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prescriptive_grammar - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2019-01-18 05:57

2018-11-28 Wed

#3502. pronoun exchange [personal_pronoun][case][prescriptive_grammar][dialectology][shakespeare]

 人称代名詞について,文法的に目的格が求められるところで主格の形態が用いられたり,その逆が起こったりするケースを pronoun exchange と呼ぶ.最も有名なのは「#301. 誤用とされる英語の語法 Top 10」 ([2010-02-22-1]) でトップに輝いた between you and I である.前置詞に支配される位置なので1人称代名詞には目的格の me が適格だが,前置詞から少々離れているということもあり,ついつい I といってしまう類いの「誤用」である.
 しかし,誤用とはいっても,それは規範文法が確立した後期近代英語以後の言語観に基づく発想である.それ以前の時代には「正誤」の問題ではなく,いずれの表現も許容されていたという意味において「代替表現」にすぎなかった.実際,よく知られているように Shakespeare も Sweet Bassanio, ... all debts are cleared between you and I if I might but see you at my death. (The Merchant of Venice iii.ii) のように用いているのである.同様に,Yes, you have seen Cassio and she together. (Othello iv. ii) などの例もある.
 古い英語のみならず,現代の非標準諸方言でも,pronoun exchange はありふれた現象である.Gramley (196) を引用する.

Pronoun exchange, in which case is reversed, is widespread (SW, Wales, East Anglia, the North). This refers to the use of the subject pronoun for the object: They always called I "Willie," see; you couldn't put she [a horse] in a putt.. The converse is also possible. Compare 'er's shakin' up seventy; . . . what did 'em call it?; Us don't think naught about things like that. Subject forms are much more common as objects than the other way around (55% to 20%) . . . . In the North second person thou/thee often shows up as leveled tha in traditional dialects . . ., but not north of the Tyne or in Northumberland . . . . Today pronoun exchange is generally receding.


 引用で触れられている thou/thee については,拙論の連載 第10回 なぜ you は「あなた」でもあり「あなたがた」でもあるのか?の方言地図も参照されたい.同様に,sheer (< her) の pronoun exchange の例については,「#793. she --- 現代イングランド方言における異形の分布」 ([2011-06-29-1]) の方言地図を参照.
 考えてみれば,そもそも現代標準英語でも,2人称(複数)代名詞の主格の you は歴史的には pronoun exchange の例だったのである.you はもとは目的格の形態にすぎず,主格の形態は ye だったが,前者 you が主格のスロットにも侵入してきたために,後者 ye が追い出されてしまったという歴史だ.これについては「#781. How d'ye do?」 ([2011-06-17-1])「#800. you による ye の置換と phonaesthesia」 ([2011-07-06-1]),「#2077. you の発音の歴史」 ([2015-01-03-1]) を参照.

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.

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2018-06-02 Sat

#3323. 「ことばの規範意識は,変動相場制です」 [prescriptivism][prescriptive_grammar][standardisation]

 雑誌『日本語学』が,5月号で「世界の標準語と日本の共通語」と題する特集号を編んでいる.英語史における標準化 (standardisation) の問題について関心を持っている私にとって,貴重な情報の宝庫である.巻頭はもちろん日本語の標準語についての論考なのだが,執筆者の塩田 (21) が,文章の最後で言語の規範について印象的なコメントを残している.

ことばの規範意識は,変動相場制です.今の規範がどのあたりにあるのかという「相場観」を養っていくこと,そしてこうしたことについてみんなで議論していくこと〔=「トークバトル」〕が,大切なのかもしれません.


 私も本ブログで英語史の観点から規範主義 (prescriptivism) や規範文法 (prescriptive_grammar) について様々に考えてきたが,言語における規範とは何かという問いを発するときには,とにかく多種多様な立場の人と意見交換することが大事なのではないかと思う.言語学者,言語コメンテーター,一般の言語使用者を含め,立ち位置の異なる人々が,語法・文法・発音などにまつわる論点を「トークバトル」しつつ「相場観」を形成していくことが重要だろう.その営みには実用的な意義もあるし,知的な刺激もある.
 もっといえば,言語学サークルの内部でも,そのような議論を行なうべきである.記述言語学者のなかにも規範への態度に関して温度差があるだろうし,そもそも言語学者とて研究から一歩離れれば市井の1言語使用者にすぎないわけで,多かれ少なかれ規範主義的な側面を持ち合わせている.記述主義と規範主義は概念的に対置されるものではあれ,個人のなかでは地続きであり,相互依存していると言えなくもないのだ.
 規範(意識)そのものが時間のなかで移ろいゆくものである以上,○○語の言語変化を追う○○語史においても,それは中心的に扱われるべき話題なのではないか.ことばの規範意識は,まさに変動相場制を通じて話者集団が都度生み出していく代物である.
 関連して,「#1684. 規範文法と記述文法」 ([2013-12-06-1]),「#1929. 言語学の立場から規範主義的言語観をどう見るべきか」 ([2014-08-08-1]),「#2630. 規範主義を英語史(記述)に統合することについて」 ([2016-07-09-1]),「#2631. Curzan 曰く「言語は川であり,規範主義は堤防である」」 ([2016-07-10-1]),「#3047. 言語学者と規範主義者の対話が必要」 ([2017-08-30-1]) も参照されたい.

 ・ 塩田 雄大 「日本語と『標準語・共通語』」『日本語学』第37巻第5号 特大号「特集 世界の標準語と日本の共通語」 明治書院,2018年.6--22頁.

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2018-05-14 Mon

#3304. 規範主義が18世紀に成長した背景,2点 [language_myth][prescriptive_grammar][sociolinguistics][johnson][latin]

 18世紀のイギリスに規範主義が急成長した背景について,「#1244. なぜ規範主義が18世紀に急成長したか」 ([2012-09-22-1]) をはじめとして prescriptive_grammar の記事で取り上げてきた. Aitchison は,2つの強力な社会的要因が背景にあり,規範主義がある種の宗教的な教義にまで持ち上げられたのだと考えている.その2つとは,"The first was a long-standing admiration for Latin, and the second was powerful class snobbery" (10) である.
 まず,ラテン語への憧憬について.西洋においてラテン語の威信がすこぶる高かったのは,中世においてキリスト教会の言語であったこと,そして近代のルネサンス以降に学問の言語となったことによる.すでにラテン語は誰の母語でもなかったにもかかわらず,キケロのように正しく書くことが理想とされ,ラテン語教育が盛んに行なわれてきた.Ben Jonson をして "queen of tongues" と言わしめたほどであり,実際,俗語の文法が記述される際には,常にラテン語文法がモデルとされた.
 このラテン語の圧倒的な威信ゆえに,俗語に対して3つの態度が生じることになった.1つは,言語には固定された正しい語法があるものだという考え方である.もう1つには,ラテン語が専ら書き言葉だったために,話し言葉に対する書き言葉の優越という見方が生じた.最後に,ラテン語が豊富な屈折を示す言語であるために,屈折を大幅に失った英語のような言語は堕落した言語であるという神話が生まれた.
 規範主義が18世紀に成長した2点目の要因は,上流崇拝である.Samuel Johnson がその典型である.Johnson は Dictionary を編纂する際に,上流階級や最良の著者が書き言葉で用いる語(法)を選んで採用し,逆に下層の人々の話し言葉についてはこき下ろした.
 このような時代背景のなかで発展した規範主義と規範文法は,その後の19世紀,20世紀,21世紀にも受け継がれ,いまなお健在である.一つの神話の誕生と成長といってよいだろう.

 ・ Aitchison, Jean. Language Change: Progress or Decay. 4th ed. Cambridge: CUP, 2013.

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2018-03-10 Sat

#3239. 英語に関する不平不満の伝統 [complaint_tradition][prescriptivism][prescriptive_grammar][dryden][swift][language_myth]

 英語には,近代以降の連綿と続く "the complaint tradition" (不平不満の伝統)があり,"the complaint literature" (不平不満の文献)が蓄積されてきた.例えば,「#301. 誤用とされる英語の語法 Top 10」 ([2010-02-22-1]) で示した類いの,「こんな英語は受け入れられない!」という叫びのことである.典型的に新聞の投書欄などに寄せられてきた.
 この伝統は,標準英語がほぼ確立した後で,規範主義的な風潮が感じられるようになってきた王政復古あたりの時代に遡る.著名人でいえば,John Dryden (1631--1700) や,少し後の Jonathan Swift (1667--1745) が伝統の最初期の担い手といえるだろう(cf. 「#3220. イングランド史上初の英語アカデミーもどきと Dryden の英語史上の評価」 ([2018-02-19-1]),「#1947. Swift の clipping 批判」([2014-08-26-1])).
 Milroy and Milroy によれば,この伝統には2つのタイプがあるという.両者は重なる場合もあるが,目的が異なっており,基本的には別物と考える必要がある.まずは Type 1 から.

Type 1 complaints, which are implicitly legalistic and which are concerned with correctness, attack 'mis-use' of specific parts of the phonology, grammar, vocabulary of English (and in the case of written English 'errors' of spelling, punctuation, etc.). . . . The correctness tradition (Type 1) is wholly dedicated to the maintenance of the norms of Standard English in preference to other varieties: sometimes writers in this tradition attempt to justify the usages they favour and condemn those they dislike by appeals to logic, etymology and so forth. Very often, however, they make no attempt whatever to explain why one usage is correct and another incorrect: they simply take it for granted that the proscribed form is obviously unacceptable and illegitimate; in short, they believe in a transcendental norm of correct English. / . . . . Type 1 complaints (on correctness) may be directed against 'errors' in either spoken or written language, and they frequently do not make a very clear distinction between the two. (30--31)


 Type 1 は,いわゆる最も典型的なタイプであり,上で前提とし,簡単に説明してきた種類の不平不満である.「誤用批判」とくくってよいだろう.このタイプの伝統が標準英語を維持 (maintenance) する機能を担ってきたという指摘もおもしろい.
 次に挙げる Type 2 は Type 1 ほど知られていないが,やはり Swift あたりにまで遡る伝統がある.

Type 2 complaints, which we may call 'moralistic', recommend clarity in writing and attack what appear to be abuses of language that may mislead and confuse the public. . . . / Type 2 complaints do not devote themselves to stigmatising specific errors in grammar, phonology, and so on. They accept the fact of standardisation in the written channel, and they are concerned with clarity, effectiveness, morality and honesty in the public use of the standard language. Sometimes elements of Type 1 can enter into Type 2 complaints, in that the writers may sometimes condemn non-standard usage in the belief that it is careless or in some way reprehensible; yet the two types of complaints can in general be sharply distinguished. The most important modern author in this second tradition is George Orwell . . . (30)


 Type 1 を "the correctness tradition" と呼ぶならば,Type 2 は "the moralistic tradition" と呼んでよいだろう.引用にあるように,George Orwell (1903--50) が最も著名な主唱者である.Type 2 を代表する近年の動きとしては,1979年に始められた "Plain English Campaign" がある.公的な情報には誰にでも分かる明快な言葉遣いを心がけるべきだと主張する組織であり,明快な英語で書かれた文書に "Crystal Mark" を付す活動を行なっているほか,毎年,明快な英語に対して賞を贈っている.

 ・ Milroy, Lesley and James Milroy. Authority in Language: Investigating Language Prescription and Standardisation. 4th ed. London and New York: Routledge, 2012.

Referrer (Inside): [2018-11-01-1]

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2018-03-02 Fri

#3231. 標準語に軸足をおいた Blake の英語史時代区分 [standardisation][periodisation][historiography][chancery_standard][prescriptive_grammar][prescriptivism][romanticism]

 Blake の英語史書は,英語の標準化 (standardisation) と標準英語の形成という問題に焦点を合わせた優れた英語史概説である.とりわけ注目すべきは,従来のものとは大きく異なる英語史の時代区分法 (periodisation) である.英語史の研究史において,これまでも様々な時代区分が提案されてきたが,Blake のそれは一貫して標準語に軸足をおく社会言語学的な観点からの提案であり,目が覚めるような新鮮さがある (Blake, Chapter 1) .7期に分けている.以下に,コメントともに記そう.

 (1) アルフレッド大王以前の時代 (〜9世紀後半):標準的な変種が存在せず,様々な変種が並立していた時代
 (2) 9世紀後半〜1250年:ウェストサクソン方言の書き言葉標準が影響力をもった時代
 (3) 1250年〜1400年:標準語という概念がない時代;標準語のある時代に挟まれた "the Interregnum"
 (4) 1400年〜1660年:標準語の書き言葉(とりわけ綴字と語彙のレベルにおいて)が確立していく時代
 (5) 1660年〜1798年:標準語の統制の時代
 (6) 1798年〜1914年:諸変種や方言的多様性が意識された時代
 (7) 1914年〜:英語の分裂と不確かさに特徴づけられる時代

 (1) アルフレッド大王以前の時代 (〜9世紀後半) は,英語が英語として1つの単位として見られていたというよりも,英語の諸変種が肩を並べる集合体と見られていた時代である.したがって,1つの標準語という発想は存在しない.
 (2) アルフレッド大王の時代以降,とりわけ10--11世紀にかけてウェストサクソン方言が古英語の書き言葉の標準語としての地位を得た.1066年のノルマン征服は確かに英語の社会的地位をおとしめたが,ウェストサクソン標準語は英語世界の片隅で細々と生き続け,1250年頃まで影響力を残した.少なくとも,それを模して英語を書こうとする書き手たちは存在していた.英語史上,初めて標準語が成立した時代として重要である.
 (3) 初めての標準語が影響力を失い,次なる標準語が現われるまでの空位期間 (the Interregnum) .諸変種が林立し,1つの標準語がない時代.
 (4) 英語史上2度目の書き言葉の標準語が現われ,定着していく時代.15世紀前半の Chancery Standard が母体(の一部)であると考えられる.しかし,いまだ制定や統制という発想は稀薄である.
 (5) いわゆる規範主義の時代.辞書や文法書が多く著わされ,標準語の統制が目指された時代.区切り年代は,王政復古 (Restoration) の1660年と,ロマン主義の先駆けとなる Wordsworth and Coleridge による Lyrical Ballads が出版された1798年.いずれも象徴的な年代ではあるが,確かに間に挟まれた時代は「統制」「抑制」「束縛」といったキーワードが似合う時代である.
 (6) Lyrical Ballads から第1次世界大戦 (1914) までの時代.前代の縛りつけからある程度自由になり,諸変種への関心が高まり,標準語を相対化して見るようになった時代.一方,前代からの規範主義がいまだ幅を利かせていたのも事実.
 (7) 第1次世界大戦から現在までの時代.英語が世界化しながら分裂し,先行き不透明な状況,"fragmentation and uncertainty" (Blake 15) に特徴づけられる時代.

 伝統的な「古英語」「中英語」「近代英語」の区分をさらりと乗り越えていく視点が心地よい.

 ・ Blake, N. F. A History of the English Language. Basingstoke: Macmillan, 1996.

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2017-12-17 Sun

#3156. 「大英帝国の拡大と英語」のまとめ [slide][new_englishes][world_englishes][model_of_englishes][variety][history][link][timeline][standardisation][prescriptive_grammar][prescriptivism][asacul]

 大英帝国の拡大という世界史的展開は,現代英語と英語の未来を論じる上で避けて通ることのできないトピックです.その英語史上の意義について,スライド (HTML) にまとめてみました.こちらからどうぞ.結論としては次のように述べました.

大英帝国の発展は
 (1) 英語の標準化・規範化を後押しして,英語に「求心力」をもたらした一方で,
 (2) 英語の多様化を招き,英語に「遠心力」をもたらし,
現在および未来の英語のあり方の基礎を築いた.


 詳細は各々のページをご覧ください.本ブログの記事や各種画像へのリンクも豊富に張っています.

 1. 大英帝国の拡大と英語
 2. 要点
 3. (1) 大英帝国の発展
 4. 関連年表 (#777, #1377, #2562)
 5. (2) 英語の求心力 --- 標準化・規範化
 6. 標準化と規範化
 7. 18世紀の規範主義
 8. 辞書,文法書,発音指南書
 9. 規範文法の例
 10. (3) 英語の遠心力 --- 世界の様々な英語
 11. 様々な英語変種の例
 12. 英語変種の諸分類法
 13. 21世紀,求心力と遠心力のせめぎ合い
 14. まとめ
 15. 参考文献

 他の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]),「#3068. 「宗教改革と英語史」のまとめスライド」 ([2017-09-20-1]),「#3089. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-11-1]),「#3102. 「キリスト教伝来と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-24-1]),「#3107. 「ノルマン征服と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-29-1]),「#3121. 「印刷術の発明と英語」のまとめ」 ([2017-11-12-1]) もどうぞ.

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2017-09-13 Wed

#3061. 誤用と正用という観念の発現について [prescriptive_grammar][prescriptivism][black_death][language_myth]

 ここ数日間,英語史上にもインパクトのあった黒死病 (black_death) について集中的に考えてきた.関連して蔵持著『ペストの文化誌』を読んでいたときに,衛生観念と言語の正誤の観念に似ている側面があることに気づいた.
 蔵持 (326) によれば,清潔と不潔という観念が生じたのはルネサンス以降であり,その対立の秩序,すなわち衛生観念が本格的に現われたのは18世紀中葉から19世紀初頭だろうという.その議論で,次のように述べている (325) .

象徴人類学者のメアリー・ダグラスによれば,「汚れとは,絶対に唯一かつ孤絶した事象ではありえない.つまり,汚れがあるところには必ず体系が存在するのだ.秩序が不適当な要素の拒否を意味するかぎりにおいて,汚れとは事物の体系的秩序づけと分類との副産物」だという.ありていにいえば,汚れもまた,それが不潔なものとして除去されるには,汚れを忌避すべきものと意味づけする,集団的ないし個人的な清潔への意識の秩序が存在しなければならない.時には,清浄=祓穢という優れて儀礼的なカタルシスに突き動かされた,感性と想像力の秩序が不可欠ともなる.


 汚れを汚れと感じるためには,対置される清潔に対する感受性が必要である.不潔と清潔は「衛生観念」という秩序のもとで常にペアである.これは構造主義の発想そのものだ.
 同じことは,文法や語法の正誤についても言える.誤りを誤りと感じるためには,対置される正用に対する感受性が必要である.誤りと正しさは「言語的衛生観念」という秩序のもとで常にペアである.
 英語の文法や語法の正誤の観念が明確に現われたのは,奇しくも18世紀中葉から19世紀初頭,次々と規範文法書が出版された時代である.それより前の時代には,明確な意味での言語上の「誤用」と「正用」はなかったといってよい.文法の「誤り」とは,18世紀の文法書が生み出した「不潔」のことだったのである.

 ・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.

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2017-09-03 Sun

#3051. 「less + 複数名詞」はダメ? [prescriptive_grammar][comparison]

 現代の規範文法では,原則として「less + 複数名詞」は認められないということになっている.less men, less things はしばしば聞かれるが,誤用であり,fewer men, fewer things と言い換えるべきであると説かれる.
 しかし,(no) less than のような慣用的な文脈では,可算名詞の複数形が後続しても許容されることがある.とりわけ期間や金額が関わる場合には,許容度が高い.例えば,It is less than seventy miles to London., It costs less than £50. などは,問題なく使えるという.(可算名詞的な)数というよりも(不可算名詞的な)量の性質が強いからだろうと思われるが,一応の原則をもちながらも,完全には慣用を除外することのできない規範文法のアドホックさを感じざるを得ない.Times の1991年から Indira Gandhi supported sterilisation in the belief that fewer children meant less poverty. という規則に美しく従った文が例証されるが,規則遵守の極みとして,私などはむしろ薄気味悪いと感じる.
 たいていこのようなアドホックな匂いのする規範文法の項目は,歴史を遡ってみるとおもしろい.案の定,less が可算名詞の複数形と共起する例は古英語から確認される.やはり,18世紀の規範文法が(屁)理屈を押して「less + 複数名詞」をこき下ろし,それが現代の規範的な用法に深い爪痕を残しているといって間違いない.
 Fowler の less の項に,歴史的解説がある.有用なので,引用しておこう.

Historical note. The account given above . . . is an attempt to describe current attitudes towards the use of less and fewer. It should be borne in mind, however, that there is ample historical warrant for the type less roads, less people, etc. Such uses originate 'from the OE construction of lǽs adv. (quasi-sb.) with a partitive genitive' (OED). In OE, lǽs worda meant literally 'less of words'. When the genitive plural case vanished at the end of the OE period the type less words took its place, and this type has been employed ever since: e.g. there are few Vniuersities that haue lesse faultes than Oxford---Lyly, 1579. Hostility to the use emerged in the 18C., but 'folk memory' of the medieval type has ensured that there has been no break in the use of the type which I have branded as 'incorrect'. It is of interest to set down the way in which the problem of less and fewer is presented in CGEL, the standard descriptive grammar of current English (§5.24): . . . 'There is a tendency to use less (instead of fewer) and least (instead of fewest) also with count nouns: You've made less mistakes than last time. This usage is however often condemned. No less than is more generally accepted: No less than fifty people were killed in the accident.'


 「#624. 現代英語の文法変化の一覧」 ([2011-01-11-1]) と「#860. 現代英語の変化と変異の一覧」 ([2011-09-04-1]) では,「less + 複数名詞」を言語変化の1例として挙げた.ただし,言語変化といっても,上記のように古くから連綿として用いられてきたことを考えると,頻度や使用域の変化ととらえるべきだろう.標準英文法の一画へと侵入しつつある現象という意味における言語変化とみておきたい.

 ・ Burchfield, Robert, ed. Fowler's Modern English Usage. Rev. 3rd ed. Oxford: OUP, 1998.

Referrer (Inside): [2017-09-04-1]

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2017-08-30 Wed

#3047. 言語学者と規範主義者の対話が必要 [prescriptive_grammar][prescriptivism][speed_of_change]

 言語に対してとる態度に関して,しばしばプロの言語学者とポピュラーな言語コメンテーターは対立する.言語学者は,記述主義的な立場を取り,言語の変化や変異は言語の本質であり,それを人為的にコントロールすることなどできないと考えている.一方,規範主義的なコメンテーターは,伝統的で正統的な語法や文法の項目から逸脱する例を取りあげ,それを誤用として断罪し,代わりに正用を主張する.
 このように両者はしばしば対立するが,実際に火花を散らすということは意外とない.論争に発展するとか,社会的な現象になるということは,あまりないのだ.日本でも英語圏でもそのようなケースは皆無ではないものの,国民的な話題になることは少ない.言語の諸問題を巡って平和が維持されているといえばそうなのかもしれないが,その理由が互いの無関心や無接触にあるというのが寂しい.言語学者が規範主義的言語観とどう向き合うかをしっかり考えた上で,ポピュラーな言語論に参加していくことは,もっとあってよいし,規範主義のコメンテーターも言語の専門家に耳を傾けることが必要だと思う.そうすれば,論争がある用法を巡っての正誤という比較的小さな問題から始まったにせよ,徐々に言語とは何か,どうあるべきかといった核心の議論に迫っていける可能性が高い.結果として,関与者みなが言語について真剣に考えられる機会となる.これは素晴らしいことだ.
 Horobin (165--66) も,昨年出版された英語史概説書の締めくくりの章で,次のように述べている.

The dismissive manner in which professional linguists have typically ignored prescriptivist approaches has also contributed to the lack of dialogue and continued misinformation. Since prescriptivist approaches are widely held and have a demonstrable impact upon the use of English and its future, it is clearly incumbent upon professional linguists to accord its proponents due attention and to engage in public debate.


 記述言語学と規範主義の関係については,以下の記事も参照されたい.「#1229. 規範主義の4つの流れ」 ([2012-09-07-1]),「#1684. 規範文法と記述文法」 ([2013-12-06-1]),「#1929. 言語学の立場から規範主義的言語観をどう見るべきか」 ([2014-08-08-1]),「#2630. 規範主義を英語史(記述)に統合することについて」 ([2016-07-09-1]),「#2631. Curzan 曰く「言語は川であり,規範主義は堤防である」」 ([2016-07-10-1]) .

 ・ Horobin, Simon. How English Became English: A Short History of a Global Language. Oxford: OUP, 2016.

Referrer (Inside): [2018-06-02-1]

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2017-08-25 Fri

#3042. 後期近代英語期に接続法の使用が増加した理由 [subjunctive][lmode][prescriptive_grammar][prescriptivism][sociolinguistics][synthesis_to_analysis][drift]

 英語史における接続法は,おおむね衰退の歴史をたどってきたといってよい.確かに現代でも完全に消えたわけではなく,「#326. The subjunctive forms die hard.」 ([2010-03-19-1]) や「#325. mandative subjunctiveshould」 ([2010-03-18-1]) でも触れた通り,粘り強く使用され続けており,むしろ使用が増えているとおぼしき領域すらある.しかし,接続法の衰退は,総合から分析へ向かう英語史の一般的な言語変化の潮流 (synthesis_to_analysis) に乗っており,歴史上,大々的な逆流を示したことはない.
 大々的な逆流はなかったものの,ちょっとした逆流であれば後期近代英語期にあった.16世紀末から急激に衰退した接続法は衰退の一途を辿っていたが,18世紀後半から19世紀にかけて,少しく回復したという証拠がある.Tieken-Boon van Ostade (84--85) はその理由を,後期近代の社会移動性 (social mobility) と規範文法の影響力にあるとみている.

The subjunctive underwent a curious development during the LModE period. While its use had rapidly decreased since the end of the sixteenth century, it began to rise slightly during the second half of the eighteenth century and into the nineteenth, when there was a sharp decrease from around 1870 onwards . . . . The temporary rise of the subjunctive has been associated with the influence of normative grammar, and though, this may explain the increased use during the nineteenth century, when linguistic prescriptivism was at its height and its effects must have been felt, in the second half of the eighteenth-century it must have been because of the strong linguistic sensitivity among social climbers rather than the actual effect of the grammars themselves. This is evident in the language of Robert Lowth and his correspondents: in Lowth's own usage, there is an increase of the subjunctive around the time when his grammar was newly published, and with his correspondents we found a similar linguistic awareness that they were writing to a celebrated grammarian . . . .


 Tieken-Boon van Ostade は,規範文法の影響力があったとしてもおそらく限定的であり,とりわけ18世紀後半の接続法の増加のもっと強い原因は "social climbers" (成上り者)の上昇志向を反映した言語意識にあるとみている.
 かりに接続詞の衰退を英語史の「自然な」流れとみなすのであれば,後期近代英語のちょっとした逆流は,人間社会のが「人工的に」生み出した流れということになろうか.「#2631. Curzan 曰く「言語は川であり,規範主義は堤防である」」 ([2016-07-10-1]) の比喩を思い起こさざるを得ない.

 ・ Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. An Introduction to Late Modern English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2009.

Referrer (Inside): [2018-06-30-1] [2018-06-13-1]

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2017-08-19 Sat

#3036. Lowth の禁じた語法・用法 [prescriptive_grammar][lowth]

 Tieken-Boon van Ostade の論考の補遺 (553--55) に,"LOWTH'S NORMATIVE STRICTURES" の一覧が掲げられていた.A Short Introduction to English Grammar の1762年の初版より取ってきたものである.備忘録として以下に記録しておきたい.

・ Adjectives used as adverbs (pp. 124--5)
As
   instead of relative that or which (pp. 151--2)
   improperly omitted, e.g. so bold to pronounce (p. 152)
Be for have with mutative intransitive verbs (p. 63)
Because expressing motive or end (instead of that) (pp. 93--4)
Do: scope in the sentence, e.g. Did he not fear and besought . . . (p. 117)
His for its (pp. 34--5)
・ Double comparatives
   Lesser (p. 43)
   Worser (p. 43)
・ Wrong degrees of comparison (easilier, highliest) (p. 91)
Fly for flee (p. 77)
・ -ing form
   him descending vs. he descending (pp. 107--8)
   the sending to them the light (pp. 111--13)
It is I
   Whom for who (p. 106)
Lay for lie (p. 76)
Let with subject pronoun, e.g. let thee and I (p. 117)
・ Mood: consistent use (pp. 119--20)
Neither sometimes included in nor (pp. 149--50)
Never so (p. 147)
Not before finite (p. 116)
・ Nouns of multitude with plural finite (p. 104)
・ Past participle forms (pp. 86--8)
   Sitten (pp. 75--6)
   Chosed (p. 65)
・ Pronominalization/relativization problems (pp. 138--41)
・ Relative clause dangling (p. 124)
・ Relative and preposition omitted, e.g. in the posture I lay (p. 137)
So . . ., as for so . . ., that (pp. 150--1)
・ Subject
   lacking, e.g. which it is not lawful to eat (pp. 110; 122--4)
   superfluous after who (p. 135)
・ Tense: consistent use (pp. 117--19)
Than with pronoun following (pp. 144--7)
That including which: of that [which] is moved (p. 134)
That (conj.)
   improperly accompanied by the subjunctive (p. 143)
   omitted (p. 147)
This means/these means/this mean (p. 120)
To superfluous, e.g. to see him to do it (p. 109)
・ Verb forms
   subjunctive verbs in the Indicative (wert for wast) (p. 52)
   Thou might for thou mightest (pp. 97, 137)
   I am the Lord that maketh . . .: first person subject with third person finite in relative clause (p. 136)
Thou for you
Who
   Whom for who in subject position (p. 97)
   Who for whom in object position (pp. 99, 127)
   Whose as the possessive of which (p. 38)
   Who used for as, e.g. no man so sanguine who did not apprehend (. . . so sanguine as to . . .) (p. 152)
Woe is me (p. 132); ah me (p. 153)
Ye for you in object position (pp. 33--4)
You was (pp. 48--9)
・ Various:
   "Improper use of the Infinitive" (p. 111)
   Sentences "abounding" with adverbs (p. 127)
   "Disused in common discourse": whereunto, whereby, thereof, therewith (p. 131)
   Improperly used: too . . ., that, too . . ., than, so . . ., but (pp. 152--3)


 ・ Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. "Eighteenth-Century Prescriptivism and the Norm of Correctness." Chapter 21 of The Handbook of the History of English. Ed. Ans van Kemenade and Bettelou Los. Malden, MA: Blackwell, 2006. 539--57.

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2017-08-18 Fri

#3035. Lowth はそこまで独断と偏見に満ちていなかった? [prescriptive_grammar][lowth]

 Robert Lowth の後世への影響力は計り知れない.伝統的な解釈では,A Short Introduction to English Grammar (1762) で示された Lowth の規範は,彼自身の独断と偏見に満ちたものであるというものだ.そして,Lowth の断言的な調子は,彼の高位聖職者としての立場と関係しているとも言われてきた.
 しかし,Tieken-Boon van Ostade (543) によれば,この解釈は必ずしも当たっていないという.Lowth の批評家の多くは,彼のロンドン主教としての立場を強調するが,Lowth がこの職を得たのは1777年のことである.確かに少しさかのぼる1766年にも St. David's,そして Oxford の主教ともなっているが,いずれにしても1762年の文法の出版の数年後のことである.したがって,「高位聖職者にふさわしい独断と偏見」という評価は,アナクロだということになる.
 また,Lowth の頑固さのイメージについても誤解があるようだ.同時代の著者である William Melmoth (1710--99) が A Short Introduction to English Grammar の初版に対して施した訂正を,Lowth 自身が第2版 (1763) のために受け入れたという事実がある.さらに,初版の序文にて Lowth は読者に改善のための情報提供を直々に呼びかけているのだ.

If those, who are qualified to judge of such matters, and do not look upon them as beneath their notice, shall so far approve of it, as to think it worth a revisal, and capable of being improved into something really useful; their remarks and assistance, communicated through the hands of the Bookseller, shall be received with all proper deference and acknowledgement. (1762: xv; quoted in Tieken-Boon van Ostade, 543.)


 もっとも,この序文の文句はある種の社交辞令かもしれないが.いずれにせよ,Lowth のイメージは現代の規範文法を巡る言説のなかで作り上げられ,多かれ少なかれ誇張されてきたものであることは確かだろう.

 ・ Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. "Eighteenth-Century Prescriptivism and the Norm of Correctness." Chapter 21 of ''The Handbook of the History of English. Ed. Ans van Kemenade and Bettelou Los. Malden, MA: Blackwell, 2006. 539--57.

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2017-07-13 Thu

#2999. 標準英語から二重否定が消えた理由 [prescriptive_grammar][negative][double_comparative][syntax][emode]

 標準英語の規範文法 (prescriptive_grammar) では,二重否定 (double negative) が忌避される.「#301. 誤用とされる英語の語法 Top 10」 ([2010-02-22-1]) のランキングにも入り込んでいる項目であり,誤用の悪玉のようにみなされている.古い英語では二重否定ばかりか多重否定がごく普通に用いられてきた事実があり,それはこの語法に言語学的な効用が確かにあることを物語っているように思われるが,規範主義の立場からはダメの一点張りである(「#549. 多重否定の効用」 ([2010-10-28-1]) を参照).
 標準英語における二重否定は,このように18世紀の規範文法の強力な影響下で忌避されるに至り,現在まで敵視されているというのが通常の見方だが,この見方は必ずしも正確ではないようだ.先行研究を参照しつつ Tieken-Boon van Ostade (81) が,次のように指摘している.

Many scholars believe that the disappearance of double negation from standard English was due to the influence of the normative grammarians, but Nevalainen and Raumolin-Brunberg . . . have shown that double negation was already on the way out during the EModE period. The same is true for another 'double' construction, the use of double comparatives and superlatives, no longer in general use either when first condemned by the grammarians (González-Díaz 2008)[/sic]


 言及されている先行研究に戻って確かめていないが,もしこの見方がより正確なものだとすれば,先に自然の言語使用において二重否定(や二重比較級・最上級)が廃れ出し,その事実を受けて18世紀の文法家がすでに劣勢だった件の構造に駄目を出した,という順序だったことになる.
 二重否定については,double negative の外部記事を,また二重比較級については「#195. Shakespeare に関する Web resources」 ([2009-11-08-1]) の hellog 記事を参照.

 ・ Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. An Introduction to Late Modern English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2009.

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2017-07-10 Mon

#2996. 近代英語期の英文法書とレシピ本の共通点 [prescriptive_grammar][recipe][genre][lmode]

 Tieken-Boon van Ostade (138) による後期近代英語の概説書を読んでいて,英文法書とレシピ本に見られる思いも寄らない共通点を教えられた.

Between 1500 and 1850, the number of such books [= cooking recipes] increased dramatically, which, interestingly, shows a parallel with the steep rise in the publication of English grammars since the 1760s . . . . Their reading public was also similar: people who desired access to the 'polite' middle classes, and who needed tools for this, even cookery books. Another similarity is that writers of cookery books often 'copy from existing collections so that such compilations tend to be "improvements" of earlier cookery books' (Görlach 1992: 750).


 まず,両テキストタイプともに,近代期を通じて出版が伸び続けており,とりわけ18世紀後半に増加したという.また,その需要はいずれも上昇志向の強い中流階級に支えられていたという点が指摘されている.いずれも,気品ある紳士淑女にとって「たしなみ」と捉えられていたのである.さらに,著者たちが「改善」と称して,既刊書からのコピペを当たり前のように行なっていたということも共通点だ.現在であれば明らかに剽窃として罰せられるところだが,当時は珍しいことではなかったのだろう.とはいえ,18世紀後半には,顰蹙を買うに足る行為と認識されるようになっていたようである.
 昨今の日本では,結婚相手として男女ともに料理のたしなみが求められるようになってきているようだが,特に日本語文法の知識は求められていない.これはある意味でほっとするところである.18世紀のイギリス社会は, "social climbers" にとって生きるのも楽ではなかったのだなあと考えさせる意外な共通点だった.

 ・ Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. An Introduction to Late Modern English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2009.

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2017-06-13 Tue

#2969. 閉じない quotation marks [punctuation][literature][genre][prescriptive_grammar][printing]

 「#1097. quotation marks」 ([2012-04-28-1]) で,英語の引用符の single か double の差について論じた.今回は,引用符の開きと閉じの習慣について歴史をひもといてみよう.
 現在の慣習では,引用符を “ で開いたら ” で閉じるというのは自明のように思われる.しかし,前の記事でみたように,本来的にこの記号は「ここから引用が始まりますよ」という合図として,欄外に置かれるマークとして出発したのだった.「ここから始まる」と言っておいて「どこそこで終わる」と言わないのは,引用者として無責任のように思われるかもしれないが,これは現代的な思考法なのかもしれない.古くは,閉じの引用符は置かれなかったのである! 書き手にとって,どこで引用が終わるかは明らかだし,読み手もそれで何とかなるだろうと,ある種の鷹揚さを持ち合わせていたかのようだ.
 話者が頻繁に交替する会話の再現が稀な時代であれば,実際,何とかなったろう.しかし,小説のようなジャンルが盛んになると,閉じない引用符の問題は深刻となる.こうして,小説が人気を獲得する18世紀に,ついに閉じの引用符が慣習的に用いられるようになった.おりしも18世紀には現代人にとっては見苦しいほど句読法を多用することが是とされたので,Murray の規範文法でも,このような2重引用符の使用が推奨されたのである.新たな文学ジャンルの発達とそれに伴う直接話法の頻用,そして当時の重めの句読法の慣習が,新しい記号使用を促進したことになる (Crystal 308--09) .
 引用符の開きと閉じの問題について,印刷家が直面したもう1つの問題があった.それは,引用が複数の段落にまたがるとき,前の段落の最後に閉じの引用符を含めるか,あるいは後の段落の最初に開きの引用符を繰り返すか,といった問題である.印刷家によっては,各段落の始めと終わりを,それぞれ開きと閉じの引用符で標示するという方法を採用した.しかし,これでは各段落で独立して引用が導入されているかのように誤読される恐れがある.現在採用されているのは,各段落の始めは改めて開きの引用符を付して引用の継続を示すが,閉じの引用符は引用全体の終末時にしか付さない,という方法だ (Crystal 310) .一見すると論理的ではないかのようだが,説明されれば,その実用性と合理性のバランスの取れていることは納得できるだろう.
 歴史的には,引用符は必ずしも閉じるのが当然ではなかったという事実に注意すべきである.かつての緩い句読法は,開きと閉じの括弧の対応が正確でないとすぐにエラーとなる現代のプログラミング言語のようなガチガチの理屈とは対極にある,実におおらかな世界の慣習だったのである.

 ・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.

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2017-01-11 Wed

#2816. 18世紀の規範主義の再評価について (2) [prescriptive_grammar][prescriptivism][sociolinguistics]

 昨日の記事に引き続き,18世紀の規範主義と各々の文法家の政治的スタンスについての話題.前の記事で触れたように,18世紀に洪水のように規範文法書が出版され,なかには飛ぶように売れたものもあった.この文法書市場の高まりと各文法家の政治的スタンスとは,いかなる関係にあったのだろうか.
 どうやら,特定の政治的スタンスが文法書に埋め込まれ,それが政治的な意味合いをもって受容され,市場を賑わわせた,ということではなさそうだ.むしろ,市場における文法書の人気が潜在的にあるところに,政治的スタンスという要素が加わり,出版や受容という過程が政治化した,ということのようだ.英文法が政争の具となったとも表現できそうだが,実際にはそこまで悪いように具とされたわけでもないようであり,難しい.Beal (101) を引用する.

The 'doctrine of correctness' was thus invoked by writers of all political persuasions, so it would be a mistake to argue that any set of political circumstances created the market for grammars in the eighteenth and nineteenth centuries. It might be wiser to agree with Crowley that 'language becomes a crucial focus of tension and debate at critical historical moments, serving as the site upon which political positions are contested' (2003: 217). Thus, the emergence of these grammars and the accompanying discussions about language and power are symptomatic of the turbulent times in which they were written.


 本記事の標題では「18世紀の規範主義」と銘打ったが,Beal の議論は,上の引用にもある通り19世紀にも当てはまるというし,さらに読み進めると,20--21世紀にも等しく通じるとも述べられている.一見すると,文法書と政治性というのは結びつかないように思われるが,文法書を「正しい語法の集大成」と解釈すれば,いかに文法というものが社会的な「正しさ」と結びつけられる政治の問題に近寄りうるかということが理解されよう.ひいては,人類の歴史において言葉の問題は常に政治の問題だったとも言えるのかもしれない.
 なお,上の引用で言及されている Crowley は,Crowley, T. Standard English and the Politics of Language. London: Palgrave, 2003. のことである.

 ・ Beal, Joan C. English in Modern Times: 1700--1945. Arnold: OUP, 2004.

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2017-01-10 Tue

#2815. 18世紀の規範主義の再評価について (1) [prescriptive_grammar][prescriptivism][priestley][lowth][lmode][swift]

 英語史上,18世紀は "doctrine of correctness" に特徴づけられた規範主義の時代であると評価されてきた.確かにこの世紀には,前半だけで50ほどの,後半には200を超える英文法書が出版され,規範英文法書の世紀といっても過言ではない.
 しかし,Beal は,著書の第5章 "Grammars and Grammarians" において,18世紀に与えられたこの伝統的な評価について再考を促す.Beal (90) は,18世紀には規範主義の風潮自体は間違いなくあったものの,諸家の立場は,その政治的信条やイデオロギーに応じて様々かつ複雑であり,単に規範的といった評価では不十分であると論じている.

[E]ighteenth-century grammarians had a range of motives for writing their grammars, and . . . these and later grammars, far from being uniformly 'prescriptive', would be better described as occupying different points on a prescriptive-descriptive continuum.


 英語に関する著作をものした諸家は,各々の政治的スタンスから英語について発言していた.例えば,Swift は Ann 女王と君主制を守ろうとする保守主義から物を申し,行動もしていた.また,1707年の大ブリテン連合王国の成立を受けて,南部の標準的な英語を正しい英語と定め,スコットランド人などにそれを教育する必要性も感じられていた.規範主義の背景には,政治的思惑があったのである (Beal 97) .

Whilst it is perfectly valid to see eighteenth- and nineteenth-century grammars both as the necessary agents of codification and as self-help guides for the aspiring middle classes, it cannot be denied that many of the authors of these works were politically and/or ideologically motivated.


 Beal (111) は,しばしば対立させられる Lowth と Priestley にも言及し,両者の違いは力点の違い(含意として政治的スタンスの違い)であるとしている.

These two grammarians [= Lowth and Priestley] were writing within a year of each other, so any norms of usage to which they refer must have been the same. Although both used a classical system of parts of speech, neither is influenced by Latin here: they both describe preposition-stranding as a naturally occurring feature of English, more suited to informal usage. The difference between Lowth and Priestley is one of emphasis only, far from the prescriptive-descriptive polarization which we have been led to expect.


 18世紀(及びそれ以降)の言語的規範主義を巡る問題について,常に政治性が宿っていたという事実に目を開くべきだという議論には納得させられた.しかし,Beal の再評価を読んで,従来の評価と大きく異なっているわけではないように思われた.そこでは,18世紀は規範主義の時代であるという事実に対して,大きな修正は加えられていない.Beal では "prescriptive-descriptive continuum" という表現がなされているが,これは「基本は prescriptive であり,その prescription の定め方として reason-usage continuum があった」と考えることは,引き続きできそうである.この時代を論じるに当たって "descriptive" という形容詞を用いることは,まだ早すぎるのではないか.
 関連して,「#141. 18世紀の規範は理性か慣用か」 ([2009-09-15-1]),「#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar」 ([2016-05-23-1]),「#2778. Joseph Priestley --- 慣用重視を貫いた文法家」 ([2016-12-04-1]),「#2796. Joseph Priestley --- 慣用重視を貫いた文法家 (2)」 ([2016-12-22-1]) を参照.

 ・ Beal, Joan C. English in Modern Times: 1700--1945. Arnold: OUP, 2004.

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2016-12-22 Thu

#2796. Joseph Priestley --- 慣用重視を貫いた文法家 (2) [lowth][priestley][webster][prescriptive_grammar][academy]

 「#2778. Joseph Priestley --- 慣用重視を貫いた文法家」 ([2016-12-04-1]) の第2弾.先の記事で述べたように,Rudiments of English Grammar の初版は1761年に出版された.その約1ヶ月後に Lowth の A Short Introduction to English Grammar が出版され,1762年には James Buchanan の The British Grammar が,1763年には John Ash の Grammatical Institutes が,それぞれ立て続けに出版されている.また,多少の時間を経て,1784年には Noah Webster の A Grammatical Institute of the English Language も世に出ている.このように,18世紀後半は主要な規範文法書の出版合戦の時代であった(なお,これらに先立つ1755年には Johnson の Dictionary of the English Language も出版されている).
 Priestley の Rudiments は,この出版合戦の先鋒となった点で重要だが,この文法書についてそれ以上に顕著な特徴は「慣用を言語の主要な基準とする近代的言語観を最も鮮明に打ち出し」た点にこそある(山川,p. 279).Priestley の慣用重視の姿勢は,その後の慣用主義の模範として,しかも乗り越えられない模範として燦然と輝くことになったからだ.
 山川 (287) の評によると,以下の通りである.

Rudiments よりもひと月遅れて A Short Introduction to English Grammar を出版した Robert Lowth や,一般文法の哲学的研究と銘打った Hermes (1751) の著者 James Harris が文法と修辞学の論理派に属するとするならば,Joseph Priestley は18世紀における科学派を代表する学者であった.Priestley は極力英文法をラテン語文法のわくから超脱させ,生きたありのままの英語を忠実に観察して,そこから則るべき規範を割り出そうと努めた.そのため,英語の生態に人為的制約を加えて,それをそと側から規制し固定しようとする公共の機関である学士院 (Academy) の設立には反対している.このような自由で進歩的な態度は,規則としての文法では律し切れない言語の慣用 (Usage) が存在することに注意する態度につながっている.Priestley にとっては,Preface で述べている言葉を借りていうならば,「話し言葉の慣習 (the custom of speaking)」こそ,その言語の本源的で唯一の正しい基準なのである.」実に,Priestley は18世紀において初めて英語の慣用を正しく認識した学者であるといえるが,それは Priestly の科学者的素養とそれに基づく公正な判断力に帰せられるものであった.Priestley の慣用を重視する態度は,のち1776年に The Philosophy of Rhetoric を著わした George Campbell に引き継がれ,彼によって usage が定義づけられた.しかし,その Campbell も,good usage と認められた言語表現も,その地位を保持するために依拠しなければならない規範 (canons) を設定しており,usage に対する見解に一貫性を欠くところがあった.その点,時代も数十年早い Priestley のほうが態度が一貫しており,Priestley こそ最も早く現代的言語研究の道を唱導し,みずからもそれを実践した開拓者であるといえる.Priestley が従来のラテン語式な文法規則にこだわらず,すぐれた作家たちによる実例に照らして慣用性を注目し,公平な解釈を下していることは,Rudiments 中でも,とくに 'Notes and Observations' の部に目立つ特徴である.それは現在に至るまで研究者の論議の対象となり,以降2世紀間における英文法問題考察の端緒となっていることが,読者に気づかれよう.


 近代のイギリスと結びつけられるコモン・センスという概念は,慣用重視の姿勢ともいえる.Priestley は,英語学史上の名前としては Lowth や Murray に比べれば影が薄いかもしれないが,ある意味でイギリスを最もよく代表する英文法家だったといえる.

 ・ Priestley, Joseph. The Rudiments of English Grammar with Explanatory Remarks by Kikuo Yamakawa and A Course of lectures on the Theory of Language, and Universal Grammar with Explanatory Remarks by Kikuo Yamakawa. Reprint. Tokyo: Naun'un-Do, 1971.

Referrer (Inside): [2017-01-10-1]

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2016-12-17 Sat

#2791. John Adams のアメリカ英語にかけた並々ならぬ期待 [ame][webster][standardisation][academy][prescriptivism][prescriptive_grammar][elf][popular_passage]

 Noah Webster がアメリカ英語の地位を強烈に推進する役割を担ったことは英語史上よく知られているが,その背後で影が薄かったものの,1人の興味深い登場人物がいたことを忘れてはならない.アメリカ第2代大統領 John Adams (1735--1826) である.Adams は,英語を改善すべくアカデミーを設立することに意欲を示していた.ちょっとした Jonathan Swift のアメリカ版といったところか.大統領職に就く以前の話だが,1780年9月5日にアムステルダムから議会議長に宛てて,アメリカにおける英語という言語の役割の重要さを説く手紙を書いている.Baugh and Cable (355) に引用されている手紙の文章を再現しよう.

   The honor of forming the first public institution for refining, correcting, improving, and ascertaining the English language, I hope is reserved for congress; they have every motive that can possibly influence a public assembly to undertake it. It will have a happy effect upon the union of the States to have a public standard for all persons in every part of the continent to appeal to, both for the signification and pronunciation of the language. The constitutions of all the States in the Union are so democratical that eloquence will become the instrument for recommending men to their fellow-citizens, and the principal means of advancement through the various ranks and offices of society. . . .
   . . . English is destined to be in the next and succeeding centuries more generally the language of the world than Latin was in the last or French is in the present age. The reason of this is obvious, because the increasing population in America, and their universal connection and correspondence with all nations will, aided by the influence of England in the world, whether great or small, force their language into general use, in spite of all the obstacles that may be thrown in their way, if any such there should be.
   It is not necessary to enlarge further, to show the motives which the people of America have to turn their thoughts early to this subject; they will naturally occur to congress in a much greater detail than I have time to hint at. I would therefore submit to the consideration of congress the expediency and policy of erecting by their authority a society under the name of "the American Academy for refining, improving, and ascertaining the English language. . . ."


 最後に "refining, improving, and ascertaining" と表現しているが,これは数十年前にイングランドの知識人が考えていた「#2741. ascertaining, refining, fixing」 ([2016-10-28-1]) をすぐに想起させるし,もっといえば Swift の "Correcting, Improving and Ascertaining" のなぞりである.この意味では,Adams の主張はまったく新しいものではなく,むしろ陳腐ともいえる.また,このような提案にもかかわらず,結局はアメリカにおいてもアカデミーは設立されなかったことからも,Adams の主張はむなしく響く.
 しかし,ここで Adams が,イギリスにおいてイギリス英語に関する主張をしていたのではなく,アメリカにおいてアメリカ英語に関する主張をしていたという点が重要である.Adams は,イギリスでのアカデミー設立の議論の単なる蒸し返しとしではなく,アメリカという新天地での希望ある試みとして,この主張をしていた.アメリカ英語への賛歌といってもよい.同時代人の Webster が行動で示したアメリカ英語への信頼を,Adams は彼なりの方法で示そうとした,と解釈できるだろう.
 なお,上の引用の第2段落にある,英語は次世紀以降,世界の言語となるだろうという Adams の予言は見事に当たった.彼が挙げている人口統計,イングランドの影響力,アメリカの国際関係上の優位などの予言の根拠も,適切というほかない.母国に対する希望と自信に満ちすぎているとも思えるトーンではあるが,Adams の慧眼,侮るべからず,である.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

Referrer (Inside): [2017-10-08-1]

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2016-12-04 Sun

#2778. Joseph Priestley --- 慣用重視を貫いた文法家 [lowth][priestley][prescriptive_grammar][academy]

 18世紀には様々な文法家や「言語評論家」というべき人々が登場した.Samuel Johnson (1709--84), Robert Lowth (1710--87), John Walker (1732--1807), Lindley Murray (1745--1826) 等がとりわけ有名だが,もう1人の重要な登場人物として Joseph Priestley (1733--1804) の名前を挙げないわけにはいかない.理性を重視した Lowth に対し,Priestley は慣用を重視した文法書を著わしている.Priestley はこの時代の慣用派の代表的論客といってよい.
 例えば,1761年に出版された Rudiments of English Grammar という文法書で,Priestley は,でっち上げで恣意的な文法規則ではなく,自然に育まれてきた慣用に基づく文法規則を打ち立てるべきだと論じている.

It must be allowed, that the custom of speaking is the original and only just standard of any language. We see, in all grammars, that this is sufficient to establish a rule, even contrary to the strongest analogies of the language with itself. Must not this custom, therefore, be allowed to have some weight, in favour of those forms of speech, to which our best writers and speakers seem evidently prone . . . ?" (qtd. from Baugh and Cable 277)


The best and the most numerous authorities have been carefully followed. Where they have been contradictory, recourse hath been had to analogy, as the last resource. If this should decide for neither of two contrary practices, the thing must remain undecided, till all-governing custom shall declare in favour of the one or the other. (qtd. from Baugh and Cable 277)


 また,Priestley は同じ Rudiments のなかで,アカデミーについても発言しており,そのような機関を設けるよりは慣用に従うほうが妥当だもと述べている.

As to a public Academy, invested with authority to ascertain the use of words, which is a project that some persons are very sanguine in their expectations from, I think it not only unsuitable to the genius of a free nation, but in itself ill calculated to reform and fix a language. We need make no doubt but that the best forms of speech will, in time, establish themselves by their own superior excellence: and, in all controversies, it is better to wait the decisions of time, which are slow and sure, than to take those of synods, which are often hasty and injudicious. (qtd. from Baugh and Cable 264)


 1762年の Theory of Language でも,同趣旨が繰り返される.

In modern and living languages, it is absurd to pretend to set up the compositions of any person or persons whatsoever as the standard of writing, or their conversation as the invariable rule of speaking. With respect to custom, laws, and every thing that is changeable, the body of a people, who, in this respect, cannot but be free, will certainly assert their liberty, in making what innovations they judge to be expedient and useful. The general prevailing custom, whatever it happen to be, can be the only standard for the time that it prevails. (qtd. from Baugh and Cable 277)


 Priestley の言語観には,実に先進的で現代的な響きが感じられる.この言語観は,酸素を発見した化学者としての Priestley の名言の1つ「ひとつの発見をなしとげると,必ずそれまで考えつきもしなかった別の不完全な知識を得ることになる……」(すなわち,知識は常に発展する)とも共鳴しているように思われる.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

Referrer (Inside): [2017-01-10-1] [2016-12-22-1]

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