border and in towns frequented by U.S.-based tourists. English is the most widely taught non-Spanish language in Mexico, having "an important role to play in formal education, equipping persons to participate in various occupational and professional activities such as tourism, industry, government, media, science, and technology, among others" . . . . Given that much of the U.S. was previously property of Mexico, the features of Mexican English are both historically relevant and increasingly representative of growing communities of Mexican Americans across the United States.
上記の通り,メキシコにも実は英語コミュニティがある.しかし,それは少数派で肩身狭く暮らす英語コミュニティである.まさか「世界の英語」が肩身狭く用いられているコミュニティがあるとは驚きかもしれないが,メキシコ以外にもカリブ地域にはそのような社会がちょこちょこ存在するのである.これについては「#1731. English as a Basal Language」 ([2014-01-22-1]) を参照.
世界英語 (world_englishes) の観点から,大国メキシコを改めて位置づけてみるのもよいだろう(以下は (C)ROOTS/Heibonsha.C.P.C によるメキシコの地図).
・ Hall-Lew, Lauren. "English in North America." Chapter 18 of The Oxford Handbook of World Englishes. Ed. by Markku Filppula, Juhani Klemola, and Devyani Sharma. New York: OUP, 2017. 371--88.
Trudgill (23) が,1763年を英語の世界的拡大を語る上で重要な年とみている.1763年の英語史上の意義とは何か.
Then in 1763 a very significant event occurred: Britain gained control of the Cape Breton Island area of Nova Scotia, which had remained in French hands until then. This meant that for the first time the English language had effected a complete takeover of a very long contiguous stretch of the east coast of the North American continent: There was now an English-language presence all along the coast from Newfoundland in the north, right down to the border between Georgia and (Spanish-controlled) Florida in the south.
そう,イギリスが,そして英語が,北米大西洋岸の長いストレッチを押さえた年だったのである.「長いストレッチ」を確認するのには,ボンヌ図法の地図を用いるとなかなか効果的 ((C)ROOTS/Heibonsha.C.P.C) .
この年は,世界史でいうところの七年戦争(1756--1763年; Seven Years' War)が終結した年である.イギリスが財政支援するプロイセンと,オーストリア・ロシア・フランスなどとの間の戦争で,プロイセンのフリードリヒ2世の好指揮などにより前者が勝利した.この戦争には英米植民地戦争という側面もあり,北アメリカとインドにおいて両国が激突した.
この北アメリカでの戦いはフレンチ・インディアン戦争 (French and Indian War) とも呼ばれるが,英仏の角逐について『世界大百科事典 第2版』の解説がとてもわかりやすい.
比喩的にいえば,点(交易所)をつなぐ線(水路)で半弧状にイギリス植民地を包囲したフランス植民地と,これを面(農業地)の拡大によってのみこもうとしたイギリス勢力とが,オハイオ川流域で衝突して起こった重商主義戦争で,これにこの地方のインディアン諸部族がまきこまれた.
初期の戦局ではフランスとインディアンの軍が優勢を保ったが,1758年にイギリスのピット首相が強力な指導力を発揮するに及び,戦局は逆転.イギリスがケベックやモントリオールを奪取し,勝敗が決せられた.そして,1763年のパリ講和会議により,フランスは北アメリカにおける領土を失うことになった.こうしてイギリスはカナダを含めた北アメリカ(の大西洋岸のことではあるが)の支配権を獲得した.
これ以前にも,イギリスは1713年に New Brunswick を獲得しており,1732年に Georgia の植民も成功させている.1740--50年代には Nova Scotia に本国から移民を多く送り込んだ.さらに1758年には Prince Edward Island を占拠している.そして,最後に上記のように1763年に Nova Scotia を,そして Cape Breton Island を獲得し,上記の「長いストレッチ」がつながったわけだ.
上記の英仏植民地戦争の帰趨と,結果としての各言語の勢力分布は,およそ一致していると考えてよい.ただし,イギリスの支配下に入ったケベックでは,言語文化としてはフランス的な要素が色濃く継承され現在に至っているなど,例外もないわけではない.もう1点挙げれば,「#1733. Canada における英語の歴史」 ([2014-01-24-1]) で触れたように,上記戦争中に Nova Scotia などから追放されたフランス系の人々住民がアメリカ南部の Louisiana などへ移住しており,現在でも彼らの子孫たちが Louisiana で Cajun (< Acadian) と呼ばれるフランス語の変種を話している.
・ Trudgill, Peter. "The Spread of English." Chapter 2 of The Oxford Handbook of World Englishes. Ed. by Markku Filppula, Juhani Klemola, and Devyani Sharma. New York: OUP, 2017. 14--34.
連日 <oo> の綴字に対応する発音の話題を取りあげている (cf. 「#4223. なぜ同じ <oo> の綴字なのに book と food では母音が異なるのですか? --- hellog ラジオ版」 ([2020-11-18-1]),「#4224. blood, flood だけでなく soot も?」 ([2020-11-19-1])) .今回は,誰でも知っている <oo> を含む英単語 room を取り上げ,言語変化とその複雑さの一端を示したい.
room といえば日本語でも「ルーム」だし /ruːm/ と長母音をもつのは当たり前と思われるかもしれないが,実は短母音を示す /rʊm/ も決して稀ではない.LPD の Preference polls によると,短母音化した発音は,イギリス英語では19%ほど,アメリカ英語では7%ほど確認される.
さらに複合語の bedroom についていえば,イギリス英語では37%までが短母音で発音されるという.ほかには broom についても,やはりイギリス英語で8%が短母音を示す.また,groom にも短母音の発音があり得る.
room, bedroom, broom については「#1353. 後舌高母音の長短」 ([2013-01-09-1]) でも取り上げた話題だが,これを説明する歴史的な音変化 /uː/ → /ʊ/ は,「#547. <oo> の綴字に対応する3種類の発音」 ([2010-10-26-1]) で触れた通り,典型的には16--17世紀(初期近代英語期)に生じたものとされている.しかし見方によっては,同変化の遅れた波が,今頃ようやく問題の3語にたどり着きつつあるともいえる.
しかし,事はそう単純ではなさそうだ.Upton and Widdowson (39) による room のイングランド諸方言の発音に関する解説によれば,その方言分布も歴史も詳しく判明しているわけではない.
At this period [= as late as the seventeenth or even the eighteenth century] such words as BOOK, HOOD and SOOT, which had in the later Middle and early Modern English periods been pronounced with [uː], came to be pronounced with [u], and although ROOM was not properly part of this change it seems to have become connected with it for some speakers. Why the short sound in ROOM should have acquired the geographical distribution for the non-standard dialects which the map shows is quite unclear.
Although there is no firm evidence to support the claim, it is likely that the [u]- innovation in ROOM acquired some considerable popularity for a while in Received Pronunciation. Today it ranks as a quite acceptable minor variant in that accent, but not long ago its status was even higher. Daniel Jones (Outline of English Phonetics, para. 318) writes that 'In broom (for sweeping), groom, room, and soot both uː and u are heard, the u-forms brum, grum, rum, sut being perhaps more usual in Received English.'
Today one would not expect an RP speaker to use [uː] in SOOT. Conversely, although [u] is shown as an RP variant in pronouncing dictionaries of British English for use in several words with -oo- spellings, it is now somewhat unusual for such a speaker to be heard using it in BROOM, ROOM and (especially) GROOM. In a survey of a somewhat less-than-representative sample of British English speakers, Wells (Pronunciation Dictionary) discovered an eighty-two percent preference for [uː] in ROOM and a ninety-two percent preference for its use in BROOM.
RP においては,上記の単語で短母音版の発音がむしろ威信 (prestige) をもっていた可能性があるというから驚きだ.現在において短母音版の発音は,許容されるとはいえ,soot を除けばあくまでマイナーな発音というべき位置づけだが,それに対する社会的な評価は,直近数世代を通じて揺れてきたという歴史は興味深い.
数百年という規模で生じてきた短母音化という見方が一方である.他方で,この数世代の間に長短母音の変異の社会的な位置づけが揺れてきたという見方がある.その2つの歴史的文脈を受け継ぎつつ,現在 room に2つの発音が併存している,この事実が重要である.
補足として,Upton and Widdowson より,room の2つの発音の方言分布を示しておこう.
・ Wells, J C. ed. Longman Pronunciation Dictionary. 3rd ed. Harlow: Pearson Education, 2008.
・ Upton, Clive and J. D. A. Widdowson. An Atlas of English Dialects. 2nd ed. Abingdon: Routledge, 2006.
昨日の記事「#4130. 英語語彙の多様化と拡大の歴史を視覚化した "The OED in two minutes"」 ([2020-08-17-1]) で紹介した同じコンテンツを,異なる角度から改めて眺めてみたい.The OED in two minutes で公開されている英語語彙史地図のコンテンツである.
中英語の始まりとなる1150年から再生して1年ごとに時間を進めていくと,しばらくは動きがヨーロッパ内部に限られており,さしておもしろくもないのだが,15世紀後半になってくると中東や北アフリカなどに散発的に点が現われてくる.そして,16世紀後半になると新大陸やインド方面にも点がポツポツしてきて,日本も舞台に登場してくる.この状況は17,18世紀にかけて稀ではなくなってくる.次に注目すべき動きが出てくるのは,18世紀後半のオセアニア,太平洋,南アフリカといった南半球を中心とした海洋地域である.19世紀に入るとアフリカや東南アジアを含めた世界の広域に点が打たれるようになり,同世紀後半には南アメリカも加わる.20世紀はまさにグローバルである.
実におもしろい.同時に,実に恐ろしい.16世紀後半から19世紀終わりまでの時間枠に関するかぎり,そのままイギリスの世界帝国化の足跡を語彙史の観点からパラフレーズしたコンテンツに見えてきたからだ.直接・間接にイギリスの支配権の及ぶ領土を塗りつぶした世界史の地図は「軍事的な」地図として見慣れているし,ある意味で分かりやすい.しかし,今回のような「語彙史的な」地図がそれと多かれ少なかれ一致するというのは,何とも薄気味悪い.そして,後者の地図が,OED という英語文献学の粋というべき学術的な成果物を利用して作成されていること,またその辞書それ自身が大英帝国の最盛期である19世紀半ばの企画の産物であることを思い出すとき,薄気味悪さ以上に,得体のしれない恐ろしさを感じる.
OED は学術的(文献学的)偉業を体現するツールであり,その点で私も賞賛を抑えることができない.しかし,その事実を認めつつ,それ自体が,毀誉褒貶相半ばする近代世界史の産物であることは肝に銘じておきたい.関連して以下の記事も参照.
・ 「#3020. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (1)」 ([2017-08-03-1])
・ 「#3021. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (2)」 ([2017-08-04-1])
・ 「#3376. 帝国主義の申し子としての英語文献学」 ([2018-07-25-1])
・ 「#3603. 帝国主義,水族館,辞書」 ([2019-03-09-1])
・ 「#3767. 日本の帝国主義,アイヌ,拓殖博覧会」 ([2019-08-20-1])
The OED in two minutes に,中英語の始まる1150年から2010年までの英語(借用)語彙史を地図上で視覚化してダイジェストで示すコンテンツが公表されている.これは凄いコンテンツ.実にみごとに英語語彙の多様化と拡大の歴史が表現されており,しかもいろいろな意味で考えさせられる.こちらからどうぞ.
地図の下にある色付きの帯は,現代英語における語種ごとの総トークン頻度を表わしている(背後で利用されているデータベースは Google Ngrams の1970--2008年の部分だという).試しに2010年現在の地図に示される統計をみてみると,総トークン頻度にして,ゲルマン系の語彙(青帯)が49%,英語要素に基づく複合語など(白帯)が26%なので,ここまでで全体の3/4である.ロマンス系の語彙(赤帯)が18%,ラテン語が7%,そしてその他が0.2%だ.英語史では語彙の歴史は借用の歴史であるというのが定番だが,トークン頻度で考える限り,現在でも英語の語彙は圧倒的にアングロサクソン(あるいはゲルマン)的であるといってよいことになる.この事実については「#3400. 英語の中核語彙に借用語がどれだけ入り込んでいるか?」 ([2018-08-18-1]) と,そこに張ったリンク先の記事を参照.
地図左下の年号に重なって描かれている灰色のバブルは,高頻度かつ多数の単語が加わった年ほど大きくなり,低頻度かつ少数の単語が加わったにすぎない年には小さくなる.17世紀を通じて相対的に大きかったバブルが,18世紀にかけてしぼんでいく様子も興味深い (cf. 「#2995. Augustan Age の語彙的保守性」 ([2017-07-09-1]),「#203. 1500--1900年における英語語彙の増加」 ([2009-11-16-1]),「#4070. 18世紀の語彙的低迷のなぞ」 ([2020-06-18-1])) .
英語(語彙)史を大づかみするには,このようなダイジェストの視覚コンテンツが威力を発揮する.
中英語方言学でよく知られている方言間の母音変異の事例として,北部・東部方言の <i> = [i(ː)],中西部方言の <u> = [y(ː)],南東部方言の <e> = [e(ː)] というものがある.これは,古英語ウェストサクソン方言において典型的に <y> で綴られた母音(初期には [y(ː)],後期には [i(ː)] だったとされる)が,中英語の諸方言でどのような対応形を示しているかを図式的に整理したものである.
現代英語の単語でいえば busy, merry などが典型的に上記の方言分布と関連している. 関連する話題は以下の記事で扱ってきた.
・ 「#562. busy の綴字と発音」 ([2010-11-10-1])
・ 「#563. Chaucer の merry」 ([2010-11-11-1])
・ 「#570. bury の母音の方言分布」 ([2010-11-18-1])
・ 「#1341. 中英語方言を区分する8つの弁別的な形態」 ([2012-12-28-1])
・ 「#1434. left および hemlock は Kentish 方言形か」 ([2013-03-31-1])
・ 「#4048. much, shut, such, trust の母音と中英語方言学」 ([2020-05-27-1])
今回はとりわけ bury に焦点を当て,初期中英語の諸方言における第1母音(字)の変異を LAEME の Dot Map により示したい.この問題は,上の 「#562. busy の綴字と発音」 ([2010-11-10-1]) や「#570. bury の母音の方言分布」 ([2010-11-18-1]) でも扱ってきたが,今回は専門的なツールを用いて信頼に足る証拠を示すことに重点を置く.以下,当該母音(字)として <i, y> を用いる分布図の Dot Map を最初に挙げ,続いて2つ目に <u>,3つ目に <e> に関する Dot Map を示す.
中英語方言学ではよく知られているが,イングランドの北部や東部の方言では,疑問詞に典型的に現われる軟口蓋唇音 (labiovelar) が,一般的な wh- などの綴字ではなく,quh-, qvh, qwh, qh などの綴字で現われることが多い.たとえば what に対応する綴字をいくつか挙げてみると,qwhat, qwat, quat, quad, qhat のごとくである.これは問題の子音の調音が北部系方言と南部系方言の間で異なっていたことを示唆するが,具体的にどのような違いだったのかについては議論がある.(なお,北部系方言においては wh- などの綴字も普通に使われており,それと平行して q- もよく使われていたということである.)
後期中英語における q- の地理的な分布は,実にきれいである.eLALME の Item 44 として取り上げられている,"WH-: q-, all spellings." と題された Dot Map を以下に再掲しよう.
少しさかのぼって初期近代英語においても,LAEME の Map 28285405 の Dot Map を見るとわかるように,数こそ少ないが,やはり北部と東部に分布している.
当時,イングランド北部と地続きのスコットランドでも quh- などの綴字が一般的に用いられていた.しかし,16世紀以降になると,イングランドの標準的綴字の影響により,スコットランド英語でも quh- の立場は弱まっていった.そのくだりについては明日の記事で.
異なる民族間で用いられるリンガ・フランカ (lingua_franca) のことを「超民族語」 (langue véhiculaire) と称することがある.ある民族に固有の言語である点を強調する「群生言語」 (langue grégaire) に対して,「地理的に隣接してはいても同じ言語を話していない,そういう言語共同体間の相互伝達のために利用されている言語」である点を強調した用語である(カルヴェ,p. 33).他の呼称としては,「#1072. 英語は言語として特にすぐれているわけではない」 ([2012-04-03-1]) で用いたように「族際語」という用語もある.
超民族語に関わる話題は,lingua_franca の各記事や,とりわけ「#1788. 超民族語の出現と拡大に関与する状況と要因」 ([2014-03-20-1]),「#1789. インドネシアの公用語=超民族語」 ([2014-03-21-1]) で取り上げてきた.超民族語が非常に多く分布し,今後,社会的な役割が増してくると見込まれるのは,アフリカである.それぞれ通用する地域や人口は様々だが,アラビア語,ウォロフ語,バンバラ語,ソンガイ語,ハウサ語,ジュラ語,アカン語,ヨルバ語,フルフルデ語,サンゴ語,マバ語,リンガラ語,トゥバ語,ルバ語,ンブンドゥ語,ロジ語,アムハラ語,オロモ語,ソマリー語,サンデ語,ガンダ語,スワヒリ語,ニャンジャ語,ショナ語,ツワナ語,ファナガロ語など多数あげることができる(宮本・松田,p. 700) . *
宮本・松田 (706--07) は,アフリカの言語事情の未来は,これらの超民族語にかかっていると主張している.アフリカが複雑な言語問題に自発的に対処していくためには,旧宗主国の西欧諸言語ではなく,植民地時代以前から独自に発展していた超民族語に立脚するのが妥当だろうと.これはアフリカのみならず世界の多様化する言語問題に対する1つの提案となっているようにも思われる.
グローバル化の覇権言語の攻勢下にあっても,「超民族語」を含めて,アフリカの民族諸言語は,新しい次元へと常に昇華していくであろう.同時に,いわゆる「ナイジェリアン・ピジン」(ナイジェリア英語のこと.すでに,クレオール化している)を典型例として,英語やフランス語も,特に話し言葉のレベルで,アフリカの土壌に根付いていくことだろう.これらの言語が運ぶ新旧・内外の文化伝統は,アフリカ人の多言語生活のなかで相補の関係を結び,やがて融和していくに違いない.
だが,異質な文化伝統を無条件に融和させることが最終目的ではない.むしろ,両者の間に生起する摩擦に注目し,不整合な部分を強調しておくことが大切であろう.現代のアフリカは,さまざまな文化の綜合をはかる巨大な実験場となっている.この文化的綜合の事業のなかへ,すべての民族諸言語と民族文化が吸収されるような方策が立てられるべきであろう.この事業で最も大切なことは,だれがそのイニチアチブを握るかという問題である.アフリカ人がこの事業のイニシアチブを握るのであれば,この種の文化的綜合は,決してアフリカの尊厳を損なうものとはならないであろう.その意味でも,民族諸言語,わけても「超民族語」が引き受ける役割は大きい.
アフリカの諸言語は,有史以来,この大陸に住んできた数えきれない諸民族の貴重な文化遺産であり,今を生きている人々にとっては,日々の生活,実存そのものなのだ.それらを封印するのではなく,その壮大な言語宇宙を開くことは,アフリカの文化的再生の必須要件と言うべきであろう.
・ ルイ=ジャン・カルヴェ 著,林 正寛 訳 『超民族語』 白水社〈文庫クセジュ〉,1996年.
・ 宮本 正興・松田 素二(編) 『新書アフリカ史 改訂版』 講談社〈講談社現代新書〉,2018年.
人類の言語の起源がアフリカにあるだろうということは,今日,多くの言語学者が認めているところである.とすれば今日のアフリカの言語分布に関心が湧いてくるわけだが,最も長い歴史を有しているからこそなのか,不確かなことが多い.アフリカの言語分布について大雑把にまとめてみよう.
「#3290. アフリカの公用語事情」 ([2018-04-30-1]) でみたように,現在のアフリカでは約2千もの言語が話されており,言語の多様性は著しく高い(「#3807. アフリカにおける言語の多様性 (1)」 ([2019-09-29-1]),「#3808. アフリカにおける言語の多様性 (2)」 ([2019-09-30-1]) を参照).アフリカの中央・南部で話されている諸言語は,およそ Niger-Kordofanian, Nilo-Sahara, Khoisan の3語族のいずれかに属するが,相互の関係が分かっていないばかりか,世界の他のいかなる語族ともどのような関係にあるか未詳である.言語学者のなかには,世界には2つの言語グループがあり,1つはアフリカの中央・南部の言語群,もう1つはそれ以外のすべてだ,という者もあるほどだ (Comrie 74) .
アフリカで行なわれている4つの語族を紹介しておこう.宮本・松田 (689) のアフリカの語族・諸言語の分布図によると,中央と南部のほとんどのエリアは,Niger-Kordofanian 語族の諸言語によって占められている.Bantu 系を含む多くの言語がここに属し,今から約1万年前には,その分布は西アフリカに限定されていたようだが,その後,南や西へ拡大したといわれる. *
その Niger-Kordofanian 語族の歴史的な拡大の犠牲となったのが,もともと南部に広く分布していた Khoisan 語族の諸言語である.その代表的な言語は Namibia の国語で16万人の話者がいるとされる Khoekhoe (or Damara) だが,同語族の他の言語は衰退してきている.舌打ち音 (click) で知られる語族だ.
アフリカ中央部で,他の語族に取り囲まれるようにひっそりと分布しているのは,Nilo-Sahara 語族の諸言語である.古くから分布はそれほど大きく変化していないとされる.Songhai, Saharan, Chari-Nile などが含まれるが,互いに言語的にそれほど近くはない.
北アフリカを占めているのは,Arabian に代表される Afro-Asiatic 語族である.その名の通りアジア(おそらくはヨーロッパも)の諸言語と関係しており,歴史的にも重要な言語を多く含む.
この4つの語族の担い手については,約1万年前の段階でその祖先とおぼしき集団が確認される.Niger-Kordofanian 語族は West Africans という集団に,Khoisan 語族,Nilo-Saharan 語族,Afro-Asiatic 語族はそれぞれ Bushmen, Nilotics, North Africans という集団に対応するといわれる.逆に,かつてアフリカ中央に居住していたが,現在,対応する語族の存在が確認されない集団としては Pygmies がいる.彼らは,歴史の過程で,西アフリカから拡大した Niger-Kordofanian 語族の Bantu 系諸語に呑み込まれ,言語交代しつつ現代に至っている.
・ Comrie, Bernard, Stephen Matthews, and Maria Polinsky, eds. The Atlas of Languages. Rev. ed. New York: Facts on File, 2003.
・ 宮本 正興・松田 素二(編) 『新書アフリカ史 改訂版』 講談社〈講談社現代新書〉,2018年.
アングロサクソン七王国 (The Anglo-Saxon Heptarchy) とは5--9世紀のイングランドに存在したアングロサクソンの7つの王国で Northumbria, Mercia, Essex, East Anglia, Wessex, Sussex, Kent を指す.5世紀を中心とするアングロサクソンのブリテン島への渡来に際して,主としてアングル人が Northumbria, Mercia, East Anglia に入植し,サクソン人が Essex, Wessex, Sussex に, ジュート人が Kent に各々入植したのが,諸王国の起源である.互いに攻防を繰り返し,6世紀末には七王国が成立したが,800年頃までには Northumbria, Mercia, East Anglia, Wessex の4つへと再編され,最終的には9--10世紀にかけて Wessex が覇権を握り,その下でアングロサクソン(イングランド)王国が統一されるに至った.
七王国時代には,時代によって異なる王国が覇を唱えた.7世紀から8世紀前半にかけては Northumbria が覇権を握り,Bede, Alcuin などのアイルランド系キリスト教の大学者も輩出した(「ノーサンブリア・ルネサンス」と呼ばれる).8世紀後半から9世紀初めにかけては,Mercia に Offa 王が現われ,海外にも名をとどろかせるほどの隆盛を誇った(「マーシアの覇権」).Offa は銀貨も鋳造し,イングランド統一に近いところまでいった.また,ウェールズとの国境を画する「オッファの防塁」 (Offa's Dyke) もよく知られている.しかし,Mercia の覇権は続かず,9世紀が進んでくると Wessex の宗主権の下に入ることになった.
9世紀後半にかけてヴァイキングの侵攻が激化してくると,王国は次々と独立を失い,形をとどめたのはアルフレッド大王の Wessex のみとなってしまった.Wessex を守り抜いた大王とその子孫は,9世紀末から10世紀にかけてイングランドの他の領域にも影響力を行使し,事実上のイングランド統一を果たしていった.
このように,アングロサクソン七王国は,内圧と外圧によりその分立が徐々に解消されていき,ついにはアングロサクソン(イングランド)王国へと発展していった.この時代のもう少し詳しい年表については,「#2871. 古英語期のスライド年表」 ([2017-03-07-1]),「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1]) を参照.
指 (13) の「アングロ・サクソン七王国」と題する地図を掲げておこう.実際には明確な国境があったわけではなく,それぞれの勢力圏は流動的だったことに注意しておきたい.
・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.
5世紀のアングロサクソンのブリテン島への渡来は「ゲルマン民族の大移動」 (Volkerwanderung) の一環としてよく知られているが,それと同時期に生じていたケルトの移動については特に名称も与えられておらず,印象が薄い.実は,ブリテン諸島のケルト人は,アングロサクソンの渡来と前後する4--8世紀のあいだ,なかなか活動的だったのである.4--5世紀にはアイルランドからスコットランド西岸やウェールズ西岸への移住がみられたし,4--8世紀のあいだにはブリテン島南西部から海峡を南に越えてブルターニュ半島へも人々が渡っていた(後者については「#734. panda と Britain」 ([2011-05-01-1]) と「#3761. ブリテンとブルターニュ」 ([2019-08-14-1]) を参照).
従来,アングロサクソンがブリテン島に押し入ってきたことにより,ケルトが周辺部に追いやられたと考えられてきた.しかし,ケルトは実際にはアングロサクソンがやってくる以前から様々な動きを示していたのである.指 (12--13) は次のように述べている.
従来,アングロ・サクソン人は,先住のケルト人を,西ではウェールズ(サクソン人の言葉で「外国人の土地」を意味する)やコーンウォール,北方では高地スコットランド地方といった辺境へ追いやったと考えられてきた.しかし,ゲルマン人の活動が盛んであった五世紀の前後,イギリス諸島のケルト人の動きも活発であったことを忘れてはならない.すでに四世紀にはアイルランドのスコット人がブリテン島北西部に移住し,先住のピクト人を統合するかたちで後のスコットランドを形成することになったし,一部のアイルランド人はウェールズにも渡った.ウェールズなどブリテン島西南部のブリトン人も,四?八世紀に,海を渡ってブルターニュ半島に定着,王国を形成した.イギリス諸島の西と東とでともに大きな人々の動きが見られたのである.
しかも近年では,イングランドからもケルト系先住民が完全に放逐されたわけではなく,先のケルト人が多数を占める先住民と融合していたように,実際には共住もしていたことが,考古学の発見によって明らかにされてきている.アングロ・サクソンの人口はケルト人を凌駕するものではなかったようだが,この過程で,優勢であったアングロ・サクソンの文化が定着し,英語が使用されるなど,イングランド地域からケルト文化が駆逐されていったことも,また確かである.
「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1]) のような地図に,ケルトの移動も組み合わせた別の地図(指, p. 12 より)を示そう.
近年,従来のアングロサクソンの「電撃的な圧勝」という説ではなく,ケルトとの共生を想定する,穏やかな説が聞かれるようになってきている.これについては「#3113. アングロサクソン人は本当にイングランドを素早く征服したのか?」 ([2017-11-04-1]) の記事や,そこからのリンク先の記事を参照.
・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.
「#3784. ローマン・ブリテンの言語状況 (1)」 ([2019-09-06-1]) と「#3785. ローマン・ブリテンの言語状況 (2)」 ([2019-09-07-1]) で,ローマン・ブリテンの話題を取り上げた.君塚や指のイギリス史概説書を参照して,この時代を中心とする略年表を作成してみた(イギリス史全体の年表については,「#3478. 『図説イギリスの歴史』の年表」 ([2018-11-04-1]),「#3487. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の年表」 ([2018-11-13-1]),「#3497. 『イギリス史10講』の年表」 ([2018-11-23-1]) などを参照).
81万年前頃 | ブリテン付近に人類が居住 |
紀元前1万年頃 | 狩猟採集民が居住(旧石器時代末期) |
前7--6千年頃 | ブリテン島が大陸から分離 |
前4千年頃 | 農耕・牧畜の開始(新石器時代の開始) |
前22--20世紀頃 | ビーカー人が渡来(青銅器時代の開始) |
前18世紀頃 | ストーンヘンジの建造 |
前6世紀頃 | ケルト系のベルガエ人の渡来 |
前2世紀末 | ベルガエ人が高度な鉄器文化と農牧文化を築く |
前55--54年 | ユリウス・カエサルのブリタニア遠征 |
43年 | ローマ皇帝クラウディウスのブリタニア侵攻 |
50年頃 | ロンディニウム(ロンドン)の建設 |
61年 | イケニ族の女王ボウディッカの反乱 |
80年頃 | ローマ軍,スコットランドに到着 |
122--132年 | ハドリアヌスの長城の建造 |
140年頃 | アントニヌスの長城の建造(しかし,60年後に放棄) |
2世紀末 | ロンドンが中心都市として発達し,街道も整備される |
211年 | ブリテン,ローマと協約締結し「同盟者」に |
306年 | ブリタニアで即位したコンスタンティヌス,帝国の再編へ |
4世紀半ば | キリスト教の伝来,ヨークとロンドンに司教座 |
406年 | 大陸のゲルマン諸部族,ライン川を超えてガリアへ侵入 |
410年 | ローマ,ブリタニアから撤退 |
449年 | アングロ・サクソンの渡来が始まる |
6世紀末 | 7王国の成立 |
597年 | 聖アウグスティヌス,キリスト教宣教のために教皇グレゴリウス1世によってローマからケント王国へ派遣される |
664年 | ウィットビーの宗教会議でローマキリスト教の優位が認められる |
「#3741. 中英語の不定詞マーカー forto」 ([2019-07-25-1]) で触れたように,中英語には to や forto などと並んで,不定詞マーカーとして at という語も稀に用いられた.この語は馴染みのある前置詞 at とは別物で,古ノルド語の不定詞マーカー at を借用したものとされる.ただし両形態とも結局のところ語源を一にするので,語の借用というよりは,用法の借用というべき事例かもしれない.OED の at, prep. によると,不定詞マーカーとしての用法について次のように記述がある.
VI. With the infinitive mood.
†39. Introducing the infinitive of purpose (the original function also of to; cf. French rien à faire, nothing to do, nothing at do, nothing ado n. and adj.2). Obsolete exc. dialect.
Corresponding to Old Norse at (Danish at, Swedish att) in gefa at eta to give one at eat, i.e. to eat; but not, like it, used with the simple infinitive; the nearest approach to which was in the phrase That is at say = French c'est à dire.
MED の at adv. with infinitive を参照すると,at do, at ete, at kep, at sai のような決まった動詞とともに用いられる傾向があるという.MED より最初期の例をいくつか挙げておこう.
・ c1280 Chart.in Birch Cart.Sax.2.326: Yat ye land of seint Wilfrai..fre sal be ay; At na nan..In yair Herpsac sal have at do.
・ c1300 Horn (LdMisc 108)906: Þe hondes gonnen at erne [Hrl: to fleon] In to þe schypes sterne.
・ c1330(?a1300) Tristrem (Auch)543: Ynouȝ þai hadde at ete.
・ c1330(?c1300) Guy(1) (Auch)2495: Þat he cum wiþ þe at ete.
・ (1399) RParl.3.451a: The Answers of certeins Lordes, that is atte saye, of the forsayd Ducs of Aumarle [etc.].
古ノルド語の用法に由来するということから察せられるように,不定詞マーカー at は北部方言によくみられた.eLALME の Item 81 として取り上げられており,以下の Dot Map が得られる.明確に北部的な分布だ.
ちなみに名詞 ado 「騒動;面倒」は at do の約まったものに由来する.シェイクスピアの喜劇 Much Ado About Nothing 『空騒ぎ』は,要するに much to do about nothing ということである.「すべきこと」→「面倒な仕事」→「騒動」ほどの意味の発展を経たと考えられる.初出は以下の通りで,すでに「騒動;衝突」ほどの意味で使われている.
c1380 Firumb.(1) (Ashm 33)5648: Olyuer wyþ a corde bond him fast, Ac arst was muche ado.[ 固定リンク | 印刷用ページ ]
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