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literacy - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-03-19 07:57

2021-10-26 Tue

#4565. 高校世界史教科書(英語版)で読む「文明」と「文化」の違い [history][literacy]

 日本の高校世界史教科書の英訳版が出版されている.講談社と山川出版社のものをもっているが,とてもおもしろい.世界史の教養を復習できることはもちろん,日本語としては知っているのに英語だと浮かんでこない用語がたくさんあり,たいへん勉強になる.高校生や大学生のみならず,誰にとっても1冊で2科目を学べるスーパー教材といってよい.英文としては平易である.
 本村凌二(翻訳監修)の『英語で読む高校世界史』(講談社,2017年)の冒頭の1節は「文明と文化」について.この英語版高校世界史の解説は分かりやすい.

Civilizations and Cultures

   In ancient times, people of the West Asia started to live together in cities surrounded by walls with sundried bricks or stones, because of a dry climate and barren land. In the cities, people processed various natural materials and made their lives more comfortable. They also invented irrigated agriculture, metal ware and vehicles. In addition to this, philosophies and religions were created, and massive architectural buildings were constructed. Thus, the oldest civilization was established.
   From the beginning, civilisations were created being independent of or in conflict with, the natural environment.
   Therefore, they could spread beyond the difference of environments. On the other hand, cultures were the lifestyles made by the relations between humans and natural environments. In other words, each area has its own culture suitable for its environment. Relationships between humans and nature have made unique landscapes. It is difficult for a culture to spread beyond its own environment. Thus, the cultures were thought to be inferior to the civilizations. Since the end of the 20th century, however, the meaning of natural environments began to be reconsidered.


 文明と文化の定義や相違については文化人類学でも様々な立場があり,上記は1つの見解であることに注意.例えば『ブリタニカ国際大百科事典小項目版2015』によれば「文明」とは次の通り.

文化と同義に用いられることが多いが,アメリカ,イギリスの人類学では,特にいわゆる「未開社会」との対比において,より複雑な社会の文化をさして差別的に用いられてきた.すなわち国家や法律が存在し,階層秩序,文字,芸術などが比較的発達している社会を文明社会とする.しかし今日では,都市化と文字の所有を文明の基本要素として区別し,無文字 (前文字) 社会には文化の語を用いる学者も多い.この立場では文明は文化の一形態,下位概念とされる.またドイツ民族学や文化社会学では,精神的なものと自然的なものを区別し,自然を支配するための技術による物質的・実際的部門にかかわるものを文明,自然それ自体の価値を実現する精神的,感情的な部門にかかわるものを文化とする傾向がある.


 文字の所有の有無,あるいは literacy の有無が重要な要因となるという見解だが,これに対して「#3118. (無)文字社会と歴史叙述」 ([2017-11-09-1]) でみた議論があることにも注意しておきたい

 ・ 本村 凌二(翻訳監修) 『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』 講談社,2017年.
 ・ 橋場 弦・岸本 美緒・小松 久男・水島 司(監修) 『WORLD HISTORY for High School 英文詳説世界史』 山川出版社,2019年.

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2021-07-08 Thu

#4455. 英語史では書き言葉が同時代の話し言葉をどれだけ反映してきたか [literacy][medium][writing][standardisation][methodology]

 書き言葉は話し言葉を写すものであるという理解が広く行き渡っている.確かにこれは書き言葉の1つの重要な機能であり,それ自体は間違いではない.しかし私は,話し言葉と書き言葉は,言語を表わす2つの独立した媒体と認識している.確かに両者の関係は深いが,原則として互いに独立している.訴えかける感覚も話し言葉は聴覚,書き言葉は視覚と異なっているし,機能においても完全に一致することはあり得ないと考えている.
 話し言葉と書き言葉は原則として互いに独立した媒体であり,ピタッと一致することはあり得ないことを前提としつつ,では英語史では両者はどのくらいかけ離れていたのか,あるいは歩み寄っていたのか,ということを問題としたい.日本語史でいうところの「言文(不)一致」の問題である.
 日本語史と比べればという条件つきの意見だが,英語史においては,英語が書き言葉に付されたとき,それが同時代の話し言葉をどのくらいよく反映していたかと問われれば,「比較的よく」と答えられるように思われる.日本語では変体漢文,漢文訓読文,和漢混淆文など,話し言葉から大きく逸脱した書き言葉が広く用いられてきたが,英語ではそれほどの大きな逸脱はみられなかった.
 英語史の時代でいえば,書き言葉が話し言葉に最も接近していたのは中英語期だったかもしれない.発音がそのまま綴字に乗ったという点でも,書き言葉に威信を与える標準語が存在しなかったという点でも,両媒体は接近していたといえそうだ.
 一方,先立つ古英語期や,後続する近代英語期にかけては,両媒体の距離は相対的に大きかったように思われる.古英語の韻文は「口承文学」とはいえ,同時代の話し言葉を表わしたものとは考えられないし,後期にかけては「ウェストサクソン標準語」も現われ,中英語最初期まである程度の影響力を保った.後期中英語から近代英語期にかけてはラテン語やフランス語などの威信をもった語彙が大量に流入し,書き言葉では同時代の話し言葉よりも水準の高い語彙選択がなされた.このような点について,Schaefer (1285--86) は次のように述べている.

[M]ost of what has come down to us in writing should be considered as influenced by the very medium that allows us to look into these historical linguistic data. However, if we compare the poetic evidence from the early 8th century to the prose evidence from the 12th, it is probably the latter that brings us closest to what may be considered to mirror the spoken language of the respective period. Albeit that the former must have been heavily informed by the pre-Christian oral culture, its form most certainly does not reflect conceptually 'spoken' language. Moreover, English was only firmly reestablished in writing in the 14th and 15th centuries. In that period English in writing obviously profited very much from the literate languages Latin and French . . . . The influence of Latin continued well into the Modern period and hence made the disparity between prose writing in the then establishing standard and the actual spoken language even wider.


 英語史では,むしろ現代にかけて話し言葉と書き言葉の距離が狭まってきているとも考えられる.ラジオ,テレビ,インターネットなどの技術に支えられて,各媒体によるコミュニケーションが劇的に増え,両媒体間の境目も従来ほど明確ではなくなってきていることも関係しているだろう.
 同じ問題意識からの記事として「#3210. 時代が下るにつれ,書き言葉の記録から当時の日常的な話し言葉を取り出すことは難しくなるか否か」 ([2018-02-09-1]) も参照.

 ・ Schaefer, Ursula. "Interdisciplinarity and Historiography: Spoken and Written English --- Orality and Literacy." Chapter 81 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1274--88.

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2020-11-16 Mon

#4221. 新しきは古きを排除するのではなく選択肢を増やす (2) [communication][medium][writing][printing][manuscript][literacy]

 漫然と『丸善エンサイクロペディア大百科』をペラペラめくっていたところ,通信媒体の発達と累積性に関する記事が目にとまった (1772--73) .「#2931. 新しきは古きを排除するのではなく選択肢を増やす」 ([2017-05-06-1]) で取り上げた議論だが,とりわけ「通信媒体の累積性」では本質的なところをズバッと突いていて感心した.言語コミュニケーションの媒体の発展を論じる上で,非常に大事な洞察である.以下,長いがすべて引用する.

通信の発達,情報・マスコミの歴史

通信の発達
 通信を遠くにあるものとの意思伝達とすれば,その発達は,主たる媒体によって,大まかに口頭,筆記,印刷,電気通信,相互作用的通信の時代に分類される.文字がない時代における通信の手段は,口頭によるか,視覚・聴覚を通じての信号・合図(のろし,太鼓など)によるしかない.文字をもつようになると紙の発明とともに手書き筆記が通信媒体の主要な手段となった.
 印刷術の発明まで,重要な書物はカトリック修道院の書写室で書写されていた.平均的な個人が入手可能な書物の数は限定されており,識字率も非常に低かった.図書館は知識を流布する場所というより知識を蓄積する場所という傾向があった.
 印刷術の発明は,書物を一般に開放した.ヨーロッパでは1455年に J. グーテンベルク (1397--1468) によって金属活字による活字活版印刷が発明された.この新たな技術は書物の広範な流布を意味し,16世紀後半の宗教改革運動や17世紀イギリス・ピューリタン革命期のイデオロギーの教化の必要によるパンフレット,新聞などの各種印刷物の出現をみた.ただし,識字率はなお低く,この発明の影響力は非常に緩慢なものであり,今日のように印刷物が大衆媒体といえるものになったのはグーテンベルクの発明から,380年も経過した1830年代のアメリカ(最初の大衆廉価新聞の創刊)においてであった.
 1844年に S. F. B. モース (1791--1872) が実用化した電信は新聞の取材と伝達速度を瞬時のものとし始め,通信の歴史の新たな画期を形成した.電信網は,迅速で確実情報収集に死活をかけていた帝国主義者や商人によって,19世紀中葉からまたたく〔ママ〕に世界中に張りめぐらされ,世界を縮小した.

マスコミから双方向通信へ
 新聞社が英米で先端技術を駆使して,発行部数100万を超える大量生産を可能とする大企業となった1890年代から電波を媒体とするラジオの登場する1920年までがマス・コミュニケーションの形成・定着期である.これに第二次世界大戦後に世界的にかつ決定的に普及したテレビが加わり,電気通信系マスメディアが通信の主流を占める.
 この間,帝国主義,ファシズム,共産主義,世界大戦の戦時宣伝などのその都度の支配的イデオロギーの伝播を背景として,国内的には国内民衆の文化的統合,および対外的には帝国主義国の支配文化の世界的な流布とその正当化のために新しい媒体だけでなく,古い媒体も動員された.これらの支配的イデオロギーの伝達はすべて,ひとりから多数への情報伝達に付きまとう情報がもつ政治的な意味を浮かび上がらせる.
 情報化時代といわれる今日におけるソ連の崩壊はひとりから多数への情報の統制のありようの限界と変化を暗示する.1980年代に本格化した新たな通信の形態の特徴は,通信衛星を利用した国際電話,ファックス,パソコン通信にみられるひとりからひとりへの通信の相互作用性,双方向性である.集団間の通信においても,テレビ会議がもっとも双方向性があり,文字放送,ケーブルテレビ,有線放送にしても他ジャンル,多チャンネルの情報から個々人の需要に応じて提供される点で,従来の一方方向型の伝達ではない.この通信の双方向性は,長らく情報を分断してきた国境を難なく越境し,情報の集中する中央と情報の遅れた地方という構図を突き崩し,情報を独占・管理してきた権力を動揺させている.

通信媒体の累積性
 通信の歴史は,口頭,筆記,印刷,電気通信,相互作用的通信の時代に一応分類されるが,口頭による伝達は,文字と印刷術の発明の後も,口コミとして使用された.それどころか宗教的政治的な激動期にしばしば肉声として重要な役割を演じたし,ラジオ・テレビの登場後も電波を通じて意味を失っていない.手書きも印刷文書の時代になっても衰退することなく併存し,印刷時代の手書き文書の解読は今日の歴史家が尊敬されるための重要な仕事である.今日ワープロが文書作成の主流となっても肉筆の手紙がかえって尊重されることがしばしば報告されるように,口頭からコンピューターまでの歴史は身体性を隠蔽する方向に進んだようにみえても実際は身体性は消滅することはない.
 通信の媒体は累積的な性質をもち,新しい媒体の出現はその都度,先行の媒体の機能を変えるが,先行媒体の完全な代替物とはならず,手書き筆記,印刷,電気通信ともいずれも現代まで続行している.これは,通信の歴史が媒体の変化とともに,情報の量の多さを追求してきた歴史であることを示す.


 人類は,言語コミュニケーションにおいて情報の量を追求し続け,その過程で種々の媒体を発明してきたということになる.一方,情報の質についてはどうなのだろう,と考え込んでしまった.質の問題は,媒体に半ば依存するが,半ば独立したものでもあろう.
 今回の話題と関連して書写材料の話題について,「#2465. 書写材料としての紙の歴史と特性」 ([2016-01-26-1]),「#2456. 書写材料と書写道具 (1)」 ([2016-01-17-1]),「#2457. 書写材料と書写道具 (2)」 ([2016-01-18-1]),「#2933. 紙の歴史年表」 ([2017-05-08-1]),「#3116. 巻物から冊子へ,パピルスから羊皮紙へ」 ([2017-11-07-1]) も参照.

 ・ 『丸善エンサイクロペディア大百科』 丸善,1995年.

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2020-01-30 Thu

#3930. なぜギリシアとローマは続け書きを採用したか? (2) [alphabet][distinctiones][punctuation][reading][writing][latin][greek][literacy][word]

 昨日の記事 ([2020-01-29-1]) に引き続き,なぜギリシアとローマが,それ以前の地中海世界で普通に行なわれていた分かち書き (distinctiones) を捨て,代わりに続け書き (scriptura continua) を作用したかという問題について.
 Saenger によれば,この問題に迫るには,読むという行為に対する現代的な発想を脇に置き,古代の読書習慣とその社会的文脈を理解する必要があるという.端的にいえば,現代人はみな黙読や速読に慣れており,何よりも「読みやすさ」を重視するが,古代ギリシアやローマの限られた人口の読み手にとって,読む行為とは口頭の音読のことであり,現代的な「読みやすさ」を追求する姿勢はなかったのだという.以下,Saenger の解説を聞いてみよう (11--12) .

. . . the ancient world did not possess the desire, characteristic of the modern age, to make reading easier and swifter because the advantages that modern readers perceive as accruing from ease of reading were seldom viewed as advantages by the ancients. These include the effective retrieval of information in reference consultation, the ability to read with minimum difficulty a great many technical logical, and scientific texts, and the greater diffusion of literacy throughout all social strata of the population. We know that the reading habits of the ancient world, which were profoundly oral and rhetorical by physiological necessity as well as by taste, were focused on a limited and intensely scrutinized canon of literature. Because those who read relished the mellifluous metrical and accentual patterns of pronounced text and were not interested in the swift intrusive consultation of books, the absence of interword space in Greek and Latin was not perceived to be an impediment to effective reading, as it would be to the modern reader, who strives to read swiftly. Moreover, oralization, which the ancients savored aesthetically, provided mnemonic compensation (through enhanced short-term aural recall) for the difficulty in gaining access to the meaning of unseparated text. Long-term memory of texts frequently read aloud also compensated for the inherent graphic and grammatical ambiguities of the languages of late antiquity.
   Finally, the notion that the greater portion of the population should be autonomous and self-motivated readers was entirely foreign to the elitist literate mentality of the ancient world. For the literate, the reaction to the difficulties of lexical access arising from scriptura continua did not spark the desire to make script easier to decipher, but resulted instead in the delegation of much of the labor of reading and writing to skilled slaves, who acted as professional readers and scribes. It is in the context of a society with an abundant supply of cheap, intellectually skilled labor that ancient attitudes toward reading must be comprehended and the ready and pervasive acceptance of the suppression of word separation throughout the Roman Empire understood.


 引用の最後に示唆されているように,古代人は続け書きにシフトすることで,読みにくさをあえて高めようとした,という言い方さえできるのかもしれない.この観点は,中世後期に再び分かち書きへと回帰していく過程を理解する上でも示唆的である.関連して「#1903. 分かち書きの歴史」 ([2014-07-13-1]) も参照.

 ・ Saenger, P. Space Between Words: The Origins of Silent Reading. Stanford, CA: Stanford UP, 1997.

Referrer (Inside): [2020-02-01-1]

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2019-02-03 Sun

#3569. literacy は認知上の決定的な差異をもたらすか? (2) [literacy][anthropology]

 昨日の記事 ([2019-02-02-1]) に引き続き,literacy は人類にとって革新的な「知性の技術」 (= [the] technology of the intellect) であるのか否かという問題を考えよう.
 Foley (433) は,literacy は「知性の技術」であるにしても,定冠詞の付くような唯一絶対のものではなく,歴史によって形成される社会的・文化的な構築物の1つとしての技術にすぎないと考えている.とすると,古典ギリシア的な「知性の技術」は,必然的な終着点ではなく,あくまで古代ギリシアで歴史的に培われた1つの特殊な技術とみるべきだということになる.

Literacy is not a straightforward "technology of the intellect"; technologies, like intellects . . ., are social and cultural constructions, arrived at by particular histories of engaging with the world and each other through various institutions and events. There are as many literacies as there are ways of engaging the world and ourselves through the written word. Those whose lives are deeply embedded in and lived through the written word could expect some cognitive effects as a result of this, but that is simply the result of their particular lived histories, their trajectories of structural coupling and nothing more. And, of course, what those effects might be will be local, specific to the local literacy practices that they have engaged in and whose understanding they embody. There are no certain or universal effects.


 この箇所は,実に読み応えのある批評である.続く Foley (434) の結論部でも,同趣旨で次のようにある.

Cultural practices and beliefs about literacy are highly variable, demonstrating the impossibility of any simple oral/literate divide or monolithic literate technology. Rather, literate practices of each culture reflect the way they engage with the world through the written word, their lived history of structural coupling via a script technology.


 literacy というと,まず個人の認知や学習という側面を考えがちだが,それと同じくらい個々の社会・文化に特有の歴史的構築物だという視点にも注意を払っておきたい.

 ・ Foley, William A. Anthropological Linguistics: An Introduction. Malden, MA: Blackwell, 1997.

Referrer (Inside): [2019-06-14-1]

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2019-02-02 Sat

#3568. literacy は認知上の決定的な差異をもたらすか? (1) [literacy][anthropology]

 literacy のある個人とない個人,literacy のある共同体とない共同体とでは,何かが決定的に異なっているにちがいないと思われるのは自然である.では,読み書きができる,できないという定義上の差異を超えて,何がどう異なるのだろうか.Foley (417) は,当該分野の草分け的な論文を著わした人類学者 Goody の説を紹介しつつ,この点に触れている.

In a seminal study, Goody . . . building on earlier work . . . proposed that literacy is a major force for social and cultural change. He proposed to replace earlier contrasts in anthropological writings between prelogical versus logical mentalities or "primitive" versus civilized minds . . ., or the Neolithic "science of the concrete" versus our modern "science of the abstract" . . . with a contrast between oral versus literate cultures. In other words the invention of writing, roughly around five thousand years ago, was a watershed event in human history, so that societies possessing this "technology of the intellect" . . . are fundamentally different as a result of this invention. Goodly followed this work up with subsequent publications . . ., and this hypothesis has independently been proposed or enthusiastically taken up by a number of other researchers. . . . On the face of it, this suggestion might seem relatively uncontroversial. The members of a literate society are clearly different from those of an oral one --- they can read and write. But Goody and his fellow researchers mean much more than this; it is their contention that the possession of this skill, this "technology of the intellect," leads to major cognitive changes in the way literates think about themselves and their world. Literacy brings about a major cognitive revolution, a revolution best exemplified, in Goody's view, in the flowering of critical and speculative thought in classical Greece, but a potential outcome wherever literacy takes hold.


 Goody の説によると,literacy は「認知上の大革命」をもたらし,典型的に古典ギリシアと結びつけられる批評的・思索的精神の発生を促すのだという.Goody は literacy のこの力はおそらく普遍的で必然的と考えているが,そのように単純に議論することはできるのだろうか.すでに読み書きできる私たちにとって,literacy = "[the] technology of the intellect" という捉え方は,ある意味で非常に自然なのだが,この意見には反論も出されている.その議論については明日の記事で.
 関連する話題として,「#850. 書き言葉の発生と論理的思考の関係」 ([2011-08-25-1]),「#1014. 文明の発達と従属文の発達」 ([2012-02-05-1]),「#3118. (無)文字社会と歴史叙述」 ([2017-11-09-1]) を参照.

 ・ Foley, William A. Anthropological Linguistics: An Introduction. Malden, MA: Blackwell, 1997.

Referrer (Inside): [2019-06-14-1] [2019-02-03-1]

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2018-02-05 Mon

#3206. 宗教改革は識字率の向上にそれほど寄与しなかったか? [literacy][reformation]

 初期近代のイングランドにおいて,聖書を読むことを重んじる宗教改革 (reformation) の後押しにより,識字率が高まったという見方について,「#3066. 宗教改革と識字率」 ([2017-09-18-1]) で紹介した.もちろん宗教改革だけが識字率向上の要因となったわけではなく,それと二人三脚で進んだ印刷術 (printing) の普及も大きな要因だったろう(「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]),「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]) を参照).
 しばしば宗教改革の貢献が喧伝されるが,否,それは言われるほど大きな要因ではなかったとする説も出てきている.むしろ宗教改革以前からあった教育への需要こそが,初期近代の識字率を押し上げたのだという.素直といえば素直な見方だ.他の文献からの引用を通じてだが,Schaefer (1284) がその説を紹介している.

. . . counter to what may be expected from the new Christian denomination with its sola scriptura doctrine, the "Reformation, which laid so much emphasis upon the written word, did not provide for everyone to read it" (Orme 2006: 335). And in that respect there is yet another perception which has been recently corrected, namely that, in contrast to previous views, it was much less Protestantism that fostered literacy in England and elsewhere in (Northern) Europe. As Charlton and Spufford (2004: 19) state, "commercial needs for education overrode all others, both before and after the Protestant Reformation", an observation which also accounts for the yet increasing literacy in the following centuries.


 この説を受け入れるならば,識字率の向上の原動力は,宗教的・政治的な情熱というよりも商業的・実利的な需要だったということになろうか.上記の引用元の書誌も挙げておこう.

 ・ Charlton, Kenneth and Margaret Spufford. "Literacy, Society and Education." The Cambridge History of Early Modern English Literature. Ed. David Lowenstein and Janel Mueller. Cambridge: CUP, 2004.
 ・ Orme, Nicholas. Medieval Schools: From Roman Britain to Renaissance England. New Haven, CN: Yale UP, 2006.

 ・ Schaefer, Ursula. "Interdisciplinarity and Historiography: Spoken and Written English --- Orality and Literacy." Chapter 81 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1274--88.

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2017-12-02 Sat

#3141. 16世紀イングランドの識字率 [literacy][demography][spelling][standardisation]

 「#3101. 初期近代英語期の識字率」 ([2017-10-23-1]),「#3066. 宗教改革と識字率」 ([2017-09-18-1]) に引き続いての話題.16世紀ヨーロッパでは教育制度がおおいに拡充され,文字を読み書きできる人々が多くなってきたことは確かだが,識字率として具体的な数字を与えることは難しい.都市と地方の差,階級差,男女差などが大きく,一般化することが困難であるばかりでなく,そもそも多くの統計や研究が誤った前提に立っているという事情がある.その前提とは,法的書類に署名できる人は文字を読むこともできたとするものだ.近年の脳科学の知見によれば,書くことと読むことはまったく別の行為であり,両者が常に連動するものと考えることはできない.
 そこで,ペティグリー (317--19) は,様々な地域からの識字能力に関する断片的な情報を寄せ集めて,識字率を総合的に求めるという手法に訴えかけた.その結果として,以下の見解を導き出している.まず,都市と地方の識字率の差異については,言われるほど大きくなかったのではないかと述べている.人々は年と地方の間を頻繁に移動したし,彼らの集まる市場や酒場ではどこでも印刷物が貼り出されていたからだ.地方出身者であっても,文字を見慣れてはいただろう.
 識字率の男女差については,差があっただろうとは想像できても,それが具体的に確かめられるような資料は乏しい.女性は高い識字能力が要求される仕事につくことはなかったために,記録としても残りにくいのである.それでも本を読み,楽しむ女性は多くいたようではある.
 よく記録の残っている都市部の男性に限定すれば,高い識字率を誇る都市は印刷以前より存在した.16紀末のヴェネツィアでは33%ほどあったし,1530年のヨークでは20--25%ほどあった.このヨークの男性識字率は,同世紀末までには41%にまで跳ね上がっている.
 16世紀,そして続く17世紀にイングランドの識字率が大幅に上昇したことは間違いない.教育の拡充,印刷の普及,その他の社会的要因がこの上昇に貢献しているが,これらの諸要因はまた英語の綴字の標準化にも間接的に寄与しているのである.いよいよ大衆が本格的に文字に接し始めたときに,標準的な綴字が求められるようになったのだろう.

 ・ ペティグリー,アンドルー(著),桑木 幸司(訳) 『印刷という革命 ルネサンスの本と日常生活』 白水社,2015年.

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2017-11-09 Thu

#3118. (無)文字社会と歴史叙述 [writing][history][anthropology][literacy]

 『クロニック世界全史』 (246--47) に「無文字文化と文字文化」と題する興味深いコラムがあった.文化人類学では一般に,言語社会を文字社会と無文字社会に分類することが行なわれているが,この分類は単純にすぎるのではないかという.もう1つの軸として「歴史を必要とする」か否か,歴史叙述の意志をもつか否かというパラメータがあるのではないかと.以下,p. 247より長めに引用する.

 歴史との関連でいえば,文字記録は歴史資料としてきわめて重要なものだが,人類史全体での文字使用の範囲からいっても,文字記録がのこっている度合いからいっても,文字記録のみによって探索できる歴史は限られている.考古学や民族〔原文ノママ〕学(物質文化・慣習・伝説や地名をはじめとする口頭伝承などの比較や民族植物学的研究)などの非文字資料にもとづく研究が求められる.文字を発明しあるいは採り入れて,出来事を文字によって記録することを必要とした,あるいはその意志をもった社会と,そうでなかった社会とは,歴史の相においてどのような違いを示すかが考えられなければならない.
 出来事を文字を用いて記録する行為は,直接の経験をことばと文字をとおして意識化し,固定して,のちの時代に伝える意志をもつことを意味する.文字記録が,口頭伝承をはじめ生きた人間によって世代から世代へ受けつがれていく伝承と著しく異なるのは,出来事を外在化し固定する行為においてであるといえる.文字が図像のなかでも特別の意味をもっているのは,言語をとおして高度に分節化されたメッセージを「しるす」ことができるからである.
 出来事を文字に「しるす」社会が,時の流れのなかに変化を刻み,変化がもたらすものを蓄積していこうとする意志をもっているのにたいし,伝承的社会,つまり集合的な仕来りを重んじる社会は,新しく起こった出来事も仕来りのなかに包みこみ,変化を極小化する傾向をもつといえる.このような伝承的社会は,日本をはじめいわゆる文字社会のなかでも無も時的な層としてひろく存在しており,これまで民俗学者の研究対象となってきた.
 従来,多くの歴史学者が出来事の文字記録の誕生に歴史の発生を結びあわせ,アフリカ,オセアニアなど文字記録を生まなかった社会を「歴史のない」社会とみなしてきたのも,経験を意識化し,過去を対象化する意志に歴史意識の発生をみたからだろう.しかしこのような見方は,正しさを含んではいるが,あまりに一面的である.文字記録のない社会でも,王制をもつ社会のように,口頭伝承や太鼓による王朝史などの歴史語りを生んできた社会は,それなりに「歴史を必要とした」社会である.そして,そのような権力者が現在との関係で過去を意識化し,正当化して広報する必要のある社会では,王宮付きの伝承者や太鼓ことばを打つ楽師によって,文字記録に比べられる長い歴史語りの「テキスト」が作られ,伝えられてきた.
 そのような過去との緊張ある対話を必要としない社会,つまり熱帯アフリカのピグミー(ムブティなど)や極北のエスキモー(イヌイットなど)のように,平等な小集団で狩猟・採集の遊動的な生活を営んできた社会は,無文字社会のなかでもまた「歴史を必要としなかった」社会ということができる.
 このようにみてくると,文字社会,無文字社会という区別は絶対的なものではないことがわかる.いわゆる文字社会のなかにも無文字的な層があるのと同時に,無文字社会にも「歴史を必要とする」という限りで,文字社会と共通する部分があるのだから.このような二つの層,ないし部分は,時代とともに,すべてが文字性の側に吸収されていくのが望ましいとはいえない.人間のうちで,歴史とのつながりでいえば出来事を意識化して変化を生むことを志向する,文字性に発する部分と,「今までやってきたこと」のくりかえしに安定した価値を見いだす,無文字性に根ざす部分とは,あい補う関係で人類の社会をかたちづくってきたし,これからもかたちづくっていくだろう.


 ここで述べられている,文字社会・無文字社会の区別と,歴史叙述の意志の有無という区別をかけ合わせると,次のような図式になるだろう.

 「歴史を必要とする」社会「歴史を必要としない」社会
文字社会(1) 従来の「文字社会」(2) 歴史を記さない文字社会
無文字社会(3) 口頭のみの歴史伝承をもつ社会(4) 従来の「無文字社会」


 従来の見方によれば,文字社会は (1) と同一視され,無文字社会は (4) と同一視されてきた.しかし,文字社会であっても歴史を記さない (2) のようなケースもあり得るし,無文字社会であっても歴史を伝える (3) のようなケースもある.切り口を1つ増やすことによって,従来の単純な二分法を批評できるようになる例だ.
 無文字言語と関連して,「#748. 話し言葉と書き言葉」 ([2011-05-15-1]),「#1277. 文字をもたない言語の数は?」 ([2012-10-25-1]),「#2618. 文字をもたない言語の数は? (2)」 ([2016-06-27-1]),「#2447. 言語の数と文字体系の数」 ([2016-01-08-1]),「#1685. 口頭言語のもつ規範と威信」 ([2013-12-07-1]) を参照.

 ・ 樺山 紘一,木村靖二,窪添 慶文,湯川 武(編) 『クロニック世界全史』 講談社,1994年.

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2017-10-23 Mon

#3101. 初期近代英語期の識字率 [literacy][demography][emode][standardisation]

 「#3043. 後期近代英語期の識字率」 ([2017-08-26-1]),「#3066. 宗教改革と識字率」 ([2017-09-18-1]) で,英語社会の識字率について話題にしたが,今回は水井 (116--17) より,テューダー朝期を中心とする16--17世紀のイングランドの識字率をみてみよう.

 ジェントリの子どもたちにとっては高等教育が社会的に必要であったし,聖職者や法律家になるにはこの方法しかなかった.また,都市の商人の子どもたちにとっては読み書きと計算が将来のために必要であった.しかし,教育費は高額で,富裕層の家庭でも子どもに高等教育を受けさせるためには,家計の中でも相当の割合を占めるような出費を覚悟せねばならなかったのである.より貧しい層では子どもの労働力を家計の足しにする必要があったので,子どもが読み書きを習うために村や町の初等学校に行ったとしても,仕事に就くために通学が短期間で終わることが多かった.読み書きは生きていくために不可欠というわけではなく,農業や手工業の経験的な技術・知識の取得のほうが重要だと考えられることも多かった.
 この時期のイングランドではジェントリ層,商人,富裕な農民層を中心に識字率が向上した.一七世紀中にジェントルマン層の識字率はほぼ一〇〇%に近付いていき,商人層,浮遊農民層でも過半数を上回るようになる.しかし,職人層や貧しい農民,女性の識字率は低く一七世紀末でも一〇%から二〇%に達する程度であったと推定されている.


 あくまで推計であるし,階層によって数値が異なるという事情も当然あったわけなので,当時の識字率の全体像をつかむことは容易ではない.しかし,この時期の印刷術の普及,出版物の大量の発行,宗教改革に後押しされた読書習慣,教育の向上などにより,着実に人々の識字率が向上していたという趨勢は間違いないだろう.標準綴字の模索と定着も,まさにこの時期の出来事だったことを合わせて確認しておきたい.

 ・ 水井 万里子 『図説 テューダー朝の歴史』 河出書房,2011年.

Referrer (Inside): [2017-12-02-1]

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2017-09-18 Mon

#3066. 宗教改革と識字率 [reformation][literacy]

 宗教改革は,識字率に影響を与えたといわれる.「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]),「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]) でみたように,宗教改革と印刷術の活用が二人三脚で進展したからである.実際,宗教改革の前夜である16世紀初頭と同世紀末とを比べると,識字率が大幅に増加したようだ.歴史的な識字率を正しく得ることは難しいが,様々な推計が増加を指摘している.
 永田 (40--42) は,ドイツや西ヨーロッパ全体に関する各種の推計を紹介している.ある推計によれば,16世紀初めのドイツでは3--4%,都市部でも5%ほどだったが,1600年頃のハンブルクでは10%からその数倍の人々が文字を知っていたという.また,西ヨーロッパ全体についても,16世紀末には都市部で識字率が50%近くになっていたという見解もある.様々な推計を受けて,永田 (42) は,作業仮説として「十六世紀初頭に読み書きができるひとは五パーセント以下だったが,その世紀の終わりになると,都市部では三〇から五〇パーセント近くまで上昇した」という見解を採用している.
 ただし,識字率が増加したとはいえ,みなが読めるというにはほど遠い状態である.そのような不完全な識字を補うために,宗教改革の推進派は,紙芝居の音読のような「集団読書」を行なったり,絵入りの冊子や木版画で人々を啓蒙しようとした.これらのメディア戦略が功を奏して,ドイツほかの地域で宗教改革が展開していったのである.
 なお,時代は下って1900年頃のヨーロッパの識字率についても,次のような推計が引き合いに出されているので紹介しておこう.「一九〇〇年頃,プロイセン・ドイツの識字率は八八パーセント,オーストリアは七七パーセント,フランスは八二パーセント,イタリアは五二パーセントである」(永田,p. 42).ただし,一般にヨーロッパの識字の基準は甘く,自分の名前が読み書きできる程度でも文字を知っているとみなされたので,いくらか割り引いて評価する必要はありそうだ.

 ・ 永田 諒一 『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』 講談社〈講談社現代新書〉,2004年.

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2017-08-26 Sat

#3043. 後期近代英語期の識字率 [literacy][demography][spelling][lexicology]

 過去の社会の識字率を得ることは一般に難しいが,後期近代英語期の英語社会について,ある程度分かっていることがある.以下にメモしておこう.
 まず,Fairman (265) は,19世紀初期の状況として次の事実を指摘している.

1) In some parts of England 70% of the population could not write . . . . For them English was only sound, and not also marks on paper.
2) Of the one-third to 40% who could write, less than 5% could produce texts near enough to schooled English --- that is, to the type of English taught formally --- to have a chance of being printed.


 Simon (160) は,19世紀中の識字率の激増,特に女性の値の増加について触れている.

The nineteenth century witnessed a huge increase in literacy, especially in the second half of the century. In 1850 30 per cent of men and 45 per cent of women were unable to sign their own names; by 1900 that figure had shrunk to just 1 per cent for both sexes.


 上のような識字率と関連させて,Tieken-Boon van Ostade (45--46) がこの時代の綴字教育について論じている.貧しさゆえに就学期間が短く,中途半端な綴字教育しか受けられなかった子供たちは,せいぜい単音節語を綴れるにすぎなかっただろう.このことは,本来語はおよそ綴れるが,ほぼ多音節語からなるラテン語やフランス語からの借用語は綴れないことを意味する.文体レベルの高い借用語を自由に扱えないようでは社会的には無教養とみなされるのだから,彼らは書き言葉における「制限コード」 (restricted code) に甘んじざるをえなかったと表現してもよいだろう.
 識字率,綴字教育,音節数,本来語と借用語,制限コード.これらは言語と社会の接点を示すキーワードである.

 ・ Fairman, Tony. "Letters of the English Labouring Classes and the English Language, 1800--34." Insights into Late Modern English. 2nd ed. Ed. Marina Dossena and Charles Jones. Bern: Peter Lang, 2007. 265--82.
 ・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.
 ・ Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. An Introduction to Late Modern English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2009.

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2016-11-12 Sat

#2756. 読み書き能力は言語変化の速度を緩めるか? [glottochronology][lexicology][speed_of_change][schedule_of_language_change][language_change][latin][writing][medium][literacy]

 Swadesh の言語年代学 (glottochronology) によれば,普遍的な概念を表わし,個別文化にほぼ依存しないと考えられる基礎語彙は,時間とともに一定の比率で置き換えられていくという.ここで念頭に置かれているのは,第一に話し言葉の現象であり,書き言葉は前提とされていない.ということは,読み書き能力 (literacy) はこの「一定の比率」に特別な影響を及ぼさない,ということが含意されていることになる.しかし,直観的には,読み書き能力と書き言葉の伝統は言語に対して保守的に作用し,長期にわたる語彙の保存などにも貢献するのではないかとも疑われる.
 Zengel はこのような問題意識から,ヨーロッパ史で2千年以上にわたり継承されたローマ法の文献から法律語彙を拾い出し,それらの保持率を調査した.調査した法律文典のなかで最も古いものは,紀元前450年の The Twelve Tables である.次に,千年の間をおいて紀元533年の Justinian I による The Institutes.最後に,さらに千年以上の時間を経て1621年にフランスで出版された The Custom of Brittany である.この調査において,語彙同定の基準は語幹レベルでの一致であり,形態的な変形などは考慮されていない.最初の約千年を "First interval",次の約千年を "Second interval" としてラテン語法律語彙の保持率を計測したところ,次のような数値が得られた (Zengel 137) .

 Number of itemsItems retainedRate of retention
First interval685885.1%
Second interval584680.5%


 2区間の平均を取ると83%ほどとなるが,これは他種の語彙統計の数値と比較される.例えば,Zengel (138) に示されているように,"200 word basic" の保持率は81%,"100 word basic" では86%,Swadesh のリストでは93%である(さらに比較のため,一般語彙では51%,体の部位や機能を表わす語彙で68%).これにより,Swadesh の前提にはなかった,書き言葉と密接に結びついた法律用語という特殊な使用域の語彙が,驚くほど高い保持率を示していることが実証されたことになる.Zengel (138--39) は,次のように論文を結んでいる.

Some new factor must be recognized to account for the astonishing stability disclosed in this study . . . . Since these materials have been selected within an area where total literacy is a primary and integral necessity in the communicative process, it seems reasonable to conclude that it is to be reckoned with in language change through time and may be expected to retard the rate of vocabulary change.


 なるほど,Zengel はラテン語の法律語彙という事例により,語彙保持に対する読み書き能力の影響を実証しようと試みたわけではある.しかし,出された結論は,ある意味で直観的,常識的にとどまる既定の結論といえなくもない.Swadesh によれば個別文化に依存する語彙は保持率が比較的低いはずであり,法律用語はすぐれて文化的な語彙と考えられるから,ますます保持率は低いはずだ.ところが,今回の事例ではむしろ保持率は高かった.これは,語彙がたとえ高度に文化的であっても,それが長期にわたる制度と結びついたものであれば,それに応じて語彙も長く保たれる,という自明の現象を表わしているにすぎないのではないか.この場合,驚くべきは,語彙の保持率ではなく,2千年にわたって制度として機能してきたローマ法の継続力なのではないか.法律用語のほか,宗教用語や科学用語など,当面のあいだ不変と考えられる価値などを表現する語彙は,その価値が存続するあいだ,やはり存続するものではないだろうか.もちろん,このような種類の語彙は,読み書き能力や書き言葉と密接に結びついていることが多いので,それもおおいに関与しているだろうことは容易に想像される.まったく驚くべき結論ではない.
 言語変化の速度 (speed_of_change) について,今回の話題と関連して「#430. 言語変化を阻害する要因」 ([2010-07-01-1]),「#753. なぜ宗教の言語は古めかしいか」 ([2011-05-20-1]),「#2417. 文字の保守性と秘匿性」 ([2015-12-09-1]),「#795. インターネット時代は言語変化の回転率の最も速い時代」 ([2011-07-01-1]),「#1874. 高頻度語の語義の保守性」 ([2014-06-14-1]),「#2641. 言語変化の速度について再考」 ([2016-07-20-1]),「#2670. 書き言葉の保守性について」 ([2016-08-18-1]) なども参照されたい.

 ・ Zengel, Marjorie S. "Literacy as a Factor in Language Change." American Anthropologist 64 (1962): 132--39.

Referrer (Inside): [2018-05-23-1]

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2012-02-05 Sun

#1014. 文明の発達と従属文の発達 [syntax][language_change][civilisation][causation][literacy]

 言語史において,従属文は歴史が浅いといわれる.従属構造は,文明が高度に発達し,思考や表現が洗練されて初めて出現するものだ,ということが,文献上でしばしば指摘されている.たとえば,最近,出会ったものとして2点引用しよう.

従文(従属文,dependent clause)は従属接続詞または関係詞によって導かれる.言語の発達史上,従文は人間の表現能力がより高度に発展した段階で生じた.〔中略〕言語史的にはまず並置法が,のちにより複雑な従位法が発達した.(下宮,p. 57)


La comparaison des langues indo-européennes montre que la proposition relative est une acquisition tardive, et l'observation synchronique indique que le type d'expansion représenté par les propositions subordonnées ne s'impose, dans certaines communautés, que sous la pression de besoins nouveaux apportés par la culture occidentale. (Martinet 179)

印欧語の比較により,関係節は遅れて獲得されたものであることが明らかにされているし,共時的な観察により,従属節の示す種類の拡大過程は,ある共同体では,西洋文化によってもたらされる新しい必要の圧力のもとでしか現われない.


 ここで考慮する必要があるのは,下宮氏のいう「人間の表現能力がより高度に発展した段階」や,Martinet のいう「西洋文化によってもたらされる新しい必要の圧力のもとでしか」という表現に含意されているように思われる文明の発達と,複雑な統語構造の1例としての従属文の発達とは,いかなる関係にあるかということである.
 少なくとも印欧語の文脈では,Martinet の言うように,従属節の発達が印欧諸語の発達の比較的遅い段階に見られるというのは客観的な事実である.つまり,文明の発達と従属文の発達とが時間的におよそ符合することは確かだ.しかし,時間的な符合は,即,因果関係を含意するわけではない.両者の間に因果関係はあるのか,ないのか.あるとすれば,どの程度の因果関係なのか.印欧語以外の文脈ではどうなのか.
 直感的には,文明が発達することによって,社会が複雑化し,それに伴って指示対象や思考の様式も複雑化し,それに伴って対応する言語表現も複雑化するというのは,自然のように思われる(Martinet は,蒸気船の発明に伴う le bateau qui marche à la vapeur という表現を例に挙げている).
 別のステップを思い描くこともできる.文明が発達すると,知識の集積と情報の伝達の必要が増大する.その必要に応えるための主たる媒体が言語,特に書きことばだとすれば,物事や出来事の関係を正確に記すための論理的な表現法が必要となる.そこで,その目的を達するのに必要な統語,形態,句読法などが新たに作り出されることになるが,その統語的な刷新の1つとして従属文の発達ということがあったのではないか.
 しかし,文明の発達と従属文の因果関係を実証することは極めて難しい.両方の発達とも,一夜にしてではなく相当の長さの時間をかけて起こったものであり,そのあいだに他の多くの要因が紛れ込んだ可能性があるからだ.間接的な因果関係がありそうだというところはまでは提起できても,因果関係を示す事実を挙げながら説得力をもって論じるということは難しそうだ.
 ただし,関連して興味深い例があるので示しておこう.池内 (59) のいうように,併合+標示付けや回帰的階層的句構造は人の言語を特徴づけるものであり,複雑な統語構造の発達は潜在的にどの言語でも可能である.しかし,複雑な統語構造が顕在化するかどうかは言語によって異なり,そこには文化的な要因も関わっているかもしれない.アマゾン流域の狩猟採集民族によって話されるピラハー語には回帰的な埋め込み構造がないとされ,研究者の注目を集めているが,池内 (59) によれば,「ピラハー語には,他の言語と同様に,(回帰的操作としての)併合と標示付けはあり,階層的句構造は生み出されるが,文化的な制約で回帰的な埋め込み構造まではいかない」だけであり「たまたま複雑な回帰がない」にすぎないという.
 文明の発達と個別の文化の制約とは異なるとはいえ,言語外の要因によって統語構造という言語内の体系が変化する可能性があるということは,注目すべきである.言語外の要因が語彙や意味に影響を及ぼす例は多く挙げられるが,より抽象的な統語レベルにも同様に影響を及ぼしうるのかという点は,なかなか追究するのが難しい.
 この問題については,[2011-01-12-1]の記事「#625. 現代英語の文法変化に見られる傾向」に引用した Leech et al. の主張にも耳を傾けたい.また,文明の発達と言語の発達という点で,[2011-08-25-1]の記事「#850. 書き言葉の発生と論理的思考の関係」も,本記事の話題と関連するかもしれない.

 ・ 下宮 忠雄 『歴史比較言語学入門』 開拓社,1999年.
 ・ Martinet, André. Éléments de linguistique générale. 5th ed. Armand Colin: Paris, 2008.
 ・ 池内 正幸 『ひとのことばの起源と進化』 〈開拓社 言語・文化選書19〉,2010年.

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2011-08-25 Thu

#850. 書き言葉の発生と論理的思考の関係 [writing][medium][alphabet][grammatology][buddhism][literacy]

 昨日の記事「話し言葉書き言葉 (2)」 ([2011-08-24-1]) の項目 (3) で,典型的にいって,書き言葉は話し言葉より分析的で論理的であると説明した.日本語であれ英語であれ標準的な書き言葉を身につけている者にとって,これは常識的に受け入れられるだろう.書き言葉のほうが正しく権威があるという文字文明のにおける直感は,論理的な思考を体現するとされる書籍,新聞,論文,契約書,法文書などへの信頼によっても表わされている.
 文字の発明が人間の思考様式を変えたというのは結果としては事実だが,その因果関係,特に書き言葉の発展と論理的思考の発展の因果関係がどのくらい直接的であるかについては熱い議論が戦わされている.Kramsch (40--41) から引用する.

. . . as has been hotly debated in recent years, the cognitive skills associated with literacy are not intrinsic to the technology of writing. Although the written medium does have its own physical parameters, there is nothing in alphabet and script that would make them more suited, say, for logical and analytic thinking than the spoken medium. To understand why literacy has become associated with logic and analysis, one needs to understand the historical association of the invention of the Greek alphabet with Plato's philosophy, and the influence of Plato's dichotomy between ideas and language on the whole of Western thought. It is cultural and historical contingency, not technology per se, that determines the way we think, but technology serves to enhance and give power to one way of thinking over another. Technology is always linked to power, as power is linked to dominant cultures.


 確かに,書き言葉のおかげで論理的思考が可能になったというのは全面的に間違いだとはいわないが,直接の因果関係を示すものではなさそうだ.書き言葉と論理的思考は互いに相性がよいことは確かだろうが,一方が必然的に他方を生み出したという関係にはないように思われる.両者のあいだに歴史的偶然のステップが何段階か入ってくる.引用にあるギリシア・アルファベットとプラトンの例で考えると,以下のようなステップが想定される.

 (1) 紀元前1000年頃,ギリシア語に書き言葉(アルファベット)が伝えられた ([2010-06-24-1])
 (2) 論理を重視するプラトン (427?--347?BC) の哲学がギリシアに現われた
 (3) こうして偶然にギリシアで書き言葉と論理性が結びついた
 (4) 両者は一旦結びつきさえすれば相性はよいので,その後はあたかも必然的な関係であるかのように見えるようになった

 人類にとっての文字の発明 ([2009-06-08-1]) や,ある文化への書き言葉の導入は,歴史上常に革命的であると評価されてきた.例えば,[2010-02-17-1]の記事「外来宗教が英語と日本語に与えた言語的影響」で取り上げたように,英語へはキリスト教伝来を背景にラテン語経由でローマン・アルファベットが,日本語へは仏教伝来を背景に中国語経由で漢字がそれぞれ導入され,両言語のその後の知的発展を方向づけた.しかし,文字の導入という技術移転そのものがその後の知的発展の直接の推進力だったわけではなく,アルファベットや漢字という文字が体現していた先行の知的文明を学び取ったことが直接の原動力だったはずである.文字はあくまで(しかし非常に強力な)媒体であり手段だったということだろう.「文字の導入はその後の知的発展にとって革命的だった」という謂いは,比喩として捉えておくのがよいのかもしれない.
 このように考えると,昨日の記事の対立項 (3) の内容は,あくまで傾向を示すものであり,特定の時代や文化に依存する相対的なものであると考えるべきなのだろうか.

 ・ Kramsch, Clair. Language and Culture. Oxford: OUP, 1998.

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