初期中英語のスペリング事情をめぐって「#1238. アングロ・ノルマン写字生の神話」 ([2012-09-16-1]) という学説上の問題がある.昨今はあまり取り上げられなくなったが,文献で言及されることはある.初期中英語のスペリングが後期古英語の規範から著しく逸脱している事実を指して,写字生は英語を話せないアングロ・ノルマン人に違いないと解釈する学説である.
しかし,過去にも現在にも,英語母語話者であっても英語を書く際にスペリングミスを犯すことは日常茶飯だし,その書き手が「外国人」であるとは,そう簡単に結論づけられるものではないだろう.初期中英語期の名前事情について論じている Clark (548--49) も,強い批判を展開している.
Orthography is, as always in historical linguistics, a basic problem, and one that must be faced not only squarely but in terms of the particular type of document concerned and its likely sociocultural background. Thus, to claim, in the context of fourteenth-century tax-rolls, that 'OE þ, ð are sometimes written t, d owing to the inability of the French scribes to pronounce these sounds' . . . involves at least two unproven assumptions: (a) that throughout the Middle English period scriptoria were staffed chiefly by non-native speakers; and (b) that the substitutions which such non-native speakers were likely to make for awkward English sounds can confidently be reconstructed (present-day substitutes for /θ/ and /ð/, for what they are worth, vary partly according to the speakers' backgrounds, often involving, not /t/ and /d/, but other sorts of spirant, e.g., /s/ and /z/, or /f/ and /v/) Of course, if --- as all the evidence suggests --- (a) can confidently be dismissed, then (b) becomes irrelevant. The orthographical question that nevertheless remains is best approached in documentary terms; and almost all medieval administrative documents, tax-rolls included, were, in intention, Latin documents . . . . A Latin-based orthography did not provide for distinction between /θ/ and /t/ or between /ð/ and /d/, and so spellings of the sorts mentioned may reasonably be taken as being, like the associated use of Latin inflections, matters of graphic decorum rather than in any sense connected with pronunciation.
Clark の論点は明確である.名前のスペリングに関する限り,そもそも英語ではなくラテン語で(あるいは作法としてラテン語風に)綴られるのが前提だったのだから,英語話者とアングロ・ノルマン語話者のの発音のギャップなどという議論は飛んでしまうのである.
もちろん名前以外の一般語のスペリングについてどのような状況だったのかは,別問題ではある.
・ Clark, Cecily. "Onomastics." The Cambridge History of the English Language. Vol. 2. Ed. Olga Fischer. Cambridge: CUP, 1992. 542--606.
イングランド北部・東部には古ノルド語の要素を含む地名が多い.特に興味深いのは古ノルド語要素と英語要素が混在した "hybrid" な地名である.これについては「#818. イングランドに残る古ノルド語地名」 ([2011-07-24-1]) などで紹介してきた.
その代表例の1つがイングランドに多く見られる Grimston だ.古ノルド語人名に由来する Grim に,属格の s が続き,さらに古英語由来の -ton (town) が付属する形だ.私も典型的な hybrid とみなしてきたが,名前学の知見によると,これはむしろ典型的な誤解なのだという.Clark (468--69) を引用する.
An especially unhappy case of misinterpretation has been that of the widespread place-name form Grimston, long and perhaps irrevocably established as the type of a hybrid in which an OE generic, here -tūn 'estate', is coupled with a Scandinavian specific . . . . Certainly a Scandinavian personal name Grímr existed, and certainly it became current in England . . . . But observation that places so named more often than not occupy unpromising sites suggests that in this particular compound Grim- might better be taken, not as this Scandinavian name, but as the OE Grīm employed as a by-name for Woden and so in Christian parlance for the Devil . . . .
今年の夏から「名前プロジェクト」 (name_project) の一環として名前学 (onomastic) の深みを覗き込んでいるところだが,いろいろな落とし穴が潜んでいそうだ.「定説」に対抗する類似した話題としては「#1938. 連結形 -by による地名形成は古ノルド語のものか?」 ([2014-08-17-1]) も参照.
・ Clark, Cecily. "Onomastics." The Cambridge History of the English Language. Vol. 1. Ed. Richard M. Hogg. Cambridge: CUP, 1992. 452--89.
ここ数日間で,知識共有サービス Mond に寄せられてきた言語系の質問に5件ほど回答しました.こちらでもリンクを共有します.
(1) 敬語の表現が少ない英語の話者には,日本人よりも敬意を示す機会が少ないのでしょうか?
(2) 歴史的に見て「言語の変化=簡略化」なのでしょうか?
(3) ブログ,ラジオ,YouTubeなど,様々なメディアを通じて英語の歴史や語源に関する情報を発信していらっしゃいますが,これらのメディアごとにアプローチやコンセプトを変えて情報を提供していますか?
(4) なぜ人々は(もちろん個人差はあれど)イギリスやフランスなどのアクセントを“魅力的”とし,アジアやインドのアクセントを“魅力がない”とするのでしょうか?
(5) 言語の変化は,どの程度の速度で起こりますか? 例えば,新しい言葉や表現は,どのくらいの頻度で生まれるものなのでしょうか?
Mond に寄せられる言語系の質問は多様ですが,日本語と諸外国語との比較というジャンルの質問が目立ちます.今回も (1) や (4) がそのジャンルに属するかと思います.母語は万人にとって特別な存在であり,あまりに思い入れが強いために,他の言語と比べてきわめて特異な性質をもっているものと錯覚してしまうことがしばしば起こります.とりわけ語学を通じて理解の深まった他言語と比較するときに,母語の際立った言語特徴が目に付くことが多く,母語の特別視に拍車がかかります.
長年言語学に触れてきた経験から感じることは,母語の特別視は往々にして行き過ぎる傾向があるということです.確かに各々の言語には固有の特徴があるもので,その点では日本語も例外ではないのですが,日本語のみに観察される言語特徴というのは,さほど多くあるわけではなく,広く古今東西の諸言語を見渡せば類例はおおよそ見つかるものです.言語の素朴な疑問に関する直感は,当たることもありますが,割と外れることも多いのです.
今回の5件の質問のうちの3つ,(1), (2), (4) は,振り返ってみれば,言語にまつわる神話 (language_myth) に関わる質問だったように思います.言語学的な考察を通じて,言語の化けの皮を一枚一枚剥いでいくのが,何ともエキサイティングですね.
昨晩7時より60分ほど Voicy チャンネル「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」の生放送をお届けしました.参加いただいたリスナーの皆さん,ありがとうございました.生放送を収録したものを,今朝のレギュラー放送として配信しています.「#776. 「言語は○○である」 --- 初のリスナー参加の生放送企画」をお聴き下さい.
この生放送企画は,先日の「#5188. 「言語は○○のようだ」 --- 言語をターゲットとする概念メタファーをブレストして楽しむ企画のご案内」 ([2023-07-11-1]) を受けたものです.あらかじめリスナーの皆さんに「言語は○○である」のメタファーとその「心」を考えてもらい,Voicy のコメント欄にて寄せてもらった上で,それを生放送で紹介し,鑑賞するという企画でした.
実は今回の企画に先立ち,プレミアムリスナー限定配信チャンネル「英語史の輪」 (helwa) のほうで,一度「予行演習」を行なっていました.2回の企画を通じてインスピレーションをかき立てる,優れたメタファーが数多く寄せられ,たいへん有意義な機会となりました.リスナーの皆さんには重ねてお礼申し上げます.関連する4回の配信を一覧しておきます.
・ 「【英語史の輪 #10】言語は○○のようだ --- あなたは言語を何に喩えますか?」: 【第1ラウンド】 企画を公開しブレストを呼びかけた回
・ 「【英語史の輪 #11】言語は○○のようだ --- 生激論」: 【第1ラウンド】 上記を受けて,寄せられた概念メタファーを読み上げながら鑑賞した生放送回
・ 「#771. 「言語は○○のようだ」 --- 概念メタファーをめぐるリスナー参加型企画のご案内」: 【第2ラウンド】 企画を公開しブレストを呼びかけた回
・ 「#776. 「言語は○○である」 --- 初のリスナー参加の生放送企画」: 【第2ラウンド】 上記を受けて,寄せられた概念メタファーを読み上げながら鑑賞した生放送回
・ (2023/07/17(Mon) 後記)「#777. 「言語は○○のようだ」--- 生放送で読み上げられなかったメタファーを紹介します」: 【第2ラウンド】 生放送で取り上げ切れなかったものを改めて読み上げる回
以下に,今回の企画のために寄せられてきた「言語は○○である」メタファーを列挙します(cf. 「#4540. 概念メタファー「言語は人間である」」 ([2021-10-01-1]) とそこに張ったリンク先も参照).それぞれのメタファーの「心」を言い当ててみる,という楽しみ方もできるかと思います.
・ 言語は絵の具である
・ 言語は眼鏡である
・ 言語は生物である
・ 外国語学習は生まれ変わることである
・ 言語は壁ではなく階段である
・ 言葉は可能性である
・ 外国語の習得は思考法のインストールである
・ ことばはサーチライトである
・ 概念メタファーはサーチライトである
・ 言語はリフォームを繰り返す家である
・ 言葉は品物である
・ 言葉は食べ物である
・ 言語は扉である
・ 言語(認識)は恋に似ている
・ 言葉は川の流れのようだ
・ 言語は惑星である
・ 言語は自転車である
・ 言語は筋肉である
・ 言語空間はメタバースである
・ 言葉は声かけによる手当である
・ 言葉は玉手箱である
・ 言語は多面体である
毎朝6時にお届けしている Voicy チャンネル「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」のなかで,先月よりプレミアムリスナー限定配信チャンネル「英語史の輪」 (helwa) を始めています(原則として毎週火曜日と金曜日の午後6時に配信).新チャンネル開設の趣旨については,本ブログでは「#5145. 6月2日(金),Voicy プレミアムリスナー限定配信の新チャンネル「英語史の輪」を開始します」 ([2023-05-29-1]) で詳述しており,heldio でも音声で「#727. 6月2日(金),Voicy プレミアムリスナー限定配信の新チャンネル「英語史の輪」を開始します」として説明していますので,ぜひご確認いただければと思います.基本的には,英語史活動(hel活)をますます盛り上げていくための基盤作りのコミュニティです.
「英語史の輪」 (helwa) の過去2回の配信回では,リスナー参加型企画を展開しました.前もって「言語は○○のようだ」の概念メタファー (conceptual_metaphor) をプレミアムリスナーの皆さんより寄せていただき,それを話の種として,生放送で一部のプレミアムリスナーもゲストとして音声参加してもらいつつ盛り上がろうという企画でした.ご関心をもった方は,ぜひプレミアムリスナーになっていただければと.
・ 「【英語史の輪 #10】言語は○○のようだ --- あなたは言語を何に喩えますか?」: 企画を公開しブレストを呼びかけた回
・ 「【英語史の輪 #11】言語は○○のようだ --- 生激論」: 上記を受けて,寄せられた概念メタファーを読み上げながら鑑賞した生放送回
この企画は大成功のうちに終了しましたが,非常におもしろかったので,これで終わらせるにはもったいない,heldio のレギュラー配信でも同じことをやってみよう,と思い立った次第です.今朝の heldio レギュラー回「#771. 「言語は○○のようだ」 --- 概念メタファーをめぐるリスナー参加型企画のご案内」で,企画を案内しコメントを募りましたので,ぜひお聴きいただければ.
集まってきたコメントを回収した上で,それを話の種として,今週末の晩(目下,日程を調整中です)に heldio 生放送を実施する予定です.生放送の日時を含め,企画の最新情報は明日以降の heldio レギュラー回でお知らせいたします.奮ってご参加ください.
概念メタファーについては,conceptual_metaphor の各記事,および heldio より「#598. メタファーとは何か? 卒業生の藤平さんとの対談」をどうぞ.
参考までに「英語史の輪」 (helwa) の同企画で寄せられた「言語は○○のようだ」「言語は○○である」のアイディアを箇条書きで挙げてみます(cf. 「#4540. 概念メタファー「言語は人間である」」 ([2021-10-01-1]) とそこに張ったリンク先も参照).それぞれのメタファーの「心」は何かを考えてみるとおもしろいですね.なお,主語(ターゲット)は「言語」からぐんと狭めていただいてもかまいません.以下の通り「語学」「音読」「声」「言語変化」など,狭めた例は多々あります.ブレストですので質よりも量で行きましょう.
・ ことばは鏡である
・ 言葉は血液である
・ 言語は決して揃うことのないルービックキューブである
・ 言語は競争である
・ 言語は色である
・ 言葉は雪のようである
・ 言葉はスノーボードのようである
・ 言語は思考の立体断面図である
・ 外国語学習は精神的な海外旅行である
・ 語学は心の海外旅行である
・ 音読は心のストレッチ体操である
・ 音読は心のラジオ体操である
・ 声は楽器である
・ 語源はタイムカプセルである
・ 言葉は液体である
・ 言葉は食べ物である
・ 言語はカクテルである
・ 言語は万華鏡である
・ 言語はファッションである
・ 言語は武器である
・ 言語は新陳代謝である
・ 言語は南極である
・ 言語は実践である
・ 言語はパッチワークである
・ 言語は手がかりである
・ 言語は呼吸である
・ 言語変化は発芽である
・ 言語(教育)は商品である
・ 言語は海である
・ 言語は四季である
・ 言語は風のようである
・ 言語は過去との握手である
・ 言語は音楽である
・ 言語は異性である
・ 言語は化学反応である
・ 言語は波紋である
一昨日の記事「#5103. 支配者は必ずしも自らの言語を被支配者に押しつけるわけではない」 ([2023-04-17-1]) で紹介した山本冴里(編)『複数の言語で生きて死ぬ』(くろしお出版,2022年)の第1章「夢を話せない --- 言語の数が減るということ」(山本冴里)に,有力な言語のもつ「後光のようなもの」について論じられている箇所がある (pp. 14--15) .
言語そのものというより,言語に冠された後光のようなもの.それがX語の持つ力である.過去,東アジア世界では漢文が,ローマ時代の地中海地域と中世のヨーロッパではラテン語が,一七世紀~一九世紀のヨーロッパ知識人の間ではフランス語が,そしてイスラム世界ではアラビア語が光を帯びていた.そしていま,多くの地域で,眩しい光を放っているのは英語だ.日本でも,圧倒的な教育資源が,英語に注ぎ込まれている.「英語ができる」ことで発生する(かもしれない)利益への期待をあおる広告表現の多くは,おくめんもなく,英語を,輝く未来を保障〔ママ〕してくれるような魔法の鍵として描き出している.英語ができれば,人生がよりよい方向に変わる.仕事が見つかり収入が上がる.そんなイメージを散りばめた表現を,街角の広告に見かけたことはないだろうか.いわく,「英語ができれば人生はもっと楽しくなる!」(NHK通信講座),「英語の力は,世界とつながる力」 (AEON),「英語を,習いはじめた.商談が,動きはじめた」 (AEON),「いまこの国が求めているのは,英語が話せるあなたです」 (CLUB CUE),「英語で夢をカタチに」 (AEON) .
イギリス政府が設立したブリティッシュ・カウンシル(主要事業は英語の普及)は,こうした事態に対してきわめて意識的である.ブリティッシュ・カウンシルは,イギリスが英語使用の規範として見なされる地位を誇り利用する.
これは英語の「後光効果」の警告的な指摘にほかならない.「後光効果」とは『ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2015』によると次の通り.
ハロー効果,光背効果ともいう.人がもっているある特徴を評価する場合に,その人についての一般的印象やその人のもつ他の特徴によって,その評価が影響を受けやすい傾向をさす.たとえば,ノーベル賞を受賞した自然科学者の専門外の分野における社会的発言が権威をもって受入れられること.
「英語には力がある」というときの「力」とは,英語に内在する力ではなく,あくまで人々が外側から英語に付与している力である.そこには人々の尊敬,憧れ,羨望,期待などがこめられている.英語自身が後光を発しているというよりは,人々がそこに後光を見ている,と表現するほうが適切だろう.人々は英語の後光効果 (halo effect) にかかっているのである.
・ 山本 冴里(編) 『複数の言語で生きて死ぬ』 くろしお出版,2022年.
一昨日公開された YouTube 「井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル」の最新動画は「#101. 英語コンプレックスから解放される日はくるのか? --- 英語帝国主義と英語帝国主義批判を考える」です.英語帝国主義(批判)をめぐって2人で議論しています.よろしければご視聴ください.また,YouTube のコメント機能よりご意見などもお寄せいただければと思います.
hellog でも英語帝国主義(批判)や,より一般的に言語帝国主義 (linguistic_imperialism) の話題を多く取り上げてきました.英語帝国主義を議論するに当たっては,現在の英語の覇権的な地位をよく認識しておく必要があることはもちろん,なぜ英語がここまで覇権的な言語になってきたのかという歴史を押さえておくことが肝心だと考えています.英語帝国主義をめぐる議論は英語史の重要な論題であり,まさに英語史の知見こそが,関連する議論に大きく貢献できるものと信じています.
私自身,この議論に関してまだ明確な意見を固められているわけではありません.しかし,英語の帝国主義的な歴史や覇権的な側面を認めつつ,英語を完全に受容することも完全に拒絶することもできないもの,つまり全肯定も全否定もできない言語と考えています.今後も議論を続けていきたいと思います.
英語帝国主義や言語帝国主義に関する書籍は多く出されていますが,周辺領域は広く深いです.まずは hellog から関連する記事をピックアップしてみました.今後の議論のためにご参考まで.
・ 「#1072. 英語は言語として特にすぐれているわけではない」 ([2012-04-03-1])
・ 「#1073. 英語が他言語を侵略してきたパターン」 ([2012-04-04-1])
・ 「#1082. なぜ英語は世界語となったか (1)」 ([2012-04-13-1])
・ 「#1083. なぜ英語は世界語となったか (2)」 ([2012-04-14-1])
・ 「#1194. 中村敬の英語観と英語史」 ([2012-08-03-1])
・ 「#1606. 英語言語帝国主義,言語差別,英語覇権」 ([2013-09-19-1])
・ 「#1607. 英語教育の政治的側面」 ([2013-09-20-1])
・ 「#1785. 言語権」 ([2014-03-17-1])
・ 「#1788. 超民族語の出現と拡大に関与する状況と要因」 ([2014-03-20-1])
・ 「#1838. 文字帝国主義」 ([2014-05-09-1])
・ 「#1919. 英語の拡散に関わる4つの crossings」 ([2014-07-29-1])
・ 「#2163. 言語イデオロギー」 ([2015-03-30-1])
・ 「#2306. 永井忠孝(著)『英語の害毒』と英語帝国主義批判」 ([2015-08-20-1])
・ 「#2429. アルファベットの卓越性という言説」 ([2015-12-21-1])
・ 「#2458. 施光恒(著)『英語化は愚民化』と土着語化のすゝめ」 ([2016-01-19-1])
・ 「#2487. ある言語の重要性とは,その社会的な力のことである」 ([2016-02-17-1])
・ 「#2549. 世界語としての英語の成功の負の側面」 ([2016-04-19-1])
・ 「#2673. 「現代世界における英語の重要性は世界中の人々にとっての有用性にこそある」」 ([2016-08-21-1])
・ 「#2935. 「軍事・経済・宗教―――言語が普及する三つの要素」」 ([2017-05-10-1])
・ 「#2986. 世界における英語使用のジレンマ」 ([2017-06-30-1])
・ 「#3004. 英語史は英語の成功物語か?」 ([2017-07-18-1])
・ 「#3010. 「言語の植民地化に日本ほど無自覚な国はない」」 ([2017-07-24-1])
・ 「#3011. 自国語ですべてを賄える国は稀である」 ([2017-07-25-1])
・ 「#3012. 英語はリンガ・フランカではなくスクリーニング言語?」 ([2017-07-26-1])
・ 「#3277. 「英語問題」のキーワード」 ([2018-04-17-1])
・ 「#3278. 社会史あるいは「進出・侵略」の観点からの英語史時代区分」 ([2018-04-18-1])
・ 「#3286. 津田幸男による英語支配を脱する試案,3点」 ([2018-04-26-1])
・ 「#3302.「英語の帝国」のたどった3段階の「帝国」」 ([2018-05-12-1])
・ 「#3315. 「ラモハン・ロイ症候群」」 ([2018-05-25-1])
・ 「#3470. 言語戦争の勝敗は何にかかっているか?」 ([2018-10-27-1])
・ 「#3603. 帝国主義,水族館,辞書」 ([2019-03-09-1])
・ 「#3767. 日本の帝国主義,アイヌ,拓殖博覧会」 ([2019-08-20-1])
・ 「#3851. 帝国主義,動物園,辞書」 ([2019-11-12-1])
・ 「#4279. なぜ英語は世界語となっているのですか? --- hellog ラジオ版」 ([2021-01-13-1])
・ 「#4467. インド英語は「崩れた英語」か「土着化した英語」か?」 ([2021-07-20-1])
・ 「#4536. 言語イデオロギーの根底にある3つの記号論的過程」 ([2021-09-27-1])
・ 「#4537. 英語からの圧力による北欧諸語の "domain loss"」 ([2021-09-28-1])
・ 「#4545. 「英語はいかにして世界の共通語になったのか」 --- IIBC のインタビュー」 ([2021-10-06-1])
・ 「#4829. 19世紀イギリス「白人の責務」から「英語帝国主義」へ」 ([2022-07-17-1])
・ 「#4830. 19世紀イギリスの植物園・動物園趣味と帝国主義」 ([2022-07-18-1])
関連して Voicy 「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」より「#145. 3段階で拡張してきた英語帝国」もお聴きください.
身近な概念だが対応するズバリの1単語が存在しない,そのような概念が言語には多々ある.この現象を「語彙上の欠落」とみなして lexical gap と呼ぶことがある.
例えば brother 問題を取り上げてみよう.「#3779. brother と兄・弟 --- 1対1とならない語の関係」 ([2019-09-01-1]) や「#4128. なぜ英語では「兄」も「弟」も brother と同じ語になるのですか? --- hellog ラジオ版」 ([2020-08-15-1]) で確認したように,英語の brother は年齢の上下を意識せずに用いられるが,日本語では「兄」「弟」のように年齢に応じて区別される.ただし,英語でも年齢を意識した「兄」「妹」に相当する概念そのものは十分に身近なものであり,elder brother や younger sister と表現することは可能である.つまり,英語では1単語では表現できないだけであり,対応する概念が欠けているというわけではまったくない.英語に「兄」「妹」に対応する1単語があってもよさそうなものだが,実際にはないという点で,lexical gap の1例といえる.逆に,日本語に brother に対応する1単語があってもよさそうなものだが,実際にはないので,これまた lexical gap の例と解釈することもできる.
Cruse の解説と例がおもしろいので引用しておこう.
lexical gap This terms is applied to cases where a language might be expected to have a word to express a particular idea, but no such word exists. It is not usual to speak of a lexical gap when a language does not have a word for a concept that is foreign to its culture: we would not say, for instance, that there was a lexical gap in Yanomami (spoken by a tribe in the Amazonian rainforest) if it turned out that there was no word corresponding to modem. A lexical gap has to be internally motivated: typically, it results from a nearly-consistent structural pattern in the language which in exceptional cases is not followed. For instance, in French, most polar antonyms are lexically distinct: long ('long'): court ('short'), lourd ('heavy'): leger ('light'), épais ('thick'): mince ('thin'), rapide ('fast'): lent ('slow'). An example from English is the lack of a word to refer to animal locomotion on land. One might expect a set of incompatibles at a given level of specificity which are felt to 'go together' to be grouped under a hyperonym (like oak, ash, and beech under tree, or rose, lupin, and peony under flower). The terms walk, run, hop, jump, crawl, gallop form such a set, but there is no hyperonym at the same level of generality as fly and swim. These two examples illustrate an important point: just because there is no single word in some language expressing an idea, it does not follow that the idea cannot be expressed.
引用最後の「重要な点」と関連して「#1337. 「一単語文化論に要注意」」 ([2012-12-24-1]) も参照.英語や日本語の lexical gap をいろいろ探してみるとおもしろそうだ.
・ Cruse, Alan. A Glossary of Semantics and Pragmatics. Edinburgh: Edinburgh UP, 2006.
「英語に関する不平不満の伝統」 (complaint_tradition) は,英語のお家芸ともいえる.hellog でも「#3239. 英語に関する不平不満の伝統」 ([2018-03-10-1]),「#4596. 「英語に関する不平不満の伝統」の歴史的変化」 ([2021-11-26-1]) などでこの伝統について考えてきた.英米では語法の正用・誤用への関心が一般に高く,「#301. 誤用とされる英語の語法 Top 10」 ([2010-02-22-1]) のような議論がよく受ける.間違えたところでコミュニケーション上の障害にはならない,取るに足りない語法がほとんどなのだが,このような小さな点にこだわる「文化」が育まれてきたといってよい.
Horobin は著書の最終章 "Why Do We Care?" にて,この「文化」の背景を探っている.論点はいくつかあるが,大きく3点あるように読める.
(1) 英語話者は,自身が英語の不条理と長年付き合ってきた結果,英語を使いこなせるに至ったという経験をもつため,いまさら語法の正用・誤用について中立的な視点をもつことができない.Horobin (153) の言葉を引けば,次の通り.
. . . as users of English, it is impossible for us to take an external stance from which to observe current usage. As we have all had to acquire the English language, negotiating its grammatical niceties, its fiendishly tricky spellings, and its unusual pronunciations, it is impossible for us to adopt a neutral position from which to observe debates concerning correct usage.
単純化していってしまえば「私はこんなにヘンテコな語法ばかりの英語を頑張って習得してきた.だから,他の皆にも同じ苦労を味わってもらわなければ不公平だ」という気持ちに近い.
(2) 語法に関する本,「良い文法」に関する本は市場価値があり,よく売れる.現代はあらゆるものの変化が早く,言葉に関して頼りになる不変の支柱があれば,人々は安心するものである.Horobin (155) 曰く,
Much of the success of style guides may be credited to society's tacit acceptance that there are rights and wrongs in all aspects of usage, and a desire to be saved from embarrassment. Rather than question the grounds for the prescription, we turn to usage pundits as we once turned to our schoolteachers, in search of guidance and certitude. In a fast-changing and uncertain world, there is something reassuring about knowing that the values of our schooldays continue to be upheld, and that the correct placement of an apostrophe still matters.
(3) ラテン語文法への信奉.ラテン語は屈折の豊富な「立派な」言語であり,文法も綴字も約2千年のあいだ不変だった.それに対して,英語は屈折を失った「堕落した」言語であり,文法も綴字もカオスである.英語もラテン語のような不変で盤石の言語的基盤をもつべきである,という言語観.Horobin (162--63) の解説を引こう.
Since Latin had not been a living language (one with native speakers) for centuries, it existed in a fixed form; by contrast, English was unstable and in decline. This view of Latin as a unified and fixed entity perseveres today, encouraged by the way modern textbooks present a single variety (usually that of Cicero), suppressing the wide variation attested in original Latin writings. Since the eighteenth century, efforts to outlaw variation and to introduce greater fixity in English have been driven by a desire to emulate the model of this prestigious classical forebear.
3点目については,言語変化を「堕落」と捉える見方と関連する.これについては「#432. 言語変化に対する三つの考え方」 ([2010-07-03-1]),「#2543. 言語変化に対する三つの考え方 (2)」 ([2016-04-13-1]),「#2544. 言語変化に対する三つの考え方 (3)」 ([2016-04-14-1]) を参照.「英語に関する不平不満の伝統」を支える言語観は,18世紀の規範主義の時代から,ほとんど変わっていないようだ.
・ Horobin, Simon. How English Became English: A Short History of a Global Language. Oxford: OUP, 2016.
英語史に関する神話については,最近も「#4604. 伝統的な英語史記述の2つの前提 --- ゲルマン系由来と標準英語重視」 ([2021-12-04-1]),「#4605. 規範英文法ならぬ規範英語史」 ([2021-12-05-1]) などで考えてきた.内容としてはそれらの繰り返しでもあるのだが,Milroy が指摘している2つの重要な神話,すなわち「標準語信仰」と「古代純粋語信仰」について改めて考えてみたい.
まず,Milroy (25) より「標準語信仰」について.
. . . the typical history has been influenced by, and sometimes driven by, certain ideological positions. The first of these implicitly suggests that the language is not the possession of all its native speakers, but only of the elite and the highly literate, and that much of the evidence of history can be argued away as error or corruption. The effect of this is to focus on what is alleged to be the standard language, but this is actually the language of those who have prestige in society, which may not always be a standard in the full sense. Of course, it may often be the same as the standard language, but this elitism can also mislead us into believing that speech communities are far less complex than they actually are and that the history of the language is very narrowly unilinear. We need a more realistic history than this.
次に,Milroy (25--26) より「古代純粋語信仰」について.
The second position can be briefly characterised as an ideology of nationhood and sometimes race. This ideology requires that the language should be ancient, that its development should have been continuous and uninterrupted, that important changes should have arisen internally within this language and not substantially through language contact, and that the language should therefore be a pure or unmixed language. I have tried to show that much of the history of English is traditionally presented within this broad framework of belief. The problem, I have suggested, is that, prima facie, English as a language does not seem to fit in well with these requirements. For that reason much ingenuity has been expended on proving that what does not seem to be so actually is so: Anglo-Saxon is English, the development of English has been uninterrupted and the language is not mixed. The most recent strong defence of this position --- by Thomason and Kaufman (1988) --- is merely the latest in a long line. It demonstrates that this system of belief is --- for better or worse --- still operative in the historical description of English.
2つの神話・信仰の内容はよくわかるし,傾聴に値する.
しかし,1点気になることがある.最初の引用で Milroy が,否定的な文脈ではあるものの,"the language is not the possession of all its native speakers" と述べ,言語が母語話者の所有物という点を前提としている点だ.確かにたいていの言語はその母語話者の生活に最も多く寄与するものであり,まずもって母語話者の所有物であるという見解は一見すると妥当のように思われる.しかし,現代の英語のようなリンガ・フランカについて語る文脈にあっては,母語話者だけの所有物であることを前提としてよいのだろうか.非母語話者を含めた英語話者全体の所有物であるという発想は浮かばなかったのだろうか.Milroy は伝統的な英語史がエリートや知識人だけの英語を扱ってきたことを非難しているが,Milroy の英語史観とて,母語話者だけの英語を扱うことを前提としているかのように聞こえ,違和感が残る.
・ Milroy, Jim. "The Legitimate Language: Giving a History to English." Chapter 1 of Alternative Histories of English. Ed. Richard Watts and Peter Trudgill. Abingdon: Routledge, 2002. 7--25.
・ Thomason, Sarah Grey and Terrence Kaufman. Language Contact, Creolization, and Genetic Linguistics. Berkeley: U of California P, 1988.
昨日の記事「#4604. 伝統的な英語史記述の2つの前提 --- ゲルマン系由来と標準英語重視」 ([2021-12-04-1]) に引き続き,伝統的な英語史記述に対する Milroy の批判について考えてみたい.昨日 Milroy の論考の冒頭の1段落を引用したが,その次の段落も実にインパクトが強く,ガツンと頭を殴られたような気がした.
This conventional history, as it appears in written histories of English for the last century or more, can be viewed as a codification -- a codification of the diachrony of the standard language rather than its synchrony. It has the same relationship to this diachrony as handbooks of correctness have to the synchronic standard language. It embodies the received wisdom on what the language was like in the past and how it came to have the form that it has now, and it is regarded as, broadly, definitive.
共時的なレベルにおいて規範英文法が標準英語を成文化しているのと同じように,通時的なレベルにおいて伝統的な英語史記述が,すなわち「規範英語史」が標準英語の歴史を成文化しているのだという指摘には,虚を突かれた.この見方によると,伝統的な英語史記述を受け入れ,広めることは,すなわち標準英語(の歴史)を受け入れ,広めることにつながる.このこと自体の是非はともかくとして,それを十分に認識した上で伝統的な英語史記述を受けれたり,広めたりしてきただろうか,と自問自答してしまった.標準英語以外にも様々な英語があるのと同様に,伝統的な英語史記述以外にも様々な英語史の描き方があるはずである.
"the history of English" は存在しない."alternative histories of English" があるだけである.ただし,ひとときに描けるのは,せいぜい "a history of English" である.その時々で様々にあるものの中から,どの1つを選んで提示するのか.その選択の根拠や狙いは何か.このような問いに常に意識的でありたい.
・ Milroy, Jim. "The Legitimate Language: Giving a History to English." Chapter 1 of Alternative Histories of English. Ed. Richard Watts and Peter Trudgill. Abingdon: Routledge, 2002. 7--25.
英語史という分野は,それ自体の歴史も長いので,伝統的な「英語史記述」というべきスタイルが確立している.英語史の著書は多くあるが,大多数の記述方針は一致している.英語が印欧語族のなかのゲルマン語派に属する言語であるところから始め,とりわけ近代以降に標準英語 (Standard English) という1変種にのみ注目して,現代までの歴史を描くというものだ.
この伝統的な英語史記述の基本方針は,私の大学の英語史概説の授業でも採用してきたし,これまで書いてきた英語史関連の書籍や記事でも前提としてきた.しかし,概説レベルから抜け出して学術的に英語史に向き合うならば,上記のような伝統的な英語史記述にのみ肩入れしているわけにはいかないことは重々承知している.慣習的な英語史記述を相対化する視点が必要だと常々思っている.
伝統的な英語史記述を批判的に評価するに当たって「#3897. Alternative Histories of English」 ([2019-12-28-1]) で紹介した同名の論考集より,第1章を執筆した Milroy (7) の冒頭の1段落を引用しておきたい.上にも触れたように,従来の主流派の英語史記述には,2つの前提があるという指摘だ.
The word 'history' is often understood simplistically to mean an accurate account of what happened in the past; yet, the writing of history can depend on differing underlying assumptions and can lead to differing interpretations. There can therefore be alternative histories of the same thing, including alternative histories of language. This chapter is about what may be called the conventional history of the English language, as it appears in many accounts, e.g. Jespersen (1962) and Brook (1958). This is seen as a particular version of history, which is one of a number of potential versions, and it is assumed that this version has reasonably clear and recurrent characteristics. The most prominent of these are: (1) strong emphasis on the early history of English and its descent from Germanic and Indo-European, and (2) from 1500 onward, an almost exclusive focus on standard English. Thus, the functions of this history are primarily to provide a lineage for English and a history for the standard language (in effect, the recent history of English is defined as the history of this one variety). Plainly, if we chose to focus on varieties other than the standard and if we did not accept the validity of the Stammbaum model of language descent, the version of history that we would produce would be substantially different.
この書き出しからして,社会言語学者 Milroy による伝統的な英語史記述への疑念が生々しく伝わってくる.多くの英語史学習者(そして研究者)が前提としている2点について,もし疑ってみたら,どんな英語史記述になるのだろうか.英語が世界語となっている現在,この思考実験はとても重要である.
・ Milroy, Jim. "The Legitimate Language: Giving a History to English." Chapter 1 of Alternative Histories of English. Ed. Richard Watts and Peter Trudgill. Abingdon: Routledge, 2002. 7--25.
「#4541. 焼失を免れた Beowulf 写本の「使い途」」 ([2021-10-02-1]) でみたように,Beowulf 写本とそのテキストは,"myth of the longevity of English" を創出し確立するのに貢献してきた.主に文献学的な根拠に基づいて,その制作時期を紀元700年頃と推定することにより,英語と英文学の歴史的時間幅がぐんと延びることになったからだ.しかも,文学的に格調の高い叙事詩とあっては,うってつけの宣伝となる.
Beowulf の価値が高騰し,この「神話」が醸成されたのは,19世紀だったことに注意が必要である.なぜこの時期だったのだろうか.なぜ,例えばアングロサクソン学が始まった16世紀などではなかったのだろうか.Watts (52) は,これが19世紀的な現象であることを次のように説明している.
As a whole the longevity of English myth, consisting of the ancient language myth and the unbroken tradition myth, was a nineteenth-century phenomenon that lasted almost till the end of the twentieth century. The need to establish a linguistic pedigree for English was an important discourse archive within the framework of the growth of the nation-state and the Age of Imperialism. In the face of competition from other European languages, particularly French, it was perhaps necessary to construct English as a Kultursprache, and one way to do this was to trace English to its earliest texts.
端的にいえば,イギリスは,イギリス帝国の威信を対外的に喧伝するために,その象徴である英語という言語が長い伝統を有することを,根拠をもって示す必要があった,ということだ.歴史的原則に立脚した OED の編纂も,この19世紀の文脈のなかでとらえる必要がある(cf. 「#3020. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (1)」 ([2017-08-03-1]),「#3021. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (2)」 ([2017-08-04-1]),「#3376. 帝国主義の申し子としての英語文献学」 ([2018-07-25-1])).
16世紀には,さすがにまだそのような動機づけは存在していなかった.その代わりに16世紀のイングランドには別の関心事があった.それは,ヘンリー7世によって開かれたばかりのテューダー朝をいかに権威づけるか,そしてヘンリー8世によって設立された英国国教会をいかに正当化するか,ということだった.この目的のために,ノルマン朝より古いアングロサクソン時代に,キリスト教文典や法律が英語という土着語で書かれていたという歴史的事実が利用されることになった.テューダー朝はとりわけ宗教改革に揺さぶられていた時代であるから,宗教的なテキストの扱いには慎重だった.一方,Beowulf のような民族叙事詩のテキストには,相対的にいってさほどの関心が注がれなかったというわけだ.Watts (52) は次のように述べている.
The dominant discourse archive at this particular moment of conjunctural time [= the sixteenth century] was religious. It was the struggle to assert Protestantism after the break with the Church of Rome that determined the focus on religious, legal, constitutional and historical texts of the Anglo-Saxon era. The Counter-Reformation in the seventeenth century sustained this dominant discourse and relegated interest in the longevity of the language and the poetic value of texts like Beowulf till a much later period.
・ Watts, Richard J. Language Myths and the History of English. Oxford: OUP, 2011.
1731年10月23日,ウェストミンスターのアシュバーナム・ハウスが火事に見舞われた.そこに収納されていたコットン卿蔵書 (Cottonian Library) も焼けたが,辛くも焼失を免れた古写本のなかに古英語の叙事詩 Beowulf のテキストを収めた写本があった.これについて Watts (29) が次のように述べている.
The loss of Beowulf would have meant the loss of the greatest literary work and one of the most puzzling and enigmatic texts produced during the Anglo-Saxon period.
仮定法の文だが,裏を返せば英文学を代表する最も偉大な作品が奇跡的にも火事から救われたという趣旨の文である.英文学者や英語史学者ならずとも,ほとんどの人々が,この写本が消失を免れて本当によかったと思うだろう.
しかし,「言語の神話」の解体をもくろむ Watts の考えは異なる.焼失したほうがよかったと主張するわけでは決してないが,驚くことに次のように文章を続けるのだ.
But it would also have made one of the most powerful linguistic myths focusing on the English language, the myth of the longevity of English, immeasurably more difficult to construct. This is not because other Anglo-Saxon texts have not come down to us; it is, rather, because of the perceived literary and linguistic value of Beowulf. To construct the longevity myth one needs to locate such texts, and the further back in time they can be located, the "older" the language becomes and the greater is the "cultural" significance that can be associated with that language.
Watts の主張は,焼失を免れた Beowulf 写本は,英語に関する最も強力な神話,すなわち「英語長寿神話」を創出し,確立させるのに利用されてきたということだ.Beowulf 写本が生き残ったことにより「英語は歴史のある偉大な言語である」と言いやすくなったというわけだ.
現に Beowulf 写本が生き残ったのは偶然である.別の棚に保存されていたら焼失していたかもしれない.そして,もし焼けてしまっていたならば,英文学や英語はさほど歴史がないことになり,さほど偉大でもなくなるだろう.英文学や英語は別の「売り」を探さなければならなかったに違いない.
この見方は,英文学や英語が偉大かそうでないかは火事の及んだ範囲という偶然に依存しており,必然的に,あるいは本質的に偉大なわけではないという洞察につながる.これが,Watts が神話の解体によって行なおうとしていることなのだろう.
・ Watts, Richard J. Language Myths and the History of English. Oxford: OUP, 2011.
「#1578. 言語は何に喩えられてきたか」 ([2013-08-22-1]) で見たとおり,「言語は○○である」の○○には様々なものが入る.言語を生き物に喩えるのは日常茶飯だが,生き物のなかでもとりわけ人間に喩えるという発想,つまり「言語は人間である」という概念メタファー (conceptual_metaphor) は意外と見過ごされてきたかもしれない.Watts (13--14) より "A LANGUAGE IS A HUMAN BEING" を体現する表現をいくつか拾ってみよう.
- <A language is born>
- <A language dies>
- <A language grows old>
- <A language is mature>
- <A language at time point x is the same language as at time point y>
- <A language has a character>
- <A language is a potential actor> (i.e. has the ability to initiate and carry out actions)
- <A language is corrupt>
- <A language is noble>
- <A language is perfect>
- <A language is homogeneous>
- <A language is polite>
- <A language is hesitant>
- <A language is bold>
- <A language is great>
- <A language is healthy>
- <A language is sick/ill>
- <A language is fit>
- <A language is ailing>
- <A language is dying>
- <A language is weak>
- <A language recovering/reviving>
この一覧には,character (性格)に関する表現がいくつか含まれている.言語を一般的に生き物に喩えるのではなく,とりわけ人間に喩えるポイントは「性格づけ」にありそうだ.人間一人ひとりに性格があるのと同様に,各言語にも特有の性格があるという点に引っかけた比喩ということだ.
様々な概念メタファーを通じて言語の性質,あるいは言語のとらえ方のパターンを見いだしていくのは,なかなかおもしろそうである.関連する過去の記事として,以下を挙げておきたい.
・ 「#1578. 言語は何に喩えられてきたか」 ([2013-08-22-1])
・ 「#1579. 「言語は植物である」の比喩」 ([2013-08-23-1])
・ 「#1722. Pisani 曰く「言語は大河である」」 ([2014-01-13-1])
・ 「#2631. Curzan 曰く「言語は川であり,規範主義は堤防である」」 ([2016-07-10-1])
・ 「#2743. 貨幣と言語」 ([2016-10-30-1])
・ 「#3771. Wittgenstein の「言語ゲーム」 (1)」 ([2019-08-24-1])
・ Watts, Richard J. Language Myths and the History of English. Oxford: OUP, 2011.
伝統的な英語史記述では,中英語期は英語が(アングロ)フランス語のくびきの下にあった時代として描かれる.1066年のノルマン征服の結果,英語はイングランド社会において自律性を失い,代わってフランス語が「公用語」となった.しかし,12世紀以降,英語の復権はゆっくりではあるが着実に進み,14世紀後半には自律性を回復するに至った.このように,中英語期に関しては,浮かんでいた英語がいったん沈み,再び浮かび上がる物語として叙述されるのが常である.
しかし,Trotter (1782) は,このような中英語期の描き方は神話に近いものだと考えている.当時の英語と(アングロ)フランス語の関係は,浮き沈みの関係,あるいは時間軸に沿って交替した関係ではなく,むしろ共存・接触の関係とみるべきだと主張する.この時代にフランス語が英語に与えた言語的影響を考察する上でも,共存・接触関係を前提とすることが肝要だと説く.
In much which is still being written on the history of medieval English, the specialist scholarship from the Anglo-French perspective has not been taken into account. Even in quite recent publications, Middle English scholarship continues to recycle a history of Anglo-French to which Anglo-French specialists would no longer subscribe. A particular example in the persistence of the traditional "serial monolingualism" model . . ., according to which Anglo-Saxon gives way to Anglo-French, pending the revival of Middle English, with each language succeeding the other. Born out of the 19th-century nationalist ideology which accompanied and prompted the emergence of philology in England and elsewhere . . ., this model ignores the reality of the long-term coexistence of languages, and of language contact . . . . Prominent amongst the areas in which language contact, going far beyond the limited "cultural borrowing" model, is evident, are (a) wholesale lexical transfer, (b) language mixing, (c) morphosyntactic hybridization, and (d) syntactic/idiomatic influences.
確かに中英語期にフランス語が英語に与えた言語的影響の話題を導入する場合,まずもって文化語の借用から話しを始めるのが定番だろう.典型的には「#1210. 中英語のフランス借用語の一覧」 ([2012-08-19-1]) や「#331. 動物とその肉を表す英単語」 ([2010-03-24-1]) などを提示するということだ.しかし,そこで止まってしまうと,両言語の接触に関して表面的な理解しか得られずに終わることになる.一歩進んで,引用の (a), (b), (c), (d) のような,より深い言語的影響があったことまで踏み込みたいし,さらに一歩進んで両言語の関係が長期にわたる共存・接触の関係だったことに言及したい.
・ Trotter, David. "English in Contact: Middle English Creolization." Chapter 114 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1781--93.
英語にはややこしい民族名,国民名,言語名が多々あります.民族も国民も言語もたいてい複雑な固有の歴史を背負ってきているので,それを表わす語もややこしくなってしまうのは致し方のないことかもしれません.しかし,標題の2語はそれにしても誤解を招きやすい点では最右翼に位置づけられるペアといってよいでしょう.「#4380. 英語のルーツはラテン語でもドイツ語でもない」 ([2021-04-24-1]) で触れたような誤解が生まれるのも無理からぬことです.
言語の呼称としての German は「ドイツ語」を指します.一方,Germanic は比較言語学的に再建された「ゲルマン(祖)語」 (= Proto-Germanic) を指します.形容詞としては,後者は「ゲルマン(祖)語の」あるいは,このゲルマン(祖)語から派生した一群の言語を指して「ゲルマン語派の」ほどを意味します.
「英語史導入企画2021」より今日紹介するコンテンツは,まさにこの2語のややこしさに焦点を当てた,院生による「A Succinct Account of German and Germanic」です.英語による音声コンテンツとなっています.
英和辞典によると German は「ドイツ人,ドイツ語;ドイツの」ほど,Germanic は「ゲルマン(祖)語;ゲルマン系の,ドイツ的な」ほどとなりますが,すでにこの時点で分かりにくいですね.学習者用英英辞典 OALD8 によると,各々およそ次の通りでした.
German
adjective:
from or connected with Germany
noun:
1 [countable] a person from Germany
2 [uncountable] the language of Germany, Austria and parts of Switzerland
Germanic
adjective:
1 connected with or considered typical of Germany or its people
2 connected with the language family that includes German, English, Dutch and Swedish among others
形容詞としては,"connected with Germany" が共通項となっていますし,やはり分かったような分からないような区別です.
両語の区別を理解する上で参考になるのは各語の初出年です.German の初出は,名詞としては1387年より前,形容詞としては1536年で,そこそこ古いといえますが,Germanic はまず形容詞として1539年に初出し,「ゲルマン(祖)語」を意味する名詞としてはさらに遅く1718年のことです.つまり「ゲルマン(祖)語」の語義は,言語学用語としての後付けの語義だと分かります.
後付けであればこそ,後発の強みを活かして誤解を招かない別の用語を選んでもらいたかったところです.いや,実のところ,比較言語学では「ゲルマン祖語」を指すのに Teutonic (cf. 英語 Dutch, ドイツ語 Deutsch) という別の用語を用いる慣習も古くはあったのです.それだけに,紛らわしい Germanic が結局のところ勝利し定着してしまったことは皮肉と言わざるを得ません.
関連して「#3744. German の指示対象の歴史的変化と語源」 ([2019-07-28-1]) と「#864. 再建された言語の名前の問題」 ([2011-09-08-1]) もご一読ください.
(後記 2021/05/26(Wed):今回紹介した音声コンテンツの文章版が「'German' と 'Germanic' についての覚書」として後日公表されましたので,こちらも案内しておきます.)
「英語史導入企画2021」のために昨日公表されたコンテンツは,大学院生による「Synonyms at Three Levels」でした.これは何のことかというと「英語語彙の三層構造」の話題です.「恐れ,恐怖」を意味する英単語として fear -- terror -- trepidation などがありますが,これらの類義語のセットにはパターンがあります.fear は易しい英語本来語で,terror はやや難しいフランス語からの借用語,trepidation は人を寄せ付けない高尚な響きをもつラテン語からの借用語です.英語の歴史を通じて,このような類義語が異なる時代に異なる言語から供給され語彙のなかに蓄積していった結果が,三層構造というわけです.上記コンテンツのほか,「#334. 英語語彙の三層構造」 ([2010-03-27-1]) や「#1296. 三層構造の例を追加」 ([2012-11-13-1]) より具体例を覗いてみてください.
さて,「英語語彙の三層構造」は英語史では定番の話題です.定番すぎて神話化しているといっても過言ではありません.そこで本記事では,あえてその脱神話化を図ろうと思います.以下は英語史上級編の話題になりますのでご注意ください.すでに「#2643. 英語語彙の三層構造の神話?」 ([2016-07-22-1]) や「#2279. 英語語彙の逆転二層構造」 ([2015-07-24-1]) でも部分的に取り上げてきた話題ですが,今回は上記コンテンツに依拠しながら fear -- terror -- trepidation という3語1組 (triset) に焦点を当てて議論してみます.
(1) コンテンツ内では,この triset のような「類例は枚挙に遑がない」と述べられています.私自身も英語史概説書や様々な記事で同趣旨の文章をたびたび書いてきたのですが,実は「遑」はかなりあるのではないかと考えています.「類例をひたすら挙げてみて」と言われてもたいした数が挙がらないのが現実です.しかも「きれい」な例を挙げなさいと言われると,これは相当に難問です.
(2) 今回の fear - terror - trepidation はかなり「きれい」な例のようにみえます.しかしどこまで本当に「きれい」かというのが私の問題意識です.一般の英語辞書の語源欄では確かに terror はフランス語から,trepidation はラテン語から入ったとされています.おおもとは両語ともラテン語にさかのぼり,前者は terrōrem,後者は trepidātiō が語源形となります(ちなみに,ともに印欧語根は *ter- にさかのぼり共通です).terror はもともとラテン語の単語だったけれどもフランス語を経由して英語に入ってきたという意味において「フランス語からの借用語」と表現することは,語源記述の慣習に沿ったもので,まったく問題はありません.
ところが,OED の terror の語源記述をみると "Of multiple origins. Partly a borrowing from French. Partly a borrowing from Latin." とあります.「フランス語からの借用語である」とは断定していないのです.語源学的にいって,この種の単語はフランス語から入ったのかラテン語から入ったのか曖昧なケースが多く,研究史上多くの議論がなされてきました.この議論に関心のある方はこちらの記事セットをご覧ください.
難しい問題ですが,私としては terror をひとまずフランス借用語と解釈してよいだろうとは考えています.その根拠の1つは,中英語での初期の優勢な綴字がフランス語風の <terrour> だったことです.ラテン語風であれば <terror> となるはずです.逆にいえば,現代英語の綴字 <terror> は,後にラテン語綴字を参照した語源的綴字 (etymological_respelling) の例ということになります.要するに,現代の terror は,後からラテン語風味を吹き込まれたフランス借用語ということではないかと考えています.
この terror の出自の曖昧さを考慮に入れると,問題の triset は典型的な「英語 -- フランス語 -- ラテン語」の型にがっちりはまる例ではないことになります.少なくとも例としての「きれいさ」は,100%から80%くらいまでに目減りしたように思います.
(3) 次に trepidation についてですが,OED によればラテン語から直接借用されたものとあります.一方,研究社の『英語語源辞典』は,フランス語 trépidation あるいはラテン語 trepidātiō(n)- に由来するものとし,慎重な姿勢をとっています.なお,この単語の英語での初出は1605年ですが,OED 第2版の情報によると,フランス語ではすでに15世紀に trépidation が文証されているということです.terror に続き trepidation の出自にも曖昧なところが出てきました.問題の triset の「きれいさ」は,80%からさらに70%くらいまで下がった感じがします.
(4) コンテンツ内でも触れられているように,三層構造の中層を占めるフランス借用語層は,実際には下層を占める英語本来語層とも融合していることが多いです (ex. clear, cry, fool, humour, safe) .きれいな三層構造を構成しているというよりは,英仏語の層をひっくるめたり,仏羅語の層をひっくるめたりして,二層構造に近くなるという側面があります.
さらに「逆転二層構造」と呼ぶべき典型的でない例も散見されます.例えば,同じ「谷」でも中層を担うはずのフランス借用語 valley は日常的な響きをもちますが,下層を担うはずの英語本来語 dale はかえって文学的で高尚な響きをもつともいえます.action/deed, enemy/foe, reward/meed も類例です(cf. 「#2279. 英語語彙の逆転二層構造」 ([2015-07-24-1])).英語語彙の三層構造は,本当のところは評判ほど「きれい」でもないのです.
以上,「英語語彙の三層構造」の脱神話化を図ってみました.私も全体論としての「英語語彙の三層構造」を否定する気はまったくありません.私自身いろいろなところで書いてきましたし,今後も書いてゆくつもりです.ただし,そこに必ずしも「きれい」ではない側面があることには留意しておきたいと思うのです.
英語語彙の三層構造の諸側面に関心をもった方はこちらの記事セットをどうぞ.
新年度初めのイベントとして立ち上げた「英語史導入企画2021」では,日々学生から英語史に関するコンテンツがアップされてくる.昨日は院生による「英語 --- English --- とは」が公表された.英語のルーツが印欧祖語にさかのぼることを紹介する,まさに英語史導入コンテンツである.
本ブログを訪れている読者の多くにとっては当前のことと思われるが,英語はゲルマン語派に属する1言語である.しかし,一般には英語がラテン語(イタリック語派の1言語)から生まれたとする誤った理解が蔓延しているのも事実である.ラテン語は近代以降すっかり衰退してきたとはいえ,一種の歴史用語として抜群の知名度を誇っており,同じ西洋の言語として英語と関連があるにちがいないと思われているからだろう.
一方,少し英語史をかじると,英語にはラテン語からの借用語がやたら多いということも聞かされるので,両言語の語彙には共通のものが多い,すなわち共通のルーツをもつのだろう,という実はまったく論理的でない推論が幅を利かせることにもなりやすい.
英語はゲルマン系の言語であるということを聞いたことがあると,もう1つ別の誤解も生じやすい.英語はドイツ語から生まれたという誤解だ.英語でドイツ語を表わす German とゲルマン語を表わす Germanic が同根であることも,この誤解に拍車をかける.
本ブログの読者の多くにとって,上記のような誤解が蔓延していることは信じられないことにちがいない.では,そのような誤解を抱いている人を見つけたら,どのようにその誤解を解いてあげればよいのか.簡単なのは,上記コンテンツでも示してくれたように印欧語系統図を提示して説明することだ.
しかし,誤解の持ち主から,そのような系統図は誰が何の根拠に基づいて作ったものなのかと逆質問されたら,どう答えればよいだろうか.これは実のところ学術的に相当な難問なのである.19世紀の比較言語学者たちが再建 (reconstruction) という手段に訴えて作ったものだ,と仮に答えることはできるだろう.しかし,再建形が正しいという根拠はどこにあるかという理論上の真剣な議論となると,もう普通の研究者の手には負えない.一種の学術上の信念に近いものでもあるからだ.であるならば,「英語のルーツは○○語でなくて△△語だ」という主張そのものも,存立基盤が危ういということにならないだろうか.突き詰めると,けっこう恐い問いなのだ.
「英語史導入企画2021」のキャンペーン中だというのに,小難しい話しをしてしまった.むしろこちらの方に興味が湧いたという方は,以下の記事などをどうぞ.
・ 「#369. 言語における系統と影響」 ([2010-05-01-1])
・ 「#371. 系統と影響は必ずしも峻別できない」 ([2010-05-03-1])
・ 「#862. 再建形は実在したか否か (1)」 ([2011-09-06-1])
・ 「#863. 再建形は実在したか否か (2)」 ([2011-09-07-1])
・ 「#2308. 再建形は実在したか否か (3)」 ([2015-08-22-1])
・ 「#864. 再建された言語の名前の問題」 ([2011-09-08-1])
・ 「#2120. 再建形は虚数である」 ([2015-02-15-1])
・ 「#3146. 言語における「遺伝的関係」とは何か? (1)」 ([2017-12-07-1])
・ 「#3147. 言語における「遺伝的関係」とは何か? (2)」 ([2017-12-08-1])
・ 「#3148. 言語における「遺伝的関係」の基本単位は個体か種か?」 ([2017-12-09-1])
・ 「#3149. なぜ言語を遺伝的に分類するのか?」 ([2017-12-10-1])
・ 「#3020. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (1)」 ([2017-08-03-1])
・ 「#3021. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (2)」 ([2017-08-04-1])
英語学(社会言語学)のオンライン授業に向けた準備の副産物として,今回は言語におけるタブー (taboo) に関する hellog 記事セットを紹介する.
・ 「言語におけるタブー」の記事セット
本ブログではタブーについても様々な記事を書いてきた.今回の講義で主に注目したのは,以下の点である.
(1) 言語におけるタブー表現は古今東西に例がみられ普遍的であること
(2) タブー化しやすい指示対象や領域が偏っていること
(3) すぐれて(社会)言語学的なトピックであること
(4) タブー表現に代わる婉曲表現の生み出し方にパターンがあること
(5) タブー表現には驚くべき負のパワーが宿っていること
(6) その負のパワーは,話者個人の集合からなる言語共同体がタブー表現に宿らせているものであること
タブー表現は,定義上使ってはいけない言葉ということだが,ではなぜ使われないにもかかわらず失われていかないのだろうか.そもそもなぜ存在するのだろうか.暗号 (cryptology) ,隠語 (slang),記号論 (semiotics),ポリティカル・コレクトネス (political_correctness) など言語学全域からのトピックと接点をもつ点に置いても,最も興味深い(社会)言語学のトピックの1つといって間違いない.
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