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最終更新時間: 2020-01-17 20:56

2019-12-28 Sat

#3897. Alternative Histories of English [hel_education][review][history][sociolinguistics][world_englishes][variety]

 この2日間の記事 ([2019-12-26-1], [2019-12-27-1]) で「歴史の if」について考えてみた.反実仮想に基づいた歴史の呼び方の1つとして alternative history があるが,この表現を聞いて思い出すのは,著名な社会言語学者たちによって書かれた英語史の本 Alternative Histories of English である.
 この本は,実際のところ,反実仮想に基づいたフィクションの英語史書というわけではない.むしろ,事実の記述に基づいた堅実な英語史記述である.ただし,現在広く流通している,いわゆる標準英語のメイキングに注目する「正統派」の英語史に対して,各種の非標準英語,すなわち "Englishes" の歴史に光を当てるという趣旨での「もう1つの歴史」というわけである.
 しかし,本書は(過去ではないが)未来に関するある空想に支えられているという点で,反実仮想と近接する部分が確かにある.このことは,2人の編者 Watts and Trudgill が執筆した "In the year 2525" と題する序論にて確認できる.以下に引用しよう.

   If the whole point of a history of English were, as it sometimes appears, to glorify the achievement of (standard) English in the present, then what will speakers in the year 2525 have to say about our current textbooks? We would like to suggest that orthodox histories of English have presented a kind of tunnel vision version of how and why the language achieved its present form with no consideration of the rich diversity and variety of the language or any appreciation of what might happen in the future. Just as we look back at the multivariate nature of Old English, which also included a written, somewhat standardised form, so too might the observer 525 years hence look back and see twentieth century Standard English English as being a variety of peculiarly little importance, just as we can now see that the English of King Alfred was a standard form that was in no way the forerunner of what we choose to call Standard English today.
   There is no reason why we should not, in writing histories of English, begin to take this perspective now rather than wait until 2525. Indeed, we argue that most histories of English have not added at all to the sum of our knowledge about the history of non-standard varieties of English --- i.e. the majority --- since the late Middle English period. It is one of our intentions that this book should help to begin to put that balance right. (1--2)


 正統派に属する伝統的な英語史の偏狭な見方を批判した,傾聴に値する文章である."alternative history" は,この2日間で論じてきたように,原因探求に効果を発揮するだけでなく,広く流通している歴史(観)を相対化するという点でも重要な役割を果たしてくれるだろう.
 本書の出版は2002年だが,それ以降,英語の非標準的な変種や側面に注目する視点は着実に育ってきている.関連して「#1991. 歴史語用論の発展の背景にある言語学の "paradigm shift"」 ([2014-10-09-1]) の記事も参照されたい.なお,このような視点を英語史に適用する試みは,いまだ多くないのが現状である.

 ・ Watts, Richard and Peter Trudgill, eds. Alternative Histories of English. Abingdon: Routledge, 2002.

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2019-12-27 Fri

#3896. 「歴史の if」の効用 (2) [methodology][history][hel_education]

 昨日の記事 ([2019-12-26-1]) に引き続いての話題.赤上 (64) によれば,「もしもあの時――」という反実仮想の思考法は,英語では様々な呼び方があるという.'what if?' history, alternative history, counterfactual history, allohistory などである(一方 alternate history は一般的にはフィクションを指す).
 「歴史の if」は学術的方法論としても提案されている.その分野の第一人者がイギリスの歴史学者 Niall Ferguson である.Ferguson は1997年の編著 Virtual History の序章において,次のように述べている(赤上,p. 165 の訳より).

われわれは,妥当性を持つと判断する「ありえたかもしれない歴史」を絞り込むことによって――つまり,「可能性 (chance)」という得体の知れないものを,蓋然性 (probabilities) の判断へと発想を転換させることによって――,「唯一の決定論的な過去」と「扱いづらいほどに無数に存在する反実仮想」という究極の選択を回避できる.つまり,反実仮想のシナリオは,単なるファンタジィではなく,シミュレーションでなければならない.複雑化する世界においてわれわれは,実際には起こらなかったが,起こってもおかしくなかった出来事の相対的確率を算出しようと試みる(「仮想歴史 (virtual history)」と命名した所以である).


 「もうひとつの歴史」の相対的確率を算出するのに Ferguson の提案した手法が,「もしも○○がなかったら」 ('but for' questions) という問いかけである.これにより「もうひとつの歴史」の因果関係や論理的必然性が確保されているかを判断しようとした(赤上,p. 166).「もしも○○がなかったら」という問いは,あくまで手段であり目的ではないことに注意したい.目的は「もうひとつの歴史」の相対的確率を得ることである.
 もちろんこの手法によって因果関係を探るにあたっては,難しい問題が立ちはだかる.1つには「説明すべき結果の範囲をどう設定するかによって,原因の重要度が変わってしまう」という問題がある(赤上,p. 28).2つめに「説明すべき結果の範囲が広くなるほど,学術的な根拠が乏しくなる」という問題がある(赤上,p. 29).端的にいえば「もしもあの時○○がなかったら,その翌日/1世紀後にはどんな世の中になっていただろうか」という問いに対して,翌日の場合か1世紀後の場合かで,○○の原因としての重要度も信用度も異なるにちがいない,ということだ
 このような方法論上の問題にも注意しつつ,これからは授業などに「歴史の if」をもっと持ち込んでみようか,などと思案する年の瀬である.

 ・ 赤上 裕幸 『「もしもあの時」の社会学』 筑摩書房〈ちくま選書〉,2018年.

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2019-12-26 Thu

#3895. 「歴史の if」の効用 (1) [methodology][history][hel_education]

 昨日の記事「#3894. 「英語復権にプラス・マイナスに貢献した要因」の議論がおもしろかった」 ([2019-12-25-1]) で,(英語の)歴史の理解を深めるのに「歴史の if」を議論することが有益であると指摘した.
 従来,歴史学では「歴史の if」は禁物とされてきた.実際に起こったことを根拠として記述するというのが歴史学の大前提であり,妄想は控えなければならないというのが原則だからだ.「もしあのとき○○だったら今頃××になっていたかもしれない」などという「未練学派」 ('might-have-been' school of thought) に居場所はないという態度だ.
 しかし,歴史学からも「歴史の if」の重要性を指摘する声が上がってきている.2018年に『「もしもあの時」の社会学』を著わした赤上 (27) は,序章「歴史に if は禁物と言われるけれど」のなかで,次のように述べている.

 しばしば「歴史の if」は歴史の原因を探求する時に用いられる.歴史上の出来事は一度しか起こらないので,反実仮想は因果関係の推定を可能にしてくれる有効な方法なのだ.カーが『歴史とは何か』で指摘したように,「歴史の研究は原因の研究」であるならば,歴史家も無意識のうちに反実仮想の思考を行なっていることになる.たとえば,「Aが原因でBが起きた」と考える場合,それは「もしAが起こらなかったら,Bは起こらなかったであろう(あるいは,違った形で起こったであろう)」ということを意味する.そこでは「もしAが起こらなかったら,Bは起こったであろう」とか「Aが起こったのに,Bは起こらなかった」という状態は否定される.
 厳密に言えば,原因の判定とは「必要原因(必要条件)」を明らかにし,その重要度を決めることだ.「必要原因」とは,それがなかったならば,ある特定の結果が起こりえなかった原因のことを指す.ある一つの原因に関し,ありえたかもしれない複数の結果と,実際に起こった結果を比べたときに,違いが大きければ大きいほど,その原因の重要度は高いと言える.このようにして,複数の原因を俎上に載せて検討することで,どれが「必要原因」かを特定できると考えられる.


 さらに次のようにも主張している.

「歴史の if」というと,「クレオパトラの鼻」のような,風が吹けば桶屋が儲かる式の発想を思い浮かべる人が多いかもしれないが,それは誤解である.〔中略〕実際に起こった出来事の原因や因果関係を明らかにする作業は重要だが,それが全てではない.「歴史の if」に着目することは,当時の人々が想像した「未来」 (= imagined futures) にわれわれの関心を導くという点で重要なのだ.本書では,反実仮想の定義を,一般的に用いられているよりも少し広く捉え,歴史の当事者たちが思い描いた未来像,すなわち「歴史のなかの未来」を検討対象に加えることを提唱したい.こうした視点こそ,二〇世紀末から二一世紀にかけて登場してきた反実仮想研究が取り組もうとしている新機軸なのだ. (32--33)


史実以外にもありえた可能性に思いを巡らせる反実仮想は,想像力を触発して,歴史のなかの「敗者」を救済する唯一の方法である.歴史上には,偶然の要素によって結果が大きく左右された出来事,つまり,もう一度歴史をやり直すことができたとしたら結果が入れ替わってしまうような出来事も少なくない.当時の人々の期待や不安,満たされなかった願望,実現しなかった数々の計画なども,それらが後世に引き継がれていない場合は,歴史のなかの「敗者」と言えるだろう. (50)


 「歴史の if」は,過去の出来事をアクチュアル化してとらえることを促してくれる.もっと重視してもよい視点だと思う.

 ・ 赤上 裕幸 『「もしもあの時」の社会学』 筑摩書房〈ちくま選書〉,2018年.

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2019-12-25 Wed

#3894. 「英語復権にプラス・マイナスに貢献した要因」の議論がおもしろかった [reestablishment_of_english][history][hel_education]

 今学期の英語学演習の授業では,英語史の古典的名著の1つ Baugh and Cable を読みつつ,グループでの議論を繰り広げてきた.とりわけ議論として盛り上がって楽しかったのは,ノルマン征服によって地下に潜った英語が13世紀以降徐々に復権していく過程にあって,英語の復権に最も貢献したのは具体的にどの事件・出来事・潮流だったと考えるかというディスカッションである.
 Baugh and Cable の6章 "The Reestablishment of English, 1200--1500" を読んでいたところで,以下の節のタイトルを「英語復権にプラス・マイナスに貢献した要因」として掲げ,みなで各要因の効き具合を議論した上で,最強の要因を決定するという趣旨だった.様々な意見が出て,なかなかおもしろかった.

 94. The Loss of Normandy
 95. Separation of the French and English Nobility
 96. French Reinforcements
 97. The Reaction against Foreigners and the Growth of National Feeling
 98. French Cultural Ascendancy in Europe
 100. Attempts to Arrest the Decline of French
 101. Provincial Character of French in England
 102. The Hundred Years' War
 103. The Rise of the Middle Class

 英語の復権にプラスに作用した要因としては 94, 95, 97, 101, 102, 103 が挙げられ,議論の対象となった.一方,英語の復権にマイナスに働いた要因(あるいは相対的にフランス語の威信の高揚に作用した要因)としては 96, 98, 100 が指摘された.「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1]) でも取り上げたようにこの評価はもっともなのだが,そこに様々な意見が飛び交うのがおもしろい.
 たとえば,「96. French Reinforcements」では,Henry III がフランス人とフランス語を重用し,相対的に英語を軽視したという記述がみられるが,「#2567. 13世紀のイングランド人と英語の結びつき」 ([2016-05-07-1]) でも述べたように,むしろその後の反動「98. French Cultural Ascendancy in Europe」を考えれば,英語復権のための呼び水になったともいえ,間接的には英語復権にとってプラスに作用したと穿った解釈をすることもできる.
 また,2歩進んで1歩下がるかのような数世紀にわたる緩慢な英語復権の歩みに関して,一連の要因の皮切りである「94. The Loss of Normandy」が起こらなかったあら,そもそも英語の復権が緒に就くことはなかったという点で,これこそが最重要という見方も出る一方で,むしろ一連の要因の締めくくりである「102. The Hundred Years' War」が最重要という意見も飛び出した.さらに,地味ではあるが「103. The Rise of the Middle Class」が決定的ではないかという見解も出た.参加者それぞれが一家言もっているようで,実に楽しい議論となった.
 各要因の効き具合を検討するということは,その要因がなかったら英語の復権はならなかった(あるいは遅れた)のではないかという可能性を考察するということであり,すなわち「歴史の if」のシミュレーションでもある.しばしば妄想が入り込むにせよ,英語史においても「歴史の if」の思考実験は必要であると実感した.
 「歴史の if」については「#3097. ヤツメウナギがいなかったら英語の復権は遅くなっていたか,早くなっていたか」 ([2017-10-19-1]),「#3108. ノルマン征服がなかったら,英語は・・・?」 ([2017-10-30-1]) の記事も参照.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

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2019-11-23 Sat

#3862. 「アレクサンドロスの大征服」の意義の再評価 [history][writing][greek][koine][lingua_franca]

 昨日の記事「#3861. 「モンゴルの大征服」と「アラブの大征服」の文字史上の意義の違い」 ([2019-11-22-1]) に引き続き,文字史の観点から世界史を描いた鈴木 (73--75) より,今回は「アレクサンドロスの大征服」の意義について触れられている箇所を引用する.

 アレクサンドロスの遠征はしばしば「空前の大遠征」といわれ,その帝国も「空前の世界帝国」といわれる.
 確かにマケドニア,ギリシア側からみれば「空前の世界帝国」かもしれないが,ペルシア側からみれば,アケメネス朝ペルシア帝国の版図にわずかにマケドニアとギリシアが加わったに過ぎない.この「大征服」の眼目は,まさに「小が大を呑んだ」ことになるのである
....
〔中略〕
....
 さて,アレクサンドロスの東征の「成果」についても,この大遠征がヘレニズムの文明を生み出し,征服地でギリシア文明が普及し,その影響はさらに遥か東方まで及んだとされている.
 確かにアレクサンドロスの帝国内では,いくつものアレクサンドリアをはじめ,多くのギリシア風都市が建設され,ギリシア的要素をもつ文化が生まれ,少なくとも一時期はギリシア語も痕跡を残した.また東西が融合した文化が生まれ,とりわけ西方で一時代をなしたのも事実である.
 ここで我々の「文化」と「文明」の概念に照らしてみれば,「文化」のうえでは東方に確かに刻印を残した.しかしその影響が持続し,定着したとはいいがたいのではないか.
 「文明」についてみれば,後代のギリシア・ローマ世界の人間の目,また「ヘレニズム」の概念を創案した一九世紀西欧人の目をもってすると,ギリシアの「文明」が東方に大きな影響を与え,大きな発展に役立ったとみえたかもしれない.
 だがそれは,ギリシアの「文明」が東方の「文明」に対し遥かに高いものであるとの固定観念によるところが大であったように思える.実際には,希臘文明の「東漸」もさることながら,東方文明の「西漸」こそ,問題とされるべきではなかろうか.


 「アレクサンドロスの大征服」により東方でも一時的にギリシア語のコイネーがリンガ・フランカとして機能したことは事実だが,その後代への影響がどれだけ持続したかという観点からみると,その意義は言われているほど著しいものではない,という評価である.
 昨日の記事で取り上げた2つの征服と合わせて考えると,文字・言語史上の意義という点に関しては,「アラブの大征服」>「アレクサンドロスの大征服」>「モンゴルの大征服」ということになろうか.

 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-11-22 Fri

#3861. 「モンゴルの大征服」と「アラブの大征服」の文字史上の意義の違い [history][writing][religion][arabic]

 鈴木 (149) が標題の2つの世界史上の大征服を比較し,次のように評している.

 七世紀中葉から八世紀中葉の一世紀間に進行した「アラブの大征服」では,その征服地中,イベリアを除く殆どすべてが,一四〇〇年余をへた今日でもイスラム圏に属し,少なくとも一九〇〇年頃まではそのすべてが「アラビア文字圏」にとどまった.それに対してモンゴル帝国の場合は,モンゴル語も,またモンゴル文字も定着せず,モンゴル文化も,極めて断片的にしか痕跡が認められない.このこともまた,念頭におく必要があろう.
 確かに「モンゴルの大征服」は,その覆った空間としては,まさに世界史上最大の征服活動であった.しかし,この活動はモンゴル人の機動力と瞬発力という軍事的「比較優位」により「津波」のように広がりはしたが,その支配は各地域の在地のシステムの上にのったものであり,定着化しうる「支配組織」を形成するには至らなかったし,また文化的側面においても,浸透し同化させていくだけの文化的核をつくり出せなかったのではあるまいか.


 別の箇所 (74) でも,同趣旨の主張がなされている.

「モンゴルの大征服」とちがうところは,「アラブの大征服」で征服された空間のうち,のちにキリスト教徒のレコンキスタで奪回されたイベリア半島を除けば,ほぼすべてがムスリム(イスラム教徒)の支配下に残ったことである.そこではイスラムが定着し,その聖典『コーラン』のことばであるアラビア語が共通の文化・文明語として受容され,その文字たるアラビア文字が,母語を異にする人々にも受容された.さらにモロッコからシリアにいたるローマ帝国の南半では,住民の大多数がアラビア語を母語として受けいれ,アラブ圏の中核地域になりさえしたのである.


 2つの大征服(およびその他の世界史上の大征服)は様々な観点から比較し得るが,文字史の観点からみると,確かに著しい違いがみられる.実際には文字のみならず言語,宗教,民族などの要素が絡み合わざるを得ない複合的な観点というべきだが,「文字」は2つの大征服を読み解くための鮮やかな補助線となっているように思われる.

 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-11-12 Tue

#3851. 帝国主義,動物園,辞書 [history][linguistic_imperialism][lingua_franca][lexicography]

 出口治明の『「全世界史」講義 I 古代・中世編』を読んでいて,「#3603. 帝国主義,水族館,辞書」 ([2019-03-09-1]),「#3767. 日本の帝国主義,アイヌ,拓殖博覧会」 ([2019-08-20-1]) で取り上げた話題と同趣旨の言及をみつけた.帝国というものは,世界中の生き物の収集に凝るのと同様に,(過去の)言葉の収集にも凝るものだという内容だ.

世界最古のシュメールの都市国家群を滅ぼして,メソポタミア地方全域からアナトリア半島西部まで遠征したのが,アッカド王サルゴンでした.メソポタミアで初の統一国家,アッカド帝国が出現したのです.BC二三三四年のことでした.
 アッカドは史上初の帝国となりました.なお本書では,複数の異なる言語を話す民族を統合した政権を,慣用に従って帝国と呼びます.アッカドとシュメールは南北に隣同士ですが,言語も民族も異なっていました.
 帝国にとって何が必要かといえば,共通語です.これがないと国の統一ができません.ここでリンガ・フランカ(共通語)という概念が出てきます.こうしてアッカド語が,人類最初の共通語になりました.
 さて,サルゴンは,当時の最先進地域を統一しただけに,多くのエピソードを残しています.粘土板の記述によると,サルゴンは世界で初めて動物園をつくり,そこにはインダス川の水牛もいたそうです.なぜ動物園をつくったのかについては,次のように考えられています.
 言語が異なる民族を征服して,統一帝国をつくったということは,すべての人間を支配したことを意味します.すべての人間を支配すると,次はすべての生き物を支配しようと思い立ち,動物園をつくる.さらに進むと過去もすべて支配したいと思い,文物の収集へと至ります.アッシリア王は大図書館をつくり,中国・清の康煕帝は『康煕字典』という空前の大漢字辞書をつくる.ナポレオンのルーブルや大英帝国の大英博物館も,すべて同様の意志から生まれています.サルゴンは,まさにその先鞭をつけたのです.(32)


 収集は支配の証ということか.すると,収集癖は支配マニアということになる.その考え方によると,ある言語の単語を収集し,整理し,提示することを目的とする辞書学 (lexicography) は,言語(とそれを用いる人々)を支配する方法を追究する分野ということになる!?

 ・ 出口 治明 『「全世界史」講義 I 古代・中世編』 新潮社,2016年.

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2019-11-02 Sat

#3841. Whitby の宗教会議(664年)の英語史上の意義 [history][christianity][norman_conquest]

 英語史関連の年表を眺めていると,たいてい標記の Whitby の宗教会議 (Synod of Whitby) が項目として挙げられている(以下の記事の年表を参照).

 ・ 「#1419. 橋本版,英語史略年表」 ([2013-03-16-1])
 ・ 「#2526. 古英語と中英語の文学史年表」 ([2016-03-27-1])
 ・ 「#2562. Mugglestone (編)の英語史年表」 ([2016-05-02-1])
 ・ 「#2871. 古英語期のスライド年表」 ([2017-03-07-1])
 ・ 「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1])
 ・ 「#3624. 安藤貞雄『英語史入門』の英語史年表」 ([2019-03-30-1])

 この宗教会議は,どのような会議だったのか.『英米史辞典』 によると次の通りである.

Whitby, Synod of 〔英〕 ホイットビー教会会議 663/664年,ノーサンブリア (Northumbria) 王オズウィ (Oswy) により,領内のホイットビー(現在はノース・ヨークシャーの沿岸都市)で,宗教問題解決のために開かれた会議.ノーサンブリアではケルト教会 (Celtic Church) 系のキリスト教会が先に広まり,遅れてローマ教会系のキリスト教が伝わったが,それとともに,両者の軋轢が強まった.特に,復活祭 (Easter) の日取りそのほかをめぐって対立が目立つようになり,ノーサンブリア教会としてはどちらの教会のしきたりを採用するべきかを決定する必要に迫られた.その結果,この会議が招集され,ケルト教会側はリンディスファーン (Lindisfarne) 司教コールマン (Coleman),ローマ教会側はウィルフリッド (Wilfrid) が代表となって論戦を展開したが,結局,オズウィの支持により,ローマ教会方式の採用が決定した.これを機に,ケルト教会が有力であったアングロ・サクソン諸国もノーサンブリアの例にならい,8世紀中にはウェールズ・スコットランド・アイルランドの教会もローマ教会を受け入れた.この会議は,ブリテン島やアイルランドのキリスト教がローマ教会により統一され,ヨーロッパ大陸の教会と一体化する契機を作った.


 Whitby の宗教会議の歴史的な意義は,引用の最後にも述べられているとおり,ブリテン諸島を大陸側へグイッと引きつけた点にある.これを契機に,北方の海・島の文化圏が南方の大陸の文化圏へ接近することになった.664年とは,ブリテン諸島がある意味で北から南へと旋回した象徴的な年なのである.それからほぼ400年後,1066年のノルマン征服により,その北から南への旋回はスピードを増すことになった.
 英語史の観点から考えてみよう.ノルマン征服の英語史上の意義は,つとに知られている (cf. 「#2047. ノルマン征服の英語史上の意義」 ([2014-12-04-1]),「#3107. 「ノルマン征服と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-29-1])) .端的にいえば,フランス語(およびラテン語)からの影響が強まったということだ.これは言語学的な意味での「北から南への旋回」である.しかし,その旋回の下準備として4世紀前の Whitby の宗教会議があったと解釈すると,俄然この会議の存在が重くみえてくる.あくまで間接的な意義というべきものだが,英語史的にも象徴的な会議だったといえそうだ.

 ・ 松村 赳・富田 虎男 『英米史辞典』 研究社,2000年.

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2019-10-31 Thu

#3839. 文字を統一した漢字世界と,文字を多様化させた梵字世界 [writing][history]

 連日,鈴木董(著)『文字と組織の世界史』を参照している.鈴木 (52)は,5つの文字世界のうちの2つ,中国を中心とする漢字世界とインドを中心とする梵字世界が,対照的な歴史をたどってきたことを指摘している.漢字世界では秦の始皇帝により書体の統一がなされ,後代にも大きな影響があったが,梵字世界ではむしろ地域ごとに書体が多様化していったという事実だ.

 始皇帝は集権的支配組織の祖型を創出しただけでなく,貨幣と度量衡のみならず,甲骨文字から金文をへて篆書へと発展してきたが,長い政治的分裂のなかで多様化しつつあった漢字の書体をも統一し,そのうえでより書きやすい実務用の隷書が生まれた.
 始皇帝による漢字の統一は,その後さらなる書体の変化と文化を伴いながらも後代にまで保たれ,共通の諸書体の漢字が周辺諸社会へと普及し受容されていくなかで「漢字世界」が形成されていった.これはブラフミー文字を起源としながら,このような政治的統一の下での書体の統一をみなかったインドを中心とする「梵字世界」において,非常に異なる書体が地域ごとに分立したのとは好対照をなした.


 この中国とインドの文字のあり方に関する差異について,鈴木 (53--54) は,異文化世界をも視野に入れた世界秩序観の有無という点に帰しているようだ.これは,統一された文字の強力な政治的ポテンシャルに気付いていたか否かという違いにも近いように思われる.

〔前略〕中国においては,春秋戦国時代にみられた.同文化世界としての「華」のなかにおける「敵国(対等の政治単位)」間の「盟」を中心とする政治体間の関係のイメージは失われ,華と夷の非対等の関係に基礎をおく「華夷秩序観」が定着していった.これも,同文化世界内では分裂が常態化した「梵字世界」の中心をなすインドでは,同文化世界内での政治体間の関係に関心が集中し,異文化世界の政治体との関係についての体系的な世界秩序観が欠落しているかにみえるのとは,対照的であった.


 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-10-30 Wed

#3838. 「文字を有さずとも,かなり高度な文明と文化をつくり上げることは可能」 [writing][history][medium]

 昨日も紹介した鈴木董(著)『文字と組織の世界史』より,標記の話題について.通常,文字と文明とは切っても切れない関係にあると認識されており,「有文字社会はすなわち文明社会」という等式が広く受け入れられているように思われる.しかし,その裏返しとしての「無文字社会はすなわち非文明社会」という等式は常に成り立つのだろうか.
 鈴木 (27) は,無文字社会に対する有文字社会の比較優位は疑いえないとしつつも,無文字社会が常に非文明的なわけではないことを主張している.

 言語の発展は,これを可視的に定着する媒体としての文字をもったとき,まったく異なる段階に入ることとなる.
 ただし文字を有さずとも,かなり高度な文明と文化をつくり上げることは可能である.その格好な一例は「新世界」のインカ帝国である.
 ペルーを中心にチリからエクアドルにまで拡がる大帝国を建設し,壮麗なクスコやマチュピチュのような大都市をも造営したインカの人々は,数字を表わすキープ,すなわち「結縄文字」は有していたが,言語を可視的に定着する媒体としての体系的文字をもつことはついになかったようである.
 「旧世界」で顕著な例をとれば,ユーラシア中央部で活躍し,しばしば大帝国を建設した遊牧民たちである.文字を持つ周辺の諸文化世界を長らく脅かした遊牧民たちも,トルコ系の突厥帝国で八世紀に入り突厥文字が考案されるまで,文字をもたなかった.
 また広大なモンゴル帝国を築いたモンゴル人たちも,その帝国形成期には文字をもたず,一三世紀も後半に入ってからようやく,チベット文字をベースとするパスパ文字と,ウイグル文字をベースとするという二種の文字をもつようになったのである.ともすれば文字をもたずとも,インカ帝国,匈奴帝国,突厥帝国そしてモンゴル帝国のような,巨大な政治体を形成し維持することができたのは確かである.
 ....
 〔中略〕
 ....
 しかし,文字を媒体として膨大な情報量を蓄積しうるようになった社会が,次第に文明の諸分野において「比較優位」を占めるようになっていったことも疑いないであろう.ユーラシアの東西における定住的農耕民と移動的遊牧民の力関係が,最終的には前者の優位に帰結した一因もまた,ここにあったとみてよいであろう.


 この文章の力点は有文字社会の文明的優位性の主張にあるが,私はむしろ無文字社会が必ずしも非文明的であるわけではないという裏の主張のほうに関心があった.無文字社会と一言でくくっても,実はいろいろなケースがありそうである.この問題に関しては,以下の記事でも触れてきたのでご参照を.

 ・ 「#1277. 文字をもたない言語の数は?」 ([2012-10-25-1])
 ・ 「#2618. 文字をもたない言語の数は? (2)」 ([2016-06-27-1])
 ・ 「#2447. 言語の数と文字体系の数」 ([2016-01-08-1])
 ・ 「#3118. (無)文字社会と歴史叙述」 ([2017-11-09-1])
 ・ 「#3486. 固有の文字を発明しなかったとしても……」 ([2018-11-12-1])

 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-10-29 Tue

#3837. 鈴木董(著)『文字と組織の世界史』 --- 5つの文字世界の発展から描く新しい世界史 [writing][grammatology][religion][review][history]

 昨年出版された鈴木董(著)『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』は,文字の観点からみた世界史の通史である.一本の強力な筋の通った壮大な世界史である.文字,言語,宗教,そして統治組織という点にこだわって書かれており,言語史の立場からも刺激に富む好著である.
 本書の世界史記述は,5つの文字世界の歴史的発展を基軸に秩序づけられている.その5つの文字世界とは何か.第1章より,重要な部分を抜き出そう (19--20) .

〔前略〕唯一のグローバル・システムが全世界を包摂する直前というべき一八〇〇年に立ち戻ってみると,「旧世界」のアジア・アフリカ・ヨーロッパの「三大陸」の中核部には,五つの大文字圏,文字世界としての文化世界が並存していた.
 すなわち,西から東へ「ラテン文字世界」,「ギリシア・キリル文字世界」,「梵字世界」,「漢字世界」,そして上述の四つの文字世界の全てに接しつつ,アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがって広がる「アラビア文字世界」の五つである.「新世界」の南北アメリカの両大陸,そして六つ目の人の住む大陸というべきオーストラリア大陸は,その頃までには,いずれも西欧人の植民地となりラテン文字世界の一部と化していた.
 ここで「旧世界」の「三大陸」中核部を占める文字世界は,文化世界としてとらえなおせば,ラテン文字世界は西欧キリスト教世界,ギリシア・キリル文字世界は東欧正教世界,梵字世界は南アジア・東南アジア・ヒンドゥー・仏教世界,漢字世界は東アジア儒教・仏教世界,そしてアラビア文字世界はイスラム世界としてとらええよう.そして,各々の文字世界の成立,各々の文化世界内における共通の古典語,そして文明と文化を語るときに強要される文明語・文化語の言語に用いられる文字が基礎を提供した.
 すなわち西欧キリスト教世界ではラテン語,東欧正教世界ではギリシア語と教会スラヴ語,南アジア・東南アジア・ヒンドゥー・仏教世界では,ヒンドゥー圏におけるサンスクリットと仏教圏におけるパーリ語,東アジア儒教・仏教世界では漢文,そしてイスラム世界においてはアラビア語が,各々の文化世界で共有された古典語,文明語・文化語であった.


 5つの文字世界の各々と地域・文化・宗教・言語の関係は密接である.改めてこれらの相互関係に気付かせてくれた点で,本書はすばらしい.  *
 本ブログでも,文字の歴史,拡大,系統などについて多くの記事で論じてきた.とりわけ以下の記事を参照されたい.

 ・ 「#41. 言語と文字の歴史は浅い」 ([2009-06-08-1])
 ・ 「#422. 文字の種類」 ([2010-06-23-1])
 ・ 「#423. アルファベットの歴史」 ([2010-06-24-1])
 ・ 「#1849. アルファベットの系統図」 ([2014-05-20-1])
 ・ 「#1822. 文字の系統」 ([2014-04-23-1])
 ・ 「#1853. 文字の系統 (2)」 ([2014-05-24-1])
 ・ 「#2398. 文字の系統 (3)」 ([2015-11-20-1])
 ・ 「#2416. 文字の系統 (4)」 ([2015-12-08-1])
 ・ 「#2399. 象形文字の年表」 ([2015-11-21-1])
 ・ 「#1834. 文字史年表」 ([2014-05-05-1])
 ・ 「#2414. 文字史年表(ロビンソン版)」 ([2015-12-06-1])
 ・ 「#2344. 表意文字,表語文字,表音文字」 ([2015-09-27-1])
 ・ 「#2386. 日本語の文字史(古代編)」 ([2015-11-08-1])
 ・ 「#2387. 日本語の文字史(近代編)」 ([2015-11-09-1])
 ・ 「#2389. 文字体系の起源と発達 (1)」 ([2015-11-11-1])
 ・ 「#2390. 文字体系の起源と発達 (2)」 ([2015-11-12-1])
 ・ 「#2577. 文字体系の盛衰に関わる社会的要因」 ([2016-05-17-1])
 ・ 「#2494. 漢字とオリエント文字のつながりはあるか?」 ([2016-02-24-1])

 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-10-26 Sat

#3834. 『図説フランスの歴史』の年表 [timeline][history]

 先日の「#3828. 『図説フランスの歴史』の目次」 ([2019-10-20-1]) に引き続き,同書の巻末 (177--79) にある「フランス史略年表」を掲げたい.イギリス史の年表については,「#3478. 『図説イギリスの歴史』の年表」 ([2018-11-04-1]),「#3479. 『図説 イギリスの王室』の年表」 ([2018-11-05-1]),「#3487. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の年表」 ([2018-11-13-1]),「#3497. 『イギリス史10講』の年表」 ([2018-11-23-1]) を参照.

前9世紀頃ケルト人,ガリアへ移住
BC121ローマ軍,ガリア南部を征服
BC52カエサル,ガリア全土を征服
372トゥールのマルティヌス,マルムティエ修道院を設立
418西ゴート族,アキテーヌ地方に定住
476西ローマ帝国滅亡
486ソワソンの戦い.クローヴィス,メロヴィング朝を開く
496トルビアックの戦い.クローヴィス,カトリックに改宗
575頃トゥール司教グレゴリウス『フランク人の歴史』
732トゥール・ポワティエ間の戦い.カール・マルテル,イスラム勢力を撃破
751ピピン3世(小ピピン),カロリング朝を開く
800教皇レオ3世,シャルルマーニュを西ローマ皇帝に戴冠
843ヴェルダン条約,帝国の三分割
987パリ伯ユーグ・カペー,フランス王に即位.カペー朝始まる (--1328)
1154アンリ・プランタジネット,イングランド王に即位(ヘンリ2世).アンジュー帝国成立
1190フィリップ2世,第3回十字軍に出発
1202フィリップ2世,英王ジョンの大陸所領没収を宣言
1209教皇イノケンティウス3世,南仏のカタリ派を攻撃,アルビジョワ十字軍始まる
1214ブーヴィーヌの戦い
1226ルイ9世即位,母后ブランシュ・ド・カスティーユ摂政 (--34)
1229トゥルーズ伯降伏,アルビジョワ十字軍終わる
1248ルイ9世,第6回十字軍に参加
1270ルイ9世,第7回十字軍に出発.テュニスで病死
1302フィリップ4世,最初の全国三部会をパリにて招集
1303アナーニ事件,教皇ボニファティウス8世憤死
1305フィリップ4世,ボルドー大司教を教皇に擁立(クレメンス5世)
1307フィリップ4世,テンプル騎士団員を一斉逮捕
1309教皇クレメンス5世,教皇庁をアヴィニョンに移す
1328シャルル4世没,カペー朝断絶.フィリップ6世即位,ヴァロア朝の開始 (--1589)
1337百年戦争始まる
1348黒死病がフランス全土で流行
1358エティエンヌ・マルセルのパリ革命
1415英王ヘンリ5世,ノルマンディに上陸 (8.12) .アザンクールの戦い (10.25)
1420トロワの和約
1429ジャンヌ・ダルク,オルレアンを解放.シャルル7世ランスで戴冠
1431ジャンヌ・ダルク火刑
1453カスティヨンの戦い,百年戦争終了
1477ブルゴーニュ公シャルル突進公戦死,ブルゴーニュ公国解体へ
1494シャルル8世,イタリアへ侵入.イタリア戦争始まる (--1559)
1516ボローニャの政教協約
1525パヴィアの戦い,フランソワ1世捕虜に
1530フランソワ1世,王立教授団を創設
1534檄文事件.プロテスタントへの弾圧開始
1539ヴィレル・コトレ王令.公文書におけるフランス語使用,小教区帳簿の作成を義務づける
1559カトー・カンブレジ条約,イタリア戦争終了.アンリ2世没
1562ヴァシーでプロテスタントを虐殺,宗教戦争始まる (--98)
1572サン・バルテルミの虐殺
1576ギーズ公アンリ,カトリック同盟(リーグ)を結成
1589アンリ3世暗殺,ヴァロア朝断絶.アンリ4世即位,ブルボン朝始まる (--1792)
1593アンリ4戦,サン・ドニでカトリックに改宗
1594アンリ4世,シャルトルで成聖式.国王,巴里に入城
1598ナント王令
1604ポーレット法,官職の世襲・売買を年税の支払いを条件に公認
1624リシュリュー,宰相に就任
1629アレス王令,プロテスタントの武装権を剥奪
1630「欺かれた者たちの日」,マリ・ド・メディシス失脚
1635フランス,三十年戦争に参戦
1639ノルマンディで反税蜂起「ニュ・ピエ(裸足党)の乱」
1648フロンドの乱勃発 (--53)
1659ピレネー条約
1661マザラン没.ルイ14世,親政を開始
1665コルベール,財務総監に就任
1667パリに警視総監職を設置.フランドル戦争始まる (--68)
1672オランダ戦争始まる (--78)
1685ナント王令の廃止
1688アウクスブルク同盟戦争始まる (--97) .国王民兵制導入
1695カピタシオン(人頭税)導入
1701スペイン継承戦争始まる (--13)
1710ディジエーム(十分の一税)導入
1715ルイ14世没.ルイ15世即位,オルレアン公摂政
1720「ローのシステム」破綻
1733ポーランド継承戦争始まる (--35)
1740オーストリア継承戦争始まる (--48)
1756七年戦争始まる (--63)
1771大法官モプーによる司法改革
1775小麦粉戦争
1786カロンヌ,全身分を対象とする新たな税を提唱
1789国民議会成立 (6.17),封建制の廃止 (8.4),人権宣言 (8.26),ヴェルサイユ行進 (10.5)
1790聖職者民事基本法
1791ヴァレンヌ事件 (6.20),「1791年憲法制定」 (9.3)
1792オーストリアに宣戦布告 (4.20),8月10日事件(王権の停止),ヴァルミの戦い (9.20),共和制の開始 (9.21)
1793ルイ16世処刑 (1.21),山岳派独裁,恐怖政治,総最高価格法 (9.29)
1794テルミドールの反動 (7.27),山岳派失脚
1796ナポレオン,イタリア遠征
1799ブリュメール18日のクーデタ.ナポレオン,政権を掌握
1800フランス銀行設立
1804ナポレオン法典(民法典).ナポレオン,皇帝に即位
1806ベルリン勅令(大陸封鎖令)
1814ナポレオン,皇帝を退位.エルバ島へ.ルイ18世パリに帰還
1815ナポレオン「百日天下」
1824ルイ18世没,シャルル10世即位
1830七月革命,ルイ・フィリップ即位(七月王政の開始)
1847最初の「改革宴会」
1848二月革命勃発 (2.23),第二共和制の成立,ルイ・ナポレオン大統領に (12.10)
1852ルイ・ナポレオン,皇帝に即位.第二帝政 (--70)
1855第1回パリ万国博覧会開催 (--56)
1870普仏戦争勃発,第二帝政崩壊
1871パリ・コミューン
1881--82ジュール・フェリー法制定.初等教育の無償・義務化
1884ヴァルデック・ルソー法制定.労働組合を合法化
1889ブーランジェ事件
1898ゾラ,「私は弾劾する」
1901結社法制定
1905政教分離法,反教権主義が確立
1914第一次世界大戦勃発
1918コンピエーニュの森で連合軍とドイツとの休戦協定
1919ヴェルサイユ条約調印
1924フランス,ソ連を承認
1928ケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)締結
1933スタヴィンスキー事件(金融スキャンダル).右翼の攻撃強まる
1936ブルム人民戦線内閣成立
1939第二次世界大戦勃発
1940パリ陥落 (6.14),ヴィシー政権成立 (7.10),ユダヤ人排斥法 (10.3)
1943ジャン・ムーラン,レジスタンス全国評議会 (CNR) 結成.国内のレジスタンスの統一
1944パリ解放 (8.25).ドゴール臨時政府成立 (9.9)
1945婦人参政権採択
1947マーシャル・プランに参加
1954ディエン・ビエン・フー陥落 (5.7) .ヴェトナムより撤退.アルジェリア戦争始まる (11.1)
1957ヨーロッパ経済共同体 (EEC) 条約調印
1958アルジェリアでコロンと軍の反乱 (5.13),ドゴール内閣成立 (6.1),第五共和制開始.ドゴール,大統領に当選 (12.21)
1962エヴィアン協定.アルジェリア戦争終結
1966フランス,NATO の軍事機構から脱退
1967ヨーロッパ共同体 (EC) 成立
19685月革命
1969ドゴール,大統領を辞任 (4.28) .ポンピドゥーが大統領に
1974ジスカールデスタン,大統領に当選
1981ミッテラン,大統領に当選
1986シラク,首相に就任.保革共存政権(コアビタシオン)成立
1992ヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)に調印
1993EU 成立
1995シラク,大統領に当選
1999EU 単一通貨「ユーロ」導入
2003イラク戦争に反対,派兵せず
2005国民投票で EU 憲法拒否,パリ郊外暴動事件
2007サルコジ,大統領に当選
2012オランド,大統領に当選


 ・ 佐々木 真 『図説フランスの歴史』増補新版 河出書房新社,2016年.

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2019-10-20 Sun

#3828. 『図説フランスの歴史』の目次 [toc][hfl][french][history]

 英語史を学ぶ上で間接的ではあるが非常に重要な分野の1つにフランス史がある.今回は,図解資料を眺めているだけで楽しい『図説フランスの歴史』の目次を挙げておきたい.ちなみにイギリス史の目次については「#3430. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の目次」 ([2018-09-17-1]) を参照.目次シリーズ (toc) の記事も徐々に増えてきた.



  第1章 ローマとフランク王国
    1. ローマン・ガリア
    2. フランク王国
    3. ガリア地方とキリスト教
  第2章 カペー朝の成立
    1. 「暗黒の世紀」
    2. カペー朝の成立
  第3章 フランス王国の発展
    1. フィリップ二世
    2. ルイ九世
    3. フィリップ四世とローマ教皇との戦い
    4. 社会の変化
    5. キリスト教徒ゴシック美術
  第4章 百年戦争とヴァロア朝
    1. 百年戦争
    2. 近代国家への胎動
    3. 封建制の危機
  第5章 ルネサンス王政
    1. イタリア戦争
    2. ルネサンス
    3. 宗教改革とフランス
  第6章 宗教戦争とブルボン朝の成立
    1. 宗教戦争
    2. ブルボン朝の成立
    3. アンリ四世の政治
  第7章 絶対王政の輝き
    1. ルイ一三世と主権国家
    2. ルイ一四世
    3. フランス絶対王政
    3. 王の栄光
  第8章 一八世紀の政治と文化
    1. ルイ一五世からルイ一六世
    2. 啓蒙思想
    3. 文化の変容
  第9章 フランス革命とナポレオン
    1. フランス革命
    2. ナポレオン
    3. フランス革命の構造
    4. 革命の遺産
  第10章 一九世紀のフランス
    1. 復古王政
    2. 七月王政
    3. 二月革命と第二共和制
    4. 第二帝政
    5. 産業化とブルジョワの支配
    6. 民衆世界の変貌
  第11章 第三共和政の成立
    1. パリ・コミューンと第三共和政の成立
    2. フランスにおける国民国家の形成
    3. 結社法と政教分離法
  第12章 現代のフランス
    1. 第一次世界大戦の衝撃
    2. 世界恐慌と人民戦線
    3. 第二次世界大戦とレジスタンス
    4. 戦後のフランス
    5. 激動の世紀末
    6. 二一世紀のフランス
    7. フランスの経験と日本



 ・ 佐々木 真 『図説フランスの歴史』増補新版 河出書房新社,2016年.

Referrer (Inside): [2019-10-26-1]

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2019-10-16 Wed

#3824. イギリス史・英語史は諸民族・諸言語が作り上げてきた織物 [history][hel_education][contact]

 「#37. ブリテン島へ侵入した5民族の言語とその英語への影響」 ([2009-06-04-1]) でみたように,1066年までの「イギリス史」においては,少なくとも5回の異民族の渡来が起こっている.ケルト人,ローマ人,アングロ・サクソン人,デーン人,ノルマン人である.各々の背後にあった言語は,ケルト語,ラテン語,英語,古ノルド語,ノルマン・フランス語である.イギリス史・英語史の前半は,これらの諸民族・諸言語が織りなす複雑な物語といってよい.イギリス史の編著者である川北 (17) が次のように述べている.

 ケルト期からノルマン期までの「イギリス」史を特徴づける点として異民族の接触をあげることができる.あらたな民族が渡来した際には征服・侵略活動がおこなわれる.しかし,その後の支配体制としては,先住民族をあらたな渡来民族が上から支配している重層的関係とともに,地理的な先住民との住み分けや共存関係がみられた.「ローマン=ブリティッシュ」「アングロ=ブリティッシュ」「アングロ=デーニッシュ」「アングロ=ノルマン」体制という場合に,それら両方の関係が示唆されていることに注意すべきである.
 外民族の侵入は,各時代のブリテン島の民族構成を大きく変化させた.あらたな文化の創造も,侵入・移住してきた外民族の存在をぬきにしては語れない.民族の変化は,政治や宗教も含む大きな社会的転換を引き起こす可能性をもっていた.また,すべての民族の活動があって「イギリス」の成立があるのであり,特定の民族活動のみが重要であるというわけではない.


 引用にある「先住民族をあらたな渡来民族が上から支配している重層的関係」を「縦糸」とみなし,「地理的な先住民との住み分けや共存関係」を「横糸」とみなせば,イギリス史は,様々な種類の糸で織られた織物といえるだろう.そして,これはほぼそのままに英語史にも当てはまるように思われる.
 縦糸と横糸の絡み合いを表わす「ローマン=ブリティッシュ」などの複合的な用語を,フルに展開した用語を時代順に与えてみた.

段階川北の用語長く展開してみた用語
1(ブリティッシュ)British (language)
2ローマン=ブリティッシュRoman-British (language)
3アングロ=ブリティッシュAnglo-Roman-British (language)
4アングロ=デーニッシュDanish-Anglo-Roman-British (language)
5アングロ=ノルマンNorman-Danish-Anglo-Roman-British (language)


 英語史の始まりは第3段階以降ということになるが,それ以前に作られていた下地の上にさらに織り上げられていったものとみるならば,英語は少なく見積もっても "Norman-Danish-Anglo-Roman British language" と呼ぶべき織物といえるだろう.

 ・ 川北 稔 「第一章 『イギリス』の成立」『イギリス史』川北 稔(編),山川出版社,1998年.16--53頁.

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2019-10-12 Sat

#3820. なぜアルフレッド大王の時代までに学問が衰退してしまったのか? [history][oe][alfred][anglo-saxon]

 昨日の記事「#3819. アルフレッド大王によるイングランドの学問衰退の嘆き」 ([2019-10-11-1]) で話題にしたように,9世紀後半のアルフレッド大王の時代(在位871--99年)までに,イングランドの(ラテン語による)学問水準はすっかり落ち込んでしまっていた.8世紀中には,とりわけ Northumbria から Bede や Alcuin などの大学者が輩出し,イングランドの学術はヨーロッパ全体に威光を放っていたのだが,昨日の記事で引用したアルフレッド大王の直々の古英語文章から分かる通り,その1世紀半ほど後には,嘆くべき知的水準へと堕していた.
 その理由の1つは,ヴァイキングの襲来である.793年に Lindisfarne が襲撃されて以来,9世紀にかけて,イングランドでは写本の制作が明らかに減少した.イングランドの既存の写本も多くが消失してしまい,大陸へ避難して保管された写本もあったが,それとてさほどの数ではない.写本がなければ,イングランドの学僧とて学ぶことはできないし,ラテン語力を維持することもできなかった.全体として学問水準が落ち込むのも無理からぬことだった.
 もう1つの理由は,ヴィアキングの襲来以前に,イングランドの頭脳が大陸に流出してしまったということがある.碩学 Alcuin (c732--804) がシャルルマーニュの筆頭顧問として仕えるべく大陸へ発ってしまうと,Northumbria の学問にはっきりと衰退の兆候が現われた.1人の重要人物の流出によって大きなダメージがもたらされるというのは,古今東西の人事の要諦だろう.
 およそ同時代,イングランド出身でゲルマン人に布教した Boniface (680?--754?) が学問のある貴顕とともにドイツへと発ってしまった結果,Southumbria の学術水準もはっきりと落ち込んだ.すでに8世紀中に,イングランド中で学問衰退の傾向が現われていたのである.そこへヴァイキング襲撃という,泣きっ面に蜂のご時世だったことになる.

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2019-09-25 Wed

#3803. 大英帝国の「大」と「英」 [japanese][history][terminology]

 the British Empire は伝統的に「大英帝国」と訳されてきた.同様に the British Museumthe British Library も各々「大英博物館」「大英図書館」と訳されてきた.英語表現には「大」に相当するものはないし,「英」についても本来は English の語頭母音の音訳に由来するものであり,British とは関係しないので,訳語が全体的にずれている感じがする(「#1145. EnglishEngland の名称」 ([2012-06-15-1]),「#1436. EnglishEngland の名称 (2)」 ([2013-04-02-1]),「#2250. English の語頭母音(字)」 ([2015-06-25-1]),「#3761. ブリテンとブルターニュ」 ([2019-08-14-1]) を参照).
 日本語で「イギリス」「英国」と呼びならわしているあの国を指し示す表現が,日本語においても英語においても,歴史にまみれて複雑化していることはよく知られているが,こと日本語の「大」「英」という訳語は,それ自体が特殊な価値観を帯びている.近藤 (6--7) に次のような論評がある.

 連合王国について,慣用で「イギリス」「英国」という名が普及している.この起源は一六―一七世紀の東アジア海域で用いられたポルトガル語・オランダ語なまりの「アンゲリア」「エンゲルス」あるいは「エゲレス」であった.アンゲリアには「諳厄利亜」,エゲレスには「英吉利」「英倫」といった漢字が当てられた.一九世紀後半,すなわち幕末・明治になると諳厄利亜や諳国・諳語は用いられなくなり,英吉利・英国・英語が定着した.「諳」や「厄」と対照的に,「英」という漢字は,花,精華,すぐれ者を意味し,英国といった場合,その優秀さが含意されていた.これはたかが漢字表記の問題にすぎないが,しかしまた,一つの価値観の受容でもある.〔中略〕
 なお大英帝国,大英博物館といった日本語表記も普及しているが,もとの British Empire, British Museum のどこにも「大」という意味はない.にもかかわらず日本語として定着したのは,イギリス帝国を偉大と考え,「大日本帝国」の模範,あるいは文明の表象として寄り添おうとした,明治・大正・昭和の羨望と事大主義のゆえだろうか.こうしたバイアスのあらわな語は引用する場合にしか使わず,本書では英吉利帝国,英国博物館としよう.


 現在,多くの日本人は「大英語」という呼称こそ用いていないが,心理的には英語を「大英語」としてとらえているいるのではないか.味気ないが中立的な日本語の呼称として「イングリッシュ」があってもよいかもしれない.

 ・ 近藤 和彦 『イギリス史10講』 岩波書店〈岩波新書〉,2013年.

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2019-09-19 Thu

#3797. アングロサクソン七王国 [anglo-saxon][history][map][oe][heptarchy]

 アングロサクソン七王国 (The Anglo-Saxon Heptarchy) とは5--9世紀のイングランドに存在したアングロサクソンの7つの王国で Northumbria, Mercia, Essex, East Anglia, Wessex, Sussex, Kent を指す.5世紀を中心とするアングロサクソンのブリテン島への渡来に際して,主としてアングル人が Northumbria, Mercia, East Anglia に入植し,サクソン人が Essex, Wessex, Sussex に, ジュート人が Kent に各々入植したのが,諸王国の起源である.互いに攻防を繰り返し,6世紀末には七王国が成立したが,800年頃までには Northumbria, Mercia, East Anglia, Wessex の4つへと再編され,最終的には9--10世紀にかけて Wessex が覇権を握り,その下でアングロサクソン(イングランド)王国が統一されるに至った.
 七王国時代には,時代によって異なる王国が覇を唱えた.7世紀から8世紀前半にかけては Northumbria が覇権を握り,Bede, Alcuin などのアイルランド系キリスト教の大学者も輩出した(「ノーサンブリア・ルネサンス」と呼ばれる).8世紀後半から9世紀初めにかけては,Mercia に Offa 王が現われ,海外にも名をとどろかせるほどの隆盛を誇った(「マーシアの覇権」).Offa は銀貨も鋳造し,イングランド統一に近いところまでいった.また,ウェールズとの国境を画する「オッファの防塁」 (Offa's Dyke) もよく知られている.しかし,Mercia の覇権は続かず,9世紀が進んでくると Wessex の宗主権の下に入ることになった.
 9世紀後半にかけてヴァイキングの侵攻が激化してくると,王国は次々と独立を失い,形をとどめたのはアルフレッド大王の Wessex のみとなってしまった.Wessex を守り抜いた大王とその子孫は,9世紀末から10世紀にかけてイングランドの他の領域にも影響力を行使し,事実上のイングランド統一を果たしていった.
 このように,アングロサクソン七王国は,内圧と外圧によりその分立が徐々に解消されていき,ついにはアングロサクソン(イングランド)王国へと発展していった.この時代のもう少し詳しい年表については,「#2871. 古英語期のスライド年表」 ([2017-03-07-1]),「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1]) を参照.
 指 (13) の「アングロ・サクソン七王国」と題する地図を掲げておこう.実際には明確な国境があったわけではなく,それぞれの勢力圏は流動的だったことに注意しておきたい.

Map of the Anglo-Saxon Heptarchy

 ・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.

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2019-09-18 Wed

#3796. ゲルマン人の移動とケルト人の移動 [anglo-saxon][celtic][history][map]

 5世紀のアングロサクソンのブリテン島への渡来は「ゲルマン民族の大移動」 (Volkerwanderung) の一環としてよく知られているが,それと同時期に生じていたケルトの移動については特に名称も与えられておらず,印象が薄い.実は,ブリテン諸島のケルト人は,アングロサクソンの渡来と前後する4--8世紀のあいだ,なかなか活動的だったのである.4--5世紀にはアイルランドからスコットランド西岸やウェールズ西岸への移住がみられたし,4--8世紀のあいだにはブリテン島南西部から海峡を南に越えてブルターニュ半島へも人々が渡っていた(後者については「#734. pandaBritain」 ([2011-05-01-1]) と「#3761. ブリテンとブルターニュ」 ([2019-08-14-1]) を参照).
 従来,アングロサクソンがブリテン島に押し入ってきたことにより,ケルトが周辺部に追いやられたと考えられてきた.しかし,ケルトは実際にはアングロサクソンがやってくる以前から様々な動きを示していたのである.指 (12--13) は次のように述べている.

 従来,アングロ・サクソン人は,先住のケルト人を,西ではウェールズ(サクソン人の言葉で「外国人の土地」を意味する)やコーンウォール,北方では高地スコットランド地方といった辺境へ追いやったと考えられてきた.しかし,ゲルマン人の活動が盛んであった五世紀の前後,イギリス諸島のケルト人の動きも活発であったことを忘れてはならない.すでに四世紀にはアイルランドのスコット人がブリテン島北西部に移住し,先住のピクト人を統合するかたちで後のスコットランドを形成することになったし,一部のアイルランド人はウェールズにも渡った.ウェールズなどブリテン島西南部のブリトン人も,四〜八世紀に,海を渡ってブルターニュ半島に定着,王国を形成した.イギリス諸島の西と東とでともに大きな人々の動きが見られたのである.
 しかも近年では,イングランドからもケルト系先住民が完全に放逐されたわけではなく,先のケルト人が多数を占める先住民と融合していたように,実際には共住もしていたことが,考古学の発見によって明らかにされてきている.アングロ・サクソンの人口はケルト人を凌駕するものではなかったようだが,この過程で,優勢であったアングロ・サクソンの文化が定着し,英語が使用されるなど,イングランド地域からケルト文化が駆逐されていったことも,また確かである.


 「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1]) のような地図に,ケルトの移動も組み合わせた別の地図(指, p. 12 より)を示そう.

Volkerwanderung of the Anglo-Saxons and Celts

 近年,従来のアングロサクソンの「電撃的な圧勝」という説ではなく,ケルトとの共生を想定する,穏やかな説が聞かれるようになってきている.これについては「#3113. アングロサクソン人は本当にイングランドを素早く征服したのか?」 ([2017-11-04-1]) の記事や,そこからのリンク先の記事を参照.

 ・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.

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2019-09-08 Sun

#3786. ローマン・ブリテンの略年表と地図 [roman_britain][timeline][history][map]

 「#3784. ローマン・ブリテンの言語状況 (1)」 ([2019-09-06-1]) と「#3785. ローマン・ブリテンの言語状況 (2)」 ([2019-09-07-1]) で,ローマン・ブリテンの話題を取り上げた.君塚や指のイギリス史概説書を参照して,この時代を中心とする略年表を作成してみた(イギリス史全体の年表については,「#3478. 『図説イギリスの歴史』の年表」 ([2018-11-04-1]),「#3487. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の年表」 ([2018-11-13-1]),「#3497. 『イギリス史10講』の年表」 ([2018-11-23-1]) などを参照).

81万年前頃ブリテン付近に人類が居住
紀元前1万年頃狩猟採集民が居住(旧石器時代末期)
前7--6千年頃ブリテン島が大陸から分離
前4千年頃農耕・牧畜の開始(新石器時代の開始)
前22--20世紀頃ビーカー人が渡来(青銅器時代の開始)
前18世紀頃ストーンヘンジの建造
前6世紀頃ケルト系のベルガエ人の渡来
前2世紀末ベルガエ人が高度な鉄器文化と農牧文化を築く
前55--54年ユリウス・カエサルのブリタニア遠征
43年ローマ皇帝クラウディウスのブリタニア侵攻
50年頃ロンディニウム(ロンドン)の建設
61年イケニ族の女王ボウディッカの反乱
80年頃ローマ軍,スコットランドに到着
122--132年ハドリアヌスの長城の建造
140年頃アントニヌスの長城の建造(しかし,60年後に放棄)
2世紀末ロンドンが中心都市として発達し,街道も整備される
211年ブリテン,ローマと協約締結し「同盟者」に
306年ブリタニアで即位したコンスタンティヌス,帝国の再編へ
4世紀半ばキリスト教の伝来,ヨークとロンドンに司教座
406年大陸のゲルマン諸部族,ライン川を超えてガリアへ侵入
410年ローマ,ブリタニアから撤退
449年アングロ・サクソンの渡来が始まる
6世紀末7王国の成立
597年聖アウグスティヌス,キリスト教宣教のために教皇グレゴリウス1世によってローマからケント王国へ派遣される
664年ウィットビーの宗教会議でローマキリスト教の優位が認められる


 ローマン・ブリテンの関連地図も,君塚 (9) の「「ローマ帝国支配のブリテン島」と,Encyclopaedia Britannica からのもの (Encyclopaedia Britannica 2008 Ultimate Reference Suite. Chicago: Encyclopaedia Britannica, 2008.) を挙げておこう.

Map of Roman Britain
Map of Roman Britain

 ついでに Encyclopaedia Britannica から見つけた,ローマ軍に抵抗したイケニ族の女王ボアディッカを描いた19世紀の版画も挙げておく (Queen Boudicca leading a revolt against the Romans, engraving, 19th century. The Granger Collection, New York) .

Queen Boudicca leading a revolt against the Romans, engraving, 19th century. <em>The Granger Collection</em>, New York

 ローマン・ブリテン時代のその他の話題については「#3440. ローマ軍の残した -chester, -caster, -cester の地名とその分布」 ([2018-09-27-1]) ほか roman_britain の各記事を参照.

 ・ 君塚 直隆 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』 中央公論新社〈中公新書〉,2015年.
 ・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.

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2019-09-07 Sat

#3785. ローマン・ブリテンの言語状況 (2) [roman_britain][latin][celtic][history][gaulish][contact][language_shift][prestige][sociolinguistics]

 昨日の記事に続き,ローマン・ブリテンの言語状況について.Durkin (58) は,ローマ時代のガリアの言語状況と比較しながら,この問題を考察している.

One tantalizing comparison is with Roman Gaul. It is generally thought that under the Empire the linguistic situation was broadly similar in Gaul, with Latin the language of an urbanized elite and Gaulish remaining the language in general use in the population at large. Like Britain, Gaul was subject to Germanic invasions, and northern Gaul eventually took on a new name from its Frankish conquerors. However, France emerged as a Romance-speaking country, with a language that is Latin-derived in grammar and overwhelmingly also in lexis. One possible explanation for the very different outcomes in the two former provinces is that urban life may have remained in much better shape in Gaul than in Britain; Gaul had been Roman for longer than Britain, and urban life was probably much more developed and on a larger scale, and may have proved more resilient when facing economic and political vicissitudes. In Gaul the Franks probably took over at least some functioning urban centres where an existing Latin-speaking elite formed the basis for the future administration of the territory; this, combined with the importance and prestige of Latin as the language of the western Church, probably led ultimately to the emergence of a Romance-speaking nation. In Britain the existing population, whether speaking Latin or Celtic, probably held very little prestige in the eyes of the Anglo-Saxon incomers, and this may have been a key factor in determining that England became a Germanic-speaking territory: the Anglo-Saxons may simply not have had enough incentive to adopt the language(s) of these people.


 つまり,ローマ帝国の影響が長続きしなかったブリテン島においては,ラテン語の存在感はさほど著しくなく,先住のケルト人も,後に渡来してきたゲルマン人も,大きな言語的影響を被ることはなかったし,ましてやラテン語へ言語交代 (language_shift) することもなかった.しかし,ガリアにおいては,ローマ帝国の影響が長続きし,ラテン語(そしてロマンス語)との言語接触も持続したために,最終的に基層のケルト語も後発のフランク語も,ラテン語に呑み込まれるようにして消滅していくことになった,というわけだ.
 ブリテン島とガリアは,ケルト系言語の基層の上にラテン語がかぶさってきたという点では共通の歴史を有しているようにみえるが,ラテン語との接触の期間や密度という点では差があり,それが各々の地域における後世の言語事情にも重要なインパクトを与えたということだろう.この差は,部分的にはローマからの距離の差やラテン語に対して抱いていた威信の差へも還元できるものかもしれない.
 この両地域の社会言語学的な状況の差は,回り回って英語とフランス語におけるケルト借用語の質・量の差にも影響を与えている.これについては,Durkin による「#3753. 英仏語におけるケルト借用語の比較・対照」 ([2019-08-06-1]) を参照されたい.

 ・ Durkin, Philip. Borrowed Words: A History of Loanwords in English. Oxford: OUP, 2014.

Referrer (Inside): [2019-09-08-1]

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