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昨日の記事「#4324. 最初の英英辞書は Coote の The English Schoole-maister?」 ([2021-02-27-1]) に引き続き,英語辞書の草創期の一角を担った Edmund Coote とその著書 The English Schoole-maister (1596) の語彙一覧表の評価について.
豊田 (377) は,同書が発音と綴字の教科書として果たした歴史的な意義を評価するに飽き足りず,英語辞書史上の価値を積極的に認めようとしている.
本書が,最初の英語辞書と評される Cawdrey の A Table Alphabeticall に直接的な影響を与えたことは,上掲の対照表から容易に看取することができる.Coote が語彙表であげている語,および語義の説明はすべてそのまま Cawdrey の辞典に収録されている.当時は借用と改作と盗作の時代 ('It was an era of borrowing, adapting and downright plagiarism') といわれるが,英国で最初の辞典編集者という栄に輝く Cawdrey が Coote に負うところは,決して少なくない.そしてまた,Cawdrey の辞書の表題 A Table Alphabeticall も,Coote の一覧表の前置きとして付された 'Directions for the vnskilfull' 中の "If thou hast not been acquainted with such a table as this following, and desirest to make vse of it, thou must get the Alphabet, that is, the order of the letters as they stand,..." における a table...Alphabet に示唆を得たという推定もなされている.A Table Alphabeticall は,'hard vsuall English wordes' を 'plaine English wordes' で説明するもので,いわゆる難解語辞典の草分とされるが,Coote にはすでに 'hard words' ('The Schoole-maister his profession'), および 'hardest' という語 ('Directions') が見える.英語辞書の歴史の記述には 'From Cawdrey to Johnson' なる章を設けて Cawdrey の貢献の跡をたどるのが普通であるが,最初の英語辞典の重要な典拠として,本書の価値は積極的に認めなければならないであろう.
改めて「辞書」というのは何なのだろうか,別の単語による言い換え程度の定義らしきもののついた語彙一覧表との差異は何なのだろうか,と考えさせられた.
・ Coote, Edmund. The English Schoole-Maister. 1596.
・ 豊田 昌倫 「Edmund Coote: The English Schoole-maister の解説」『William Bullokar: Book at large, Bref Grammar and Pamphlet for Grammar. P. Gr.: Grammatica Anglicana. Edmund Coote: The English Schoole-maister』英語文献翻刻シリーズ第1巻.南雲堂,1971年.365--80頁.
英語辞書史上,最初の英英辞書は一般に Robert Cawdrey の A Table Alphabeticall (1604) とされている.これについて,「#603. 最初の英英辞書 A Table Alphabeticall (1)」 ([2010-12-21-1]),「#604. 最初の英英辞書 A Table Alphabeticall (2)」 ([2010-12-22-1]),「#726. 現代でも使えるかもしれない教育的な Cawdrey の辞書」 ([2011-04-23-1]),「#1609. Cawdrey の辞書をデータベース化」 ([2013-09-22-1]) などの記事で取り上げてきた.
ただし Cawdrey も徒手空拳で史上初の英英辞書を作ったわけではない.例えば,すでに1582年に Richard Mulcaster が The First Part of the Elementarie のなかで8000語ほどの語彙集 "Generall Table" を掲げており,実際その多くが Cawdrey の辞書に反映されている (cf. 「#441. Richard Mulcaster」 ([2010-07-12-1])) .
同じように,Edmund Coote が1596年に上梓した発音と綴字の教科書 The English Schoole-maister の第3部では約1500語の難解語の一覧表が挙げられており,Cawdrey はこちらも明らかに参照している.Coote の語彙一覧表には別の単語による言い換え程度のものではあるが「定義」も付されており,この部分を独立してみるならば,これこそ史上初の英英辞書とみなしてもよいのではないかと思われる.実際,Dixon (ix) は,そのようにとらえているようだ.
The first monolingual English dictionaries --- commencing in 1596 --- dealt just with 'hard words' (those of foreign origin) and explained them in terms of Germanic forms. The second such dictionary, by Robert Cawdrey in 1604, included:
lassitude, wearines
豊田 (375) も「Edmund Coote: The English Schoole-maister の解説」にて,これとやや近いことを述べている.
従来の類書では正しい綴字法を呈示することが目的とされたのに対し,難解な語に英語による説明を並置する Coote の語彙表は,英語辞典の雛形というべきものであり,同じく 'Schoole-maister' であった Robert Cawdrey の A Table Alphabeticall, conteyning and teaching the true vvriting, and vnderstanding of hard vsuall English wordes, borrowed from the Hebrew, Greeke, Latine, or French. Etc. (1604) に大きな影響を及ぼすことになる.
いずれをもって最初の英語辞書とするかは「辞書」の定義の問題であり,ここでは踏み込まないが,英語辞書の草創期として Mulcaster -- Coote -- Cawdrey のラインを認めておくことには異論がないだろう.
・ Dixon, R. M. W. The Unmasking of English Dictionaries. Cambridge: CUP, 2018.
・ Coote, Edmund. The English Schoole-Maister. 1596.
・ 豊田 昌倫 「Edmund Coote: The English Schoole-maister の解説」『William Bullokar: Book at large, Bref Grammar and Pamphlet for Grammar. P. Gr.: Grammatica Anglicana. Edmund Coote: The English Schoole-maister』英語文献翻刻シリーズ第1巻.南雲堂,1971年.365--80頁.
仮定法現在の用法,いわゆる "mandative subjunctive" が現代アメリカ英語で安定的に用いられている事実について,本ブログでは通時的な観点から以下の記事で取り上げてきた.「#325. mandative subjunctive と should」 ([2010-03-18-1]),「#326. The subjunctive forms die hard.」 ([2010-03-19-1]),「#345. "mandative subjunctive" を取り得る語のリスト」 ([2010-04-07-1]),「#3042. 後期近代英語期に接続法の使用が増加した理由」 ([2017-08-25-1]),「#3351. アメリカ英語での "mandative subjunctive" の使用は "colonial lag" ではなく「復活」か?」 ([2018-06-30-1]) .
この問題について Hundt (595--97) が Brown 系コーパスを用いて行なった調査の概要を読む機会があった (cf. 「#428. The Brown family of corpora の利用上の注意」 ([2010-06-29-1])) .1930年代から1991年までの英米両変種(書き言葉)の通時比較調査である.should 使用と比べての mandative subjunctive 使用の割合は,アメリカ英語ではすでに1930年代より8割に近づく高い値を示しており,1991年にはほぼ9割に達している.一方,イギリス英語では,1930年代で2割を超える程度の値であり,その後は増加したとはいえ1991年の時点で4割弱にとどまっている.mandative subjunctive の使用については,共時的にも通時的にもアメリカ英語のほうが著しいといってよい.
Övergaard の先行研究によると,アメリカ英語での mandative subjunctive の増加は1900年から1920年にかけて起こっており,その背景としてドイツ語,フランス語,スペイン語,イタリア語など仮定法を保持している言語を母語とする中西部の移民たちの存在が指摘されている (Hundt 597) .
おもしろいのは,上記の「仮定法現在」のみならず,If I were you のような「仮定法過去」の were の残存についても,英米変種間で似たような傾向がみられることだ.イギリス英語では,1930年代には were 使用が8割ほどあったが,1990年代には5割強へと大きく減らしている.一方,アメリカ英語でも1930年代の83.4%から1990年代の74%へ落ちているとはいえ,減り幅は小さい.
いずれの事例からも,20世紀のアメリカ英語(書き言葉)が "a relatively 'subjunctive-friendly' variety" (Hundt 597) であることがわかる.
・ Hundt, Marianne. "Change in Grammar." Chapter 27 of The Oxford Handbook of English Grammar. Ed. Bas Aarts, Jill Bowie and Gergana Popova. Oxford: OUP, 2020. 581--603.
・ Övergaard, Gerd. The Mandative Subjunctive in American and British English in the 20th Century. Uppsala: Almqvist and Wiksell, 1995.
本棚を整理していたら,Early Modern English Medical Texts: Corpus Description and Studies Including a CD-Rom . . . . なる本が出てきた.ハードカバーで厚さを測ってみたら3.4cm.購入してからほとんど開いたこともなかった本だが(実際いつ買ったのだろう?),コーパスの CD-ROM がついているというので開いてみた.確かに初期近代英語期の医学テキストコーパスがついている.本のほうは,そのコーパスについての解説とコーパスを用いたケース・スタディからなっている.
今回は,まだ使ってもいないこのコーパスについて,本書の冒頭よりざっと概要を紹介する.
The Corpus of Early English Medical Texts (CEEM) is a three-part series of historical corpora of medical writing 1375--1800. The corpus was initiated about fifteen years ago at the University of Helsinki for the ongoing research project of Scientific Thought-styles: The Evolution of English Medical Writing by Irma Taavitsainen and Päivi Pahta. This project aims to gain new knowledge of the development of the language of science and medicine in a long diachronic perspective, and for this end an extensive electronic database was needed. The work has progressed in phases. The first corpus, Middle English Medical Texts (MEMT, 1375--1500), was published on CD-ROM in 2005 by John Benjamins. Early Modern English Medical Texts (EMEMT) is the second component of CEEM. The third, Late Modern English Medical Texts (LMEMT, 1700--1800), has already been initiated and will be released in due course. (Taavitsainen and Pahta, vii)
なるほど,今回注目している EMEMT は,3つからなるシリーズの第2弾で初期近代英語期 (1500--1700) の医学テキストをカバーするジャンル限定のコーパスということのようだ.450ほどのテキスト,総語数200万語からなる堂々たる歴史コーパスである.一見狭いジャンルであるかのように「医学テキスト」のコーパスと謳ってはいるが,当時の科学思考を代表するジャンルとしてみれば,その応用範囲は案外広いかもしれない.シリーズのほかの2つのコーパスとそのプロジェクトについて,CoRD (Corpus Resource Database) に解説があるということで,そちらへのリンクも張っておく.
・ Corpus of Early English Medical Writing (CEEM)
・ Middle English Medical Texts (MEMT)
・ Early Modern English Medical Texts (EMEMT)
・ Late Modern English Medical Texts (LMEMT)
目下使い途はないのだが,むりやり使い途を考えてみるというのもコーパス隆盛時代の頭の体操.考えてみたい.
・ Taavitsainen, Irma and Päivi Pahta, eds. Early Modern English Medical Texts: Corpus Description and Studies Including a CD-Rom Containing Early Modern English Medical Texts (EMEMT) Corpus Compiled by Irma Taavitsainen, Päivi Pahta, Turo Hiltunen, Martti Mäkinen, Ville Marttila, Maura Ratia, Carla Suhr and Jukka Tyrkkö.'' Amsterdam: Philadelphia: John Benjamins, 2010.
古英語に由来する anent なる前置詞を紹介します.「?に関して」 (about, concerning) を意味する古風,戯言的,あるいはスコットランド方言の前置詞として,次のように使います(OED の anent, prep. and adv. の例文より).
・ 1908 S. E. White Riverman iv. 37 He departed, catching fragments of vows anent never going on any more errands for nobody.
・ 1993 Herald (Glasgow) 3 May 10 I write anent Duncan Campbell's article (Black magic circle).
・ 2007 www.scottish.parliament.uk 10 July (O.E.D. Archive) The Visitor Centre has braw visual an interactive displays that lats ye explore information anent the Pairlament.
語源をひもとくと,古英語の on emn/efen (= on even [ground]) にさかのぼります.「?と同じ平面で,並んで」ほどの原義から発達したものです.このような一般的な原義だったので,この前置詞(副詞も兼ねる)が歴史的に担ってきた意味範囲は広く,「?に面して」「?の間近に」「?と並んで」「?といっしょに」「?に反して」など様々です.意味変化の辞書を編纂した Room にも,見出しが立てられています.
anent (concerning)
This now old-fashioned word, used mostly humorously ('I would like a word anent the procedure here'), originally meant 'in company with' in Old English, a sense which survived in dialect use down to the nineteenth century. It also meant 'facing', 'towards', as in the Voiage of Sir John Maundevile (1366), which tells of 'Wylde Bestes' that 'slen and devouren alle that comen aneyntes hem'. However, the word does still have some Scottish usage in these senses, as well as the general one of 'concerning'.
中英語期には多義でごく普通に使われていた前置詞なので,MED の anent(es (prep.) にもたくさんの例文が挙げられています.形態的にも,onefent, onevent, anempt(es, anem(p)st; onent(es, onence, onon(t, anundes, anen, anend(es, anintice, anens(t, anence, enent(es, enens, inent(es, inence などと様々に記録されています.
もともとは古英語 efen に由来する前置詞であり,諸形態の語尾に現われる t, s, d のような子音字や,その組み合わせは非語源的な要素ということになります.前置詞,副詞,接続詞という語類にこれらの子音を含む非語源的な語尾が添加されるということは英語の歴史ではしばしば起こっており,本ブログでも様々に取り上げてきました.この話題については,こちらの記事セットをご覧ください.
・ Room, Adrian, ed. NTC's Dictionary of Changes in Meanings. Lincolnwood: NTC, 1991.
単数形 foot に対する複数形 feet のような不規則な複数形の形成法について「#157. foot の複数はなぜ feet か」 ([2009-10-01-1]),「#2017. foot の複数はなぜ feet か (2)」 ([2014-11-04-1]),「#4304. なぜ foot の複数形は feet なのですか? --- hellog ラジオ版」 ([2021-02-07-1]) で取り上げてきた.ドイツ語などでは現在でもお馴染みの複数形の形成法で「ウムラウト複数」などと呼ばれているが,ゲルマン祖語からゲルマン諸語が派生する前夜に生じた (i-mutation) という音韻変化の出力とされる.
現代の標準英語においては feet, geese, lice, men, mice, teeth, women の7語にしか,かつての音韻変化の痕跡は残っていないが,古英語の段階ではこのタイプの名詞が他にもいくつか存在した.Lass (128) によると,āc (oak), bōc (book), brōc (trousers), burg (city), cū (cow), gāt, turf (turf), furh (furrow), hnutu (nut) などがこのタイプだった.いずれも後の歴史を通じて -s 複数に呑み込まれていったが,もしそうでなければ今頃 *each/ache, *beech, *breech, *birry, *ki(e), *gate, *tirf, *firry, *nit などのウムラウト複数が受け継がれていたはずである(ここに挙げた架空の綴字は,こんな綴字になっていたかもしれないという程の例示につき,あしからず).
おもしろいのは,book の複数形としての *beech こそ生き残っていないが,語源的に関連する beech (ブナ)は存在することだ (cf. 「#632. book と beech」 ([2011-01-19-1])) .また,「ズボン」を意味した複数形 *breech は今では存在しないが,ここから新たに作られた2重複数形 (double_plural) というべき breeches (半ズボン)は現役である (cf. 「#218. 二重複数」 ([2009-12-01-1])).さらに,*ki(e) も死語となっているが,ここに n 語尾を付したやはり2重複数の kine は,古風ながらもいまだに用いられている.
・ Lass, Roger. Old English: A Historical Linguistic Companion. Cambridge: CUP, 1994.
敬愛する河西良治先生(中央大学文学部英語文学文化専攻教授)がこの3月でご退職されます.退職記念として,河西ゼミ門下生により編集された記念論文集『言語研究の扉を開く』が開拓社より出版されました.私自身も小論「英語の歴史にみられる3つの潮流」を寄稿させていただいたのですが,その拙論は別として,河西先生ご自身も含めた充実の執筆陣による多種多様な英語学の論文が集まっており,これからじっくり楽しんで読みたいと思っています.
以下,目次を掲げます.
[ 言語心理学・言語教育学 ]
・ 阿佐 宏一郎 「文字サイズと読み効率の言語心理学」
・ 歌代 崇史 「ティーチャートークの適切さの自動推定に向けた探求 --- 日本語教員養成課程において ---」
・ 木塚 雅貴 「英語科教員のための英語音声学」
・ Matthews, John 「Sounds of Language, Sounds of Speech: The Linguistics of Speaking in English but Hearing in Japanese」
[ 応用言語学 ]
・ 石崎 貴士 「Reconsidering the Input Hypothesis from a Connectionist Perspective: Cognitive Filtering and Incomprehensible Input」
・ 平川 眞規子 「日本人英語学習者によるテンスとアスペクトの意味解釈:単純形 -s vs. 現在進行形 -ing」
・ 穂刈 友洋 「誤り研究への招待」
・ 村野井 仁 「第二言語習得と意味」
・ 若林 茂則 「第二言語の解明:統率束縛理論に基づく研究の成果と今後の研究の方向性」
[ 英語学 ]
・ 靭江 静 「日本語の「できる」と英語の can の語用論上の相違と語用論に基づいた指導の必要性」
・ 久米 啓介 「英語学習者の冠詞体系」
・ 倉田 俊二 「英語の自由間接話法と自由直接話法について」
・ 堀田 隆一 「英語の歴史にみられる3つの潮流」
・ 手塚 順孝 「顎・舌・唇:身体的特徴を加味した英語母音の一般化の可能性」
[ 理論言語学 ]
・ 新井 洋一 「That 時制節を焦点として導く疑似分裂文の特性と諸問題」
・ 井筒 勝信 「見えるもの,見えないもの:ミクロ類型論から見えて来るもの」
・ 北原 賢一 「コーパスを用いた言語研究の盲点 --- 同族目的語表現を巡って ---」
・ 篠原 俊吾 「ずらして見る --- メトニミー的視点 ---」
・ 星 英仁 「概念・志向システムによる意味解釈のメカニズム」
・ 山田 祥一 「断言と疑問の混交文 --- ウェブ上の言葉遊びに見られる特殊表現 ---」
・ 河西良治先生経歴と業績一覧
・ 「私の言語研究:言語と人生」 河西 良治
・ 河西良治教授退職記念論文集刊行会(編) 『言語研究の扉を開く』 開拓社,2021年.
主格 (nominative) は,その名称からもうかがえるように,統語意味論的に他の格と比べて標準的・基本的な格である.形態的にも原形というべき形を示しており,まさにデフォルトの格といえる.文から独立して単語そのものに言及するときにも用いられるし,辞書の「見出し語形」としても採用される形だ.コーパス言語学でいうレンマ (lemma) と理解してもよい.主格については,このような理解が一般的だろう.
確かに,多くの言語では主格形がデフォルトの形態を体現しており,他の斜格形はそこからの変形として生成される.そのような言語では,主格のデフォルト性を認めることはたやすいだろう.
ところが,印欧語の歴史を振り返ると,主格形は斜格形と同様に独自の特別な屈折形を示したことが分かる.つまり,印欧語については,主格がデフォルト形であるという形態論的な証拠はない.英語を含め,印欧祖語から派生した比較的新しい諸言語では,この事実が見えにくくなっているが,主格形がデフォルト形を形成しないという点で,実は印欧語は類型論的にかなり特殊な語族なのである (Blake 30) .
この事実と関係しているかどうかは分からないが,印欧語では,名詞が多かれ少なかれ統語的に独立して用いられる場合に,主格以外の形態で現われることがある.具体的にいえば,先日の記事「#4312. 呼格,主格,対格の関係について一考」 ([2021-02-16-1]) で触れたように,対格(や呼格)が用いられる場合があるのだ.Blake (31) は,この事実を類型論的に有標な用法とみている節がある.
. . . the nominative is generally thought of as the case used outside syntax, the case used in naming, the case used in talking about a lexeme, but Rubio argues that in Latin the accusative as well as the nominative is used in isolation and metalinguistically. He sees both of them as case of pure denotation (1966: 95--7). We are reminded of the use of the oblique forms of pronouns in English: Who wants it? Me. Me, I'll get it. De Carvalho also notes that the accusative in Latin is used out of context (1982: 257ff, 1985). He sees the nominative in more positive terms as the case in which one expresses the protagonist (1982: 248, 263).
関連して,英語史において対格が主格を追い落とした例として,2人称代名詞の you,そして現代英語の口語において1人称単数代名詞の I に代わって me が用いられる Me and my sister went shopping. のような文を参照.
・ Blake, Barry J. Case. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2001.
・ Rubio, L. Introductión a la sintaxis estructural del Latin. Vol. 1: Casos y preposiciones. Barcelona: Ariel, 1966.
・ Carvalho, P. de. "Reflexions sur les cas: vers une théorie des cas latins." L'information Grammaticale 7 (1980): 3--11.
本ブログでは種々の文法用語の由来について「#1257. なぜ「対格」が "accusative case" なのか」 ([2012-10-05-1]),「#1258. なぜ「他動詞」が "transitive verb" なのか」 ([2012-10-06-1]),「#1520. なぜ受動態の「態」が voice なのか」 ([2013-06-25-1]),「#3307. 文法用語としての participle 「分詞」」 ([2018-05-17-1]),「#3983. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (1)」 ([2020-03-23-1]),「#3984. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (2)」 ([2020-03-24-1]),「#3985. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (3)」 ([2020-03-25-1]) などで取り上げてきた.今回は「格」がなぜ "case" と呼ばれるのかについて,連日参照・引用している Blake (19--20) より概要を引用する.
The term case is from Latin cāsus, which is in turn a translation of the Greek ptōsis 'fall'. The term originally referred to verbs as well as nouns and the idea seems to have been of falling away from an assumed standard form, a notion also reflected in the term 'declension' used with reference to inflectional classes. It is from dēclīnātiō, literally a 'bending down or aside'. With nouns the nominative was taken to be basic, with verbs the first person singular of the present indicative. For Aristotle the notion of ptōsis extended to adverbial derivations as well as inflections, e.g. dikaiōs 'justly' from the adjective dikaios 'just'. With the Stoics (third century BC) the term became confined to nominal inflection . . . .
The nominative was referred to as the orthē 'straight', 'upright' or eutheia onomastikē 'nominative case'. Here ptōsis takes on the meaning of case as we know it, not just of a falling away from a standard. In other words it came to cover all cases not just the non-nominative cases, which in Ancient Greek were called collectively ptōseis plagiai 'slanting' or 'oblique cases' and for the early Greek grammarians comprised genikē 'genitive', dotikē 'dative' and aitiatikē 'accusative'. The vocative which also occurred in Ancient Greek, was not recognised until Dionysius Thrax (c. 100 BC) admitted it, which is understandable in light of the fact that it does not mark the relation of a nominal dependent to a head . . . . The received case labels are the Latin translations of the Greek ones with the addition of ablative, a case found in Latin but not Greek. The naming of this case has been attributed to Julius Caesar . . . . The label accusative is a mistranslation of the Greek aitiatikē ptōsis which refers to the patient of an action caused to happen (aitia 'cause'). Varro (116 BC--27? BC) is responsible for the term and he appears to have been influenced by the other meaning of aitia, namely 'accusation' . . . .
この文章を読んで,いろいろと合点がいった.英語学を含む印欧言語学で基本的なタームとなっている case (格)にせよ declension (語形変化)にせよ inflection (屈折)にせよ,私はその名付けの本質がいまいち呑み込めていなかったのだ.だが,今回よく分かった.印欧語の形態変化の根底には,まずイデア的な理想形があり,それが現世的に実現するためには,理想形からそれて「落ちた」あるいは「曲がった」形態へと堕する必要がある,というネガティヴな発想があるのだ.まず最初に「正しい」形態が設定されており,現実の発話のなかで実現するのは「崩れた」形である,というのが基本的な捉え方なのだろうと思う.
日本語の動詞についていわれる「活用」という用語は,それに比べればポジティヴ(少なくともニュートラル)である.動詞についてイデア的な原形は想定されているが,実際に文の中に現われるのは「堕落」した形ではなく,あくまでプラグマティックに「活用」した形である,という発想がある.
この違いは,言語思想的にも非常におもしろい.洋の東西の規範文法や正書法の考え方の異同とも,もしかすると関係するかもしれない.今後考えていきたい問題である.
・ Blake, Barry J. Case. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2001.
標題は,類型論的な傾向として指摘されている.日本語などの SO 語順をもつ言語は,何らかの形態的な格標示をもつ可能性が高いという.実際,日本語には「が」「を」「の」などの格助詞があり,名詞句に後接することで格が標示される仕組みだ.一方,英語を典型とする SV 語順をもつ言語は,そのような形態的格標示を(顕著には)もたないという.英語にも人称代名詞にはそれなりの格変化はあるし,名詞句にも 's という所有格を標示する手段があるが,全般的にいえば形態的な格標示の仕組みは貧弱といってよい.英語も古くは語順が SV に必ずしも固定されておらず,SO などの語順もあり得たのだが,上記の類型論が予測する通り,当時は形態的な格標示の仕組みが現代よりも顕著に機能していた.
上記の類型論上の指摘は,Blake を読んでいて目にとまったものだが,もともとは Greenberg に基づくもののようだ.Blake (15) より関係する箇所を引用する.
It has frequently been observed that there is a correlation between the presence of case marking on noun phrases for the subject-object distinction and flexible word order and this would appear to hold true. From the work of Greenberg it would also appear that there is a tendency for languages that mark the subject-object distinction on noun phrases to have a basic order of subject-object-verb (SOV), and conversely a tendency for languages lacking such a distinction to have the order subject-verb-object (SVO) . . . . The following figures are based on a sample of 100 languages. They show the relationship between case and marking for the 85 languages in the sample that exhibit one of the more commonly attested basic word orders. The notation [+ case] in this context means having some kind of marking, including appositions, on noun phrases to mark the subject-object distinction . . . .
VSO | [+ case] | 3 | SVO | [+ case] | 9 | SOV | [+ case] | 34 |
[- case] | 6 | [- case] | 26 | [- case] | 7 |
The SVO 'caseless' languages are concentrated in western Europe (e.g. English), southern Africa (e.g. Swahili) and east and southeast Asia (e.g. Chinese and Vietnamese).
この類型論的傾向が示す言語学的な意義は何なのだろうか.
・ Blake, Barry J. Case. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2001.
昨日の記事「#4314. 能格言語は言語の2割を占める」 ([2021-02-17-1]) にて,統語意味論的なカテゴリーとしての能格 (ergative) に触れた.英語は能格言語ではなく対格言語であり,直接には関係しない話題とも思われるかもしれないが,能格性 (ergativity) という観点から英語を見直してみると,新鮮な発見がある.動詞の自他の問題と密接に関わってくるし,受動態 (passive) や中動態 (middle_voice) の問題とも深く交わる.実際,動詞の自他の区別は英語の動詞や構文を考える際の伝統的で基本的な見方を提供してくれているが,これを能格性の視点から見直すと,景色がガランと変わってくるのだ.
Malmkjær (532) の "Ergativity" の項の一部を引用する.
Complementary to the transitive model of the grammar is the ergative model, an additional property of the system of transivitity, which foregrounds the role of Agency in providing a 'generalised representational structure common to every English clause' (Halliday and Matthiessen 2004: 281). This system is simultaneous with those of process type and circumstance . . . . Here the key variable is not a model of extension, as in transitivity, but of causation: 'The question at issue is: is the process brought about from within, or from outside?' (Halliday and Matthiessen 2004: 287). Every process must have one participant central to the actualisation of the process; 'without which there would be no process at all' (Halliday and Matthiessen 2004: 288). This is the Medium and along with the process forms the nucleus of the clause. The Medium is obligatory and is the only necessary participant, if the process is represented as being self-engendering. If the process is engendered from outside, then there is an additional participant, the Agent. Options in the ergative model of transitivity define the voice, or agency, of the clause. A clause with no feature of 'agency' is neither active nor passive but middle (for example, Europeans arrives). One with agency is non-middle, or effective, in agency (for example, Europeans invaded Australia). An effective clause is then either operative or receptive in voice. In an operative clause, the Subject is the Agent and the process is realised by an active verbal group; in a receptive clause the Subject is the Medium and the process is realised by a passive verbal group (Australia was invaded by Europeans) (Halliday and Matthiessen 2004: 297).
昨日も触れたように,世界の諸言語には対格言語 (accusative language) と能格言語 (ergative language) という2大タイプがある.各々 transitivity 重視の言語と ergativity 重視の言語と言い換えてもよい.文法観の大きく異なるタイプではあるが,一方に属する言語を他方の発想で眺めてみると,新たな洞察が得られる.結局のところ,人間が言語で表現したいことを表現する方法には少数のパターンしかなく,表面的には異なっているようにみえても,それはコード化の方法を少しく違えているにすぎない,と評することもできそうだ.
・ Malmkjær, Kirsten, ed. The Routledge Linguistics Encyclopedia. 3rd ed. London and New York: Routledge, 2010.
・ Halliday, M. A. K. and Matthiessen, C. M. I.M. An Introduction to Functional Grammar. 3rd ed. London: Edward Arnold, 2004.
世界の諸言語について,主要な格 (case) のあり方という観点から分類するとき,英語のような nominative-accusative タイプの言語と,バスク語やグルジア語のような absolutive-ergative タイプの言語に大きく分けられる.前者は対格言語 (accusative language),後者は能格言語 (ergative language) と呼ばれる.
英語のような対格言語の格体系は,私たちが当然視しているものであり,ほとんど説明を要しないだろう.He opened the door. と The door opened. の2文において,各々文頭に立っている名詞句 He と The door が主語の役割を果たす主格 (nominative case) に置かれているのに対し,第1文の the door は目的語の役割を果たす対格 (accusative case) に置かれているといわれる.
しかし,能格言語においては,第1文と第2文の両方の the door が絶対格 (absolutive case) に置かれ,第2文の He は能格 (ergative case) に置かれる.いずれの文でも,自然に開こうが誰かが開こうが,結果的に開いている「扉」は絶対格に置かれ,第2文のみに明示されている,その状態を能動的に引き起こした「彼」が能格に置かれるのだ.
類型論などでしばしば言及される能格言語というものは,世界の諸言語のなかでは稀なタイプの言語だと思い込んでいたが,それほど稀でもないようだ.対格言語に比べれば圧倒的な少数派であることは間違いないが,世界言語の2割ほどはこのタイプだと知って驚いた.Blake (121) によると,分布は世界中に広がっている.
Ergative systems are often considered rare and remote, but in fact they make up at least twenty per cent of the world's languages. Ergative systems are to be found in all families of the Caucasian phylum, among the Tibeto-Burman languages, in Austronesian, in most Australian languages, in some languages of the Papuan families, in Zoque and the Mayan languages of Central America and in a number of language families in South America: Jé, Arawak, Tupí-Guaraní, Panoan, Tacanan, Chibchan and Carib. Outside these phyla and families where ergative systems of marking are common, ergativity is also to be found in some other languages including Basque, Hurrian and a number of other extinct languages of the Near East, Burushaski (Kashmir, Tibet), Eskimo, Chukch, and Tsimshian and Chinook (these last two being Penutian languages of British Columbia).
ちなみに,英語は能格言語ではないが,上の例で挙げた open(ed) のように自動詞にも他動詞にも用いられる動詞を指して能格動詞 (ergative verb) と呼ぶことがある.
・ Blake, Barry J. Case. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2001.
昨日の記事「#4312. 「呼格」を認めるか否か」 ([2021-02-15-1]) で話題にしたように,呼格 (vocative) は,伝統的な印欧語比較言語学では1つの独立した格として認められてきた.しかし,ラテン語などの古典語ですら,第2活用の -us で終わる単数にのみ独立した呼格形が認められるにすぎず,それ以外では形態的に主格に融合 (syncretism) している.「呼格」というよりも「主格の呼びかけ用法」と考えたほうがスッキリするというのも事実である.
このように呼格が形態的に主格に融合してきたことを認める一方で,語用的機能の観点から「呼びかけ」と近い関係にあるとおぼしき「感嘆」 (exclamation) においては,むしろ対格に由来する形態を用いることが多いという印欧諸語の特徴に関心を抱いている.Poor me! や Lucky you! のような表現である.
細江 (157--58) より,統語的に何らかの省略が関わる7つの感嘆文の例を挙げたい.各文の名詞句は形式的には通格というべきだが,機能的にしいていうならば,主格だろうか対格だろうか.続けて,細江の解説も引用する.
How unlike their Belgic sires of old!---Goldsmith.
Wonderful civility this!---Charlotte Brontë.
A lively lad that!---Lord Lytton.
A theatrical people, the French?---Galsworthy.
Strange institution, the English club.---Albington.
This wish I have, then ten times happy me!---Shakespeare.
この最後の me は元来文の主語であるべきものを表わすものであるが,一人称単数の代名詞は感動文では主格の代わりに対格を用いることがあるので,これには種々の理由があるらしい(§130参照)が,ラテン語の語法をまねたことも一原因であったと見られる.たとえば,
Me miserable!---Milton, Paradise Lost, IV. 73.
は全くラテン語の Me miserum! (Ovid, Heroides, V. 149) と一致する.
引用最後のラテン語 me miserum と関連して,Blake の格に関する理論解説書より "ungoverned case" と題する1節も引用しておこう (9) .
In case languages one sometimes encounters phrases in an oblique case used as interjections, i.e. apart from sentence constructions. Mel'cuk (1986: 46) gives a Russian example Aristokratov na fonar! 'Aristocrats on the street-lamps!' where Aristokratov is accusative. One would guess that some expressions of this type have developed from governed expressions, but that the governor has been lost. A standard Latin example is mē miserum (1SG.ACC miserable.ACC) 'Oh, unhappy me!' As the translation illustrates, English uses the oblique form of pronouns in exclamations, and outside constructions generally.
さらに議論を挨拶のような決り文句にも引っかけていきたい.「#4284. 決り文句はほとんど無冠詞」 ([2021-01-18-1]) でみたように,挨拶の多くは,歴史的には主語と動詞が省略され,対格の名詞句からなっているのだ.
語用的機能の観点で関連するとおぼしき呼びかけ,感嘆,挨拶という類似グループが一方であり,歴史形態的に区別される呼格,主格,対格という相対するグループが他方である.この辺りの関係が複雑にして,おもしろい.
・ 細江 逸記 『英文法汎論』3版 泰文堂,1926年.
・ Blake, Barry J. Case. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2001.
印欧語言語学では,伝統的に格 (case) の1つとして呼格 (vocative) が認められてきた.例えば,ギリシア語やラテン語において呼格は主格などと異なる特別な形態をとる場合があり (ex. Quō vādis, domine? の domine など),その点で呼格という格を独立させて立てる意義は理解できる.
しかし,昨日の記事「#4311. 格とは何か?」 ([2021-02-14-1]) で掲げた格の定義を振り返れば,"Case is a system of marking dependent nouns for the type of relationship they bear to their heads." である.いわゆる呼格というものは,文の構成要素としては独立し遊離した存在であり,別の要素に依存しているわけではないのだから,依存関係が存在することを前提とする格体系の内側に属しているというのは矛盾である.呼格は依存関係の非存在を標示するのだ,というレトリックも可能かもしれないが,必ずしもすべての言語学者を満足させるには至っていない.構造主義的厳密性をもって主張する言語学者 Hjelmslev は格として認めていないし,英語学者 Jespersen も同様だ.英語学者の Curme も,主格の1機能と位置づけているにすぎない.
しかし,いわゆる呼格の機能である「呼びかけ」には,統語上の独立性のみならず音調上の特色がある.言語学的には,何らかの方法で他の要素と区別しておく必要があるのも確かである.言い換えれば,形態的な観点から格としてみなすかどうかは別にしても,機能や用法の観点からはカテゴリー化しておくのがよさそうだ.
「呼格」には限られた特殊な語句が用いられる傾向があるということも指摘しておきたい.名前,代名詞 you,親族名称,称号,役職名が典型だが,そのほかにも (my) darling, dear, honey, love, (my) sweet; old man, fellow; young man; sir, madam; ladies and gentlemen などが挙げられる.
・ 大塚 高信,中島 文雄(監修) 『新英語学辞典』 研究社,1982年.
格 (case) は,人類言語に普遍的といってよい文法カテゴリーである.系統の異なる言語どうしの間にも,格については似たような現象や分布が繰り返し観察されることから,それは言語体系の中枢にあるものに違いない.
学校英文法でも主格,目的格,所有格などの用語がすぐに出てくるほどで,多くの学習者になじみ深いものではあるが,そもそも格とは何なのか.これに明確に答えることは難しい.ずばり Case というタイトルの著書の冒頭で Blake (1) が与えている定義・解説を引用したい.
Case is a system of marking dependent nouns for the type of relationship they bear to their heads. Traditionally the term refers to inflectional marking, and, typically, case marks the relationship of a noun to a verb at the clause level or of a noun to a preposition, postposition or another noun at the phrase level.
この文脈では,節の主要部は動詞ということになり,句の主要部は前置詞,後置詞,あるいは別の名詞ということになる.平たくいえば,広く文法的に支配する・されるの関係にあるとき,支配される側に立つ名詞が,格の標示を受けるという解釈になる(ただし支配する側が格の標示を受けるも稀なケースもある).
引用中で指摘されているように,伝統的にいえば格といえば屈折による標示,つまり形態的な手段を指してきたのだが,現代の諸理論においては一致や文法関係といった統語的な手段,あるいは意味役割といった意味論的な手段を指すという見解もあり得るので,議論は簡単ではない.
確かに普段の言語学の議論のなかで用いられる「格」という用語の指すものは,ときに体系としての格 (case system) であり,ときに格語尾などの格標示 (case marker) であり,ときに格形 (case form) だったりする.さらに,形態論というよりは統語意味論的なニュアンスを帯びて「副詞的対格」などのように用いられる場合もある.私としては,形態論を意識している場合には "case" (格)という用語を用い,統語意味論を意識している場合には "grammatical relation" (文法関係)という用語を用いるのがよいと考えている.後者は,Blake (3) の提案に従った用語である.後者には "case relation" という類似表現もあるのだが,Blake は区別している.
It is also necessary to make a further distinction between the cases and the case relations or grammatical relations they express. These terms refer to purely syntactic relations such as subject, direct object and indirect object, each of which encompasses more than one semantic role, and they also refer directly to semantic roles such as source and location, where these are not subsumed by a syntactic relation and where these are separable according to some formal criteria. Of the two competing terms, case relations and grammatical relations, the latter will be adopted in the present text as the term for the set of widely accepted relations that includes subject, object and indirect object and the term case relations will be confined to the theory-particular relations posited in certain frameworks such as Localist Case Grammar . . . and Lexicase . . . .
・ Blake, Barry J. Case. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2001.
昨日の記事「#4309. shall we の代わりとしての shall's (= shall us)」 ([2021-02-12-1]) で取り上げたように,shall we の代用としての shall's は Shakespeare などにもみられる.関心をもって,初期近代英語の巨大コーパス EEBO corpus により "shall 's" と "shal 's" で検索してみると,135例もヒットした.すべてのコンコーダンスラインを精査したわけではないが,多少のゴミは混じっているものの,大部分は目下問題にしている shall we の代用としての用例とみてよさそうだ.いくつか例を挙げよう(最初の4例は Shakespeare より).
・ if he couetously reserue it, how shall 's get it?
・ where shall 's lay him?
・ shall 's haue a play of this?
・ shal 's to the Capitoll?
・ shall 's daunce?
・ shall 's to th' Taverne?
・ come, shal 's shake hands, sirs?
・ what shall 's do this evening?
・ shall 's to dinner now?
・ come, come, shall 's go drink?
そもそもこの表現は統語的には疑問文であり,発話行為としては勧誘であり,口語的な色彩も強い.おそらく,当時,そのような響きをもったフレーズとして固定化していたものと思われる.機能的にいえば let's に近いと言えるが,この let's 自身も let us をつづめたものである.後者では us が正規の目的格形として用いられており,shall us の破格的な目的格形 us の使用とは一線を画していることは疑いようもないが,もしかすると両者の間に機能的類似に基づく類推 (analogy) が作用していたのかもしれない (cf. 「#1981. 間主観化」 ([2014-09-29-1])) .
なお,省略されていない "shall us" でも検索してみた.こちらでは88例がヒットしたが,us が正規の目的格として用いられている例も多く混じっており,省略版 shall's と比べれば shall we の代用表現としての用例は稀のようだ.
Shakespeare, Winter's Tale, Act I, Scene 2 にて,Hermione が Leontes に次のように語りかける箇所がある."If you would seek us, We are yours i' the garden: shall's attend you there?" ここでは,shall's (= shall us) が shall we の代わりとして用いられている.主格の us の事例だ.
主格形が用いられるべきところで目的格形が現われるというのは,we/us に限らず人称代名詞全般によくみられる現象である.It's me., He is older than her., what did 'em call it?, Us Scots keep fighting back. のような例が挙げられるし,you に至っては,歴史的に区別されていた主格形と目的格形が後者に集約されてしまったものが標準形となっているほどだ.
「#3502. pronoun exchange」 ([2018-11-28-1]) でみたように,この種の人称代名詞の「格違い」は,現代の諸方言において広く観察される (cf. 「#793. she --- 現代イングランド方言における異形の分布」 ([2011-06-29-1])).歴史的にも,おそらく pronoun exchange は日常茶飯だったろう.
ただし,OED によると,we/us の pronoun exchange に関していえば,あくまで近代以降の現象のようだ.us, pron., n., and adj. の 9b に,問題の用法が挙げられている.以下に,いくつか例を出そう.2つ目がまさに shall us の事例である.
・ 1562 N. Winȝet Certain Tractates (1888) I. 12 And vtheris for not saying this ane word---'My maisteris, vs lufe ȝou and ȝour doctryne' are deposit of thair offices.
・ 1607 T. Dekker & J. Webster Famous Hist. Thomas Wyat sig. Bv Come my Lords, shall vs march.
・ c1860 J. T. Staton Bobby Shuttle iii. 41 Should us tell o'th yung shantledurt?
・ 1880 L. Parr Adam & Eve II. 25 Us'll have down the big Bible and read chapters verse by verse.
以上,慶應義塾大学文学部英米文学専攻の同僚で,Shakespearian の井出新教授よりお尋ねを受けて調べた次第です.(井出先生,英語史的にもおもしろい問いをありがとうございます!)
methinks --- 『スターウォーズ』のファン,とりわけジェダイ・マスターであるヨーダ (Yoda) のファンであれば,嬉しくてたまらない表現だろう.これは,かつての非人称動詞 (impersonal_verb) の生きた化石である.現代では,ジェダイ・マスター以外の口から発せられることはないかといえばそうでもなく BNCweb では,過去形 methought も合わせて,実に72例がヒットした.いくつか挙げてみよう.
・ 'Nay, on the contrary --- it is but the beginning methinks.'
・ 'Heaven alone knows --- but --- the lady doth protest too much, methinks.'
・ Methinks the lady doth protest, as old Bill put it.'
・ 'Methought you knew all about it,' pointed out Joan.
・ I was given the news last midnight and methought I would drown in the sorrow of my tears!'
もっとも,文脈を眺めればいずれも擬古的あるいは戯言的な用法と分かるので,あくまで文体的には有標の表現といってよいだろう.
methinks は,現代の普通の表現でいえば I think (that) や It seems to me (that) に相当する.歴史的には,第1音節の me は1人称単数代名詞の与格であり,thinks は "it seems" を意味する古英語の人称動詞 þynċan にさかのぼる.形態的にも意味的にも現代英語の think (思う,考える)(古英語 þenċan)と酷似しており,古くから深い関係にはあることは間違いないが,OED などの歴史的な辞書では両動詞はたいてい別扱いとなっているので,区別してとらえておくのがよい.
非人称動詞・構文とその歴史については,「#204. 非人称構文」 ([2009-11-17-1]) 辺りの記事を読んでいただきたいが,簡単にいえば主語を要求しない動詞・構文のことである.現代英語では,たとえ形式的であれ,とにかく主語を立てなければ文が成り立たないが,古英語や中英語では,主語を立てる必要のない(というよりも,立てることのない)構文がいくらでも存在した.主語が省略されているのではなく,最初から主語の立つことが前提とされていない構文である.そのような構文では,現代英語であれば主語として立つような参与者が与格で表現される(例えば I ではなく me)のが典型的である.なお,主語がないにもかかわらず,動詞は3人称単数主語に対応した屈折形を取る.
methinks はそのような非人称構文の典型例であり,頻度が高いために,与格 me と動詞 thinks が癒着して methinks と綴られるようになったものである.どこまでいっても論理的主語が現われないので,現代英語の発想から統語分析しようとすると何とも落ち着かないのだが,実際には分析されることもなく,固定したフレーズとして記憶されているにすぎない.
最近,この非人称動詞の歴史について調べる必要が生じ,まずは Helsinki Corpus にて歴史的な例を集めてみることにした.試行錯誤して "\bm[ie]+c? ?(th|@t|@d)([eiy]ng?[ck]+|[ou]+([gh]|@g)*t)" なる正規表現を組み,XML Helsinki Corpus Browser で case-insensitive で検索した.これにより,ひとまず authentic な例が111件(ゴミもあるかもしれないが)を集めることができた.関心のある方は,ぜひお試しを.
昨日の記事「#4306. 12--13世紀のフランス語の栄光」 ([2021-02-09-1]) の最後で触れたが,フランス語の社会的影響力がとりわけ強かったイングランドですら,14世紀には「フランス語力」のない社会へと変質していた.当時のイングランドでフランス語の能力があるということは,現代の日本で英語ができるのと同様に,1つの「たしなみ」となっていたのである.逆にいえば,14世紀以降,フランス語は懸命に学習すべき対象となっていたのだ.
この状況は様々な証拠から確かめられる.例えば「#2622. 15世紀にイングランド人がフランス語を学んだ理由」 ([2016-07-01-1]) で触れた通り,15世紀初頭に John Barton が Donet François なる文法書を書いたが,これは実に最初のフランス語文法書なのである.アジェージュ (120--21) より,関連する記述を引用する.
フランス語の勢力がたいへん強かった国,たとえばイギリスにおいては,ある出来事がフランス語の地位の後退を逆説的なかたちで物語っている.フランス語の文法書が生まれたのは,ほかならぬイギリスにおいてである.それは一四〇〇年に出版された『フランス語のドナトゥス (Donat françois)』 である(この教科書にドナトゥスの名前が冠せられているのにはわけがある.四世紀の有名なラテン語の文法化ドナトゥスは,中世には文法のモデルとみなされていたからである).著者〔ジョン・バートン〕はこの本をこう紹介している.
イギリス王国の優れたひとびとは,フランス語を読み書き聞き話すことを熱烈に望んでいる.それは,彼らの隣人であるフランス王国のひとびとと親しく会話するためであり,また,イギリスの法律や多くの重要な事どもはフランス語で言いあらわされるからであり,さらには,イギリス王国においてさえほとんどすべての紳士淑女たちはフランス語でたがいに手紙を書くからである.だからこそ,私は思うのだが,フランス語の正しい性質を知ることは,イギリス人にとって絶対に必要なのである.(François 1959, t.I, p.100 に引用)
フランス語の知識がしだいに衰えつつあったことがここからわかる.というのは,何冊かの最初のフランス語の文法書は,イギリスでフランス語を忘れつつあったひとびとのために書かれたからである.
Donet François はフランス語で書かれていたが,あくまでイングランド人によるイングランド人のためのフランス語文法書だった.これが本格的なフランス語文法書の第1号である.この後,1530年に John Palsgrave が英語による初のフランス語文法書 Lesclarcissement de la Langue Francoyse を上梓したが,このように,当時フランス語学習熱はかなり盛り上がっていた(cf. 「#4173. Palsgrave のフランス語文典」 ([2020-09-29-1])).いな,文法書は別にしても,フランス語の単語集や会話集は,その多くが早くも13世紀以来イギリスの地で作成されてきたことも明記しておきたい (武井,p. 162) .
・ グロード・アジェージュ(著),糟谷 啓介・佐野 直子(訳) 『共通語の世界史 --- ヨーロッパ諸語をめぐる地政学』 白水社,2018年.
・ 武井 由紀 「最古のフランス語文法書,Donait françois について」『名古屋外国語大学外国語学部紀要』第44巻,2013年.161--81頁.
西洋史においてフランス語が威光を放っていた時期が2回ある.12--13世紀と17--18世紀だ.前者については「#2604. 13世紀のフランス語の文化的,国際的な地位」 ([2016-06-13-1]),後者については「#678. 汎ヨーロッパ的な18世紀のフランス借用語」 ([2011-03-06-1]) などで簡単に扱ってきた.今回は前者の中世における隆盛について改めて考えてみたい.
アジェージュ (118--19) は,12--13世紀にフランス語が超域的に威信を放っていた事実を次のように描写している.
中世において,フランス語はすでに十二世紀以前から周囲の国々に強い影響力を及ぼしはじめていた.そのことは,フランス国外にフランス語の支配圏を確立させたひとつの出来事が何よりも物語っている.それは一〇六六年のイギリスの征服である.フランス語は三百年間にわたってイギリスに君臨し,巨大で深い跡を残した〔中略〕.さらに加えて,十一世紀のノルマン人の侵略とそれにつづくアンジュー家の移住によって,中世フランス語はシチリア王国にひろまり,さらには一三一五年までナポリで勢力を保った.しかしとりわけ,十字軍はキプロス王国治下のモレアス地方(ペロポネソス半島)にフランス語を移植し,そこでフランス語は十三世紀にリュジナン王朝の公用語となった.また,コンスタンティノープルでは,ガスムロス〔東ローマ帝国においてビザンツ人と「ラテン人」との間に生まれた人間とその子孫を指す〕がフランス語の普及に一役買った.そのほかにも,パレスチナやシリアのようなヨーロッパの外にある隣接地域については,いうまでもない.そこでは,フランク人が支配的な役割を務めていたため,フランス語が西方キリスト教会の共通語となった時代さえあった.エルサレムとアンティオキアで作成された法令集は,フランス語がフランスの公用語となる以前に,フランス語をこれらの王国の公用語に定めた.
当時のフランス語の威信はどこから来たものなのか.アジェージュ (120--21) によれば,1つは,フランスの王女が外国の君主と婚姻を結び,ヨーロッパの王家どうしのつながりを深めたということがある.これが,フランス語の普及に有利に働いたと考えられる.もう1つは,武勲詩や騎士道物語に代表されるフランス語文学の存在である.文学を通じて多くの言語にフランス語彙が流入するとともに,フランス語自体の存在感も増した.
しかし,13世紀末になるとフランス語の勢いは衰え始め,14世紀半ばには国際的な存在感を失った.フランス語の影響力がとりわけ強かったイングランドにおいてすら,14世紀にはフランス語は容易に理解されない言語となっていたのである(cf. 「#2612. 14世紀にフランス語ではなく英語で書こうとしたわけ」 ([2016-06-21-1])) .こうしてフランス語の栄光の第1幕が閉じた.
・ グロード・アジェージュ(著),糟谷 啓介・佐野 直子(訳) 『共通語の世界史 --- ヨーロッパ諸語をめぐる地政学』 白水社,2018年.
アジェージュが,専門的な分野の語彙は異なる言語間で貸し借りされ,統一に向かう傾向があると指摘している.
典型的に科学用語を念頭におくと,確かにその語彙は少なくとも様々な西洋語間で,そして多くの場合世界の多数の言語間でも,共通していることが多い.たとえ各言語へ翻訳され語形こそ共通ではなくなったケースでも,その意味(科学的な定義)はほぼ同一に保たれるのが普通である.専門的な分野の語彙が言語境界を越えて伝播していく傾向について,アジェージュ (210--11) は「大いなる模写」という印象的な名前を与えながら指摘している.
大いなる模写
豊富な借用は,ヨーロッパの諸言語の語彙のなかに,言語の壁をこえた同語反復のひろがりを作り出している.ヨーロッパ以外の大陸の諸言語についても同じことがいえる.たしかに,ヨーロッパ以外の諸言語は,語彙を豊かにするために古典的基盤に頼り,つねにそこから語彙の源を汲んでいる.たとえば,ヒンディー語,タイ語,ビルマ語などの東南アジアの諸言語にはサンスクリットとパーリ語,日本語には古典中国語や訓読漢字語,テュルク系言語やモンゴル系言語には古トルコ語と古モンゴル語がそれにあたる.しかし,これらすべての言語はまた同様に,専門用語を作り出す必要に答えるために,英語にも頼っている.そしてこの英語も,多くの学問用語をラテン語,ギリシア語の語根から形成しているのである.
その結果,多くのヨーロッパやその他の地域の言語がギリシア・ラテンの系統に属さないとしても,専門用語は全般的によく似ていることになる.このような相同性が言語の習得を容易にしたり,少なくとも受け身の理解をしやすくしているとしたら,メイエが強調するように〔中略〕,諸言語はそれぞれたがいの巨大で忠実なコピーとなってしまうのだろうか? 各言語の単語がたがいに異質な諸文明のはてしなく多様な支柱ではなくなり――その場合には翻訳はしばしば甘美な難業となる――,すべての文化に共通な概念と対象をいつも同じように表わすできあいの鋳型になっていたのであれば,このような単語の有用性はとくに実用に資するものとなり,経済的に正当化されるであろう.そうなれば,新しい言語の獲得が精神を豊かにするなどとは,見なされなくなるだろう.
しかし実際には,ヨーロッパの諸言語内での大幅な模写は,きわめて専門的な語彙でしか起こっておらず,その意味で語彙の特定の部分に限られている.残りの部分はもとの状態のままであり,とくに慣用表現などがそうである(とはいえ,慣用表現の分野でも収束現象が見られないわけではないが).そして何よりも,ひとつの言語の本質を形づくる文法構造は,それぞれに特有の形でありつづけている.そうである以上,多数の言語が繁茂することは,無機的で取り替え可能な道具が大量に存在するのとはわけがちがうのである.専門的な分野の語彙に統一に向かう傾向があるのは,このような生命の開花と矛盾するどころか,その正当な限界を記しづけているのである.
アジェージュの趣旨は,専門的な分野の語彙に関していえば確かに「大いなる模写」の傾向は見られるが,あくまでそれは部分的で表面的なものにすぎず,言語体系全体に関しての「さらなる大いなる模写」などあり得ない,ということだ.引用最後で,大いなる模写の「正当な限界」にまで言い及んでいる.実は言語の模写の小なることを訴えたい文章だったのではないか,と解釈しなおした.
英語史の立場からの科学用語の造語・伝播の問題については「#1694. 科学語彙においてギリシア語要素が繁栄した理由」 ([2013-12-16-1]),「#3013. 19世紀に非難された新古典主義的複合語」 ([2017-07-27-1]),「#3166. 英製希羅語としての科学用語」 ([2017-12-27-1]),「#3179. 「新古典主義的複合語」か「英製羅語」か」 ([2018-01-09-1]),「#4191. 科学用語の意味の諸言語への伝播について」 ([2020-10-17-1]) などの記事をどうぞ.
・ グロード・アジェージュ(著),糟谷 啓介・佐野 直子(訳) 『共通語の世界史 --- ヨーロッパ諸語をめぐる地政学』 白水社,2018年.
名詞の複数形は通常は -(e)s をつければよいだけですが,なかには不規則複数形といわれるものがあります.不規則複数形にも実は多種類あるのですが,1つのタイプとして foot --feet, goose -- geese, louse -- lice, man -- men, mouse -- mice, tooth -- teeth, woman -- women が挙げられます.語幹の母音が変異するタイプですね.英語史的にいえば,これらの複数形は同一の原理によるものとして説明できます.foot -- feet を例に,音変化の機微をご覧に入れましょう.音声解説をお聴きください.
/i/ という母音は,音声学的にいえば極端でどぎつい音です.周囲の音を自分自身の近くに引きつけ,しばしば自他ともに変質させてしまう強力なマグネットとして作用します.例えば,この効果による /ai/ → /eː/ はよくある音変化で,「やばい」 /yabai/ も口語ではしばしば「やべー」 /yabeː/ となりますね.英語でも,day はもともとは綴字が示す通りに /dai/ に近い発音でしたが,近代までに /deː/ へと変化しました.
これと似たようなことが,英語成立に先立つゲルマン語の時代に foot の当時の発音である /foːt/ に起こったのです.複数語尾である -iz が付加された /foːtiz/ は,どぎつい /i/ の音声的影響のもとに,やがて /feːtiz/ となりました.その後,強勢のおかれない語尾に位置する /z/ や,変化を引き起こした元凶である /i/ 自体が弱まって消失していき,最終的に /feːt/ に帰着したのです.この複数形態こそが,古英語の fēt であり,現代英語の feet なのです.
この話題については##157,2017の記事セットで本格的に扱っていますので,関心のある方は是非そちらもご覧ください.
サッポロビールには嫌われそうですが,この話題で数日間引っ張っています(cf. 「#4300. サッポロ LAGAR が発売されました」 ([2021-02-03-1]),「#4301. 寝かせて熟成させた貯蔵ビール lager」 ([2021-02-04-1]),「#4302. 行為者接尾辞 -ar」 ([2021-02-05-1])).
なぜ正しい綴字である lager が誤って lagar と綴られるに至ったかと問うのは,責任追及の意図では毛頭なく,純粋な正書法あるいは英語学習・教育に関する関心からです.ちょっと考えてみると,-gar は身近な単語にけっこうあるのですね.名詞とは限りませんが,sugar, beggar, vinegar, vulgar といった日常語も挙がってきます.これを見ると,今回の綴り間違いに激しく同情するというわけではなくとも,英語の綴字体系そのものがおかしいのではないかという印象をもつ人も少なくないだろうと想像します.どの単語が -er で,どの単語が -ar なのかは,昨日の記事 ([2021-02-05-1]) でも示唆したように,歴史的に共時的にも完全には説明できず,言ってみればテキトーなのです.
「辞書を引いて正しい綴字を確認しなさい」と言われれば確かに身も蓋もないわけですし,私も英語教員のはしくれとして,おいそれとスペルミスについて寛容主義を貫くことは難しいと自認してはいるのですが,ここでは誰もが lager を lagar と間違え得る「理由」があるということを述べたいだけです.-er, -or, -ar の間の選択には緩い傾向はあるにせよ完全な規則はありませんし,発音もすべて /ə(r)/ で区別されないのですから.
さて,英語は世界の lingua_franca でもありますが,日本においては義務教育で学習すべき言語であるとはいえ,あくまでよそ者の「外国語」という地位にあることも事実です.その点では,日本語の例えば漢字間違いに比べれば,英語のスペルミスは国内では許され得るという意見もあるかもしれません.この「日本語の例えば漢字間違いに比べれば,英語のスペルミスは国内では許され得る」という寛容度の序列が現にあるのか,あるとすれば,それはなぜなのか,というのが私の次なる疑問です.これは,日本で認識されている英語と世界における英語がどのような関係にあるのかという問いにもつながってきます.サッポロビールが国内で lagar の綴字のまま売り出すことに踏み切ったということは,何を意味するのかということです.日本における英語の位置づけ,世界における英語の位置づけを改めて考えてみたいと思います.
行為者接尾辞については,「#1748. -er or -or」 ([2014-02-08-1]) をはじめとして agentive_suffix のいくつかの記事で取り上げてきた.しかし,-ar についてはあまり注目してこなかったので,一昨日の記事「#4300. サッポロ LAGAR が発売されました」 ([2021-02-03-1]) とも関連して,ここで触れておきたい.
英語の行為者接尾辞 -ar は,-or (< L -ōrem, -or) と比較されるように,ラテン語の行為者接尾辞 -ārius, -āris にさかのぼる.しかし,-āris はラテン語では形容詞を作る接尾辞でもあり,少々ややこしい事情がある.
形容詞を作る接尾辞としての -āris は,「#3940. 形容詞を作る接尾辞 -al と -ar」 ([2020-02-09-1]) でみたように,基体に l が含まれる場合に,異化 (dissimilation) のため -ālis に代わって用いられたものである.scholar もその例となるが,もともとこの語は,名詞 sc(h)ola (学校)に当該の接尾辞 -āris を加えたものであり,「学校に属する」ほどの意だった.この形容詞が「学校に属する者」ほどの意味で名詞化したものが,scholar として現代まで伝わっているというわけだ.この由来を知らない後世の人々が,scholar の末尾にみえる -ar を,何らかの人・ものを表わす接尾辞として再解釈したのだろう.
英語では -er や -or が行為者接尾辞として併存してきたので,なおのこと -ar もその1変種にすぎないという理解が広まったようだ.そこから,数は多くないものの beggar, burglar, liar, pedlar のように自由に行為者名詞が作られることとなった.名詞 burglar から動詞 burgle が逆成 (back_formation) されたというのは英語史上よく知られた話題だが,これも -ar が行為者接尾辞として意識されているからこそ可能となった語形成である(cf. 「#107. 逆成と接辞変形」 ([2009-08-12-1])).
これらの -ar 行為者名詞の語幹に l が含まれているものが多いことは,上述のラテン語の異化と平行的であり興味深い.意味的にも「よからぬ行ないをする者」というネガティヴな含蓄をもっているものが多く,語形成あるいは綴字選択にあたっての相互作用を疑いたくなる.もっとも scholar, vicar, pillar にそのような含蓄はなく,あったとしても緩い傾向にすぎないと思われるが.
昨日の記事「#4300. サッポロ LAGAR が発売されました」 ([2021-02-03-1]) で話題にした(lagar ならぬ)lager について.ラガー(ビール)は,醸造後にたいてい加熱殺菌し貯蔵タンクで熟成させたビールを指す.生ではなく「寝かせた」ビールというのがポイントである.
語中の /ɡ/ の発音から示唆されるとおり,この語は本来の英単語ではなくドイツ語 Lager(bier) からの借用語である.OED によると,英語での初出は,複合語 lager beer としては1853年,単体の lager としては1855年となっている.
ドイツ語 Lager は「貯蔵所」を意味する.これと語源的に関連するのは,英語本来語である lair (ねぐら,巣)である.古英語では leġer (寝場所,ベッド)の形態で文証される.
すでに気づいたかもしれないが,これらの語根の意味は「寝る,横になる」である.現代英語でいえば lie (横たわる)に相当する.lie -- lay -- lain と唱えて覚えた方も多いと想像される,あの自動詞 lie である.ちなみに,対応する他動詞の活用は lay -- laid -- laid だった(cf. 「#3682. 自動詞 lie と他動詞 lay を混同したらダメ (1)」 ([2019-05-27-1]),「#3683. 自動詞 lie と他動詞 lay を混同したらダメ (2)」 ([2019-05-28-1])).
というわけで,語源的にいえば lager beer はまさに「ねぐらで寝かせておいたビール」ということになる.
ついでに,動詞 lie には「横たわる」と並んで,同形ながら別語源の「嘘をつく」もある.行為者接尾辞をつけると,前者は lier (横たわる人)で,後者は liar (嘘つき)となるのが,lager と *lagar の関係に似ていておもしろい.サッポロ LAGAR は「嘘から出た誠」のラガービール?
この数週間待ちわびていたのですが,昨日,サッポロビールより新商品の缶ビール「サッポロ 開拓使麦酒仕立て」が発売されました.ポイントは,缶のデザインに表記されている LAGAR です.「ラガー」の綴字は正しくは lager で -er をもつのですが,印刷では -ar となっているのです. *
詳細はこちらの1月13日付の朝日新聞デジタルの記事をご覧いただければと思います.サッポロビールが事前にこのスペルミスに気づき,発売中止を決めていたけれども,世論の要望を受けてそのまま売り出すことに決めたという趣旨です.
私個人としては(ビール好きであることも関係しますが),指摘されなければ気づかないほどの小さなスペルミスで発売中止にするというのはもったいないという立場で,サッポロビールの決断を支持したいと思います.ただし,1英語教員として手放しに寛容主義を貫くわけにもいかないという難しい立場にもありますので,胸中をお察しください(笑).
私的な見解は別として,一般的にいえばスペルミスは社会的信用を失墜させることが多いというのも事実です.サッポロビールの最初の発売中止の決定も,信用失墜を恐れてのことでしょう.ほんの1字の誤りにすぎず,それによって誤解が生じることはまったくないわけですが,それでも社会的に侮れないのが正書法 (orthography) というものです.
私も一消費者としては「問題ない」と無責任に言ってしまえますが,もし自分がサッポロビールの社長だったらどうするかなあ,などと考えてみました.皆さんはどのように考えるでしょうか.
スペルミスを巡る考察として,以下の記事もどうぞ.
・ 「#2288. ショッピングサイトでのスペリングミスは致命的となりうる」 ([2015-08-02-1])
・ 「#3671. オーストラリア50ドル札に responsibility のスペリングミス (1)」 ([2019-05-16-1])
・ 「#3672. オーストラリア50ドル札に responsibility のスペリングミス (2)」 ([2019-05-17-1])
ちなみに,早速,昨晩このビールを買って飲んでみました.売り場には「スペルは間違えたけど,味は間違いなし!」という粋な文句がありました.3月1日までの限定販売で売り切れたら終わりということですので,皆さん走りましょう.
「#4293. Trier の「意味の場」の言語学史上の意義 (1)」 ([2021-01-27-1]),「#4294. Trier の「意味の場」の言語学史上の意義 (2)」 ([2021-01-28-1]) で Trier の「意味の場」について紹介してきた.後者の記事の最後で,Trier の構造主義的な「場の理論」があまりに理想主義的であり,現実の語彙にきれいに適用できるものではないという評価に触れた.
実際,後に展開した意味論の成分分析 (componential analysis) は,Trier の「意味の場」が現実離れした概念であることを示した.語の意味とは,確かに構造的な側面もあるが,それ以外にも多様な側面をもっているのだ.
Trier の理論的限界を指摘する評価を,『新英語学辞典』の field の項より引用したい (434) .
場の内部構造に関しては,初期の頃は,Trier の有名な「モザイク模様」のたとえにも見られるように,ある決まった概念分野を幾つかの語が隙間もなく,また重なりもなく完全に覆っているといった理想像が描かれていた.このようなイメジは,後に Trier 自身をも含めて放棄され,代わって,場を構成する個々の語はその意味の周辺部では他の語の意味範囲との重複や交差があり,一つの場自体の境界も明確な線としてではなく,他の隣接する場への緩やかな移行という形で受け取られるようになった.また,語の意味はそれを場の中に位置づけることによってのみわかるという強い形での主張や,場からある語が失われたり,ある語がそこへ新しく入ってきた場合,その場に属するすべての語がその影響を受けるというような考え方も現在ではやや理想的にすぎるとされている.さらに,場はその術語から想像されがちなように平板的な構造を有している場合のみとは限らず,例えば親族用語などに照らしても明らかなように,幾つかの対立の次元に基づいて多元的な構造を有しているという点についても意見の一致が得られているようである.意味の成分分析 (COMPONENTIAL ANALYSIS) の研究が進むにつれて,その観点から伝統的な「場」の概念に新しい規定の道が開かれるものと予想される.
とはいえ,Trier に端を発する構造言語学的な語彙・意味の分析は,英語史や英語学の入門書・入門講義ではまだまだ取り上げられることも多いのではないだろうか.図式的できれいに説明できるので,手放しがたいものと思われる.しかし,現代の意味論,とりわけ認知意味論では,むしろ意味の区画は整然としていないことを前提とする prototype の見方が主流であり,Trier 流のガチガチの構造主義的意味論は肩身が狭い.したがって,現代的にいえば,Trier の「意味の場」の理論的限界は明らかだろう.
それでも,言語学史的にみれば,いきなりファジーな prototype を持ち出されるよりは,ガチガチの構造主義的な「意味の場」のほうが,ずっと分かりやすかったのも事実である.まずきっちりした区画が前提としてあり,その後,現実はもっとファジーなものなのだと再解釈を促される,という順序で教えられたほうが,よほど理解しやすいのである.やはり,Trier の「意味の場」は大きな学史的な意義を有すると思う.
・ 大塚 高信,中島 文雄(監修) 『新英語学辞典』 研究社,1982年.
現代世界において,スペイン語の話者人口は著しく増加している.母語話者数でいえば,この10年ほどの間に英語を追い抜き,中国語に継ぐ世界第2位の地位を誇るに至った超大言語である(cf. 「#3009. 母語話者数による世界トップ25言語(2017年版)」 ([2017-07-23-1])).ただし,スペイン語のこの勢いは,スペイン本国というよりは南米諸国の勢いに大きく依存している.また,アメリカ合衆国内部での伸張が著しいことも注目に値する(cf. 「#256. 米国の Hispanification」 ([2010-01-08-1])).
現代世界におけるスペイン語の伸張はこのように明らかだが,お膝元のヨーロッパにおいてはどうだろうか.スペイン語はヨーロッパでももちろん大言語の1つとは言い得るが,域内の近代史のなかでリンガ・フランカとして影響力を示したことはなかった.少なくとも英語,フランス語,ドイツ語に比べれば,その影響力は常に小さいものだったし,現在もそうである.なぜスペイン語はヨーロッパの有力な共通語とならなかったのだろうか.
この問いに関して,アジェージュに記述がある.ラテン語から派生し,カスティーリャ語として国家語の地位に就き,新大陸へも拡張したスペイン語の歴史を振り返った後で,次のように述べている (27--28) .
スペイン語はこれほど波瀾万丈の歴史を経てきたのだから,それを糧にして,ヨーロッパの共通語として名乗りをあげてもよさそうなものではないだろうか.ところが実際にはそううまくはいかなかった.というのも,スペイン語は,その歴史を通じて,ヨーロッパの超国民的なコミュニケーション言語として使われたことがまったくないからである.たとえば,スペイン語と同じくらいの話者数をもつ言語にポーランド語やウクライナ語があり,約三〇〇〇から三五〇〇万のひとびとに話されているが,スペイン語はこれらの言語と比べても地域的なひろがりをもっていない.スペイン王国がつぎつぎと国外の王国を併合したおかげで,スペイン語を母語とする君主たちが,スペインよりも広大な領土をもつ帝国を支配することとなったことはたしかである.けれども,どの土地でもスペイン語は優越した地位を占めなかった.ポルトガルでも,イベリア半島の外でもそうであった.たとえば,十七世紀,十八世紀のスペイン領ネーデルラント,さらにミラノやナポリがそうであった.もし歴史の女神がスペインを大西洋のはるかかなたの大陸に向かわせることがなかったならば,そして十九世紀半ばまでに,スペイン独特の政治,経済,社会,宗教のあり方が,他の西欧諸国に見られるのとは異質の文明をスペインに作りあげてこなかったならば,スペイン語はヨーロッパの共通語のひとつになってもなんらおかしくはなかったはずだ.とはいえ,いまやアメリカ合衆国では,東はプエルトリコ系から西はメキシコ系にいたるまで,カスティーリャ語のさまざまなアメリカ的変種の占める地位がますます増大している状況を見ると,スペイン語の未来は約束されているように思えるかもしれない.こうした動向を応援するひとのなかには,スペイン語がアメリカ大陸にいまよりさらにひろい領土を獲得した後に,凱旋将軍としてヨーロッパにもどってくる日が来るのを心待ちにしているひとさえいるだろう.しかしいずれにせよ,いまのところスペイン語は,ヨーロッパ大陸を結びつける言語のモデルとしては役不足である.
この記述は,先の「なぜ」の問いに答えているわけではない.「歴史の女神」を引き合いにしているにすぎないからだ.この問題は,とりわけ英語やフランス語の歴史と比較していけば解決するにちがいない.言語の帯びる威信 (prestige) や言語計画 (language_planning) という観点からの比較もおもしろそうだ.
・ グロード・アジェージュ(著),糟谷 啓介・佐野 直子(訳) 『共通語の世界史 --- ヨーロッパ諸語をめぐる地政学』 白水社,2018年.
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最終更新時間: 2024-12-16 08:44
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