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2010 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2009 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
[2010-06-24-1]の記事「#423. アルファベットの歴史」及び[2012-01-28-1]の記事「#1006. ルーン文字の変種」で,ルーン文字の起源に触れた.起源については不明な点も多いが,英語に残っているいくつかの語の語源から,ルーン文字文化のなにがしかについて知ることができる.
ルーン文字の書き方あるいは刻み方について示唆を与える語は,write である.この語は印欧祖語に遡る古い歴史をもっているが,「木または樹皮に傷をつけて,文字などを彫る」という語義をもっていた.類似する語義は,ドイツ語 reißen (引きちぎる)に残る.日本語でも「書く」は「掻く」に通ずる.
ルーン文字が秘術的に謎めいた文句を引っ掻くものだったとすれば,それを読み解く作業こそが read だったにちがいない.古英語 rǣdan には「(夢・なぞの)意味を読み取る,解釈する」の語義が認められ,単に「読む」というよりも「言い当てる」の含意が強い.この名残は,read one's mind, read the future, read a riddle などの表現に残る.最後の表現にある riddle 自体が,関連する古英語 rǣdels (謎)に由来し,同族目的語の構文といえる.14世紀に語尾の -s が複数語尾として異分析 (metanalysis) され,現在の形態の原型が作られた([2010-04-06-1]の記事「#344. cherry の異分析」を参照).
ルーン文字で掻いた(書いた)素材といえば,beech (ブナの木)だったかもしれない.母音交替を通じて book にも通じる可能性があることは,[2011-01-19-1]の記事「#632. book と beech」で触れた.
最後に,rune 自体の語源だが,伝統的には,古英語 rūn (ささやき,神秘,魔術)に由来すると解釈されてきた.しかし,「秘術」の connotation は,古ノルド語の対応する語にはあったとしても,古英語にはその証拠がない.古英語ではむしろ,キリスト教にすでに同化した語として「知識の共有」ほどの意味で用いられたとする説がある (Crystal 9) .古英語 rūn は現代英語では */raʊn/ となるはずだが,これは残っていない.実のところ,「ルーン文字」としての rune の初出は17世紀末のことで,北欧学者によるラテン語を経由しての再導入である.近現代では,rune は豊かで神秘的な connotation を得て,今なお人々の想像力をかき立てている.
・ Crystal, David. The English Language. 2nd ed. London: Penguin, 2002.
[2012-01-27-1]の記事「#1005. 平仮名による最古の「いろは歌」が発見された」で,日本語音韻の順序としての「いろは」について簡単に触れた.
平安末期,橘忠兼が「色葉字類抄」2巻本で漢字や熟語をいろは順に整理したのを嚆矢として,鎌倉初期に10巻本として増補改訂された「伊呂波字類抄」を含め,広く辞書の配列に,いろはが利用されるようになった.室町時代に成立したいろは順の国語辞書「節用集」は,その実用性ゆえに江戸時代には広く用いられ,辞書の代名詞となった.明治以降は,平安時代に別途成立した五十音図(現存最古の図は11世紀初めの醍醐寺蔵「孔雀経音義」)にもとづく「あいうえお」順が配列の基本となっているが,いろはは歴史的仮名遣いにおける仮名の使い分けの根拠とされ,現代かなづかいにも間接的に影響を与えていることになる.配列としてのいろはの伝統は,「ピアノのいろは」「いろはの『い』の字も知らない」などの慣用表現においても「物事の初歩」ほどの意味で残っている.
「物事の初歩」ということでいえば,英語にも ABC という表現がある.the ABC of gardening, (as) easy as ABC, I don't know even the ABC of business など,「いろは」とよく似た使い方だ.語としての ABC は,英語では14世紀前半に「読み書き」や「アルファベット」の語義で初出する.「初歩」の語義では,Gower が初出だ.
関連して from A to Z (初めから終わりまで,すっかり)も,アルファベットの配列にもとづいた慣用表現だ.こちらの初出は1819年.
ギリシア語アルファベトからは,Rev. 1:8 の I am Alpha and Omega, the beginning and the ending が英語に入っており,Tyndale の聖書 (1526) がその初出である.
サンスクリット語(梵語)からは,日本語へ「阿吽(あうん)」が入ってきている.「阿」は口を開く音で字音の初め,「吽」は口を閉じる音で字音の終わり.万物の初めと終わりを示す点では,上記と相通ずる.阿吽は「息の出入り」という意味を発展させ,共に一つのことをするときの相互の微妙な調子や気持ちを表わすのに「阿吽の呼吸」という慣用句が生まれた.
いろは歌にせよアルファベットにせよ,順序を表わすという役割の大きかったことがわかる.現代は科学の時代で,数字で順序を表わすのが主流になってきているとはいえ,「あいうえお」や ABC もまだまだ健在である.いずれも文化史上の大発明といってよいだろう.ちなみに,いろは歌の最後に「京(ん)」が加えられたのは鎌倉時代からだが,その理由はよくわかっていない.
[2012-01-27-1]の記事「#1005. 平仮名による最古の「いろは歌」が発見された」で,いろは歌のもつ日本語音韻史上の意義に触れた.中古後半より,48字の「あめつちの詞」に代わって47字の「太為仁歌」や「いろは歌」が受け入れられてきたという事実は,この頃までに [e] と [je] の音韻上の対立が解消されていたことを強く示唆する.しかし,このように論じられるのは,ある一つの前提を無条件に受け入れているからにすぎない.この前提が崩れれば,上の推論も成り立たない.
その前提とは,いろは歌が,当時の日本語の主要な音韻に対応する仮名のすべてを一度ずつ用いて意味のある文章を組み立てなければならない,というルールに基づいたことば遊びであるという点だ.あくまで過去のことば遊びのルールはこうだったに違いないという前提のもとにいろは歌を解釈すると,過去の音韻はこうだったのではないか,と推論しているにすぎない.しかし,ことば遊びもルールが厳格であればあるほど,それを乗り越えて完成された作品は高く称賛されるはずであり,後代のいろは歌の普及は,当時のくだんのルールの存在を支持していると考えられる.
ところで,文字一覧のすべての要素を用いて文章を作るということば遊びは,英語でも知られている.pangram と呼ばれることば遊びで,"A sentence or series of words that contains all the letters of the alphabet. The ideal pangram contains each letter only once, but it is difficult to compose a meaningful sentence of this kind." (McArthur 744) と説明される.有名な例としては,タイピストが各文字を確かめるために打ったという The quick brown fox jumps over the lazy dog. という伝統的な pangram があるが,文字の重複がある.ほかに26文字きっかりの力作としては Quiz my black Whigs---export fund. や Blowzy night-frumps vex'd Jack Q. というものもある.さらに,辞書なしではほとんど意味の取れない1984年の労作として,標題の Veldt jynx grimps waqf zho buck. (草原アリスイ(鳥)が(イスラム教の)寄付の雄ゾー(ヤクとウシの雑種)を引き上げる)がある (Crystal, English 118) .
なお,フランス語での最短の pangram として,Whisky vert: jugez cinq fox d'aplomb. (緑のウィスキーよ,好調な5匹のフォックステリアを裁け)という作品がある (Crystal, Encyclopedia 65) .
この点,いろは歌は,涅槃経第十四聖行品の偈の「諸行無常,是生滅法,生滅滅已,寂滅為楽」の意訳とされ,内容からもできの良い作品といえる.ことば遊びでありながら,韻律や含蓄にもすぐれ,なおかつ文字の順序を表わす実用的な役割も兼ねてきたとあって,文化史上の偉大な発明だったことがわかる.
・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.
・ Crystal, David. The English Language. 2nd ed. London: Penguin, 2002.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1997. 199--205.
昨日の記事「#1005. 平仮名による最古の「いろは歌」が発見された」 ([2012-01-27-1]) の最後で触れた通り,今回はルーン文字 (the runic alphabet) の変種について.
古代ゲルマン民族によって使われたルーン文字 (the runic alphabet) の起源については定説がないが,[2010-06-24-1]の記事「#423. アルファベットの歴史」で触れた通り,エトルリア文字から派生したという説がある.一方で,ギリシア文字 (the Greek alphabet) やローマ字 (the Roman alphabet) から派生したとする説もある.確かにわかっていることは,ゲルマン語話者が,紀元一千年紀前半に,自らの言語に適応させる形でルーン文字体系を発展させていたことだ.
ルーン文字は,800年頃までに北欧で用いられた初期ゲルマン・ルーン (the Early Germanic runic script) ,5--12世紀にブリテン島で用いられたアングロサクソン・ルーン (the Anglo-Saxon runic script) ,8--13世紀にスカンジナビアとアイスランドで用いられたノルディック・ルーン (the Nordic runic script) に大別される.初期ゲルマン・ルーンは24字からなり,最初の6字 <f>, <u>, <þ>, <a>, <r>, <k> をとって "fuþark" と称される.(以下,ルーン文字の図は『新英語学辞典』より.)
一方,ブリテン島に導入されて改良されたアングロサクソン・ルーンは,古英語の音韻体系を反映して文字を追加し,Salzburg Codex 140 に記録されているような28字の体系へ,そして古英語後期にはさらに拡大した33字からなる体系へと変容していった.また,ここでは第4字母 <a> が <o> へ,第6字母 <k> が <c> へ置き換えられており,アングロサクソン版ルーン文字は "fuþorc" とも呼ばれる.
このように,音標文字である限り,音韻の変化や変異を反映して,字母一覧が多少なりとも変化を被るというのは自然のことのように思われる.ルーン文字における24字 fuþark と33字 fuþorc の対比は,昨日の記事で取り上げたように,仮名における48字「あめつちの詞」と47字「いろは歌」の対比に相当するといえる.
しかし,音標文字にあってすら,音韻と文字の関係が必ずしも厳密ではないこと,音韻変化に文字体系が追いついて行かないこともまた,往々にして真実である.ルーン文字の場合でいえば,ノルディック・ルーンが表わしている古代北欧諸語は,古英語にもまして豊富な音韻をもっていたが,むしろ文字数としては減っており,最終的には16字にまで縮小した.その理由は今もって謎だが,音素と文字の関係が絶対的なものではなく,あくまで緩いものであることを示す好例だろう.仮名の「お」と「を」,「は」と「わ」,「え」と「へ」の関係,現代英語の spelling_pronunciation_gap の無数の例も,両者の関係の緩さを証明している.関連して,[2009-06-28-2]の記事「#62. なぜ綴りと発音は乖離してゆくのか」や [2011-02-20-1]の記事「#664. littera, figura, potestas」の記事を参照.
(後記 2013/03/18(Mon):以下は,デンマーク国立美術館で購入した絵はがきよりスキャンした24文字ルーン)
・ Encyclopaedia Britannica. Encyclopaedia Britannica 2008 Ultimate Reference Suite. Chicago: Encyclopaedia Britannica, 2008.
・ 大塚 高信,中島 文雄 監修 『新英語学辞典』 研究社,1987年.
1月18日の新聞記事で知ったのだが,三重県明和町にある斎宮跡から,平仮名で「いろは歌」の墨書された土師器が出土した.11世紀末から12世紀前半のものとされ,いろは歌で平仮名書きされたものとしては最古である.平安時代からは,万葉仮名や片仮名で記されたものは出土していたが,平仮名のものはいまだ発見されていなかった.これまでの平仮名いろはの最古は,岩手県平泉町の志羅山遺跡から出土した12世紀後半の木簡に記されたものだった.
筆跡が繊細で,平凡な土器の両面に書かれており,女官の生活場所と目されるところから出土したことから,斎王(天皇の代わりに伊勢神宮に仕えた皇女)の女官が習書したものと考えられる.いろは歌が都から斎宮へいち早く伝えられ,比較的身分の低い地元出身の女官までがいろは歌を学んでいたとすれば,当時のいろは歌の普及の程度が推し量れることになり,貴重な史料となる.なお,12世紀半ばには都の子供は教養の一部としていろは歌で手習いをしていたとされている.
この土器の出土について,詳しくは,斎宮歴史博物館による記事「斎宮跡から日本最古の「いろは歌」平仮名墨書土器が出土しました!」,あるいはGoogle News による記事リストを参照.
「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」の47文字からなるいろは歌は,手習い歌のほか,辞書などで順序を表わすのにも長く用いられ(平安末期,橘忠兼の「色葉字類抄」はいろは順で編まれた最初の辞書),昭和の初めまで習字の手本ともされていた.文献上の初出は,1079年の仏教経典「金光明最勝王経音義」の巻頭部分で,万葉仮名と片仮名で書かれている.成立年代は,今回の土器より約1世紀早く,10世紀末から11世紀中頃と考えられている.
いろは歌のもつ日本語史上の意義は大きい.いろは歌の成立年代は日本語史でも重要な論点となっているが,それは日本語文化史上の問題であるばかりか,中古に生じていた音韻変化の問題に大いにかかわってくるからだ.いろは歌は,当時の異なる音節(ただし清濁の別は問わない)に相当する仮名をすべて用い,意味のある文章を作ったもので,一種のことば遊びだ.手習い歌としては,やはり47の仮名になる「太為仁歌」(たゐに歌)なるものがあったが,源為憲が970年頃の著で,さらに先行する平安初期の48字からなる「あめつちの詞」よりも「太為仁歌」のほうがすぐれていると言及している.この言及は,2つのことを示唆する.1つは,この段階ではいろは歌はまだなかったらしいこと.もう1つは,手習い歌としては,48字版から47字版がふさわしいと感じられるようになっていたこと,である.後者は,素直に考えれば,仮名の数だけでなく,仮名で表わされていた音節の数も1つ減っていたことを示す.問題の音節の消失は,950年頃より後に [e] と [je] の区別が失われたことに対応し,ここから,いろは歌の成立も早くてもこの年代以降であることが確実視される.したがって,平安末から広く聞かれた弘法大師(空海)(774--835) の作とする説は,現在では俗説として退けられている.ただし,いろは歌の原形が48字だったとする説もある.
上記のように,音標文字一覧が時代とともに変わるということは,音韻体系の変化を示唆する.英語史あるいはゲルマン語史でこれに対応する例の1つに,ルーン・アルファベット (the runic alphabet) の文字数の変化と変異がある.これについては,明日の記事で.
古音の推定については,[2010-07-08-1], [2011-05-25-1]の記事を参照.また,「#572. 現存する最古の英文」については[2010-11-20-1]を参照.
[2012-01-24-1]の記事「#1002. this の不定指示形容詞としての用法」で取り上げた this の用法に関する質問とは別に,this について,もう一つ違う観点から質問が寄せられていた.this は非過去指向という理解でよいか,という質問である.
this の中心的な語義として「目の前にある」が想定できそうだが,そうすると確かに時間的には現在か未来を指示すると考えるのが自然だ.that time に対する this time など,that と this の対比表現によっても,「that = 過去」「this = 非過去」という等式の想定が容易になっている.
しかし,this が過去を指示することは皆無ではない.標題の this Sunday は,単独では「来たる日曜日」と未来を指すものと解釈する向きが強いが,月曜日に直前の週末の出来事を語っているという文脈では,普通に用いられる.this weekend, this summer なども同様である.要するに,話者がより近いと感じている方の端点に this の矢印が向くのであり,その限りでは this が過去を指示することもある.同じ未来の一点を指す場合でも,this Sunday のほうが next Sunday より近接感があるとされるから,this の選択は時間軸上の向きにもまして,心理的な距離の近さが効いていることがわかる.上記の点では,日本語の「この日曜日」「この週末」「この夏」もまったく同じ使い方である.
さて,日英の 近称指示代名詞「この」と this は,いずれの言語の deixis 体系においても,歴史的に比較的用法が安定している.一方,近称 this に対応する遠称 that は,[2009-09-30-1]の記事「#156. 古英語の se の品詞は何か」で触れたように,古英語決定詞 se からの分化であり,形態と機能の歴史はやや複雑だ.同様に,古代日本語でも,近称コ系列に対して中称ソ系列や遠称ア系列(あるいはカ系列)の位置づけは安定していない.奈良時代にはカ系列がほとんど例証されないことから,コとソの2系列だったとする説もあるし,ソ系列に現場指示(指さし)用法が発達したのは中古,本格的には中世だったことから,古代にソ系列を想定しない説もある(高山・青木,pp. 151--52).付け加えれば,フランス語の指示代名詞の deixis 体系 (遠近で区別のない ce のみ)も,ラテン語要素から歴史的に発展してきたものである.各言語の deixis の歴史的発展を対照的に研究するのもおもしろそうだ.
・ 高山 善行,青木 博史 編 『ガイドブック日本語文法史』 ひつじ書房,2010年.
昨日の記事「#1002. this の不定指示形容詞としての用法」 ([2012-01-24-1]) に関連して,this の読みひとつをとっても奥が深いことを実感した.日本語の「こそあど」もそうだが,deixis の関与する語句の語用論は実に複雑だ.
指示形容詞としての this には,現代英語でも様々な用法がある.中英語ともなれば,語用論的な含意は,ますます直感的にはとらえにくくなるし,そもそも含意があることに気付くことすら難しい.今回は,Horobin (94--96) より,Chaucer に見られる語用論的に興味深い this の用法,2種をのぞいてみたい.
一つ目は,人物名詞や名前に先行して this が用いられる場合で,「例の,くだんの」ほどの意を表わし,機能としては定冠詞に近い.Mustanoja (174) によれば,定冠詞に近い this の用法は古英語から見られるもので,"mainly a feature of vivid, colloquial, and often chatty style" として Chaucer や Gower でよく見られるとしている(口語的であるという点が,昨日の this の特殊用法と比べられる).確かに,口語色の強い The Miller's Tale で,"This Absolon", "This parissh clerk, this amorous Absolon", "this joly lovere Absolon" など,登場人物の名前に添えて使われる例が目立つ.ほかには,The Knight's Tale で,2人の騎士 Palamon と Arcite の描写が節ごとに交互に繰り返される部分では,各節の冒頭に "This Palamon", "This Arcite" などと this を添えることで,当該の節がどちらの騎士についての描写なのかを明示する談話上の役割が確認される.いずれの場合にも,this は単に定 (definiteness) を表わすだけの機能にとどまらず,追加的に談話上の役割を担っている.
二つ目として,話者の "a contemptuous or patronizing attitude" (Horobin 96) を含意するという this の用法がある.以下は,語り手である Franklin が,主人公 Dorigen が夫の留守を嘆き悲しむ激しさを評して,「女というものは・・・」と,軽蔑交じりに述べている箇所である.
For his absence wepeth she and siketh,
As doon this noble wyves whan hem liketh. (F817--18)
類例として,同じく The Franklin's Tale より.
'Go we thanne soupe,' quod he, 'as for the beste.
Thise amorous folk somtyme moote han hir reste.' (F1217--18)
あたかも,いったん対象との心理的距離を縮め,身近に引きつけておいてから,突き放す(軽蔑する)という感じだろうか.両方の例で,this が共通して総称的に使われているのが気になるところだ.
Chaucer の上記の2用法と,昨日取り上げた現代英語の this の用法との関連は不明だが,口語性,話者の心理的な引きつけという点では漠然とつながりそうだ.広い意味で,this の deictic な働きは,中英語より連綿と受け継がれているといえるだろう.
・ Horobin, Simon. Chaucer's Language. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2007. (esp. pp. 105--07.)
・ Mustanoja, T. F. A Middle English Syntax. Helsinki: Société Néophilologique, 1960.
this の用法についての質問が寄せられた.NHKラジオ講座で,Tetsu と Joyce の次の会話が現われたという(赤字は引用者).
T: You're grinning from ear to ear, Joyce.
J: Tetsu, things are looking up!
T: Really? What's going on?
J: Remember that guy I was telling you about?
T: The new guy who works in your office?
J: Yes! He asked me out to dinner!
T: Excellent! Where's he taking you?
J: We're going to this unique hamburger joint.
T: But aren't you a pescetarian?
J: Not anymore!
8行目の Joyce の発話にある this がここでの問題である.ここでの文脈を考えても,ハンバーガー店は近辺にないようだ.また,かつてこの2人が行ったことがある店であるという様子でもない.また,このスキットは1回読み切りで,前後の回との関連もない.
結論からいえば,この this は,Joyce が念頭にある特定の「すごいハンバーガー屋さん」を内面化し,心理的距離が近いものとしてとらえているために発せられた this だろう.聞き手の Tetsu にとっては,具体的にどの店を指しているのかはわからないはずである.不定冠詞 a や,もっといえば a certain に近い用法だが,話者の内面化の事実が強調されている点で,勢いが感じられる.(この趣旨の読みで間違いないことは,英語母語話者の同僚に確認を取った.)
この用法は,通常,辞書にも記載されており,珍しくはないが,日本語母語話者には感覚がつかみにくい.各学習者英英辞書の記載を,用例とともに比べてみよう.
OALD8:
6 (informal) used when you are telling a story or telling sb about sth
・ There was this strange man sitting next to me on the plane.
・ I've been getting these pains in my chest.
LDOCE5:
(SPOKEN PHRASES)
6. used in stories, jokes etc when you mention a person or thing for the first time:
・ I met this really weird guy last night.
・ Suddenly, there was this tremendous bang.
LAAD2:
4. spoken used in conversation to mean a particular person or thing, especially when you do not know their name:
・ Then this girl came up and kissed him on the lips.
・ When am I going to meet this boyfriend of yours?
Macmillan English Dictionary for Advanced Learners, 2nd ed.:
9 used for referring to a particular person or thing SPOKEN used in a story or a joke when you mention a person or thing without giving a name
There was this big guy standing in the doorway.
MWALED:
5 --- used to introduce someone or something that has not been mentioned yet
<We both had this sudden urge to go shopping.>
笳?This sense of this is often used to produce excitement when telling a story.
<I was walking down the street when this dog starts chasing me. [=when a dog started chasing me]>
<Then these two guys come/came in and start asking her questions.>
最後の MWALED の記述がほかよりも丁寧だろうか.全体的に言えることは,口語のくだけた文脈で,いきいきした表現を生み出すために,この this が使われているようだ.「物語風の描写」「具体的な名前は挙げずに」「興奮して」という要素を取り出すことができるが,これは,話し手のよく知っている(内面化している)ことを,聞き手には半ば謎めいたままに提示するという結果を生み出している.以上より,当面,この用法を「話し手の一方的な内面化」用法と呼んでおきたい.一般の英英辞書の記述も参考までに挙げておこう.
Web3:
1. f : being one not previously mentioned <I was waiting for the bus and this old man came along and asked me for a dime> <gave me a light from this big lighter off the table---J. D. Salinger>
American Heritage, 4th ed.
4. Informal Used as an emphatic substitute for the indefinite article: looking for this book of recipes.
SOED:
B. 1. d (In narrative) designating a person or thing not previously mentioned or implied, a certain. colloq. E20.
最後の SOED の記述によると,20世紀前期からの口語用法ということになり,かなり新しい.もう少し歴史を調べようと,OED を引いてみると,II. Demonstrative Adjective. の 1. d. の語義が SOED のものに近そうだが,厳密に対応しているわけではない.したがって,歴史的な詳細は不明のままだ.中英語まで遡りうるかどうかと思い,MED の "this" (adj.) を参照したが,対応する例はなさそうだ.
[2011-05-15-1], [2011-08-24-1]に引き続き,標題の話題.両媒体の差異が絶対的なものではないことについては,[2009-12-13-1]の記事「#230. 話しことばと書きことばの対立は絶対的か?」で議論したが,一般的な理解としては,両者は対置されるとしておいて問題はないだろう.用語上の対立も,話し言葉と書き言葉,音声言語と文字言語,口頭言語と書記言語,口頭語と文章語,談話と文章など広く認められ,私たちの日常の意識のなかでも二つの媒体は明確に区別されている.
[2011-08-24-1]の記事で両媒体の特徴の違いを詳しく見たが,語用論的な特徴の指摘に偏っていたきらいがあるので,今回は言語形式上の特徴に焦点を当てて,差異を明らかにしたい.今回参考にしたのは『日本語概説』(204--06) で,日本語からの例を挙げるが,多くの項目は英語にもその他の言語にも対応するものが認められるだろう.
同著 (p. 206) でのまとめは,「話しことばがコミュニケーションのスピードと手軽さに優る社会生活上の利器であるならば,書きことばは高度な思想や深い文学的な妙味をつくりだす点に秀でた表現として,思索する人間の生活を支えている,と言えるであろう.」
メール,ツイッター,チャットなどの新種のコミュニケーションには,話しことばと書きことばの両方の特徴が混在しているといわれるが,上記の特徴を見比べてゆくと,確かにそのとおりだ.話しことばよろしく待遇表現には気を遣う側面もあるし,かといって互いに同じ場所にいるわけではないので,書きことばのように,指示語の使用は控えることが多い.文学的表現は必ずしも使わずとも,同音異義語や同音類義語を活用することはやぶさかではない.
・ 加藤 彰彦,佐治 圭三,森田 良行 編 『日本語概説』 おうふう,1989年.
昨日の記事「#999. 言語変化の波状説」 ([2012-01-21-1]) で紹介した the wave theory は,言語を含む人文現象の拡散の仕方として当たり前とは述べたが,教えてくれることが多く,興味をそそられる.
波状説と深く関連づけられている謂いに「古語は辺境に残る」 (archaism in marginal areas) というものがある.例外も少なくないが,言語革新は往々にして政治,経済,文化の中心地において生じる.この中心地から革新が波状に拡散してゆくが,当然のことながら,遠く離れれば離れるほど,辺境であればあるほど,革新の波は及びにくい.結果として,辺境には革新の影響は届かず,古い形態なり用法なりが残りやすい.
ここでおもしろいのは,波紋は同心円状に広がってゆくため,辺境の一地点 A と別の一地点 B とは,同じ辺境にあったとしても,相当に距離の開いた位置関係,極端な場合には円の中心を挟んだ反対側どうしの位置関係となることがあり得ることだ.逆にいえば,このように互いに隔絶したA地点とB地点において,周囲とは異なる言語項目が共通して確認された場合,「辺境に残った古語」として説明されうるということである.
フランク語から南西ヨーロッパへ広がった言語革新の例として,「白い」を表わす形容詞 blank の伝播を例に取ろう.フランク語の blank は,まずフランス語へ借用され,その後,南下してイタリアやスペインにまで波及した.しかし,ポルトガル北部,サルディニア島,ルーマニアには及ばず,そこではより古くからのラテン語 albus (白い)に由来する語がいまだに用いられている(以下に,下宮 (122) に掲載されている König (48) の地図を再掲).
かくも離れた地域に alvo, arbu, alb が確認されることは,もともと albus 形が南西ヨーロッパに広く分布していたが,北から blank が波状に伝播し,その波が及ばなかった辺境で古語が残存したと考えなければ,うまく説明できないだろう.古語は「偏狭」に残る,ともいえるかもしれない.
・ 下宮 忠雄 『歴史比較言語学入門』 開拓社,1999年.
・ König, Werner. DTV-Atlas zur deutschen Sprache. München: Deutscher Taschenbuch Verlag, 1978.
[2010-02-03-1]の記事「#282. Sir William Jones,三点の鋭い指摘」で述べたように,Sir William Jones (1746--1794) の画期的な洞察により,18世紀の終わりから印欧語比較言語学が始まった.その後,比較言語学の基盤は,August Schleicher (1821--68) らにより,19世紀の半ばには確立していたといってよいだろう.Schleicher といえば,再建形にアステリスクをつける習慣を始めた学者でもある.印欧語比較言語学の華々しい成果は,あの一枚の系統図 ([2009-06-17-1], [2010-07-26-1]) に凝縮されている.
一方で,同じ頃,比較言語学の前提とする言語変化観,いわゆる the family tree model に対して異論が出始めていた.系統図は時間軸に沿って万世一系に描かれているが,現実には,諸言語は互いに接触しあい,混交しながら発展している.言語どうしの関係を考えるには,時間軸で示される縦の次元だけでなく,地理空間での接触を表わす横の次元も合わせて念頭におく必要があるのではないか.そこで,Schleicher の後継者の一人 Johannes Schmidt (1843--1901) は,the family tree model へのアンチテーゼとして the wave theory (Wellentheorie) を提示した.言語項目が地理的に波及してゆくという空間の次元に焦点を当てた,新しい言語変化観である.Campbell and Mixco (221) の説明を引用しよう.
According to the wave model, linguistic changes spread outward concentrically as waves on a pond do when a stone is thrown into it, becoming progressively weaker with the distance from their central point. Since later changes may not cover the same area there may be no sharp boundaries between neighboring dialects or languages; rather, the greater the distance between them, the fewer linguistic traits dialects or languages may share.
革新的な言語項目は,池に投げ込まれた石のように,落ちた点を中心として同心円状に近隣の方言や言語へ広がってゆく.考えてみれば,この説は当たり前のように思える.噂の広がり,流行の伝播,新発明の土器の分布拡大,ありとあらゆる人文現象は the wave theory の唱える方法で広がってゆくように見えるからだ.しかし,当時の比較言語学は時間軸にとらわれすぎており,なかなか空間軸の発想にたどり着かなかった.こうして,言語変化論は空間の次元という新たな生命を吹き込まれ,言語地理学 (linguistic geography) の発展へとつながっていった.
では,the family tree model に基づいた印欧語族の系統図は,the wave theory ではどのような図として描かれるのか.以下が,少々の改変を含みながらも Schmidt に基づく印欧諸語の関係図である(松浪,p. 43 の図を参考に作成).
各言語の覆う空間状の領域には重なりがあり,この点からが Italic だとか,あの点からが Germanic だとか,明確に線を引くことができないということが,よく示されている.上の引用の第2文で述べられているように,異なる時点で始まった2つの言語革新(例えば新語) A と B は,たとえ同じ地点を出発点としていても,同じだけの半径の波紋を描くとはかぎらない.その半径の差により,AとBの両方を受け入れた方言,Aだけを受け入れた方言,いずれも受け入れなかった方言などの違いが生じる.実際には,水面の波紋のようにきれいに円を描くわけではないので,各言語革新の及んだ領域の限界を表わす等語線 (isogloss) は複雑に入り組んだものとなる.AとBのみならず幾多の言語革新がこのようにして広がってゆくために,空間的に離れれば離れるほど,より異なった方言や言語が生まれざるをえないのだ,と Schmidt は考えた.また,同じ仮説から,言語地理学の座右の銘ともいえる "Every word has its own history." という謂いも生まれた.
・ Schleicher, August. Compendium der vergleichenden Grammatik der indogermanischen Sprachen. Weimar: Böhlau, 1861--62.
・ Schmidt, Johannes. Die Verwandtschaftsverhältnisse der indogermanischen Sprachen. Weimar: Böhlau, 1872.
・ Campbell, Lyle and Mauricio J. Mixco, eds. A Glossary of Historical Linguistics. Salt Lake City: U of utah P, 2007.
・ 松浪 有,池上 嘉彦,今井 邦彦 編 『大修館英語学辞典』 大修館,1983年.
最近書いてきた flat_adverb の記事では,主として現代英語の単純形と -ly 形の副詞に焦点を当ててきたが,中英語での状況を Chaucer を頼りに覗いてみたい.
中英語では,確かに -ly 形は増えてきてはいたものの,単純形が現代英語よりもずっと幅を利かせていた.[2012-01-06-1]の記事「#984. flat adverb はラテン系の形容詞が道を開いたか?」の冒頭で概説したように,単純形副詞は形容詞の語幹に副詞接尾辞 -e を付すことによって形成されていたが,中英語ではこの肝心の -e 語尾がしばしば消失にさらされたために,形容詞と形態的な区別がつきにくくなっていた.しかし,だからといってすぐに -ly 形に取って代わられたわけではなく,loude, cleere, faste, faire, smal など多くの語が,いまだに副詞の役を務めていた.例えば,次の couplet の最後の smal は形容詞 "small" ではなく "finely" ほどを意味する副詞である(以下の Chaucer からの引用は,すべて Horobin, pp. 121--23 で挙げられている例を再現したもの).
Of orpyment, brent bones, iren squames,
That into poudre grounden been ful smal; (G 759--60)
ほかにも一見すると形容詞と読み違えてしまいそうな副詞の使用例を挙げよう.
・ That al his love is clene fro me ago (F 626)
・ The fires breene upon the auter cleere (A 2331)
・ Thanne shaltow hange hem in the roof ful hye (A 3565)
韻律上の要請による場合も多かっただろうが,このように単純形は健在だった.ただし,この時代,-ly の勢いが増してきたことは先述の通りで,両形が併用された副詞も少なくない.-ly の前身である -lich(e) という古形を保っている例すら見られ,1つの形容詞に対して最大3種類の副詞形が共存し得たことになる."newly" に相当する以下の例を参照.
・ This carpenter hadde wedded newe a wyf (A 3221)
・ This knyght was comen all newely (RR 1205)
・ that oother of hem is newliche chaunged into a wolf (Boece IV, met. 3)
現代英語では,単純副詞 new は,new-laid eggs, new-mown hay などに複合語に見られるばかりである.wedded newe の collocation については,現代英語の newly-weds (新婚さん)を参照.関連記事「#528. 次に規則化する動詞は wed !?」 ([2010-10-07-1]) もどうぞ.
・ Horobin, Simon. Chaucer's Language. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2007. (esp. pp. 105--07.)
flat_adverb に関連して,強意副詞として用いられる real bad や mighty hungry や pretty cold などの表現について調べながら,ずっと考えていたことだが,この real と日本語の「すごい」の強意副詞的な用法とがすごいよく似ている.類似点を列挙すると,以下の通り.
(1) 程度のはなはだしいことを示す強意の副詞として用いられる
(2) 形容詞が,語幹のままの形態(終止・連体形)で副詞(連用修飾)として用いられる
(3) 口語,俗語として広く行なわれており,規範の立場からは非標準とされる
日本語の口語において「すごい楽しい」がすでに市民権を獲得していることは改めて指摘するまでもない.書き言葉には使えないという規範意識はあるものの,話し言葉での使用について強く非難すべき時代は過ぎているように思う.
上の3点は,近年の「すごい」のみに当てはまる特徴ではない.増井 (78) を引用しよう.
このように「すごい」は「規則に反して新しく使われ始めた表現と考えられるわけであるが,「すごく」の代わりに「すごい」を用いるのは最近ではあっても,それによく似た例は近世や近代にも見られるものであった.
この「形容詞終止連体形の副詞的用法」は,「程度のはなはだしさ」を表わす形容詞の中に見られる用法である.
現代語において「程度のはなはだしさ」を表わし,連用形の形で形容詞・形容動詞などを修飾する形容詞として「えらい」,「おそろしい」,「すごい」,「すさまじい」,「すばらしい」,「ひどい」,「ものすごい」といった語が挙げられる.このうちほぼ無条件で形容し・形容動詞などを修飾可能なものとなると「えらい」,「おそろしい」,「すごい」,「ものすごい」に限られる.
増井は,近世,近代における上方での「えらい」と「おそろしい」の連用修飾用法を実証的に調査した.それによると (82) ,寛政期に「ゑらう」に代わって用言を修飾する「ゑらい」が現われ,後者は幕末には前者と肩を並べるほどに成長した.特に「ゑらい美(うま)い」のように,形容詞終止連体形を修飾する場合には語調の都合でか,「ゑらい」のみが用いられた.しかし,昭和の初め頃には,「えろう」の勢力は完全に後退した.一方,「おそろしい」については,明治・大正期に「おそろしく」の代わりに用いられた例がみられるが,現代にはつながらずに終わった.「おそろしい」の衰退については,この形容詞には本来の「恐い」という語義が強く残っていたために,程度のはなはだしさを表わす用法は副次的にとどまらざるを得なかったのではないかと,増井は論じている.
「ゑらい」と「おそろしい」の発達の差は,[2012-01-14-1]の記事「#992. 強意語と「限界効用逓減の法則」」で取り上げた,意味の漂白化 (bleaching) と関連しているようにみえる.「ゑらい」では意味が漂白して純粋な強意語となったが,「おそろしい」では原義が色濃く残っており,強意語へと漂白しきれなかったということではないか.意味特性のほかには,漂白化に成功した「えらい」は「おそろしい」の5音節に比べて3音節と短いことが関与しているかもしれない.「すごい」も3音節である.語呂のよさや口語らしさということでいえば,短いほうが調子が出そうだ.
「えらい」「おそろしい」の発達についての結論として,増井 (84--85) はこう述べている.
言語変化は,より安易で単純な方向に進むとされるが,その言語変化の一環として形容詞の無活用化がみられ,その流れの中で右のような用法が出てきたとする考え方もあろう.しかし,右の終止連体形の副詞的用法は形容詞一般にみられるものではなく,「程度のはなはだしさ」を強調する場合にのみ現われることを考えると,単に,「安易で単純な方向に流れて無活用化したもの」ということで片付づけるにはためらいがある.むしろ,強調効果を高めるために意図的に終止連体形を用いたものと考えたい.「えらう」「おそろしく」と活用変化させた形より,原形である「えらい」「おそろしい」の形の方が強い印象が与えられるという意識が働いた結果ではないかと私は考える.
副詞(連用形)に対して形容詞(終止・連体形)のもつ力強さについては,昨日の記事「#996. flat adverb のきびきびした性格」 ([2012-01-18-1]) をはじめ ##983,993,995 で議論済みである.上でみた (1), (2), (3) の特徴,すなわち強い意味,形態の単純さ,口語らしさは,いずれも「きびきびした性格」としてまとめられる.real bad と「すごいヤバい」における flat adverb の精神は,ここにありだ.
最後に,「すごい」の語法問題に対する,井上ひさし氏の回答を参照しよう (238) .鋭い意見だと思う.
なぜ,「すごい楽しい」という言い方が流行しているのかを考えてみると,まず,「程度が並々でない」のを表わす形容詞であることが大きい.並々でないことを強調しようとして,つい,すこしばかり破格の表現をとってしまったと考えられます.また,わたしたちは,いつも新しい言い方を求めていますから,その好みにあっているのかもしれません.そして,なによりも,わたしたちは,「正しい言い方」の味気なさを知っています.これは,その味気ない正しさへの,ちょっとした悪戯なのかもしれない.
・ 増井 典夫 「形容詞終始連体形の副詞的用法 ---「えらい」「おそろしい」を中心に ---」 『国語学研究』第27号 東北大学「国語学研究」刊行会,1987年.77--86頁.
・ 井上 ひさし 『井上ひさしの日本語相談』 新潮社,2011年.
ここ最近の関心事となっている flat_adverb について,付け加え.
単純形が,-ly 形に比べて,具体的,端的で力強い響きを有することは昨日の記事[2012-01-17-1]でも触れた通りである.形容詞と同形であることに由来する,いきいき,きびきびした表現力が売りだ.形態的にゼロ派生であり,音声的には -ly がない分,1音節少なく,きびきびしている.命令文や感嘆文など主語などの要素が省略されやすい環境,特に短文で好まれ,この点でもきびきびした性格が明らかである.
flat adverb がこのようにきびきびしていることは,意味上にも反映されている.ここで意味というのは,与える印象が力強いという文体的,修辞的な効果のことではなく,語そのものの意味である.岡村 (34) は,flat adverb は -ly 形と異なり,派生的・比喩的な意味を生み出さないとしている.
ここで興味深いのは,Bolinger の研究に言及しながら,岡村 (33) が副詞の位置による意味の比喩性の議論を持ち出していることだ.以下の4つの文では,slowly の置かれる位置に応じて,比喩的な度合いが異なるという.a が最も比喩的で,d が文字通りの「ゆっくり」を表わすという.
a. Slowly he backed away.
b. He slowly backed away.
c. He backed slowly away.
d. He backed away slowly.
ここでの副詞を単純形 slow で置き換えるのであれば,容認されるのは d に対応する文 He backed away slow. のみである.単純形 slow が,意味的にも韻律的にも無標の位置である文末にしか現われ得ないことと,比喩的な意味を許さないこととが関係づけられるとすれば,音声,形態,統語,韻律,意味のすべての面で flat adverb のきびきびした性格が確認されることになる.
ただし,上の議論は flat adverb 全般に当てはまるわけではなく,主として slow や quick などの動詞を修飾する用法の flat adverb に見られる特徴を指すにとどまっている.程度のはなはだだしさを表わす強意語としての real, awful などは,そもそも意味の比喩化(あるいは漂白化)によって生じているのであり,上の議論には当てはまらない.しかし,この全体としてきびきびとした性格こそが,flat adverb が口語や俗語で好まれる理由なのだろう.
・ 岡村 祐輔 「単純形 loud, quick, slow について」 『山形大学英語英文学研究』第22号,1978年.25--38頁.
[2012-01-03-1]の記事「#981. 副詞と形容詞の近似」で,The sun shines bright. という構文をどう解釈するか,bright を副詞とみるか形容詞とみるかについて触れた.この問題を別の角度からみると,The sun shines bright. と The sun shines brightly. は,解釈の上でどのように異なるかという問題につながる.先日の記事では,慣用表現として統語分析になじまないと逃げを打ったが,千葉 (80)によれば,実際,この問題は厳密に論じるに値しないと考える研究者も少なくないようである.
とはいえ,文法家が気にかけていることは事実だ.千葉 (80) は,類似する構文の多いことを指摘している.
(1) He died happy / happily.
(2) He arrived safe / safely.
(3) He sat silent / silently.
(4) The wind blew cold / coldly.
(5) He stood silent / silently.
(6) He slept very sound / soundly.
(7) The rose smells sweet / sweetly.
ここで (7) を例に取ると,伝統文法では単純形(=形容詞) sweet を用いるのが通例とされ,動詞 smells は不完全自動詞あるいは linking verb と解釈される.バラの匂いが甘いという読みになる.一方,-ly 形(=副詞) sweetly を用いる例もないではないが,この場合には smells は完全自動詞と解釈される.そして,この場合にはバラの匂い方が甘いという読みになると言われる.しかし,実際上は両者の差は微妙であり,sweetly を用いた場合にも,結局のところ,バラの匂いが甘いという読みとなるのが,一般の話者の感覚である.表出する知的意味に過大な差異を認めることは難しいというべきだろう.
知的意味としては大差なく,どちらでもよいと片付けるのが妥当と思われるが,含蓄的意味には違いが生じるので,もう少し詳しく論じる必要がある.単純形を用いるか -ly 形を用いるかは,力点の置き方に微妙な差を生み出す.単純形だと主語について叙述するという気持ちが強く,-ly 形だと動作の仕方へ関心が向く,という傾向はもちろんあるだろうが,ここから湧き出る文体的効果の違いとはいかなるものだろうか.
一般に形容詞は具体的,端的,力強い表現力をもち,副詞はより抽象的,間接的であるといわれる.形容詞は「いきいき」「きびきび」している.千葉 (81) は次の文で,末尾の連続する形容詞が -ly 形だったら,描写に力強さがなくなるだろうと述べている.
Sometimes there was a lull, and flake after flake descended out of the black night air, silent, circuitous, interminable. (R. L. Stevenson, A Lodging for the Night の冒頭より)
ここで,-ly 形を代用することは完全に文法にかなっており,文の知的意味を損なうこともないが,急に味わいは消え失せる.
副詞を用いるか形容詞を用いるかの違いは,伝統文法の用語でいえば,第1文型と第2文型の差に対応する.つまり,-ly 形と単純形の問題は,動詞とその動詞がとる文型の問題と連結していることがわかる.しかし,上述のように,この差は統語の問題というよりは,文体や修辞の問題としてとらえるほうがよいのかもしれない.
ただし,統語的な問題として扱う余地が残されていることも,最後に触れておきたい.特に米口語において flat adverb が増えてきているという事実は,[2012-01-04-1]の記事「#982. アメリカ英語の口語に頻出する flat adverb」以来,flat_adverb のいくつかの記事で取り上げてきたように本来は語感や語勢の問題だったものが,場合によっては文型の問題へすり替わる可能性を秘めているということを示唆する.千葉 (79) が「Curme のいう様に linking verb が増加の一途をたどるといつてよいのではないか」と評しているとおり,動詞のとる文型の通時的変化という英語史上の問題につながるトピックなのかもしれない.
・ 千葉 庸夫 「表現上からの Predicate Adjective と Adverb」 『岡山大学法文学部学術紀要』第8号,1957年.78--82頁.
言語学における基本的な対立概念の1つに,syntagmatic relation と paradigmatic relation がある.
言語表現において A--B--C と並んだ要素が互いにどのような関係にあるかを記述するとき,これを統合的関係 (syntagmatic relation) という.したがって,syntax と呼ばれる統語論とは,語の並び順の研究のことである.一方,A--B--C と並んだ要素で,例えば A の代わりに A' や A'' や A''' が現われることも可能だったし,B の代わりに B' や B'' や B''' が現われることも可能だったが,ここでは A と B がそれぞれ選択されたと考えられる.このとき,A, A', A'', A''', etc. や B, B', B'', B''', etc. の各要素間は系列的関係 (paradigmatic relation) にあるといわれる.(代)名詞や動詞の語形変化表などは paradigm と呼ばれるが,これは,表として整理されるている項目のいずれかが,言語表現上に実現されるからである.
Martinet (49--50) の説明を拙訳つきで示そう.
. . . on a, d'une part, les rapports dans l'énoncé qui sont dits syntagmatiques et sont directement observables : ce sont, par exemple, les rapports de /bòn/ avec ses voisins /ün/ et /bier/ et ceux de /n/ avec le /ò/ qui le précède dans /bòn/ et le /ü/ qu'il suit dans /ün/. On a intérêt à réserver, pour désigner ces rapports, le terme de contrastes. On a, d'autre part, les rapports que l'on conçoit entre des unités qui peuvent figurer dans un même contexte et qui, au moins dans ce contexte, s'excluent mutuellement ; ces rapports sont dits paradigmatiques et on les désigne comme des oppositions : bonne, excellente, mauvaise, qui peuvent figurer dans les mêmes contextes, sont en rapport d'opposition : il en va de même des adjectifs désignant des couleurs qui peuvent tous figurer entre le livre... et... a disparu. Il y a opposition entre /n/, /t/, /s/, /l/ qui peuvent figurer à la finale après /bò-/.
一方では,発話には「統合的」と呼ばれる関係,直接に観察可能な関係がある.これは,例えば,/bòn/ が隣り合う /ün/ と /bier/ に対してもつ関係であり,/bòn/ や /ün/ のなかで /n/ が先行する /ò/ や /ü/ に対してもつ関係である.この関係を示すのに「対比」という用語を取っておくのがよいだろう.他方では,同じ文脈に現われうるが,少なくともその文脈では互いに排他的である要素間にみられる関係がある.この関係は「系列的」と呼ばれ,「対立」として示される.bonne, excellente, mauvaise は同じ文脈に現われうるので,対立の関係にあるといえる.le livre... と ... a disparu の間に現われうる色の形容詞についても事情は同じだ./bò-/ の後に最終音として現われうる /n/, /t/, /s/, /l/ の間にも対立がみられる.
syntagmatic relation と paradigmatic relation は言語において極めて基本的な着眼点の差であり,その発想の源流は,ソシュール (Ferdinand de Saussure; 1857--1913) の統合関係 (rapport syntagmatique) と連合関係 (rapport associatif) にある.しかし,その後,異なる学派が異なる術語をもって論じているので,terminology には注意を要する.
syntagmatic relation については,統合的関係のほか,連辞的関係,連項的関係,連鎖関係 (chain relation),両立の関係 (both-and),接合の関係 (conjunction),連関 (relation),構造 (structure) という術語が,paradigmatic relation については系列的関係のほか,範列的関係,選項的関係,選択関係 (choice relation),分立の関係 (either-or),離接の関係 (disjunction),相関 (correlation),体系 (system) という術語が認められる.
・ Martinet, André. Éléments de linguistique générale. 5th ed. Armand Colin: Paris, 2008.
年が明けて以来,flat_adverb についていくつか記事を書いてきた.調べているうちに諸々の話題が集まってきたので,雑記として書き残しておきたい.
(1) 「主にくだけた口語で用いられ,本来の副詞より端的で力強い表現」(小西,p. 507);「単純形副詞がよく用いられるのは,文が比較的短く,幾分感情的色彩がある場合で,口語体ではより力強い表現として好まれる傾向がある: It hurts bad. / Take it easy. / Go slow.」(荒木, p. 522)
(2) 米の口語・俗語で多用されることは既述だが,さらに例を挙げる(荒木,pp. 86, 91).ex. act brave, dance graceful, land safe, work regular, sit tight, mighty dangerous, reasonable busy, moderate good luck, everlasting cold, get ugly drunk, hustlingest busy; I see things different than I used to.; You are plain lucky.
(3) 歌曲の題名などで臨時的に用いられる.ex. "Love Me Tender", "Treat me nice".
(4) 副詞としての very の起源が示すとおり ([2012-01-12-1], [2012-01-13-1]) ,名詞を修飾する類義の形容詞の連続において,前の形容詞が後の形容詞を修飾する副詞として異分析される例がみられる (ex. an icy cold drink, a blazing hot fire) .さらに,名詞がなくとも独立して burning hot, soaking wet, dazzling white なども見られる(大塚,p. 589).
(5) 形容詞と副詞が同形のペアには5種類あり,以下の iii, iv 辺りが典型的に flat adverb と呼ばれるものだろう (Huddleston and Pullum 568) .
i daily, hourly, weekly, deadly, kindly, likely
ii downright, freelance, full-time, non-stop, off-hand, outright, overall, part-time, three-fold, wholesale, worldwide
iii bleeding, bloody, damn(ed), fucking
iv clean, clear, dear, deep, direct, fine, first, flat, free, full, high, last, light, loud, low, mighty, plain, right, scarce, sharp, slow, sure, tight, wrong
v alike, alone, early, extra, fast, hard, how(ever), late, long, next, okay, solo
(6) flat adverb と -ly adverb では,分裂文 (cleft sentence) で焦点化された場合の容認可能性が異なる.flat adverb は,動詞句と分断されることにより形態だけでは副詞とわかりにくくなるために,容認度が低くなるのではないか(荒木,p. 522).
*It was slow that he drove the car into the garage. vs It was slowly that he drove the car into the garage.
*It was loud that they argued. vs It was loudly that they argued.
ただし,flat adverb が等位接続されたり別の語で修飾されると,副詞であることが明確になり,容認されやすい.ex. It was loud and clear that he spoke.; It was extremely loud that they argued.
(7) A and B と形容詞を等位接続すると,A-ly B ほどの意となる二詞一意 (hendiadys) の例も,形容詞の副詞化という現象の一種としてとらえることができそうだ(大塚,pp. 531, 589).ex. nice and cool (= "nicely cool"), good and tired (="well tired"), rare and hungry (="quite hungry").
・ 小西 友七 編 『現代英語語法辞典』 三省堂,2006年.
・ 荒木 一雄,安井 稔 編 『現代英文法辞典』 三省堂,1992年.
・ Huddleston, Rodney and Geoffrey K. Pullum. The Cambridge Grammar of the English Language. Cambridge: CUP, 2002.
・ 石橋 幸太郎 編 『現代英語学辞典』 成美堂,1973年.
・ 大塚 高信,中島 文雄 監修 『新英語学辞典』 研究社,1987年.
[2012-01-12-1], [2012-01-13-1]の記事で,副詞としての very の起源と発達について見てきた.強意の副詞には,very の場合と同様に,本来は実質的な語義をもっていたが,それが徐々に失われ,単に程度の激しさを示すだけとなったものが少なくない.awfully, hugely, terribly などがそれである.意味変化の領域では,意味の漂白化 (bleaching) が起こっていると言われる.
おもしろいのは,このような強意の副詞がいったん強意の意味を得ると,今度は使い続けれられるうちに,意味の弱化をきたすことが多いことである.ちょうど修辞的な慣用句が使い古されて陳腐になると,本来の修辞的効果が弱まるのと同じように,強意語もあまりに頻繁に用いられると本来の強意の効果が目減りしてしまうのである.
効果の目減りということになれば,経済用語でいう「限界効用逓減の法則」 (the law of diminishing marginal utility) が関与してきそうだ.限界効用逓減の法則とは「ある財の消費量の増加につれて,その財を一単位追加することによる各個人の欲望満足(限界効用)の程度は徐々に減る」という法則である.卑近な例で言えば,ビールは1杯目はおいしいが,2杯目以降はおいしさが減るというのと原理は同じである(ただし,私個人としては2杯目だろうが3杯目だろうがビールは旨いと思う).強意語は,意味における限界効用逓減の法則を体現したものといえるだろう.
さて,強意語から強意が失われると,意図する強意が確実に伝わるように,新たな強意語が必要となる.こうして,薄められた古い表現は死語となったり,場合によっては使用範囲を限定して,語彙に累々と積み重ねられてゆく一方で,強意のための語句が次から次へと新しく生まれることになる.この意味変化の永遠のサイクルは,婉曲表現 (euphemism) においても同様に見られるものである.
では,新しい強意語はどこから湧いてくるのだろうか.婉曲表現の場合には,[2010-08-09-1]の記事「#469. euphemism の作り方」で見たように,そのソースは様々だが,強意語のソースとしては特に口語・俗語において flat adverb (##982,983,984) や swearword が目立つ.新しい強意語には誇張,奇抜,語勢が要求されるため,きびきびした flat adverb やショッキングな swearword が選ばれやすいのだろう.前者では awful, dead, exceeding, jolly, mighty, real, terrible, uncommon,後者では damn(ed), darn(ed), devilish, fucking, goddam, hellish などがある.
HTOED (Historical Thesaurus of the Oxford English Dictionary) で強意副詞を調べてみると,この語群の移り変わりの激しさがよくわかる."the external world > relative properties > quantity or amount > greatness of quantity, amount, or degree > high or intense degree > greatly or very much [adverb]" とたどると,536語が登録されているというからものすごい.その下位区分で,very の synonym として分類されているものに限っても以下の47語がある.壮観.
full (c888), too (c888), well (c888), swith (971), right (?c1200), much (c1225), wella (c1275), wol(e (a1325), gainly (a1375), endly (c1410), very (1448), jolly (1549), veryvery (1649), good (a1655), strange (1667), bloody (1676), ever so (1690-2), real (1771), precious (1775), quarely (1805), trés (1819), freely (1820), powerful (a1822), heap (1832), almighty (1834), all-fired (1837), gradely (1850), hard (1850), heavens (1858), veddy (1859), some (1867), spanking (1886), socking (1896), hefty (1898), velly (1898), dirty (1920), oh-so (1922), snorting (1924), hellishing (1931), thumpingly (1948), mega (1968), mondo (1968), mucho (1978), seriously (1981), well (1986), way (1987), stonking (1990)
昨日の記事[2012-01-12-1]に引き続き,強意の副詞 very の歴史について付言.昨日は,very が統語的に形容詞とも副詞ともとれる環境こそが,副詞用法の誕生につながったのではないかという Mustanoja の説を紹介した.MED も同様に考えているようで,"verrei (adj.)" の語源欄にて,解釈の難しいケースがあることに触れている.
When verrei adj. precedes another modifier, it is difficult if not impossible to distinguish (a) the situation in which both function as adjectives modifying the noun, from (b) that in which the modifier nearest the noun forms a syntactic compound with it (which compound is modified by verrei) and from (c) that in which verrei functions as an adverb modifying the adjective immediately following; some exx. of (a) and (b) now in this word may = (c) and belong to verrei adv.
例えば,a verrai gentil man という句で考えれば,(a) の読みでは "a true gentle man",(b) では "a true gentleman",(c) では "a truly gentle man" という現代英語の表現に示される統語構造の解釈となる.この種の境目のあいまいな構造から,異分析 (metanalysis) の結果,副詞としての very が発達したと考えられる.
しかし,ここで起こったのは形容詞から副詞への品詞転換 (conversion) にすぎず,「真実,本当」という原義はいまだ保持していた.とはいえ,「真実に,本当に」の原義から「とても,非常に」の強意の語義への道のりは,きわめて近い.語義間の差の僅少であることは,MED "verrei (adv.)" の 2 の (a) から (d) に与えられている語義のグラデーションからもうかがい知れる.各語義を表わす例と文脈を見比べても,互いに意味がどう異なるのか,にわかには判断できない.
「真実に」か「とても」かの僅差を実感するには,今日でも用いられる手紙の "sign-off" の文句の例が適当だろう.very の副詞としての用法が発達した初期の例として,Paston Letters の締めの文句 Vere hartely your, Molyns がある.ここでは hartely は "sincerely, affectionately" ほどの意で,vere は「真実に」の原義と,単純に強意を示す「とても」の語義とが共存している例と解釈したい (Room 278) .
以上のように,very は,フランス語形容詞の借用→形容詞「真実の」→副詞「真実に」→副詞「とても」へ,用法と語義を発展させてきた.しかし,現在,発展の最終段階ともいうべきもう1つの変化が進行中である.それは強意語の宿命ともいえる意味変化なのだが,肝心の強意がその勢いを弱めてきているというものである.以下は,シップリーの mere の項で触れられているコメント.
very (非常に)はほとんど力のない言葉になってしまった.I'm very glad to meet you. (お会いできてとてもうれしい)は,I'm glad to meet you. (お会いできてうれしい)よりも,しばしば誠意に欠ける表現となることがある.
very の意味変化には,語の一生のドラマが埋め込まれている.いや,一生というには時期尚早だろう.なんといっても,very は,今,最盛期にあるのだから.
・ ジョーゼフ T. シップリー 著,梅田 修・眞方 忠道・穴吹 章子 訳 『シップリー英語語源辞典』 大修館,2009年.
・ Room, Adrian, ed. NTC's Dictionary of Changes in Meanings. Lincolnwood: NTC, 1991.
[2012-01-04-1]の記事「#982. アメリカ英語の口語に頻出する flat adverb」で,本来,形容詞である good や real が,主として米口語で副詞として用いられるようになってきていることに触れた.形容詞から副詞へ品詞転換 (conversion) した最も有名な例としては,強意語 very を挙げないわけにいかない.
very は,現代英語で最頻の強意語といってよいだろう.Frequency Sorter によれば,BNC における very の総合頻度は86位である.しかし,この語が強意の副詞として本格的に用いられ出したのは15世紀以降であり,中英語へ遡れば主たる用法は「真の,まことの,本当の」を意味する形容詞だった.それもそのはずで,この語は古フランス語の同義の形容詞 ve(r)rai を借用したものだからである(現代フランス語では vrai).英語での初例は,c1275.この語義は,in very truth, Very God of very God などの慣用句中に残っている.14世紀末には,定冠詞や所有格代名詞を伴って「まさにその,全くの」を意味する強意語としても用いられ始め,この用法は現代英語の the very hat she wanted to get, at the very bottom of the lake, do one's very best などにみられる.
一方,早くも14世紀前半には,上記の形容詞に対応する副詞として「真に,本当に」の語義で very の使用が確認されている.なぜ形容詞から副詞への転換が生じたかという問題を解く鍵は,that is a verrai gentil man (Gower CA iv 2275), he was a verray parfit gentil knyght (Ch. CT A Prol. 72), this benigne verray feithful mayde (Ch. CT E Cl. 343) などの例に見いだすことができる.ここでの very の用法は,続く形容詞と同格の形容詞である.しかし,意味的にも統語的にも,第2の形容詞を強調する副詞と解釈できないこともない.つまり,異分析 (metanalysis) が生じたと疑われる.このような句が慣習的に行なわれるようになると,修飾されるべき名詞がない統語環境ですら very が形容詞に先行し,完全な副詞として機能するに至ったのではないか.また,verray penitent や verray repentaunt などのように,very が,名詞的に機能しているとも解釈しうる形容詞を修飾するような例も,この品詞転換の流れを後押ししたと考えられる.そして,15世紀には強意の副詞として普通になり,16世紀後半までにはそれまで典型的な強意の副詞であった full, right, much を追い落とすかのように頻度が高まった.
以上,Mustanoja, pp. 326--27 を参考に記述した.1つの説得力のある議論といえるだろう.中英語で用いられた他の多くの強意副詞も,その前後のページで細かく記述されているので参考までに.
考えてみれば,[2012-01-04-1]でみた現代米口語の副詞的 real もかつての ve(r)rai と同様,フランス借用語であり,かつ「真の,まことの,本当の」を意味する形容詞である.a real good soundtrack などの表現をみるとき,上述の Mustanoja の very に関する議論がそのまま当てはまるようにも思える.歴史が繰り返されているかのようだ.
・ Mustanoja, T. F. A Middle English Syntax. Helsinki: Société Néophilologique, 1960.
今年もこの時期が巡ってきた.American Dialect Society による The Word of the Year の公表の時期だ.2011年の大賞は occupy だった.既存の語ではあるが,"verb, noun, and combining form referring to the Occupy protest movement" という用法により新たに生命を吹き込まれた.
2011年9月17日,New York の Zuccotti Park で "Occupy Wall Street" の運動が始まった.これ以降,世界で類似の Occupy movement が多発.民衆が,"We are the 99%" というスローガンを掲げて,経済や社会の不平等を一斉に唱え出した事件である.
occupy は,ノミネートされた語句のなかでは,2011年のかなり後半からの出馬だったが,よほど衝撃が強かったようで,決選投票の末に次点の the 99%, 99 percenters を大差で破った.後者は "those held to be at a financial or political disadvantage to the top moneymakers, the one-percenters" を意味し,これも言ってみれば occupy 関連用語だから,当社会現象の影響の大きさが知れる.
ADS の公表について,詳しくは1月7日付けのADS による公式発表とプレスリリース (PDF)を参照されたい.Wordorigins.org の運営者による,この結果についてのレビューが,こちらのページで読める.
2011年の流行語については,The Daily Telegraph の2011年11月10日の記事でも,occupy が過去1年間でインターネット及び紙面で最も多く使われた英単語だったとする研究を紹介している.
The most commonly used English word on the internet and in print in the past year was "occupy", a study has found. Repeated references to the Occupy Movement, which inspired protests outside St Paul's Cathedral in London and in other major world cities, helped push the word into first place, researchers said.
流行語の公表としては,ほかに Global Language Monitor によるものがある.その記事によると,2011年の Top Word はやはり occupy.Top Phrase は Arab Spring で,Top Name は Steve Jobs とのこと.
過去の ADS による流行語大賞関連の記事については,##623,262,263,245 などを参照.
昨日の記事 ([2012-01-09-1]) で取り上げた構文について,議論の続きを.
論理的には誤っている同構文が現代英語で許容されている背景として,昨日は,語用論的,統語意味論的な要因を挙げた.だが,この構文を許すもう1つの重要な要因として,規範上の要因があるのではないか,という細江 (148--49) の議論を紹介したい.それは,多重否定 (multiple negation; [2010-10-28-1]) を悪とする規範文法観である.
18世紀に下地ができ,現在にまで強い影響力を及ぼし続けている規範英文法の諸項目のなかでも,多重否定の禁止という項目は,とかくよく知られている.典型的には2重否定がよく問題となり,1度の否定で足りるところに2つの否定辞を含めてしまうという構文である (ex. I didn't say nothing.) .多重否定を禁止する規範文法が勢力をもった結果,現代英語では否定辞は1つで十分という「信仰」が現われた.しかし,2つの否定辞が,異なる節に現われるなど,互いに意味的に連絡していない場合には,打ち消し合うこともなく,それぞれが独立して否定の意味に貢献しているはずなのだが,そのような場合ですら「信仰」は否定辞1つの原則を強要する.ここに,*Don't drink more pints of beer than you cannot help. が忌避された原因があるのではないか.細江 (148) は「この打ち消しを一度しか用いないとのことがあまりに過度に勢力を加えた結果,場合によってはぜひなくてはならない打ち消しがなくなって,不合理な文さえ生ずるに至った」と述べている.
歴史的にみれば,cannot help doing のイディオムは近代に入ってからのもので,OED の "help", v. 11. b. によれば,動名詞を従える例は1711年が最初のものである.興味深いことに,11. c. では,問題の構文が次のように取り上げられている.
c. Idiomatically with negative omitted (can for cannot), after a negative expressed or implied.
1862 WHATELY in Gd. Words Aug. 496 In colloquial language it is common to hear persons say, 'I won't do so-and-so more than I can help', meaning, more than I can not help. 1864 J. H. NEWMAN Apol. 25 Your name shall occur again as little as I can help, in the course of these pages. 1879 SPURGEON Serm. XXV. 250, I did not trouble myself more than I could help. 1885 EDNA LYALL In Golden Days III. xv. 316, I do not believe we shall be at the court more than can be helped.
OED は,同構文は論理的に難ありとしながらも,19世紀半ば以降,慣用となってきたことを示唆している.規範文法の普及のタイミングとの関連で,意味深長だ.
現代規範英文法はしばしば合理主義を標榜しながらも,このように不合理な横顔をたまにのぞかせるのがおもしろい.統語意味論的,論理的な観点から議論するのもおもしろいが,やはり語用論的,歴史的な観点のほうに,私は興味をそそられる.
規範文法における多重否定の扱いについては,[2009-08-29-1]の記事「#124. 受験英語の文法問題の起源」や[2010-02-22-1]の記事「#301. 誤用とされる英語の語法 Top 10」を参照.
・ 細江 逸記 『英文法汎論』3版 泰文堂,1926年.
cannot help doing は,「?することが避けられない」を原義とし,「?せずにはいられない,?するのは仕方がない」を意味する慣用表現である.cannot but do としても同義.日本人には比較的使いやすい表現だが,標題のように比較の文において than 節のなかで現われる同構文には注意が必要である.
先に類例を挙げておこう.BNCWeb により "(more (_AJ0 | _AV0)? | _AJC) * than * (can|could) (_XX0)? help" で検索すると,関連する例が8件ヒットした.ほぼ同じ表現は削除して,整理した6例を示そう.
・ . . . the Commander struck out for the shore in a strong breaststroke that did not disturb the phosphorescence more than he could help . . . .
・ I'm not putting money in the pocket of the bloody Hamiltons more than I can help.
・ "Don't be more stupid than you can help, Greg!"
・ Resolutely, and determined to think no more than she could help about it . . . .
・ And I won't spend more than I can help.
・ "We'll do our best; we won't get in your way more than we can help."
さて,この構文の問題は,意図されている意味と統語上の論理が食い違っている点にある.例えば,毎日どうしてもビール3杯は飲まずにいられない人に対してこの命令文を発すると「3杯までは許す,だが4杯は飲むな」という趣旨となるだろう(ここでは話しをわかりやすくするために杯数は自然数とする).少なくとも,それが発話者の意図であると考えられる.しかし,論理的に考えると,you can help と肯定であるから,この量は,何とか飲まずにこらえられるぎりぎりの量,4杯を指すはずだ.これより多くは飲むなということだから,「4杯までは許す,だが5杯は飲むな」となってしまう.つまり,発話者の意図と統語上の意味とが食い違ってしまう.あくまで論理的にいうのであれば,*Don't drink more pints of beer than you cannot help. となるはずだが,この種の構文は BNCWeb でも文証されない.
理屈で言えば上記のようになるが,後者の意図で当該の文を発する機会はほとんどないと想像され,語用的に混乱が生じることはないだろう.また,[2011-12-03-1]の記事「#950. Be it never so humble, there's no place like home. (3)」で見たように,肯定でも否定でも意味が変わらないという,にわかには信じられないような統語構造が確かに存在する.とすると,標題の統語構造が許容される語用論的,統語意味論的な余地はあるということになる.
ちなみに,標記の文は今年の私の標語の1つである.ただし,その論理については……できるだけ広く解釈しておきたい.
COCA ( Corpus of Contemporary American English ) を運営する Mark Davies 氏が,年末に,COCAベースで語に関する諸情報を一覧できるサービス WORD AND PHRASE . INFO を公開した.語(lemma 頻度で上位60,000語以内に限る)を入力すると,ジャンルごとの生起頻度やそのコンコーダンス・ラインはもとより,WordNet に基づいた定義や類義語群までが画面上に現われる.ほとんどの項目がクリック可能で,さらなる機能へとアクセスできる.インターフェースが直感的で使いやすい.
類義語研究や collocation 研究には相当に役立つ仕様になったのではないか.例えば,semantic_prosody を扱った[2011-03-12-1]の記事「#684. semantic prosody と文法カテゴリー」で,強意語 utterly, absolutely, perfectly, totally, completely, entirely, thoroughly についての研究を紹介したが,WORD AND PHRASE . INFO で utterly を入力すれば,これらの類義語群が左下ウィンドウに一覧される.あとは,各語をクリックしてゆくだけで,頻度や collocation の詳細が得られる.このような当たりをつけるのに効果を発揮しそうだ.
[2011-08-20-1]の記事で「#845. 現代英語の語彙の起源と割合」を総括したが,中英語の語彙の内訳はどうだったのだろうか.これについても様々な研究があるが,従来の統計では,古英語由来の語彙が60--70%,古仏語由来の語彙が22--30%,古ノルド語由来の語彙が8--10%,それ以外が1%未満という数値が出されている (Duggan 238) .
ところが,Norman Hinton が1980年代後半から発表している中英語語彙の大規模な調査の報告によれば,従来の統計とは相当に異なる数値が示されている.Hinton の論文は未入手なので,以下は Hinton の報告そのものではなく,Duggan (238--39) で言及されているその概要に基づくものだが,参考までに要約する.
MED からランダムに取り出した数千語の見出し語とその語源情報に基づいて語種を分類した結果,Germanic 35.06%, Romance 64.54%, Other 0.35% という数値がはじき出された.従来の統計と比べると Germanic と Romance の数値が逆転しているかのようであり,統計の前提や手法によって,これほどまでに結果が左右されるものかと恐ろしくなる.いずれの統計も,眉に唾を付けて解釈しなければならないことは認めつつ,先を続けよう.
Hinton は,Chaucer や Cotton Nero A.x の言語についても語彙分類を行なっており,中英語の特定の時期における語彙の平均的な内訳と比較することによって,各言語の「年代測定」を試みている.Chaucer の語彙内訳は Germanic 38.5%, Romance 61.2%, Other 0.09% という比率であり,これは1460年の平均的な比率に相当するという.また,Cotton Nero A.x については Germanic 58.7, Romance 41%, Other 0.15% という比率で,1390年の平均的な比率を指すという.これはもちろん理論値であり,絶対年代を指すわけではない.むしろ,Chaucer と Cotton Nero A.x の70年という相対的な差が,それぞれの語彙の使い分けの差,そしておそらくは文体的な差に対応しているかもしれないという可能性がおもしろい.
・ Duggan, H. N. "Meter, Stanza, Vocabulary, Dialect". Chapter 8 of A Companion to the Gawain-Poet. Ed. Derek Brewer and Jonathan Gibson. Cambridge: Brewer, 1997. 221--42.
・ Hinton, Norman "The Language of the Gawain-Poems." Arthurian Interpretations 2 (1987): 83--94.
flat adverb の起源については,[2009-06-07-1]の記事「#40. 接尾辞 -ly は副詞語尾か?」や[2012-01-03-1]の記事「#981. 副詞と形容詞の近似」で簡単に触れてきた.古英語では,形容詞の基体に語尾 -e が付加されて副詞として機能したが,その -e 語尾自体が音消失にさらされて結果的に無に帰したために,形容詞と同形の副詞が生まれることになった.これが,flat adverb の形態的な起源である.中英語以降,明示的な副詞語尾としての -ly の生産性も高まってきたが,flat adverb も決して廃れることなく,現在にまで存続している.
以上が flat adverb の概略的な歴史だが,ここに興味深い問題がある.flat adverb は現在ではたいてい日常語・口語・俗語の響きを伴うが,このような register 上の特徴は歴史上いかにして生じてきたのだろうか.flat adverb の発達史を詳しく調べれば解決できる問題かもしれない.
この問題と関連するかもしれないが,細江 (127--28) は,-e 語尾の消失により,副詞と形容詞が同形となったことに言及した後で,次のように述べている.
こういうふうに土着の語で,形容詞と副詞とが形態上の別を失った後,〔中略〕外国語の勢力も加わって,ラテン系の形容詞が副詞代用となる例を開いた.次のごときは実にその例である.
Thou didst it excellent.---Shakespeare.
Grow not instant cold.---ibid.
今日でも俗語ではこの例が非常に多い.たとえば,
She talks awful.---Mark Twain.
You must ha' been an uncommon nice boy.---Dickens.
The mountains proved exceeding high.---H. R. Haggard.
ばかりでなく,今日りっぱに文語中に入っているものも少なくはない.たとえば,
Quick as thought I switched on the light.--Kaye-Smith.
And doubtless there was more in him than met the eye, as is the way with great men.---Chesterton.
引用の「ラテン形の形容詞が副詞代用となる例を開いた」とは,比喩的な謂いだろうか,あるいは歴史的事実を表現したものだろうか.特にこの箇所で参考文献が与えられているわけではなく,真偽は定かではないが,気になる言及である.いずれ追究してみたい.
・ 細江 逸記 『英文法汎論』3版 泰文堂,1926年.
過去2日の記事 (##981,982) で flat adverb の問題に言及してきたが,flat adverb と一口に言っても様々な種類がある.昨日挙げた例のなかだけでも,He ran good と real bad news とでは副詞としての用法が異なる.今回は『新英語学辞典』に従って,主として -ly adverb と比較しながら,flat adverb の種類を分類してみよう.
(1) flat adverb と -ly adverb の両方が用いられる場合に,意味を違えていることが多い.dear vs dearly, fast vs fastly, free vs freely, hard vs hardly, late vs lately, near vs nearly, pretty vs prettily などの例がある.
(2) 日常語・口語・俗語として,特にアメリカ英語で好まれる.次例のごとく,ひきしまった力強い感じを与えることが多い.
Alice's elbow was pressed hard against it.
But she did not venture to say it out loud.
Then they both bowed low.
I lighted the torch high.
Sure you won't change your mind and come and look for lions in Rhodesia?
I shall doubtless see you tomorrow.
(3) 主に強調語として他の語を修飾する.mighty cold, burning hot, real good ([2012-01-04-1]), terrible strong, dead tired.
(4) 比較の表現や直喩 (simile) においては,flat adverb の容認度が高くなる.
Come as quick as you can.
I can't stay longer.
He stared at me now as expressionless as a stone.
Silver leant back against the wall as calm as though he had been in church.
Helpless as a sheep, I moved along under his expert direction.
(5) binomial として,副詞が連続する場合.speak loud and clear, lose fair and square, be brought up short and sharp, etc. (Quirk et al. 406)
(6) 詩において.One road leads to the river, As it goes singing slow. (Masefield)
(7) flat adverb は -ly adverb と異なり,動詞の(あるいは目的語があればその)後位置に限られる.He drove slow.; We got the house cheap.
(8) be, appear, look, sound, feel, taste, smell, turn, run, grow, prove, remain などの第1文型も第2文型も取り得る動詞に後続する場合には,flat adverb か -ly adverb かによって文型が分かれる.The train appeared slow/slowly.; The boys looked eager/eagerly.
・ 大塚 高信,中島 文雄 監修 『新英語学辞典』 研究社,1987年.
・ Quirk, Randolph, Sidney Greenbaum, Geoffrey Leech, and Jan Svartvik. A Comprehensive Grammar of the English Language. London: Longman, 1985.
昨日の記事「#981. 副詞と形容詞の近似」 ([2012-01-03-1]) の最後に触れた単純形副詞 (flat adverb) を取り上げる.対応する -ly 形が並存している場合,flat adverb は一般に略式的あるいは口語的であることが多いといわれる.規範的な観点からは,-ly を伴う語形が標準形であり,flat adverb は非難の対象とされるので使用を控えるべしとされるが,LGSWE (Section 7.12.2) によれば,以下のような例は会話コーパスでは普通に見られるという.
The big one went so slow. (CONV)
Well it was hot but it didn't come out quick. (CONV)
They want to make sure it runs smooth first. (CONV†)
特に good や real を副詞として用いる語法は,AmE の口語で広く聞かれる.LGSWE (Section 7.12.2.1) の記述によれば,good を well の意味に用いる例は,AmE の会話で圧倒的によく見られ,一方で書き言葉や BrE では稀である.really の代用としての real については,AmE の会話では really の半分ほどの頻度で使用されているというから,相当な普及度だ.コーパス中の絶対頻度でいえば,これは BrE の会話における really の頻度に匹敵するという.なお,BrE では real のこの用法は皆無ではないが,稀である.両者の例を LGSWE からいくつか挙げよう.
It just worked out good, didn't it? (AmE CONV)
Bruce Jackson, In Excess' trainer said, "He ran good, but he runs good all the time. It was easy." (AmE NEWS)
It would have been real [bad] news. (AmE CONV)
I have a really [good] video with a real [good] soundtrack. (AmE CONV)
例のように,good は動詞と構造をなして述部を作る用法,real は形容詞を強調する用法が普通である.
以上のように,現代英語において flat adverb はアメリカ英語の口語で用いられる傾向が強いことがコーパスから明らかとなっているが,この傾向と関連して[2011-01-12-1]の記事「#625. 現代英語の文法変化に見られる傾向」で触れたアメリカ英語化 (Americanisation) と口語化 (colloquialisation) の潮流を想起せずにいられない.今後,good あるいは real に限らず,英語全体として flat adverb の使用が拡大してゆくという可能性があるということだろうか.合わせて,[2010-03-05-1]の記事「#312. 文法の英米差」の (5) も参照されたい.
・ Biber, Douglas, Stig Johansson, Geoffrey Leech, Susan Conrad, and Edward Finegan. Longman Grammar of Spoken and Written English. Harlow: Pearson Education, 1999.
副詞と形容詞の機能的な区別はしばしば曖昧であり,それは形態上の不分明にもつながっている.例えば,The sun shines bright. という英文において,bright は動詞 shine を修飾する副詞と取ることもできれば,主格補語として機能する形容詞と取ることもできる.ただし,この bright を brightly としても同義であることを考えれば,副詞としての解釈が理に適っているように思われる.また,歴史的にみれば,この bright は副詞語尾 -e のついた beorhte のような語形が起源であり,そこから -e が音声変化の結果失われたために形容詞と同形になってしまったものと説明され,やはり副詞としての解釈に分がある(副詞を作る歴史的な -e 語尾と関連して,[2009-06-07-1]の記事「接尾辞 -ly は副詞語尾か?」を参照).
しかし,shine [glow, burn] bright は慣用的な表現であり,必ずしも明確な統語分析になじむわけではない.さらに,冒頭に述べたように,元来,副詞と形容詞は機能的にも形態的にも近似していることが多いのだから,峻別すること自体に意味があるのかどうか疑わしいケースもあるはずだ.
事実,印欧語の多くでは,形容詞が(しばしば中性形をとることで)そのまま副詞的機能を果たすことはよく知られている(細江,p. 127).上記の古英語の -e 語尾(与格語尾)による副詞化をはじめとして,ラテン語の nimium felix "exceedingly happy",フランス語の une fille nouveau-née "a new-born girl",イタリア語 Egli lo guardò fisso "He looked at him fixedly",ロシア語 horasho gavareet "to speak well" など,例は多い.以上から,副詞と形容詞の機能的および形態的な差がはなはだ僅少であることがわかるだろう.
英語では,特に中英語以降,屈折が全体的に衰退するにつれて,-e などの屈折語尾による副詞と形容詞の形態的な区別は失われた.そして,その代わりに,-ly などの明示的な副詞語尾が台頭してきた.現代英語でしばしば問題とされる "go slow" に見られるような,-ly 副詞ではない単純形副詞 (flat adverb) の用法も,上記のような類型論的および通時的文脈のなかで論じる必要がある.
・ 細江 逸記 『英文法汎論』3版 泰文堂,1926年.
歴史的な与格の用法の1つに,ethical dative と呼ばれる不思議な用法がある.「心性的与格」と訳されることが多いようだが,細江 (125) は「感興与格」と訳しており,後者のほうが用語としてずっとわかりやすい.これは "for me" ほどの意味を添える dative of interest (利害与格)から発展したものだが,受益や被害という含意はきわめて薄くなっており,しばしば和訳では訳出されない.現代標準英語ではほぼ姿を消したといってよい用法だが,近代からの例を見てみよう.
・ He would sweep me these rascals. (彼が悪人どもを追い払ってくれるだろう.)
・ I say, knock me at the gate. (Shakespeare)(さあ,この門をたたけ.)
・ As I was smoking a musty room, comes me the prince and Claudio, hand in hand . . . (Shakespeare) (私がね,かび臭い部屋をいぶしておりますとね,どうでしょう殿様とクローディオとがね,手に手を取っておいでになりましてね.)
ここでは me が受益者であるという主張は薄く,むしろ話者が異常な感興を覚えていることが強く暗示されている.聞き手の注意を引く役割は果たしているようだから,ethical dative は文法的機能というよりは修辞的効果のために用いられているといって差し支えないだろう.上の第3例の和訳は細江 (126) によるものだが,感嘆詞や終助詞「ね」によって対応する効果を訳出しようと腐心しており,ethical dative のメタな機能とその修辞的効果が日本語感覚として伝わってくる.
中英語からの例については,Mustanoja (99--100) が次を挙げている.
Another shade in the use of dative of interest is seen in what is customarily called the ethical dative. This occurs only in the first and second persons: --- ilc prince me take his wond (Gen. & Ex. 3821); --- so wiste I me non other red (Gower CA i 108); --- þay fel on hym alle and woried me þis wyly wyth a wroth noyse (Gaw. & GK 1905).
西洋諸言語にも同じ与格の用法が広く見られる.細江 (126) を転載しよう.
ギリシア語: (= What am I to learn for thee?); ラテン語: Quid mihi Celsus agit? (= How is Celsus me getting on?); スペイン語: Me han muerto à mi hijo (= They have killed me my son); フランス語: Que me faîtes-vous là? (= What are you going [sic] me there?); ドイツ語: Sieh mir nicht so finster aus (= Don't look me so sullen).
どうやら ethical dative は言語に広く見られる現象のようであり,語用論的な立場から考察を加えるとおもしろいだろう.古い英語でも頻用されていたわけではないようだが,現代英語にかけてほぼ完全に失われていった背景も気になるところである.
・ 細江 逸記 『英文法汎論』3版 泰文堂,1926年.
明けましておめでとうございます.2012年(平成23年)辰年です.本年も hellog をよろしくお願いいたします.
本年の初回記事は,綴字 <e> の役割について.<e> の役割としてよく知られているのは,"magic <e>" と呼ばれるものである.name や bite などの語末の e は,それ自身は発音されないものの,先行する母音が長母音あるいは2重母音であることを示している.なぜこのような magic <e> の機能があるのか,どのような過程で <e> がこの機能を獲得したのかについてはいずれ取り上げたいが,今回は <e> のもっている様々な役割について考えてみたい.Crystal (259) および中尾 (112) を総合し,さらに10点目を付け加えた箇条書きを記す.
(1) 当然のことだが,短母音 /ɛ/ あるいは長母音 /iː/ を表わすという基本的な表音機能をもっている (ex. set, me) .
(2) これも英語のアルファベットの常だが,English, certain, ballet, serious などにおいては,<e> は (1) とは別の母音を表わしている.
(3) 他の母音字と組み合わさって,様々な母音を表わす (ex. great, wear, ear; meet, beer; rein, believe; leopard, people; Europe; bureau)
(4) 上記の magic <e> .「先行する母音」は,直接に先行する場合と (ex. die, doe) ,子音字が挿入されている場合 (ex. take, mete, side, rose, cube) がある.
(5) <e> の有無によって先行する子音の音価が決定される (ex. bathe vs bath, breathe vs breath, teethe vs teeth [2011-03-30-1], [2009-05-15-1]; singe vs sing; vice vs Vic) .
(6) 特に共時的な機能を示さず,単にかつての発音を示唆するだけという場合がある (ex. give, have, love, some) .
(7) (特に英米)変種間の,綴字上の区別 (ex. judg(e)ment, ag(e)ing [2009-12-27-1], ax(e)) や,発音上の区別 (ex. clerk with AmE /ɛr/ or BrE /ɑː/ [2009-10-30-1]) を表わす.
(8) 屈折語尾でないことを示す (ex. lapse vs laps, please vs pleas) .
(9) 同綴異義語 (homograph) を避ける (ex. singeing vs singing, dyeing vs dying) .
(10) 多義語の語義を区別する (ex. borne vs born [2011-12-19-1]; blonde vs blond [2010-09-13-1]) .
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
・ 中尾 俊夫,寺島 廸子 『図説英語史入門』 大修館書店,1988年,174頁.
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最終更新時間: 2024-11-26 08:10
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