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日本語における「外来語の氾濫」の問題は,長らくメディアを賑わわせている.最近目についたところでは,9月4日(水)の朝日新聞朝刊13面に「耕論 カタカナ語の増殖」として3名の識者による議論が掲載されていた.「フランス語の未来」協会長のアルベール・サロン氏による「過剰な英語化,無味乾燥」,英語言語帝国主義批判の論客,津田幸男氏による「「言語法」で日本語を守れ」,クリエーティブディレクター岡康道氏による「取り込んで,面白がろう」の3論である.サロン氏は英語支配の観点から,津田氏は英語支配および日本の伝統維持という立場からそれぞれカタカナ語の氾濫を厳しく批判しているが,岡氏は日本語の同化力と創造力を評価して外来語の流入を歓迎している. *
確かに,戦前から戦後を経て21世紀初頭の現在に至るまで,主として英語起源のカタカナ語の流入はおびただしい.この「氾濫」に対して,上記の議論のように様々な立場から反論が加えられてきたし,逆に擁護論が展開されたりもしてきた.しかし,とりわけ目につくのは反対論のほうである.このような問題における支持論は,およそ反対論に対する反論として唱えられるのが常であるようだ.
『新版日本語教育事典』 (261) によると,外来語問題とは次の通りである.
「カタカナ語の氾濫」として問題にされ,急増している外来語への対応がさまざまな角度から議論される.背景には,英語とアメリカ文明の圧倒的な優位があるといってよい.議論の方向は,大きく2つの立場に分かれる.一つは,日本語そのものが良き文化的伝統とともに崩壊するのではないかと懸念する伝統重視の立場からのもの,もう一つは,一般になじみのうすい外来語が出まわることによって,基本的な情報のやりとりや意志疎通に支障が生ずることを問題視する機能重視の立場からのものである.後者に関しては,とくに公共性の高い場面における外来語使用について,個々の語の定着度に配慮した適切な対応を求める動きが国のレベルでも見られる.
このような問題意識を受けて,昨日の記事「#1616. カタカナ語を統合する試み,2種」 ([2013-09-29-1]) でも触れたとおり,2002年より国立国語研究所の「外来語」委員会が「外来語」言い換え提案について議論することになった次第である.委員会設立趣意書では,機能主義の立場から外来語の問題点を指摘している.
外来語・外国語の問題点
近年,片仮名やローマ字で書かれた目新しい外来語・外国語が,公的な役割を担う官庁の白書や広報紙,また,日々の生活と切り離すことのできない新聞・雑誌・テレビなどで数多く使われていると指摘されています.例えば,高齢者の介護や福祉に関する広報紙の記事は,読み手であるお年寄りに配慮した表現を用いることが,本来何よりも大切にされなければならないはずです.多くの人を対象とする新聞・放送等においても,一般になじみの薄い専門用語を不用意に使わないよう十分に注意する必要があります.ところが,外来語・外国語の使用状況を見ると,読み手の分かりやすさに対する配慮よりも,書き手の使いやすさを優先しているように見受けられることがしばしばあります.
日本語教育の立場からも,外来語の問題点が指摘されている.以下,遠藤(編) (205--06) より引用するが,これも広い意味では機能主義的な議論の一種だろう.
日本語の中に外来語が多いことは,日本人にとってだけでなく,日本語学習者にとっても,いろいろな問題を生んでいる.
日本人にとっては,次々に生まれるカタカナの外来語の意味するところがわからなくて,困惑する人が多くなっている.政府関係の白書に使われる外来語の多さが,論議を呼び,外来語使用を自粛するように通達も出されたこともある.しかし,減る気配はいっこうに見えなくて,意思疎通に支障を来すことをおそれて国立国語研究所が言い換え案を出すことになった.その効果についてはまだ,報告されていない.
ショートステイ・ケアマネージャー・ケアプログラム・バリアフリーなど,福祉関係の用語が外来語で占められているが,これではその主な対象者である高齢者にはわかりにくい.ノーマライゼーション・アカウンタビリティなどのように新しい概念を移入するとき,原語をそのままカタカナにするために,外来語が増えるのであるが,そのカタカナの表す音と原語の発音の差が大きすぎて,原語のわかる人にもそのカタカナ語はわからない.まして,日本で適当に原語を組み合わせて作られる語(=和製語)は,原語を知っている人でもまったく類推が利かない.
そのために,英語の話者は倍の苦労をする.日本人はカタカナの語を見ると,英語だと思い,外国人には英語で言えば通じると思う.しかし,それは英語でも何でもない日本での造語である.英語話者に通じるはずがないのに,通じると思われて多く使ってこられるとしたら,ますます負担は大きくなるのである.
発音のわかりにくい,英語もどきのことばより,いっそ本来の日本語で言ってくれたほうがはるかにわかりやすいと,日本語を知る英語話者は嘆いているのである.
日本語を教える際に,カタカナ外来語は,原語とは関連がなく,まったく新たな日本語であるということを認識しておく必要がある.
このように外来語の氾濫は様々な批判の対象とはなっているが,実際のところ,多くの日本語母語話者は外来語の受容と使用について議論こそすれ,本格的に敵視し排除しようというわけではなさそうだ.外来語を法によって規制しようという動きにまで発展したことはないし,今後もそこまで行くかどうかは疑問だ.全体として現状肯定,あるいは消極的な支持という向きが支配的のように思う.
・ 『新版日本語教育事典』 日本語教育学会 編,大修館書店,2005年.
・ 遠藤 織枝(編) 『日本語教育を学ぶ 第二版』 三修社,2011年.
昨日の記事「#1615. インク壺語を統合する試み,2種」 ([2013-09-28-1]) で,16世紀に大量にラテン語から流入したインク壺語の理解を促すための主たる方法として,辞書の出版と言い換え表現があったことを述べた.おもしろいことに,現代日本語におけるカタカナ語の大増殖にも,ほとんど同じことがいえる.大正以降,とりわけ戦後の洋語(ほとんどが英語)の語彙借用はおびただしいが,それを日本語語彙に統合しようとする試みの1つとして,カタカナ語辞書の出版が目につく.図書検索サイトなどで,「カタカナ語」や「外来語」を題名に含む本を検索すると,非常に多くの参考図書がヒットする.地元の公立図書館のこども用書棚をちょっとのぞくだけでも,例えば『カタカナ語おもしろ辞典』(村石 利夫,さ・え・ら書房,1990年)や『カタカナ語・外来語事典』(桐生 りか,汐文社,2006年)が簡単に見つかる.この日本の著者たちの意図は,かつてのイングランドの Mulcaster, Cawdrey, Bullokar, Cockeram の意図と重ね合わせることができるだろう.
インク壺語統合のために用いられたもう1つの方法,すなわち言い換え表現もまた,カタカナ語統合のために利用されている.ただし,カタカナ語の場合には,近年,より公的な言語政策が関与していることに注意したい.2002--06年,国立国語研究所の「外来語」委員会が「外来語」言い換え提案の活動を行い,その成果を公開した.言い換え手引きは書籍としても出版されたし,オンラインでも公開されている.委員会設立趣意書や提案した語の一覧ほか,様々な参考資料や研究論文がオンラインで閲覧できる.趣意書に「緩やかな目安・よりどころを具体的に提案することを目指しています」とあるとおり,強制力のない提案ではあるが,公的な機関が策定しているという点で,国による言語政策の一環(とりわけ corpus planni ng と呼ばれるもの)と考えてよいだろう.「アーカイブ〔保存記録〕」「インフォームドコンセント〔納得診療〕」「ワーキンググループ〔作業部会〕」などの表記は,かつてのイングランドにおける "education or bringing up of children", "agility and nimbleness" を想起させる.かっこ付きで補助的に表記するとき,それは一種の日本語版 2項イディオム (binomial idiom) であるといえる.
時代も言語も異なるが,インク壺語もカタカナ語も,その統合のための努力と手段については大きく変わるところがない.個々の語が定着するか廃用となるかが時間の問題であることも,変わらないだろう.
バケ『英語の語彙』 (87--88) によれば,16世紀を中心に大量にラテン語から借用された inkhorn_term などの学者語は,普及に際して主として2つの手段があった.1つは,Mulcaster の提案に端を発する Cawdrey, Bullokar, Cockeram などの初期の難語辞書の出版である.「#576. inkhorn term と英語辞書」 ([2010-11-24-1]) および「#609. 難語辞書の17世紀」 ([2010-12-27-1]) の記事でみたように,17世紀は難語辞書の世紀といってよい.インク壺語を是とする識者たちは,これらの辞書によって,人々を啓蒙しようとしたのである.
もう1つは,文章のなかで簡易説明を加えながら実際に使ってゆくという方法である.これはすでに Chaucer や Caxton などにより伝統的に用いられてきた方法だが ([2011-07-26-1]の記事「#820. 英仏同義語の並列」を参照),近代でも改めて利用されることとなった.例えば,Sir Thomas Elyot (1490?--1546) は,(1) "circumspectin…which signifieth as moche as beholding on every parte" のように簡単な定義を施す, (2) "difficile or harde", "education or bringing up of children", "animate or give courage" のようにor による並置を用いる, (3) "gross and ponderous", "agility and nimbleness" のように and による並置を用いる,などの方法に訴えた.その後,16世紀の終わりに Francis Bacon (1561--1626) が,Essays のなかで,教育上の目的によりしばしばこれを用いた.詩人などの文学者もまた,韻律上の動機づけ,または強調や威厳などの文体的な目的により,この方法を多用した.Shakespeare の "by leave and by permission", "dispersed and scattered", "the head and source",あるいは The Book of Common Prayer における "I pray and beseech you, that we have erred and strayed" のごとくである.これらはときに虚飾主義に陥り,書きことばと話しことばの乖離を促すことになった(法律語からの例については,[2013-04-09-1]の記事「#1443. 法律英語における同義語の並列」を参照).しかし,上記の方策は,初期近代英語期のおびただしい借用語の流入に対する語彙統合の努力でもあったのだ.
なお,(2), (3) の等位接続詞による並置という方法は,(1) の難語辞書内でも当然多用された.「#1609. Cawdrey の辞書をデータベース化」 ([2013-09-22-1]) の検索式の例文として「定義に " or " を含むもの」と「定義に " and " を含むもの」を挙げておいたのは,そのためである.
関連して,and で並置する2項イディオム (binomial idiom) の他の話題も参照.
・ ポール・バケ 著,森本 英夫・大泉 昭夫 訳 『英語の語彙』 白水社〈文庫クセジュ〉,1976年.
9月12日に「素朴な疑問」コーナーで次のような質問をいただいた.「#1597. star と stella」 ([2013-09-10-1]) を受けて,同じ [r] と [l] の交替に関する質問である.
uca 2013-09-12 02:50:55
先日のトピックで羅stellaと英starの関係について触れられていましたが,さらに疑問に感じたことがあります.それは,仏titreと英titleの関係です.これにはどういう経緯があったのでしょうか.ラテン語ではtitulusなので,この変化はあくまでフランス語内での変化なのでしょうか.ご教授いただければ幸いです.
英語の title に対してフランス語は確かに titre である.語源をひもとくと,印欧祖語 *tel- (ground, floor, board) に遡る.この語根の加重形 (reduplication) をもとに印欧祖語 *titel- が再建されており,これが文証されるラテン語 titulus (inscription, label) へ発展したとされる.「平な地面や板に刻んだもの」ほどの原義だろう.ここから「銘(文),説明文,表題」などの語義が,すでにラテン語内で発達していた.このラテン語形は,古フランス語 title として発展し,これが英語へ借用された.初出は14世紀の初め頃である.ただし,古英語期に同じラテン語形を借用した titul が用いられていたことから,中英語の tītle は,この古英語形から発達したものと解釈する OED のような立場もある.いずれにせよ,英語では一貫して語源的な [l] が用いられていたことは確かである.
すると,現代フランス語 titre の [r] は,フランス語史の内部で説明されなければならないということになる.英語やフランス語の語源辞典などにいくつか当たってみたが,多くは単に [l] > [r] と記述があるのみで,それ以上の説明はなかった.ただし,唯一 Klein は,"OF. title (in French dissimilated into titre)" と異化 (dissimilation) の作用の結果であることを,明示的に述べていた.
Klein ならずとも,[r] と [l] の交替といえば,思いつく音韻過程は異化である.しかし,「#1597. star と stella」 ([2013-09-10-1]) でも説明したとおり,異化は,通常,同音が語の内部で近接している場合に生じるものであり,今回のケースを異化として説明するには抵抗がある.例えば,フランス語でも典型的な異化の例は,couroir > couloir (廊下) や murtrir > multrir (傷つける)のようなものである.しかし,同音の近接とはいわずとも,調音音声学的な動機づけは,あるにはある.[t] と [l] は舌先での調音位置が歯(茎)でほぼ一致しているので,調音位置の繰り返しを嫌ったとも考えられるかもしれない.だが,[r] とて,現代フランス語と異なり当時は調音位置は [t] や [l] とそれほど異ならなかったはずであり,やはり調音音声学的な一般的な説明はつけにくい.異化そのものが不規則で単発の音韻過程だが,title > titre は,そのなかでもとりわけ不規則で単発のケースだったと考えたくなる.
だが,類例がある.ラテン語で -tulus/-tulum の語尾をもつ語で,[l] が [r] へ交替したもう1つの例に,capitulum > chapitle > chapitre がある.共時的には,フランス語には英語風の -tle は事実上ないので,音素配列上の制約が働いているのだろう.歴史的に -tle が予想されるところに,-tre が対応しているということかもしれない.この辺りの通時的な過程および共時的な分布はフランス語(史)の話題であり,残念ながらこれ以上私には追究できない.
話題として付け加えれば,英語 title あるいはフランス語 titre の派生語における [l] と [r] の分布をみてみるとおもしろい.フランス語では,派生語 titulaire, titulariser では,ラテン語からの歴史的な [l] を保っている.もちろん,英語 titular も [l] である.化学用語の英語 titrate (滴正する), titration, titrable, titrant は,フランス語の名詞 titre から作った動詞 titrer の借用であり,[r] を表わしている.また,英語で title と同根の tittle (小点;微少)についても触れておこう.この2語は2重語であり,形態上は母音の長短の差異を示すにすぎない.スペイン語の文字 ñ の波形の記号は tilde と呼ばれるが,これはラテン語 titulus より第2子音と第3子音が音位転換 (metathesis) したスペイン語形がもとになっている.したがって,title, tittle, tilde は,形態的にも意味的にも緩やかに結びつけられる3重語といってもよいかもしれない.
・ Klein, Ernest. A Comprehensive Etymological Dictionary of the English Language, Dealing with the Origin of Words and Their Sense Development, Thus Illustrating the History of Civilization and Culture. 2 vols. Amsterdam/London/New York: Elsevier, 1966--67. Unabridged, one-volume ed. 1971.
昨日の記事「#1612. 道路案内標識,ローマ字から英語表記へ」 ([2013-09-25-1]) で話題にした道路案内標識の英語表記化の施策について,言語計画 (language_planning) という観点から議論を続けたい.カルヴェによると,このような問題は「言語環境」あるいは「地域の言語記号化」というキーワードのもとで議論される.少々長いが,カルヴェ (62--65) より「言語環境」と題された1節のほとんどを引用する.
町で通りを散歩したり,空港に着いたり,ホテルの部屋でテレビのチャンネルをつけたりすると,ポスターや広告,テレビ番組,シャンソンなどに用いられている言語を通じて,言語状況に関する情報を直ちに入手できる.と同時に,社会言語学的状況を注意深く調査して,そこに存在する言語や言語変種をよく知るにつれて,その多くがメディアに登場していないことに気づく.
日常生活のなかで,言語が口語や文語の形で存在したり,存在していないことを「言語環境」と呼ぶ.一例をあげるなら,ニューヨークでは店の看板に英語や中国語,イタリア語,アラビア語といった言語が見られることから,その地誌を作成することができるし,その環境における言語変種を通じて,現在の変化を見守ることもできる.あるいはまた,イギリスによる中国への香港返還の期日(一九九七年)が近づくにつれて,一九九〇年代の香港の言語環境には中国語の伸張と英語の後退が認められた.
ニューヨークや香港,また他の首都の言語状況は多くの情報に満ちあふれ,生体のなかにあると言えるが,実験室のなかの言語計画もそのような状況に介入しうるのだ.ある言語話者の日常生活にアルファベットが現われないのに,その言語にアルファベットを与えても何の役にも立たないからだ.通りの名称を示すプレートや道路標識,車両のナンバープレート,宣伝ポスター,ラジオやテレビ番組は,言語振興の目的で介入するのには格好の場である.たとえば,二十年の間隔を経て,一九九〇年代にビルバオ〔スペインの北部バスク地方の港町〕やバルセロナの空港に降り立った旅行者は,ビルバオにはバスク語の表示があり,バルセロナにはカタルーニャ語の表示があることに驚くだろう.この表示は言語環境に計画的な介入が行なわれ,それまで排除されていた言語がその環境を征服した,あるいは挽回したということを示している.同様に,表記環境という観点からすると,一九七〇年から一九八〇年の間に,アルジェの街の通りは,完全に変わってしまった.先に述べたすべての機能の点において,アラビア語がフランス語に取って代わった.このような「地域の言語記号化」は,それが自然に生まれた実践の結果であれ,計画的な実践の結果であれ,社会を記号論的に読みとく道具を提供している.そこに現われる言語には,掲示されているものもあれば,なかなか目にすることのないものもあり,その言語の社会言語学的な重要度やその将来とも無関係ではないのだ.
したがって,言語計画は環境に働きかけて,諸々の言語の重要性やその象徴的な威信に影響を及ぼすのだ.そしてさらに,互いに多少異なっているとはいえ,実験室のなかの活動は生体のなかの活動方法を用い,そこから着想を得る.たとえば,パリのマグレブ人の肉屋がアラビア語で屋号を掲示するといった自然な言語実践と,屋号はアラビア語の他にフランス語でも提示(つまり翻訳)されねばならないとする公権力による介入との間には,言語(ここでは文字表記)を通じたアイデンティティの表明について同様の意志が認められる.このアイデンティティを求めるアプローチはそれぞれ異なっている,一方は自然な行動から,他方は法の介入によって,アイデンティティを求めているのである.
だが,この二つの場合でも,地域の言語記号化という機能は同じである.ニューヨークやパリの通りに見られるアラビア語,中国語,ヘブライ語の掲示は,二段階のメッセージを作っている.まず明示的レベルでは,この言語を読むことのできる者だけがメッセージを解読できるという点で,潜在的に受信者をかなり限定する.と同時に,共示的レベルでは,この掲示は別の種類のメッセージとなっている.アラビア語や中国語を読めなくても,その文字体系を識別することができるし,その存在は象徴的役割や証言の役割を果たしている.たとえば,レストランのドアの上にある「広東料理店」という中国語による掲示は二つのことを伝えている.まず,中国語を読める人に「ここは広東料理の店だ」と伝えていると同時に,中国語を読めない人には「これは中国語だ」と伝えている.さらに近くの店が何軒も互いに屋号を中国語で掲げていれば,このような掲示が共存していることから,「これは中国人の通りだ」ということや,「ここは中華街だ」ということがわかる.このような二段階の読解からも,文字環境の重要性がわかる.国家がこの分野への介入を決定すれば,大多数の人びとはしばらくのあいだ,新たに掲示される言語が読めないかもしれない.もちろん,これは住民の識字率による.それでも,これは文字表記として知覚され,その文字の存在は政治による選択を象徴する.
カルヴェの主旨を今回の道路案内標識の英語表記化という文脈に当てはめると,次のように議論できるだろうか.言語的介入の格好の的である道路案内標識を英語化するという施策を通じて,日本政府は計画的に日本の言語環境を変化させようとしており,英語の伸張を後押ししているということになる.この施策が国民に受け入れられると仮定すると,道路案内標識の英語表記は,明示的レベルと共示的レベルの2つのメッセージを作ることになろう.例えば,"Kanda Sta. West" は,明示的レベルでは,英語表記を理解する者にそれが「神田駅西口」であることを伝える.一方,共示的レベルでは,英語表記を理解する者にもしない者にも,日本は道路案内標識に英語表記を用いることを選択した国であるというメッセージを,そして日本は英語の重要性やその象徴的な威信を政治的に認めているというメッセージを伝える.
道路案内標識の英語表記化の議論は,この「地域の言語記号化」という視点からなされるべきではないか.
「言語環境」というキーワードと関連して,「#278. ニュージーランドにおけるマオリ語の活性化」 ([2010-01-30-1]) や「#601. 言語多様性と生物多様性」 ([2010-12-19-1]) で触れた "ecology of language" や "ecolinguistics" という分野も関わりが深い.一方,「地域の言語記号化」は,「#1543. 言語の地理学」 ([2013-07-18-1]) で扱われるべき問題の1つだろう.
・ ルイ=ジャン・カルヴェ(著),西山 教行(訳) 『言語政策とは何か』 白水社,2000年.
8月20日の朝日新聞朝刊34面に「国会周辺の標識 外国人のため英語表記へ」と題する記事があった.従来,日本の道路案内標識では,日本語をヘボン式ローマ字で表記したものが使用されてきた.例えば,横書き「国会前」の標識ではすぐ下にローマ字で "Kokkai" と記されていたが,ローマ字部分を "The National Diet" と英語になおす試みが年内に実施されるという.国や東京都は,外国人訪問客などから標識が読めないという苦情を受けて「外国人への分かりやすさを第一に考えた」上での対応だというしている.
さらに,9月12日の朝日新聞朝刊5面に「標識,ローマ字やめます 英語表記に統一」と題する関連記事が掲載された.国土交通省は,英語表記化の動きを,国会周辺から始めて,全国へ広げようとしているとのことだ.これにより,例えば "Eki" → "Sta.", "Shogakko" → "Elem. School", "Yubinkyoku" → "Post Office", "Dori" → "Ave.", "Kencho" → "Pref. Office" と変更されることになる.
この動きは,2020年の東京オリンピック開催をにらんでの戦略的な施策とも考えられる.国会や財務省からは「日本人が分かるか.運転手が混乱する」という慎重論もあったようだが,国際的な英語化の大きな潮流には逆らえないということだろう.このような話題にも,「世界語としての英語」の圧力,あるいは論者によっては「英語の脅威」の具体的な現れを垣間見ることができる.
日本で公式に採用された道路案内標識の表記は,海外で出版される旅行ガイドブック,地図,住所録などにも反映されることになる.互いの表記が一致していないと,日本語を解さない訪問者には不便だからだ.タクシーの運転手などは,英語表記に用いられる英語語句の理解が欠かせなくなり,商売のために半ば英語学習を強いられることにもなる.
国会周辺の道路案内標識をローマ字から英語表記へ変更するという施策は,物理的行為としては小さなものだが,そこから広がる波紋は決して小さくない.本来は,この辺りの問題を,観光業の政治経済という観点だけではなく,英語教育,英語支配,言語政策,多言語主義などの観点からも意識的に議論した上で政策決定がなされるべきなのだが. * *
昨日の記事「#1610. Viking の語源」 ([2013-09-23-1]) で,''Viking' = 「入り江に住む者」の説を紹介した.入り江とは,海が陸地に入り込んだ静かな湾のことである.この入り江の地理的特徴に注目して,渡部昇一先生が,ヴァイキングや日本人のような海洋民族の発生について,興味深い説を紹介している.
ヴァイキングがどうして来たかというと,あれはやはり耕す場所がないから,ある程度人口が増えると海に乗り出さざるをえなかったんだと思うんですね.おもしろいセオリーがあります.海洋民族というか,海に乗り出す民族というのは,必ず故郷には静かな小さな海があるというんです.ヴァイキングなんかもフィヨルドが細く長くて非常に静かですから,そこで船の操作を覚えて,いつの間にか海に親しみを持つんですね.そうして,ある時期にパーッと外へ乗り出す.ちょうど日本でも同じように瀬戸内海があったもんですから,ここで船に乗って訓練をして,あるときから和冦になって荒らし回ったりする.つまり静かな海がないところでは海洋民族はできないというんですね.アフリカだとかインドというのは,いきなり大洋に面しちゃうもんですから,海が圧倒的に強くて征服できない.結局,海洋民族にならない.海洋民族は必ず静かな海があるところで舟を操るのがうまくなってから出てくるという説があります.(59--60)
瀬戸内海とは規模は違うが,北海 (the North Sea) もある意味では内海である.ヴァイキングにとって,スカンディナヴィア西岸のフィヨルドの入り江は操船の訓練地だった.そこで基本的な技術を習得した後に,中級レベルの北海で実践し,さらに上級レベルの大西洋へも乗り出していった.
デーン人やノルウェー人の北海進出と,それに続くイギリス諸島およびノルマンディへの侵入の経路は,スカンディナヴィア人の故郷からの目線で眺めると,よく理解できる.湖の対岸に向かうがごとき船旅である.北海周辺の地図を時計回りに90度回転させれば,北海上の自然な航路を同定することができるだろう.
ブリテン島の東部・北部が文化的にも言語的にも北方的である理由が,地勢としてよくわかる.同様に,ブリテン島の南部が大陸的(フランス的)である理由,西部がとりわけ島嶼的(ケルト的)である理由も納得できるだろう.
・ 渡部 昇一,ピーター・ミルワード 『物語英文学史 --- ベオウルフからバージニア・ウルフまで』 大修館,1981年.
どの言語にも語源不詳・未詳の語は多数あるが,とりわけ歴史文化的に重要な語の場合には,活発な議論の対象となることが多い.英語(史)において Viking (ヴァイキング)は,語源が未解決である最重要語の1つである.
英語での初出は1807年と意外に遅い.一説によると,この語は Old Norse, Old Icelandic vīking-r の借用であり,この元の語は vīk (creek, inlet, bay) + -ingr (one belonging to) と分析される派生語である.すなわち,「入り江に住む者,入り江に出入りする者」ほどの意味となる.ここで1つの問題は,Viking が北欧語起源ということになると,北欧人が自分たちのことを「入り江の人」と自称していたことになりそうだが,それはなぜだろうか.彼らが入り江に出入りしていたことは事実だろうが,それが自称となるほどに彼らの強いアイデンティティと結びつけられていたのだろうか.海賊行為を働く人々を指す他称としてであれば理解できそうにも思うが,その場合には北欧語起源であるのがなぜか分からなくなる.
一方,OED の採用している説は Anglo-Frisian に語源を求めている.ヴァイキングがある土地を襲う際に,一時的にキャンプを張る習慣があった.古英語には,キャンプの意味での wīc が文証されるし,wīcingsceaða (海賊行為)や sǣ-wīcingas (海賊)もすでに現れている.一方,Old Norse, Old Icelandic では10世紀後半にならないと問題の語が現れないので,文献学的にいえば古英語(さらに遡って Anglo-Frisian)に起源を求める説に利点がある.ただし,語源を求めるに際して文献至上主義には気をつけなければならないし,Anglo-Frisian 説では,ノルウェーをはじめとする北欧諸国の入り江に vīk のついた地名が異常に多い事実もうまく説明できない.この場合,Anglo-Frisian 発の語が北欧諸語に借用されたという筋書きを想定しなければならないが,この借用過程はどのように説明されるのかという別の問題が生じる.
以上,主として荒 (100--03) に拠って Viking の語源説を見た.なお,日本語で食べ放題の食事スタイルを「バイキング」と呼んでいるが,これは和製語である.英語では,smorgasbord (立食の北欧料理) といったり,単に buffet ともいう.
・ 荒 正人 『ヴァイキング 世界史を変えた海の戦士』 中央公論新社〈中公新書〉,1968年.
英語史上初の英英辞書 Robert Cawdrey の A Table Alphabeticall (1604) について,cawdrey の各記事で話題にしてきた.オンライン版をもとに,語彙項目記述を検索可能とするために,簡易データベースをこしらえた.半ば自動でテキストを拾ってきたものなので細部にエラーがあるかもしれないが,とりあえず使えるようにした.
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・ ポール・バケ 著,森本 英夫・大泉 昭夫 訳 『英語の語彙』 白水社〈文庫クセジュ〉,1976年.
[2013-05-30-1]の記事の続編.多言語使用が世界の常態であるという事実について,Crystal (409--10) に言及を見つけたので,追加したい.
[M]ultilingualism is the normal human condition. It is a principle which often takes people by surprise. If you have lived your whole life in a monolingual environment, you could easily come to believe that this is the regular way of life around the world, and that people who speak more than one language are the exceptions. Exactly the reverse is the case.
Speaking two or more languages is the natural way of life for three-quarters of the human race. There are no official statistics, but with over 6,000 languages co-existing in fewer than 200 countries . . . it is obvious that an enormous amount of language contact must be taking place; and the inevitable result of languages in contact is multilingualism, which is most commonly found in an individual speaker as bilingualism.
There is no such thing as a totally monolingual country. Even in countries that have a single language used by the majority of the population, such as Britain, the USA, France, and Japan, there exist sizeable groups that use other languages. In the USA, around 10% of the population regularly speak a language other than English. In Britain, over 350 minority languages are in routine use. In Japan, one of the most monolingual of countries, there are substantial groups of Chinese and Korean speakers. In Ghana, Nigeria, and many other African countries that have a single official language, as many as 90% of the population may be regularly using more than one language. (409--10)
引用にもあるとおり,日本は世界でも最も典型的な単一言語国家とみなされるがちだ.しかし,少数言語としてアイヌ語や,朝鮮・韓国語その他の移民言語,日本手話などの手話言語も行われている.また,琉球語なのか琉球方言なのかという問いの答えいかんによっては,その話者のすべてが標準日本語を理解するという意味において,2言語使用者と呼びうる.また,ビジネスなどで英語や中国語などを常用する多くの日本語母語話者の日本人も,日本国内外の多言語使用に貢献している人々であるとみなすことができる.程度の差こそあれ,日本も世界の他の地域と同様に多言語使用地域であるという認識は重要だろう.
日本の多言語使用状況については,Ethnologue の Japan を参照されたい.
・ Crystal, David. How Language Works. London: Penguin, 2005.
標題は,昨日の記事「#1606. 英語言語帝国主義,言語差別,英語覇権」 ([2013-09-19-1]),及びかつての記事としては「#1073. 英語が他言語を侵略してきたパターン」 ([2012-04-04-1]) や「#1072. 英語は言語として特にすぐれているわけではない」 ([2012-04-03-1]) で触れてきた問題である.Phillipson は,著書の随所で,一般に ELT 関係者が英語教育のもつ政治的な含みに対してあまりにナイーブであることを主張している.そして,この無知こそが英語言語帝国主義の拡張を促しているのだとも批判している.この趣旨の引用を5点ほど示そう.
. . . the majority of those working in the ELT field tend to confine themselves, by choice and training, to linguistic, literary, or pedagogical matters. ELT is however an international activity with political, economic, military, and cultural implications and ramifications. (8)
I would argue that ELT professionalism excludes broader societal issues, the prerequisites and consequences of ELT activity, from its professional purview. (48)
The belief that ELT is non-political serves to disconnect culture from structure. It assumes that educational concerns can be divorced from social, political, and economic realities. It exonerates the experts who hold the belief from concerning themselves with these dimensions. It encourages a technical approach to ELT, divorced even from wider educational issues. It permits the English language to be exported as a standard product without the requirements of the local market being considered except in a superficial way. (67)
There is explicit recognition of the commercial relevance of English, though their view of the spread of English is remarkably ahistorical. 'The interest of the British and American peoples in spreading their language abroad has never been narrowly political or chauvinistic. A great deal of the expansion that has already occurred has been almost accidental; but many natural forces and inducements have been at work' ([The Drogheda Report: 4). One hopes that this is self-deception rather than more sinister imperialist rhetoric. (148)
These declarations [from Center for Applied Linguistics 1959] are clear examples of the myth of non-political ELT. They show little awareness of the contribution of professionalism to the constitution and affirmation of hegemonic ideas. The experts are probably intuitively aware that central professional practices, procedures, and norms represent a paradigm that is being exported, directly or indirectly, to periphery-English countries, yet this is not regarded as educational or cultural imperialism, let alone political in any sense. Their narrow interpretation of this implicitly identifies the 'political' as the discourse of professional politicians or diplomats. They are also inconsistent, since they can immediately identify the political motivations of communist textbooks, yet want their own to project Western values. Their protestations ring somewhat hollow, when their work is explicitly intended to benefit the State they represent. (165)
英語言語帝国主義批判の文献では,「精神の奴隷化」とか "servitude of the mind" などの強い表現がしばしば現われるが,これらの表現は上のような態度をも指しているのだろう.
この Phillipson の議論に,私も基本的に同意する.英語教育に携わっているばかりでなく英語史教育・研究に携わっている者としても,この議論には親近感を覚える.というのは,(とりわけ社会言語学的な側面に注目して)英語の発達してきた歴史的背景に光を当てるのが,英語史のなすべき基本的な仕事だからだ.特に近代以降の英語の著しい成長が,もっぱら種々の言語外的な要因,すなわち政治的なものをも含めた社会的な要因によるものであることは,英語史を批判的に学ぶ者にとっては明らかなのだが,それが一般に広く知られているわけではない.もし上記のナイーブさがあるのだとしたら,それを減じてゆくためには,英語史教育が有効だと考える.「#24. なぜ英語史を学ぶか」 ([2009-05-22-1]) の記事で,英語史を学べば「歴史に基づいた英語観を形成することができる(特に英語を教える立場にある者には必要)」と記したとおりである.
・ Phillipson, Robert. Linguistic Imperialism. Oxford: OUP, 1992.
Phillipson の言語帝国主義論を読んだ.対象の言語はもっぱら英語である.英語帝国主義論に関しては,linguistic_imperialism の各記事で何度か話題にしたことがあったが,読んだり参照したりした文献はそれほど多いわけではなかった.本格的な議論を読んでみようと思い,この夏のあいだに何度かあった長時間のフライトを利用して通読した.
まずは,"English linguistic imperialism" というキーワードの定義を,Phillipson より見てみよう.
A working definition of English linguistic imperialism is that the dominance of English is asserted and maintained by the establishment and continuous reconstitution of structural and cultural inequalities between English and other languages. Here structural refers broadly to material properties (for example, institutions, financial allocations) and cultural to immaterial or ideological properties (for example, attitudes, pedagogic principles). (47)
すぐ後に続けて,もう1つの鍵となる概念 "linguicism" についても定義が与えられている.
English linguistic imperialism is one example of linguicism, which is defined as 'ideologies, structures, and practices which are used to legitimate, effectuate, and reproduce an unequal division of power and resources (both material and immaterial) between groups which are defined on the basis of language' . . . . (47)
関連する表現に "English linguistic hegemony" というものもある.
English linguistic hegemony can be understood as referring to the explicit and implicit values, beliefs, purposes, and activities which characterize the ELT profession and which contribute to the maintenance of English as a dominant language. . . . The hegemonic ideas associated with ELT are not simply a crude 'deliberate manipulation' but a much more complex and diverse set of personal and institutional norms and experienced 'meanings and values' . . . . (73)
以上の関係をまとめると,「英語言語帝国主義」は「言語差別」の1種であり,具体的には世界における「英語覇権」という形で現われている,と表現できる.
Phillipson の議論に通底する主張は,以下の2点だろうと読んだ.(1) 上の最後の引用にも示唆されるように,英語言語帝国主義や英語覇権は,英米を中心とする英語母語話者勢力による政治的操作のみならず,そこに端を発して,強固に築き上げられ,広く受け入れられてきた種々の要素の絡み合う思考体系によって支えられていること,(2) 世界中の英語教師など ELT にかかわる職業人は,英語教育の政治的な側面にあまりに無知であること.
(1) の種々の要素については,「#1073. 英語が他言語を侵略してきたパターン」 ([2012-04-04-1]) で中村より引用した諸要因が参考になるだろう.(2) については,「#1072. 英語は言語として特にすぐれているわけではない」 ([2012-04-03-1]) の記事における第3の引用,「#1194. 中村敬の英語観と英語史」 ([2012-08-03-1]) の記事における第5の引用が,同趣旨である.
Phillipson や中村を含む英語帝国主義論を展開する論者は,英語に肩入れする人々の思考様式の未熟さを一様に痛烈に批判する.これは英語関係者にとって傾聴すべき意見だろうと,私は考えている.
・ Phillipson, Robert. Linguistic Imperialism. Oxford: OUP, 1992.
・ 中村 敬 『英語はどんな言語か 英語の社会的特性』 三省堂,1989年.
一昨日の記事「#1603. 「動物とその肉を表す英単語」を最初に指摘した人」 ([2013-09-16-1]) で,Wallis の卓識と先見の明について確認した.Wallis の言論はきわめて現代的であり,私たちにも違和感なく受け入れられる所見が多い.例えば,昨日も触れたように,Wallis は英文法をラテン語文法の鋳型にはめることの非を説いたが,その考え方は次の序文によく表されている(以下,ラテン語原文は南雲堂版より,現代英語訳文は Crystal より).
. . . omnes enim ad Latinae linguae normam hanc nostram Anglicanam nimium exigentes (quo etiam error laborant fere omnes in aliis modernis linguis tradendis) multa inutilia [xxxvi] praecepta de Nominum Casibus, Generibus, et declinationibus, de Nominum item et Verborum Regimine, aliisque similibus tradiderunt, quae a lingua nostra sunt prorsus aliena, adeoque confusionem potius et obscuritatem pariunt, quam explicationi inserviunt. (168)
They all forced English too rigidly into the mould of Latin (a mistake which nearly everyone makes in descriptions of other modern languages too), giving many useless rules about the cases, genders and declensions of nouns, the tenses, moods and conjugations of verbs, the government of nouns and verbs, and other things of that kind, which have no bearing on our language, and which confuse and obscure matters instead of elucidating them. (78)
もう1つ驚くのは,英文法を学ぶ意義についての所見である.同じく序文にあるが,21世紀の今となっても通用しそうな「英語学習の勧め」が,優に300年以上も前に主張されていた.
Hujusce autem linguae Grammaticam institutionem ideo aggressus sum, quod ipsius cognitionem videam ab exteris non paucis maxime desideratam . . . . omnigenae literaturae scripta, passim exstant Anglicano idiomate edita: adeo ut sine fastu discere liceat, vix quicquam solidioris eruditionis esse, quod non sit nunc dierum etiam in ipsa lingua Anglicana saltem mediocriter traditum; et multa quidem quotidie scripta prodeunt desideratissima. (166--67)
I have undertaken to write a grammar of this language [English] because there is clearly a great demand for it from foreigners, who want to be able to understand the various important works which are written in our tongue. . . . [A]ll kinds of literature are widely available in English editions, and, without boasting, it can be said that there is scarcely any worthwhile body of knowledge which has not been recorded today, adequately at least, in the English language. (106)
いずれも,Wallis の言語教育者としての炯眼と才能の一面をのぞかせる文章である.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
・ The English Grammar / Ben Jonson; with explanatory remarks by Kotaro Ishibashi, Of the Orthographie and Congruitie of the Britan Tongue / Alexander Hume; with explanatory remarks by Tokuji Kusakabe, and Grammatica Linguae Anglicanae / John Wallis; with explanatory remarks by Shoichi Watanabe. A Reprint Series of Books Relating to the English Language. Vol. 3. Tokyo: Nan'un Do, 1968.
昨日の記事「#1603. 「動物とその肉を表す英単語」を最初に指摘した人」 ([2013-09-16-1]) で,「#331. 動物とその肉を表す英単語」 ([2010-03-24-1]) エピソードの創始者が,17世紀の数学者・文法家 John Wallis だったことについて話題にした.石崎陽一先生が教えてくださった情報をヒントに Wallis の Grammatica Linguae Anglicanae の南雲堂版に当たってみたところ,この伝説は Wallis -> Scott -> Bradley と広まっていったらしい.
この解説を与えている渡部昇一先生によると,Bradley の Scott 評には一言付け加えるべきことがあるという(p. 362, note 20).
この観察を Bradley は 'acute remark' とほめているが,英語史的には正しくない.Wamba の口をかりて Scott がこれを言わせているのであるが,それは時期的には約1世紀ほど早すぎる事件を舞台にしていることになる.cf. A. C. Baugh, A History of the English Language, p. 223 (note 1).
この注が何のことを言っているか理解するためには,参照されている Baugh と,Bradley に当たる必要がある.それぞれ私の手持ちの版での対応箇所に当たってみた.
Readers of Ivanhoe will remember the acute remark which Scott puts into the mouth of Wamba the jester, that while the living animals---ox, sheep, calf, swine, deer---continued to bear their native names, the flesh of those animals as used for food was denoted by French words, beef, mutton, veal, pork, bacon, venison. The point of the thing is, of course, that 'Saxon' serf had the care of the animals when alive, but when killed they were eaten by his 'French' superiors. (Baugh and Cable 62--63)
The well-known passage in Scott's Ivanhoe in which this distinction is entertainingly introduced into a conversation between Wamba and Gurth (chap. 1) is open to criticism only because the episode occurs about a century too early. Beef is first found in English at about 1300. (Bradley 181, fn. 25)
Ivanhoe は12世紀のイングランドを舞台とする騎士物語である.厳密に語史的にいえば,12世紀にはまだ beef は英単語として記録されておらず,このエピソードは時代錯誤である,という指摘だ.確かに OED や MED によると, beef の初出は1300年頃のことであり,小説の時代設定とズレが生じている.
・ The English Grammar / Ben Jonson; with explanatory remarks by Kotaro Ishibashi, Of the Orthographie and Congruitie of the Britan Tongue / Alexander Hume; with explanatory remarks by Tokuji Kusakabe, and Grammatica Linguae Anglicanae / John Wallis; with explanatory remarks by Shoichi Watanabe. A Reprint Series of Books Relating to the English Language. Vol. 3. Tokyo: Nan'un Do, 1968.
・ Bradley, Henry. The Making of English. New York: Dover, 2006. New York: Macmillan, 1904.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 5th ed. London: Routledge, 2002.
英語史上有名な「#331. 動物とその肉を表す英単語」 ([2010-03-24-1]) の出典について話題にした「#1583. swine vs pork の社会言語学的意義」 ([2013-08-27-1]) の記事に対して,石崎陽一先生から貴重なコメントをいただいた(ありがとうございます!).「生きている動物は古来の英語だが,料理されると征服者であるノルマン人のことばになったという説は W. Scott の Ivanhoe に引用され,また H. Bradley の The Making of English(p.88)にも言及されて有名になりましたが,初出は恐らく J. Wallis の Grammatica Linguae Anglicanae 第4版(1674年)の序文だとされているようですね.」
ということで,Wallis の1674年の版を参照してみた.Prefatio (序文)に,次の言及箇所を見つけることができた.
Nec quidem temerè contigisse puto, quod Animalia viva, nominibus Germanicæ originis vocemus, quorum tamen Carnem in cibum paratam, originis Gallicæ nominibus appellamus, putà, Bovem, Vaccam, Vitulum, Ovem, Porcum, Aprum, Feram, &c, an Ox, a Cow, a Calf, a Sheep, a Hog, a Boar, a Deer, &c; sed Carnem Bubulam, Vitulinam, Ovinam, Porcinam, Aprugnam, Ferinam; Beef, Veal, Mutton, Pork, Brawn, Venison, &c . . . . (Wallis, Grammatica Linguae Anglicanae)
宇賀治 (17) の同著の解題にも「英語史上叙述上初めての指摘で,以後現代まで広く伝承され,イギリス史上の一大事件についての,簡潔にして示唆豊かなエピソードとして有名である」とあった.また,最も重要な1699年の第5版を事実上リプリントした1765年の第6版に基づいた南雲堂版で解説を施している渡部昇一先生の解説も必読である (p. 352) .
さて,Wallis については,「#451. shall と will の使い分けに関する The Wallis Rules」 ([2010-07-22-1]) で軽く触れたにすぎないので,今回は17世紀に活躍したこの知的巨人と,彼の著わした英文法書の特徴を簡単に紹介しよう.John Wallis (1616--1703) は,16歳で Cambridge 大学に入る前にすでにラテン語,ギリシア語,ヘブライ語がよくできた.1649年には Oxford 大学の幾何学の教授となり,微積分の先駆けを生み出したり,複素数の幾何学的解釈を提起するなど,後世に多大な影響を与えた.数学以外の諸学問にもよく通じており,現代にいう調音音声学の分野を開拓したのも彼である.また,1662年に Charles II により認可された The Royal Society の創設メンバーでもあった.
Wallis の様々な分野における才能は,言語に関しては,Grammatica Linguae Anglicanae (Oxford: Leon. Lichfield, 1653) の著述として現われた.英文法史上,新しい時代の到来を告げる著作であり,1653年の初版以後,数回の改訂版が世に出ることとなった.16世紀以後,Wallis までの英文法書は,外国人に英語を教えるという目的,あるいはラテン語文法の学習の基礎としての役割が濃厚であり,発想の根幹には常にラテン語文法があった.しかし,Wallis は先見の明をもって,英文法を記述するのにラテン語文法はふさわしくないという認識をもっていた.英語の分析的性格とラテン語の総合的性格とを明確に区別していたのである.
後世の英文法に影響を与えた項目も少なくない.第1章を飾る調音の記述は,近代音声学の産声といってよい.音声と文字を明確に区別し,音声そのものの観察記述に徹する態度は,後に H. C. Wyld の高い評価を受けた.また,文法面でも,既述の shall と will の使い分けのほかにも,動詞の分類,冠詞の役割,関係代名詞の用法など品詞論に一日の長がある.現在に至るまで研究者を引きつけてやまない音象徴 (sound symbolism) に最初に取り組んだのも,Wallis だった.
近代期の著作らしくラテン語で書かれた英文法書なので原典で読むには手強いが,いずれ挑戦してみたい.
(後記 2013/10/26(Sat):Wallis の生涯について,Jean-Pierre Niceron (Mémoires pour servir a l'histoire des hommes illustres dans la république des lettres. Vol. 43. Genève: Slatkine Reprints, 1971. 247--51.) を参照.)
・ 宇賀治 正朋(編) 『文法I』 研究社英語学文献解題 第4巻.研究社.2010年.
・ The English Grammar / Ben Jonson; with explanatory remarks by Kotaro Ishibashi, Of the Orthographie and Congruitie of the Britan Tongue / Alexander Hume; with explanatory remarks by Tokuji Kusakabe, and Grammatica Linguae Anglicanae / John Wallis; with explanatory remarks by Shoichi Watanabe. A Reprint Series of Books Relating to the English Language. Vol. 3. Tokyo: Nan'un Do, 1968.
「#1597. star と stella」 ([2013-09-10-1]) で star の諸言語における同根語を挙げたが,今回は star と印欧語根を同じくする英単語群をさらに列挙したい.
ゲルマン語系からは,本来語の star が残っているにすぎない.印欧祖語で接尾辞つきの *stēr-lā- に由来するラテン語 stella からは,stellar, stellate, constellation などが入ったことは既述のとおりである.他にも,stellion (星状うろこを尾にもつトカゲ),stellify ([神話などで人を]星に変える)などがある.一方,印欧祖語の基底形 *əster- に由来するギリシア語の astēr やその派生形 astron からは,aster, asteriated, asterisk, asterism, asteroid, astral, astro- (ex. astrology, astronomer, astronomy); astraphobia, disaster などが英語に入った.ペルシャ語 sitareh (star) からは,固有名詞 Esther が借用された.
disaster と星が関係しているのに興味を覚えるかもしれない.中世の占星術では,惑星の運行が人の運命・運勢に決定的な影響を及ぼすものと考えられていた.幸運をもたらす惑星が近くにないとき,つまり dis- (away from) + aster (star) のとき,人は災難に遭うものと信じられたのである.
本ブログでの他の「語根ネットワーク」シリーズとしては,「#695. 語根 fer」 ([2011-03-23-1]), 「#1043. mind の語根ネットワーク」 ([2012-03-05-1]), 「#1124. 地を這う賤しくも謙虚な人間」 ([2012-05-25-1]),「#1557. mickle, much の語根ネットワーク」 ([2013-08-01-1]) を参照.
・ Watkins, Calvert, ed. The American Heritage Dictionary of Indo-European Roots. 2nd Rev. ed. Boston: Houghton Mifflin, 2000.
・ 福島 治 編 『英語派生語語源辞典』 日本図書ライブ,1992年.
・ ジョーゼフ T. シップリー 著,梅田 修・眞方 忠道・穴吹 章子 訳 『シップリー英語語源辞典』 大修館,2009年.
英語と日本語の調音の異同については,どの音声学の教科書でも詳述されているが,母音を調音する際の舌の位置については母音四辺形で対比的に示すのが最もわかりやすい.今井 (2) より,短母音と長母音の図を掲載する.
上記の母音調音位置はそれぞれの言語の標準変種に基づいているが,その内部において,異音の幅もあれば,個人差もある.しかし,この図をみれば,日本語を母語とする英語学習者が,発音上,一般的に気をつけるべき点を多く見いだすことができるだろう.日本語の [エ] はやや高いので,ときに英語の [e] ではなく [ɪ] に近づくこと.英発音の [ʌ] は,案外と日本語の [ア] に近いこと.日本語の [ウ] と [オ] の差は比較的少ないが,英語で対応するとみなされている [uː] や [ʊ] と [ɔː] の差は比較的大きいこと.「ア(ー)」と音訳される [ɑː], [ɑ], [ɒ] は,いずれも英語では相当に奥まっていること,等々.
概して,英語には周辺部や突端部で調音する母音が多く,口腔内が広く使われるという印象だ.一方,日本語の母音調音は,口腔の中央寄りにこじんまりと分布しているようだ.ぼそぼそ感といおうか,確かに口をあまり動かさずに「アイウエオ」と発音できてしまう.
ただし,上の図の調音位置を不変の静的なものととらえるのは誤りである.この100年ほどの間の英語における調音位置の変化をみてみると,意外と変化の幅は大きい.Bauer (121) によると,RP をとってみても,[uː] の調音は上の図で表わされるよりも顕著に前寄りになってきているという.[ʌ] についても,明らかに前舌化が進んできているし,[æ] も図よりも若干後ろ寄りでの調音の傾向を示す証拠がある.言語変化は常に進行してるために避けられないことではあるが,概説書などの調音図は,原則として多少なりとも時代遅れの調音を表わすものだと考えておいてよい.
・ 今井 邦彦 『ファンダメンタル音声学』 ひつじ書房,2007年.
・ Bauer, Laurie. Watching English Change: An Introduction to the Study of Linguistic Change in Standard Englishes in the Twentieth Century. Harlow: Longman, 1994.
言語変化にかかわる諸要因をモデル化する試みは様々になされてきたが,大づかみの見取り図を示してくれたものとして,Samuels のモデル (141) を紹介したい.筆者は,このモデルのすっきりとした見通しのよさに,いたく感銘を受けたものである.
言語体系 (system) は,文法 (grammar) ,音韻 (phonology) ,語彙 (lexis) の3部門から成り立っており,それぞれは互いに強く結びついている. 構造言語学でいうところの,"système où tout se tient" である.この体系は,3部門の堅いスクラムによりがっちりと組まれているものの,水も通さぬ密室というわけではない.体系は,それを基盤として現実に生み出される発話 (spoken chain) という現実の言語使用により,それ自身が常に変容にさらされている.その発話はまた,別の言語体系 (extrasystemic) からの圧力を受け,その圧力を間接的に文法,音韻,語彙へと伝え,体系を変容させる.さらに,文化や歴史のような種々の言語外的な (extralinguistic) な要因により,いっそう間接的にではあるが,中央の言語体系に影響を及ぼす.
Samuels の上の図は,非常にあらあらの図ではあるが,言語(変化)の1つの参照すべきモデルを提供している.ここには,生成文法で想定されている component や faculty という概念も含まれているし,ソシュールの langue と parole の対比も system と spoken chain の対比として表現されている.同心円の内部で作用している intrasystemic な要因と外部で作用している extrasystemic な要因とも図に反映されているし,以上のすべてを含めた intralinguistic な次元と,それ以外の extralinguistic な次元とも区別している.
この図は,dynamic ではあるが synchronic である.diachronic な軸を加えようとすれば,この図の面に直交して前後に伸びるチューブのようなイメージになるだろう.Samuels も当面そこまで踏み込むことはしていない.
言語変化の原因・要因については本ブログでも数々議論してきたが,とりわけ一般的な問題として取り上げた記事へのリンクを張っておきたい.
・ 「#442. 言語変化の原因」 ([2010-07-13-1])
・ 「#1476. Fennell による言語変化の原因」 ([2013-05-12-1])
・ 「#1466. Smith による言語変化の3段階と3機構」 ([2013-05-02-1])
・ 「#443. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か?」 ([2010-07-14-1])
・ 「#1582. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (2)」 ([2013-08-26-1])
・ 「#1584. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (3)」 ([2013-08-28-1])
・ 「#1123. 言語変化の原因と歴史言語学」 ([2012-05-24-1])
・ 「#1282. コセリウによる3種類の異なる言語変化の原因」 ([2012-10-30-1])
・ Samuels, M. L. Linguistic Evolution with Special Reference to English. London: CUP, 1972.
8月後半にオーストラリアに出かけていたが,その往復に初めて Qantas 機を利用した.成田・シドニー路線の機内は非常に広々としており,実に快適なフライトだった.日本語では「カンタス」と呼び習わしているが,機内の放送で [ˈkwɑntəs] の発音を聞いた.Q の文字に対応するだけに,子音は [k] ではなく [kw] なのだ.
Qantas は "Queensland and Northern Territory Aerial Services" の頭字語 (acronym) である.1920年に名前の通りオーストラリアのローカルな航空会社として創設されたが,47年に国営化され,現在では世界有数の国際的な航空会社である.創業してから無事故とされ(事故の定義にもよるが),安全面での評価も高い.
英語本来語あるいは英語に入って歴史の長い語のなかでは,通常 <q> は単独で用いられることはなく,<qu> と必ず直後に <u> を伴う.歴史的には,古英語で <cw> と綴られていたものが,中英語でフランスの写字習慣に習って <qu> と綴られるようになったものだ.<q> の後に原則として <u> が続くということは,情報価値という観点から言い換えれば「<u> の情報量はゼロである」ということになる.<u> が続くことは100%予想できるので,<u> はなくても同じということになるからだ.機能上,<q> の後の <u> は不要ということになるのだが,<qu> の連続に慣れてしまった目には <q> 単独は妙に見える.綴字レベルでも,言語の余剰性 (redundancy) が作用している証だろう.
もっとも,頭字語,アラビア語や中国語からの借用語など,完全に英語に同化したとはみなせない語群では,<q> の後に <u> が続かないことも多い.表題の Qantas は綴字としては <q> 単独で用いられているが,発音としては単独の [k] ではなく [kw] を示している.Qatar [ˈkæːtɑː], qibla(h) [ˈkɪblə], Qing [ʧɪŋ], また <u> が後続するものの [kw] を示さない Quran [kɔːˈrɑːn] も参照.
なお,「#308. 現代英語の最頻英単語リスト」 ([2010-03-01-1]) の末尾で見たように,<q> は英語で <z> に次いで最も使用頻度の低いアルファベットの文字である(<z> については z の各記事を参照).キーボードのQWERTY配列でも,その名が示すとおり,<Q> は左手の小指を差しのばして打たなければならない日陰者である.QWERTY 自体が一種の頭字語であり,<q> の後に <w> が続き,かつ [w] が発音されるまれな例である.
英語には,[2010-08-28-1]や[2011-06-05-1]で一覧したように,発音の揺れを示す語が多い.同様に強勢位置の揺れも頻繁で,「#321. controversy over controversy」 ([2010-03-14-1]) や「#366. Caribbean の綴字と発音」 ([2010-04-28-1]) などに見られるように,どちらが正しい発音かを巡って議論に発展することすらある.今日は,かつてオーストラリアで政治問題にまで発展し,議会に持ち込まれた kilometer の強勢位置を巡る論争を紹介する.
1972年,オーストラリアでは23年ぶりに労働党が自由党保守政権に代わって政治の主導権を握った.政権運営に慣れていない労働党は,内部での指導権争いを許したが,とりわけホイットラム総理大臣とカメロン科学技術大臣との間に生じた確執の原因が何ともおもしろい.科学技術(用語)の守護者を辞任するカメロンが,総理大臣の kilómetre との発音が間違っているとして,公開で論争を仕掛けたのである.カメロン曰く,「オーストラリアはメートル法を早々と採用した先進国であり,総理大臣が誤った kilómetre などという発音を続けているというのは恥ずかしいことである.私は,教育大臣に対しても正しい kílometre を徹底するように要請するつもりだし,郵便大臣に対してもラジオやテレビを通して国民に正しい発音を教えることを求めるつもりだ.」
ここまで非難されては,ホイットラム総理大臣も黙ってはいない.何しろ,彼はかつてギリシア語学・哲学を教えていた学者である.徹底的に文献を調査して反論した.英語の metre はギリシア語 metron に遡るという語源の云々かんぬん,それが後にフランス語の影響を受けることになったという語史的背景,強勢の位置は penult に含まれる母音が長母音か短母音かによって決まるという規則,その後世界で最初にメートル法を採用したペルシャのゲリラ兵は metre のつく語にはきまって antepenult に強勢を置いたこと等々を主張した.もちろん,論争の発端もホイットラムの応戦の内容も,多分に政治的な色彩を含んだものであり,言語学的な観点からはそれほど有意味とは思えない.アクセント問題が政争に利用されたと解釈すべきだろう.ホイットラムは,一見すると言語学的なこれらの主張のかたわら,さすがは文化多元主義を積極的に推し進めた首相とだけあって,政治的な主張も忘れていない.「オーストラリアの将来を担う子供たちといっても出身母国はさまざまである.たとえばイタリア人,ギリシャ人,チモール人などはいずれも母国語でメーターとつくことばには,うしろから三番目の母音にアクセントを置いている」 (堀,p. 89).
さて,この問題は,Australian Broadcasting Corporation (ABC) と,さらにはイギリスの BBC を巻き込んだ論争に発展した.放送局は,総理大臣のような kilómetre も一部に出てきているが,正式には科学技術大臣の kílometre が正しいという判断に至った.なお,カメロンは強勢位置の論争には勝ったわけが,後にスキャンダルに巻き込まれ政争には負けることになった.人々は,母音の長短に引っかけて "Short or long---it is still a kilometre." と嘲ったとのことである.
では,実際のところ,kilometre の強勢の現状はどうなのだろうか.LPD によると,次のような記述と Preference polls の結果が示されている.
On the analogy of ˈcentiˌmetre, ˈmilliˌmetre, it is clear that the stressing ˈkiloˌmetre is logical and might be expected to predominate. Nevertheless, it does not. Preference polls, British English: -ˈlɒm- 63%, ˈkɪl- 37%; American English: -ˈlɑːm- 84%, ˈkɪl- 16% -ˈlɒm- 57%.
いまだに kílometre を正当とする保守的な論者もいるが,英米ともにホイットラム総理大臣型の kilómetre のほうが優勢ということになる.この発音は barómetre, speedóometre, thermómetre などからの類推だろうと考えられる.語の初出は1810年だが,AmE ではそのすぐ後から kilómetre が記録されており,いまや歴史の長い発音といってもよい.
・ 堀 武昭 『オーストラリア A to Z』 丸善〈丸善ライブラリー〉,1993年.
・ Wells, J C. ed. Longman Pronunciation Dictionary. 3rd ed. Harlow: Pearson Education, 2008.
8月20日付けで,「素朴な疑問」コーナーにて次のような質問をいただいたので,考えてみたい.
piano 2013-08-20 09:25:05
Online Etymology Dictionaryでstarを調べますと,ラテン語だけ"stella" と最後の子音が"l"になっています."r"→"l"という子音の変化はしばしば起こることなのでしょうか.ご教示いただけるとうれしいです.
[r] と [l] の単語内での交替については,「#72. /r/ と /l/ は間違えて当然!?」 ([2009-07-09-1]) で見たとおり,いくつかの事例が確認される.異化 (dissimilation) と呼ばれる音韻過程の典型例である.しかし,今回の英語 star とラテン語 stella との対応は,[r] と [l] の異化とは無関係だろう.「#90. taper と paper」 ([2009-07-26-1]) や「#259. phonaesthesia と 異化」 ([2010-01-11-1]) でも触れたが,異化は [r] や [l] が単語内で繰り返し現れる場合に起こりやすい.つまり,異化は個々の単語において単発に生じるものであるとはいえ,その動機がでたらめなわけではない.star やその印欧諸語の同根語の語形をみてみると,特に流音の繰り返しは確認されないので,たまたまこの語に作用した異化とみなすのには無理がある.では,star と stella の子音の対応は,ほかにどのように説明されるのだろうか.
まず,語源形と同根語の形態をざっとみてみよう.印欧祖語では *ster- (star) が再建されている.より古い段階の *əster- から発展したとされ,一説によると Akkadian Ištal (Venus に相当する女神)からの借用語という.ゲルマン祖語としては *sternōn が再建され,ゲルマン諸語では OE steorra, Du. ster, OHG sterno/sterro, G Stern, ON stjarna, Goth. staírnō などが文証される.いずれも問題の子音は r である.なお,n を残す形態は,英語でも ON stjarna に影響を受けた stern という形態として北部方言でいまなお確認される.非ゲルマン系でも,Gk astḗr, Welsh seren, Skt stár, Hitt. haster-, Toch. A śreǹ (nom.pl.) と軒並み r が現れる.
ところが,ロマンス系では Latin stella を含め,問題の子音は l に対応しているか,あるいは脱落したかである.このラテン語形は,俗ラテン語形 *stēla を経由して,F étoile, It. stella, Rum. stea などへと発達した.唯一の妙な例は,r と l を両方含む Sp. estrella で,これは Gk āstron を借用した L astrum との混成を示している.
結局のところ,英語 star やその他ほとんどの同根語にみられる r こそが歴史的な子音なのであって,ラテン語 stella に含まれる l は例外的だということになる.では,ラテン語の例外的な子音 l はいかにした生じたのだろうか.OED の star, n.1 の語源欄によれば,L stella は文証されない *ster-la から発展したものではないかという.この仮定される接尾辞 -la について OED は説明を与えていないが,Skeat の語源辞典が指摘する通り,指小辞 (diminutive) と考えてよいだろう(cf. フランス語 soleil (太陽)が語根+指小辞の語形成であることと比較).この la の直前の位置において,語根の r が l に同化(異化ではなく)され,ll を示すようになったのではないか.ただし,Partridge の語源辞典では,IE *ster- の異形として *stel- が再建されていることも異論として付け加えておこう.
ラテン語 stella に基づく英語への借用語には,固有名詞 Stella のほか,constellation, stellar, stellate などがある.英国留学中にお世話になったビール Stella Artois も例として外せない.
・ Skeat, Walter William, ed. An Etymological Dictionary of the English Language. 4th ed. Oxford: Clarendon, 1910. 1st ed. 1879--82. 2nd ed. 1883.
・ Skeat, Walter William, ed. A Concise Etymological Dictionary of the English Language. New ed. Oxford: Clarendon, 1910. 1st ed. 1882.
・ Partridge, Eric Honeywood. Origins: A Short Etymological Dictionary of Modern English. 4th ed. London: Routledge and Kegan Paul, 1966. 1st ed. London: Routledge and Kegan Paul; New York: Macmillan, 1958.
標題は英語で "polarization hypothesis" と呼ばれる.児馬先生の著書で初めて知ったものである.昨日の記事「#1572. なぜ言語変化はS字曲線を描くと考えられるのか」 ([2013-08-16-1]) および「#1569. 語彙拡散のS字曲線への批判 (2)」 ([2013-08-13-1]) などで言語変化の進行パターンについて議論してきたが,S字曲線と分極の仮説は親和性が高い.
分極の仮説は,生成文法やそれに基づく言語習得の枠組みからみた言語変化の進行に関する仮説である.それによると,文法規則には大規則 (major rule) と小規則 (minor rule) が区別されるという.大規則は,ある範疇の大部分の項目について適用される規則であり,少数の例外的な項目(典型的には語彙項目)には例外であるという印がつけられており,個別に処理される.一方,小規則は,少数の印をつけられた項目にのみ適用される規則であり,それ以外の大多数の項目には適用されない.両者の差異を際立たせて言い換えれば,大規則には原則として適用されるが少数の適用されない例外があり,小規則には原則として適用されないが少数の適用される例外がある,ということになる.共通点は,例外項目の数が少ないことである.分極の仮説が予想するのは,言語の規則は例外項目の少ない大規則か小規則のいずれかであり,例外項目の多い「中規則」はありえないということだ.習得の観点からも,例外のあまりに多い中規則(もはや規則と呼べないかもしれない)が非効率的であることは明らかであり,分極の仮説に合理性はある.
分極の仮説と言語変化との関係を示すのに,迂言的 do ( do-periphrasis ) による否定構造の発達を挙げよう.「#486. 迂言的 do の発達」 ([2010-08-26-1]) ほかの記事で触れた話題だが,古英語や中英語では否定構文を作るには定動詞の後に not などの否定辞を置くだけで済んだ(否定辞配置,neg-placement)が,初期近代英語で do による否定構造が発達してきた.do 否定への移行の過程についてよく知られているのは,know, doubt, care など少数の動詞はこの移行に対して最後まで抵抗し,I know not などの構造を続けていたことである.
さて,古英語や中英語では否定辞配置が大規則だったが,近代英語では do 否定に置き換えられ,一部の動詞を例外としてもつ小規則へと変わった.do 否定の観点からみれば,発達し始めた16世紀には,少数の動詞が関与するにすぎない小規則だったが,17世紀後半には少数の例外をもつ大規則へと変わった.否定辞配置の衰退と do 否定の発達をグラフに描くと,中間段階に著しく急速な変化を示す(逆)S字曲線となる.
語彙拡散と分極の仮説は,理論の出所がまるで異なるにもかかわらず,S字曲線という点で一致を見るというのがおもしろい.
合わせて,分極の仮説の関連論文として園田の「分極の仮説と助動詞doの発達の一側面」を読んだ.園田は,分極の仮説を,生成理論の応用として通時的な問題を扱う際の補助理論と位置づけている.
・ 児馬 修 『ファンダメンタル英語史』 ひつじ書房,1996年.111--12頁.
・ 園田 勝英 「分極の仮説と助動詞doの発達の一側面」『The Northern Review (北海道大学)』,第12巻,1984年,47--57頁.
一昨日,9月6日(金)の朝日新聞朝刊15面に「消えゆく満州語守れ」と題する記事があった.満州語 (Manchu) は,中国東北地方に住まう満州族(清朝建国より前には女真族と呼ばれた)の言語であり,17世紀から3世紀にわたって中国大陸を支配した清朝の公用語として栄えた言語である(以下の清朝の歴史地図を参照).現在,満州族の1千万人以上いる人口の半分は中国の遼寧省に集中しているが,中国語への言語交替 (language_shift) が著しく,満州語は2009年,UNESCO により消滅危機言語に指定された.Ethnologue の Manchu を参照すると,言語状況は "Nearly extinct" と見積もられている. *
満州語については「#1548. アルタイ語族」 ([2013-07-23-1]) の記事で少しだけ触れたにすぎないが,比較言語学的にはアルタイ語族ツングース語派の1言語と分類される.モンゴル文字を改良した文字体系をもち,アルタイ語族に特徴的な母音調和を示すほか,母音交替によって男性語と女性語を区別する一群の語彙をもつのが特異である.なお,互いに通じるほど近いシボ語 (Xibe or Sibo) は,地理的に孤立しており,新疆ウイグル自治区にていまだ3万人ほどの話者を擁している.
さて,「消えゆく満州語守れ」の記事では,満州族文化の研究者が,民族文化の消失を防ぎ,継承するために,満州語教育制度を充実する必要があることを訴えている.とりわけ満州語を解読できる研究者の育成が急務であることが説かれている.清朝前期の公文書や民間史料は満州語で書かれているが,それを読みこなせる研究者は国内に10人ほどしかいない.また,清朝の発祥地とされる遼寧省撫順市の洞窟に多くの古文書が保管されているが,軍事的な理由でアクセスするのが容易でないことも頭の痛い問題だという.
満州語の衰退には,政治史的な要因も関わっている.満州族は,1911年の辛亥革命による清朝崩壊後に排斥を受け,1949年の新中国成立後も他の少数民族とは異なり,自治が認められてこなかった.1980年代に自治が認められ始めたが,その頃にはすでに母語話者の高齢化と漢族への同化が進んでしまっていた.
このような状況にある言語は世界中にごまんとある.UNESCO が消滅危機の警鐘を鳴らしたとしても,人々に復興の意思があるとしても,現実的には守り得る言語の数には限りがある.記事のなかで瀋陽師範大学の曹萌教授曹教授が力説しているとおり,危機にある言語の「継承も研究も,時間との勝負」である.
英語史では,ノルマン・コンクェスト (the Norman Conquest) が契機となり,以降,英語が少なくとも語彙の面で大きくロマンス化 (romancisation) したということが定説となっている.(Norman) French が英語に及ぼした言語学的および社会言語学的な影響は甚大であり,この説自体に異議を唱える材料はほとんどないように思われる.この征服によるイギリスのロマンス化の効果は,言語のみならず文学や歴史にも反映されており,ますます同説は強固な基盤をもつに至っている.
だが,ここであえてノルマン・コンクェストによるゲルマン化 (germanicisation) の効果の可能性を考察することは,少なくとも実験的には無駄ではないだろう.というのは,「#1568. Norman, Normandy, Norse」 ([2013-08-12-1]) でも確認したように,征服王朝を打ち立てた William 率いるノルマン人は,ルーツは北ゲルマン語群の Old Norse を話していた北欧人だからである.Normandy の北欧人が,England のアングロ・サクソン人(および先に定住していた北欧人)を征服したとしても,全体的な北西ゲルマン色は薄まるはずはなく,むしろ濃くなると予想されるのではないか.
定説によれば,この予想は外れということになる.確かにノルマン人はルーツとしては北欧である.911年にフランスを襲ったデーン人の首領 Rollo (860?--932?) は,蛮行をやめることと引き替えに,フランス王 Charles III よりノルマンディを勝ち取った.以降,Rollo は,イングランドにおける征服者 Cnut と同様に,破壊者ならぬ再建者となり,人々から崇敬の念をもって迎えられた.だが,Rollo の子孫たちは,数世代という短い期間に,急速にフランス化した.フランス語を習得し,キリスト教に改宗し,フランス法を採用し,石造建築を受け入れ,騎馬戦の技術を獲得した.最後の戦術はノルマン・コンクェストの大きな勝因となったのだから,この征服はノルマン人がフランス化したからこそ可能になったものとみることができる.以上の経緯を踏まえると,ノルマン・コンクェストに至る150年ほどの間に,ノルマン人は文化的には本来のゲルマン色あるいはヴァイキング色をすっかり失い,ほぼ完璧にフランス化したかのようにみえる.ノルマン・コンクェストの英語への影響は,やはりロマンス化と評価すべきであり,ゲルマン化あるいはゲルマン的な要素の強化とは評価できない,という結論になりそうだ.
しかし,荒 (95--96) は,この定説に若干の異論を唱えている.
……フランスを通じて,地中海系の南方的な風俗,習慣,信仰などが大幅に流入した.その結果,アングロ・サクソン民族には,北方的要素と南方的要素の二つが流れこみ,混合し,融和し,調和したといわれる.以上は,言語学者,文学研究家,歴史家のほぼ一致した意見である.
けれども,少し掘り下げて考えるならば,この通説は成立の根拠が少し揺らいでくる.
(1) ノルマン人は,デーン人の系統をひいている.二,三代,居ついている間に,母国語を忘れ,フランス化したことは否定できぬ.だが,かれらは,完全なフランス人からみれば,異端者であり,ヴァイキングの子孫である.だからこそ,ある日突然,平穏な生活を棄て,祖先の血潮の燃え立つのをかんじながら,騎馬民族として,イギリスに渡ったのである.
(2) アングロ・サクソン人は,ゲルマン民族の大移動の際,北海を渡り,先住民族を駆逐して,楽土を求めたのである.かれらも,先祖は北方人である.その後,デーン人は,新来者として,数度にわたり侵略を繰り返したが,北方人の血を一段と濃くしたである.
(3) ノルマンディーのフランク型封建制度が,イギリスの封建制度の急激な発達を促進したのは事実だが,しかし,両者は,前提として,デンマークの制度を踏まえていたように思う.
民族的性格という点になると,アングロ・サクソンは,北方的要素がいちじるしく濃厚である.北と南を足して二で割るといった調子では,まったく説明がつかぬ.
この見解にヴァイキングに対するロマンチックな評価が含まれていること,また民族的性格と言語的性格は別ものであることには注意しなければならないが,定説の唱える通りに,ノルマン人による征服は英語に南方(ロマンス)的要素を導入したのみであると結論づけて終わってよいのかという疑問は残る.言語的にいえば,フランス化したノルマン人が,ルーツとして保っていた北ゲルマン的な言語項目を直接英語に伝えたという例はないように思われる.しかし,そもそも Norman French が Old Norse 訛りのフランス語であるし,その基層言語たる Old Norse の言語的な特徴が,Norman French 借用語などを通じて間接的に英語へも滲み出ている例があったとしても,それほど驚くべきことではないだろう.
・ 荒 正人 『ヴァイキング 世界史を変えた海の戦士』 中央公論新社〈中公新書〉,1968年.
[2013-09-02-1]の記事に引き続き,Philippine English の歴史と現状について.鈴木 (162--63) によると,支配的な言語がスペイン語から英語へとシフトしたのは,1910--20年代のことだという.
米国は,一八九八年のフィリピン占領以来,すべての教育を英語で行なってきた.それが二〇年ほどの間に,徐々に効いていたのである./あらゆる公共の場での演説は,これまでスペイン語で行なわれてきた.しかし,ついに一九一九年一二月五日,英語による最初の演説が下院で行なわれた.フィリピン大学法学部出身の二人の議員が,演説を英語でやってのけたのだ.二二年になると,マニラ市議会も「すべての議員が英語を読み書きする」という理由で,議会用語に英語を採用した.裁判でも英語が使われるようになり,すべての官公庁が二五年までには英語の採用試験に切り替えたという.
スペイン支配とアメリカ支配を単純化して特徴づけるとすれば,前者はキリスト教の普及,後者は教育の普及といってよいだろう.そして,アメリカの文化帝国主義は見事に功を奏したのである.現在でも,フィリピンの教育では「英語第一主義」が根強く守られている.アキノ前大統領(1986--92在職)は,現地の言語がないがしろにされているという国語問題に大きな関心を払っていたが,解決に向けて大きな進展があったわけではない.鈴木によると,フィリピンの国民の帰属意識や社会矛盾の根源は「英語第一主義」にある.
現在フィリピンでは,フィリピン語と英語の「二言語教育」が小学校から行なわれている.フィリピン語を教育用言語として,国語,社会,図工,体育などが教えられている.英語で教えられているのは,英語,算数,理科などである.このため公立小学校では英語による教育についていけない生徒が続出し,教育現場は控え目に表現しても大混乱している.「英語が嫌いだ」とか「英語で教えるから算数が分からない」といった理由で,登校拒否が目立っているとおいう.子供たちの生活環境は「二言語」化されていはいない.したがって,英語はタガログ語地域では二重の負担になり,他の地方語地域では三重の負担になっているのが実状だ./ところがフィリピンは,「英語国」の立場を守っている.議会では英語で討論が行なわれ,大統領の演説も英語である.官公庁文書もすべて英語でだされ,選挙のときにだけ,タガログ語をはじめとする地方語で書かれた印刷物が配られるのである.官公庁では当然英語が使われ,会社紹介や業績発表もすべて英語である.国語の普及に責任を負っているはずの教育・文化・スポーツ省ですら,とうてい「フィリピン語使用」に本気で取り組んでいるとはいえない.〔中略〕フィリピンの政治的,社会的混乱の原因は,フィリピン人が国際理解を重視し,国際的に高い地位を占めたいと思うあまり,英語使用の公式路線を捨てきれないこととかかわりがある.とくに,二言語政策による小学校教育の混乱は,本来なら溌剌としているべき国家の活力を奪っている.フィリピン人がよく使う "tao" (庶民,小さな人々)こそ,国家の生産力と富の源泉であることを忘れるべきではない.(286--88)
さらに,鈴木 (294) は,「歴史的に見ると,英語教育はフィリピン人に劣等意識を植えつけ,アメリカ文化に憧れさせる「えさ」として提供されてきた.フィリピン政府が,「世界言語としての英語の知識は,フィリピン国民の誇りである」と言えばいうほど,国民意識をあいまいにさせている」と手厳しい.
アメリカが英語の力をもって20世紀のフィリピンを牽引してきたことは間違いない.アメリカの教育政策により,1930年代には識字率が倍増しているし,その結果として現在でもアジアの中でも教育がよく進んでいる.一方,英語を公用語とする国々のなかで4番目に多くの人口を擁していることから,世界の英語人口に大きく貢献してもいる.しかし,華やかに見える英語第一主義の正の側面の裏側には,負の側面のあることを忘れてはならない.
この7月下旬に,12年振りにフィリピンに出かける機会があった.そこでフィリピン人と,言語の問題を語る機会があった.英語一辺倒の教育は小学校レベルで見直され始めていること,とはいえ英語の社会的な権威はまったく衰えておらず,国民語たるタガログ語を差しおいて,まず英語を子供に教えようとする親が普通であることなどを聞いた.滞在中,タガログ語と英語が互いに自由に乗り入れる "Taglish" の code-mixing も,ごく普通に耳にした.
だが,フィリピンは ESL 国の1つの例にすぎない.英語が世界化する過程には他にも様々なパターンがありうるだろう.未来の英語史は,これらのパターンの1つ1つを記述してゆく必要があるのだろう.
・ 鈴木 静夫 『物語フィリピンの歴史』 中央公論新社〈中公新書〉,1997年.
昨日の記事「#1591. Crystal による英語話者の人口」 ([2013-09-04-1]) で,Crystal による2001年付けでの英語話者人口の推計を示した.Crystal (69) の脚注に,最近の他の研究者による推計が触れられている.
It is interesting to compare estimates for first (L1), second (L2) and foreign (F) language use over the past 40 years.
-- in Quirk (1962: 6) the totals for first (L1), second (L2) and foreign (F) were 250 (L1) and 100 (L2/F);
-- during the 1970s these totals rose to 300 (L1), 300 (L2) and 100 (F) (cf. McArthur (1922: 355));
-- Kachru (1985: 212) has 300 (L1), 300--400 (L2) and 600--700 (F);
-- Ethnologue (1988) and Bright (1992: II.74), using a Time estimate in 1986, have 403 (L1), 397 (L2) and 800 (F);
-- during the 1990s the L1 and L2 estimates rise again, though with some variation. The Columbia Encyclopedia (1993) has 450 (L1), 400 and 850 (F). Ethnologue (1992), using a World Almanac estimate in 1991, has 450 (L1) and 350 (L2).
それぞれの推計の変動幅は決して小さくはなく,どれを信用すべきか迷うところだ.様々な推計の平均値をとるという方法も,1つの便宜的な方法かもしれない.
この種の人口統計はある程度の不確かさを伴うのが常だが,とりわけ英語話者数というような統計には多くの困難がついてまわる.その理由を挙げてみよう.
(1) この目的のために世界的な規模で利用できる統計がない (Crystal 61) .
(2) 昨日の Crystal の推計に関連して触れたように,主として Expanding Circle に属する EFL 話者の数を正確に把握することはとりわけ難しい.例えば,21世紀初頭において,世界的に英語学習者の増加率が高まってきていることは確かだが,具体的にどの程度の増加率かを正確に言い当てる直接的な方法はない.
(3) 人口統計においても英語話者を ENL, ESL, EFL と区分するモデルが用いられることが多いが,その境目がはっきりしない.また,それぞれの国・地域が上記のいずれかの区分に当てはまるという前提が立てられているが,実際には両者は厳密に対応しないことも多い.ENL と ESL の国・地域では,英語が "special place" を占めていることが前提とされているが,"special place" とは実際の英語使用度や理解度によってではなく歴史的・政治的な要因によって与えられるものにすぎない.
(4) 「英語を話せる」レベルをどこに設定するか,客観的な基準がない.レベルを下げれば ESL や EFL の話者が数億人単位で増えるし,レベルを上げれば話者数は減る.
(5) どの変種を英語の一種とみなすかについて合意がない.ピジン英語やクレオール英語は英語の一種としてみなすべきだろうか.相互理解可能性を問題にするのであれば,多くのピジン英語やクレオール英語は英語でないという結論になりそうだが,「#1499. スカンジナビアの "semicommunication"」 ([2013-06-04-1]) でも触れたように,理解度は言語的な距離のほかに話し手と聞き手の態度も大きく影響する.また,「#385. Guyanese Creole の連続体」 ([2010-05-17-1]) で触れた post-creole continuum のように,どこからが標準変種でどこからがピジン・クレオール変種なのかが判然としない例もある.
・ Crystal, David. English As a Global Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
昨日の記事で扱った「#1590. アジア英語の諸変種」 ([2013-09-03-1]) から世界の英語変種へ目を広げると,それこそおびただしい English varieties が,今現在,発展していることがわかる.英語変種の数ばかりでなく英語変種の話者の数もおびただしく,「#397. 母語話者数による世界トップ25言語」 ([2010-05-29-1]) の記事の終わりで触れたように,母語話者数と非母語話者を足し合わせると,英語は世界1の大言語となる.英語話者人口の過去,現在,未来については,以下の記事で扱ってきた.
・ 「#319. 英語話者人口の銀杏の葉モデル」 ([2010-03-12-1])
・ 「#427. 英語話者の泡ぶくモデル」 ([2010-06-28-1])
・ 「#933. 近代英語期の英語話者人口の増加」 ([2011-11-16-1])
・ 「#173. ENL, ESL, EFL の話者人口」 ([2009-10-17-1])
・ 「#375. 主要 ENL,ESL 国の人口増加率」 ([2010-05-07-1])
・ 「#759. 21世紀の世界人口の国連予測」 ([2011-05-26-1])
・ 「#414. language shift を考慮に入れた英語話者モデル」 ([2010-06-15-1])
現在の世界における英語話者人口を正確に把握することは難しい.Crystal (61, 65--67) で述べられているように,この種の人口統計には様々な現実的・理論的な制約が課されるからだ.Crystal (62--65) は,その制約のなかで2001年現在の英語人口を推計した.近年,最もよく引き合いに出される英語話者の人口統計である.
Territory | L1 | L2 | Population (2001) |
---|---|---|---|
American Samoa | 2,000 | 65,000 | 67,000 |
Antigua & Barbuda* | 66,000 | 2,000 | 68,000 |
Aruba | 9,000 | 35,000 | 70,000 |
Australia | 14,987,000 | 3,500,000 | 18,972,000 |
Bahamas* | 260,000 | 28,000 | 298,000 |
Bangladesh | 3,500,000 | 131,270,000 | |
Barbados* | 262,000 | 13,000 | 275,000 |
Belize* | 190,000 | 56,000 | 256,000 |
Bermuda | 63,000 | 63,000 | |
Botswana | 630,000 | 1,586,000 | |
British Virgin Islands* | 20,000 | 20,800 | |
Brunei | 10,000 | 134,000 | 344,000 |
Cameroon* | 7,700,000 | 15,900,000 | |
Canada | 20,000,000 | 7,000,000 | 31,600,000 |
Cayman Islands* | 36,000 | 36,000 | |
Cook Islands | 1,000 | 3,000 | 21,000 |
Dominica* | 3,000 | 60,000 | 70,000 |
Fiji | 6,000 | 170,000 | 850,000 |
Gambia* | 40,000 | 1,411,000 | |
Ghana* | 1,400,000 | 19,894,000 | |
Gibraltar | 28,000 | 2,000 | 31,000 |
Grenada* | 100,000 | 100,000 | |
Guam | 58,000 | 100,000 | 160,000 |
Guyana* | 650,000 | 30,000 | 700,000 |
Hong Kong | 150,000 | 2,200,000 | 7,210,000 |
India | 350,000 | 200,000,000 | 1,029,991,000 |
Ireland | 3,750,000 | 100,000 | 3,850,000 |
Jamaica* | 2,600,000 | 50,000 | 2,665,000 |
Kenya | 2,700,000 | 30,766,000 | |
Kiribati | 23,000 | 94,000 | |
Lesotho | 500,000 | 2,177,000 | |
Liberia* | 600,000 | 2,500,000 | 3,226,000 |
Malawi | 540,000 | 10,548,000 | |
Malaysia | 380,000 | 7,000,000 | 22,230,000 |
Malta | 13,000 | 95,000 | 395,000 |
Marshall Islands | 60,000 | 70,000 | |
Mauritius | 2,000 | 200,000 | 1,190,000 |
Micronesia | 4,000 | 60,000 | 135,000 |
Montserrat* | 4,000 | 4,000 | |
Namibia | 14,000 | 300,000 | 1,800,000 |
Nauru | 900 | 10,700 | 12,000 |
Nepal | 7,000,000 | 25,300,000 | |
New Zealand | 3,700,000 | 150,000 | 3,864,000 |
Nigeria* | 60,000,000 | 126,636,000 | |
Northern Marianas* | 5,000 | 65,000 | 75,000 |
Pakistan | 17,000,000 | 145,000,000 | |
Palau | 500 | 18,000 | 19,000 |
Papua New Guinea* | 150,000 | 3,000,000 | 5,000,000 |
Philippine$ | 20,000 | 40,000,000 | 83,000,000 |
Puerto Rico | 100,000 | 1,840,000 | 3,937,000 |
Rwanda | 20,000 | 7,313,000 | |
St Kitts & Nevis* | 43,000 | 43,000 | |
St Lucia* | 31,000 | 40,000 | 158,000 |
St Vincent & Grenadines* | 114,000 | 116,000 | |
Samoa | 1,000 | 93,000 | 180,000 |
Seychelles | 3,000 | 30,000 | 80,000 |
Sierra Leone* | 500,000 | 4,400,000 | 5,427,000 |
Singapore | 350,000 | 2,000,000 | 4,300,000 |
Solomon Islands* | 10,000 | 165,000 | 480,000 |
South Africa | 3,700,000 | 11,000,000 | 43,586,000 |
Sri Lanka | 10,000 | 1,900,000 | 19,400,000 |
Suriname* | 260,000 | 150,000 | 434,000 |
Swaziland | 50,000 | 1,104,000 | |
Tanzania | 4,000,000 | 36,232,000 | |
Tonga | 30,000 | 104,000 | |
Trinidad & Tobago* | 1,145,000 | 1,170,000 | |
Tuvalu | 800 | 11,000 | |
Uganda | 2,500,000 | 23,986,000 | |
United Kingdom | 58,190,000 | 1,500,000 | 59,648,000 |
UK Islands (Channel, Man) | 227,000 | 228,000 | |
United States | 215,424,000 | 25,600,000 | 278,059,000 |
US Virgin Islands* | 98,000 | 15,000 | 122,000 |
Vanuatu* | 60,000 | 120,000 | 193,000 |
Zambia | 110,000 | 1,800,000 | 9,770,000 |
Zimbabwe | 250,000 | 5,300,000 | 11,365,000 |
Other dependencies | 20,000 | 15,000 | 35,000 |
Total | 329,140,800 | 430,614,500 | 2,236,730,800 |
昨日の記事「#1589. フィリピンの英語事情」 ([2013-09-02-1]) と関連して,アジアにおける英語変種について一般的な話題を取り上げる.アジアの諸地域は,交易や植民地時代を含む4世紀にわたる英語との接触の歴史を通じて,独自の英語変種を発達させてきた.これら Asian English(es) と呼ばれる ESL あるいは EFL としての英語変種は,地域および使用(制度化されているか否か)の観点から分類される (Jenkins 45) .
South Asian varieties | South-East Asian and Pacific varieties | East Asian varieties |
---|---|---|
Bangladesh | Brunei | China |
Bhutan | Cambodia | Hong Kong |
India | Fiji | Japan |
Maldives | Indonesia | Korea |
Nepal | Laos | Taiwan |
Pakistan | Malaysia | |
Sri Lanka | Myanmar | |
Philippines | ||
Singapore | ||
Thailand | ||
Vietnam |
Institutionalised varieties (Outer Circle) | Non-institutionalised varieties (Expanding Circle) |
---|---|
Bangladesh | Cambodia |
Bhutan | China |
Brunei | Indonesia |
Fiji | Japan |
Hong Kong | Korea |
India | Laos |
Malaysia | Maldives |
Nepal | Myanmar |
Pakistan | Taiwan |
Philippines | Thailand |
Singapore | Vietnam |
Sri Lanka |
フィリピン (The Philippines) は,言語多様性の高い国である.日本の4/5ほどの面積に約8,800万人が住んでおり,Ethnologue の Philippines の項によれば,181の言語が行なわれているという(フィリピンの現況を報告する一般の概説書によれば80程度ともされ,数え方により大きく異なる).「#401. 言語多様性の最も高い地域」 ([2010-06-02-1]) で取り上げた多様性指数 (diversity index) のランキングでいえば,0.855の値を示し,世界25位である.土着語のほとんどがオーストロネシア語族に属する言語であり,VSOの語順を示すなど,言語的には比較的類似している.母語話者人口の最も多いのは Cebuano (約1,200万人)だが,公用語としてはルソン島南部を中心に母語人口1,000万人を誇る Tagalog をもとにした Filipino が国語とされているほか,英語がもう1つの公用語として広く学ばれ,行われている(政府は1972年より Filipino と英語の2言語教育の方針を打ち出している).Crystal (64) の統計によれば,国民の半数近くが英語を話すとされ,東南アジアにおいて最も英語話者の多い国といえるだろう.(フィリピンの言語地図はこちらを参照). *
フィリピンは,16世紀後半から続いた300年のスペインによる支配の後,1898年の米西戦争 (the Spanish-American War) を経て,アメリカの支配下に入った(「#255. 米西戦争と英語史」[2010-01-07-1]を参照).1942--45年の日本による占領時代を経て1946年に独立したが,独立後もアメリカとの関係は密であり,アメリカ英語の影響が色濃い.全般的にイギリス英語の色彩が圧倒的である東南アジアにあって,異色である(「#376. 世界における英語の広がりを地図でみる」[2010-05-08-1]を参照).
上記のような経緯で Philippine English ("Taglish" とも呼ばれる)は,Singapore English と並んで東南アジアの数ある英語変種のなかでも目立った存在となっている.Jenkins (47) によると,東南アジア英語変種のなかでもとりわけ研究が進んでおり,例えば Tay, M. ("Southeast Asia and Hongkong." English around the World. Ed. J. Cheshire. Cambridge: CUP, 1991.) や World Englishes の2004年の Bautista et al. によるフィリピン英語特集などが挙げられている.フィリピン英語は1960年代後半から記録されており,独特な発音や文法が発達してきていることが知られている.また,新旧の世代差や formality による差など,フィリピン英語内での変種も多様化してきているようだ.
英語が非母語として用いられている他の地域の英語事情については,「#273. 香港の英語事情」 ([2010-01-25-1]),「#404. Suriname の歴史と言語事情」 ([2010-06-05-1]),「#412. カメルーンの英語事情」 ([2010-06-13-1]),「#514. Nigeria における英語の位置づけ」 ([2010-09-23-1]),「#1536. 国語でありながら学校での使用が禁止されている Bislama」 ([2013-07-11-1]) などの記事を参照.
・ バーナード・コムリー,スティーヴン・マシューズ,マリア・ポリンスキー 編,片田 房 訳 『新訂世界言語文化図鑑』 東洋書林,2005年.
・ Crystal, David. English As a Global Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
・ Jenkins, Jennifer. World Englishes: A Resource Book for Students. 2nd ed. London: Routledge, 2009.
昨日の記事「#1587. 印欧語史は言語のエントロピー増大傾向を裏付けているか?」 ([2013-08-31-1]) で,Comrie による言語的エントロピー増加傾向の仮説を紹介した.Comrie の考え方の背景には,斉一論の原則 (The Uniformitarian Principle) の1つの解釈の仕方が関与している(斉一論については,「#556. The Uniformitarian Principle」 ([2010-11-04-1]) と「#1186. The Uniformitarian Principle (2)」 ([2012-07-26-1]) を参照).
言語における斉一論の原則について,いくつかの定義や説明を見てみると,言語の状態 (state) について述べているものと,言語の過程 (process) や力学 (force) について述べているものがある.例えば,[2010-11-04-1]の記事で挙げた引用に従えば,Romaine は force の斉一性を,Lass は state の斉一性を念頭においている(もっとも,Lass は "linguistic state of affairs (structure, inventory, process, etc.)" と包括的にとらえている節はある).
しかし,この2つの斉一論は大きく異なっている.state の斉一論は静態についての謂いであり,process/force の斉一論は動態についての謂いだ.後者は,現在と過去の言語変化の原動力や過程は異なるところがないと主張しているが,その結果としての言語状態については何も述べていない.極端にいえば,現在の言語と過去の言語が異なるタイポロジーを示すことすらありうるというのが,process/force の斉一論である.process/force の斉一論の主張者である Comrie (255--56) は,state の斉一論の主張者である Lass を批判する文脈のなかで,こう述べている.
In geology, certain processes can be observed as ongoing during recorded history, such as the formation of mountains and their subsequent erosion by wind and rain. The uniformitarian hypothesis, which did so much to raise geology to its present scientific level, assumes that these same processes also characterised the Earth's prehistory. In other words, in order to explain earlier geological formations, we are not permitted to appeal to processes other than those that have characterised the more recent period. But it is important to realise that what is constrained by the uniformitarian hypothesis is the set of processes that have formed the earth, not the set of states that are separated by these processes. Thus, one could imagine starting from a state that is radically different from the present state of the Earth, say a perfectly smooth spherical or near-spherical object, and then initiate operation of the processes of mountain formation and erosion to produce something like the present-day Earth. In other words, the typological consistency implied by the uniformitarian hypothesis in geology is a typological consistency of processes, not a typological consistency of states. . . . / We may now apply this historically more appropriate concept of uniformitarianism, from the viewpoint of the philosophy of science, to the kind of linguistic reconstruction that we proposed . . . . It now becomes clear that our reconstruction is indeed compatible with this conception of the uniformitarian hypothesis. We propose no processes that are not attested in the historical period. . . . No new types of processes are proposed. However, the operation of these processes can take us from an earlier stage that is typologically different from attested languages to a later stage that is compatible with our knowledge of attested language states.
ここでは,地学主義とでもいうべき言語変化観が展開されている.state の斉一論なのか,process/force の斉一論なのか,あるいは両者を合わせた斉一論なのか.これもまた,controversial な議論である.
・ Comrie, Barnard. "Reconstruction, Typology and Reality." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 243--57.
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最終更新時間: 2024-12-11 15:52
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