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2018-11-13 Tue

#3479. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の年表 [timeline][history][monarch]

 イギリス年表シリーズとして,君塚直隆(著)『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の巻末の年表を掲げる(上巻 pp. 216--20,下巻 pp. 245--52 より).この読みやすい通史は,基本的にはイングランド王朝・王室史および議会政治史の記述といってよい.当然ながら,個別言語史の背景的知識として政治史,社会史,経済史などの知見は非常に重要である.

B.C. 6世紀頃ケルト系の部族が現在のグレート・ブリテン島で定住開始
B.C. 55--54カエサルのブリタニア遠征
A.D. 122「ハドリアヌスの長城」建設始まる (--132)
5--7世紀アングロ・サクソン諸族のブリタニア侵入および征服
757マーシアでオファ王が即位 (--796)
871ウェセックスルでアルフレッド大王が即位 (--899)
924アゼルスタンが全イングランド王としてパースで戴冠式を挙行
973エドガーがイングランド王としてバースで戴冠式を挙行
1066ウィリアム1世即位(10月):ノルマン王朝開始 (--1154)
1067ウィリアム1世により叛乱地域が制圧:「ノルマン征服」 (--1071)
1085『ドゥームズデイ・ブック(土地台帳)』の作成 (--1086)
1087ウィリアム2世即位(9月).兄ロベールとの抗争始まる
11007ウィリアム2世狩猟中に事故死.ヘンリ1世即位(8月)
1106ヘンリ1世が兄ロベールとの抗争を制し,ノルマンディ公国も継承
1135スティーヴンが国王に即位(12月):内乱へ (1135--53)
1154ヘンリ2世即位(10月):プランタジネット王朝開始 (--1399).「アンジュー帝国」の形成
1173ヘンリ若王らが父ヘンリ2世に叛乱(内紛の時代の始まり)
1189リチャード1世即位(7月).第3回十字軍遠征に参加 (--1194)
1192リチャードがウィーン近郊で虜囚に (--1194)
1199ジョンが国王に即位(4月)
1204ノルマンディ,アンジューがフランス国王により失陥 (--1205)
1205ジョンとローマ教皇インノケンティウス3世とは叙任権闘争 (--1213)
1215諸侯がジョンに「マグナ・カルタ(大憲章)」提出(6月)
1216ヘンリ3世即位(10月).諸侯との内乱も終息へ (--1217)
1258諸侯大会議が「オックスフォード条款」を作成(6月)
1259パリ条約でヘンリ3世が北部フランスに有する領土の放棄を宣言(12月):「アンジュー帝国」の消滅
1265シモン・ド・モンフォールの議会(1月)
1267モンゴメリー協定により,サウェリン・アプ・グリフィズが「ウェールズ大公」としてヘンリ3世から認可(9月)
1272エドワード1世即位(11月)
1283エドワード1世がウェールズ遠征.サウェリン・アプ・グリフィズが戦死し,ウェールズ大公が空位に (--1283)
1284エドワード1世が皇太子エドワードをウェールズ大公に任命(正式な叙任は1301年2月).これ以降,イングランド(イギリス)の王位継承第1位の男子が「ウェールズ大公」を帯びることに
1290スコットランド女王マーガレットが急死し,王位継承問題が浮上
1293エドワード1世の裁定により,ジョン・ベイリオルがスコットランド国王に即位 (--1296)
1295エドワード1世が聖俗諸侯,州・都市代表,聖職者会議からなる「模範議会」を召集(11月),スコットランドとフランスが「古き同名」関係を締結へ (--1560)
1296イングランド・スコットランド戦争.「スクーンの石」がイングランド軍により持ち去られる(1996年にスコットランドに返還).
1297ウィリアム・ウォレスがスコットランドで反乱.スターリングの戦いでイングランド軍に勝利.
1299エドワード1世がモンルイユ条約でフランス国王と講和:皇太子エドワードとフランス王女イサベルの婚約成立
1306ロバート・ブルースがスコットランド王位継承を宣言.エドワード1世がスコットランド遠征の途上で病死 (1307年7月)
1307エドワード2世即位(7月)
1314バノックバーンの戦いでブルースがイングランド軍を撃破し,ロバート1世としてスコットランド国王に即位(1328年にイングランドも承認)
1327エドワード2世が議会で廃位.皇太子がエドワード3世に即位(1月).エドワード2世が密かに処刑される(9月)
1330エドワード3世が親政開始(10月).この頃から議会が「貴族院」と「庶民院」の二院制に移行
1337皇太子エドワード(黒太子)がコーンウォール公爵に叙される(イングランドで最初の公爵位).フランス国王フィリップ6世がエドワード3世の在仏全所領の没収を宣言:英仏百年戦争の開始 (--1453)
1356ポワティエの戦いで黒太子が勝利(9月)
1360プンティニ=カレー条約締結:エドワード3世がフランスの王位請求権を放棄する代わりに,アキテーヌ領有が承認(10月)
1376エドワード3世が「善良議会」を開催(4--7月).黒太子急死(6月)
1377リチャード2世即位(6月)
1381人頭税に反対するワット・タイラーの乱(5--6月)
1382リチャード2世が親政開始.寵臣政治に議会が反発
1399リチャード2世廃位.ランカスター公爵ヘンリがヘンリ4世に即位(9月):ランカスター王朝成立 (--1471)
1413ヘンリ5世即位(3月)
1415ヘンリ5世がフランス遠征.アジンコートの戦いで大勝利(10月)
1420トロワ条約締結(5月).ヘンリのフランス王位継承権が承認され,ヘンリとフランス王女カトリーヌの結婚が決まる.二人の間に皇太子ヘンリが誕生(1421年12月)
1422ヘンリ6世即位(8月).フランス国王シャルル6世の死により,アンリ2世としてフランス王位も継承(10月)
1429シャルル7世がジャンヌ・ダルクに導かれ,ランス大聖堂で戴冠(7月)
1431ジャンヌ・ダルクの焚刑(5月).アンリ2世(ヘンリ6世)がパリのノートルダム大聖堂で戴冠(12月)
1453ボルドーが陥落し(10月),イングランドが在仏所領の大半を失う(英仏百年戦争の終結).ヘンリ6世が精神疾患に陥る(8月)
1454ヨーク公爵リチャードが護国卿に就任(3月)
1455ランカスター派とヨーク派の抗争始まる:バラ戦争 (--1485)
1460ヨーク公爵リチャードが戦死(12月):長男エドワードが継承
1461ヨーク派がロンドン制圧.ヘンリ6世を廃し,エドワード4世推戴(3月):第一次内乱の終結.ヨーク王朝開始 (--1485)
1470エドワード4世がネヴィル派によって放逐され,ブルゴーニュ公領に亡命.ヘンリ6世が復位(10月)
1471エドワード4世が帰国し,ランカスター=ネヴィル派を撃破:第二次内乱の終結.ヘンリ6世処刑(5月).エドワード4世復位 (--1483)
1478王弟クラレンス公爵ジョージがエドワード4世との不和で処刑(2月)
1483エドワード5世即位(4月).叔父のグロウスター公爵リチャードが護国卿に就任.エドワード5世廃位.リチャード3世即位(6月).バッキンガム公爵が叛乱を起こし,処刑(11月)
1485ボズワースの戦いでリッチモンド伯爵ヘンリがリチャード3世軍に勝利.リチャード3世戦死.ヘンリ7世が国王に即位(8月):テューダー王朝開始 (--1603)
1486ヘンリ7世とヨーク王家のエリザベスが結婚(1月)
1491パーキン・ウォーベックの叛乱 (--1499)
1494ポイニングズ法制定:アイルランド議会の権限縮小化
1501皇太子アーサーとスペイン王女キャサリン結婚(11月).5ヶ月後にアーサーが急死し,長弟ヘンリとキャサリンとの結婚が教皇庁から承認
1509ヘンリ8世即位(4月).キャサリンと結婚(6月)
1517マルティン・ルターの宗教改革始まる(10月).ヘンリ8世はルター派を封じ込めるロンドン条約を王侯らと締結(1518年10月)
1527ヘンリ8世がキャサリンとの離婚を教皇庁に申請(5月).神聖ローマ皇帝カール5世(キャサリンの甥)により阻止
1529ヘンリ8世が宗教改革議会を開催 (--1536)
1533ヘンリ8世がアン・ブーリンと極秘結婚(1月).上訴禁止法制定(3月).キャサリンとの離婚成立(4月).アンとの間にエリザベス誕生(9月)
1534国王至上法制定(11月):イングランド国教会が成立
1536アン処刑(5月):ヘンリ8世がジェーン・シーモアと結婚.小修道院の解散.北部でカトリック教徒らが叛乱(「恩寵の巡礼」:10月)
1537ヘンリ8世とジェーンとの間にエドワード誕生(10月)
1539大修道院解散
1541ヘンリ8世が「アイルランド国王」の称号をおびる
1544ヘンリ8世がスコットランド侵攻(遠征は失敗へ)
1547エドワード6世即位(1月).叔父のサマセット公爵が護国卿に就任.スコットランドに侵攻し,ピンキーの戦いで勝利(9月)
1549フランス=スコットランド連合の前に敗北.西部の叛乱(6月).サマセット公爵失脚(10月).ウォーリック伯爵(1551年よりノーサンバランド公爵)が実権掌握へ
1553エドワード6世死去.ノーサンバランド公爵によりジェーン・グレイが推戴されるが敗北(9日間の女王).メアリ1世即位(7月)
1554メアリ1世がスペイン皇太子フェリーペと結婚(7月).イングランド国教会を廃し,カトリックを復活へ
1556フェリーペがスペイン国王フェリーペ2世に:スペイン=フランス戦争が勃発し,メアリ1世も対仏宣戦布告(1557年6月)
1558カレー喪失(大陸の土地を完全に失う:1月).メアリ1世死去.エリザベス1世即位(11月)
1559国王至上法と礼拝統一法が議会を通過(4月):イングランド国教会復活
1561スコットランド女王メアリ(ステュアート)がフランスより帰国
1567スコットランド女王メアリが貴族らと衝突し,廃位(7月).ジェームズ6世が即位 (--1625) .メアリは翌68年イングランドに亡命
1569カトリック貴族らにより北部叛乱開始(10月).叛乱は翌70年2月に鎮圧され,直後にエリザベス1世は教皇庁により破門を宣告
1587メアリ・ステュアート処刑(2月).フランシス・ドレイクがカディスを襲撃(4月)
1588スペイン無敵艦隊が襲来(7月:アルマダの戦い):イングランド軍勝利
1600イングランド東インド会社設立
1601救貧法制定
1603エリザベス1世死去(3月):テューダー王朝断絶.スコットランド国王ジェームズ6世がイングランド国王ジェームズ1世に即位(同君連合)(3月):ステュアート王朝開始 (--1714)
1605ハンプトン・コート会議(1月):イングランド国教会とスコットランド教会がそれぞれの主流派として正式に承認(カトリックへの抑圧が続く)
1605火薬陰謀事件(11月)
1610「大契約」が議会の承認獲得に失敗(11月)
1625チャールズ1世即位(3月).フランス王女アンリエッタ・マリアと結婚(5月)
1628「権利の請願」裁可(3月).国王の側近バッキンガム公爵暗殺(8月)
1629チャールズ1世が議会を解散(3月):ロード=ウェントワース体制 (--1640)
1638宗教問題をめぐりスコットランドで叛乱勃発 (--1640)
1640チャールズ1世が議会召集(4--5月:短期議会).スコットランドとの戦争が終結(9月).チャールズ1世が再度議会を召集(11月:長期議会)
1642五議員逮捕事件(1月).国王軍と議会軍の内乱(清教徒革命)勃発 (--1649)
1645オリヴァー・クロムウェルにより議会側がニューモデル軍編成(2月).ネーズビーの戦いで議会軍が圧勝(6月)
1648国王軍が完全に敗北(8月).「プライドの追放(パージ)」(12月)
1649チャールズ1世処刑(1月).王政と貴族院が廃止(3月).クロムウェル軍がアイルランド遠征(8月〜1650年9月)
1650クロムウェル軍がスコットランド遠征(8月--1651年9月)
1651オランダによる中継貿易を禁じた航海法が制定(10月)
1652第一次イングランド・オランダ戦争 (--1654)
1653クロムウェルが長期議会を解散(4月).「統治章典」が採択され,クロムウェルが護国卿に就任(12月):護国卿体制の開始 (--1659)
1657議会が「謙虚なる請願と勧告」を提出し,クロムウェルに王位を提示(3月).クロムウェルは国王即位を固辞(5月).二度目の護国卿就任式を挙行(6月)
1658クロムウェル死去(9月).リチャード・クロムウェルが継承
1659リチャード・クロムウェルが護国卿辞任(5月)
1660長期議会が復活し,チャールズ1世の遺児による君主制を支持.ブレダ宣言・仮議会召集(4月).チャールズ2世即位(5月):王政復古
1661チャールズ2世戴冠式(4月),騎士議会開会(5月)
1665第二次イングランド・オランダ戦争 (--1667) .ロンドンでペスト流行
1666ロンドン大火(9月)
1670ドーヴァー密約(5月:対オランダ戦争などめぐり英仏君主間に密約)
1672チャールズ2世が「信仰自由宣言」公布.第三次イングランド・オランダ戦争 (--1674)
1673審査法制定(3月):ヨーク公爵ジェームズが海軍総司令官職を辞任
1677ヨーク公爵の長女メアリとオランダ総督ウィレムが結婚(11月)
1679王位継承排除法案の審議が開始(5月):これにより1680年代前半から,議会内にトーリとホイッグという二つの党派が登場
1685ジェームズ2世即位(2月).モンマス公の叛乱(6月)
1687--88ジェームズ2世が二度にわたり「信仰自由宣言」公布:審査法に違反し,重要官職をカトリック教徒で固め始める
1688皇太子ジェームズ誕生(6月).イングランド主要政治家と提携したオランダ総督ウィレムがイングランドに上陸(11月).ジェームズ2世亡命
1689仮議会により「権利宣言」が提出され,ウィリアム3世・メアリ2世の共同統治が決定(2月).「権利章典」の制定(12月):名誉革命.この間に,ウィリアム3世の主導により,イングランドもオランダ側につき,対仏宣戦布告(5月:九年戦争への参戦)
1690ボイン川の戦いでウィリアム3世がアイルランドのカトリック住民虐殺(7月):ジェームズ2世がアイルランド上陸を断念
1694イングランド銀行設立(7月).メアリ2世死去(12月)
1697レイスウェイク条約でルイ14世がウィリアム3世の王位承認(9月)
1701王位継承法制定(6月):カトリック教徒による王位継承,王族のカトリック教徒との結婚が禁止される (--2013) .ウィリアム3世により,ハーグ同盟結成(9月):スペイン王位継承戦争への参戦
1702アン女王即位(3月).対フランス戦争は継続へ
1704ブレンハイムの戦いでイングランド軍がフランス軍に大勝利(8月)
1713ユトレヒト条約(4月):イギリスがジブラルタル,ミノルカなど領有
1714アン女王死去:ステュアート王朝終結.ハノーファー選帝侯ゲオルクがジョージ1世に即位(8月):ハノーヴァー王朝開始 (--1901)
1715第一次ジャコバイトの叛乱(9月)
1716七年議会法制定(5月)
1720南海泡沫事件
1721サー・ロバート・ウォルポールが第一大蔵卿に就任(4月).南海泡沫事件を巧みに処理し,ジョージ1世から信任を得る
1727ジョージ2世即位(6月)
1739「ジェンキンズの耳戦争」勃発(10月).翌年のオーストリア王位継承戦争(1740--48年)に糾合され,ヨーロッパ大戦争へ
1742ウォルポール退陣(2月):第一大蔵卿を「首相」とする責任内閣制(議院内閣制)がイギリス政治に定着へ
1745第二次ジャコバイトの叛乱 (--1746) .二重内閣危機 (--1746)
1754アメリカでフレンチ・アンド・インディアン戦争勃発 (--1763)
1756イギリス・プロイセン間でウェストミンスター協定締結:七年戦争(1756--63年)に発展
1759「奇跡の年」(イギリス陸海軍が世界各地で大勝利)
1760ジョージ3世即位(10月)
1761--62国王と主要閣僚(ニューカースル公爵・大ピット)間で対立激化
1764--65北アメリカ植民地に対して「砂糖税」「印紙税」を課税.本国と植民地間の対立が深刻化:ボストン虐殺事件(1770年),ボストン茶会事件(1773年)などに発展
1775英米開戦(4月):アメリカ独立戦争 (--1783)
177613植民地が「独立宣言」を公表(7月):その後,フランス,スペイン,オランダがアメリカ側につき,イギリス軍が各地で敗戦
1783パリ条約でアメリカ合衆国が独立(9月).小ピットが首相に就任(12月)
1788ジョージ3世が発病(10月):ピット派とフォックス派の間で「摂政制危機」に(--1789年2月)
1793小ピットの提唱で列強間に第一次対仏大同盟結成(2月):イギリスがフランス革命戦争 (--1799) に参戦
1799第二次対仏大同盟結成(6月).フランスでナポレオン・ボナパルトが全権掌握(11月)
1800アイルランド合邦化が制定(3月).ナポレオン戦争開始 (--1815)
1804小ピットが首相復帰.ナポレオン1世が皇帝に即位(5月)
1805第三次対仏大同盟結成(8月).トラファルガー海戦(10月).アウステルリッツの戦い(12月)
1806小ピット急死(1月).フォックス急死(9月):イギリス政治混迷へ
1807イギリスが奴隷貿易の禁止を決定
1810ジョージ3世が発病(10月).皇太子ジョージを摂政とする法案が可決(1811年2月):摂政時代へ (--1820)
1812パーシヴァル首相が庶民院ロビーで暗殺(5月).リヴァプール伯爵首班の長期政権形成へ (--1827) .ナポレオンのロシア遠征失敗(6--12月)
1814ナポレオン戦争がいったん終結(4月).ロンドンで連合国の大祝賀会開催(6月).ウィーン会議開幕(11月--1815年6月)
1815ナポレオンの「百日天下」(3--6月):ワーテルローの戦いで終息(6月).穀物法制定(3月)
1819「ピータールーの虐殺」事件(8月).治安六法制定(11月)
1820ジョージ4世即位(1月).キャロライン王妃との離婚騒動 (--1821)
1822ジョージ・カニング外相,ロバート・ピール内相など改革派が登用され,「自由トーリ主義」の時代が始まる
1828--29ウェリントン保守党政権により,審査法・地方自治体法が廃止,カトリック教徒解放案が制定:トーリの分裂進む
1830ウィリアム4世即位(6月)マンチェスターとリヴァプール間に鉄道開通(9月).グレイ伯爵を首班とするホイッグ・旧カニング派・超トーリ連立政権成立(11月).ベルギー独立戦争を調停するロンドン会議がパーマストン外相を議長に進められる (--1832)
1832第一次選挙法改正成立(下層中産階級の戸主に選挙権拡大)
1833工場法制定.イギリス帝国内における奴隷制度の全面廃止
1834改正救貧法制定.ウィリアム4世によりメルバーン首相が更迭(11月).ピールにより「タムワース選挙綱領」が発表され,トーリが「保守党」と改名(12月)
1837ヴィクトリア女王即位(6月)
1838「人民憲章」が発表される:チャーティスト運動の高揚
1839ロンドンに反穀物法同盟結成
1840清国とイギリス東インド会社の間でアヘン戦争勃発 (--1842) .ヴィクトリア女王がアルバート公と結婚(2月):4男5女に恵まれる
1842ピール保守党政権により,所得税再導入,各種関税廃止,減税
1845アイルランドでジャガイモ飢饉発生(8月)
1846ピール保守党政権による穀物法廃止(6月):保守党分裂
1849航海法廃止(6月):自由貿易の黄金時代に突入
1851第一回ロンドン万国博覧会開催(5--10月)
1854英仏がトルコ側についてクリミア戦争に参戦(3月--1856年3月)
1856清国との間にアロー号戦争(第二次アヘン戦争)勃発 (--1860)
1857インド大叛乱発生(5月).東インド会社は解散し,イギリスによるインド直轄支配が開始(1858年8月より)
1859ホイッグ・ピール派・急進派により「自由党」結成(6月)
1867ダービー保守党政権により第二次選挙法改正成立(都市の労働者階級の戸主に選挙権拡大).カナダがイギリス帝国で初の自治領に(7月)
1868総選挙で自由党が勝利し,ウィリアム・グラッドストンが政権獲得(総選挙の結果が直接的に政権交代につながった最初の事例:12月)
1869アイルランド国教会廃止
1870アイルランド土地法制定.初等教育法制定(小学校の義務教育化)
1871大学審査法制定.労働組合法制定.陸軍売官制廃止
1872秘密投票制度の導入(7月)
1875ディズレーリ保守党政権によりスエズ運河会社株買収(11月)
1876王室称号法によりヴィクトリア女王が「インド皇帝」に即位へ
1877インド帝国成立 (--1947)
1878ロシア・トルコ戦争を調停するベルリン会議でキプロスの支配権獲得
1879グラッドストンによるミドロージアン・キャンペーン(11--12月)
1882イギリス軍によるエジプト侵略(エジプトが事実上の保護国化)
1883腐敗及び違法行為防止法制定(8月):選挙違反の取り締まり強化
1884第三次選挙法改正成立(地方の労働者階級の戸主に選挙権拡大)
1885議席再配分法制定:小選挙区制の本格的導入へ
1886グラッドストン自由党政権によりアイルランド自治法案が提出されるが敗北:自由党の分裂(6月)
1887ヴィクトリア女王の在位50周年記念式典(第1回植民地会議も開催)
1889海軍国防法制定(フランスとロシアを想定した二国標準主義へ)
1893二度目のアイルランド自治法案が庶民院を通過するも貴族院で否決(9月).ケア・ハーディが独立労働党結成
1897ヴィクトリア女王の在位60周年記念式典(第2回植民地会議も開催)
1899第二次ボーア戦争(南アフリカ戦争)勃発 (--1902)
1901エドワード7世即位(1月):サックス・コーバーグ・ゴータ王朝開始 (--1917)
1902日英同盟締結(1月)
1903エドワード7世がパリ公式訪問(5月):これを契機に英仏関係緊密化
1904英仏協商締結(4月).日露戦争勃発 (--1905)
1906英独建艦競争の激化 (--1912) .「労働党」結成(1月)
1907英露協商締結(8月)
1909自由党政権により「人民予算」提出されるが,貴族院で否決(11月)
1910ジョージ5世即位(5月).史上初の年内に二度の総選挙実施(1月・12月).「人民予算」成立へ
1911貴族院(保守党)と庶民院(自由党)の激しい抗争の後に議会法制定(8月):貴族院の権限が大幅縮小へ.ジョージ5世がインド皇帝戴冠式をデリーで挙行(12月)
1912三度目のアイルランド自治法案が提出(1914年に成立へ)
1914第一次世界大戦の勃発(7月).イギリスの参戦(8月)
1915アスキス挙国一致内閣成立(5月)
1916徴兵制度の導入(1月):国家総動員体制が本格化.アスキス首相辞任.デイヴィッド・ロイド=ジョージが政権を継承(12月)
1917ウィンザー王朝に改名(7月).革命によりロシアが事実上の戦線離脱(3月).アメリカが英仏側について参戦(4月)
1918第四次選挙法改正成立(男子普通選挙と30歳以上の女子選挙権実現).第一次世界大戦の終結(11月)
1919パリ講和会議.インド統治法が制定されるも,これを不服としたガンディーの不服従運動がインド全土で拡大へ(1920年--)
1921アイルランド自由国成立(12月).ワシントン海軍軍縮会議:日英同盟消滅へ(11月--1922年2月)
1922カールトン・クラブで保守党議員がロイド=ジョージとの連立解消を決定:ロイド=ジョージ首相辞任(10月)
1924ラムゼイ・マクロナルドを首班とする初の労働党単独政権樹立(1月)
1925ヨーロッパにおける安全保障を規定したロカルノ条約締結(12月)
1926全国的なゼネラル・ストライキ(5月).帝国会議により自治領と本国の地位平等が確認(11月)
1928第五次選挙法改正成立(女子普通選挙権も実現)
1929米国初の「世界恐慌」の発生(10月)
1930ロンドン海軍軍縮会議(1--4月)
1931国王の調整によりマクドナルドを首班とする挙国一致内閣成立(8月)
1932ジョージ5世により帝国臣民向けの「クリスマス・メッセージ」が BBC (英国放送協会)のラジオを通じて開始(12月)
1936エドワード8世即位(1月).ウォリス・シンプソンとの「王冠を賭けた恋」により退位.ジョージ6世即位(12月)
1937ネヴィル・チェンバレンが首相に就任(5月):宥和政策が本格化
1938ミュンヘン会談でドイツにズデーテン地方(チェコ)割譲が決定(9月)
1939第二次世界大戦勃発(9月).ウィンストン・チャーチルが海相に復帰
1940「奇妙な戦争(1939年9月--40年3月)」を経て,ドイツ軍が北部・西部ヨーロッパ各国に侵攻(4--5月).チェンバレンに代わりチャーチルが首相就任(5月).フランスがドイツに降伏し(6月),「ブリテンの戦い」開始(7月)
1941独ソ戦の開始(6月).チャーチルと F. D. ローズヴェルトの大西洋上会談(7月).日英米開戦
1942シンガポールが日本軍により陥落(2月).後半からは連合国(米英ソ)側が徐々に形勢を逆転(北アフリカ・太平洋・ソ連で)
1943カイロ会談(米英中:11月).テヘラン会議(米英ソ:11--12月)
1944ノルマンディ上陸作戦(6月).パリ解放(8月)
1945ヤルタ会談(米英ソ:2月).ドイツ降伏(5月).ポツダム会談(米英ソ:7--8月).10年ぶりの総選挙で労働党が大勝し,チャーチルが辞任.クレメント・アトリーが労働党単独政権を樹立(7月).日本降伏(8月):第二次世界大戦の終結(9月)
1946イングランド銀行が国有化.チャーチルの「鉄のカーテン」演説(3月).国民保険法制定(8月).国民保険サーヴィス法制定(11月)
1947石炭,電信・電話国有化(1月).インドと東西パキスタン独立(8月)
1948鉄道・電力国有化(1--4月).チャーチルの「三つの輪」演説(10月)
1951総選挙で保守党が勝利し,チャーチル保守党政権成立(10月)
1952エリザベス2世即位(2月).戴冠式は53年6月に挙行
1955チャーチル首相引退.サー・アンソニー・イーデンが後任に(4月)
1956スエズ戦争(10--11月)
1957ハロルド・マクミランが保守党政権の首相に就任(1月)
1958一代貴族法制定(4月)
1960「アフリカの年」:アフリカ諸国がヨーロッパ各国から独立
1963イギリスが EEC (欧州経済共同体)加盟に失敗(1月).貴族法成立(7月).マクミラン首相辞任:ヒューム政権に(10月)
1964総選挙で労働党が勝利し,ハロルド・ウィルソンが首相に(10月)
1967ポンド切り下げ.EC (欧州共同体)加盟に失敗(11月)
1968ウィルソン首相がスエズ以東からの英軍撤退表明(1月)
1973エドワード・ヒース保守党政権により,イギリスが EC 加盟(1月).石油危機(10月)
1975ウィルソン労働党政権の下で EC 残留問題に関わる国民投票(6月)
1977イギリス政府が IMF (国際通貨基金)から借款へ(1月)
1979総選挙で保守党が勝利し,マーガレット・サッチャー政権成立(5月)
1982フォークランド戦争(4--6月):イギリスが勝利
1984史上最大の炭鉱ストライキ(3月--1985年3月).労働組合方制定(7月).IRA (アイルランド共和国軍)によるサッチャー暗殺未遂事件(10月)
1984--87電信・電話・自動車・ガス・航空機など国有企業が民営化へ
1985--89ソ連にゴルバチョフ書記長が登場し,サッチャーの仲介で米ソ首脳会談が実現.ヨーロッパにおける米ソ冷戦が終結へ
1988サッチャーのブルージュ演説(9月):EC 統合推進を非難
1990地方自治体税(人頭税)導入(4月).保守党内で造反が起こり,サッチャー退陣:ジョン・メイジャーが首相に(11月)
1991湾岸戦争(1--3月):イギリスも参戦
1992ポンドが急落(「暗黒の水曜日」)し,ERM (為替相場メカニズム制度)からイギリスが離脱(9月).王子らの離婚・別居,ウィンザー城火災でエリザベス2世が「今年はひどい年」と演説(12月)
1993EC 統合に向けてのマーストリヒト条約批准(7月):イギリスは通貨統合や社会憲章を適用除外して参加へ.EU (欧州連合)発足(11月)
1997総選挙で労働党が大勝し,トニー・ブレア政権成立(5月).ダイアナ元皇太子妃がパリで事故死(8月).スコットランド,ウェールズ議会設置が住民投票で決定(9月)
1998イギリス・アイルランド間で北アイルランド問題に関わる「聖金曜日の合意」成立(4月)
1999スコットランド,ウェールズで議会選挙(5月).貴族院で世襲貴族の議席大幅削減が決定(10月).新生の北アイルランド議会開設(11月)
2001アメリカで同時多発テロ(9月).アフガン戦争(10--11月):イギリスもアメリカに全面協力へ
2002エリザベス2世在位50周年記念式典(6月)
2003イラク戦争(3--5月):イギリスもアメリカに全面協力へ
2005ロンドンで同時多発テロ(7月)
2007ブレア首相退陣.ゴードン・ブラウンが首相に
2008米国初の金融危機(リーマン・ショック:9月)
2010総選挙で保守党が勝利し,自由民主党との連立によりデイヴィッド・キャメロンが政権樹立(5月)
2012エリザベス2世在位60周年記念式典(6月).ロンドンでオリンピックとパラリンピックが開催(7--8月)
2014スコットランドで「独立」をかけた住民投票が行われ,連合王国に残留する結果に(9月)


 ・ 君塚 直隆 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』 中央公論新社〈中公新書〉,2015年.

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2018-11-05 Mon

#3479. 『図説 イギリスの王室』の年表 [timeline][history][monarch]

 昨日の記事「#3478. 『図説イギリスの歴史』の年表」 ([2018-11-04-1]) に続いて,イギリス王室に特化したイギリス史年表を掲げる.著者の関心を反映し,君主の「配偶者」にも格別の関心が払われている年表である.「#3394. 歴代イングランド君主と配偶者の一覧」 ([2018-08-12-1]) も参照.

1050ウィリアム1世,マティルダ・オブ・エノーと結婚
1066エドワード懺悔王没
1066ハロルド1世即位;ノルマンディー公ウィリアムのイギリス征服;ウィリアム1世即位;ノルマン朝始まる
1085ドゥームズデイ・ブック作成
1087ウィリアム2世即位
1100ヘンリー1世即位,マティルダ・オブ・スコットランドと結婚
1118マティルダ王妃没(1121年ヘンリー1世,アデライザ・オブ・ルーヴァンと再婚)
1135スティーヴン王即位(1115年,マティルダ・オブ・ブオーローニュと結婚)
1139スティーヴン王とマティルダ(ヘンリー1世娘)の戦い始まる
1154ヘンリー2世即位(1152年,エレアノール・オブ・アキテーヌと結婚);プランタジネット朝始まる
1170カンタベルー大司教ベケット暗殺
1189リチャード獅子心王即位
1191リチャード獅子心王,ベランガリア・オブ・ナヴァールと結婚;リチャード獅子心王十字軍遠征,アッカーを占領.帰途にオーストリア公の捕虜となる
1199ジョン王即位(1189年,イザベラ・オブ・グロスターと結婚)
1200ジョン王,イザベラ・オブ・アングレームと再婚
1204ジョン王,フランス国内の英領喪失
1215ジョン王,「マグナ・カルタ」に署名
1216ヘンリー3世即位
1236エレアノール・オブ・プロヴァンスと結婚
1265シモン・ド・モンフォール,議会設立(下院の起源)
1272エドワード1世即位(1254年,エレアノール・オブ・カスティーリャと結婚)
1277〜95ウェールズ侵攻始まる
1290スコットランドとの戦争始まる
1295エドワード1世,模範議会召集
1299エドワード1世,マーガレット・オブ・フランスと再婚
1307エドワード2世即位
1308エドワード2世,イザベラ・オブ・フランスと結婚
1327エドワード3世即位,フランス王位継承を主張
1328エドワード3世,フィリッパ・オブ・エノーと結婚
1337〜1453英仏百年戦争
1346クレシーの戦いで勝利
1347カレー占領
1356ポワティエの戦い(黒太子の活躍)
1377リチャード2世即位
1381ワット・タイラーの乱
1382リチャード2世,アン・オブ・ホヘミアと結婚
1384ヘンリー4世,メアリー・ド・ブーンと結婚
1394リチャード2世,イザベラ・オブ・ヴァロアと再婚
1399ヘンリー4世即位,ランカスター王朝始まる
1402ヘンリー4世,ジョアン・オブ・ナヴァールと再婚
1413ヘンリー5世即位
1415アザンクールの戦いでフランスに勝利
1420ヘンリー5世,キャサリン・オブ・ヴァロアと結婚;トロワ条約締結.フランスの王位継承権を得る
1422ヘンリー6世即位
1429オルレアンの戦いでフランスに敗北
1444ヘンリー6世,マーガレット・オブ・アンジューと結婚
1453百年戦争終結
1455〜85薔薇戦争
1461エドワード4世即位
1464エドワード4世,エリザベス・オブ・ウッドヴィルと結婚
1483リチャード3世即位(1473年,アン・オブ・ウォリックと結婚)
1485ボズワースの戦い;リチャード3世破れ,薔薇戦争終結;ヘンリー7世即位;チューダー朝始まる
1486ヘンリー7世,エリザベス・オブ・ヨークと結婚
1509ヘンリー8世即位,キャサリン・オブ・アラゴンと結婚
1533ヘンリー8世,アン・ブーリンと結婚
1534首長令発布;英国国教会確立
1535トマス・モア処刑
1547エドワード6世即位
1553メアリー1世即位
1554ワイアットの乱;ジェーン・グレイ処刑
1554メアリー1世,スペインのフィリペ王子と結婚
1557スペイン王位継承戦争に参戦
1558スペイン対フランス戦争に参戦.カレーを奪われる
1558エリザベス1世即位
1588スペイン無敵艦隊破る
1593新教徒の非国教派閥,弾圧される
1600東インド会社設立
1603スコットランド王ジェームズ6世,イギリス王ジェームズ1世として即位(1589年,アン・オブ・デンマークと結婚).スチュアート王朝始まる
1605「火薬陰謀事件」発覚
1607北米ヴァージニアに英植民地建設
1608清教徒約100人,アムステルダムに移住
1610ジェームズ1世,王権神授説を唱え,議会と衝突
1616シェークスピア没
1620清教徒102人,メイフラワー号でアメリカに移住
125チャールズ1世即位.ヘンリエッタ・マリアと結婚
1628チャールズ1世,議会を解散
1642国王軍と議会軍の内戦勃発
1645ネズビーの戦いで国王軍敗れる
1649チャールズ1世処刑
1649〜60クロムウェル親子による共和制
1652第1次英蘭戦争
1660チャールズ2世即位
1662チャールズ2世,キャサリン・オブ・ブラガンザと結婚
1665第2次英蘭戦争
1666ロンドン大火
1673ジェームズ2世,メアリー・オブ・モデナと結婚
1685ジェームズ2世即位
1688名誉革命始まる
1689「権利の章典」制定;ウィリアム3世,メアリー2世即位
1690ジョン・ロックの『人間悟性論』
1694イングランド銀行設立
1702アン女王即位(1683年,デンマーク王子ジョージと結婚);スペイン王位継承戦争に参戦(1701〜14年)
1713ユトレヒト和約.スペイン王位継承戦争終結.
1714ジョージ1世即位(1688年,ゾフィア・ドロテアと結婚).ハノーヴァー朝始まる
1720南海泡沫事件
1727ジョージ2世即位(1705年,キャロライン・オブ・アーンズバックと結婚)
1753大英博物館設立
17567年戦争勃発(イギリス・プロイセン同盟対オーストリア,フランス)
1760ジョージ3世即位
1761ジョージ3世,シャーロット・オブ・メックレンブルク・シュトゥレリッツと結婚;産業革命始まる
1780ヨーロッパ諸国の中立同盟国との戦争勃発
1805ネルソン提督,トラファルガー海戦でナポレオンを破る
1820ジョージ4世即位(1795年,ヤロライン・オブ・ブラウンシュヴィックと結婚)
1830ウィリアム4世即位(1818年アデレイド・オブ・サクス・マイニンゲンと結婚)
1837ヴィクトリア女王即位
1839ヴィクトリア女王,サクス・コバーク・ゴータ公;王子アルバートと結婚
1840ニュージーランドの領有権宣言
1840〜42アヘン戦争
1851ロンドンで世界博覧会が開催される
1897ヴィクトリア女王在位60年記念式典
1901エドワード7世即位(1863年,デンマーク王女アレグザンドラと結婚);サクス・ゴバーグ・ゴータ王朝始まる
1902日英同盟の締結
1904英仏協商の締結
1910ジョー所5世即位(1893年,メアリー・オブ・テックと結婚)
1926空前のゼネスト起こる
1935インド統治法制定
1936エドワード8世即位;エドワード8世退位,翌年ウォーリス・シンプソンと結婚;ジョージ6世即位(1923年,エリザベス・バウズ・ライアンと結婚);ウィンザー王朝と改名
1938ミュンヘン会談
1952エリザベス2世即位(1947年,フィリップ・マウントバッテンと結婚)
1956スエズ動乱
1968北アイルランド紛争勃発
1982フォークランド紛争
1981チャールズ皇太子とダイアナ結婚
1996チャールズ皇太子とダイアナ妃離婚
1997ダイアナ妃交通事故死


 ・ 石井 美樹子 『図説 イギリスの王室』 河出書房,2007年.

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2018-11-04 Sun

#3478. 『図説イギリスの歴史』の年表 [timeline][history]

 ヴィジュアル資料が豊富でよくできたイギリス史の本.その pp. 154--56 の「イギリス史略年表」を掲げよう.

前7世紀頃ケルト人の渡来が始まる
前55--54カエサルの2次にわたるブリタニア遠征
61ボウディッカの反乱
122ハドリアヌスの城壁建造始まる
140頃アンントニヌスの城壁建造始まる
2世紀頃キリスト教の伝来
5〜6世紀アングロ・サクソン人の渡来,いくつかの王国を形成
597アウグスティヌスによるローマ・カトリックの伝道
664ウィットビの教会会議
757マーシア王オッファ即位(〜796)
779頃オッファの防塁建造
8世紀末デーン人の来襲始まる(〜9世紀)
843アルバ王国(スコットランド)の成立
871ウェセックス王アルフレッド即位(〜899)
10世紀シャイア(州)制度の導入
1015カヌートの侵入,1016年イングランド王に(〜1035)
1042エドワード証聖者王即位(〜66)
1066ヘイスティングズの戦いでウィリアム征服王の勝利(ノルマン征服)
1085ドゥームズデイ・ブック左右生
1135ヘンリ1世の没後,スティーヴンとマティルダの戦い始まる(〜53)
1154ヘンリ2世の即位(プランタジネット朝の始まり)
1170カンタベリ大司教ベケット暗殺
1209ジョン王,教皇インノケンティウス3世に破門される
1215ジョン王,マグナ・カルタを承認
1264シモン・ド・モンフォールの乱(〜65)
1276エドワード1世によるウェールズ侵攻始まる(以後95年まで,4次に渡って継続);同時期スコットランドへの介入を強化
1295模範議会が開かれる
1296イングランドとスコットランドの戦争始まる.スクーンの石が持ち去られる.
1314バノックバーンの戦いで,ロバt−お・ブルースがエドワード2世を破る
1327エドワード2世の廃位,エドワード3世即位
1337百年戦争が始まる
1346クレシーの戦い
1348黒死病の流行(〜49)このご,1374年にも大流行
1356ポアティエの戦い
1376善良議会
1381ワット・タイラーの乱
1399リチャード2世廃位,ヘンリ4世の即位(ランカスタ朝の始まり)
1415ヘンリ5世による対仏戦争再開,アザンクールの戦い
1420トロア条約によりヘンリ5世のフランス王位継承権が認められる
1429ジャンヌ・ダルクの活躍にによるオルレアン解法,シャルル7世の戴冠
1453百年戦争終結
1455バラ戦争始まる
1461エドワード4世即位(ヨーク朝の始まり)
1476カクストンがイギリス最初の活版印刷所をウェスト民スタに開く
1483リチャード3世,エドワード5世を廃し,即位
1485ボズワースの戦いでリチャード3世敗死.ヘンリ7世即位(テューダー朝の始まり)
1501皇太子アーサーとアラゴンのキャサリンの結婚,翌年アーサー死去
1509ヘンリ8世即位,アラゴンのキャサリンとの結婚
1529宗教改革議会の始まり(〜36)
1534国王至上法により国教会の確立
1536小修道院解散,ウェールズの合同
1539大修道院解散
1541ヘンリ8世,アイルランド王を称する
1542スコットランド,イングランド侵攻に失敗し,国王ジェイムズ5世敗死;メアリ・ステュアートの即位
1547エドワード6世即位,プロテスタント化の進展
1559国王至上法・礼拝統一法により国教会の再確立
1567スコットランド女王メアリ・ステュアート廃位,イングランドへ亡命
1569北部反乱,翌年に鎮圧
1587メアリ・ステュアートの処刑
1588スペイン無敵艦隊の襲来
1600東インド会社設立
1603エリザベス1世死去,ジェイムス1世即位(ステュアート朝の始まり)
1605火薬陰謀事件
1628権利の請願
1639主教戦争始まる
1640長期議会開会
1642国王軍と議会軍の内戦勃発
1648議会からの長老派の追放
1649チャールズ1世の処刑,王政・貴族院を廃し,共和制が成立;クロムウェルのアイルランド征服
1652第1次英蘭戦争(〜54)
1653クロムウェル護国卿となる(〜56)
1660王政復古
1665第2次英蘭戦争;ロンドンでベスト流行
1666ロンドン大火
1685ジェイムズ2世即位,モンマス公の反乱
1688名誉革命
1689ウィリアム3世・メアリ2世の即位;権利の章典制定
1694イングランド吟嚢設立;メアリ2世死去
1702アン女王即位,スペイン継承戦争への参戦
1707スコットランドとの合同
1714ジョージ1世即位(ハノーヴァ朝の始まり)
1720南海泡沫事件,混乱収拾のため翌年ウォルポール大蔵卿に就任
1739対スペイン戦争開始,翌年オーストリア継承戦争に
1745じゃこバイトの反乱(〜46)
1757プラッシーの戦い
1774アメリカ独立戦争始まる(〜83);この頃,産業革命が本格的に進行
1789フランス革命の勃発
1793第1回対仏大同盟
1799第2回対仏大同盟
1802アミアンの和約
1805第3回対仏同盟;ネルソン,トラファルガー沖海戦でフランス・スペイン艦隊を撃破
1807奴隷貿易の禁止
1815穀物法制定;ウィーン議定書;ワーテルローの戦い
1819ピータールーの虐殺
1829カトリック解放法の成立
1830マンチェスター・リヴァプール間の鉄道開通
1832第1次選挙法改正
1833帝国内での奴隷制廃止決定;工場法制定
1838人民憲章の講評,以後40年代末までチャーティスト運動の盛上り
1840アヘン戦争(〜42)
1846穀物法廃止
1851ロンドンで初めての万国博覧会
1854クリミア戦争(〜56)
1857インドでセポイの反乱
1858東インド会社解散,インドは直轄統治領となる
1867第2次選挙法改正
1875スエズ運河株の購入
1877ヴィクトリア叙法,「インド皇帝」を称する
1880今日一区法により,就学の義務化
1881スーダンでマフディーの乱
1882イギリスによるエジプトの単独占領
1884フェビアン協会の結成;第3次選挙法改正
1887ヴィクトリア女王即位50周年記念式典;第1回植民地会議
1893独立労働党の結成
1897ヴィクトリア女王即位60周年記念式典
1899南アフリカ戦争始まる(〜1902)
1901ヴィクトリア女王死去,エドワード7世即位
1902日英同盟の締結
1904英仏協商の締結
1907英露協商締結により,三国協商の成立
1908老齢年金法制定
1910ロイド=ジョージ人民予算案
1911国民保険法制定
1914アイルランド自治法の成立(実施は第1次世界大戦のため延期);第1次世界大戦勃発(〜18年)
1916アイルランドで即時独立を求めるイースター蜂起
1918第4次選挙法改正,30歳以上の女性に参政権が認められる
1919パリ平和会議(〜20)
1920アイルランド島地方
1922アイルランド自由国成立
1924マクドナルド首相による初の労働党内閣成立
1931ウェストミンスタ憲章によりコモンウェルス(英連邦)の発足
1932オタワの帝国経済会議,帝国のブロック経済圏化
1935インド統治法
1936エドワード8世,結婚問題で退位
1938ミュンヘン会談
1939第2次世界大戦勃発(〜45)
1940チャーチルによる戦時挙国一致内閣(〜45)
1941チャーチルとルーズベルト大統領,大西洋憲章を発表
1942ベヴァリッジ報告書発表
1945アトリー首相の労働党内閣発足,主要産業の国有化を進める
1947インド・パキスタンの独立
1951英国祭の開催
1952エリザベス2世即位
1956スエズ戦争;1950年代後半から60年代にかけて,アフリカの植民地の独立相次ぐ
1962ビートルズのレコード・デビュー
1968北アイルランド紛争始まる
1971通貨の
1972北アイルランドの自治停止
1973EC(ヨーロッパ共同体)加盟の発行
1973地方行政区画の大幅な改変
1979サッチャー保守党政権の発足
1982フォークランド戦争
1984中国との要諦により1997年の香港返還を決定
1986狂牛病の発症を初めて確認
1990「人頭税」への反対運動が盛り上がる;サッチャー退陣
1992欧州通貨制度(ERM)を離脱
1997ブレア労働党内閣の成立;ダイアナ本皇太子妃事故死;スコットランド・ウェールズの地域議会設置を問う住民投票により,設置が決定
1999貴族院の改革により,世襲貴族の議員資格を大幅に制限
2000各地が洪水の被害に見舞われる
2001家畜に口蹄疫が大流行;総選挙でブレア率いる労働党の圧勝


 ・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.

Referrer (Inside): [2018-11-05-1]

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2018-10-29 Mon

#3472. 慶友会講演 (1) --- 「歴史上の大事件と英語」 [keiyukai][hel_education][slide][christianity][runic][latin][loan_word][bible][norman_conquest][french][ame_bre][spelling][webster][history]

 一昨日,昨日と「#3464. 大阪慶友会で講演します --- 「歴史上の大事件と英語」と「英語のスペリングの不思議」」 ([2018-10-21-1]) で案内した大阪慶友会での講演が終了しました.参加者のみなさん,そして何よりも運営関係者の方々に御礼申し上げます.懇親会も含めて,とても楽しい会でした.
 1つめの講演「歴史上の大事件と英語」では「キリスト教伝来と英語」「ノルマン征服と英語」「アメリカ独立戦争と英語」の3点に注目し「英語は,それを話す人々とその社会によって形作られてきた歴史的な産物である」ことを主張しました.休憩を挟んで180分にわたる長丁場でしたが,熱心に聞いていただきました.通時的な視点からみることで,英語が立体的に立ち上がり,今までとは異なった見え方になったのではないかと思います.
 この講演で用いたスライドを,以下にページごとに挙げておきます.

   1. 「歴史上の大事件と英語」
   2. はじめに
   3. 英語史の魅力
   4. 取り上げる話題
   5. I. キリスト教伝来と英語
   6. 「キリスト教伝来と英語」の要点
   7. ブリテン諸島へのキリスト教伝来
   8. 1. ローマン・アルファベットの導入
   9. ルーン文字とは?
   10. ルーン文字の起源
   11. 知られざる真実 現存する最古の英文はルーン文字で書かれていた!
   12. 古英語アルファベットは27文字
   13. 2. ラテン語の英語語彙への影響
   14. ラテン語からの借用語の種類と謎
   15. 外来宗教が英語と日本語に与えた言語的影響の比較
   16. 3. 聖書翻訳の伝統の開始
   17. 各時代の英語での「主の祈り」の冒頭
   18. 聖書に由来する表現
   19. 「キリスト教伝来と英語」のまとめ
   20. II. ノルマン征服と英語
   21. 「ノルマン征服と英語」の要点
   22. 1. ノルマン征服とは?
   23. ノルマン人の起源
   24. ノルマン人の流入とイングランドの言語状況
   25. 2. 英語への言語的影響は?
   26. 語彙への影響
   27. 英語語彙におけるフランス借用語の位置づけ
   28. 語形成への影響
   29. 綴字への影響
   30. 3. 英語への社会的影響は?
   31. 堀田,『英語史』 p. 74 より
   32. 「ノルマン征服と英語」のまとめ
   33. III. アメリカ独立戦争と英語
   34. 「アメリカ独立戦争と英語」の要点
   35. 1. アメリカ英語の特徴
   36. 綴字発音 (spelling pronunciation)
   37. アメリカ綴字
   38. アメリカ英語の社会言語学的特徴
   39. 2. アメリカ独立戦争(あるいは「アメリカ革命」 "American Revolution")
   40. アメリカ英語の時代区分
   41. 独立戦争とアメリカ英語
   42. 3. ノア・ウェブスターの綴字改革
   43. ウェブスター語録 (1)
   44. ウェブスター語録 (2)
   45. ウェブスターの綴字改革の本当の動機
   46. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめ
   47. おわりに
   48. 参考文献

Referrer (Inside): [2018-10-31-1] [2018-10-30-1]

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2018-10-19 Fri

#3462. 5つの爵位の2番目 marquess [history][title][suffix]

 イングランドで14世紀半ばに完成した「5つの爵位」の第1位について,「#3446. 5つの爵位の筆頭 duke」 ([2018-10-03-1]) で紹介した.爵位の第2位は marquess /ˈmɑːkwəs/ (侯爵)である.単語としては,ラテン語の marchio に遡り,これはフランク王国や神聖ローマ帝国において,「蛮族」との国境地帯(辺境区= march)を守護する最高司令官に起源をもつ.帝国にとって辺境区とは国境を定める最重要地帯であり,ここに有能な司令官を置くことは統治の要諦である.「辺境伯」は田舎の貴族などではなく,帝国拡張の最前線で奉仕する一級の貴族だったのである.marquess とは,上位の duke 位を射程に収めた,相当な身分だったとみてよい.イングランドでの初めての授爵は1385年であり,単語としての初出も多少前後するにせよ14世紀中のようだ.
 イギリス以外では marquis /ˈmɑːkwəs, mɑːˈkiː/という綴字・発音が用いられる.ちなみに侯爵夫人はイギリスでは marchioness /mˈɑːʃənəs/, イギリス以外では marquise /mɑːˈkwiːz/ である.念のために述べておくが,marquess の -ess を女性接尾辞と間違えてはいけない.
 ただし,上に記した綴字や発音の区別には伝統に基づく微妙な基準があるようで,1905年の NED (後の OED)には次のような記述があったという.

N.E.D. (1905) notes s.v. 'The prevailing spelling in literary use appears to be marquis. Some newspapers, however, use marquess, and several English nobles bearing the title always write it in this way.' The official spelling used in the Roll of the House of Lords is marquess, which is the usual spelling for the title in the British and Irish peerage; marquis is reserved for the foreign title (in Scotland, however, marquis is sometimes preferred for pre-Union creations, apparently in memory of the 'Auld Alliance' with France). The spelling marquess is sometimes extended to non-French foreign titles.


 プライド,伝統,国際関係,綴字と発音の関係などの諸要因が加味された上で,「侯爵」の形態が決まってくるというのがおもしろい.

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2018-10-18 Thu

#3461. 警官 bobby [prime_minister][etymology][personal_name][eponym][slang][history]

 昨日の記事「#3460. 紅茶ブランド Earl Grey」 ([2018-10-17-1]) で,イギリス首相に由来する(といわれる)紅茶の名前について触れた.同じくイギリス首相に由来する,もう1つの表現を紹介しよう.イギリスで警官のことを俗語で bobby と呼ぶが,これは首都警察の編成に尽力した首相・内務大臣を歴任した Sir Robert Peel (1788--1850) の愛称,Bobby に由来するといわれる.

Sir Robert Peel

 Peel は,19世紀前半,四半世紀にわたってイギリス政治を牽引した政界の重鎮である.初期の業績としては,Metropolitan Police Act を1828年に通過させ,翌1829年,首都警察を設置したことが挙げられる.その後,bobby が警官の意の俗語となっていった.いつ頃からの用法かは正確にはわからないが,OED の初例は1844年のものである.

1844 Sessions' Paper June 341 I heard her say..'a bobby'..it was a signal to let them know a policeman was coming.


 首都警察の設置と同じ1829年には「カトリック教徒解放法案」も成立させており,著しい敏腕振りを発揮している.Peel は党利党略ではなく国家の利益を第一に考えた(この点では,昨日取り上げた Earl Grey も同じだった).Peel はもともと地主貴族階級の砦であった「穀物法」を切り崩すことを目論んでいたが,1845年のアイルランドのジャガイモ飢饉を機に,穀物法廃止に踏み切る決断を下した.そして,翌年に廃止を実現した.19世紀の大改革を次々と成し遂げた首相だった.
 なお,同じく俗語の「警官」として実に peeler という単語もあるので付け加えておきたい.

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2018-10-17 Wed

#3460. 紅茶ブランド Earl Grey [prime_minister][etymology][personal_name][eponym][history]

 一般には Earl Grey といえば,紅茶の高級ブランドが想起されるかもしれない.Twinings にも同名の製品があるが,もともとは Jackson's 社製である.柑橘類の一種ベルガモット (bergamot) で香りづけをした癖のある風味で知られる.名前の由来は,しばしば 2nd Earl Grey こと Charles Grey (1764--1845) が,中国から帰任したときに持ち帰った中国茶のブレンド法にあるとされるが,この説の真偽のほどは定かではない.何しろ Earl Grey's mixture として現われる初例は,Grey が亡くなってから数十年も経った1884年のことなのだ.OED によるレポート Early Grey: The results of the OED Appeal on Earl Grey tea では,問題の紅茶ブランドの名前の由来について突っ込んだ記述があるので必読.

Earl Grey

 Earl Grey は,1830--34年に首相を務めたホイッグの政治家である.Eton と Cambridge で教育を受けた典型的な貴族で,22歳のときに国会議員となり,若いときから浮き名を流していた.しかし,Grey は George IV が王妃キャロラインを離縁させようと画策した際に王妃をかばい続けたことから,その後も王に嫌われ続け,おりしも自由トーリ主義の潮流にあって,政治的には長らく干されることになった.しかし,George IV が1830年に亡くなると,Grey に復活の機会が訪れた.新しく即位した William IV は Grey の古くからの親友だったからだ.ホイッグが政権を取り戻し,首相となった Grey (任期1830--34年)は,悲願だった選挙法改正を実現すべく邁進した.1831年,Grey の提示した改正法案は貴族院で否決されてしまったが,それを受けて民衆暴動が勃発.翌1832年,再び法案が議会にかけられ,紆余曲折を経ながらも結果として通過した.世にいう the First Reform Bill である.これによって年価値10ポンド以上の家屋・店舗・事務所などを所有する者や借家人にも選挙権が与えられることになり,有権者の数はイギリス全体で50万人から81万人にまで増えた.特にスコットランドでは4500人から5万5000人へと急増したという.
 19世紀の大衆民主政治の立役者と香り豊かなミルクティーとの間に,実際のところどのような関係があるのか,真実を知りたいところである.

Referrer (Inside): [2018-10-18-1]

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2018-10-03 Wed

#3446. 5つの爵位の筆頭 duke [me][history][title]

 イギリスの爵位として,公侯伯子男の5つが知られている.duke (公爵), marquess (侯爵), earl (伯爵), viscount (子爵), baron (男爵)である.14世紀半ばまでは,議会に参加する世俗諸侯は,大雑把に earlbaron かに分類される程度だったが,この時期から5つの爵位が定着していく.爵位名はそれぞれ独自の由来をもち,ここに合流して初めてセットとして捉えられるようになった.
 筆頭の duke (公爵,大公)に注目しよう.この語は,ラテン語 dux, duc- (軍勢の指導者)に起源をもつ.対応する動詞は ducere (導く)である.dux はフランス語 duc を経て,初期中英語に duk, duc などとして入ってきたが,当初は「小国の君主」「指導者」ほどの意味であり,爵位の筆頭としての「公爵」の意に用いられるのは14世紀前半のことである.
 dux はローマ帝国の拡大に貢献した軍団の長を指す語だったが,帝国崩壊の後,フランク王国などで最上位の称号となった.ノルマン征服以降のイングランド王はノルマンディ公爵でもあったために,自身と同じ格付けを軽々に与えるのをよしとせず,公爵位の授爵をためらってきたが,14世紀になるとそれも解禁されるようになった.イングランドで最初に「公爵」の地位を与えられたのは Edward III の子の Edward (後に黒太子 "Black Prince" と呼ばれる)であり,彼は1337年に Duke of Cornwall に叙せられた.その後,彼の弟たちにも公爵位が与えられ,Duke of Clarence, Duke of Lancaster, Duke of York, Duke of Gloucester などが誕生した.
 女性形 duchess (公爵夫人)も同じ時期に英語に入ってきており,duchy (公国,公国領)もしかりである.これらの派生語で第2子音が /ʧ/ と破擦音化しているのはフランス語での発音を反映したものである.前者は,16--19世紀には発音に引かれて dutchess の綴字で用いられることが多かった.

Referrer (Inside): [2018-10-19-1]

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2018-09-24 Mon

#3437. ノルマン征服に従軍したフランドル人 [history][flemish][norman_conquest][me_text]

 昨日の記事「#3436. 英語と低地諸語との接触の歴史」 ([2018-09-23-1]) の (2) で,ノルマン征服に付き従った外国軍のなかにフランドル人がおり,征服後もブリテン島に残ったらしいと述べた.これに関して,1338年頃に詩人 Robert Mannyng of Brunne が訳した Chronicle のなかに,次のような言及がある.Baugh and Cable (108) に引かれているものを現代語訳とともに再掲する.

To Frankis & Normanz, for þar grete laboure,
To Flemmynges & Pikardes, þat were with him in stoure,
He gaf londes bityme, of whilk þer successoure
Hold ȝit þe seysyne, with fulle grete honoure.

To French and Normans, for their great labor,
To Flemings and Picards, that were with him in battle,
He gave lands betimes, of which their successors
Hold yet the seizin, with full great honor.


 Chamson (285) は,この記述を受けて次のように述べている.

The last two lines, referring to lands held by the successors of the foreign troops, indicate that the Flemings remained in Britain. Other non-Norman foreigners, e.g. the Bretons, are known to have left Britain after their service to William. During the conquest and its aftermath, large numbers of traders and mercenaries from the Low Countries came to Britain.


 フランドル人は,ノルマン征服の最中とその後に,その立ち位置から,ノルマン人とイングランド人を結びつける役割を演じたと考えることができるかもしれない.軍事・経済的にそうだったとすれば,言語的にもそうだったのではないかと,確かに考えてみたくなる.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
 ・ Chamson, Emil. "Revisiting a Millennium of Migrations: Contextualizing Dutch/Low-German Influence on English Dialect Lexis." Contact, Variation, and Change in the History of English. Ed. Simone E. Pfenninger, Olga Timofeeva, Anne-Christine Gardner, Alpo Honkapohja, Marianne Hundt and Daniel Schreier. Amsterdam/Philadelphia: Benjamins, 2014. 281--303.

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2018-09-23 Sun

#3436. イングランドと低地帯との接触の歴史 [dutch][flemish][contact][borrowing][loan_word][history][anglo-saxon][norman_conquest][sociolinguistics]

 昨日の記事「#3435. 英語史において低地諸語からの影響は過小評価されてきた」 ([2018-09-22-1]) を受けて,Chamson の論文に拠り,英語と低地諸語の話者たちが歴史上いかなる機会に接触してきた(はず)か,略述したい.
 両者の接触の歴史は,時間幅でいえば,5世紀のアングロサクソンのブリテン島への移動の前後の時期から,オランダが超大国として覇権を握った17世紀まで,千年以上に及ぶ.このなかで注目に値するのは,(1) アングロサクソンの渡来の前後,(2) ノルマン征服とその後,(3) 両地域間に毛織物貿易の発達した14--15世紀,(4) オランダの繁栄期である16--17世紀の4つの時期だろう.それぞれについて述べていく.

 (1) アングロサクソンの渡来の前後

 5世紀のアングル人,サクソン人,ジュート人のブリテン島への移動の前後から,他の低地ゲルマン語派の諸部族も同じくブリテン島へ渡っていたことが分かっている.しかし,このように時代が古ければ古いほど,互いの言語の類似性も大きく,借用の決定的な証拠は得にくい.しかし,イングランドの地名のなかに "Frisians" や "Flemings" の存在を示すものが少なくないことに注意すべきである.例えば,Dunfries, Freseley, Freswick, Frisby, Friesden, Friesthorpe, Frieston, Friezland, Frisby, Frisdon, Frizenham, Frizinghall, Frizingon, Fryston; Flemingtuna, Flameresham, Flemdich, Flemingby など.人名でも,Flandrensis, Fleemeng, Flammeng, Flameng, Flemang, Fleamang, Flemmyng, Flamenc, Flemanc などの "Flemings" の異形が,現代でもイギリス人に多く残っている.

 (2) ノルマン征服とその後

 ノルマン征服の折に William に付き従った外国軍のなかには,多くのフランドル人がいた.また,William の妻 Matilda はフランドル伯 Baldwin V の娘だったこともあり,フランドル人の貢献は際立っていた.征服後もこれらのフランドル人はブリテン島にとどまったらしい.
 1107年頃にフランドルで洪水があった際に,Henry I は,被災したフランドル人がイングランド北部に移住することを許可した.それに伴って大量のフランドル人が押し寄せ,世紀半ばには彼らを Wales の南西端 Pembrokeshire に再移住させるなどの事態にも発展している (see 「#3292. 史上最初の英語植民地 Pembroke」 ([2018-05-02-1])) .結果として,Pembrokeshire 南部ではウェールズ人を押しのけてフランドル人が定住するようになり,その人口状況は16世紀の記述にもみられるほどである.
 ほかに,12世紀後半には,Henry II とその子供たちの争いにおいてフランドル人の軍隊が利用されたこともあった.さらに,12世紀以降には,Norwich や Norfolk などのイングランド東部の町は,低地帯からの入植者で満たされ,フランドルとの羊毛貿易でおおいに栄えた(特に Norwich は London に次ぐ人口の町となった).彼らは,征服者アングロノルマン人とイングランド人のつなぎの役目を果たした可能性もある.

 (3) 両地域間に毛織物貿易の発達した14--15世紀

 上記のように征服後間もない頃から,羊毛・織物産業を基盤とする両地域の貿易は大いに栄えてきたが,必ずしも常に仲むつまじい関係だったわけではない.14世紀からは貿易摩擦に由来する敵対心が芽生えたこともあった.イングランド東部やスコットランドに多数のフランドル人が移住し,イングランドの労働者の間に不満が生じるほどになった.国王は,貿易による利益獲得とイングランド国民の経済的保護とのあいだで難しい舵取りを迫られていたのである.しかし逆にいえば,この時代,両者が日常的に密に接触していた証左でもある.

 (4) オランダの繁栄期である16--17世紀

 16--17世紀には,低地帯はヨーロッパ全体に巨大な影響力を及ぼす地域へと成長しており,アントワープやブリュージュはヨーロッパを代表する都市となっていた.16世紀後半,低地帯はスペイン支配からの独立を巡る争いのなかで,プロテスタントの北部とスペイン支配が続く南部とに分裂した.この争いを受けて,南部からの移民が大量にイングランドに渡ってきた.その後も宗教・政治的争いに起因する万単位の移民の波が17世紀半ばまで数十年間も続き,低地帯とイングランドの人々の間に,歴史上最も大規模で親密な関係が築かれることとなった.

 以上,具体的な言語接触の過程や結果には触れなかったが,歴史上,両者の接触が間断なく続いていたことを,Chamson の論文に拠って示した.これは,語彙借用を含む言語的な影響を相互に容易たらしめた社会言語学的条件と見ることができるだろう.

 ・ Chamson, Emil. "Revisiting a Millennium of Migrations: Contextualizing Dutch/Low-German Influence on English Dialect Lexis." Contact, Variation, and Change in the History of English. Ed. Simone E. Pfenninger, Olga Timofeeva, Anne-Christine Gardner, Alpo Honkapohja, Marianne Hundt and Daniel Schreier. Amsterdam/Philadelphia: Benjamins, 2014. 281--303.

Referrer (Inside): [2018-09-24-1]

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2018-09-19 Wed

#3432. イギリス議会の起源ともいうべきアングロ・サクソンの witenagemot [etymology][oe][anglo-saxon][parliament][history][monarch][compound]

 ウェセックスのアルフレッド大王の孫に当たるアゼルスタン(Athelstan; 在位 924--40年)は,ウェセックス王にとどまらず,事実上の最初のイングランド王と呼ぶべき存在である.彼は937年のブルナンブルフの戦いで軍功をあげたほか,アルフレッド大王が作った州制を発展させ,法典を編纂し,銀ペニー貨の鋳造権を獲得し,諸外国と同盟するなどの業績を重ねた.君塚 (20--21) によれば,

 しかしアゼルスタンにとって最大の功績は,のちの国王評議会や議会の起源ともいうべき機関を設置したことであろう.アゼルスタン以降の国王は「立法」に深く携わるようになり,そのために定期的に有力者たちとの会議を開くようになった.王が司教や伯(エアルダーマン)らに相談して立法を行う慣習は,ノーサンブリアのエドウィン王の時代(六二〇年代)やウェセックスのイネ王の時代(六九〇年代)にも見られたが,アゼルスタンはこれをさらに大規模なものとし,キリスト教の重要な行事であるキリスト降誕祭(一二月),復活祭(四月頃),聖霊降臨祭(五月頃)に定期的に開催するようになった.
 これが「賢人会議」(ウィテナイェモート)と呼ばれるものである.イングランド各地から代表者を集めた会議で,カンタベリーとヨークの大司教,多くの司教や大修道院長たち,伯(エアルダーマン)らの有力貴族,豪族(セイン)らが出席するようになり,地方的な問題よりも,イングランド全体に関わる外交や防衛問題,さらには律法や司法に関わる問題を主に協議した.そしてこの会議に集まるようになった有力者たちにとって大切な役割となったのが,先王の死から次王の継承までの間に問題が生じないよう調整するという,まさに王位継承規範に関わる事柄であった.
 賢人会議は,前期のキリスト教行事とは関わりのない時期にも召集されたが,復活祭の会議では春の軍事遠征に関わる相談も頻繁に行なわれた.また時代が下るとともに,出席者の席次(序列)も徐々に形成されるようになっていった.


 アゼルスタンの設置した「賢人会議」は,古英語では witenagemōt と言い表した.これは witena + gemōt の2語からなる複合語であり,前者 witena は「賢人;評議員」を意味する名詞 wita の複数属格形である.この名詞は,現代英語の名詞 wit (cf. 古英語動詞 witan 「知る」)や形容詞 wise と語源的に関連している.
 後者 gemōt は「会議」を意味する名詞だが,これ自体は接頭辞 ge- と名詞 mōt に分解される.ge- は集合を表わす接頭辞で,中英語以降に弱化し消失していったが,yclept, yclad, alike, among, enough, either, handicraft, handiwork などの母音に痕跡を残す.mōt は,語源的に meet (会う)と関係しており,現代では moot という語形で「議論の余地のある」を意味する形容詞として用いられている.
 したがって,witenagemōt の意味はまさに「賢人たちが集合する会議」である.なお,現代英語での歴史用語としての発音は /ˈwɪtnəgəˌmoʊt/ となる.
 ノルマン征服以降の議会 (parliament) については,「#2334. 英語の復権と議会の発展」 ([2015-09-17-1]) と「#2335. parliament」 ([2015-09-18-1]) を参照.また,アングロサクソン王朝の系図と年表について,「#2620. アングロサクソン王朝の系図」 ([2016-06-29-1]) と「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) をどうぞ.

 ・ 君塚 直隆 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』 中央公論新社〈中公新書〉,2015年.

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2018-09-17 Mon

#3430. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の目次 [toc][history]

 目次シリーズとして,新書のイギリス史,君塚直隆(著)『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の目次をお届けしよう.よくできた目次は,そのテーマについてざっと復習するのにとても役立つ.



  第1章 古代のブリテン島 ―― 先史時代〜11世紀
    石器時代から青銅器時代へ
    「ブリタニア」の誕生 ―― ケルト文化の伝来
    カエサルのブリタニア遠征
    ローマン・ブリテンの始まり
    長城の建設から協約締結へ
    大帝の出現とローマからの離反
    アングロ・サクソンの渡来
    七王国の形成
    オファ王の登場
    デーン人の襲来とアルフレッド大王
    最初の「イングランド王」の誕生と「賢人会議」
    エドガー王の戴冠式
    デーン人の再襲来
    「征服王」カヌートの登場
    強すぎる家臣たちの存在
    証聖王の死と三つ巴の抗争
    ノルマンディ公ギョーム=ウィリアム1世の戴冠式
  第2章 ノルマン王朝のイングランド ―― 11〜12世紀
    ウィリアム征服王の登場 ―― フランス語による支配
    祖法を守るウィリアム1世
    ノルマンディ防衛のための供給源
    「アングロ=ノルマン王国」の悲劇
    征服王の死と赤顔王の即位
    ロベールの十字軍参加と赤顔王の急死
    ヘンリ1世即位とアングロ=ノルマンの再統合
    イングランド統治構造の確立
    御曹司ウィリアムの悲劇
    「皇妃」マティルダの登場
    ブーローニュ伯の上陸 ―― スティーヴンの即位
    二〇年にわたる内乱へ
    皇妃と王妃の抗争 ―― 二人のマティルダ
    終息 ―― 皇妃マティルダから息子アンリへ
    内乱が残したもの ―― 女性統治への疑問
  第3章 アンジュー帝国の光と影 ―― 消えないフランスへの野心
    西ヨーロッパ最大の領主の誕生
    領土と王権の回復 ―― 臣従強要と遠征
    カンタベリー大司教ベケットとの対立,そして暗殺
    「諸侯よ,助言を与えたまえ」
    軍役代納金の本格的導入
    息子たちの叛乱
    ヘンリ2世の反撃と死
    獅子心王の即位と「帝国」の動揺
    五男ジョンの登場
    ノルマンディ諸侯の離反と「腰抜け王」
    ローマ教皇との対決 ―― ジョンの破門
    キリスト教支配下,ジョンの屈服
    「在地化」した諸侯対「悪しき取り巻きたち」
    マグナ・カルタ ―― イギリス国制の基本文書
    イギリスに憲法はないのか?
    ヘンリ3世と議会政治の始まり
    大陸への野心と諸侯との対立
    国王への覚書提出と大陸“放棄”
    シモン・ド・モンフォールの議会
  第4章 イングランド議会政治の確立 ―― 13〜14世紀
    長脛王の登場と議会制の強化
    「税収」を求め続けた背景
    行政府の整備 ―― 宮廷と国家の二重構造
    「模範議会」をめぐる諸問題
    議会の「休会」と戦局の好転
    「ウェールズ大公」位の確保 ―― グウィネッズ君公国崩壊
    スコットランドとの死闘
    ガスコーニュ戦争と長脛王の死
    ギャヴィストン溺愛とスコットランド放棄
    エドワード2世の廃位
    エドワード3世による親政
    二院制の始まり ―― 貴族の登場
    五つの「爵位」の成立
    庶民院の拡充 ―― 騎士と市民
    庶民院への「請願」と仏語から英語へ
    「善良議会」 ―― 議会の地位確立
    イングランド独自の道?
  第5章 百年戦争からバラ戦争へ ―― フランスと王位をめぐって
   英仏百年戦争の始まり
   エドワード父子の栄光と死
   一〇歳の少年王の登場
   ワット・タイラーの乱と忠臣政治
   ダービー伯爵への仕打ち
   国王廃位からダービー伯爵即位へ
   ランカスター王家と議会の協調
   内乱の終息と皇太子ハリーの台頭
   ヘンリ5世によるフランス進攻
   連戦連勝,フランスの屈服
   ヘンリ6世=「アンリ2世」の即位
   百年戦争敗北からの神経性発作
   ヨーク公の台頭から「バラ戦争」へ
   エドワード4世の早世と混迷の時代
   グロウスター侯爵の即位
   ボズワースの戦い ―― ヨーク王朝滅亡
  第6章 テューダー王朝と近代の夜明け ―― 国家疲弊下の宗教対立
    ヘンリ7世 ―― 最も有能な実務家
    弱小国化していたイングランド
    ヘンリ7世の同盟戦略
    「ルネサンス王」ヘンリ8世の登場
    離婚問題からの宗教改革議会
    教皇からの破門 ―― イングランド国教会の成立
    「帝国」の拡張と王の死
    少年王のはかない治世
    「九日間」の女王
    「血まみれメアリ」の登場
    カトリックへの復帰宣言
    スペイン王への反発とメアリへの憎悪
    エリザベス1世の登場 ―― 妖精女王と国教会の復活
    処女女王の外交政策 ―― ちらつかせる結婚
    無敵艦隊撃破と女王の「手紙」
    優柔不断 ―― 現実のエリザベス
    エリザベス1世時代の議会
    「グロリアーナ」の死
  第7章 清教徒・名誉革命の時代 ―― 17世紀の変化
    哲人王の即位と祖法の遵守
    合邦の夢と宗教の「棲み分け」
    浪費と議会への不信
    三十年戦争と「平和王」の苦悩
    チャールズ1世の登場 ―― 「平和王」から「戦争王」へ
    議会不在の一一年 ―― 「絶対君主制」への信奉
    内戦 ―― 国王と議会の武力衝突
    首を斬られた国王 ―― 清教徒革命
    共和制の始まり ―― 庶民院と国務会議
    護国卿体制の光と影
    クロムウェルの死と二院制復活
    王政復古
    改宗していた王弟ジェームズ
    トーリとホイッグの登場
    国王の反動化と名誉革命
    名誉革命の意義
    イングランド外交の転換期
    スコットランド合邦と王朝の終焉
  第8章 ハノーヴァー王朝下の議院内閣制確立 ―― 長い18世紀
    ハノーファー選帝侯ゲオルク
    ホイッグ優越時代の始まり
    スタナップ国務大臣への過度な信頼
    貴族法案をめぐる躓き
    南海泡沫事件とウォルポールの復活
    「ウォルポールの平和」の時代
    ウォルポールの辞任と「首相」の登場
    ペラム兄弟と「二重内閣」の終焉
    度重なる戦争から「奇跡の年」へ
    「愛国王」ジョージ3世の登場 ―― ビュート伯爵の重用
    各派の台頭と国王の政治力
    ノース政権とアメリカの独立
    議会改革の要求
    国王の頑なな抵抗
    ピット政権下の摂政制危機
    フランス革命と「ピット氏の黄金」
    アイルランド合邦化 ―― カトリック問題とピット辞任
    政党政治の混迷と摂政の登場
    「長い一八世紀」とイギリスの勝利
  第9章 イギリス帝国の黄金時代 ―― 19世紀の膨張
    戦後不況と強圧政治の時代
    キャロライン王妃事件 ―― 王権の弱体化
    自由ウトーリ主義の時代
    カトリック解放への道 ―― ピールの豹変
    グレイ政権下の選挙法改正
    貴族院の秘訣と民衆暴動
    国王による最後の首相更迭
    妖精女王の登場と民衆運動の勃興
    国益と改革 ―― ピール政権下の穀物法廃止
    二大政党制の確立 ―― 自由党の結成
    二大政党と大衆民主政治の予兆
    グラッドストンとディズレーリ
    老大人の再起 ―― 大衆政治の深化
    アイルランド自治問題の紛糾
    二度のジュビリーと女王の死
  第10章 第一次世界大戦 ―― いとこたちの戦争と貴族たちの黄昏
    バーティによる王室外交の時代
    自由貿易という「信仰」 ―― 保守党の分裂
    「人民予算」を賭けた総選挙
    貴族院改革と国王の死
    新王の登場 ―― 貴族院権限の大幅縮小
    アイルランド自治問題の再燃
    第一次世界大戦の衝撃 ―― 徴兵制導入と「総力戦」
    ロイド=ジョージ政権の光と影
    総力戦後 ―― 貴族政治から大衆民主政治へ
    アイルランド自由国の成立
    自由党の没落,労働党の勃興
    貴族院首相の終焉と労働党政権の成立
    世界恐慌下の挙国一致政権
    「英連邦諸国」の確立へ
  第11章 第二次世界大戦と帝国の溶解
    ジョージ5世の死
    「王冠を賭けた恋」
    脆弱な「ヴェルサイユ体制」
    平和の崩壊と独裁者たちの台頭
    チェンバレン首相の宥和政策とその破綻
    ドイツへの宣戦布告 ―― 連合国の敗退
    チャーチルの首相就任
    「ブリテンの戦い」からアメリカ参戦へ
    対独戦略とヤルタでの悲哀
    チャーチルの敗北 ―― 一〇年ぶりの総選挙
    アトリー政権下の戦後復興
    社会福祉国家の確立
    解体するイギリス帝国
    米ソ冷戦のなかで
    チャーチル再登板 ―― 合意政治の時代へ
    ひとつの時代の終わり
  第12章 エリザベス2世の時代 ―― 「英国病」からの蘇生
    悲しい帰国と華やかな戴冠式
    老臣チャーチルと「三つのサークル」
    スエズ戦争の蹉跌 ―― 世界中からのイギリス批判
    貴族制度の変容 ―― ヒューム首相就任の背景
    保守党党首選の開始
    英国病 ―― ポンド切り下げと「撤兵」
    イギリス政治の迷走 ―― 国民投票の容認
    サッチャー革命 ―― 「小さな政府」へ
    サッチャー外交と女王との確執
    ブレア政権の誕生 ―― 「第三の道」の提唱
    地方分権化 ―― イングランド以外への権限委譲
    「世襲議員」改革へ
    ブレアの「大統領型」統治
    ブレアの挫折 ―― イラク戦争参戦問題
    議会政治と二大政党制のゆくえ
    在位六〇周年記念式典の陰で



 ・ 君塚 直隆 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』 中央公論新社〈中公新書〉,2015年.

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2018-08-12 Sun

#3394. 歴代イングランド君主と配偶者の一覧 [timeline][history][monarch]

 「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) でも似たような一覧を示したが,ウィリアム1世以降について,より詳しい「国王及び王妃(婿)一覧表」を森 (626--31) に見つけたので掲げておきたい.王妃(婿)の情報まで含まれているのが便利かつ興味深い.

王及び王妃(婿)生年結婚在位没年王妃(婿)の出身
●ノルマン王家
ウィリアム1世1027?1050?1066--10871087
   マティルダ・オブ・フランダース10311050?1083フランドル
ウィリアム2世1060?1087--11001100
ヘンリー1世1068110001100--11351135
   (1) マティルダ・オブ・スコットランド108011001118スコットランド
   (2) アデライザ・オブ・ルーヴァン110211211151フランス
スティーヴン1097?11151135--11541154
   マティルダ・オブ・ブーローニュ1103?11151152アングロ・ノルマン
●プランタジニット王家
ヘンリー2世113311521154--11891189
   エリナー・オブ・アキテーヌ1122?11521204フランス
リチャード1世115711911189--11991199
   ベレンガリア・オブ・ナヴァール117411911230?スペイン
ジョン116711891199--12161216
   (1) イザベル・オブ・グロースター?11891217イングランド
   (2) イザベル・オブ・アングレーム118812001246フランス
ヘンリー3世120712361216--12721272
   エリナー・オブ・プロヴァンス1226?12361291フランス
エドワード1世123912541272--13071307
   (1) エリナー・オブ・カスティル124412541290スペイン
   (2) マーガレット・オブ・フランス1282?12991318フランス
エドワード2世128413081307--13271327
   イザベル・オブ・フランス129213081358フランス
エドワード3世131213281327--13771377
   フィリッパ・オブ・エノー1314?13281369フランドル
リチャード2世136713821377--13991400
   (1) アン・オブ・ボヘミア136613821394ボヘミア
   (2) イザベル・オブ・ヴァロア138913961409フランス
●ランカスター王家
ヘンリー4世136713801399--14141413
   (1) メアリー・ドゥ・ブーン137013811394イングランド
   (2) ジョアン・オブ・ナヴァール1370?14031437スペイン
ヘンリー5世138714201413--14221422
   キャサリン・オブ・ヴァロア140114201437フランス
ヘンリー6世142114441422--1461, 1470--14711471
   マーガレット・オブ・アーンジュ142914441482フランス
●テューダー王家
ヘンリー7世145714861485--15091509
   エリザベス・オブ・ヨーク146514861503イングランド
ヘンリー8世149115091509--15471547
   (1) キャサリン・オブ・アラゴン148515091536スペイン
   (2) アン・ブーリン1507?15331536イングランド
   (3) ジェイン・シーモア1509?15361537イングランド
   (4) アン・オブ・クレーヴズ151515401557フランドル
   (5) キャサリン・ハワード1521?15401542イングランド
   (6) キャサリン・パー1512?15431548イングランド
エドワード6世15371547--15531553
メアリー1世151615541553--15581558
   フェリペ・オブ・スペイン15271554(スペイン王)1556--15981598スペイン
エリザベス1世15331558--16031603
●ステュアート王家
ジェイムズ1世156615891603--16251625
   アン・オブ・デンマーク157415891619デンマーク
チャールズ1世160016251625--16491649
   ヘンリエッタ・マリア160916251669フランス
再興ステュアート王家
チャールズ2世163016621660--16851685
   キャサリン・オブ・ブラガンザ163816621705ポルトガル
ジェイムズ2世163316601685--16881701
   (1) アン・ハイド163716601671イングランド
   (2) メアリー・オブ・モデナ165816731718イタリア
メアリー2世(共同統治)166216771689--16941694
ウィリアム3世(共同統治)165016771689--17021702オランダ
アン166516831702--17141714
   プリンス・ジョージ・オブ・デンマーク165316831708デンマーク
ハノーヴァー王家
ジョージ1世166016821714--17271727
   ゾフィア・ドロテア166616821726ドイツ
ジョージ2世168317051727--17601760
   キャロライン・オブ・アーンズパック168317051737ドイツ
ジョージ3世173817611760--18201820
   シャーロット・オブ・メックレンブルク・シュトゥレリッツ174417611818ドイツ
ジョージ4世176217951820--18301830
   キャロライン・オブ・ブルンスウィック176817951821ドイツ
ウィリアム4世176518181830--18371837
   アデレイド・オブ・サクス・マイニンゲン179218181849ドイツ
ヴィクトリア181918401837--1901
   プリンス・アルバート181918401861ドイツ
サクズ・コバーグ・ゴータ王家
エドワード7世184118631901--19101910
   アレグザンドラ・オブ・デンマーク184118631925デンマーク
●ウィンザー王家
ジョージ5世186518931910--1936
   メアリー・オブ・テック186718931953ドイツ
エドワード8世189419371936--19361972
   (ウォーリス・シンプソン夫人)189619371986アメリカ
ジョージ6世189519231936--19521952
   エリザベス・バウズ・ライアン19001923スコットランド
エリザベス2世192619471952--
   プリンス・フィリップ・マウントバッテン19211947デンマーク


 君主の配偶者の出身地の欄を縦に見ていくと,改めてヨーロッパの様々な国から来ているものだなと感心する.プランタジニット朝のフランスかぶれがよく分かるし,テューダー朝のイングランドへの回帰,そしてハノーヴァー朝のドイツべったりの様子も明らかだ.また,これまで気づかなかったが,イングランド王室が配偶者をデンマークに求める伝統(?)もうっすらと見えてくる.
 ウィリアム1世以前の系図については,「#2620. アングロサクソン王朝の系図」 ([2016-06-29-1]) を参照.

 ・ 森 護 『英国王室史話』16版 大修館,2000年.

Referrer (Inside): [2018-11-05-1]

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2018-07-25 Wed

#3376. 帝国主義の申し子としての英語文献学 [history_of_linguistics][history][[lexicography][oed][ebb][philology]

 標題は「#3020. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (1)」 ([2017-08-03-1]),「#3021. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (2)」 ([2017-08-04-1]) と関連させての話題.19世紀における英語文献学や英語史という分野の発達は,大英帝国の発展と二人三脚で進んでいたという事実が指摘されてきた.児馬 (43) が同趣旨のことを次のように説明している.

 19世紀ヨーロッパのナショナリズムを形成するのに中心的だったのが Oxford English Dictionary (OED) を編纂した James Murray (1837--1915), The English Dialect Dictionary (1896--1905) を編集した Joseph Wright であった.19世紀は英語の辞書・方言学・文献学・文法の黄金時代であり,Murray の OED 編集期間は大英帝国の時代 (The Age of Empire (1875--1914)) と大体一致するのである.OED は,1888年に A New English Dictionary (NED) として第1巻を出版し,1928年に完結し,その後補遺を加えて全11巻として,1933年に完成した.〔後略〕
 大英帝国の拡張と言語科学の発展が並行している.Furnivall (1825--1910) が初期英語テキスト協会 (The Early English Text Society: EETS) を設立したのも1864年,イギリス方言協会の設立も1873年のことであった.Anglo-Saxon を Old English と呼び変えたのも,このような国家と言語を一体化する傾向と無関係ではないかもしれない.


 OEDEDD の編纂は,形式的には決して国家プロジェクトではなく,個人的な事業にちがいなかったものの,大英帝国を背負ってなされた企画という点では,事実上の国家プロジェクトに近い性格をもっていたということができる.
 現在,私たちは英語史を含めた英学の研究において,日々 OED (の改版)の恩恵にあずかり,"Old English" という呼称も当たり前のように使っているが,これらのツールや用語が確立してきた背景に,帝国主義の歴史が深く関わっていることは銘記しておかなければならない.

 ・ 児馬 修 「第2章 英語史概観」服部 義弘・児馬 修(編)『歴史言語学』朝倉日英対照言語学シリーズ[発展編]3 朝倉書店,2018年.22--46頁.

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2018-05-27 Sun

#3317. The Anglo-Saxon Chronicle にみる Hengest と Horsa [anglo-saxon][oe][literature][popular_passage][oe_text][jute][history]

 449年,Hengest と Horsa というジュート人の兄弟がブリトン人を助けるためにイングランドに渡り,その後むしろイングランドを征服してしまうという事件が起こった.このくだりは,The Anglo-Saxon Chronicle に詳しいが,以下では古英語初学者向けに改編された Smith (158--59) より,関連する古英語[2018-05-31-1]原文箇所を引用する.年代記の449年,455年,457年の記述より抜粋したものである.現代英語訳も付いているので,古英語読解の学習にもどうぞ.(別の関連する記述は「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1]) および「#2900. 449年,アングロサクソン人によるブリテン島侵略」 ([2017-04-05-1]) を参照.)

Anno 449. Hēr Martiānus and Valentīnus onfēngon rice, and rīcsodon seofon winter. And on hiera dagum Hengest and Horsa, fram Wyrtgeorne gelaþode, Bretta cyninge, gesōton Bretene on þǣm stede þe is genemned Ypwinesflēot, ǣrest Brettum tō fultume, ac hīe eft on hīe fuhton. Se cyning hēt hīe feohtan ongēan Peohtas; and hīe swā dydon, and sīge hæfdon swā hwǣr swā hīe cōmon. Hīe þā sendon tō Angle, and hēton him sendan māran fultum. Þā sendon hīe him māran fultum. Þā cōmon þā menn of þrim mǣgþum Germānie: of Ealdseaxum, of Englum, of Iotum.

455. Hēr Hengest and Horsa fuhton wiþ Wyrtgeorne þǣm cyninge in þǣre stōwe þe is genemned Æglesþrep; and his brōþor Horsan man ofslōg. And æfter þǣm Hengest fēng tō rīce, and Æsc his sunu.

457. Hēr Hengest and Æsc fuhton wiþ Brettas in þǣre stōwe þe is genemned Crecganford, and þǣr ofslōgon fēower þūsend wera. Þā forlēton þā Brettas Centland, and mid micle ege flugon tō Lundenbyrig.


Anno 449. In this year [lit. here] Martianus and Valentinus succeeded to [lit. received] kingship, and ruled seven years. And in their days Hengest and Horsa, invited by Vortigern, king of [the] Britons, came to Britain at the place which is called Ebbsfeet, first as a help to [the] Britons, but they afterwards fought against them. The king commanded them to fight against [the] Picts; and they did so, and had victory wherever they came. Then they sent to Angeln, and told them to send more help. They then sent to them more help. Then the men came from three tribes in Germany: from [the] Old Saxons, from [the] Angles, from [the] Jutes.

455. In this year Hengest and Horsa fought against Vortigern the king in the place which is called Aylesford; and his brother Horsa was slain [lit. one slew his brother Horsa]. And after that Hengest and Æsc his son succeeded to kingship [lit. Hengest succeeded to kingship, and Æsc his son].

457. In this year Hengest and Æsc fought against [the] Britons in the place which is called Crayford, and there slew four thousand men [lit. of men]. The Britons then abandoned Kent, and with great fear fled to London.


 Hengest と Horsa のブリテン島侵攻については,anglo-saxon の記事のほか,とりわけ以下を参照.

 ・ 「#33. ジュート人の名誉のために」 ([2009-05-31-1])
 ・ 「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1])
 ・ 「#1013. アングロサクソン人はどこからブリテン島へ渡ったか」 ([2012-02-04-1])
 ・ 「#2353. なぜアングロサクソン人はイングランドをかくも素早く征服し得たのか」 ([2015-10-06-1])
 ・ 「#2443. イングランドにおけるケルト語地名の分布」 ([2016-01-04-1])
 ・ 「#2493. アングル人は押し入って,サクソン人は引き寄せられた?」 ([2016-02-23-1])
 ・ 「#2900. 449年,アングロサクソン人によるブリテン島侵略」 ([2017-04-05-1])
 ・ 「#3094. 449年以前にもゲルマン人はイングランドに存在した」 ([2017-10-16-1])
 ・ 「#3113. アングロサクソン人は本当にイングランドを素早く征服したのか?」 ([2017-11-04-1]) を参照.

 ・ Smith, Jeremy J. Essentials of Early English. 2nd ed. London: Routledge, 2005.

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2018-05-13 Sun

#3303. イングランド宗教改革の荒波をくぐりぬけたウェールズ語 [reformation][celtic][linguistic_imperialism][emode][welsh][wales][history][bible][book_of_common_prayer]

 「#3100. イングランド宗教改革による英語の地位の向上の負の側面」 ([2017-10-22-1]) で,16世紀のイングランド宗教改革により,アイルランド,ウェールズ,コーンウォルでは英語の権威は高まったが,ケルト諸語の地位は落ちたと述べた.一方,ウェールズに関しては,「#1718. Wales における英語の歴史」 ([2014-01-09-1]) でみたように,聖書と祈祷書がウェールズ語に翻訳されたため,ウェールズ語がある程度保持される結果となったとも述べた.ウェールズ語については,宗教改革の影響により地位が貶められたのか,保持されたのか,どちらなのだろうか.やや複雑なウェールズの状況について,平田 (27) が明快に解説している.

 宗教関係では,ロンドンの政府は一五六三年に「聖書および祈祷書をウェールズ語に翻訳する法律」を通過させて,聖書と祈祷書をウェールズ語に翻訳させた.これは,言語から見ると諸刃の剣となった.すなわち,一方では,ウェールズ語の保持に貢献したが,その半面で,ウェールズ語は宗教の言語と見なされて,政治の世界から締め出されることになった.それは重要性を持たない言語として,農村部の小作人に残存することになった.
 つまり,一六世紀のウェールズ統治において,ウェールズ語の聖書と祈祷書により,ウェールズ人をイングランド国教会にとどめておく「国教会の政治学」が,英語を広める「英語の政治学」よりも優先していたのである.その結果,宗教儀式ではウェールズ語が使用され,この言語の存続が助長された.聖書や祈祷書の翻訳,イングランド国教会としての説教を現地語で説教できる牧師の派遣を維持することによって,皮肉なことに,抑圧するつもりだった現地語の威信が保たれた.これはイングランド側からは「歴史的失態」と呼ばれる.ウェールズ語の残存はこの「歴史的失態」に依っていた.要するに,宗教改革は,ウェールズ語の聖書をウェールズ人に与え,次の三世紀間,ウェールズ語は宗教の領域で維持された.


 つまり,宗教改革を通じて,ウェールズ語は政治の世界からは追い出されたものの,宗教の世界では命脈を保ったということだ.2つの異なる「世界」に分けて考えることで,一見すると矛盾した宗教改革のウェールズ語への影響がクリアに理解できるようになった.
 その4世紀後の20世紀中に,ウェールズにおけるウェールズ語の地位はめざましく復活していくことになるが,振り返ってみれば,それは16世紀に上記の経緯でウェールズ語の火を絶やさずに済んだからなのだろう.イングランド側にとって「歴史的失態」とみえる意味がわかる.

 ・ 平田 雅博 『英語の帝国 ―ある島国の言語の1500年史―』 講談社,2016年.

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2018-05-12 Sat

#3302.「英語の帝国」のたどった3段階の「帝国」 [history][linguistic_imperialism][periodisation][anglo-saxon]

 5世紀半ばにアングロサクソン人がブリテン島に来住し,その後に建てた国家の領土は,イングランドに始まり,ブリテン島,ブリテン諸島へと拡張し,最終的には北米,カリブ海,南アジア,太平洋,アフリカなど世界中に拡がった.この拡張の流れは,大きく3つの段階に分けて考えることができる.アングロサクソン人の来住以来の経緯を端的にまとめた平田 (10--11) の文章を引用する.

 中世において,イングランドは,ブリテン島の隣人であるスコットランド,ウェールズ,海を越えたアイルランド島を侵略し支配した.イングランドが支配したこれらのブリテン諸島は「イングランド帝国」と呼ばれることがある.英語は中世の長期間をかけて,このイングランド帝国に普及した.
 近代になり,とくに,イングランドとスコットランドが連合した一七〇七年の「グレート・ブリテン」成立以降に海外に獲得した植民地を含む大帝国を「ブリテン帝国」または「大英帝国」と呼ぶ.ブリテン帝国は,北米とカリブ海に領土を広げ,アメリカが独立するとインドを中心にして領土を築いた.近代においては,英語はブリテン諸島を越えてこのブリテン帝国にも広がっていった.
 近代,とくに一九世紀以後,ブリテンは「公式帝国」と区別される「非公式帝国」にも支配を広げた.「非公式帝国」とは「公式帝国」が法律上の帝国なのに対して,経済的・文化的に支配された事実上の帝国を指し,一九世紀におけるブリテンの「非公式帝国」はラテンアメリカ,中東,極東などを含む.英語は「公式帝国」を超えてこの「非公式帝国」と呼ばれる地域にも広がった.日本もこの「非公式帝国」の一つとして論じられることがあり,本書は最後に日本にたどりつく.


 時代とともに「イングランド帝国」,「公式ブリテン帝国」,「非公式ブリテン帝国」と名前こそ変えてきたものの,これらに通底する共通項である「英語」をくくりだして,すべてを俯瞰する名前を付ければ「英語帝国」となる,というのが著者の主張である.英語史と関連づけたイギリス史の帝国主義史観といえるだろう.
 「イングランド帝国」,「公式ブリテン帝国」,「非公式ブリテン帝国」のそれぞれは,非常に緩くではあるが Kachru のいう Inner Circle, Outer Circle, Expanding Circle に対応すると考えられる(「#217. 英語話者の同心円モデル」 ([2009-11-30-1])を参照).
 関連して,「#1919. 英語の拡散に関わる4つの crossings」 ([2014-07-29-1]) も,似たような発想に基づいた英語史観として参照されたい.

 ・ 平田 雅博 『英語の帝国 ―ある島国の言語の1500年史―』 講談社,2016年.

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2018-05-02 Wed

#3292. 史上最初の英語植民地 Pembroke [wales][history][linguistic_imperialism][map]

 「#1718. Wales における英語の歴史」 ([2014-01-09-1]) で示したように,英語がウェールズの地に初めてもらたされたのは,Henry I の治世,12世紀初頭のことだった.1108年に,ウェールズ南西部の Pembrokeshire 南部に,英語を話すイングランド人,フランドル人が入植したとされている.

Map of Wales

 『英語の帝国』を著わした平田 (21) によれば,この英語の移植は,ブリテン諸島における英語の「言語植民地主義」の史上最初の例ととらえられ得るという.

 ウェールズの南西部には中世からイングランド化されていた地域があった.いまのペンブローク州の南部には,一二世紀初頭の中世から英語を話す住民がいた.その理由はよく知られていないが,一一〇八年のヘンリ一世によるイングランド人とフランドル人の入植者(農民,羊毛業者,商人などで,後発のフランドル人がイングランド人から英語を学んだらしい)の創始に伴うものとの説明が一般的である.これらの入植者たちはともにイングランド王室のプランテーションで働き,やがてフランドル人よりもイングランド人が優勢を占めるようになった.いまのスウォンジーの西側のガワー半島にもイングランド人移民が入植して,一五世紀以前に実質的にイングランド人の入植地となっていた.
 もとからいたウェールズ人はこの両地域から追い立てられ,ここは今日まで英語化された地域であるために,ブリテン諸島におけるもっとも早期の「言語植民地主義」の事例と見る論者もいる.言語の境界が,河川や丘陵といった自然が作る境界ではなく,これとは対照的に,ほぼ直線上でいかにも人為的だからである.ただし,両地域は,近隣のウェールズ語地域から政治的独立性,経済的自立性を保っており,ここからウェールズ側に言語上の影響を与えたという証拠も,逆にウェールズ側からこの地域に影響を与えたという証拠もない.


 ここでは,英語話者のペンブローク州への入植が「ブリテン諸島におけるもっとも早期の『言語植民地主義』の事例」と見なし得ることが述べられているが,その後,英語が近現代にかけて,言語植民地主義,さらには言語帝国主義を引き下げつつ世界へ拡大していく歴史を念頭におくならば,「ブリテン諸島における」という限定は不要だろう.一般化して,英語の言語植民地主義・言語帝国主義の最も早期の事例とみなすこともできそうだ.

 ・ 平田 雅博 『英語の帝国 ―ある島国の言語の1500年史―』 講談社,2016年.

Referrer (Inside): [2018-09-23-1]

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2018-04-29 Sun

#3289. SwazilandeSwatini に国名変更 [map][official_language][history][esl]

 アフリカ南部,南アフリカ共和国とモザンビークに囲まれた内陸国の Swaziland (スワジランド)が,国王 (King Mswati III) の発議により,国名を eSwatini (エスワティニ)に変えることになったという(BBCの記事を参照).
 この国は「アフリカのスイス」とも称される高原国で,人口約130万人を擁する.人口の約90%がバントゥー系のスワジ族で,スワジ語(スワティ語; Swazi, Swati)を話す.公用語はスワジ語とともに英語が採用されている.19世紀より,イギリス領ケープ植民地やボーア人からの圧力を受け,それぞれの保護下・統治下に入ったが,ボーア戦争後の1902年に正式にイギリス高等弁務官領となった.そこでは伝統的な政治体制が据え置かれ,国王も存続した.1960年代のアフリカ諸国の独立に刺激を受け,1968年にスワジランド王国として独立し,ソブフザ2世を頂く立憲君主国となった.1986年,後継者争いを経て,ムスワティ3世が即位し,絶対君主制を敷きつつ現在に至る.英連邦に加盟している(「#1676. The Commonwealth of Nations」 ([2013-11-28-1])).歴史的には南アへの依存度が高かったが,独立期以来,経済が発展し,依存度は低くなってきたという.HIV感染率が世界一高いなど深刻な問題を抱えている国でもある.

Map of Swaziland

 英語との関係でいえば,英語が公用語の1つとして採用されているので,ESL国である.「#2472. アフリカの英語圏」 ([2016-02-02-1]) で示したように,英語を用いる人口は5万人ほどいると推計されている.その英語変種は,「#1919. 英語の拡散に関わる4つの crossings」 ([2014-07-29-1]) で触れた通り,「ESL と EFL の中間的な」変種とされる.言語事情については,Ethnologue より Swaziland を参照.
 また,この国家については,BBC より Swaziland country profileSwaziland chronological profile などを参照.
 関連の深い隣国,南アフリカ共和国の英語事情については,「#343. 南アフリカ共和国の英語使用」 ([2010-04-05-1]),「#407. 南アフリカ共和国と Afrikaans」 ([2010-06-08-1]),「#1703. 南アフリカの植民史と国旗」 ([2013-12-25-1]) をどうぞ.

Referrer (Inside): [2018-04-30-1]

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2018-03-20 Tue

#3249. The Falkland Islands [variety][world_englishes][history][map][rhotic]

 標題の the Falkland Islands (フォークランド諸島; Falklands とも) といえば,1982年のフォークランド紛争が想起される.南大西洋上,南米大陸から480キロほど東の沖合に浮かぶこの諸島はイギリスの植民地だが,歴史的に領有権を主張するアルゼンチンがこの年に軍事的侵入を試みたことに発する国際紛争である.イギリスはサッチャー首相のもとでアルゼンチンと国交断絶した上で,大艦隊をもって報復し,アルゼンチン軍を一掃した.イギリス国民は大国意識をくすぐられたかのごとく狂喜し,西側諸国も概ねイギリスを支持したが,大英帝国の時代を懐かしむかのような時代錯誤感が否めず,その後の世論は必ずしもイギリスにとって芳しくない.両サイドに数百人の死者が出た事件だった.

Map of the Falkland Islands

 フォークランド諸島の地理と歴史を覗いてみよう.諸島には West Falkland と East Falkland の2つの主たる島がある.ここにイギリス系住民が2100人ほど住んでいる.1690年,イギリスの船長 John Strong が諸島に上陸したとの記録が残っている.島名は,この Strong 船長が Viscount Falkland にちなんで名付けたものだという.しかし,1765年に最初の居住地を建設したのは de Bougainville に率いられたフランス人たちであり,イギリス人居住地の建設はそれから1年遅れた.1767年にはスペインがフランス居住地を購入し,その後一時的にイギリス人を追い払ったが,イギリス人は統治権を手放したわけではなかった.1811年,今度はスペイン居住地が撤退することとなった.
 その後,1816年にスペインから独立を果たしたアルゼンチンが,1820年にフォークランド諸島の領有権を宣言した(アルゼンチンでは諸島を Las Islas Malvinas と呼んでいる.これは,島を訪れた Saint-Malo 出身のブルトン人漁師にちなんでフランス語 Les îles Malouines と名付けられたもののスペイン語名である).しかし,1831年にアメリカの軍艦が East Falkland のアルゼンチン居住地を攻撃し,1833年にはイギリス軍も介入してアルゼンチンの役人を追い払った.1841年,イギリスはフォークランド諸島総督を任命し,1885年までに2つの島で1800人ほどのイギリス人社会を作り上げた.そして,1892年にイギリス植民地となった.
 以降,首都である East Falkland の Port Stanley では,オーストラリアやニュージーランドの英語といくぶん似通った英語変種が発達してきた.互いに深い接触があったとは思えないが,羊毛刈り労働者がオーストラリア,ニュージーランド,フォークランド諸島のあいだを往復していたという事実があり,これらの方言混交の結果として互いの英語変種に似ている部分が見られるということかもしれない.また,West Falkland の個々の村落で話される変種は,先祖の出身地であるイギリスの特定の地方方言と結びつけられるという.なお,フォークランド諸島の変種では non-prevocalic r に関しては non-rhotic である.
 以上,Trudgill and Hannah (123--24) および McArthur (397) の記述に依拠して書いた.CIA: The World Factbook による Falkland IslandsEthnologue による Falkland Islands も参照.

 ・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.
 ・ Trudgill, Peter and Jean Hannah. International English: A Guide to the Varieties of Standard English. 5th ed. London: Hodder Education, 2008.

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