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hellog〜英語史ブログ / 2009-08

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2009-08-31 Mon

#126. 7言語による英語への影響の比較 [contact][flemish][dutch][japanese]

 Gelderen (102) に,Celtic, Latin, Scandinavian, French, Dutch/Flemish の5言語が英語に与えた影響の比較表がある.これに,もう一つ Greek を加えて,6言語による影響の比較表を掲げる.

 vocabularymorphologysyntax
Celticyesnopossibly
Latinyessomewhatno
Scandinavianyesyesyes
Frenchvery muchyesminimal
Dutch/Flemishminimalnono
Greekyessomewhatno


 [2009-08-16-1]の記事でフランス語と古ノルド語による影響を様々な視点から比較したのとは異なり,分野ごとへの影響を大雑把に示した表にすぎないが,いくつかの興味深いポイントが見えてくる.一般の英語史概説ではあまり扱われない項目,あるいは問題意識を呼び覚ましてくれる項目に目が止まった.

 ・ケルト語の統語への影響の "possibly" が気になる
 ・ラテン語の統語への影響が "no" というのは本当か
 ・オランダ語・フラマン語による英語への影響を,ラテン語やフランス語などと同列に比較するという視点そのものが斬新

 オランダ語・フラマン語については,従来,英語への影響という視点がフィーチャーされることはあまりなかった.確かに英語史概説書で語彙の借用の話題として軽く取り上げられることはあるが,あくまでマイナーな話題としてである.著者の Gelderen がオランダ人であり,多分にひいき目はあるだろうが,こうしたニッチな領域に関心が向けられるというのは,英語史の視点を豊かにしてくれるという点で歓迎すべきである.
 上の文章を書いているうちに,ぜひとも日本語を含めたくなった.

 vocabularymorphologysyntax
Celticyesnopossibly
Latinyessomewhatno
Scandinavianyesyesyes
Frenchvery muchyesminimal
Dutch/Flemishminimalnono
Greekyessomewhatno
Japanesesomewhatnono


 [2009-06-12-1]の記事で,「過去50年で,英語への借用語の約8%が日本語から」と紹介したので,"minimal" でなく "somewhat" としてみたが,この判断はいかがだろうか.

 ・Gelderen, Elly van. A History of the English Language. Amsterdam, John Benjamins, 2006.

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2009-08-30 Sun

#125. 投票と風船 [etymology][derivative][suffix]

 今日は衆議院選挙の投票日.さて,投票とかけて風船ととく,その心は.
答えは, 「二つとも球」 である(←クリック).
 英語で「投票(用紙)」は ballot (paper),「風船」は balloon で,ともに ball 「球」である.かつては小球で投票したということにちなむ.
 語幹はともに共通で,異なるのは接尾辞のみである.ballot は,イタリア語 ballotta が16世紀に借用された語で,-ot という接尾辞がついている.これは「小さいもの」を示す接尾辞で,指小辞 ( diminutive ) と呼ばれる.一方,balloon はフランス語 ballon が16世紀に借用された語で,-oon という接尾辞がついている.これは「大きいもの」を示す接尾辞で,増大辞 ( augmentative ) と呼ばれる.後者は16世紀に借用された当初には「ボールゲーム」の意味だったが,18世紀後半に「気球,風船」の意味を発展させた.
 それぞれイタリア語とフランス語からの借用であるということは,基体の ball 「球」もロマンス系の語かと思いきや,本来はゲルマン系の語である.それが一度ロマンス語へ借用され,指小辞と増大辞が付加された状態で,改めてゲルマン系の英語へ戻ってきたという経緯である.
 指小辞 -ot の例は多くないが,他に chariot 「古代の戦闘馬車」, galliot 「小型ガレー船」, loriot 「ウグイスの一種」, parrot 「オウム」などがある.
 増大辞 -oon の例も少ないが,bassoon 「バスーン」, cartoon 「風刺漫画」, saloon 「大広間」がある.cartoon は,初期の風刺漫画が大判の紙(カード)に描かれたことに由来する.ちなみに,増大辞 -oon のフランス語版として -on という増大辞があり,こちらは flagon 「細口大瓶」や million 「百万」などの例にみられる.
 語源のおもしろさは,一見するとつながりのない二つの語の間に共通点を発見することができることである.開票の結果,頭上の風船が割れて泣きを見るのは,果たしてどの政党か.

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2009-08-29 Sat

#124. 受験英語の文法問題の起源 [prescriptive_grammar][history]

 現代の学校英文法で扱われる典型的な注意を要する事項に以下のようなものがある.

 ・自動詞 lie と他動詞 lay の区別をつけるべし
 ・which の所有格として whose を用いるべからず
 ・it is me ではなく it is I とすべし
 ・文末に前置詞を置くべからず
 ・二つ以上のもののあいだには between を,三つ以上のもののあいだには among を使うべし
 ・the oldest of the two ではなく the older of the two とすべし
 ・二重否定は使うべからず
 ・to fully understand などの「分離不定詞」は使うべからず

 こうした「べき・べからず集」はどのようにして生まれたのだろうか.こうした慣例は,あるときに自然発生的に生まれ,慣例として守られてきたということなのだろうか.
 いや,そうではない.これは,ほんの250年ほど前,18世紀の規範文法家 ( priscrictive grammarians ) たちが理屈をこねて作り上げたきわめて人工的な規則である.実はそれほど説得力のある理屈があるわけではなく,いってしまえば当時権威のあった文法家たちの個人的な嗜好にすぎない.それが不思議なことにその後も尊重され続け,現代の学校英文法の現場でも生きているというのが現状である.
 生きているというのは生やさしい.受験生はこの「べき・べからず集」に生殺与奪の権を握られているといっても過言ではない.しかし,われわれが覚えさせられててきたこうしたがちがちの学校英文法が,実は18世紀の数名の規範文法家によって人為的に作られたことを知ってしまうと,受験生の頃のあの努力はなんだったのかと思わざるをえない.ある意味では,相当に不毛な勉強をしてきたともいえる.だが,こうした規範文法は,英語を学習する外国人のみならず,英語母語話者の英語観にもいまだ深く根付いているので,問題は単純ではない.
 18世紀は秩序と規範を重んじる時代で,the Age of Reason 「理性の時代」と呼ばれた.文法規則こそが言語を支配するのだという文法先行の発想で,規範文法書が続々と出版された.特に影響の大きかったのは1762年に出版された Robert Lowth 著の A Short Introduction to English Grammar である.世紀の終わりまでに22版を重ねたというから,絶大な人気ぶりである.
 規範文法ができあがった18世紀より前の英語の慣用では,上記の文法事項はいずれも普通におこなわれていたことは覚えておいてよい.これで,受験英語問題で間違えたときに「18世紀より前の英語では許されたんだけどね」と軽く受け流すことができる(かもしれない).

 ・ヤツェク・フィシャク 『英語史概説---第1巻外面史』 小林 正成,下内 充,中本 明子 訳.青山社,2006年.180--188頁.

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2009-08-28 Fri

#123. 同化 --- 生理と怠惰による言語変化 [assimilation][phonetics][consonant][language_change]

 音声学で同化 ( assimilation ) と呼ばれる現象がある.同化はどの言語にもありうる現象であり,言語変化においてそれが果たす役割は大きい.
 例として,否定の接頭辞 in- の子音の同化作用を取り上げよう.形容詞の基体とそれに in- を付加した否定形のペアは多数あるが,mature / immatureregular / irregular のペアを取りあげてみる.この二対のペアでは,基体の頭の子音にしたがって,in- の子音が変化していることに気づくだろう.例えば in + matureimmature となっているが,ここでは [n] -> [m] の変化が起こっている.これこそ,典型的な調音点の同化と呼ばれる現象である.
 [2009-05-29-1]の子音表によれば,[n] という子音は「有声・歯茎・鼻音」と記述される.舌を歯茎につけて声帯をふるわせながら呼気を鼻に抜くと,この [n] 音が出る.一方,mature は [m] で始まるが,この子音は「有声・両唇・鼻音」と記述される.両唇をしっかり閉じ,声帯を震わせながら呼気を鼻に抜く音である.
 [n] と [m] は音声学的には非常に似通っていることがわかるだろう.唯一の違いは,舌を歯茎につけるか両唇を閉じるかという,調音点だけの違いである.音がこれほど近いと,[nm] という連鎖を別々に調音するのはかえって厄介である.そこで,一方が他方に同化するという作用が起こる.多くの場合,後にくる音を予期して先に調音するという「早とちり」が起こる.[nm] のケースでは,[m] の両唇の閉めを一足早く [n] の段階で実行してしまうために [mm] となってしまうのである.そのあと,この重子音が単子音化して [m] となった.
 immature の場合には調音点で同化が起こったが,調音様式で同化が起こることもある.例えば,irregular では regular の語頭子音 [r] に影響されて接頭辞 in- が ir- へ変化している.[r] は「有声・歯茎・接近音」と記述されるが,[n] と異なっているのは,調音様式だけである.歯茎の辺り接近させて軽い摩擦を生じさせるか,舌を歯茎に当てながら鼻に抜かせるかの違いである.[nr] と続くと,後にくる [r] の調音様式が先の [n] の調音の段階で早めに適用され,[rr] となる.これがのちに単子音化し,[r] となった.
 連続する二音が似ているのならば,いっそのこと同じ音にしてしまえという同化の発想は,ヒトの調音生理と怠惰欲求に基づいているといってよい.そして,この生理と怠惰が英語史(そして言語史一般)で話した役割は甚大である.

Referrer (Inside): [2009-10-12-1]

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2009-08-27 Thu

#122. /kn/ で始まる単語 [phonotactics][phonetics]

 現代英語では,<kn> の綴り字で始まる単語の最初の /k/ 音は発音されないことになっている.

knack, knag, knap, knave, knead, knee, knell, knife, knight, knit, knob, knock, knoll, knot, know


 発音されないのにわざわざ綴り字に <k> が入っているのは,かつては発音されたからである.英語史のある段階から /kn/ という連鎖における /k/ は発音されなくなったが,綴り字は変化しなかったがゆえにこのような状況になった.(綴り字の保守性については[2009-05-13-1]を参照.)
 いつ /k/ が失われたかというと,17世紀末から18世紀にかけてである./kn/ -> /xn/ -> /hn/ -> /n/ という段階を経て消えていった.ただ,この /k/ の削除は, /kn/ のつながりが語頭に来たときにのみ,もっと正確にいうと形態素の頭に来たときにのみ,起こった.したがって,acknowledge ( ac- + knowledge ) では形態素をまたぐために /kn/ が保持されているし,spokentaken などでは語中であるためにやはり /kn/ が残っている.
 では,それ以外に例外はないのかというと,先日たまたま gastrocnemius 「腓腹筋」という語に出くわした.ここでは /kn/ が発音されるという.関連語を拾い出すと以下のような語があった.

cnemial, eucnemic, eucnemidal, gastrocnemial, gastrocnemian, gastrocnemius, metacneme , metacnemic , platycnemia , platycnemic , procnemial, protocneme


 cneme の部分はギリシャ語で「脛骨」を意味し,上記の語はいずれもその複合語である.例えば cnemial は /ˈkni:mɪəl/ という発音で,しっかりと /kn/ が残っている.これらの語で /k/ の削除がおこらなかったのは,借用されたのが19世紀,すなわち削除の過程が終了したずっと後だったからと考えてよさそうだが,たまたま出くわしたという gastrocnemius の初出を OED で調べてみたら,例外的に早く1676年とあった./k/ の削除が17世紀末からとすると,なんとも微妙なタイミングである.
 高度に専門的な借用語ということで例外的に扱われたという可能性も考えられるが,いったんは /k/ が脱落しかけたものの,後から入ってきた cneme の複合語のすべてにおいて /kn/ が発音されるならば,gastrocnemius でのみ /k/ が脱落するというのも妙なので,類推 ( analogy ) が働いたと考えるのも一案である.
 いずれにしても,形態素の始まりで /kn/ という音素配列 ( phontactics ) の存在が確認されるのは,英語語彙広しといえど,他にないのではないか.

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2009-08-26 Wed

#121. octopus の複数形 [plural][greek][bnc][corpus]

 octopus の複数形は何か.手持ちの辞書を引き比べてもらうとわかるが,すべての辞書で規則的な octopuses が挙がっていることだろう.特に記述のない辞書では octopuses を当然とみなしての省略に違いない.
 だが,大きめの辞書や古めの辞書を引くと,octopodes なる複数形が併記されている.例えば OED では,octopodes /ɒkˈtəʊpədi:z/ が先に挙がっており,その後に octopuses が追記されている.
 Web3 ( Webster's Third New International Unabridged Dictionary ) にいたっては,第三の複数形として octopi /ˈɑktəˌpaɪ/ が挙げられている.
 複数形態に関するこの複雑な状況は,この単語がギリシャ語からネオ・ラテン語を経て,18世紀に英語へ借用されてきたという経緯による.ギリシャ語の屈折に従えば octopodes となり,ラテン語の屈折を適用すると octopi になる( see sg. alumnus -- pl. alumni ).ただし,ラテン語に準じた octopi は,COD11 ( The Concise Oxford English Dictionary 11th ed. ) によると誤用とされている.
 ただ,この二種類の古典語に基づく不規則複数形は,現在では衒学的・専門的な響きが強すぎて普通には用いられないと考えてよい.このことは,多くの学習者英英辞典で octopuses のみが挙げられていることからもわかる.
 BNC ( The British National Corpus )で調べてみるとヒット数は以下の通りだった.

octopuses29
octopi11
octopodes4


 ついでだが,日本語ではタコを数えるときにつける助数詞は「匹」でもよいし,イカと同じく「杯」でもよいという.知らなかった.

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2009-08-25 Tue

#120. 意外と多かった中英語期のラテン借用語 [loan_word][latin][me][wycliffe][bible]

 英語はその歴史を通じて絶え間なくラテン語から語彙を借用してきたが,英語史でよく取り上げられる時代は,古英語期[2009-05-30-1]と初期近代英語期[2009-08-19-1]である.前者はローマ世界の文明やキリスト教との接触と関連が深く,後者はルネッサンス期の古典復興の潮流に負うところが大きい.間にはさまれた中英語期はフランス語の影響が甚大だったために[2009-08-22-1],ラテン語からの借用は影が薄いものの,しっかりと継続していたことは覚えておいてよい.
 中英語期にも借用が継続された背景には,イングランドの知識人が,ラテン語を通じて絶え間なく古典文学,医術,天文学などを学んでいたという事情がある.また,宗教改革者 John Wycliffe (1330?-84) と弟子たちが聖書を英訳した際に,ラテン語の原典から1000以上の単語を借用したという事情もあった.
 この時代のラテン語借用の特徴としては,現代英語にまで残っている語彙が多いことが挙げられる.日常用語になっているものも少なくない.このことは,ラテン単語が湯水のごとく借用されては捨て去られていった初期近代英語期の傾向と対照をなす.
 中英語期のラテン借用語をいくつか挙げておく.(Wycliffe が初出のものは赤字.かっこ内は初出年.)

actor (c1384), adjacent (a1420), adoption (1340), ambitious (c1384), ceremony (c1384), client (?c1387), comet (?a1200), conflict (?a1425), contempt (a1393), conviction (a1437), custody (1453), depression (1391), desk (1363-64), dial (1338), diaphragm (a1398), digit (a1398), equal (a1390), equator (1391), equivalent (c1425), exclude (c1384), executor (c1290), explanation (c1384), formal (c1390), gloria (?a1200), hepatic (a1393), impediment (c1385), implement (1445), implication (?c1425), incarnate (1395), include (1402), index (a1398), inferior (?a1425), intercept (1391), interrupt (?a1400), item (a1398), juniper (c1384), lector (a1387), legitimate (a1460), library (c1380), limbo (c1378), lucrative (a1412), mediator (c1350), picture (a1420), polite (a1398), prosecute (?a1425), quiet (c1384), recipe (a1400), remit (c1375), reprehend (c1340), requiem (c1303), saliva (?a1425), scribe (?c1200), scripture (a1325), testify (a1378), testimony (c1384), tradition (c1384), ulcer (a1400)


 ・寺澤 盾 『英語の歴史』 中央公論新社〈中公新書〉,2008年. 69--70頁.
 ・橋本 功 『英語史入門』 慶應義塾大学出版会,2005年. 80頁.

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2009-08-24 Mon

#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!? [black_death][epidemic][history][reestablishment_of_english][map]

 日本では新型インフルエンザが早くも猛威をふるっており,今年度の後期は注意を要する学期になりそうである.
 流行病は世界中でいつの時代でも脅威であったが,14世紀中葉にヨーロッパを席巻したペスト被害である黒死病 ( Black Death ) は,当時のヨーロッパ社会にとって一大事件であった.様々な推計があるが,ヨーロッパの全人口の三分の一が死んだというからすさまじい.イングランドだけでも200万人が死んだとされ,1300年と1400年の時点での人口を比べると半減しているという.それ以前の西洋史において,黒死病ほど多くの人命を奪った出来事は,戦争や他の疫病を含めてためしがない.
 このペストは,1347年に中央アジア方面からコンスタンティノープルに侵入してきたのち,地中海貿易経路をたどり,翌1348年にはイタリア,フランス,イングランドの南部に到達.続く1349年,1350年とかけて,ヨーロッパの内陸部や島嶼部の奥へも広がっていった(地図参照).

The Black Death in Europe

 わずか数年という短期間でこれだけの人口が死んだわけであるから,人々の話す言語にも相応のインパクトがあった.イングランドでは,1066年のノルマン人の征服 ( Norman Conquest ) 以来,支配者の言語としてフランス語が優位にあった.農民を含めて庶民はみな英語話者であり,人口こそ多かったものの,英語の社会的地位はまだ低かった.ところが,14世紀に入ると,1337年に英仏百年戦争 ( Hundred Years' War ) が始まり,フランス語が敵対語になったこともあり,イングランドにおける英語の復権が徐々に始まっていた.そのタイミングで,黒死病が勃発したのである.
 英語史における黒死病の意義は小さくない.疫病は襲う人を選ばないとはいうものの,劣悪な生活環境にある社会の底辺の人々や,逃げ場のない閉ざされた空間たる修道院などで特に猛威をふるった.労働者が激減したことによって,労働力の需要が高まり,それに応じて労働者の社会的地位も高まった.
 もともと人口過密状態だったところでは,人口が減ることで庶民の生活条件が改善されたということもあった.だが,その恩恵にあずからない不満分子の農民たちが1381年に農民一揆 ( Peasants' Revolt ) を起こし,一般庶民の地位の向上をさらに訴えた.それに応じて,彼らの言語である英語の地位も着々と向上していった.
 一方,当時,都市に集まって社会集団を形成していた職人たちの社会的地位も向上し,農民でも貴族でもない実力をもった中産階級が台頭することになった.このことも,英語の地位の向上に結びついた.1356年に地方裁判所の記録が初めて英語でとられ,続いて1362年に議会の開会宣言が初めて英語でなされたことは,英語の地位の向上を如実に物語っている.
 さて,そもそも黒死病を引き起こしたペストのヨーロッパ上陸は,13世紀にシルクロードを通じて東西の交流が盛んになったことと関係する.ペストを保菌していたインド産のクマネズミ ( Rattus rattus ) が,おそらくは気候変動による食物連鎖の不順が原因で,インドを出て西進し,その菌がシルクロードを運ばれたという.
 以下は戯れの if に過ぎないが,もしクマネズミが西進しなければ,ヨーロッパで黒死病は起こらなかったかもしれない.もし黒死病が起こらなければ,イングランドでの英語の復権はもっと遅れていたかもしれない.もし遅れていれば,場合によっては,英語は書き言葉として定着する機会を永遠に得られず,イングランド社会はフランス語優勢のまま進んだかもしれない.そうすると,後に英語はアメリカへ渡ることもなかったろうし,現在,世界語としての地位を確立していることもないだろう.そうすると,われわれ日本人が義務教育として英語を学ぶこともなかったろうし,このブログ自体も存在していないかもしれない・・・.
 英語史を動かした(かもしれない)インドのクマネズミ,恐るべし.

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2009-08-23 Sun

#118. 母音四辺形ならぬ母音六面体 [vowel][ipa][phonetics]

 [2009-05-17-1]で,母音を体系的に記述する母音四辺形を導入した.音声学の基本であり,これが分かっていないと,大母音推移をはじめとする英語に起こった数々の音声変化を理解することができない.
 母音は (1) 舌の高さ,(2) 舌の前後の位置,(3) 唇の丸めの有無,という三つのパラメータで記述されるが,音声学初歩で導入される母音四辺形では,唇の丸めの表現がイマイチ垢抜けていない.舌の高さと前後については,母音四辺形をそのまま座標と見立てて,口腔内での舌の位置をそのままプロットすればよい.だが,唇の丸めというのは母音四辺形ではうまく表現できず,仕方ないので各点の左側に非円唇母音,右側に円唇母音の音声記号が記入されるのが慣例となっている.
 この点に関して,最近,なるほどと感心したことがあった.音声学の専門家には常識なのかもしれないが,Ladefoged という音声学者が,母音四辺形の立体版,母音六面体とでも呼ぶべきものを提示していることを知った.

Ladefoged's Vowel Diagram

 唇の丸めを奥行きに相当させ,母音体系を立体的に表現した図である.手前が円唇,奥が非円唇である.この図の秀逸な点は,前舌母音では舌の位置が低いほど,後舌母音であれば舌の位置が高いほど円唇を伴いやすいという調音音声学の原則が見事に表現されている点である.上の図は標準的な現代英語の基本母音であり,赤線で結ぶと上の原則がよく見えてくるだろう.さらに,この図は音響的なパラメータとの対応もうまくいっているというから文句なしである.
 パラメータが三つだから立体で表現しようという発想はしごく自然であり,誰もが考えつきそうな発想だが,実際にこの図が作られたのは1971年であり,それほど昔のことではない.これは驚きである.母音四辺形があまりに有名なので,自然な発想がブロックされてしまったためだろうか.確かに,唇の丸めというパラメータを立体の一つの次元にあてはめるのは直感的ではないかもしれないが,それにしても盲点だったのではないか.どの分野にもこのような盲点はまだまだ存在するに違いない.

 ・Ladefoged, Peter. Preliminaries to Linguistic Phonetics. Chicago: U of Chicago P, 1971. 72.

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2009-08-22 Sat

#117. フランス借用語の年代別分布 [loan_word][french][statistics][lexicology]

 ノルマン人の征服以降,フランス語の語彙が大量に英語に流入したことはよく知られている.その流入は実に今日まで絶え間なく続いてきており,英語史全体で2万語近くが入ってきたのではないかという推計がある.だが,もちろん常に同じペースで流入してきたわけではない.借用されたフランス単語を年代別に数えるという研究は古くからなされてきており,有名なものとしては OED を利用した Jespersen と Koszal の共同調査がある.宇賀治先生がご著書で数値等をまとめられているので,それに基づいてグラフ化してみた(数値データはこのページのHTMLソースを参照).ただ,この調査は悉皆調査ではなく,OED でアルファベットの各文字で始まるフランス借用語のうち,最初の100語を抽出し,その初出年で振り分けたものである.目安ととらえたい.

French Loanwords Intake Rate



 中英語期の中盤をピークとし,初期近代英語期にも一度小さなピークはあるものの,現在まで漸減を続けている.それでも,悉皆調査をすれば,どの時代も絶対数としてはそれなりの数にはなろう.借用が爆発的に増えた13世紀と14世紀は,イングランドにおいて英語が徐々にフランス語のくびきから解放され,復権を遂げてゆく時期である.そんな時期にフランス借用が増えるというのは矛盾するようにも思えるが,フランス語を母語としていた貴族が英語に乗り換える際に,元母語から大量の語彙をたずさえつつ乗り換えたと考えれば合点がいく.
 一方,16世紀の漸増は,[2009-08-19-1]で見たとおりルネッサンス期の借用熱に負っているところが大きい.借用語の増減の背後には,常に何らかの社会の動きがあるようである.
 英語におけるフランス借用語の研究はされ尽くされた観があるが,悉皆調査が行われていないというのは大きな盲点かもしれない.Jespersen などの時代と違って OED も電子化されているし,やりやすくはなっていると思うのだが.

 ・Jespersen, Otto. Growth and Structure of the English Language. 9th ed. 1938. Oxford: Basil Blackwell, 86-87.
 ・宇賀治 正朋著 『英語史』 開拓社,2000年. 95頁.

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2009-08-21 Fri

#116. 語源かぶれの綴り字 --- etymological respelling [spelling_pronunciation_gap][etymological_respelling][doublet]

 綴りと発音の乖離を引き起こした原因の一つに,etymological respelling があることは[2009-06-28-2]で簡単に触れた.今回は,もう少し詳しくこの「語源かぶれの綴り字」現象を見てみたい.
 主に初期近代英語に見られるのだが,学者が,従来使われてきた語の語源(多くはラテン語)を参照し,その語源の綴り字を尊重して,英語形に欠けている文字を挿入するという現象である.多くのラテン語起源の語はフランス語を経由して英語に入ってきており,その長い経路のあいだに,オリジナルのラテン語形が「崩れた」形で英語に入ってきていることが多い.ラテン語に堪能な学者がこれを憂慮して,ラテン語のオリジナルに近づけようとする営み,それが etymological respelling である.
 具体例として,debt 「債務」を挙げよう.この語には発音されることのない黙字 ( silent letter ) の <b> が含まれているが,これはなぜだろうか.
 この語はラテン語 dēbitum がフランス語経由で英語に借用されたものだが,フランス語から借用されたときにはすでに <b> が落ちており,dette という綴りになっていた.つまり,英語に借用された当初から <b> は綴り字として存在しなかったし,/b/ の発音もなかった.ところが,13世紀から16世紀のあいだに,借用元のフランス語側でラテン語化した debte が改めて用いられるようになった.15世紀からは,英語側もそれに影響されて,ラテン語の語源により忠実な <b> を含めた綴りを用いるようになり,現在にまで続く debt の原形が確立した.
 注意したいのは,この一連の変更はあくまで綴り字の変更であり,発音は従来通り /b/ のないものがおこなわれ続けたことである.[2009-07-30-1]gaoljail について述べたとおり,発音と綴り字は相互につながりを持ちながらも,本質的に別個の存在なのである.
 ちなみに,15世紀には,同じラテン語の dēbitum がフランス語を経由せずに,改めて debit 「借方」として英語に借用された.今度の <b> はみせかけではなく,正規の綴りであり,発音もされた.したがって,現代英語の debtdebit は,同根の語が微妙に異なる形態と意味で伝わった二重語 ( doublet ) の例となる.

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2009-08-20 Thu

#115. 男の人魚はいないのか? [etymology][compound][political_correctness]

 デンマークのコペンハーゲン大学に留学している学生がいて,同市のシンボルである「人魚姫の像」のデジカメ写真を送ってくれた(ありがとう!).

The Little Mermaid

『人魚姫』 ( The Little Mermaid ) を書いたアンデルセン ( Hans Christian Andersen ) は,デンマークはオーデンセ出身の童話作家である.世界に名高いこの悲しい物語を題材にして,1913年に人魚姫の像がコペンハーゲンの海岸に据えられたが,ここ数十年のあいだに何度も破壊行為にあっている.頭部や腕が奪い去られたり,赤いペンキで塗ったくられたり,さんざんである.この話を聞くと,童話の憧憬にひたりつつはるばる日本からこの像を拝みに行く者は,なんとも悲しくなってしまう(かつて私もその一人だった).人魚姫はいつまでたっても浮かばれないということか.
 さて,mermaid は本来語からなる複合語である.古英語 mere "sea" + maide "maid" なので,まさしく「人魚姫」という訳がふさわしい.このように meremaide という部品は相当古くからあったわけだが,これが組み合わさって複合語として使われるようになったのは14世紀からである.古英語では,merewīf ( "sea" + "wife" ) や meremin ( "sea" + "female slave" ) という今はなき複合語が用いられていた.ただ,mermaid は後発だとはいえ,本来語要素で成り立つ極めて伝統的な英語の複合語といえよう.
 「海」を意味する古英語の mere は現代英語では詩語・古語で「湖」の意味を表す.古英語後期の maide も多少古めかしいものの,maid として現役である.maide という古英語後期の形態は mægden "maiden" の語尾がつづまったものであり,いずれも「(未婚の)少女」を意味したが,現代英語では maiden はやや文学的な響きを帯びており,maid は複合語の部品として用いられることが多いといったふうに,使い分けがなされている.
 mermaid はそうした maid の複合語の例の一つだが,他には barmaid, chambermaid, dairymaid, housemaid, milkmaid, nursemaid などがある.だが,いずれの複合語も現代ではすでに古めかしい響きがある.political correctness により,これらの複合語が消えてゆく日は近いかもしれない.一方,日本語で「メード」というと本来は「女中,ホテルの女の客室係」を指すが,最近は「メイド喫茶」との連想が強くなってきており,イメージが定まらない.(←私だけか?)
 maid の複合語の存続が危ぶまれると上で述べたが,mermaid だけは質が違う.そもそも,人魚という種は女性が優勢な種である.『人魚姫』には人魚の姉妹こそたくさん出てくるが,男の影は見えない.ギリシャ神話のサイレン ( Siren ) と結びつけられることが多いことからも,人魚といえば女性のイメージなのだろう.
 だが,もちろん男性の人魚もいる.例えば,ギリシャ神話のポセイドン ( Poseidon ) や息子のトリトン ( Triton ) は人魚と見立てられれることが多い.彼らの類を現代英語では merman 「人魚の男性」と呼ぶのである.だが,この複合語が英語に初めて現れるのは17世紀のことであり,女性の人魚を表す語が古英語から存在したのと比べて,随分おくれているし,とってつけたような語である.やはり,男性の人魚の存在感は限りなく薄い.
 確かにアンデルセンが悲話『人魚坊主』 ( The Little Merman ) を書いていたとしたら,さぞかし売れなかったろうな,と思う.

Referrer (Inside): [2014-02-11-1] [2011-08-29-1]

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2009-08-19 Wed

#114. 初期近代英語の借用語の起源と割合 [loan_word][lexicology][statistics][emode][renaissance]

 [2009-08-15-1]で現代英語の借用語彙の起源と割合をみたが,今回はその初期近代英語版を.といっても,もととなった数値データ(このページのHTMLソースを参照)はひ孫引き.ここまで他力本願だとせめて提示の仕方を工夫しなければと,Flash にしてみた.このグラフは,Wermser を参照した Görlach (167) を参照した Gelderen の表に基づいて作成したものである.

You need to upgrade your Flash Player


 ここでカバーされている時代は,Görlach いわく,"exhibits the fastest growth of the vocabulary in the history of the English language" (136) であり,借用と造語を合わせて,語彙の成長速度がきわめて著しかった時代である.借用元言語としては,予想通りラテン語とフランス語が合計で8割以上となるが,注目したいのはこの時代を通じて着実に成長していたギリシャ語である.
 ルネッサンス ( Renaissance ) のもたらした新しい思想や科学,そして古典の復活により,ギリシャ語やラテン語に由来する無数の専門用語が英語に流入したためである.まさに時代の勢いに比例するかのように,英語の語彙が増大していたのである.

 ・Wermser, Richard. Statistische Studien zur Entwicklung des englischen Wortschatzes. Bern: Francke Verlag, 1976.
 ・Görlach, Manfred. Introduction to Early Modern English. Cambridge: CUP, 1991.
 ・Gelderen, Elly van. A History of the English Language. Amsterdam, John Benjamins, 2006. 178.

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2009-08-18 Tue

#113. 言語は世界を写し出す --- iconicity [iconicity]

 「言語記号は恣意的である」ということは言語学の初歩で学ぶことである.だが,これは主に音と意味の結びつきが自然的・論理的でないことを示しているのであって,形態が連辞的な関係 ( syntagmatic relation ) に並べられる場合には,必ずしも恣意的であるとはかぎらない.形態論 ( morphlology ) や統語論 ( syntax ) においては,ある関係が言語化されるとき,もとの現実世界における関係がそのまま言語の上に影のように反映されるケースがある.この「言語は世界を写し出す」性質を iconicity 「図像性」と呼ぶ.Aitchison によれば,iconicity は次のように説明される.

Languages inevitably shadow the world, and try to retain this shadowing, it is sometimes claimed. That is, they weakly copy certain external figures, a phenomenon known as iconicity. (164)


 具体例として三つの言語現象が挙げられている.

 (1) 複数形は単数形よりも長い形態をもつ.例えば,英語では名詞の複数形に s を付加するが,その分,単数形よりも長くなる.これは,現実世界において単数(一つのもの)よりも複数(二つ以上のもの)のほうが「大きい」ことに対応する.
 (2) 相を示す形態素は,時制を示す形態素よりも密接に動詞語幹に接辞される.例えば,ラテン語の palpitābat "(he/she/it) was throbbing repeatedly" は,動詞 palpō "(I) stroke" に反復を示す it を付加し,さらに未完了過去を示す ba を付加した形態である.ここでは「反復相 + 未完了過去時制」という順序で接辞が加えられており,その逆ではない.反復の動作という動詞の意味が確定してから時制が付与されるというのが,現実の認知に即した順序である.
 (3) Julius Caesar の発したとされる Veni, vidi, vici "I came, I saw, I conquered" は,現実に起こった順番をそのまま言語に写し取った順番になっている.

 このような例を見てみると,iconicity は形態論,統語論,意味論の交差点をとらえており,言語の本質的な作用であるように思えてくる.
 言語変化の観点から iconicity を考えると次のような意義があるのではないか.現実世界の関係を言語化するときに,その関係をそのまま言語へ写し取るのが自然な発想であるとするならば,ある関係---たとえば名詞の単複---が初めて言語化されるときには,複数形は単数形より長い形態として表される可能性が高い.また,その言語で後に単数形や複数形に関して言語変化が起こる際にも,同じ自然な発想により,単数形よりも複数形の方が形態的に長いという関係が維持される可能性が高い.
 iconicity の発想は絶対的な「原理」ではなく,多くの言語にみられる「傾向」にすぎないが,言語の発生および変化に,ある種のパターンを与え得るということは言えそうである.

 ・Aitchison, Jean. Language Change: Progress or Decay. 3rd ed. Cambridge: CUP, 2001.

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2009-08-17 Mon

#112. フランス・ラテン借用語と仮定法現在 [subjunctive][loan_word][lexicology][syntax][lexical_diffusion]

 フランス語やラテン語からの借用語については,これまでの記事でも何度も触れてきた.現代英語の借用語彙全体に占めるフランス・ラテン借用語の割合は実に52%に及び[2009-08-15-1],とりわけ重要な語種であることは論をまたない.起源によって分かれる「語種」は,語彙論,意味論,形態論,音素配列論の観点から取りあげられることの多い話題だが,統語論との接点についてはあまり注目されていないように思う.今回は,フランス・ラテン借用語と仮定法(接続法) ( subjunctive mood ) の関連について考えてみる.
 現代英語には,特定の形容詞・動詞が,後続する that 節の動詞に仮定法現在形を要求する構文がある.

 ・It is important that he attend every day.
 ・I suggested that she not do that.

 このような構文では,that 節内の動詞は,仮定法現在(歴史的にいうところの接続法現在)の形態をとる.現代英語においては,事実上,仮定法現在形は原形と同じであり,be 動詞なら be となる.一般にこのような接続法構文はアメリカ英語でよく見られるといわれる.イギリス英語では,that 節内の動詞の直前に法助動詞 should が挿入されることが多いが,最近はアメリカ英語式に接続法の使用も多くなってきているようだ.また,イギリス英語では,口語では直説法の使用も多くなってきているという.
 いずれにしても,この特徴ある構文を支配しているのは,先行する特定の形容詞や動詞であり,その種類はおよそ網羅的に列挙できる.

 ・形容詞(話し手の要求・勧告や願望などの意図を間接的に示すもの)
  advisable, crucial, desirable, essential, expedient, imperative, important, necessary, urgent, vital

 ・形容詞(適切さを示すもの)
  appropriate, fitting, proper

 ・動詞(提案・要望・命令・決定などを示すもの)
  advise, agree, arrange, ask, command, demand, decide, desire, determine, insist, move, order, propose, recommend, request, require, suggest, urge

 そして,この閉じた語類のリストを眺めてみると,興味深いことに,赤で記した fitting (語源不詳)と ask (英語本来語)以外はいずれもフランス・ラテン借用語なのである.なぜこのように語種が偏っているのか,歴史的な説明がつけられるのか,調査してみないとわからないが,語種と統語論の関係についてはもっと注意が払われてしかるべきだろう.
 語彙拡散 ( Lexical Diffusion ) という理論でも,統語変化を含め,言語の変化は,語彙のレイヤーごとに順次ひろがってゆくことがわかってきている.現代英語の仮定法現在の構文を歴史的に研究することは,言語変化と語種の関係を考える上でも意義がありそうである.

 ・Gelderen, Elly van. A History of the English Language. Amsterdam, John Benjamins, 2006. 106.
 ・Bahtchevanova, Mariana. "Subjunctives in Middle English." SHEL 5 paper. 2005.

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2009-08-16 Sun

#111. 英語史における古ノルド語と古フランス語の影響を比較する [contact][old_norse][french]

 英語は歴史のなかで数多くの言語と接触し、影響を受けてきたが、そのなかでも特に古ノルド語 ( Old Norse ) と古フランス語 ( Old French ) からのインパクトは顕著である.
 古ノルド語は古英語後期から中英語初期にかけて、古フランス語は主に中英語期を中心に、英語に多大な影響を及ぼした.両言語とも現代英語に深い接触の爪痕を残した点では共通しているが、爪痕のタイプは天と地ほど違う.英語史の概説書でも両言語の影響はよく対比されるので、今回は対比ポイントをまとめておきたい.下の表は,英語史における古ノルド語と古フランス語の役割を図式的に対比させたものである.

 古ノルド語古フランス語
影響の顕著な時代後期古英語から初期中英語中英語
影響の始まった地域主に北部・東部から主に南部から
英語との言語的類似大きい小さい
英語との歴史文化的類似大きい小さい
書き言葉としての立場なし確立
影響の及ぼし手の数多い少ない
影響の及ぼし手の階級一般階級上流階級
英語との社会言語学的関係同等上位
相互の意思疎通可能不可能
借用語の数中くらい多い
借用語のタイプ内容語と機能語主に内容語
借用語の難易度主に基本語基本語と難解語
借用語の頻度高い中くらい
借用語の文体口語的文語的
借用語の音節多くは単音節多くは多音節
地名の借用語多い少ない
綴り字への影響少ない多い


 対立を強調するためにいきおい単純化しすぎていることは否定できないが,二言語の影響を対立させてとらえる見方は,全体として妥当だと考える.ただ,あえて共通点は挙げなかったが,人名への影響の大きさなど,両言語ともに英語に大きな影響を与えている点も少なくないことは銘記しておきたい.
 英語史も歴史であり物語であるから、古ノルド語と古フランス語という登場人物に反対の個性をもたせてみるのも,脚本としてはおもしろいだろう.

Referrer (Inside): [2015-10-07-1] [2009-08-31-1]

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2009-08-15 Sat

#110. 現代英語の借用語の起源と割合 [loan_word][lexicology][statistics][pde]

 現代英語の語彙が,世界の諸言語からの借用の上に成り立っていることは,英語史を学んだ者にはよく知られている.英語は歴史上,実に350以上の言語から語を借用してきており,その数は本来語の数よりも多い.
 語彙に関する統計は[2009-06-12-1]でも触れたように,決定版といえるようなものが見つけにくいが,借用語の起源と割合については,OED の第2版で調査した Hughes が参考になる.Hughes を参照して橋本功先生が作成した円グラフと同じものを,本ブログのためにリメイクしてみた.現代英語における借用語彙の全体を100%としたときの,各借用元言語の貢献の割合を示したものである.

Origins of PDE Loanwords


 フランス語とラテン語からの借用語については,言語的に類似している(親子関係にある)ため,どちらから入ったか区別のつかない例も多く,フランス・ラテン借用語としてまとめて扱われることが多い.足し算すると,英語の借用語のうち,実に52%がフランス・ラテン借用ということになる.英語の語彙に与えた両言語の影響の大きさは,この数値から容易に理解されよう.

 ・橋本 功 『英語史入門』 慶應義塾大学出版会,2005年. 90頁.
 ・Hughes, G. A History of English Words. Oxford: Blackwell, 2000.

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2009-08-14 Fri

#109. 比較言語学のロマン --- Tocharian (2) [indo-european][comparative_linguistics][tocharian][map][buddhism]

 [2009-08-06-1]の記事で,100年ほど前に,印欧語族の centum グループに属すると証明されたトカラ語 ( Tocharian ) について簡単に触れた.トカラ語について,少し調べてみた.
 1890年代に紀元6〜8世紀のものとされるトカラ語の記された仏教文献が,中国の新疆ウイグル自治区 ( Uygur Autonomous Region of Xinjiang ) で発見された.(新疆ウイグル自治区といえば,一ヶ月ほど前に大規模暴動があったばかりなので記憶に新しいだろう.)
 この地では,現在では主としてアルタイ語族 ( Altaic ) のチュルク語派 ( Turkic ) の言語であるウイグル語 ( Uighur ) が話されている.どうも,このウイグル語が10世紀くらいまでにトカラ語を滅ぼしたようだ.
 この地からのトカラ語文献の発見は,かつてここに印欧語族の担い手が居住していたことを示唆し,歴史的に大変に興味深い発見であるが,比較言語学的にも同じくらい興味深い疑問を提供してくれている.その一つは,印欧語圏では最も「東」に位置していながら,言語的には「西」的な特徴を示す centum グループに属していることである.語彙的には satem グループのイラン語派やサンスクリット語の影響を受けていながらも,音韻的には明らかに centum グループと関連づけられることは,「百」を表す語が Tocharian A では känt,Tocharian B では kante であることからも知られる([2009-08-05-1]).だが,centum グループのどの語派と類縁関係があるのかはよくわかっていない.

Despite its historical position on the eastern frontier of the Indo-European world and the obvious lexical influence of Indo-Aryan and Iranian, Tocharian seems more closely allied linguistically with languages of the Indo-European northwest, particularly Italic and Germanic, in the matter of common vocabulary and certain verbal categories. To a lesser extent Tocharian appears to share certain features with Balto-Slavic and Greek. ( Tocharian languages. Encyclopaedia Britannica. Encyclopaedia Britannica 2008 Ultimate Reference Suite. Chicago: Encyclopaedia Britannica, 2008. )


 上に挙げた Tocharian A,Tocharian B というのは,それぞれ別名で East Tocharian,West Tocharian と呼ばれるが,タリム盆地 ( Tarim Basin ) の東に位置するトルファン ( Turfan ) と西に位置するクチャ ( Kucha ) のそれぞれで発見された文書の言語に与えられた暫定的な名称である.下の地図は,Turfan と Kucha のおよその位置を示したものである.

Turfan and Kucha

 Tocharian A と B は互いに方言関係にあるとも言われるが,別の有力な説によれば,A は仏典にのみ用いられ言語的に体系化されているため仏典用の文語であり,B は仏典以外の商用文書にも用いられていることから口語であるともされる.A で書かれた写本と B で書かれた写本が合わせて東の僧院から発見されており,これは西側出身の僧が,古い教えの上に乗る形で,新しい布教を主導した可能性を示唆する.
 一つの発見によって,様々な角度から検証が加えられ,少しずつ歴史が解明されてゆく.まさに,比較言語学のロマンである.

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2009-08-13 Thu

#108. 逆成の例をもっと [back_formation]

 [2009-08-11-1], [2009-08-12-1]逆成 ( back-formation ) の話題を取りあげた.逆成のタイプは数種類あるが,editorburglar などのように,行為者接辞 -er, -ar, -or が差し引かれるタイプをいくつか挙げてみよう.語源辞典より初出年も添えておく.

動詞初出年行為者名詞初出年備考
baby-sit1947baby-sitter1937 
beg?a1200beggar?a1200 
bulldoze1876bulldozer1876 
burgle1872burglar1541 
commute1889commuter1865「定期券で通勤する」の意で
edit1793editor1712「編集する」の意で
peddle1532pedlarc1378 
scavengea1644scavenger1530 
sight-see1835sight-seeing1824 
swindle1782swindler1774 
type-write1887type-writer1868 


 begbulldoze などは,初出年は対応する行為者名詞と同じである.このような場合,どちらが先に立つかは,同じ年でも日付が異なるとか,文脈から判断されるとかいうことなのだろうが,そもそも文献に現れるタイミングと実際に口語で使われはじめるタイミングは一致していないことも多いので,初出年は常に参考として読むべきである.ちなみに,初出年に現れる省略記号の "a" は ante 「〜より以前」を,"c" は circa 「〜頃」を表す.
 日本語にも逆成の例はいろいろとあるはずである.「狂い咲き」→「狂い咲く」,「待ち伏せ」→「待ち伏せる」など.他に何があるだろうか?

Referrer (Inside): [2010-09-08-1]

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2009-08-12 Wed

#107. 逆成接辞変形 [back_formation][affixation][metanalysis][word_formation]

 昨日の記事[2009-08-11-1]で,「エロ」は「エロチック」からの逆成 ( back-formation ) の例かもしれないと述べた.逆成とは,ある語の語尾を接尾辞や屈折語尾と混同し,それを除去することで語を形成する作用である.多くの場合,異分析 ( metanalysis ) と類推 ( analogy ) も同時に起こっており,過程を説明しようとすると複雑なのだが,例を見ればすぐに理解できるし,実際に頻繁に起こっている語形成 ( word formation ) である.
 [2009-08-11-1]では editor > edit の例をみたが,今日は説明に burglar > burgle を取りあげてみる.burglar 「強盗」は,ラテン語に語源をもつが,直接的にはアングロ・フレンチ ( Anglo-French ) から burgler という形で16世紀に英語に借用された.その後19世紀に,語尾の -ar は行為者を示す語尾であると異分析され,それを差し引けば動詞ができるはずだとの発想から burgle 「強盗する」という動詞が逆成された.もっとも,-ar が行為者の接尾辞であるとした部分は,語源的には必ずしも誤解ではないかもしれない.直前の l も含め,語源的にはよく分からない語尾なのである.だが,それを全体から差し引くという発想が革新的だった.この発想の背後には,動詞 + -ar として行為者名詞が派生される例が英語に存在するという事実に基づく類推 ( analogy ) の作用があったと考えてよい.ex. beggar, liar, pedlar.
 比例式で表現すると次のようになる.

 lie : liar = X : burglar  ゆえに
 X = burgle


 lie > liar というごく自然な順序の派生は接辞変形 ( affixation ) と呼ぶが,back-formation はその反転の作用といっていいだろう.
 ちなみに,back-formation という用語自体は OED の編集主幹 J. A. H. Murray の造語で,上記の burgle の語源説明に用いたのが最初である(1889年).ただし,back-formation から逆成されてしかるべき back-form という動詞は,いまだ OED にも登録されていない・・・.

Referrer (Inside): [2010-09-08-1] [2009-08-13-1]

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2009-08-11 Tue

#106. 「エロ」と「エステ」は逆成か切り株か [japanese_english][back_formation][metanalysis][clipping][waseieigo]

 昨日の記事[2009-08-10-1]で,日本語に入った「チック」語を『広辞苑』から列挙してみたが,そのなかで,語形成 ( word formation ) について気になる語が二つあった.「エロチック」 erotic と「エステティック」 Ästhetik (German) である.後者はもちろん英語にも aesthetic という対応語がある.
 erotic はギリシャ神話の恋愛の神 Eros 「エロス」に接尾辞 -ic を付加して派生させた形容詞である.ところが,日本語では -ic ではなく「チック」「ティック」を接尾辞として異分析して切り出した([2009-08-02-1], [2009-08-03-1], [2009-08-10-1]).この異分析を「エロティック」「エステティック」に当てはめると,基体はそれぞれ「エロ」と「エステ」となる.そして,この基体はいずれも英語には存在しないため,結果として和製英語となっている.数式風に表現すると次のようになる.

 ・「エロティック」 - 「ティック」 = 「エロ」
 ・「エステティック」 - 「ティック」 = 「エステ」


 この引き算の部分は,語形成の立場からは二通りの考え方があるように思われる.一つは,逆成 ( back-formation ) である.普通は,基体が先にあって,その基体に -ic などの派生接辞を付加して新しく語を形成するという順序になるが,こうした派生パターンがいったん確立すると,先に派生語とおぼしき語が現れ,そこから逆の順序で基体が復元的に形成されるという事態が生じる.英語の有名な逆成の例に editor > edit がある.この名詞と動詞のペアについては,行為者を表す接尾辞 -or が付加された editor が先に生じ,そこから -or を差し引いて動詞 edit が作られた.普通からすると順序が逆の語形成なので,逆成というわけである.この考え方でいけば,「エロ」「エステ」は日本語において異分析と逆成の両過程を経た結果の語ということになる.
 もう一つの考え方は,切り株 ( clipping ) と呼ばれる省略が起こっているとするものである.切り株とは,語の一部を切り取るタイプの省略のことである.「エロティック」「エステティック」では長いので,後半部分は省略してしまおうということで,「エロ」「エステ」という省略語ができたとする考え方である.日本語は切り株が得意なので,十分にこの解釈もとりうる.
 上記の二つの考え方のいずれか,あるいは両方が掛け合わされたという説明もありうるが,いずれにせよ,借用語の「エロティック」「エステティック」から日本語の語形成過程を経て「エロ」「エステ」が生まれた.だが,話しはそこで止まらない.「エロ」「エステ」は一人前の語として一人歩きをはじめ,各種の複合語を生み出し続けている.「エロ小説」「エロ本」「エロ漫画」「エログロ」「韓国エステ」「花嫁エステ」「耳かきエステ」等々.
 そして,「エロ」に至っては,なんと日本語では珍しい外来語を基体にもつ形容詞「エロい」が生まれた!快挙である.(ちなみに「グロい」も.)
 日本語話者の性と美 (←エロスの世界)を追及する心のなせるわざか,日本語の語形成力のなせるわざか,こうして日本語の語彙は豊かになってゆく・・・.

Referrer (Inside): [2009-08-13-1] [2009-08-12-1]

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2009-08-10 Mon

#105. 日本語に入った「チック」語 [japanese_english][hybrid][suffix][metanalysis]

 [2009-08-01-1], [2009-08-02-1]の記事で,日本語化した接尾辞「チック」について書いた.ギリシャ語から英語に借用された接尾辞はあくまで -ic であり,それを日本語で「チック」と切り出したのは異分析 ( metanalysis ) が働いたためだと述べた.また,なぜ分析を誤ったのかについては,drama 「ドラマ」: dramatic 「ドラマチック」などの,日本語としても英語としてもよく知られた語のペアがモデルになった可能性があると指摘した.
 今回は,あらためて「チック」を含む日本語の単語がどれくらいあるか調べてみた.以下は,CD-ROM版『広辞苑』第六版で後方検索をかけ,得られたリストを整理したものである.「チック」「ティック」の他,英語で -s を付加して名詞化した「チックス」「ティックス」でも例を拾ってみた.大方は借用語なので,その場合には借用元言語(ほとんどが英語)での綴りも付しておいた.ギリシャ語の接尾辞に由来しない「チック(ティック)」語は省いてある ( ex. 「メモリースティック」「ブティック」 ).

「アクロバチック」 acrobatic, 「アスレチックス」 athletics, 「アタクチック」 atactic, 「アリストクラティック」 aristocratic, 「イソタクチック」 isotactic, 「エキゾチック」 exotic, 「エゴイスティック」 egoistic, 「エステティック」 Ästhetik (German), 「エラスティック」 elastic, 「エロチック」 erotic, 「オートマチック」 automatic, 「カイロプラクティック」 chiropractic, 「コスメチック」 cosmetic, 「ゴチック」 gothique (French), 「サイバネティックス」 cybernetics, 「システマチック」 systematic, 「シンジオタクチック」 syndiotactic, 「ジャーナリスティック」 journalistic, 「スケプチック」 sceptic, 「スタティック」 static, 「セマンティックス」 semantics, 「タクティックス」 tactics, 「デモクラティック」 democratic, 「ドグマチック」 dogmatic, 「ドメスティック」 domestic, 「ドラスティック」 drastic, 「ドラマチック」 dramatic, 「ニヒリスティック」 nihilistic, 「バイオミメチック」 biomimetic, 「パセティック」 pathetic, 「パワーポリティックス」 power politics, 「ヒューマニスティック」 humanistic, 「ヒューリスティックス」 heuristics, 「ファナティック」 fanatic, 「ファンタスティック」 fantastic, 「フィールドアスレチック」 field athletics, 「フォネティックス」 phonetics, 「プラスチック」 plastic, 「ペシミスティック」 pessimistic, 「ペダンチック」 pedantic, 「ホリスティック」 holistic, 「ポリティックス」 politics, 「マグネチック」 magnetic, 「漫画チック」, 「ミスティック」 mystic, 「メルヘンチック」, 「リアリスティック」 realistic, 「ロジスティックス」 logistics, 「ロマンチック」 romantic


『広辞苑』に掲載されているものだけでも49語ある.日本語の「チック」切り出しのモデルとなった可能性のある drama -- dramatic と同じタイプとしては,dogma -- dogmaticmime -- mimetic がある.メルヘンチックについてはドイツ語と英語の混種語 ( hybrid ) であることは[2009-08-02-1]で触れた.日本語との hybrid としては,「乙女チック」をさしおいて,「漫画チック」が『広辞苑』に掲載されている唯一の例である.
 和製の hybrid である「メルヘンチック」や「漫画チック」を除いて「チック」語が20個,「ティック」語が27個である.近年は日本語でも「ティック」の発音が自然になってきているので,今後,接尾辞「チック」あらため接尾辞「ティック」が日本語に定着する日も遠くないのかもしれない.

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2009-08-09 Sun

#104. hundredヴェルネルの法則 [grimms_law][verners_law]

 一作日の記事[2009-08-07-1]で,hundred ( OE hund ) の語頭子音 /h/ は印欧祖語 の */k/ がグリムの法則により発達した音であることを示した.一方,印欧祖語の *kmtom はラテン語へは centum として伝わっており,/k/ 音は保たれている.
 昨日の記事で解説したように,グリムの法則は一連の子音変化を定式化したものであり,Indo-European */k/ > Germanic */h/ の変化はそのうちの一つに過ぎない.昨日は,グリムの法則では全部で9音の変化が起こったと説明したが,マイナー・ヴァリエーションである kw, gw, gwh の3音を含め,12音の変化としてまとめると次のようになる.

 ・IE */p/ > Gmc */f/
 ・IE */t/ > Gmc */θ/
 ・IE */k/ > Gmc */x/ or */h/ (in initial position)
 ・IE */kw/ > Gmc */xw/ or */hw/
 ・IE */b/ > Gmc */p/
 ・IE */d/ > Gmc */t/
 ・IE */g/ > Gmc */k/
 ・IE */gw/ > Gmc */kw/
 ・IE */bh/ > Gmc */b/
 ・IE */dh/ > Gmc */d/
 ・IE */gh/ > Gmc */g/
 ・IE */gwh/ > Gmc */g/ or */w/

 グリムの法則は例外なき完璧な適用性を売りにしているわけだが,そのわりには早速 hund に例外が生じているのに気づく.hund の語頭の /h/ が印欧祖語の */k/ に対応するのはグリムの法則の通りだが,語尾の /d/ はどうか.ゲルマン語で /d/ になるには,もとの印欧祖語では */dh/ でなければならないが,再建された印欧祖語の形は,上で見たとおり */t/ である.逆から見れば,印欧祖語の */t/ ならば,グリムの法則によりゲルマン語 */θ/ になるはずだが,実際 にhund に現れる子音は /d/ である.つまり,印欧祖語の */t/ と(古)英語の /d/ はグリムの法則では対応し得ないはずだ.この法則の例外にはグリム自身も気づいていたようだが,説明できなかったからか,ノーコメントだった.
 ところが,1875年にデンマーク人学者の Karl Verner が,この例外を説明する別の法則の存在に気づいた.それが,ヴェルネルの法則 ( Verner's Law ) と呼ばれているものである.hund のケースに当てはめてヴェルネルの法則を解釈すると,「アクセントが先行しない,有声音にはさまれた環境における /t/ は,グリムの法則の予想する /θ/ にはならず,それが有声化した音である /ð/,さらにはそれが脱摩擦音化した */d/ となる」.
 印欧語の *kmtom では,アクセントは最終音節にあったとされ,t から見れば,アクセントは直前でなく直後にあることになる.また,t は有声音に挟まれてもいる.ということは,グリムの法則は適用されず,むしろヴェルネルの法則が適用される環境である.ヴェルネルの法則に従えば,印欧祖語の /t/ はゲルマン語では最終的に /d/ となるが,実際に hund の語尾には /d/ が現れている.
 ざっと以上のような理屈で,グリムの法則の「例外」が,ヴェルネルにとっては別の法則の適用例に他ならないと宣言されたのである.hund(red) の語源を探る営みは,グリムやヴェルネルの発展させてきた印欧語比較言語学の研究史を振り返ることに他ならない.たかが hundred の語源と思うなかれ,そこには長く深い研究史がある.

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2009-08-08 Sat

#103. グリムの法則とは何か [consonant][grimms_law]

 昨日の記事[2009-08-07-1]で,hundred を例としてグリムの法則 ( Grimm's Law ) を簡単に説明した.今後もいろいろと話題にすることがあると思うので,今回はもう少し丁寧に解説を.
 グリムの法則ヴェルネルの法則 ( Verner's Law ) とあわせて,第一次ゲルマン子音推移 ( First Germanic Consonant Shift ) と呼ばれ,紀元前1000〜400年あたりにゲルマン語派が経た一連の音声変化を定式化したものである.「法則」というくらいだから,例外なき完璧な適用性を売りにしており,確かにその信頼性は高い.一見するとグリムの法則の例外に思えるものも,ヴェルネルの法則によって改めて説明することができるなど,二つの法則を合わせると,まさに「音韻法則に例外なし」と謳いたくなるような芸術的完璧さである.昨日[2009-08-07-1]hund(red) -- centum の例では,Indo-European */k/ > Germanic */h/ の子音変化が起こったことを確認したが,これはグリムの法則を構成する一連の変化の一例に過ぎない.
 グリムの法則の示す子音変化は,印欧祖語の「閉鎖音」の系列に生じた.閉鎖音は破裂音とも呼ばれ,口の中のどこかで呼気を一度せきとめ,それを勢いよく開け放つ(破裂させる)ときに発せられる子音である([2009-05-29-1]の子音表を参照).印欧祖語では,閉鎖音系列は次のような体系をなしていた.

Indo-European Stops

 印欧祖語では,最右列の3音を除き,全部で9音の閉鎖音があった.隣り合う列どうしは,調音様式が互いに少しだけ異なっているだけで,調音音声学的には非常に近い関係にある.例えば左上の bh は,「帯気」を「無気」に変化させる(呼気を弱める)ことによって簡単に b になる.そして,その b は,「有声」を「無声」にすれば(清音にすれば)すぐに p になる.さらに,その p は「破裂」(「閉鎖」に同じ)を弱めて「摩擦」化すれば f となる,等々.
 子音組織はこのように体系的であるから,それが変化するときにも体系的な変化の仕方を示す.次の図は,グリムの法則を経た後のゲルマン祖語の閉鎖音系列である.

Germanic Stops

 印欧祖語の閉鎖音の表とほぼ同じだが,ゲルマン祖語の閉鎖音系列は,最左列の3音を除いた9音で構成されていた.二つの表を見比べればわかるとおり,グリムの法則とは,各列の音がすぐ右の列の音へ規則正しく変化した過程に他ならない.
 「変化の仕方が体系的だった」ことはこれで分かったと思うが,変化の順序はどうだったろうか.3列すべてがイッセーノーセッで右列に移行したわけではなく,右端から順番に起こったことが分かっている.すなわち,まず印欧祖語の右列 p t k が f θ h へ変化し,その次に中列の b d g が今や空席となった p t k のスロットを埋めた.そして最後に,左列の bh dh gh が今や空席となった b d g のスロットを埋めた.これを図示すると以下のようになる.

Grimm's Law: Cyclic Model

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2009-08-07 Fri

#102. hundredグリムの法則 [etymology][grimms_law][verners_law]

 [2009-08-05-1]で,hundred という語(の祖先)が英語史および印欧語比較言語学において二つの意味で重要であると述べた.一つは印欧語を satem -- centum の二グループに大別する際のキーワードとして,もう一つは グリムの法則 ( Grimm's Law ) と ヴェルネルの法則 ( Verner's Law ) の代表例としてである.今回はグリムの法則に触れる.
 グリムの法則とは,紀元前1000〜400年あたりに起こったとされる一連の体系的な子音変化である.印欧祖語がゲルマン祖語へ発達してゆく過程で生じた子音変化であり,その効果はゲルマン語派においてのみ見られ,イタリック語派など他の語派には見られない.英語史上,大母音推移 ( Great Vowel Shift ) と並んで音声変化の双璧をなすが,実は英語が英語になるはるか前の出来事である.それでも,現代英語に見られる father -- paternal などの類義語ペアの関係を見事に説明することができ,ある意味で現代にまで息づいている音声変化である.単なる音声変化でありながら「法則」の名が付いているのは,無条件にかつ例外なく作用したためで,その完璧さは芸術的なまでである(だが,実は「ほぼ」完璧であり,但し書きの条件はある).
 この法則はデンマーク人学者 Rasmus Rask が1818年に発見したが,ドイツ人学者 Jacob Grimm が1828年に詳細に論じたことで知られるようになり,Grimm's Law と呼ばれるようになった.この Jacob Grimm は『グリム童話』で有名なグリム兄弟の兄と同一人物である.
 さて,グリムの法則として知られる一連の子音変化の一つに,「印欧祖語の語頭の */k/ はゲルマン諸語では /h/ となる」というものがある(以下,慣例に従って,再建形には * をつける).「百」は印欧祖語では *kmtom という形態だったが,語頭の */k/ は英語を含むゲルマン語では /h/ になった.一方,ゲルマン語派の言語ではないラテン語ではこの子音変化は起こらなかったため,/k/ が保たれている.その結果,古英語では hund /hʊnd/,ラテン語では centum /kentum/ へと発展した.英語では「数」を示す接尾辞 -red が付加されて hundred が生じ,一方,ラテン語からは centum から派生した cent, centigrade, centimeter, centiped, centurion, century などの単語が,フランス語経由で英語に借用された.ラテン語の /k/ はフランス語では前舌母音の前で /s/ となったので,英語でもこれらの単語はすべて /s/ で始まる.
 以上の経緯により,現代英語では,グリムの法則を経た hundred と,グリムの法則を経ていないラテン語からの(フランス語経由の)借用語である cent などが並び立つ状況が生じている.
 以上の経緯を図示してみた.

centum and hund(red)

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2009-08-06 Thu

#101. 比較言語学のロマン --- Tocharian と Anatolian [indo-european][comparative_linguistics][tocharian][hittite][buddhism]

 昨日の記事[2009-08-05-1]で,印欧語族が satem グループと centum グループに大きく二分されることを紹介した.centum グループは英語を含めたヨーロッパの主要言語の大半を含むグループだが,語派の名前としてリストアップした Tocharian 「トカラ語派」と Anatolian 「アナトリア語派」は聞き慣れないのではないだろうか.実際に,本ブログでかつて掲載した印欧語の系統図([2009-06-17-1]Flashで遊べる図)にも,この二つの語派は含まれていない.
 実は,この二つの語派は比較的最近になってから発見され,新たに印欧語族の仲間入りを果たした新参者である.トカラ語は,19世紀末に発見された紀元6〜8世紀のものとされる仏教論文のなかで,サンスクリット語 ( Sanskrit ) と並んで筆記されていた言語である.発見された場所は,なんと現在の中国の新疆地区である.発見された当初は,何語か見当もつかなかったようだが,後の研究でこの言語は正式に印欧語族の一員,特に centum グループの一員であることが証明された.だが,その子孫となる言語は現在では存在せず,そもそもどんな人々が話していたのか,いまだに分かっていない.そして何よりも興味深いのは,明らかに地理的には「東」に位置するが,比較言語学的には「西」の centum グループに属することである.従来の satem -- centum という印欧語族の二大区分に一石を投じることになるのか,あるいはもともと西に分布していたトカラ語の担い手が東へ民族移動したということなのか.比較言語学,歴史学,考古学を巻き込んでの謎解きが始まっている.
 アナトリア語派についていえば,最も有名な言語は,古代ヒッタイトの言語たるヒッタイト語 ( Hittite ) だろう.20世紀初頭,現在のトルコのボガズキョイ(古代ヒッタイトの首都)にて,セム語族に属するアッカド語 ( Akkadian ) とともに,粘土板にくさび形文字で記された言語が発見された.この言語は,後に centum グループの印欧語であることが証明された.古代ヒッタイトは紀元前1900〜1200年頃に栄えた王国であり,これほど古い段階の印欧語の証拠が文書として現存している例は他にない.
 ヒッタイト語では「水」を <wa-ta-ra> と表記していたという.これまた驚きだ.比較言語学の知見がもたらすロマンの世界を垣間見た気がする.

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2009-08-05 Wed

#100. hundred と印欧語比較言語学 [indo-european][family_tree][comparative_linguistics][reconstruction][grimms_law][verners_law]

 本ブログの記事も100本目となった(お知らせ記事noticeも含めてだが).そこで,今日は hundred にまつわる話題をとりあげたい.この語(の祖先)は,英語史において,また印欧語比較言語学において,かなり有名にして重要な語である.重要性は二つある.一つは印欧語族の二大区分のキーワードとして,もう一つは グリムの法則 ( Grimm's Law ) と ヴェルネルの法則 ( Verner's Law ) の代表例としてである.今回は,印欧語族の二大区分について話をする.
 印欧語族の系統図については,[2009-06-17-1]Flashで遊べる図を見ていただきたい.印欧語族に属する言語の話者は世界総人口の4分の1を占めるとされるが,それだけに,属する言語や方言の数も多い.上で紹介した系統図では印欧祖語を8語派に分けているが,もっと大雑把には二つのグループに大別される.大別された二つの言語群は,satem グループと centum グループと呼ばれている.
 目下のところ有力な説によれば,印欧祖語は南ロシアのステップ地方に起源がある.そこから東西南北,インドからアイスランドに及ぶ広大な範囲へ拡散し,各地で次々と方言化し,現在の諸言語の祖先が生まれたとされる.この広大な範囲において大雑把に東側に分布する言語群が satem グループ,西側に分布する言語群が centum グループである.語派の名前で整理すると以下のようになる.

 ・Satem languages: Albanian, Armenian, Balto-Slavic, Indo-Iranian
 ・Centum languages: Tocharian, Anatolian, Hellenic, Italic, Celtic, Germanic

我々になじみの深いヨーロッパの諸言語は,英語を含めて大部分が centum グループに属する.
 さて,グループ名になっている satem と centum という語は何かというと,Indo-Iranian 語派に属するアヴェスター語 ( Avestan ) と Italic 語派に属するラテン語 ( Latin ) でそれぞれ「百」を表す語である.この語をもって,それぞれのグループを代表させるのが印欧語比較言語学の慣習である.
 Avestan はゾロアスター教 ( Zoroastrianism ) の聖典の言語で,紀元前6世紀くらいにさかのぼるが,現在にまで直接につながる子孫の言語は残っていない.Avestan を含む satem グループの言語では,印欧祖語の /k/ は音声環境に応じて,/k/ と摩擦音化した /s/ などへ分化した.しかし,Latin を含む centum グループの言語では,印欧祖語の /k/ は分化せずに保たれた.印欧祖語の /k/ が摩擦音化による分化を経たか経ないかによって,印欧語族が大きく東か西へ二分されるという考え方である.
 もちろん,その後の各言語での音声変化の結果,centum グループの言語であっても /k/ が /h/ へ変化した英語 ( ex. hundred ) や,/s/ へ変化したフランス語 ( ex. cent ) などの例はあるが,それはあくまで印欧語族が二分された時代よりもずっと後の出来事である.比較言語学の理論的な再建 ( reconstruction ) に従えば,satem と centum の対立は信頼できる区分法である.

 ・Brinton, Laurel J. and Leslie K. Arnovick. The English Language: A Linguistic History. Oxford: OUP, 2006. 96--104.

(後記 2010/05/30(Sun):本記事で「印欧語族に属する言語の話者は世界総人口の4分の1を占める」と述べたが,[2010-05-30-1]の記事で書いたように,Ethnologue によればほぼ 1/2 を占めるという.)

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2009-08-04 Tue

#99. 生産的な接頭辞 neo- [japanese_english][affix][etymology][compound][productivity][greek]

 先日,小学館の図鑑 NEOシリーズの第1期16巻を一式購入した.図鑑は見ているだけで飽きない.『魚』の巻ではウナギと穴子の見分け方を,『鳥』の巻ではフクロウの左右の耳の位置が異なることを知り,ウームとうならされた.子供の頃に眺めていた図鑑は小学館だったか学研だったか忘れたが,新しい世代に向けて改訂が進み,今「NEOシリーズ」が一式出そろった.昔に比べ,内容も格段に充実している.
 この「NEO(ネオ)」という接頭辞だが,日本語にも定着してきた観がある.『広辞苑』第六版でも「ネオ」の見出しがある.

(ギリシア語で「新しい」意の neos から) 「新しい」の意を表す接頭語.「―‐ロマンティシズム」


 「ネオ」を用いた複合語としては,広辞苑には次のような語がエントリーされている.「ネオ‐アンプレッショニスム」 néo-impressionnisme, 「ネオ‐クラシシズム」 neo-classicism, 「ネオ‐コロニアリズム」 neo-colonialism, 「ネオ‐コン」 neo-con(servatism), 「ネオ‐サルバルサン」 Neosalvarsan (ドイツ語), 「ネオジム」 Neodym (ドイツ語), 「ネオ‐ダーウィニズム」 neo-Darwinism, 「ネオ‐ダダ」 Neo-Dada, 「ネオテニー」 neoteny, 「ネオ‐トミズム」 neo-Thomism, 「ネオ‐ナチズム」 neo-Nazism, 「ネオピリナ」 Neopilina (ラテン語), 「ネオ‐ファシズム」 neo-fascism, 「ネオ‐ブッディズム」 Neo-Buddhism, 「ネオプレン」 Neoprene, 「ネオ‐マーカンティリズム」 neo-mercantilism, 「ネオマイシン」 neomycin, 「ネオ‐ラマルキズム」 neo-Lamarckism, 「ネオ‐レアリスモ」 neorealismo (イタリア語), 「ネオロジズム」 neologism, 「ネオン」 neon, 「ネオン‐サイン」 neon sign, 「ネオン‐テトラ」 neon tetra, 「ネオン‐ランプ」 neon lamp.よく知らない語が多い.
 借用元言語が英語だけではないことから,neo- という接頭辞はヨーロッパ諸語に広がっていることが推測される.そして,日本語でも「小学館の図鑑 NEOシリーズ」のように使われ出しており,接頭辞としての生産性はグローバル化しているのかもしれない.英語では OED の検索によれば neo で始まる英単語は326個ヒットした.
 neo- の起源は,ギリシャ語の néos "new" である.究極的には印欧祖語の *newo- "new, young" にさかのぼり,英語の new と同根である.neo- の英語での接頭辞としての歴史は浅く,19世紀後半から本格的に使われ出し,現代まで生産性を拡大させ続けている.
 対応するラテン語は novus "new" で,ここから派生して英語に借用された語も,以下の通りいくつかある.

innovate, innovation, nova, novel, novelty, novice, renovate, renovation

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2009-08-03 Mon

#98. 「リック」や「ニック」ではなく「チック」で切り出した理由 [japanese_english][suffix][metanalysis][soed][waseieigo]

 昨日の記事[2009-08-02-1]で,和製英語化した借用接尾辞「チック」が異分析であることを示した.日本語の音節構造からすれば,dramatic から語源的に正しい接尾辞 -ic をそのまま「イック」として切り出すことは確かに難しいだろう.日本語では,子音と母音の間で音を分割する発想がないので,「ドラマ+チック」と切り出すのが自然であることは理解できる.あまつさえ,「ドラマ」という語が,英語にも,そこから借りてきた日本語にも存在するわけで,この切り出し方はごく自然ともいえる.
 だが,[2009-08-02-1]でも述べたように,ギリシャ語から英語に入った借用語をみると,-ic の直前に来る音は t に限らず,あらゆる子音や母音が来ることができる: archaic, aerobic, silicic, Indic, onomatopoeic, terrific, nostalgic, Turkic, Gaelic, cosmic, electronic, heroic, geographic, Olympic, generic, basic, Gothic, Slavic, toxic
 これだけ豊富な可能性があるのだから,「チック」ではなく「リック」「ニック」「ミック」「フィック」などで切り出す可能性もあり得たのではないかという疑問が生じる.この疑問に対する一つの答えとしては,drama --- dramatic に見られるように,t が語幹末の子音として隠れたり現れたりすることがあるというギリシャ語特有の形態論がある.
 もう一つの答えは,頻度にあるかもしれない.CD-ROM版の New Shorter Oxford English Dictionary (ver. 1.0.03) で,-ic の直前に様々な子音や母音を入れ,"*tic" のようにワイルドカード検索してみた.円グラフでまとめると下図のようになった.

-ic Words in NSOED

 -tic は全体の36.6%を占めることがわかった.日本語として接尾辞を切り出すとき,この頻度がどれだけ影響したかは確かめようがないが,耳に触れる機会が圧倒的に多い「チック」で終わる英単語が第一に参照された可能性はありそうである.
 円グラフのソースとなるデータファイルを参照したい方はこちら

Referrer (Inside): [2011-09-16-1] [2009-08-11-1]

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2009-08-02 Sun

#97. 借用接尾辞「チック」 [japanese_english][hybrid][suffix][metanalysis]

 昨日の記事[2009-08-01-1]hybrid を取りあげ,最近日本語ではやっている接尾辞「チック」に言及した.「乙女チック」あたりが口語では有名だが,まだ国語辞典には掲載されていない.しかし,語幹部に和語がきているので,歴とした hybrid の例である.
 おもしろい例としては,語幹部にカタカナ語がきており「チック」をつけてできあがった語が英語には存在しない語となる例,つまり和製英語の例がある.「アダルトチック」は対応する *adult(t)ic なる英単語は存在しないし,「メルヘンチック」の「メルヘン」はそもそもドイツ単語 ( Märchen ) である.今後も少なくとも口語においては,「チック」を接尾辞としてもつ混種語や和製英語がどんどん生まれてくるのではないか.
 さて,「チック」は英語から借用した接尾辞と考えられているが,究極の起源はギリシャ語である.だが,そもそもおかしいのは,ギリシャ語にも,そこから借用した英語にも,-tic なる接尾辞は存在しないことである.形容詞を派生させる接尾辞はあくまで -ic であり,厳密に語源を参照すれば t は先行する語の語幹の一部にすぎないことがわかる.例えば,dramatic を形態素に分析すると dramat + ic であり,drama + tic ではない.確かに,drama という単語が存在するので t は語幹の一部でないように見えるが,ギリシャ語の屈折を参照すれば drama(t) が語幹である.この場合,語幹の一部としての t は屈折によって現れたり隠れたりするだけである.
 同様に,aromatic ( cf. aroma ), Asiatic ( cf. Asia ), cinematic ( cf. cinema ) などでも,対応する名詞の語幹に t が含まれていないので aroma + tic などと分析したくなるが,名詞形において t が語幹の末尾に現れていないだけである.それに対して,対応する名詞の語幹に t が最初から現れている次のような例は分析しやすい.acrobatic ( cf. acrobat ), poetic ( cf. poet ) , romantic ( cf. romaunt ) 等々.
 -tic ではなく -ic が正しい接尾辞であることは,t 以外の音が -ic に先行する無数のギリシャ語起源の借用語で確認できる.eccentric, economic, encyclopedic, ethnic, music, pelvic, photographic, tragic 等々.
 日本語の「チック」は,dramatic などの(ギリシャ語起源の)英単語を参照して異分析 ( metanalysis ) を施した結果として切り出された和製英語接尾辞だが,なぜ「ニック」や「リック」などではなく「チック」と切り出したのだろうか.やはり t が語幹の裏に隠れてしまっている dramaaroma などの例で惑わされたのかもしれない.
 いずれにせよ,異分析の結果,新しい和製英語の道具が生じ,静かに普及してきた.今後,どんな新語・珍語が飛び出してくるか楽しみである.

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2009-08-01 Sat

#96. 英語とフランス語の素材を活かした 混種語 ( hybrid ) [hybrid][suffix][french]

 歴史上,多くの言語接触を経てきた英語には,語幹と接辞の語種の異なる派生語が多数存在する.このような語を混種語 ( hybrid ) というが,典型的なのは, (1) 語幹はフランス語だが接辞は本来語,(2) 語幹は本来語だが接辞はフランス語,の二通りのタイプである.以下の例では,フランス語部文を赤のイタリックにしてある.

 (1) colourless, commonly, courtship, dukedom, faintness, faithful, noblest, peacefully, preaching
 (2) enlightenment, fishery, goddess, hindrance, loveable, mileage, murderous, oddity

 (1) のタイプは14世紀ころから,(2) のタイプは14世紀後半ころから見られるようになった.特に (2) のタイプは,大量のフランス借用語に慣れてこその習慣と考えられるから,フランス語との接触が本格的に始まった12世紀以降,かなりの時間を経たのちに出現してきたということはうなずける.
 日本語の接尾辞にも,漢語由来の「〜的」や英語由来の「〜チック」などが和語の語幹に付加される例があるが,それは日本語が両言語と接触して久しいからといっていいだろう.

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最終更新時間: 2018-09-19 09:43

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