hellog〜英語史ブログ     ChangeLog 最新     カテゴリ最新     1 2 次ページ / page 1 (2)

semiotics - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2019-11-20 09:36

2017-09-29 Fri

#3077. 長田による「文字言語の構成要素と暗号形式の対応」 [cryptology][semiotics][sign][writing]

 連日,長田順行(著)『暗号大全』を参照しているが,言語と文字について論じる上で,暗号(学)が多くのインスピレーションを与えてくれることに驚いている.今回は,様々な種類の暗号を「文字言語の構成要素と暗号形式の対応」関係により整理・分類した長田の表を示したい (29) .

文字言語の構成要素と人為的操作形式名見かけ上の特徴
一定の文字別の文字で代用換字式暗号らしい暗号(一般的な暗号)
一定の順序順序の入替え転置式暗号らしい暗号(一般的な暗号)
別の文字を挿入分置式暗号らしくない暗号(特殊な暗号)
一定の意味別の意味に変換,あるいは遠回しに表現隠語・隠文式暗号らしくない暗号(特殊な暗号)
上記の組み合わせ混合式暗号らしくない暗号(特殊な暗号)


 換字式 (substitution) は「#2704. カエサル暗号」 ([2016-09-21-1]) に代表されるタイプで,ある文字を別の文字で代用するものである.一方,転置式 (transposition) は一定の順序に並んでいる文字列を,別の順序に並び替えるタイプである.例えば,最も簡単な転置式暗号の1つは,nowhereerehwon などと逆順に並び替えるものである.この2種類の暗号では,できあがった暗号文はたいてい意味不明の文字列になるのでいかにも見栄えは暗号らしくなる.
 分置式は,一定の順序に並んでいる文字列に別の文字を挿入するもので,「#3072. 日本語の挟み言葉」 ([2017-09-24-1]) で挙げた「ノサ言葉」などが例となる.「#3071. Pig Latin」 ([2017-09-23-1]) は,転置式と分置式を合わせたような暗号である.これらは,ある程度普通言語のような見栄えをしているのが特徴である.
 以上の3種類は,文字レベルの操作であり,記号論でいうところの能記 (signifiant) をいじることによる暗号化である.それに対して所記 (ssignifié) をいじるタイプの暗号もあり,隠語・隠文などと呼ばれる.見栄えとしては普通言語の語などからなっているが,その語の意味は別の意味に変換されているので,それを了解していないかぎり,読み解くことは難しい.

 ・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-09-28 Thu

#3076. 隠語,タブー,暗号 [cryptology][taboo][semiotics][sociolinguistics][anthropology][kotodama]

 古代社会では,名前を置き換える隠語が広く使用されていた.例えば,古代エジプト人や古代インドのバラモンの子供は2つの名前をもっていた.1つは一般に開放されて常用される名前であり,もう1つは秘匿される真の名前である.真の名前を隠すのは悪霊から身を守るためである.このように代わりの名前を用いることが個人名にとどまらず一般の言葉にまで及ぶと,それは隠語の体系,あるいはタブー (taboo) の組織というべきものになってくる.隠語とは,それを用いる比較的狭い言語共同体のなかでしか理解されないという意味において,外部の人間にとって暗号以外の何物でもない.ここにおいて,隠語,タブー,暗号の3者が関連づけられることになる.
 この件について,長田 (106) は次のように述べている.

 このようにみてくると,コトバの置換えである隠語の使用が,いかにわれわれの祖先の生活に不可欠であったかがわかる.すなわち隠語は,人類がコトバをもったとき同時に生まれたもう一つのコトバだったのである.
 また忌み詞も隠語の一種といえよう.ある特定の言葉を口にすることを忌む習慣から,塩を「浪の花」といったり,西アフリカのバングウェ族のように便所に行くことを,「薪を取りに走って行かねばならない」とか,「わなを見回ってくる」といったりするのが,それである.


 隠語やタブーが,人間のコミュニケーション能力を爆発させることになる言語の創発と同時に生じたという仮説は,人類にとって言語とは何かという問題に新たな角度から光を当てるものになるだろう.
 関連して,「#1338. タブーの逆説」 ([2012-12-25-1]),「#2410. slang, cant, argot, jargon, antilanguage」 ([2015-12-02-1]) も要参照.

 ・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.

Referrer (Inside): [2018-02-22-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-09-26 Tue

#3074. 「文字は公認の暗号である」 [cryptology][language][semiotics][saussure][arbitrariness][sign][writing]

 通常,少数の人によってしか共有されていない文字を指して暗号と呼ぶが,標題のように裏からとらえて「文字は公認の暗号である」と表現することもできる.これは,みごとな逆転の発想である.長田 (136--37) を引用する.

 音声言語を表記するためにどのような文字を使用するかはどうでもよいことであって,要はその文字の使い方が首尾一貫していれば,記号としての役目を果たすことができる.フェルディナン・ド・ソシュールは,「記号の不易性と可易性」について次のように述べている.「能記は,その表はす観念と照し合はす時は,自由に選ばれたものとして現はれるとすれば,逆にこれを用ひる言語社会と照し合はす時は,自由ではなくて,賦課されたものである.社会大衆は一つも相談にあづからず,言語の選んだ能記は他のものと代へるわけにはいきかねる.この矛盾を含むかに思はれる事実は,平たくいへば『脅迫投票』とでもいふべきか.言語に向って『選びたまへ』と言つたそばから,『この記号だぞ,ほかのでなくて』と附加へる」(小林英夫訳『言語学原論』)
 これはそのまま換字式暗号にあてはまる原理である.変換する記号としてはどのようなものを選んでもさしつかえないが,一度選んだならば,その規約を使用する間はけっして変更することは許されない.ただ換字式暗号の違う点は,言語とその表記の関係が第三者に秘匿されていることである.
 一般に文字言語を「社会公認公用の暗号法」と呼ぶのは,このような相対関係によるものである.


 また,次のようにも述べている (137--38)

ウェルズは,その『世界史』に,「文字は,それが発明されたとき,初めのうちは関係の人だけの秘密通信に使われていた」と書いている.これは,識字率の低い間は文字そのものが秘密の表記であったことを的確にとらえた言葉である.


 文字も暗号も恣意的な記号であるという点では共通している.顕著な差異を1つ挙げるとすれば,文字は通常多数の人に共有されているが,暗号は少数の人にしか知られていないということだろう.それを知っている人の数というパラメータを度外視すれば,文字はすなわち暗号であり,暗号はすなわち文字であるといえる.言語学的文字論と暗号学がいかなる相互関係にあるのか,一気に呑み込めた気がする.
 関連して,「#2699. 暗号学と言語学」 ([2016-09-16-1]),「#2700. 暗号によるコミュニケーションの特性」 ([2016-09-17-1]) と「#2701. 暗号としての文字」 ([2016-09-18-1]) も参照されたい.

 ・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-06-26 Mon

#2982. 現代日本語に溢れるアルファベット頭字語 [acronym][initialism][sign][semiotics][binomial]

 新聞を読んでいると,アルファベットの頭字語 (acronym) がとても目立つ.英字新聞ではなく日本語の新聞の話である.最近の TPP(環太平洋経済連携協定)に関する1つの記事のなかでも,EPA(経済連携協定),NZ(ニュージーランド),CEO(最高経営責任者),IMF(国際通貨基金),GDP(実質国内総生産),GE(国際経済),EU(欧州連合)などが当たり前のように現われていた.記事で最初に現われるときには,上記のようにかっこ付きで訳語あるいは説明書きというべき日本語表現が添えられているが,2度目以降は頭字語のみである.多くの読み手にとって,頭字語をもとの英語表現に展開することは必ずしも容易ではなく,実際,展開する必要もさほど感じられていないという点では,1つの新語,ある種の無縁的な記号といってよい(「#1108. 言語記号の恣意性,有縁性,無縁性」 ([2012-05-09-1]) を参照).
 初回出現時の「EPA(経済連携協定)」のような表記慣習は,記号論的にいえば「アルファベットによるシニフィアン(日本語・漢語によるシニフィエ)」という形式になっており,全体として1つの記号(シーニュ)の明示的な導入にほかならない.これは,この記号が当該記事で今後繰り返し使われることを前もって宣言する機能のほかに,この記号を辞書的に解説する機能をも有している.新聞社にとっては,頻出する名前を表わすのに文字数を減らせるメリットがあるし,マスメディアとしてその用語を一般に広める役割を担っているものとも考えられる.様々な名前(多くは組織名)が急ピッチで生み出される時代の状況に,何とか応えようとする1つの現実的な対応策なのだろう.
 この表記慣習と関連して思い出されるのは,日本語のみならず英語にも歴史的に見られた語句解説のための binomial である.中英語の my heart and my corage しかり,法律英語の acknowledge and confess しかり,漢文訓読に由来する「蟋蟀 (シッシュツ) のきりぎりす」など,ある時代あるいは伝統に属する1つの言語文化的習慣といってよい.これらの例については,「#820. 英仏同義語の並列」 ([2011-07-26-1]),「#1443. 法律英語における同義語の並列」 ([2013-04-09-1]),「#2157. word pair の種類と効果」 ([2015-03-24-1]),「#2506. 英語の2項イディオムと日本語の文選読み」 ([2016-03-07-1]) などを参照されたい.
 つまるところ,現代日本語でも,これらの例に類似するもう1つの言語文化的習慣が導入されてきているということなのだろう.

Referrer (Inside): [2018-06-08-1] [2017-09-27-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-06-03 Sat

#2959. 知的精神活動としての数学,漢字,言語 [kanji][mathematics][semiotics][category][linguistics]

 『物語 数学の歴史』を著わした加藤 (37) は,知的精神活動としての数学の特質として以下を挙げている.

 ・ 人間精神が抽象し切り出してきた知的対象を実体化して扱うこと.
 ・ 対象の認識に関する以下の2点について一般的なコンセンサスがあること.
  ――ミクロ的側面:対象を取り扱う際の局所的な流れの基調.
  ――マクロ的側面:体系全体の整合性や大局的価値を判断する基準.


 数学の場合,最初の点は,「数」という抽象物を具体物であるかのように扱うことに相当する.2つ目の点については,ミクロ的側面とは計算方法や論証方法などを指し,マクロ的側面とは数学について直観される審美性や存在感のようなものを指す.このようなマクロ的側面は,人類にとって唯一無二ものではなく,むしろ古今東西の文明の各々がもっている独自の「数学らしさ」に対応する.
 さて,この知的精神活動の諸特質が関心を引く点は,それが数学や自然科学以外にも適用され得ることである.加藤 (38--39) は,その1例として漢字の体系を挙げている.

我々は白川静氏の著作の数々から,漢字というものが古代中国人の呪術式精神世界から切り出された高度に抽象的な概念的象徴であること,そしてそれらは存在の自己表現の形式そのものとしての実体性を持つことを学ぶことができる.のみならず,会意や仮借といった,いわゆる六書による演繹で自己生成し,その体系が広がっていくこと,そしてそれが実在の概念化と客観化という対応規則を通して,現実の世界と不可分の関係にあることを実感することができる.

漢字はその歴史を通じて,単なる文字記号としてのみ機能するというものではなかった.それは文字記号であるとともに,また美の様式の実現の場であり,それを通じての美の思想の表現でさえあることができた.〔白川 静 『漢字百話』 中公新書 (1978) 159--160頁〕


これは漢字の体系が,古代中国における美の自然科学であったことを雄弁に物語っている.


 実際のところ,上の知的精神活動の特質は,数学や漢字のみならず,多くの学問や記号体系に見られるものではないか.言語(学)も然り.そこでは,言語という抽象的な存在が,具体的な要素の集合として実体化される.また,言語の様々なレベルで局所的に作用する「文法」と呼ばれる規則が想定されている.そして,言語は全体として1つの世界観を構成している.
 さらに,言語体系自体が知的精神活動の複合体であるとみなすこともできそうだ.例えば,文法性,数,格,法,態などの文法範疇 (category) の各々が,上記の特質を有する1つの知的精神活動であると考えることができる.
 「言語らしさ」を体現する要素は何か.この問いに対する可能な答えの数だけ,言語学(説)も存在するのかもしれない.

 ・ 加藤 文元 『物語 数学の歴史』 中央公論新社〈中公新書〉,2009年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-02-09 Thu

#2845. 言語学の諸分野をイェルムスレウの認識論から見ると [linguistics][diachrony][glossematics][linguistics][history_of_linguistics][semiotics][sign]

 セミル・バディル(著)『ソシュールの最大の後継者 イェルムスレウ』を読んで,難解とされる言理学 (glossematics) を概観した(「#1074. Hjelmslev の言理学」 ([2012-04-05-1]) も参照).
 イェルムスレウの記号学的認識論の中心に,外示記号,共示記号,メタ記号の区別がある.外示記号はいわば通常の記号を指す.共示記号は,表現部それ自体が記号であるような記号を指す.そして,メタ記号は,内容部それ自体が記号であるような記号を指す.この基本的な対立に,範列的 (paradigmatic) と連辞的 (syntagmatic) というソシュール以来よく知られた対立が組み込まれ,1つの認識論が構成される.
 このイェルムスレウの認識論に立って,既存の言語学諸分野の位置づけを整理すると,以下の表のようになるだろう(バディル,p. 205).

Components of Linguistics from Hjelmslev's Viewpoint


 留意すべきは,既存の分野名のもとで研究されてきた内容が,そのままイェルムスレウ的な認識論における同名の分野のもとで扱われるとは限らないことだ.例えば,外示記号の表現の連辞を扱う「形態論」は,およそ伝統的な「形態論」で扱されてきた分野を覆うと考えてよいが,音素の統語的変異などを扱う問題も含むという点で少し守備安易が異なる.
 この表の個別部分について見ると,特に興味深いのは,「通時」あるいは「歴史」が共示記号の範列の変異に関わる次元の1つとしてとらえられている点である.それと同列に別の次元を構成しているのは「地理」「社会」「心理」「象徴」などである.ここでは,「通時」がとりたてて「共時」に対立するものとして立てられているわけではなく,むしろ「地理」「社会」「心理」「象徴」などとの並列性が強調されている.
 バディル (207--08) では,この共時・通時の再解釈について,次のように述べられている.

このように提示された言語分析は,共時的な分析だと見なされる必要はない。通時的分析をも「包含する」からである。この包含関係は,共時態と通時態の対立を定式化し直す必要性を意味する。つまり,通時態とは,共時態の「層」が重なり合って作られるものではない。形式的理論において関与的なのは,むしろその逆である。外示記号の「考古学的」な分析を実行することが可能なのである。したがって,歴史的特徴は,他の個別化をもたらす観点の中で,外示記号の作る一つの次元だということになる。


 共時的言語学が圧倒的に優勢な現在,言語学のなかに通時態を復活させようとすることは簡単な試みではないが,イェルムスレウの認識論は1つのヒントになりそうだ.
 言語学の諸部門の整理という話題については,「#378. 語用論は言語理論の基本構成部門か否か」 ([2010-05-10-1]),「#1110. Guiraud による言語学の構成部門」 ([2012-05-11-1]),「#1726. 「形態」の紛らわしさと Ullmann による言語学の構成部門」 ([2014-01-17-1]) も参照.

 ・ セミル・バディル(著),町田 健(訳) 『ソシュールの最大の後継者 イェルムスレウ』 大修館,2007年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-11-11 Fri

#2755. 貨幣と言語 (3) [saussure][langue][arbitrariness][sign][semiotics][linguistics][diachrony]

 「#2743. 貨幣と言語」 ([2016-10-30-1]),「#2746. 貨幣と言語 (2)」 ([2016-11-02-1]) に引き続いての話題.[2016-11-02-1]の記事の最後で,「貨幣は物理的な価値と結びついているが,言語はあくまで概念的な価値と結びついているにすぎないという点は,むしろ両者の大きな相違点だろう」と述べた.この言及と関連して,ソシュールに記号としての貨幣と言語を対照している箇所がある.ソシュールによれば,両者は記号として根本的に異なる種類に属するという.この議論を通じて,言語記号の恣意性 (arbitrariness) に由来する二重性,すなわち共時態と通時態の本質的な相互独立性が浮き彫りになる.
 この議論を理解するために,まずソシュールの言語論における「価値」 (valeur) について見ておかなければならない.丸山 (68--69) によれば,

 ソシュールの体系は,何よりもまず関係としての価値の体系である.そこでは,自然的・絶対的特性によって定義される個々の要素が寄り集まって全体を作るのではなく,全体との関連と他の要素との相互関係の中ではじめて個の価値が生ずる.しかも,ラングなる体系は,動物としてのヒトの本能図式の反映ないしは敷き写しではなく,人間の歴史・社会的実践によってはじめて決定される価値の体系であり,既成の事物がどう配置されどう関係付けられているかというのではなく,もともと単位という客観的な実体は存在しない体系なのである.ラングはそれが体系である限り,不連続な単位の存在を想定させる.しかしその単位は,ア・プリオリに自存する実体ではない.ソシュールをまず驚かせ,ついで彼を終始苦しませた問題は,この単位の非実在性であった.ソシュールの体系は,言語の本質に関わる恣意性,形相性,示差性,否定性と切り離して論ずることはできないと言えるだろう.
 「コトバは根柢的に,対立に基盤を置く体系という性格をもつ.これはちょうど,さまざまな駒に付与された力のさまざまな組み合わせから成り立つチェスゲームのようなものだ」.それにもかかわらず実体としての単位はどこにも与えられていない.「コトバの中に自然に与えられている事物を見る幻想の根は深い」とは言え,在るものは関係を樹立する人間の視点(=共同主観)だけである.「人が樹立する事物間の絆は,事物に先立って存在し,事物を決定する働きをなす.〔…〕人はこの視点によって二次的に事物を創造する.〔…〕いかなる事物も,いかなる対象も,いかなる瞬間においても即自的には与えられていない」のだ.


 ソシュールにとって,言語的な価値にはこのように自然的・絶対的な実体の支えがないのであるから,それは貨幣の価値とは比べるべくもない,ということになる.ソシュールは第3回講義で,この点について触れている.丸山 (116) より説明を引くと,

ソシュールによれば,言語記号は,他のどのような記号,どのような制度にもにない根源的な二重性を持っている.たとえば,ある広さの土地につけられる貨幣的な価値などは,時代を追ってその変化を調べることができるだろう.これは,貨幣という一種の記号が,しかじかの土地という不変の自然的対象をその外部に持っているからで,そういう意味でこの記号は本質的に「単一」なのである.ところが言語記号には,こうした自然の支えはどこにもないのであり,あるのはただ「聴覚映像」と「概念」の二つの項,言語の一状態が生む束の間の関係によってしか保証されていない二つの項,ということになる.これらの項は,それを測定するどのような尺度もないところで,根柢からの変化をこうむる.変化を説明できる支えは状態のうちにはないし,ある状態を求めた理由も変化のうちには見出せない.こうしたことはすべて,言語記号が「事物の自然的関係」にもとづかない恣意的「契約」であることからくるので,共時言語学と通時言語学を別々に打ち立てる必然性も,実はここに根ざしているわけである.


 ここでは,言語記号のもつ恣意性と貨幣記号の非恣意性が,明確に対立せられている.この性質の違いゆえに,貨幣記号については,共時態と通時態の区別を特に意識せずに「単一」に扱うことができるのに対し,言語記号については両態を常に区別して扱わなければならないという「二重性」が生じるのだという.このことを主張している箇所を Saussure (115--16) から引用しよう.

   Il est certain que toutes les sciences auraient intérêt à marquer plus scrupuleusement les axes sur lesquels sont situées les choses dont elles s'occupent ; il faudrait partout distinguer selon la figure suivante : 1o l'axe des simultanéités (AB), concernant les rapports entre choses coexistantes, d'où toute intervention du temps est exclue, et 2o l'axe des successivités (CD), sur lequel on ne peut jamais considérer qu'une chose à la fois, mais où sont situées toutes les choses du premier axe avec leur changements.
   Pour les sciences travaillant sur des valeurs, cette distinction devient une nécessité pratique, et dans certains cas une nécessité absolue. Dans ce domaine on peut mettre les savants au défi d'organiser leurs recherches d'une façon rigoureuse sans tenir compte de deux axes, sans distinguer le système des valeurs considérées en soi, de ces mêmes valeurs considérées en fonction du temps.
   C'est au linguiste que cette distinction s'impose le plus impérieusement ; car la langue est un système de pures valeurs que rien ne détermine en dehors de l'état momentané de ses termes. Tant que par un de ses côtés une valeur a sa racine dans les choses et leurs rapports naturels (comme c'est le cas dans la science économique --- par exemple un fonds de terre vaut en proportion de ce qu'il rapporte), on peut jusqu'à un certain point suivre cette valeur dans le temps, tout en se souvenant qu'à chaque moment elle dépend d'un système de valeurs contemporaines. Son lien avec les choses lui donne malgré tout une base naturelle, et par là les appréciations qu'on y rattache ne sont jamais complètement arbitraire ; leur variabilité est limitée. Mais nous venons de voir qu'en linguistique les données naturelles n'nont aucune place.


 記号としての貨幣と言語の比較対照を通じて,それぞれの性質が浮き彫りになってきた.

 ・ 丸山 圭三郎 『ソシュール小事典』 大修館,1985年.
 ・ Saussure, Ferdinand de. Cours de linguistique générale. Ed. Tullio de Mauro. Paris: Payot & Rivages, 2005.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-11-02 Wed

#2746. 貨幣と言語 (2) [linguistics][metaphor][conceptual_metaphor][standardisation][prescriptivism][sign][semiotics]

 「#2743. 貨幣と言語」 ([2016-10-30-1]) に引き続き,"LANGUAGE IS MONEY" の概念メタファーについて.貨幣と言語の共通点を考えることで,この比喩のどこまでが有効で,どこからが無効なのか,そして特に言語の本質とは何なのかについて議論するきっかけとしたい.以下は,ナイジェル・トッド (152--67) の貨幣論における言語のアナロジーを扱った部分などを参照しつつ,貨幣と言語の機能に関する対応について,自分なりにブレストした結果である.

貨幣言語
貨幣は社会に流通する言語は社会に流通する
物流の活発化に貢献(主として書き言葉により)情報の活発化に貢献
貨幣統一(cf. 日本史では家康が650年振りに「寛永通宝」など)言語の標準化(cf. 英語史では書き言葉の標準化が400〜500年振りに)
撰銭(種々の貨幣から良質のものを選る)言語の標準化にむけての "selection" (cf. 「#2745. Haugen の言語標準化の4段階 (2)」 ([2016-11-01-1]))
貨幣の改鋳言語の "refinement" (cf. 「#2745. Haugen の言語標準化の4段階 (2)」 ([2016-11-01-1]))
貨幣システムはゼロサムではない(使用者間の信用創造が可能)言語システムはゼロサムではない(使用者間の関係創造が可能)
貨幣はどのような相互行為においても使用できるわけではない言語はどのような相互行為においても使用できるわけではない
非即時交換性を実現する掛け売り,付けでの支払い(cf. 通帳)書き言葉により可能となる非同期コミュニケーション
貨幣は価値を貯蔵できる(=貯金)言語は価値を貯蔵できる(=記憶)?
金貨,銀貨,銭貨,紙幣のあいだの換金性言語(変種)間の翻訳可能性
偽造・変造・私銭の違法性規範から外れた語法に対する批判
貨幣の収集(趣味のコレクション;貨幣で貨幣を買う)語彙の収集(メタ言語的な関心;言語で言語を説明する)
貨幣は諸悪の根源言葉は諸悪の根源?
貨幣の魔術性(魔除け,悪魔払い;cf. 硬貨に記された言葉や絵)言語の魔術性
商品価値のシンボルのなかのシンボル概念価値のシンボルのなかのシンボル? (cf. semantic primitive)


 貨幣と言語の比喩にも,いくつかの観点があるように思われる.「天下の回り物」「統一化・標準化」「両替・翻訳可能性」「魔術性」といった観点があるだろうか.また,「貨幣は,全体としての社会システムの文脈の中で特殊化した言語である」(トッド,p. 152--53) という視点も注目に値する.言語の市場価値 (see 「#147. 英語の市場価値」 ([2009-09-21-1])) や,産業としての言語という側面も,貨幣と関係しそうだ.
 一方,貨幣は物理的な価値と結びついているが,言語はあくまで概念的な価値と結びついているにすぎないという点は,むしろ両者の大きな相違点だろう.

 ・ ジョー・クリブ(著),湯本 豪一(日本語版監修) 『貨幣』 同朋社,1999年.
 ・ ナイジェル・トッド(著),二階堂 達郎(訳) 『貨幣の社会学』 青土社,1998年.

Referrer (Inside): [2016-11-11-1] [2016-11-10-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-10-30 Sun

#2743. 貨幣と言語 [linguistics][semiotics][conceptual_metaphor][metaphor]

 貨幣と言語には共通点がある.いずれも社会に共有されており,流通しているからこそ価値がある.また,権威によりお墨付きを与えられることにより,いっそう広く流通することができる.このように社会性や公共性という点で比較される.また,貨幣は,物品やサービスという別のものと交換(購買)できるという点で,対応という機能を有している.同じように,言語記号において,形式と意味の間に対応関係がある.ほかにも,貨幣も言語も,古来,呪力のあるものとして魔術的な用途で用いられてきた.
 ここしばらくの間,貨幣と言語について,とりとめなく考えていた.とりとめのなさが昂じて,先日,日本橋にある日本銀行金融研究所貨幣博物館に足を運んでみた.博物館の資料によると,貨幣には以下の3つの大きな特徴があるという.

 (1) さまざまな人の間で誰でも使うことができる
 (2) さまざまなものと交換できる
 (3) 使いたい時まで貯めておくことができる

 言語を念頭に,この3つについて考えてみよう.(1) のように,言語もさまざまな人の間で誰でも使うことができる.(2) については,言語がさまざまなものと交換できるというのは,厳密にどのような状況を指すのか分からないが,先に述べたように形式と意味とが対応している記号であるということや,異なる言語どうしの間で翻訳が可能であるということが関係するかもしれない.(3) の貯金については「貯言」なるものが対応しそうだが,これは何のことやら分からない.貨幣と言語の比喩,あるいは "LANGUAGE IS MONEY" の概念メタファーは必ずしも単純で率直ではなさそうだ(cf. 「#1578. 言語は何に喩えられてきたか」 ([2013-08-22-1])).
 ところが,『世界大百科事典 第2版』の「貨幣」を調べてみると,なんと貨幣が思わぬ観点から言語に喩えられていた.言語が貨幣に喩えられるのではなく,である.以下に引用しよう.

貨幣はそれ自体価値として,他の事物を尺度する働きを必ず伴いつつ,交換手段,支払手段,貯蔵に用いうるものである。貨幣は価値を尺度するから交換,支払,貯蔵に用いられるのでもないし,交換手段だから,支払手段だから,あるいは貯蔵されるから,価値を尺度することになるというのでもない。これらでありうるのは,貨幣のもつ力,貨幣のもつ価値自身にある。それこそが,上記のような貨幣の用い方・働きを成り立たせている基本であって,それは,貨幣が価値中の価値,すなわち価値の原基,価値の本位だということに基づいている。貨幣の本質はここにある。/貨幣は価値の原基として,事物の評価の基になりながら,財を交換せしめ,さまざまに人間関係をつくりあげ,交換・支払の人間関係から人間を退避せしめるなどして,経済生活を編成する要の役割を果たす。ちょうどわれわれが言葉(広くいえば,シンボル)の存在を前提にして,言葉によって会話し(交換),言葉によって相手の行動を縛り,惹起(じゃっき)し,相手から縛られ,惹起され(支払),そして言葉によって記憶し(貯蔵),言葉によって思考する(価値尺度)ことから社会関係をかたちづくっているように,われわれは貨幣によって経済生活を成り立たせている。しかも,言葉によって思考するというとき,通常われわれは,時代によって,社会によって,あるいはさらに個々人によって様相は異なるが,さまざまの思考が陰に陽に最終的によるべとする言葉,その根拠を問うことをやめてそこを起点にそれにすがりついて思考し行動していかねばならない言葉,たとえば〈神〉〈天〉〈人道〉〈理性〉などを有している。貨幣が価値の本位だというのは,貨幣にかかわる事物一般を言葉にたとえれば,貨幣は上記の言葉のなかの言葉に当たるということである。貨幣とはこのようにまさに二重の意味においてシンボルであって,シンボルのなかのシンボルなのである。


 なんと,貨幣がシンボルのなかのシンボルであることを,〈神〉〈天〉〈人道〉〈理性〉などが言葉のなかの言葉であることと比較しているのである.とすると,普遍的基本語であるとか "semantic primitive" のようなものが,貨幣に相当するということになろうか.何だかますます分からなくなってきた.
 今後も貨幣と言語について,とりとめなく考えていきたい.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-10-04 Tue

#2717. 暗号から始まった点字 [cryptology][semiotics][writing][braille]

 点字は,フランスの盲人 Louis Braille (1809--52) が1829年に発明したものとされ,これにより視覚障害者が初めて自由に読み書きできるようになったという点で,教育史上,画期的な出来事だった.ブライユ点字法 (Braille) と呼ばれることになるこの点字は,3行×2列の6点を単位として,その組み合わせによりアルファベットと数字を表わす仕組みのものである.ブライユ点字法はブライユの亡くなった2年後にフランスで公式文字として認められ,それから100年後の1954年にはユネスコ主催の世界点字統一会議で,全世界の視覚障害者の文字として採用された.日本へは1890年に導入されており,そこから50音を表わす日本点字が開発され,現在も使用され続けている.点字は,それ自体が自立した記号体系というわけではなく,(文字)言語の代用記号ととらえるべきだろう.その点では,モールス符号 (「#1805. Morse code」 ([2014-04-06-1])) や手旗信号などに類する.
 さて,点字の歴史は,このようにブライユに遡るというのが通例だが,その原型は,ナポレオン時代の砲兵大尉 Charles Barbier が,ブライユの学んだ訓盲院(世界最初の盲学校)に持ち込んだ「夜間文字」(Ecriture Nocturne "night writing") の改良版にあった.夜間文字とは,技術家でもあったバルビエが考案した暗号の一種で,うすい板紙の上に秘密のルールに従って点やダッシュを浮き彫りにしたものであり,解読者は闇夜にもそれに触れて読むことができるという代物だった.バルビエは,除隊後,これを視覚障害者のために活用する方法を探り,訓盲院へ6行×2列の点字を導入した.これを受けて,その生徒だったブライユが改良を加え,3行×2列の6点のブライユ点字法を開発するに至ったという次第である.
 今や世界で広く認知され,用いられている点字という記号体系が,このように軍事的な色彩の強い環境で開発された暗号に起源をもつという事実は,非常に興味深い.点字も暗号もコミュニケーション手段には違いなく,ある意味でこの発展は必然的とも考えられるが,一方で,バルビエから訓盲院を経てブライユへと連なったのは,歴史の偶然でもある.暗号の発明が,結果的に,教育史上きわめて重要な発明につながった稀有な例である.
 以上,稲葉 (54) を参照して執筆した.

 ・ 稲葉 茂勝 『暗号学 歴史・世界の暗号からつくり方まで』 今人舎,2016年.

Referrer (Inside): [2016-10-23-1] [2016-10-16-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-09-20 Tue

#2703. 非対称鍵暗号の革命 [cryptology][language][semiotics][communication]

 「#2700. 暗号によるコミュニケーションの特性」 ([2016-09-17-1]) で,暗号と通常の言語を比較対照した.現代の暗号が通常の言語と最も異なっている側面の1つに,コードの非対称性がある.だが,これは直感に反するため,もし言語に同じような非対称性が備わっていたら一体どのような言語コミュニケーションが展開するのか,想像するのも難しい.
 20世紀後半に非対称鍵暗号が生まれるまで,人類の用いてきた暗号はすべて対称鍵暗号だった.対称鍵暗号では,送り手と受け手が同じ鍵のコピーをもっている.送り手はその鍵で平文をスクランブルして暗号文を作って送り,受け手はその鍵のコピーで解錠して平文を取り戻す.両者ともに共通の鍵(とアルゴリズム)があるからこそ,最終的にコミュニケーションが成り立つのである.この対称性は,言語にもみられる基本的な特性である.例えば日本語の文法を鍵(およびアルゴリズム)とすれば,日本語の話し手はその鍵で伝えたい内容を符号化して文を産出して送り,日本語の聞き手はその鍵のコピーで復号化して内容を取り戻す.符号化と復号化の過程では,文法の諸規則の適用順序こそ逆になるが,同じ一つの文法である.このように対称鍵暗号は通常の言語と根本的な特性を共有しているため,その原理を理解しやすい.
 しかし,20世紀後半に非対称鍵暗号なるものが生まれた.非対称鍵暗号によるコミュニケーションでは,送り手と受け手の用いる鍵が,数学的に非常に精妙な方法で関連づけられてはいるものの,事実上異なっているのである.あたかも,送り手は英語で話しをしているが,受け手は日本語で聞き取っているかのようだ.このように表現すると英語から日本語への自動翻訳機が介在しているかのようなシチュエーションにも聞こえるが,この比喩は必ずしもうまくいかない.というのは,受け手側の鍵(この例では日本語文法)は,受け手が独自に作成し,他人に明かさずに保管していたものであり,さらに,受け手がそれを鋳型として送り手側の鍵(この例では英語文法)をも先に作りあげていたという状況があるからだ.つまり,受け手はコミュニケーションに先立って,ある人工言語の文法を作り上げ,それを鋳型として第2の人工言語の文法まで作り上げておく.その上で,第2の文法書を公開しつつメッセージの送り手に与え,送り手はその文法を用いて平文を暗号化し,受け手へ送信する.そして,受け手は,この暗号文を,(第2ではなく)第1の文法書に従って読み解く.この暗号文は,第2の文法で符号化されているにもかかわらず,決して第2の文法によっては復号化できないという奇妙な性質をもっているのである.
 通常の言語コミュニケーションの感覚に慣れていると,この非対称鍵暗号によるコミュニケーションの仕組みは実に奇妙だ.しかし,まさに通常の言語の常識を破ったからこそ,非対称鍵の発明は暗号学史上の快挙としてみなされているのだろう.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-09-17 Sat

#2700. 暗号によるコミュニケーションの特性 [cryptology][communication][phatic_communion][function_of_language][semiotics]

 昨日の記事「#2699. 暗号学と言語学」 ([2016-09-16-1]) の最後に触れたように,言語はメッセージを伝えたいという欲求とともに発達してきたと考えられるにもかかわらず,一方で人類はメッセージを秘匿したいという欲求を抱き,暗号技術を発達させてきた.これは,言語によるコミュニケーションに関する一種の矛盾と考えられるかもしれない.しかし,よく考えてみると,暗号は言語コミュニケーションの本質と矛盾するというよりも,むしろそのある側面を究極に推し進めたものとみなせるのではないか.というのは,暗号コミュニケーションにおいては,ある特定の相手にだけ,という強い限定はあるものの,むしろメッセージを伝えたいという欲求はことさらに強いからである.
 実際「#1070. Jakobson による言語行動に不可欠な6つの構成要素」 ([2012-04-01-1]) の図において,中央の「ことば (message)」を「暗号」と読み替えても,この図はそのまま通用しそうである.しかし,異なるところもある.暗号コミュニケーションでは話し手と聞き手を直接つなぐ「接触 (contact)」の回路が意図的に強く限定されており,排他的であることだ.たしかに,通常の言語コミュニケーションにおいても,ある程度の排他性が想定される機会はある.例えば,ひそひそ話し,陰口,私信などでは,物理的な方法で接触が制限されている.ところが,暗号コミュニケーションでは,物理的な方法で接触を制限することも含みはするが,それ以上に重要な制限方法として「言語体系 (code) 」にひねりを加えるという手段を用いる.特定の話し手と聞き手にしか共有されない排他的なコードを用いることにより,記号論的に他者が接触できない状況を作り出しているのである.
 このように,通常の言語コミュニケーションと対比すると,暗号コミュニケーションの本質が浮き彫りになる.話し手と聞き手が,排他的なコードにより排他的な接触の関係を作り上げて排他的なコミュニケーション回路を作るというのが,暗号コミュニケーションの前提のようだ.「山」に対して「川」という合い言葉は,原始的な暗号の一種だが,これは暗号コミュニケーションにおける phatic_communion を体現するものである (see 「#1771. 言語の本質的な機能の1つとしての phatic communion」 ([2014-03-03-1]),「#1071. Jakobson による言語の6つの機能」 ([2012-04-02-1])) .暗号を記号論的に論じてみるのもおもしろそうだ.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-04-05 Tue

#2535. 記号 (sign) の種類 --- 伝える手段による分類 [writing][medium][sign][semiotics][communication]

 昨日の記事「#2534. 記号 (sign) の種類 --- 目的による分類」 ([2016-04-04-1]) に続き,今日は村越 (15) より記号(サイン)の「伝える手段による分類」の図を示そう.

Classification of Signs by Medium

 情報の受け手視覚に訴えかけるサインの種類の多いことがわかるが,実にサインの86パーセントを占めるという.村越 (16--17) によると,

その理由は,視覚が光を媒体にしていることから第三者に届く情報が,他の感覚器官より格段に早い,ということなのです(光速は秒速約30万キロ)。/この早い「視覚で」に「聴覚で」という(秒速約300メートル)声とか音を加えると,情報のほとんどすべてが「受け手」に伝えられることになります。音の伝わる早さが光に次ぐことから,ある意図したことを第三者に伝えようとする「情報の送り手」は,その手段として「受け手」の視聴覚に訴えることになるのです。


 なお「視覚で」の「形」の「画像」を目的によってさらに下位分類すると,「美的表示」(抽象絵画,具象絵画,芸術写真,書)と「実用的表示」に分けられる.後者はさらに「対照即応的」なもの(写真,描写,地図,製図),「象徴的」なもの(シンボル,マーク,ピクトグラム,シグナル),「定性定量的」なもの(グラフ,ダイヤグラム,表)に区分されるという(村越,pp. 17--19).
 関連して,ヒトの感覚器官とコミュニケーション手段の関係についての考察は「#1063. 人間の言語はなぜ音声に依存しているのか (1)」 ([2012-03-25-1]),「#1064. 人間の言語はなぜ音声に依存しているのか (2)」 ([2012-03-26-1]) の記事も要参照.

 ・ 村越 愛策 『絵で表す言葉の世界』 交通新聞社,2014年.

Referrer (Inside): [2019-08-23-1] [2016-04-06-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-04-04 Mon

#2534. 記号 (sign) の種類 --- 目的による分類 [writing][medium][grammatology][sign][semiotics][kotodama]

 記号 (sing) は様々に分類されるが,村越 (14) に記号の「目的による分類」の図が掲載されていたので,少し改変したものを以下に示したい.ここでは「サイン」というカタカナ表現を,記号を表す包括的な用語として用いている.

Classification of Signs by Purpose

 この目的別の分類によると,私たちが普段言葉を表す文字を用いているときには,「サイン」のうちの「しるし」のうちの「見分け」として用いていることになろうか.もちろん,文字は「署名」のうちの「記名」にも用いることができるし,「しるし」の他の目的にも利用できる.例えば,厳封の「緘」や「〆」は「証明」の目的を果たすし,護符に神仏の名を記すときには「象徴」となるし,それは言霊思想によれば「因果」ともとらえられる.
 付言しておけば,記号論では記号とは必ずしも人為的である必要はない.人間が何らかの手段で知覚することができさえれば,自然現象などであっても,それは記号となり,意味を持ちうるからである.
 参照した村越の著書は,ピクトグラムに関する本である.2020年の東京オリンピックに向けて日本で策定の進むピクトグラムについては,「#2244. ピクトグラムの可能性」 ([2015-06-19-1]),「#2400. ピクトグラムの可能性 (2)」 ([2015-11-22-1]),「#2420. 文字(もどき)における言語性と絵画性」 ([2015-12-12-1]) を参照されたい.

 ・ 村越 愛策 『絵で表す言葉の世界』 交通新聞社,2014年.

Referrer (Inside): [2016-04-06-1] [2016-04-05-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2015-11-23 Mon

#2401. 音素と文字素 [phonology][phoneme][grammatology][grapheme][writing][double_articulation][sign][semiotics][terminology]

 ここしばらくの間,文字素 (grapheme) とは何かという問題を考えている.音韻論における音素 (phoneme) になぞらえて,文字論における文字素を想定するということは,ある程度の研究史がある.確かに両者には平行的に考えられる点も少なくないのだが,音声言語と書記言語は根本的に性質の異なるところがあり,比喩を進めていくと早い段階でつまずくのである.
 そのキモは,音声言語では2重分節 (double_articulation) が原則だが,書記言語では第1分節こそ常に認められるものの,第2分節は任意であるという点にあるだろうと考えている.第1分節でとどめれば表語文字(あるいは表形態素文字)となり,音声言語と平行的に第2分節まで進めば表音文字(単音文字)となる.
 この辺りの事情は今後じっくり考えていくとして,当面は音素と文字素について平行するところを整理してみたい.Pulgram が便利な一覧を作ってくれているので,それを再現したい.以下,P(honeme) と G(rapheme) の比較対照である.

P1The smallest distinctive audible units of a dialect are its phonemes.G1The smallest distinctive visual units of an alphabet are its graphemes.
P2A phoneme is a class of articulated speech sounds pertaining to one dialect.G2A grapheme is a class of written characters pertaining to one alphabet.
P3The hic et nunc spoken realization of a phoneme is an articulated speech sound or phone.G3The hic et nunc written realization of a grapheme is a written alphabet character or graph.
P4The number of phonemes in each dialect must be limited, the number of phones cannot be.G4The number of graphemes in each alphabet must be limited, the number graphs cannot be.
P5By definition, all phones identifiable as members of one phoneme are its allophones.G5By definition, all graphs identifiable as members of one grapheme are its allographs.
P6The phonetic shape of an allophone is dependent on its producer and on its phonetic surroundings.G6The graphic shape of an allograph is dependent on its producer and on its graphic surroundings.
P7Phones which are not immediately and correctly identifiable as belonging to a certain phoneme when occurring in isolation, may be identified through their meaning position in a context.G7Graphs which are not immediately and correctly identifiable as belonging to a certain grapheme when occurring in isolation, may be identified through their meaningful position in a context.
P8Dialects are subject to phonemic change and substitution.G8Alphabets are subject to graphemic change and substitution.
P9The number, kind, and distribution of phonemes varies from dialect to dialect.G9The number, kind, and distribution of graphemes varies from alphabet to alphabet.


 Pulgram の論文は音素と文字素の平行性を扱ったものである.私は,実はかえってその非平行性を示す点が明らかになるのではないかという期待をもって,この論文を読んでみたのだが,期待外れだった.唯一印象に残ったのは,p. 19 の次の1文のみである.

If today we distinguish between letter (or better grapheme) and speech sound (or better phoneme), the reason is that there has hardly ever existed in any language with some tradition of writing a strictly one to one ratio between the two.


 Pulgram は,音素と文字素の非平行性に気づいていながらも,それを真正面から扱うことを避けたのではないか,という気がしないでもない.

 ・ Pulgram, Ernst. "Phoneme and Grapheme: A Parallel." Word 7 (1951): 15--20.

Referrer (Inside): [2015-12-21-1] [2015-11-30-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2015-09-23 Wed

#2340. 書き言葉の自立性に関する Vachek の議論 (2) [writing][medium][history_of_linguistics][phonetics][spelling][sign][semiotics][spelling_reform]

 昨日の記事 ([2015-09-22-1]) に引き続き,Vachek の論文を参照して,書き言葉の自立性について考える.Vachek は,思いも寄らないところから,書き言葉と話し言葉の対等な関係を主張する.音声表記 (phonetic transcription) と綴字読み上げ (spelling out) である.
 音声表記,特に精密な音声表記 (narrow phonetic transcription) は,実用目的にはあまりに読みにくい.音声学の専門書でこそ有用だが,それで日常的に読み書きの用を足すことになったら不便きわまりない.なんとか我慢して読もうとするならば,音声表記をたどりながら,いったん声に出すか頭の中で音声化することによって,事後的にあの単語のことか,と認識して理解することになるだろう.書かれた音声表記を見てから内容を理解するまでに,いくつかの行程を経なければならない.音声表記ではなく,いわゆる通常の文字と綴字であれば,見てから内容を理解するまでの行程は,もっとずっと直接的である.
 綴字読み上げとは,1文字ずつ声に出してスペルアウトするもので,例えば apple であれば,1文字ずつ [eɪ piː piː ɛl iː] (= A P P L E) と読み上げる,あのやり方である.耳で [ðɪs ɪz ən æpl] (= This is an apple.) と聞けば,そのまま内容が理解されるところを,[tiː eɪʧ aɪ ɛs aɪ ɛs eɪ ɛn eɪ piː piː ɛl iː] (= T H I S I S A N A P P L E) と1文字ずつ読み上げられたらどうだろう.聞きながら1文字ずつ追っていき,頭の中で綴字を組み立てて,This is an apple. のことかと思い至る,なんとも回りくどい経験をすることになる.1文字ずつの読み上げを聞きながら内容を理解するまでに,いくつもの行程を経なければならない.音声表記と綴字読み上げは,その開始と終了の媒介こそ互いに異なっているが,理解までの行程がひどく回りくどい点で共通している.もちろん,まさにその理由により,いずれも日常的には用いられないのである.
 音声表記と綴字読み上げの共通項を,Vachek のことばで表現すれば,いずれも "a sign of the second order",つまり記号の記号であるということだ.それに対して,話し言葉における言語音や書き言葉における文字・綴字は,"a sign of the first order",つまり直接的な記号である.これらの関係を以下の図で示してみた.

+---------------+----------------+--------------------------+
|               |                |                          |
|               |     Speech     |         Writing          |
|               |       |        |            |             |
+---------------+-------+--------+------------+-------------+
|               |       |        |            |             |
|               |       |        |            |             |
|               |     phones     |         letters          |
| First order   |    phonemes    |        graphemes         |
|               |                |        spellings         |
|               |           \   |  /                      |
|               |             \ |/                        |
+---------------+---------------×--------------------------+
|               |             / |\                        |
|               |           /   |  \                      |
|               |                |                          |
| Second order  |  spelling out  |  phonetic transcription  |
|               |                |                          |
|               |                |                          |
|               |                |                          |
+---------------+----------------+--------------------------+

 綴字読み上げ (spelling out) は出力こそ話し言葉 (speech) の世界に属しているが,間接的に再現しているのは,実は,書き言葉の文字・綴字 (letters / graphemes / spellings) である.音声表記 (phonetic transcription) は出力こそ書き言葉 (writing) の世界に属しているが,間接的に再現しているのは,実は,話し言葉の音・音素 (phones / phonemes) である.このような関係であるから,回りくどいにきまっている.私たちは,日常的にはこのような回りくどい second order の記号を用いず,first order の記号で用を足している.話し言葉であれば直接に音を,書き言葉であれば直接に文字・綴字を利用する.
 このような話し言葉と書き言葉の対照的かつ対称的な関係を示されると,それぞれが対等かつ独立した言語の媒介であるという謂いにも納得がいく.それぞれが,独自の目的をもって,言語的実現の媒介となっているのだ.
 この見方は,音声表記を目指す綴字改革にとっても重要な教訓となるだろう.そのような改革は,first order の記号を,わざわざ回りくどい second order の記号へと格下げしようとしていると解釈できることになるからだ.この問題については,「#2312. 音素的表記を目指す綴字改革は正しいか?」 ([2015-08-26-1]) も参照.

 ・ Vachek, Josef. "Some Remarks on Writing and Phonemic Transcription." Acta Linguistica 5 (1945--49): 86--93.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2015-05-19 Tue

#2213. ソシュールの記号,シニフィエ,シニフィアン [sign][semiotics][linguistics][saussure][terminology]

 昨日の記事「#2212. 固有名詞はシニフィエなきシニフィアンである」 ([2015-05-18-1]) でも,その他の多くの記事でも,ソシュールの記号 (signe) のとらえ方を前提としてきた.ソシュールによる記号論的,言語学的な用語としての,「記号」 (signe) と,その構成要素である「シニフィエ」 (signifié) とシニフィアン (signifiant) について,簡単に解説しておきたい.
 日常用語において「記号」とは,名前あるいは音声のことであると理解されており,それがある「事物」を指示したり「概念」を意味したりするととらえられている.しかし,ソシュールの用語では,記号 (signe) とは概念 (concept) と聴覚映像 (image acoustique) の組み合わさったセットのことを指す.両者が不可分に結びついた全体が,記号なのである.

Saussure's

 ソシュールがその2つを「事物」と「名前」とは呼ばずに,「概念」と「聴覚映像」と呼ぶのは,いずれも心理的な単位であり,外界に存在する物理的な単位ではないからである.とりわけ「音声」と呼ばずに「聴覚映像」と呼ぶのは,発せられた音声のことではなく心理的にイメージされた音声,心の中でつぶやくときのような音声イメージのことを指しているからである.
 ソシュールは,この「概念」と「聴覚映像」に別名として「シニフィエ」 (signifié) と「シニフィアン」 (signifiant) を与えた.この用語法を採用することにより,signifier (意味する)という動詞を中心にして,その名詞語幹 signe, 過去分詞 signifié,現在分詞 signifiant の3者の関係が明示されることになり都合がよいからだ.ソシュール自身は,新用語の導入を次のように説明している (99--100) .

Nous proposons de conserver le mot signe pour désigner le total, et de remplacer concept et image acoustique respectivement par signifié et signifiant ; ces derniers termes ont l'avantage de marquer l'opposition qui les sépare soit entre eux, soit du total dont ils font partie. Quant à signe, si nous nous en contentons, c'est que nous ne savons par qui le remplacer, la langue usuelle n'en suggérant aucun autre.


 ・ Saussure, Ferdinand de. Cours de linguistique générale. Ed. Tullio de Mauro. Paris: Payot & Rivages, 2005.

Referrer (Inside): [2016-08-11-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2015-05-18 Mon

#2212. 固有名詞はシニフィエなきシニフィアンである [onomastics][personal_name][sign][semantic_change][semantics][semiotics][arbitrariness][saussure]

 固有名詞の本質的な機能は,個物や個人を特定することにある.このことに異論はないだろう.確かに世の中には John Smith や鈴木一郎はたくさんいるかもしれないが,その場その場では,ある人物を特定するのに John Smith や鈴木一郎という名前で十分なことがほとんどである.固有名詞の最たる役割は,identification である.
 固有名詞には,その機能を果たす目的と関連の深い,付随した特徴がいくつかある.立川・山田 (100--08) は,言語論において固有名詞がいかに扱われてきたか,その歴史を概観しながら,固有名詞の特徴として以下の4点ほどに触れている.

 (1) 固有名詞は一般概念としてのシニフィエをもたず,個物や個人を直接的に指示する.すなわち,シニフィエ (signifié) なきシニフィアン (signifiant),空虚なシニフィアンである.
 (2) 固有名詞は翻訳不可能である.
 (3) 固有名詞は言語のなかにおける外部性を体現している.
 (4) 固有名詞は意味生成の拠点である.

 (1) は,端的に言えば固有名詞には意味がないということだ.普通名詞のもっているような象徴化機能を欠いているということもできる.一方で,指示対象は明確である.指示対象を特定するのが固有名詞の役割であるから,明確なのは当然である.意味あるいはシニフィエをもたずに,指示対象を直接に指すことができるというのが固有名詞の最も際立った特徴といえるだろう.「#1769. Ogden and Richards の semiotic triangle」 ([2014-03-01-1]) の図でいえば,底辺が直接に矢印で結ばれるようなイメージだ.
 (2) 以下の特徴も,(1) から流れ出たものである.(2) の固有名詞の翻訳不可能性は,固有名詞にもともと意味(シニフィエ)がないからである.翻訳というのは,シニフィエは(ほとんど)同一だが,シニフィアンが言語によって異なるような2つの記号どうしの関連づけである.したがって,シニフィエがない固有名詞には,翻訳という過程は無縁である.人名の Smith は「鍛冶屋」,鈴木は「鈴の木」であるから,意味があると議論することもできそうだが,人名として用いるときに意味は意識されることはないし,他言語への翻訳にあたって,通常,意味を取って訳すことはしない.
 (3) は,固有名詞が紛れもなく言語を構成する一部であるにもかかわらず,ソシュールの唱えるような差異の体系としての言語体系にはうまく位置づけられないことを述べたものである.言語が差違の体系であるということは,語彙でいえば,ある語は他の語との主として意味的な関係において相対的に存在するにすぎないということである.例えば,「男」という名詞は「女」という名詞との意味の対比において語彙体系内に特定の位置を占めているのであり,逆もまた然りである.語彙体系は,主として意味における対立を基本原理としているのだ.ところが,固有名詞は意味をもたないのであるから,主として意味に立脚する語彙体系には組み込まれえない.固有名詞は,言語内的な意味を経由せずに,直接に外界の指示対象を示すという点で,内部にありながらも外部との連絡が強いのである.固有名詞という語類は,ソシュール的な言語体系のなかに明確な位置づけをもたない.コトバとモノの狭間にある特異な存在である.
 (4) は逆説的で興味深い指摘である.固有名詞は,確かにシニフィエはもたないが,シニフィアンをもっている以上,外面的に記号の体裁は保っている.半記号とでも呼ぶべきものであり,少なくとも記号の候補ではあろう.そのようにみると,固有名詞には一人前の記号となるべく何らかのシニフィエを獲得しようとする力が働くものなのではないか,とも疑われてくる.固有名詞のシニフィアンに対応するシニフィエは無であるからこそ,その穴を埋めるべく何らかのシニフィエが外から押し寄せてくる,という考え方である.これは,意味生成 (signifiance) の過程にほかならない.立川・山田 (104--05) は,固有名詞の意味生成について次のように述べる(原文の傍点は下線に替えてある).

さらに興味深いのは、語る主体にたいする固有名詞の効果である。通常の語がすでに意味によって充満しているのにたいして、意味をもたない〈空虚なシニフィアン〉である固有名詞は、その空虚=シニフィエ・ゼロをめざして押し寄せてくる主体のさまざまな情念や想像にとらえられ、ディスクールのレベルでは逆に多義性を獲得してしまう。つまり、固有名詞はラングのレベルでシニフィエをもたないがゆえに、語る主体たちのファンタスムを迎えいれ、それと同時にみずから核となってファンタスムを増殖させていくのである。


 「#1108. 言語記号の恣意性,有縁性,無縁性」 ([2012-05-09-1]),「#1184. 固有名詞化 (1)」 ([2012-07-24-1]),「#1185. 固有名詞化 (2)」 ([2012-07-25-1]) などで,普通名詞の固有名詞化は意味の無縁化としてとらえることができると示唆したが,一旦固有名詞になると,今度は意味を充填しようとして有縁化に向けた過程が始動するということか.有縁化と無縁化のあいだの永遠のサイクルを思わずにいられない.
 立川・山田 (100) は「固有名詞という品詞をいかに定義するか。それは、それぞれの言語理論の特性を浮かびあがらせてしまう試金石であるといってもよい。」と述べている.

 ・ 立川 健二・山田 広昭 『現代言語論』 新曜社,1990年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2015-05-05 Tue

#2199. Bloomfield にとっての意味の意味 [semantics][semiotics]

 言語学史的にみれば,アメリカ構造言語学は明らかに形態重視の言語学だった.言語における意味に関しては,行動主義の観点から理解したものの,本格的に考察して理論化することはなかった.意味を軽視していたと言わざるをえない.しかし,アメリカ構造言語学の領袖 Bloomfield 自身は,彼に続く門下生ほど,意味を軽視していたわけではない.むしろ,よく考えていたからこそ,その難しさをも理解していた.意味を彼の創始した言語科学に持ち込むのに慎重だったのである.
 立川・山田 (58) も Bloomfield をそのように評価しながら,「いままでのどの言語理論家にもまして,〈意味〉の本質をつく明解な定義を提出したのが,ほかならぬこのブルームフィールドだった」とまで述べている.その定義とは,以下のくだりである.

When anything apparently unimportant turns out to be closely connected with more important things, we say that it has, after all, a "meaning"; namely, it "means" these more important things. Accordingly, we say that speech-utterance, trivial and unimportant itself, is important because it has a meaning: the meaning consists of the important things with which the speech-utterance . . . is connected, namely the practical events . . . . (Bloomfield 27)


 話者にとってより重要でないことを通じてより重要であることを表わす作用,その両者の関係こそが意味であると,Bloomfield は考えた.例えば,[ai] という音のつながりは,それ自体は物理的な音波にすぎず,些末なものである.しかし,それは日本語では「愛」,英語では I という,より重要とみなされるであろう事物や概念に結びつけられている.この結びつきこそが [ai] の意味であると考えられる.
 立川・山田 (58--59) の説明を聞いてみよう.

だから、〈意味〉というのは、主体がある現象を、なんであれそれよりも「重要」だと彼がみなす、ほかの物質的ないし心的な事物に結びつける際の関係のことだ、ということになるだろう。「ヨリ重要な物事」が言及対象であるか概念であるか行動であるか、そのことはここでは問題ではない(ちなみに、ブルームフィールド自身は、〈意味=行動説〉に立っている)。問題なのは、主体が現に聴いている音、見ている形や色などに満足することなく、それを不在の「ヨリ重要な物事」に関係づけるという、そのプロセスである。


 このように,意味とは価値の階層的な関係を構成している.何がより重要でなく,何がより重要かは,文化によっても異なるものであるから,その限りにおいて意味(作用)とは相対的なものとならざるをえない,ということにもなる.Bloomfield は,意味の相対性を知っていたゆえに,音韻や形態と同列に意味を理論化することの困難にも気づいていたのだろう.
 意味の意味については,「#1782. 意味の意味」 ([2014-03-14-1]),「#1863. Stern による語の意味を決定づける3要素」 ([2014-06-03-1]),「#1769. Ogden and Richards の semiotic triangle」 ([2014-03-01-1]) も参照されたい.

 ・ 立川 健二・山田 広昭 『現代言語論』 新曜社,1990年.
 ・ Bloomfield, Leonard. Language. 1933. Chicago and London: U of Chicago P, 1984.

Referrer (Inside): [2019-08-25-1] [2016-12-20-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2015-05-02 Sat

#2196. マグリットの絵画における metaphor と metonymy の同居 [semiotics][metaphor][metonymy][semantics][rhetoric]

 先日,国立新美術館で開催されているマグリット展に足を運んだ.13年ぶりの大回顧展という.
 René Magritte (1898--1967)はベルギーの国民的画家で,後のアートやデザインにも大きな影響を与えたシュルレアリスムの巨匠である.言葉とイメージの問題,あるいは記号論の問題にこだわり続けたという点で,マグリットの絵画は「言語学的に」鑑賞することが可能である.
 マグリットは metaphor と metonymy を意識的に多用した.多用したというよりは,それを生涯のテーマとして掲げていた.metaphor や metonymy という言葉のあやを絵画の世界に持ち込み,目に見える形で描いた.つまり,目に見える詩の芸術家である.
 意味論において metaphor は類似性 (similarity) に基づき,metonymy は隣接性 (contiguity) に基づくとされ,2つは対置されることが多い.しかし,対置される関係ではないという議論もしばしば聞かれる.マグリットも,絵画のなかで metaphor と metonymy を対立させるというよりは,しばしば同居させ,融合させることによって,この議論に参加しているかのようである.
 例えば,マグリットの絵には,一本の木が,立てられた一枚の葉の輪郭として描かれているものが何点もある.木と葉の関係は全体と部分の関係であり,典型的な metonymy の例だが,同時に両者の輪郭が類似しているという点において,その絵は metaphor ともなっている.絵を眺めていると,metonymy でもあり metaphor でもあるという不思議な感覚が生じてくるのだ.もう1つ例を挙げると,Le Viol (陵辱)という作品では,女性の胸像がそのまま女性の顔とも見えるように描かれている.体と顔とは上下に互いに隣接しており metonymy の関係をなすが,その絵においてはいずれとも見ることができるという点で metaphor でもある.Dubnick (417) によれば,マグリットは,この絵のなかで視覚的に metaphor と metonymy を表現したのみならず,同時に背後で言葉遊びもしているという.

Le Viol (The Rape, 1934) which substitutes a woman's torso for her face, is predominantly metonymic though relationships of similarity are also important. The breasts are substituted for eyes, the navel for the nose, and perhaps a risqué pun on the word labia is intended. This monstrous image is both funny and grotesque. But even though this image may convey a metaphorical and moral message about the sexual basis of a woman's identity, especially in the eyes of the rapist, the core of the painting is really the vulgar synecdoche which replaces the word "woman" with a slang term for a female's genitals. Thus, this is both a verbal and a visual pun.


 Dubnick (418) は,言語学者 Roman Jakobson を引き合いに出しながら,マグリットを次のように評価して評論を締めくくっている.

Jakobson's linguistic theories about metaphor and metonymy suggest that the phrase "visible poetry" was not an empty metaphor for Magritte, who created figures of speech with paint.


 ・ Dubnick, Randa. "Visible Poetry: Metaphor and Metonymy in the Paintings of René Magritte." Contemporary Literature 21.3 (1980): 407--19.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow