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2017-09-30 Sat

#3078. kenning と枕詞 [kenning][japanese][literature]

 古英語の修辞技法である kenning について,「#472. kenning」 ([2010-08-12-1]),「#2677. Beowulf にみられる「王」を表わす数々の類義語」 ([2016-08-25-1]),「#2678. Beowulf から kenning の例を追加」 ([2016-08-26-1]) などでみてきた.今回は,福原 (70) が古英語の kenning と日本語の枕詞とを比較している文章を見つけたので,引用したい.ここでは,「海」を表わすのに whale-road (鯨の道)という隠喩的複合語をもってする例を念頭においている.

此處に whale-road といふ言葉でありますが,吾々の國には枕詞といふものがあつて,例へば「あしびきの山鳥」「たらちねの父母」といふ様に申します.丁度此の枕詞が之に似て居ります.「たらちねの父母」といふ言葉の代りに,お終ひには「たらちね」だけですませ,枕詞の中に父母という意味がある様になつて來ました.それから「いさなとり」,是は海の枕言葉でありますが,「いさな」とは鯨のことらしい,whale-road と「いさなとり」といふ枕詞と大變似て居ります.吾々の國の文學でさういふ枕詞を使つた時代は平安朝で一應お終ひになりました.平安朝といふ非常に爛熟した時代でお終ひになりましたが,文化の爛熟といふことと修飾した言葉を無暗に使つて喜ぶことと関係があるのではないかと思ひます.でセルマの歌なんか頗る感情的な,形容詞的な歌でありますが,實質的なことをいはないで無暗に形容詞でもつて人の心を掻き立てる様な演説がある時代が現はれると,其の國はそろそろお終ひだと思つて良いかも知れない.文學に使はれる言葉とその國の文化との關係といふものは一つの注意すべき問題であると思ふのであります.


 福原は,kenning と枕言葉の語形成や用法が似ているという点を指摘するのみならず,そのような形容詞的,修飾的な言葉遣いは文化の爛熟期に見られることが多いと述べている.爛熟期ということは,次には退廃期が待っているということを示唆しており,つまり件の語法の存在は,それをもつ文化の「お終ひ」を暗示しているのだ,という評価だ.何だかものすごい議論である.
 なお,引用中の「セルマの歌」は,ケルト民族の歌の時代を思い起こさせるスコットランドの古詞である.

 ・ 福原 麟太郎 『英文学入門』 河出書房,1951年.

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2017-09-29 Fri

#3077. 長田による「文字言語の構成要素と暗号形式の対応」 [cryptology][semiotics][sign][writing]

 連日,長田順行(著)『暗号大全』を参照しているが,言語と文字について論じる上で,暗号(学)が多くのインスピレーションを与えてくれることに驚いている.今回は,様々な種類の暗号を「文字言語の構成要素と暗号形式の対応」関係により整理・分類した長田の表を示したい (29) .

文字言語の構成要素と人為的操作形式名見かけ上の特徴
一定の文字別の文字で代用換字式暗号らしい暗号(一般的な暗号)
一定の順序順序の入替え転置式暗号らしい暗号(一般的な暗号)
別の文字を挿入分置式暗号らしくない暗号(特殊な暗号)
一定の意味別の意味に変換,あるいは遠回しに表現隠語・隠文式暗号らしくない暗号(特殊な暗号)
上記の組み合わせ混合式暗号らしくない暗号(特殊な暗号)


 換字式 (substitution) は「#2704. カエサル暗号」 ([2016-09-21-1]) に代表されるタイプで,ある文字を別の文字で代用するものである.一方,転置式 (transposition) は一定の順序に並んでいる文字列を,別の順序に並び替えるタイプである.例えば,最も簡単な転置式暗号の1つは,nowhereerehwon などと逆順に並び替えるものである.この2種類の暗号では,できあがった暗号文はたいてい意味不明の文字列になるのでいかにも見栄えは暗号らしくなる.
 分置式は,一定の順序に並んでいる文字列に別の文字を挿入するもので,「#3072. 日本語の挟み言葉」 ([2017-09-24-1]) で挙げた「ノサ言葉」などが例となる.「#3071. Pig Latin」 ([2017-09-23-1]) は,転置式と分置式を合わせたような暗号である.これらは,ある程度普通言語のような見栄えをしているのが特徴である.
 以上の3種類は,文字レベルの操作であり,記号論でいうところの能記 (signifiant) をいじることによる暗号化である.それに対して所記 (ssignifié) をいじるタイプの暗号もあり,隠語・隠文などと呼ばれる.見栄えとしては普通言語の語などからなっているが,その語の意味は別の意味に変換されているので,それを了解していないかぎり,読み解くことは難しい.

 ・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.

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2017-09-28 Thu

#3076. 隠語,タブー,暗号 [cryptology][taboo][semiotics][sociolinguistics][anthropology][kotodama]

 古代社会では,名前を置き換える隠語が広く使用されていた.例えば,古代エジプト人や古代インドのバラモンの子供は2つの名前をもっていた.1つは一般に開放されて常用される名前であり,もう1つは秘匿される真の名前である.真の名前を隠すのは悪霊から身を守るためである.このように代わりの名前を用いることが個人名にとどまらず一般の言葉にまで及ぶと,それは隠語の体系,あるいはタブー (taboo) の組織というべきものになってくる.隠語とは,それを用いる比較的狭い言語共同体のなかでしか理解されないという意味において,外部の人間にとって暗号以外の何物でもない.ここにおいて,隠語,タブー,暗号の3者が関連づけられることになる.
 この件について,長田 (106) は次のように述べている.

 このようにみてくると,コトバの置換えである隠語の使用が,いかにわれわれの祖先の生活に不可欠であったかがわかる.すなわち隠語は,人類がコトバをもったとき同時に生まれたもう一つのコトバだったのである.
 また忌み詞も隠語の一種といえよう.ある特定の言葉を口にすることを忌む習慣から,塩を「浪の花」といったり,西アフリカのバングウェ族のように便所に行くことを,「薪を取りに走って行かねばならない」とか,「わなを見回ってくる」といったりするのが,それである.


 隠語やタブーが,人間のコミュニケーション能力を爆発させることになる言語の創発と同時に生じたという仮説は,人類にとって言語とは何かという問題に新たな角度から光を当てるものになるだろう.
 関連して,「#1338. タブーの逆説」 ([2012-12-25-1]),「#2410. slang, cant, argot, jargon, antilanguage」 ([2015-12-02-1]) も要参照.

 ・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.

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2017-09-27 Wed

#3075. 略語と暗号 [cryptology][abbreviation][shortening][acronym][initialism][writing]

 略語表記は英語でも日本語でも花盛りである.「#889. acronym の20世紀」 ([2011-10-03-1]),「#2982. 現代日本語に溢れるアルファベット頭字語」 ([2017-06-26-1]) でみたように,頭字語と呼ばれる acronyminitialism などは新聞や雑誌などに溢れている.確かに略語表記は現代に顕著だが,その存在は古くから確認される.西洋ではギリシア・ローマの時代に遡り,その起こりこそ筆記に要する空間・時間の節約や速記といった実用的な用途にあったかもしれないが,やがて宗教的な目的,秘匿の目的にも用いられるようになった.長田 (43--44) は,暗号との関連から略語について次のように論じている.

 略語は,このように第三者に対する秘匿とは別の目的から使用され,発達してきたが,略語そのものがあまり慣用されていないものであったり,略語の種類が増加してくると,略語表を見ないと元の意味がとれない場合が生じる.また,簡略化によるものや書き止めによる略語(書きかけのまま中途で止めて略語とするもの)には,それが略語であることを示すために単語上や語末に傍線を入れて注意を喚起するようなことが行なわれた.
 じつは,この不便さが一方では秘匿の目的に略語が使用されることにつながるのである.


 AIDSEU であれば多くの人が見慣れており相当に実用的といえるが,最近目につくようになったばかりの EPA(Economic Partnership Agreement; 経済連携協定)や ICBM(Inter-Continental Ballistic Missile; 大陸間弾道弾)では,必ずしも多くの人が何の略語なのか,何を指すのかを認識していないかもしれない.かすかなヒントがあると言い張ることはできるかもしれないが,暗号に近いといえるだろう.
 では,AIDSEU はなぜ認知されやすいのかといえば,繰り返し用いられてきたからである.当初は事実上の暗号に等しかったろうが,それでも構わずに使い続けられていくうちに,多くの人々が慣れ,認知するに到ったということである.これは非暗号化の過程とみることもできるだろう.「これらの略語も繰り返し使用したのでは,秘匿の効果が薄れてしまうことはいうまでもない」(長田,p. 45).

 ・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.

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2017-09-26 Tue

#3074. 「文字は公認の暗号である」 [cryptology][language][semiotics][saussure][arbitrariness][sign][writing]

 通常,少数の人によってしか共有されていない文字を指して暗号と呼ぶが,標題のように裏からとらえて「文字は公認の暗号である」と表現することもできる.これは,みごとな逆転の発想である.長田 (136--37) を引用する.

 音声言語を表記するためにどのような文字を使用するかはどうでもよいことであって,要はその文字の使い方が首尾一貫していれば,記号としての役目を果たすことができる.フェルディナン・ド・ソシュールは,「記号の不易性と可易性」について次のように述べている.「能記は,その表はす観念と照し合はす時は,自由に選ばれたものとして現はれるとすれば,逆にこれを用ひる言語社会と照し合はす時は,自由ではなくて,賦課されたものである.社会大衆は一つも相談にあづからず,言語の選んだ能記は他のものと代へるわけにはいきかねる.この矛盾を含むかに思はれる事実は,平たくいへば『脅迫投票』とでもいふべきか.言語に向って『選びたまへ』と言つたそばから,『この記号だぞ,ほかのでなくて』と附加へる」(小林英夫訳『言語学原論』)
 これはそのまま換字式暗号にあてはまる原理である.変換する記号としてはどのようなものを選んでもさしつかえないが,一度選んだならば,その規約を使用する間はけっして変更することは許されない.ただ換字式暗号の違う点は,言語とその表記の関係が第三者に秘匿されていることである.
 一般に文字言語を「社会公認公用の暗号法」と呼ぶのは,このような相対関係によるものである.


 また,次のようにも述べている (137--38)

ウェルズは,その『世界史』に,「文字は,それが発明されたとき,初めのうちは関係の人だけの秘密通信に使われていた」と書いている.これは,識字率の低い間は文字そのものが秘密の表記であったことを的確にとらえた言葉である.


 文字も暗号も恣意的な記号であるという点では共通している.顕著な差異を1つ挙げるとすれば,文字は通常多数の人に共有されているが,暗号は少数の人にしか知られていないということだろう.それを知っている人の数というパラメータを度外視すれば,文字はすなわち暗号であり,暗号はすなわち文字であるといえる.言語学的文字論と暗号学がいかなる相互関係にあるのか,一気に呑み込めた気がする.
 関連して,「#2699. 暗号学と言語学」 ([2016-09-16-1]),「#2700. 暗号によるコミュニケーションの特性」 ([2016-09-17-1]) と「#2701. 暗号としての文字」 ([2016-09-18-1]) も参照されたい.

 ・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.

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2017-09-25 Mon

#3073. 9譛茨シ郡eptember?シ碁聞譛? [calendar][month][latin][verners_law][etymology][numeral][analogy]

 月名シリーズ (month) の「9月」をお届けする.「9月」を表わす語は,古英語では hærfest-mōnaþ "harvest month" (収穫の月)だった.しかし,古英語後期にはラテン語 September (mēnsis) が借用されている.中英語ではフランス語形 Septembre が普通だったが,近代英語になると再びラテン語形 September が採用された.ラテン語 septem は "seven" の意であるから,本来は「7番目の月」を表わしていた.現在の感覚からすると2月分ずれているように見えるが,これは古代ローマ暦では1月ではなく3月を年始としていたことに由来する.
 「7」を表わす印欧祖語の再建形は *septm̥ であり,ラテン語形 septem から遠くない.なお,ギリシア語では印欧祖語の sh に対応するため,「7」は heptá となる (cf. Heptarchy (七王国),s (七書);「#350. hypermarketsupermarket」 ([2010-04-12-1]) と「#352. ラテン語 /s/ とギリシャ語 /h/ の対応」 ([2010-04-14-1]) も参照) .印欧祖語形 *septm̥ の子音 *p は,ゲルマン祖語においては Verner's Law を経て有声摩擦唇音の *ƀ となる一方で,もう1つの子音 *t は,おそらく歯音接辞を付す序数詞形において4子音連続が生じてしまうために消失したことからの類推で落ちたものと考えられる (cf. Gmc *sebunða-) .結果として Gmc 古英語 *seƀun から,古英語 seofon,オランダ語 zeven,ドイツ語 sieben などが発達した.Verner's Law については,「#104. hundredヴェルネルの法則」 ([2009-08-09-1]),「#480. fatherヴェルネルの法則」 ([2010-08-20-1]),「#858. Verner's Law と子音の有声化」 ([2011-09-02-1]) を参照されたい.
 なお,October, November, December にもみられる -ber 語尾については,ラテン語 mēnsis に基づく形容詞形 *mēns-ris において,隣接する子音群の同化により -br- が現われたのではないかと推測されているが,詳細は不明である.
 日本語で陰暦9月を表わす「長月」は,夜長月(ヨナガツキ)の略(あるいは稲刈月(イナカリツキ)の略)と言われるが,これは中古以来の民間語源説にすぎないという見解もある.折口信夫によれば,9月が長雨(ナガメ)の時季でもあることと関連して名付けられたのだろうとされる.

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2017-09-24 Sun

#3072. 日本語の挟み言葉 [japanese][cryptology][word_play]

 昨日の記事「#3071. Pig Latin」 ([2017-09-23-1]) でみた言葉遊びは,種類としては広く「挟み言葉」といわれる.単語内での要素の入れ替えや新要素の付加に特徴づけられる語形の変形のことであり,あたかも単語内に何かが挟まってくるかのような印象を受ける.
 この種の言葉遊びはおそらく多くの言語に見られる.日本語でも,「ノサ言葉」なる挟み言葉の遊びがある(長田,p. 121).

セ(ノサ)ミトリハ オ(ノサ)モシロカッタ? (蝉取りはおもしろかった?)
オ(ノサ)モシロカッタ ハ(ノサ)ッピキ ト(ノサ)ッタ (おもしろかった,八匹取った)


のように,単語(分節というべきか)の第1音節と第2音節のあいだに「ノサ」を挟むものである.「ノ」は第1音節に,「サ」は第2音節につけて発音し,アクセントを上手に操ると,第三者には理解しにくいという意味では,符丁的,暗号的な役割を果たすことができる.
 挟み言葉は,江戸の中期頃から庶民のあいだで流行ったようで,末期には唐事(からこと)と呼ばれた.明和9年(1772年)に出された洒落本『辰巳之園』には,ア段の音節の後に「カ」を,イ段の音節の後に「キ」を付けるといったようにカ行音を語中に挟むものが紹介されている.これだと,例えば「キャク」であれば「キキヤクク」,「ネコ」であれば「ネケココ」となる.
 私も子供のころ「ブンブンブン ハチガトブ」という歌詞における「ン」以外の各音説の後に「ル」を挟み込んで,「ブルンブルンブルン ハルチルガルトルブル」と歌う言葉遊びをしたことがある.脳とろれつを回転させるのにおもしろいゲームである.
 挟み言葉を即興で産出・理解できる者どうしが高速に会話をすれば,事実上の暗号となるのではないかと思われる.もちろん,文字化してしまえば,暗号としての効果はほぼゼロとなることはいうまでもない.

 ・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.

Referrer (Inside): [2017-09-29-1]

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2017-09-23 Sat

#3071. Pig Latin [cryptology][word_play][cgi][web_service]

 英語の言葉遊びで Pig Latin というものがある.単語を一定の原則に基づいて変形する遊びだが,その原則は単純である.語頭の子音(群)を語尾に移し,さらにそこに <ay> /eɪ/ を追加する.語頭が母音の場合には,語尾に <way> /weɪ/ を追加するのみ.例えば,Pig LatinIgpay Atinlay となり,I dont know.Iway ontday nowkay. となる.語頭の子音(群)の扱いの差異や,語尾としての <way> /weɪ/ の代わりに <yey> /weɪ/ を用いるなどの変種もみられる.
 慣れてしまえば即興で作れるが,慣れていない者にとって理解が難しいことから,言葉遊びにとどまらず,話し言葉における隠語やちょっとした暗号として用いることもできる.言葉遊びと暗号の距離は意外と近い.
 Pig Latin のほか,より古い Hog Latin という呼称もある.前者は19世紀末,後者は19世紀初めに初出している.いずれも「崩れたラテン語」「偽のラテン語」ほどの意味である.実際にはラテン語と縁もゆかりもないが,格変化のような語尾が付き,理解しにくいという点で,ラテン語に擬せられたということだろう.なお,崩れたラテン語を表わす dog Latin という表現は17世紀半ばに初出しているが,こちらは変則的ながらも一応のところラテン語ベースである.
 以下,Pig Latin 変換器を実装したのでお試しあれ.

Plain English to Pig Latin
Pig Latin to Plain English

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2017-09-22 Fri

#3070. 暗号として用いられた普通語 [cryptology][history]

 「#2699. 暗号学と言語学」 ([2016-09-16-1]),「#2729. あらゆる言語は暗号として用いられる」 ([2016-10-16-1]) でみたように,通常の言語であっても使用者の少ない言語であれば,そのまま暗号として用いられうる.第2次世界大戦のナヴァホ族のコード・トーカーがよく知られているが,長田(著)『暗号大全』によると,ほかにも歴史上の「普通語」使用の事例はある (33--35) .
 例えば,中世ヨーロッパでは一般的だったように,ラテン語は聖職者を初めとする知識人しか使いこなすことができなかった.それゆえ,聖職者どうしが意識的に庶民に知られたくないコミュニケーションを取ろうと思えば,ラテン語でやりとりすればよいのだった.
 紀元前まで遡ると,シーザーがガリア遠征(紀元前54年)の軍事暗号として,ギリシア語を用いたことが知られている.ガリアの種族はギリシア語を解さなかったので,普通語であるギリシア語を用いるだけで,そのまま事実上の暗号となったのである.
 19世紀末に話しは飛ぶが,南アフリカで繰り広げられたボーア戦争において,イギリス軍の将校は,ボーア人の知らないラテン語で命令や報告の伝達を行なっていた.
 1960年,ベルギー軍がコンゴ共和国の首都レオポルドビルに侵入したとき,これに対して派遣された国連軍のなかにアイルランド兵がいた.彼らは無線電話で母語のゲール語を用いて伝達情報を秘匿した.当時の国連軍司令官は「これこそ,最良の暗号だ」と激賛したという.
 最後に,我が国で,昭和46年の新聞に「朝鮮語,非行少女の間で流行」という記事があったもという.
 長田 (35) は,この種の「暗号」は上記のように有効性を示した局面もあったが,「第三者のコトバに関する無知に依存しているわけだから」本質的には消極的な暗号であるとしている.考えてみれば,自分ともう1人以外には日本語を解する人がいないと思われる国際的な会話の場面で,あえて2人の間で日本語を符丁として用いるという状況はあるが,実は周囲の誰かが日本語を解するという可能性はゼロではない.確実に情報を秘匿したいときに使えるワザではない,というのは確かだろう.

 ・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.

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2017-09-21 Thu

#3069. 連載第9回「なぜ try が tried となり,die が dying となるのか?」 [spelling][y][spelling_pronunciation_gap][minim][cawdrey][mulcaster][link][rensai][sobokunagimon][three-letter_rule]

 昨日9月20日付けで,英語史連載企画「現代英語を英語史の視点から考える」の第9回の記事「なぜ try が tried となり,die が dying となるのか?」が公開されました.
 本ブログでも綴字(と発音の乖離)の話題は様々に取りあげてきましたが,今回は標題の疑問を掲げつつ,言うなれば <y> の歴史とでもいうべきものになりました.書き残したことも多く,<y> の略史というべきものにとどまっていますが,とりわけ各時代における <i> との共存・競合の物語が読みどころです.ということは,部分的に <i> の略史ともなっているということです.標題の素朴な疑問を解消しつつ,英語の綴字の歴史のさらなる深みへと誘います.
 本文の第3節で "minim avoidance" と呼ばれる中英語期の特異な綴字習慣を紹介していますが,これは英語の綴字に広範な影響を及ぼしており,本ブログでも以下の記事で触れてきました.連載記事を読んでから以下のそれぞれに目を通すと,おそらくいっそう興味をもたれることと思います.

 ・ 「#91. なぜ一人称単数代名詞 I は大文字で書くか」 ([2009-07-27-1])
 ・ 「#870. diacritical mark」 ([2011-09-14-1])
 ・ 「#223. woman の発音と綴字」 ([2009-12-06-1])
 ・ 「#1094. <o> の綴字で /u/ の母音を表わす例」 ([2012-04-25-1])
 ・ 「#2227. なぜ <u> で終わる単語がないのか」 ([2015-06-02-1])
 ・ 「#2740. word のたどった音変化」 ([2016-10-27-1])
 ・ 「#2450. 中英語における <u> の <o> による代用」 ([2016-01-11-1])
 ・ 「#3037. <ee>, <oo> はあるのに <aa>, <ii>, <uu> はないのはなぜか?」 ([2017-08-20-1])

 第4節では,リチャード・マルカスターの綴字提案とロバート・コードリーの英英辞書に触れました.1600年前後に活躍したこの2人の教育者については,「#441. Richard Mulcaster」 ([2010-07-12-1]) と「#603. 最初の英英辞書 A Table Alphabeticall (1)」 ([2010-12-21-1]) を始め,mulcastercawdrey の各記事もご参照ください.
 最後に,第5節で「3文字」規則に触れましたが,こちらに関しては「#2235. 3文字規則」 ([2015-06-10-1]),「#2437. 3文字規則に屈したイギリス英語の <axe>」 ([2015-12-29-1]) の記事を読むことにより理解が深まると思います.

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2017-09-20 Wed

#3068. 「宗教改革と英語史」のまとめスライド [reformation][renaissance][bible][emode][lexicology][slide][history][link][map][hel_education][asacul]

 英語史における宗教改革の意義について,reformation の各記事で考えてきた.現時点での総括として,「宗教改革と英語史」のまとめスライド (HTML) を公開したい.こちらからどうぞ.  *  *
 15枚からなるスライドで,目次は以下の通り.

 1. 宗教改革と英語史
 2. 要点
 3. 宗教改革とは?
 4. 歴史的背景
 5. イングランドの宗教改革とその特異性
 6. ルネサンスとは?
 7. イングランドにおける宗教改革とルネサンスの共存
 8. 英語文化へのインパクト
 9. プロテスタンティズムの拡大と定着
 10. 古英語研究の開始
 11. 語彙をめぐる問題
 12. 一連の聖書翻訳
 13. まとめ
 14. 参考文献
 15. 補遺:「創世記」11:1--9 (「バベルの塔」)の近現代8ヴァージョン+新共同訳

 別の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]) もご覧ください.

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2017-09-19 Tue

#3067. 宗教改革略年表 [timeline][reformation][history]

 今年は宗教改革500周年に当たる.1517年10月31日,ルターがヴィッテンベルクの城教会の北入口の扉に「95箇条の提題」を貼りだし,宗教改革が始まったとされる.以下に,森田 (122--25) による「宗教改革略年表」を再現したい.西ヨーロッパ全体に関わる年表だが,イングランドやスコットランドの主要な事件も含まれている(黄字で示した).宗教改革と英語(史)の関係を考慮する際のおともにどうぞ.

148311.10マルティン・ルター誕生(?1546.2.18.)
14841.1ウルリヒ・ツヴィングリ誕生(?1531.10.11.)
14884.21ウルリヒ・フォン・フッテン誕生(?1523.8.29?)
15097.10ジャン・カルヴァン誕生(?1564.5.27)
15162.エラスムス『校訂新約聖書』
15164.16ツヴィングリ,アインジーデルン修道院の司牧司祭となる
151710.31ルター「95箇条の提題」を発表
15191.1ツヴィングリ,チューリヒの司牧司祭となる
1519 エラスムス『パラクレーシス キリスト教哲学研究の勧め』単行本として出版
15196.27--7.17ライプツィヒ討論会
15206.15ルターに対する波紋威嚇勅書「主よ,立ちて」が出される
15208.ルター「キリスト教界の改善について,ドイツ国民のキリスト教貴族に与える」
15209.28フッテン『ドイツ国民の諸身分に与える訴状』
152010.ルター「教会のバビロン捕囚について」
152011.ルター「キリスト者の自由」
152011.ドイツ各地でルターの書物焼かれる
152012.10ルター,破門脅迫勅書,教会法などの書籍を焼却
15211.3教皇勅書「ローマ教皇にふさわしく」によりルター正式に破門さる
1521「神の水車」(パンフレット)
1521 ルフェーヴル・デターブル,モーで改革運動
15214.17ルター,ヴォルムス帝国議会に召喚
15215.26ルター,ヴォルムス勅令により帝国追放刑
1521 クラーナハ『キリストの受難とアンチ・キリストの受難』
15229.フッテン,ジッキンゲンら帝国騎士とともに,トリーア大司教を攻撃し,失敗する(騎士戦争)
15231.29チューリヒの第一回公開討論会
15236.ツヴィングリ『67箇条の提題の講解と論証』
152310.26チューリヒの第二回公開討論会
1523/24 カールシュタット,オルラミュンデにおいて急進的改革を実施
1524/25 ドイツ農民戦争
15251.チューリヒ郊外のツォリコーン村で,再洗礼派運動誕生
15261.マドリード条約
15265.21--6.8バーデン宗教討論会(スイス版ヴォルムス帝国議会)
15265.22フランソワ一世,教皇とコニャック同名を結ぶ
15268.モハーチの戦い
15268.第一回シュパイエル帝国議会,宗教改革に自由を与える
15271.フェーリクス・マンツ,リマト川にて溺殺刑
1527 ザクセン選帝侯ヨーハン「巡察者のための訓令」を発布
15275.皇帝軍,ローマ掠奪
152712.チューリヒ,コンスタンツと「キリスト教都市同盟」締結
15281.ベルン公開討論会,ベルン宗教改革を導入して,「キリスト教都市同盟」へ加入
15282.「パック事件」が起きる
15294.22第二回シュパイエル帝国議会,ヴォルムス勅令の再施行
15294.オーストリア,スイスのカトリック諸邦と「キリスト教連合」(ヴァルツフート同盟)
1529 ルーカス・クラーナハ「律法と福音」
15295.第一次カペル戦争
15298.3カンブレ和約
15299.26--10.15第一次ウィーン包囲
152910.1--3マールブルク宗教会談,ルター派とツヴィングリ派,正餐論争で一致せず
152911.4--1536.4イングランドで「宗教改革議会」召集
15301.「キリスト教都市同盟」にシュトラースブルク加入
15306.アウクスブルク帝国議会,「アウクスブルク信仰告白」の朗読
15308.エックら「カトリックの論駁書」
153011.ウルジー,大逆罪の容疑で逮捕され,ロンドンへ護送される途中で病死
15312.27シュマルカルデン同盟結成
153110.第二次カペル戦争,ツヴィングリ戦死
15348.イグナティウス・デ・ロヨラ,イエズス会を設立
153410.17--18「檄文事件」
153411.イングランド議会「国王至上法」制定
1535 『カヴァデイル訳聖書』刊行
15357.6トマス・モア処刑
15362.7ジュネーヴ,ベルンと同盟
15362.26「第一スイス信仰告白」
15363カルヴァン『キリスト教綱要』
15365.21ジュネーヴ,宗教改革導入を決定
15365西南ドイツの福音派とルター派のあいだに「ヴィッテンベルク一致信条」成立
15367カルヴァン,ジュネーヴで宗教改革運動に参加
15371.カルヴァン「教会組織に関する諸条項」
15384.23カルヴァン,市民総会の決定により都市外追放
15396.「六箇条法」制定,『大聖書(グレート・バイブル)』刊行
15399.カルヴァン「サドレート枢機卿への返答」
15419.13カルヴァン,ジュネーヴへ帰還
154111.「ジュネーヴ教会規則」を制定
1545 カステリョ,ジュネーヴより追放
1546/47 シュマルカルデン戦争
15471.28英王ヘンリ8世没
15474.24ミュールベルクの戦い,ザクセン選帝侯ヨーハン・フリードリヒ捕虜になる
15473.31仏王フランソワ一世没
15486.「よろいを着た」アウクスブルク帝国議会,「仮信条協定」制定
1551 カルヴァン,ジェローム・ボルセックと二重予定説問題の論争
1552 諸侯戦争 皇帝カール5世敗退
155310.27ミカエル・セルヴェトゥス焚刑
1558 ノックス『女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り』
15559.アウクスブルク宗教平和
1559 ジュネーヴ・アカデミーの創設
15594.イタリア戦争の終結,カトー・カンブレジの和議
15595.「フランス信仰告白」
15603.15--16アンボワーズの陰謀
15608.「スコットランド信仰告白」
15623.ヴァシー事件,ユグノー戦争始まる
1566 「飢餓の年」
15711.イングランド「三九箇条」法制化
15728.23サン・バルテルミの虐殺
15737.「ブーローニュの王令」改革派はラ・ロシェルなどの都市で礼拝式を認められる
15787.「規律(第二)の書」
15791.23ユトレヒト同盟締結
15885.「バリケードの日」パリ市民の蜂起
15888.スペイン無敵艦隊イングランドに敗退
15898.アンリ3世暗殺され,アンリ・ド・ブルボンがアンリ4世として即位
1593 「国教忌避者処罰例」「ピューリタン処罰法」
15984.13ナントの王令
16094.9オランダ独立戦争,オランダとスペインがアントウェルペンで,十二年休戦条約を結ぶ
161811.ドルトレヒト会議,ホマルス派の全面的勝利
164810.ウェストファリア条約


 ・ 森田 安一 『図説 宗教改革』 河出書房,2010年.

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2017-09-18 Mon

#3066. 宗教改革と識字率 [reformation][literacy]

 宗教改革は,識字率に影響を与えたといわれる.「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]),「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]) でみたように,宗教改革と印刷術の活用が二人三脚で進展したからである.実際,宗教改革の前夜である16世紀初頭と同世紀末とを比べると,識字率が大幅に増加したようだ.歴史的な識字率を正しく得ることは難しいが,様々な推計が増加を指摘している.
 永田 (40--42) は,ドイツや西ヨーロッパ全体に関する各種の推計を紹介している.ある推計によれば,16世紀初めのドイツでは3--4%,都市部でも5%ほどだったが,1600年頃のハンブルクでは10%からその数倍の人々が文字を知っていたという.また,西ヨーロッパ全体についても,16世紀末には都市部で識字率が50%近くになっていたという見解もある.様々な推計を受けて,永田 (42) は,作業仮説として「十六世紀初頭に読み書きができるひとは五パーセント以下だったが,その世紀の終わりになると,都市部では三〇から五〇パーセント近くまで上昇した」という見解を採用している.
 ただし,識字率が増加したとはいえ,みなが読めるというにはほど遠い状態である.そのような不完全な識字を補うために,宗教改革の推進派は,紙芝居の音読のような「集団読書」を行なったり,絵入りの冊子や木版画で人々を啓蒙しようとした.これらのメディア戦略が功を奏して,ドイツほかの地域で宗教改革が展開していったのである.
 なお,時代は下って1900年頃のヨーロッパの識字率についても,次のような推計が引き合いに出されているので紹介しておこう.「一九〇〇年頃,プロイセン・ドイツの識字率は八八パーセント,オーストリアは七七パーセント,フランスは八二パーセント,イタリアは五二パーセントである」(永田,p. 42).ただし,一般にヨーロッパの識字の基準は甘く,自分の名前が読み書きできる程度でも文字を知っているとみなされたので,いくらか割り引いて評価する必要はありそうだ.

 ・ 永田 諒一 『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』 講談社〈講談社現代新書〉,2004年.

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2017-09-17 Sun

#3065. 都市化,疫病,言語交替 [language_shift][black_death][sociolinguistics][geolinguistics][geography]

 マクニールは著書『疫病と世界史』のなかで,都市を中心とする文明は疫病とそれによる人口減少の脅威にさらされており,都市機能の維持のために常に周辺からの人口流入を必要とすると述べている (116) .

まず第一にこの上なく明白なことは,人的資源の再生産構造が,文明という環境を利用してはびこる病気との絶えざる接触からくる人口の恒常的な減少傾向に,対応するものとならねばならなかったということである.都市というものは,ごく最近まで,周囲の田園地帯から相当な数の流民を絶えず受け入れていなければ,その成員数を維持してゆくことができなかった.ともかく,都市生活は住民の健康にとってそれほど危険が大きかったのだ.


 周辺部から都市への人口の流入により,ときには都市において言語交替 (language_shift) が起こってきたともいう.例えば,古代メソポタミアで紀元前3000--2000年のあいだに,セム語人口が従来のシュメール語人口を置き換えたケースについて,次のように述べている.「恐らくこの種の人口移動の直接の結果である.推測するに,セム語を話す民衆が大量にシュメールの諸都市に流れ込んだので,古い言語を話す住民を圧倒してしまったのだ.〔中略〕この言語交代の要因としてまず考えられるのは,都市の急激な膨張であり,さらに可能性が強いのは病気,戦争,飢餓等による都市住民の異常な現象である.」 (マクニール,p. 118).
 マクニール (119) は,19世紀の東欧からも例を引いている.

およそ一八三〇年代以降そして特に一八五〇年以後,都市の急速な膨張と新種の疫病であるコレラの蔓延という二つの要因が相まって,ハプスブルク帝国に永年の間確立していた文化的構造が崩壊するに到った.ボヘミアとハンガリーの町々に移り住んだ農民は改めてドイツ語を習得しようとするのが長い間の習慣だった.彼らの子孫は,二,三世代後には,言語においても意識においてもドイツ人になりきってしまう.十九世紀に入るとこのプロセスが崩れ始める.帝国内の諸都市に移住したスラブ語とハンガリー語を話す住民の数がある線を越えたとき,新来者が日常用語としてドイツ語を習得する必要はなくなった.やがて,民族主義的理念が根を下ろし,ドイツ的であることは非愛国的とみなされるに到る.その結果,わずか半世紀のうちに,プラハはチェコ語,ブダペストはハンガリー語が使用される都市に変わったのである.


 異なる言語を話す人々が何らかの人口移動により共存するようになると,そこに人口統計学的,社会言語学的なダイナミズムが生まれ,言語交替が起こるということは,自然のことだろう.しかし,「何らかの人口移動」とは,征服や植民地化などに伴うものばかりではなく,疫病による人口減少の埋め合わせであるとか,技術革新にアクセスするための都市への引きつけであるとか,様々なタイプのものがありうる.マクニールは,それらのなかで疫病の流行に関わるものが歴史の普遍的なパラメータの1つであると力説している.

 ・ ウィリアム・H・マクニール(著),佐々木 昭夫(訳) 『疫病と世界史 上・下』 中央公論新社〈中公文庫〉,2007年.

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2017-09-16 Sat

#3064. Sir John Cheke のギリシア語の発音論争 [greek][bible][orthography][spelling_reform][reformation][webster][pronunciation]

 昨日の記事「#3063. Sir John Cheke の英語贔屓」 ([2017-09-15-1]) で Cheke の言語的純粋主義に焦点を当てた.英語史上,Cheke はこのほか正書法と綴字問題にも関わっていることで知られている(cf. 「#1940. 16世紀の綴字論者の系譜」 ([2014-08-19-1]),「#1939. 16世紀の正書法をめぐる議論」 ([2014-08-18-1])).そしてもう1つ,Cheke はギリシア語の発音について,社会的な意義をもつ論争を引き起こしたことで有名である.
 ギリシア語の発音を巡っては,オランダの人文主義者 Desiderius Erasmus (1466?--1536) が先駆けて議論を提示していた.従来のギリシア語の音読では,異なる母音字で綴られていても同じように発音するという慣習があった.しかし,Erasmus はそれがかつては異なる母音を表わしていたに違いないと推測し,本来の発音がいかなるものだったかを Dialogus de recta latini graecique sermonis pronuntiatione (1528) で提示した.
 Cheke も徹底的に古典ギリシア語の発音を研究していた.Cheke は,1540年にケンブリッジ大学のギリシア語教授となってから,慣習的なギリシア語の発音は誤りであるとして改革の必要性を説いたが,ケンブリッジ大学総長の Stephen Gardiner がそれを遮った.1542年に改革発音を禁じたのである.パリでも Erasmus の改革発音が「文法上の異端」として禁止された.従来の発音を維持することで権威を守りたい体制側のカトリックが,原語に忠実な発音へ改革しようとする反体制的なプロテスタントを押さえつけるという構図である.
 Gardiner は何を恐れていたのだろうか.Knowles (68) より引用する.

   It is difficult to believe that Gardiner was threatened by sounds and the study of pronunciation. What did present a threat, and a serious one, was the precise study of texts. This point had been understood by the Lollard translators. The Bible was at this time increasingly proclaimed by reformers as the ultimate authority, and, the more scholarly and accurate the written text, the more effectively it could be used to challenge the traditional oral authority of the church.
   Gardiner was extremely conservative not only in language but also in politics and religion. When, after 1553, Queen Mary sought to return the English church to Rome, Gardiner was her lord chancellor; and in this capacity he played a role in the burning of heretics, and one of his potential victims --- had he not recanted --- was Sir John Cheke. After Gardiner's death in 1555, Cheke published the correspondence between himself and Gardiner under the title Disputationes de pronuntiatione graecae linguae. What is important and perhaps surprising in this story is that the study of pronunciation could be regarded as a political issue.


 引用の最後で指摘されているとおり,この事件でおもしろいのは,外国語の発音の仕方という些細な問題が政治と宗教の論争にまで発展したことだ.言語においては,1音あるいは1字のうえに命が懸かっているという状況が,実際にありうる.非常におもしろいが,非常におそろしい.
 colour から1文字だけ削除して color とすることを訴えて綴字改革に邁進した Noah Webster も,独立したアメリカへの愛国心に駆られて,ある意味で命を懸けていたのではなかったか.

 ・ Knowles, Gerry. A Cultural History of the English Language. London: Arnold, 1997.

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2017-09-15 Fri

#3063. Sir John Cheke の英語贔屓 [purism][bible][compounding][wycliffe][inkhorn_term]

 Sir John Cheke (1514--57) はケンブリッジ大学の欽定ギリシア語講座の初代教授だった.当時は聖書の英訳が様々に試みられた時代であり,Cheke も1550年頃に「マタイ伝」および「マルコ伝」の最初の一部を英訳した.その際,「#1410. インク壺語批判と本来語回帰」 ([2013-03-07-1]) で見たとおり,Cheke は言語的純粋主義 (purism) の立場を取り,訳語にむりやり感のある本来語(しばしば複合語)を採用した.Cheke 訳は,The Authorised Version (1611) に比べて純粋主義的としばしば言われる Tyndale 訳 (1525) よりもさらに純粋主義的であり,遡って14世紀後半の Wycliffe 訳と比較してすら古風な趣がある.以下に,「マタイ伝」よりいくつかの訳語について比較しよう(渡部,p. 239).

 ChekeWycliffe (1380)Tyndale (1525)Authorized Version (1611) 
(バビロンへ)移すoutpeoplingtransmygraciouncaptivatecarrying awaychap. i. 17
予言者wiseardsastromyenswyse menwise menchap. ii. 16
てんかんmoonedlunatiklunatykelunatickechap. iv. 24
みつぎ取りtollerspupplicanspublicanspublicanschap. v. 46
百夫長hundredercenturiencenturioncenturionchap. viii. 5
使徒frosentapostlisapostlesapostleschap. x. 2
たとえ話biwordesparablissimilitudesparableschap. xiii. 3
改宗者freschmanprosilite動詞構文proselytechap. xxiii. 15
十字架にかけられたcrossedcrucifiedcrucifiedcrucifiedchap. xxvii. 22


 Cheke がひときわ目立って本来語(しばしば複合語)を用いているのがわかるだろう.複合語のむりやり感は,古英語さながらである.
 ラテン語やギリシア語からの小難しい借用語,すなわちインク壺語 (inkhorn_term) の全盛の時代において,これらの古典語を熟知した人文学者 Cheke が,母国語たる英語を贔屓したというのがおもしろい.彼が Henry VIII を継ぐ Edward VI をプロテスタント王として育てたほどのプロテスタントだったことも,この英語贔屓と関わっているだろう.Cheke は人文主義と宗教改革が同時に走っていた16世紀イングランドの両側面を1人で体現したような人物だったのである.渡部 (240) 曰く,「Cheke の例はわが国の明治の頃に留学して西洋の学問の先駆者となりながら,同時に国粋主義になった人と比較することもできよう」.
 ただし,Cheke の語法に関しては別の評価もありうる.「#2479. 初期近代英語の語彙借用に対する反動としての言語純粋主義はどこまで本気だったか?」 ([2016-02-09-1]) も参照されたい.Cheke については,「#1408. インク壺語論争」 ([2013-03-05-1]) と「#1709. 主要英訳聖書年表」 ([2013-12-31-1]) でも触れている.

 ・ 渡部 昇一 『英語の歴史』 大修館,1983年.

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2017-09-14 Thu

#3062. 1665年のペストに関する Samuel Pepys の記録 [black_death][pepys][literature][history][demography][statistics]

 17世紀のイングランドの海軍大臣 Samuel Pepys (1633--1703) は,1660--69年ロンドンでの出来事を記録した日記 The Diary of Samuel Pepys で知られる.1665--66年にロンドンを襲った腺ペスト (The Great Plague) についても,不安をもって記録している.関連する箇所をいくつか抜き出そう.

Sunday 30 April 1665 . . . . Great fears of the sickenesse here in the City, it being said that two or three houses are already shut up. God preserve as all!


Sunday 7 June 1665 . . . . This day, much against my will, I did in Drury Lane see two or three houses marked with a red cross upon the doors, and "Lord have mercy upon us" writ there; which was a sad sight to me, being the first of the kind that, to my remembrance, I ever saw. It put me into an ill conception of myself and my smell, so that I was forced to buy some roll-tobacco to smell to and chaw, which took away the apprehension.


Sunday 10 June 1665 . . . . In the evening home to supper; and there, to my great trouble, hear that the plague is come into the City (though it hath these three or four weeks since its beginning been wholly out of the City) . . . .


Saturday 16 September 1665 . . . . At noon to dinner to my Lord Bruncker, where Sir W. Batten and his Lady come, by invitation, and very merry we were, only that the discourse of the likelihood of the increase of the plague this weeke makes us a little sad, but then again the thoughts of the late prizes make us glad.


 上の3つめの引用にあるとおり,ペストがシティに入ってきたのは6月10日頃である.6月下旬には,ロンドン市長と市参事会の連名でペスト条例が公布されている.当時のロンドンの人口は25万人ほどという説があるが,その1/5ほどがわずか1年のあいだに腺ペストに倒れたというから,その勢いは凄まじい(蔵持,pp. 219--226).ペストは翌1666年には下火になっていたものの,くすぶってはいた.ペストが完全に制圧されたのは,皮肉にも9月2日のロンドン大火によってだった.その日の Pepys の日記 (Sunday 2 September 1666) も参照されたい.

 ・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.

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2017-09-13 Wed

#3061. 誤用と正用という観念の発現について [prescriptive_grammar][prescriptivism][black_death][language_myth]

 ここ数日間,英語史上にもインパクトのあった黒死病 (black_death) について集中的に考えてきた.関連して蔵持著『ペストの文化誌』を読んでいたときに,衛生観念と言語の正誤の観念に似ている側面があることに気づいた.
 蔵持 (326) によれば,清潔と不潔という観念が生じたのはルネサンス以降であり,その対立の秩序,すなわち衛生観念が本格的に現われたのは18世紀中葉から19世紀初頭だろうという.その議論で,次のように述べている (325) .

象徴人類学者のメアリー・ダグラスによれば,「汚れとは,絶対に唯一かつ孤絶した事象ではありえない.つまり,汚れがあるところには必ず体系が存在するのだ.秩序が不適当な要素の拒否を意味するかぎりにおいて,汚れとは事物の体系的秩序づけと分類との副産物」だという.ありていにいえば,汚れもまた,それが不潔なものとして除去されるには,汚れを忌避すべきものと意味づけする,集団的ないし個人的な清潔への意識の秩序が存在しなければならない.時には,清浄=祓穢という優れて儀礼的なカタルシスに突き動かされた,感性と想像力の秩序が不可欠ともなる.


 汚れを汚れと感じるためには,対置される清潔に対する感受性が必要である.不潔と清潔は「衛生観念」という秩序のもとで常にペアである.これは構造主義の発想そのものだ.
 同じことは,文法や語法の正誤についても言える.誤りを誤りと感じるためには,対置される正用に対する感受性が必要である.誤りと正しさは「言語的衛生観念」という秩序のもとで常にペアである.
 英語の文法や語法の正誤の観念が明確に現われたのは,奇しくも18世紀中葉から19世紀初頭,次々と規範文法書が出版された時代である.それより前の時代には,明確な意味での言語上の「誤用」と「正用」はなかったといってよい.文法の「誤り」とは,18世紀の文法書が生み出した「不潔」のことだったのである.

 ・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.

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2017-09-12 Tue

#3060. 17世紀後半からの tea 用語 [pepys][compound][history]

 昨日の記事「#3059. ベンガル語の必修化を巡るダージリンのストライキ」 ([2017-09-11-1]) で Darjeeling について取り上げたので,関連して tea の話題を.「#2934. tea とイギリス」 ([2017-05-09-1]) で見たように,英語における tea の初出は1655年である.The Diary of Samuel Pepys より1660年9月25日の記録を引こう.tea が舶来の飲み物としてはやり始めた頃だったとわかる.

Tuesday 25 September 1660 . . . . To the office, where Sir W. Batten, Colonel Slingsby, and I sat awhile, and Sir R. Ford coming to us about some business, we talked together of the interest of this kingdom to have a peace with Spain and a war with France and Holland; where Sir R. Ford talked like a man of great reason and experience. And afterwards I did send for a cup of tee (a China drink) of which I never had drank before, and went away.


 17世紀後半から18世紀にかけて,tea は洗練された嗜みとして庶民にも拡がっていき,コーヒーを追い抜いていくことなる.tea の人気振りは,関連する食器や家具などを表わす複合語が次々と現われた事実からも見て取ることができるだろう.Crystal (370) から,例を初出年とともに拾ってみよう.

tea-pot (1662), tea-spoon (1666), tea-table (1688), tea-house (1689), tea-water (1693), tea-cup (1700), tea-room (1702), tea-equipage (1702), tea-dish (1711), tea-canister (1726), tea-tongs (1738), tea-time (1741), tea-shop (1745), tea-things (1747), tea-treats (1748), tea-box (1758), tea-saucer (1761), tea-visit (1765), teaware (1766), tea-cloth (1770), tea-tray (1773), tea-set (1786), tea-urn (1786)


 ・ Crystal, David. The Stories of English. London: Penguin, 2005.

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2017-09-11 Mon

#3059. ベンガル語の必修化を巡るダージリンのストライキ [india][sociolinguistics][esl][official_language]

 紅茶の名産地であるインド北東部,ヒマラヤ山脈南麓のダージリン地方 (Darjeeling) で大規模なストライキが3ヶ月続いている.すべての茶園が閉まっており,最盛期の6月の生産量は昨年同期の1割ほどにとどまり,損失額は45億ルピー(約76億円)だという.ストに伴う暴動で住民に死亡者も出ている.

Map of Darjeeling

 ストの背景には民族と言語の問題がある.ネパール国境に近いダージリン地方にはネパール語 (Nepal) を母語とするネパール系住民が多く,西ベンガル州から独立して「ゴルカランド州」を建てようとする運動が1980年代から続いている.そこへ今年5月,西ベンガル州政府が州の公用語であるベンガル語 (Bengali) の教育を義務化すると公表した.ダージリンでは主にネパール語や英語が教えられており,住民たちはこのベンガル語の強制に反発し,6月より大規模なストを始めたというわけだ.州政府は必修化を撤回したが,ストは収まっていない.
 このエリアが,民族,言語に関して込み入った事情のある地域であることは明らかである.本ブログより,関連する情報をいくつか提示しよう.

 (1) 「#3009. 母語話者数による世界トップ25言語(2017年版)」 ([2017-07-23-1]) によると,ベンガル語は2億4200万人の話者を擁する世界第6位の大言語である.
 (2) ダージリンの住民と関係の深いネパールでは,ネパール語と並んで英語も広く使われている.「#2469. アジアの英語圏」([2016-01-30-1]) でみたように,ネパール国内では700万人ほどが英語を第2言語 (ESL = English as a Second Language) として話しており,「#56. 英語の位置づけが変わりつつある国」 ([2009-06-23-1]) の1つである.
 (3) インドの言語多様性はよく知られている.「#401. 言語多様性の最も高い地域」 ([2010-06-02-1]) でみたとおり,445ほどの言語を擁する.言語多様性指数は 0.940 と著しく高い.

Referrer (Inside): [2017-09-12-1]

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2017-09-10 Sun

#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド [black_death][reestablishment_of_english][history][sociolinguistics][slide][link][map][hel_education][asacul]

 ここ数日,集中的に英語史における黒死病の意義を考えてきた.これまで書きためてきた black_death の記事を総括する意味で「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド (HTML) を作ってみたので,こちらよりご覧ください.
 13枚からなるスライドで,目次は以下の通り.

 1. 英語史における黒死病の意義
 2. 要点
 3. 黒死病 (Black Death) とは?
 4. ノルマン征服による英語の地位の低下
 5. 英語の復権の歩み (#131)
 6. 黒死病の社会(言語学)的影響 (1)
 7. 黒死病と社会(言語学)的影響 (2)
 8. 英語による教育の始まり (#1206)
 9. 実は中英語は常に繁栄していた
 10. 黒死病は英語の復権に拍車をかけたにすぎない
 11. 村上,pp. 176--77
 12. まとめ
 13. 参考文献

 HTML スライドなので,そのまま hellog 記事にリンクを張ったり辿ったりでき,とても便利.英語史スライドシリーズとして,ほかにも作っていきたい.  *  *

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2017-09-09 Sat

#3057. "The Pardoner's Tale" にみる黒死病 [chaucer][black_death][literature][popular_passage]

 中英語文学における黒死病の表象は様々あるが,Chaucer の The Canterbury Tales の "Pardoner's Tale" より,pestilenceDeeth と同一視されながら言及されている箇所を引こう.黒死病以後の強烈な memento mori の強迫観念,あるいは黒死病が死(神)のイメージと重ね合わされていることが,よく感じられるくだりである.Riverside Chaucer より関連箇所 (ll. 661--91) を引く.

   Thise riotoures three of whiche I tell,
Longe erst er prime rong of any belle,
Were set hem in a taverne to drynke,
And as they sat, they herde a bell clynke
Biforn a cors, was caried to his grave.
That oon of hem gan callen to his knave:
"Go bet," quod he, "and axe redily
What cors is this that passeth heer forby;
And looke that thou reporte his name weel."
   "Sir," quod this boy, "it nedeth never-a-deel;
It was me toold er ye cam heer two houres.
He was, pardee, an old felawe of youres,
And sodeynly he was yslayn to-nyght,
Fordronke, as he sat on his bench upright.
There cam a privee theef men clepeth Deeth,
That in this contree al the peple sleeth,
And with his spere he smoot his herte atwo,
And wente his wey withouten wordes mo.
He hath a thousand slayn this pestilence.
And, maister, er ye come in his presence,
Me thynketh that it were necessarie
For to be war of swich an adversarie.
Beth redy for to meete hym everemoore;
Thus taughte me my dame; I sey namoore."
"By Seinte Marie!" seyde this taverner,
"The child seith sooth, for he hath slayn this yeer,
Henne over a mile, withinne a greet village,
Bothe mam and womman, child, and hyne, and page;
I trowe his habitacioun be there.
To been avysed greet wysdom it were,
Er that he dide a man a dishonour."


 物語の主人公である3人の放蕩者が,酔っ払いながら黒死病の象徴である「死」(=伝染病)を探しだそうと決意する場面の描写だ.物語の最後には,彼らも「死」の餌食となる.暗喩に満ちた韻文だが,引用の前半にある黒死病の犠牲者の葬儀の描写は,穏やかならぬリアリズムを感じさせもする.このような描写に特徴づけられる「ペスト文学」は1つの文化といってよく,現実のむごさに比例して精彩を放つものなのだろう.黒死病蔓延の時代背景を理解するために,以下を薦めておきたい.

 ・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.
 ・ ジョン・ケリー(著),野中 邦子(訳) 『黒死病 ペストの中世史』 中央公論新社,2008年.
 ・ ウィリアム・H・マクニール(著),佐々木 昭夫(訳) 『疫病と世界史 上・下』 中央公論新社〈中公文庫〉,2007年.
 ・ 村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.

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2017-09-08 Fri

#3056. 黒死病による人口減少と技術革新 [black_death][reestablishment_of_english][history][demography][sociolinguistics][printing]

 英語史における黒死病 (black_death) の意義は,黒死病→人口減少→英語母語話者の社会的台頭→英語の復権といった因果関係の連鎖に典型的にみることができる.しかし,もっと広い視野から歴史の因果関係を考察すると,黒死病→人口減少→賃金上昇→技術革新という連鎖も認められ,この技術革新が間接的に英語の復権をサポートしたという側面もありそうだ.
 ケリーが『黒死病 ペストの中世史』のなかの「必要が新しい技術を生む」という節で,次のように述べている (376--77) .

人口減少は技術革新にも大きな影響を及ぼした.労働力が急激に減少したことから,人手を省くための装置の開発が各分野で進み,書籍作りにもその動きが見られた.十三世紀と十四世紀には,商人や大学教育を受けた専門職や職人などの階級が成長したことから,書籍への需要が着実に伸びた.しかし,中世の造本はきわめて労働集約的な作業だった.まず,数人の写字生が手分けして一冊の本を一折りずつ書き写す.労働賃金が安かった黒死病以前の時代には,この方法でも儲けが出たが,黒死病以後の高賃金の時代になると,そうはいかなかった.そこでドイツのマインツに生まれた野心家の若者ヨハネス・グーテンベルクの登場である.大量死の時代からおよそ百年後の一四五三年,グーテンベルクは世界初の印刷機を世に送り出した.


 以上より,1世紀ほどの時間幅があるとはいえ,黒死病→人口減少→賃金上昇→技術革新→印刷術の発明,という連鎖が得られた.印刷術の発明の後に続く連鎖については,「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]) と「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]) を参照されたい.黒死病が,最終的には英語の社会的地位の向上につながる.
 ケリー (377--79) は,黒死病に起因する技術革新や制度変化が,造本のほか,鉱業,漁業,戦争形態,医療,公衆衛生,高等教育など多くの分野で生じたことを示しており,すでに近代的な科学の方法論を取り入れる素地ができあがりつつあったとも述べている.例えば,高等教育の変化について「ペスト流行後の学問の衰退と聖職者兼教育者の不足」に言及している(ケリー,p. 379).当時の大学の置かれていた状況については「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1]) および「#3055. 黒死病による聖職者の大量死」 ([2017-09-07-1]) を参照.

 ・ ジョン・ケリー(著),野中 邦子(訳) 『黒死病 ペストの中世史』 中央公論新社,2008年.

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2017-09-07 Thu

#3055. 黒死病による聖職者の大量死 [black_death][reestablishment_of_english][history][demography][sociolinguistics]

 連日,黒死病 (black_death) の話題を取りあげている.昨日の記事「#3054. 黒死病による社会の流動化と諸方言の水平化」 ([2017-09-06-1]) では Gooden の英語史読本を参照したが,黒死病を手厚く扱っているもう1つのポピュラーな英語史読本として,Bragg (60--61) を挙げよう.黒死病の英語史における意義に関して特に目新しことを述べているわけではないが,さすがに読ませる書き方ではある.

In 1348 Rattus rattus, the Latin-named black rodent, was the devil in the bestiary. These black rats deserted a ship from the continent which had docked near Weymouth. They carried a deadly cargo, a term that modern science calls Pasteurella pestis, that the fourteenth century named the Great Pestilence and that we know as the Black Death.
   The worst plague arrived in these islands, and much, including the language, would be changed radically.

The infected rats scaled out east and then north. They sought out human habitations, building nests in the floors, climbing the wattle and daub walls, shedding the infected fleas that fed on their blood and transmitted bubonic plague. It has been estimated that up to one-third of England's population of four million died. Many others were debilitated for life. In some places entire communities were wiped out. In Ashwell in Hertfordshire, for instance, in the bell tower of the church, some despairing soul, perhaps the parish priest, scratched a short poignant chronicle on the wall in poor Latin. "The first pestilence was in 1350 minus one . . . 1350 was pitiless, wild, violent, only the dregs of the people live to tell the tale."
   The dregs are where our story of English moves on. These dregs were the English peasantry who had survived. Though the Black Death was a catastrophe, it set in train a series of social upheavals which would speed the English language along the road to full restoration as the recognised language of the natives. The dregs carried English through the openings made by the Black Death.
   The Black Death killed a disproportionate number of the clergy, thus reducing the grip of Latin all over the land. Where people lived communally as the clergy did in monasteries and other religious orders, the incidence of infection and death could be devastatingly high. At a local level, a number of parish priests caught the plague from tending their parishioners; a number ran away. As a result the Latin-speaking clergy was much reduced, in some parts of the country by almost a half. Many of their replacements were laymen, sometimes barely literate, whose only language was English.
   More importantly, the Black Death changed society at its roots --- the very place where English was most tenacious, where it was still evolving, where it roosted.
   In many parts of the country there was hardly anyone left to work the land or tend the livestock. The acute shortage of labour meant that for the first time those who did the basic work had a lever, had some power to break from their feudal past and demand better conditions and higher wages. The administration put out lengthy and severe notices forbidding labourers to try for wage increases, attempting to force them to keep to pre-plague wages and demands, determined to stifle these uneasy, unruly rumblings. They failed. Wages rose. The price of property fell. Many peasants, artisans, or what might be called working-class people discovered plague-emptied farms and superior houses, which they occupied.


 引用中に,聖職者が特にペストの餌食となったことにより,イングランド社会におけるラテン語の影響力が減じたとある.含意として,相対的に大多数の人々の母語である英語が影響力を増したと読める.しかし,聖職者がとりわけ被害を受けたというのが本当なのかどうかについては論争があり,真実は必ずしも明らかにされていない.とはいえ,「聖職者というのは,埋葬に立ち会い,終油の秘蹟をさずけ,あるいは救助活動に身を捧げたりで,患者や死者との接触度が一般人よりもはるかに大きく,それだけ危険度も高かった」(村上,p. 131)というのは,理に適っているように思われる.なお,聖職者は教育者でもあったことも付け加えておこう (cf. 「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1])) .

 ・ Bragg, Melvyn. The Adventure of English. New York: Arcade, 2003.
 ・ 村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.

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2017-09-06 Wed

#3054. 黒死病による社会の流動化と諸方言の水平化 [black_death][reestablishment_of_english][history][demography][me_dialect][sociolinguistics][dialect_levelling]

 英語史では中世における英語の復権と関連して,たいてい黒死病のことが触れられる.しかし,簡単に言及されるにとどまり,突っ込んだ説明のないものも多い.そのなかで,一般向けの英語史読本を著わした Gooden (67--68) は,黒死病に対して1節を割くほどの関心を示している.読み物としておもしろいので引用しておこう.なお,引用の第2段落の1部は,Black Death の語源と関連して「#2990. Black Death」 ([2017-07-04-1]) でも取りあげた.

The Black Death had a devastating effect on the British Isles, as on the rest of Europe. The population of England was cut by anything between a third and a half. Probably originating in Asia, the plague arrived in a Dorset port in the West country in 1348, rapidly spreading to Bristol and then to Gloucester, Oxford and London. If a rate of progress were to be allotted to the plague, it was advancing at about one-and-a-half miles a day. The major population centres, linked by trading routes, were the most obviously vulnerable but the epidemic had reached even the remotest areas of western Ireland by the end of the next decade. Symptoms such as swellings (the lumps or buboes that characterize bubonic plague), fever and delirium were almost invariably followed within a few days by death. Ignorance of its cause heightened panic and public fatalism, as well as hampering effectual preventive measures. Although the epidemic petered out in the short term, the disease did not go away, recurring in localized attacks and then major outbreaks during the 17th century which particularly affected London. One of them disrupted the preparations for the coronation of James I in 1603; the last major epidemic killed 70,000 Londoners in 1665.
   The term 'Black Death' came into use after the Middle Ages. It was so called either because of the black lumps or because in the Latin phrase atra mors, which means 'terrible death', atra can also carry the sense of 'black'. To the unfortunate victims, it was the plague, or, more often, the pestilence. So Geoffrey Chaucer calls it in The Pardoner's Tale, where he makes it synonymous with death. The words survive in modern English even if with a much diminished force in colloquial use: 'He's a pest.' 'Stop plaguing us!' Curiously, although pest in the sense of 'nuisance' has its roots in pestilence, the word pester comes from a quite different source, the Old French empêtrer ('entangle', 'get in the way of').
   The impact of the pestilence on English society was profound. Quite apart from the psychological effects, there were practical consequences. Labour shortages meant a rise in wages and more fluid social structure in which the old feudal bonds began to break down. Geographical mobility would also have helped in dissolving regional distinctions and dialect differences.


 黒死病による人口減少により,生き残った労働者の賃金が上がり,彼らの社会的地位が上昇するとともに彼らの母語である英語の社会的地位も上昇した,というのが黒死病の英語史上のインパクトと言われる.しかし,引用の最後にあるように,人々が社会的にも地理的にも流動化したという点にも注目すべきである.これにより,人々がますます混交し,とりわけロンドンのような都会では諸方言が水平化してゆく契機となった (cf. dialect levelling) .黒死病は,確かに英語の行く末に間接的な影響を与えたといえるだろう.

 ・ Gooden, Philip. The Story of English: How the English Language Conquered the World. London: Quercus, 2009.

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2017-09-05 Tue

#3053. 黒死病により農奴制から自由農民制へ [black_death][reestablishment_of_english][history][demography][sociolinguistics]

 1348年に起こった黒死病 (black_death) について,本ブログでも何度か取りあげてきた(cf. 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]),「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1]),「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1])).今回は,英語史における黒死病の意義を考えるにあたって,特に農業経済の変化に焦点を当てつつ,広い視野から当時の歴史的背景を紹介したい.
 黒死病に関する McDowall (46--47) からの文章を引こう.

Probably more than one-third of the entire population of Britain died, and fewer than one person in ten who caught the plague managed to survive it. Whole villages disappeared, and some towns were almost completely deserted until the plague itself died out.
   The Black Death was neither the first natural disaster of the fourteenth century, nor the last. Plagues had killed sheep and other animals earlier in the century. An agricultural crisis resulted from the growth in population and the need to produce more food. Land was no longer allowed to rest one year in three, which meant that it was over-used, resulting in years of famine when the harvest failed. This process had already begun to slow down population growth by 1300.
   After the Black Death there were other plagues during the rest of the century which killed mostly the young and healthy. In 1300 the population of Britain had probably been over four million. By the end of the century it was probably hardly half that figure, and it only began to grow again in the second half of the fifteenth century. Even so, it took until the seventeenth century before the population reached four million again.
   The dramatic fall in population, however, was not entirely a bad thing. At the end of the thirteenth century the sharp rise in prices had led an increasing number of landlords to stop paying workers for their labour, and to go back to serf labour in order to avoid losses. In return villagers were given land to farm, but this tenanted land was often the poorest land of the manorial estate. After the Black Death there were so few people to work on the land that the remaining workers could ask for more money for their labour. We know they did this because the king and Parliament tried again and again to control wage increases. We also know from these repeated efforts that they cannot have been successful. The poor found that they could demand more money and did so. This finally led to the end of serfdom.
   Because of the shortage and expense of labour, landlords returned to the twelfth-century practice of letting out their land to energetic freeman farmers who bit by bit added to their own land. In the twelfth century, however, the practice of letting out farms had been a way of increasing the landlord's profits. Now it became a way of avoiding losses. Many "firma" agreements were for a whole life span, and some for several life spans. By the mid-fifteenth century few landlords had home farms at all. These smaller farmers who rented the manorial lands slowly became a new class, known as the "yeomen". They became an important part of the agricultural economy, and have always remained so.
   Overall, agricultural land production shrank, but those who survived the disasters of the fourteenth century enjoyed a greater share of the agricultural economy. Even for peasants life became more comfortable. For the first time they had enough money to build more solid houses, in stone where it was available, in place of huts made of wood, mud and thatch.


 黒死病の勃発する1358年より前にも,疫病,人口増加,農地不足はすでに大きな問題となっており,農業経済は行き詰まっていた.農奴制 (serfdom) も持ちこたえられなくなっており,賃金労働者たる自由農民 (yeoman) という新しい身分が出現し始めていた.そこへ黒死病が到来し,生産者人口が激減するに及んで,生き残った生産者の社会的地位が高まった.このようにして,とりわけ自由農民の層が15世紀にかけて存在感と発言力を増していった.そして,彼らの話す言葉こそが,英語だったのである.
 McIntyre (15) が述べている通り,"the greater the influence a particular group has within society, the more likely it is that the language spoken by that group will be seen as prestigious."である.英語は,中世イングランドの農業経済の変化(農奴制から自由農民制へ)とともに復権を果たしたといえる.
 ただし,黒死病が必ずしも農業経済に直接の影響を及ぼしたわけではない,それは旧来の学説だとする見方も,近年影響力を高めてきているようではあるマクニール(下巻,p. 58 を参照).

 ・ McDowall, David. An Illustrated History of Britain. Harlow: Longman 1989.
 ・ McIntyre, Dan. History of English: A Resource Book for Students. Abingdon: Routledge. 2009.
 ・ ウィリアム・H・マクニール(著),佐々木 昭夫(訳) 『疫病と世界史 上・下』 中央公論新社〈中公文庫〉,2007年.

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2017-09-04 Mon

#3052. そのような用法は昔からあった,だから何? [hel_education][countability]

 昨日の記事「#3051. 「less + 複数名詞」はダメ?」 ([2017-09-03-1]) で,「less + 複数名詞」が古くから用いられてきたことに触れた.だが,古くからの用法であるという歴史的事実は,この用法を規範からの逸脱として煙たがる保守派にとって,またそのような保守派に対抗して言語使用における寛容さを説く論者にとって,どのような意味をもつのだろうか.
 そのような用法は昔からあった,だから現在でも認められるべきだ,という議論には説得力はない.議論の前半部分はさも歴史言語学に精通しており,そこに肩入れしているかのようにみえて,後半部分はむしろ言語変化を否認しているかのような言い方であるからだ.言語変化の普遍性という歴史言語学の公理ともいうべきものを理解していない.「昔は○○だった,だから今も○○であるべきだ」,あるいは逆に「昔は○○でなかった,だから今も○○であるべきではない」というのは,保守主義というよりは無変化主義と呼ぶべきだろう.
 「そのような用法は昔からあった」という歴史的事実を指摘することの意義は,現在しばしば誤用として批判にさらされている「そのような用法」が行なわれている理由を考えさせてくれる点にある.たいてい言語上の誤用とされるものは,現代の話者の不注意や無教養のせいとされたり,規範遵守精神の欠如の現われであるとして非難される.しかし,少なくとも「現代の」話者にのみそのような非難が向けられるというのは,おかしいだろう.そのような用法は古くからあったのだから.実際,当該の用法が歴史的に長い間連綿と続いてきたということは,その用法が不注意や無教養の現われであるというよりは,むしろ自然な言語使用を体現していると考えるほうが自然であり,現在の現象に対する見方を再考する機会を提供してくれるのである.
 「less + 複数名詞」のケースでいえば,例えば「最近の若者は,可算名詞と不可算名詞の区別がわかっておらん,けしからん」という非難がありそうだが,実はそれを用いているのは「最近の若者」にかぎらず,「昔の大人」も普通に使ってきたと指摘することができる.このことは,だから最近の若者も使ってよいのだという理由には特にならないが,少なくとも可算名詞と不可算名詞の区別がなぜ存在するのか,その区別は昔からあったのか,その区別は他の関連する表現においても明確につけられているものなのかなど,別次元の関心を呼び覚まさせてくれる.そのような情報を十分に得た後で再び件の用法の問題に戻ってくれば,きっと異なる視点からコメントできるようになっているだろう.

Referrer (Inside): [2022-01-18-1]

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2017-09-03 Sun

#3051. 「less + 複数名詞」はダメ? [prescriptive_grammar][comparison][countability]

 現代の規範文法では,原則として「less + 複数名詞」は認められないということになっている.less men, less things はしばしば聞かれるが,誤用であり,fewer men, fewer things と言い換えるべきであると説かれる.
 しかし,(no) less than のような慣用的な文脈では,可算名詞の複数形が後続しても許容されることがある.とりわけ期間や金額が関わる場合には,許容度が高い.例えば,It is less than seventy miles to London., It costs less than £50. などは,問題なく使えるという.(可算名詞的な)数というよりも(不可算名詞的な)量の性質が強いからだろうと思われるが,一応の原則をもちながらも,完全には慣用を除外することのできない規範文法のアドホックさを感じざるを得ない.Times の1991年から Indira Gandhi supported sterilisation in the belief that fewer children meant less poverty. という規則に美しく従った文が例証されるが,規則遵守の極みとして,私などはむしろ薄気味悪いと感じる.
 たいていこのようなアドホックな匂いのする規範文法の項目は,歴史を遡ってみるとおもしろい.案の定,less が可算名詞の複数形と共起する例は古英語から確認される.やはり,18世紀の規範文法が(屁)理屈を押して「less + 複数名詞」をこき下ろし,それが現代の規範的な用法に深い爪痕を残しているといって間違いない.
 Fowler の less の項に,歴史的解説がある.有用なので,引用しておこう.

Historical note. The account given above . . . is an attempt to describe current attitudes towards the use of less and fewer. It should be borne in mind, however, that there is ample historical warrant for the type less roads, less people, etc. Such uses originate 'from the OE construction of lǽs adv. (quasi-sb.) with a partitive genitive' (OED). In OE, lǽs worda meant literally 'less of words'. When the genitive plural case vanished at the end of the OE period the type less words took its place, and this type has been employed ever since: e.g. there are few Vniuersities that haue lesse faultes than Oxford---Lyly, 1579. Hostility to the use emerged in the 18C., but 'folk memory' of the medieval type has ensured that there has been no break in the use of the type which I have branded as 'incorrect'. It is of interest to set down the way in which the problem of less and fewer is presented in CGEL, the standard descriptive grammar of current English (則5.24): . . . 'There is a tendency to use less (instead of fewer) and least (instead of fewest) also with count nouns: You've made less mistakes than last time. This usage is however often condemned. No less than is more generally accepted: No less than fifty people were killed in the accident.'


 「#624. 現代英語の文法変化の一覧」 ([2011-01-11-1]) と「#860. 現代英語の変化と変異の一覧」 ([2011-09-04-1]) では,「less + 複数名詞」を言語変化の1例として挙げた.ただし,言語変化といっても,上記のように古くから連綿として用いられてきたことを考えると,頻度や使用域の変化ととらえるべきだろう.標準英文法の一画へと侵入しつつある現象という意味における言語変化とみておきたい.

 ・ Burchfield, Robert, ed. Fowler's Modern English Usage. Rev. 3rd ed. Oxford: OUP, 1998.

Referrer (Inside): [2022-01-18-1] [2017-09-04-1]

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2017-09-02 Sat

#3050. rhubarb の綴字の運命 [spelling][etymological_respelling]

 日本ではお目にかからないが,西洋で rhubarb /ˈruːbɑːb/ (ルバーブ)と呼ばれる食用植物がある.フキに似ているが,葉が赤みを帯びており,酸味を伴うためにジャムやソースの材料となる.

Rhubarb

 今回の話題は,この rhubarb の綴字が rubarb へ変化してきているらしいということだ.この語は,フランス語 reubarbe が中英語期に rubarbe として借用されたもので,当時は <rh> の綴字はなかった.もともとはラテン語,さらにはギリシア語に遡り,そこでは <rh> の綴字も見られたので,英語は近代期にそれを参照して rhubarb と綴りなおした(現代フランス語でも rhubarbe の綴字である).つまり,典型的な語源的綴字 (etymological_respelling) の例である.
 このように,英語では rhubarb が標準的な綴字として定まったわけだが,近年,元に戻るかのような <h> を削除した rubarb が現われてきているという.Crystal (220--21) が,この綴字の変化に注目している.

I have been following the fate of the h in rhubarb in the Google database over the past few years. In 2006 there were just a few hundred instances of rubarb; in 2008 a few thousand; in 2010 there were 91,000; at the beginning of 2011 this had increased to 657,000, and by the end of the year it had passed a million. The ratios are the interesting thing: those 91,000 instances of rubarb in 2010 compared to 3,210,000 instances of rhubarb --- a ratio of 1:35. The following year, 657,000 rubarbs compared to 13 million rhubarbs --- a ratio of 1:20. And later that year rubarb passed the million mark. If it carries on like this, rubarb will overtake rhubarb as the commonest online spelling in the next five years. And where the online orthographic world goes in one decade, I suspect the offline world will go in the next.


 rubarb の新綴字は「綴字間違い」にすぎないという向きもあるだろう.確かにスタートとしてはそうだったかもしれない.しかし,もしこの「綴字間違い」が進行し,オンラインで本来の rhubarb を抜く事態となったとすれば,もはや「綴字間違い」ではなく,少なくとも異綴字とみなされるようになるのではないか.私の手持ちの辞書では rubarb は,見出しはおろか異綴字としてすら掲載されておらず,現在「非標準」であることは疑いえないが,今後 r(h)ubarb にどのような運命が待ち構えているのか,気長に待っていきたい.

 ・ Crystal, David. Spell It Out: The Singular Story of English Spelling. London: Profile Books, 2012.

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2017-09-01 Fri

#3049. 近代英語期でもアルファベットはまだ26文字ではなかった? [alphabet][johnson]

 「#3038. 古英語アルファベットは27文字」 ([2017-08-21-1]) で触れたように,英語のアルファベットは昔から変わらず26文字だったわけではないこと,歴史のなかで多少の増減を繰り返してきたものであることを述べた.では,現代の26文字となったのはいつか.答えは,近代英語期といってよい.
 Johnson は,影響力のある Dictionary (1755) の序文に続く "A Grammar of the English Tongue" のなかで,英語アルファベットが24文字あるいは26文字からなっていると述べている.

Our letters are commonly reckoned twenty-four, because anciently i and j, as well as u and v, were expressed by the same character; but as those letters, which had always different powers, have now different forms, our alphabet may be properly said to consist of twenty-six letters.


 Johnson の時代には,アルファベットが一般的には伝統に従って24文字のセットと考えられていたことがわかる.しかし,i/ju/v の分化がすでに受け入れられているわけだから,それを認定してアルファベット26文字とみなすのがよい,というのが Johnson の意見だ.だが,そもそも何をもって「アルファベットの文字セット」と呼ぶべきなのか,文字形で数えるのか,文字素で数えるのか,などの細かい基準については定められているわけでもないので,文字セットの問題はあくまで緩く考えておく必要があるだろう.
 Johnson は上のように理屈のうえでは26文字としながらも,Dictionary の配列では,i/j とマージしているし,u/v についても同様である.配列レベルでは,これらを計4文字と数えずに計2文字と数えていることになる.例えば,inwreathe の見出し後に job が続くし,vizier の後に ulcer が続いている.この配列法はその後の辞書でもしばらく踏襲されたが,1820年代にようやく現代人が慣れ親しんでいる26文字のフォーマットで配列されるようになる (Crystal 191) .英語アルファベットはどのように数えても26文字という認識が定着したのは,つい200年ほど前のことである.

 ・ Crystal, David. Spell It Out: The Singular Story of English Spelling. London: Profile Books, 2012.

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最終更新時間: 2024-02-28 16:15

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