hellog〜英語史ブログ     ChangeLog 最新     カテゴリ最新     1 2 次ページ / page 1 (2)

arbitrariness - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-03-19 07:57

2023-09-30 Sat

#5269. オノマトペは思ったよりも言語性が高かった [onomatopoeia][arbitrariness][productivity][double_articulation][linguistics][communication][iconicity]

 今井むつみ・秋田喜美(著)『言語の本質』(中公新書,2023年)の第3章「オノマトペは言語か」の最終節「まとめ」にて,言語を特徴づける10の性質を勘案した上で,オノマトペ (onomatopoeia) が高い言語性を示すことが結論づけられている.比較対照されているメディアは,一般語,口笛,咳払い,音真似,泣きである.89ページの表3-1「一般語,オノマトペ,非言語音の言語性」を引用する.

 一般語オノマトペ口笛咳払い音真似泣き声
コミュニケーション機能×/○×/○  
意味性×/○×/○××
超越性××  
継承性×/○ ×
習得可能性    
生産性××××
経済性××××
離散性××××
恣意性××××
二重性××××


 この表にしたがえば,オノマトペは「ほぼ言語」といってよい.少なくとも予想以上の言語性の高さであると認めてよいだろう.
 上記の言語を特徴づける10の性質の各々については,ぜひ本書を熟読していただきたいが,以下にメモ程度に説明しておく.

 ・ コミュニケーション機能:発信の目的が意図を伝えることに特化していること
 ・ 意味性:特定の音形が特定の意味に結びつくこと
 ・ 超越性:イマ・ココ以外の物事に言及できること
 ・ 継承性:特定の伝統・文化のなかで世代を通じて教えられ,習得されること
 ・ 習得可能性:母語以外の言語をも学ぶことができること
 ・ 生産性:新たな発話を次々に作り出せること
 ・ 経済性:なるべく単純な形式でなるべく複雑な機能を果たそうとすること
 ・ 離散性:アナログではなくデジタルであること
 ・ 恣意性:形式と意味の間に必然性がないこと
 ・ 二重性:音それ自体は意味をなさないが,それを適切に組み合わせると意味をもつようになること

 想像される通り,言語学者は言語の性質について考え続けてきた.言語を特徴づける性質群については,様々なバージョンが提案されてきた.例えば「#1327. ヒトの言語に共通する7つの性質」 ([2012-12-14-1]),「#3770. 人間の言語の特徴,8点」 ([2019-08-23-1]) などを参照されたい.

 ・ 今井 むつみ・秋田 喜美 『言語の本質 --- ことばはどう生まれ,進化したか』 中公新書,2023年.

Referrer (Inside): [2023-10-03-1] [2023-10-02-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2022-02-21 Mon

#4683. 異なる言語の間で「偶然」類似した語がある場合 [comparative_linguistics][statistics][lexicology][sound_change][arbitrariness][methodology]

 「#1136. 異なる言語の間で類似した語がある場合」 ([2012-06-06-1]) の (1) で「偶然の一致」という可能性に言及した.2つの言語の系統的な関係を同定することを目指す比較言語学 (comparative_linguistics) にとって,2言語からそれぞれ取り出された1対の語が,言語の恣意性 (arbitrariness) に基づき,たまたま似ているにすぎないのではないか,という疑念は常に脅威的である.類似性の偶然と必然をどう見分けるのか,これは比較言語学の方法論においても,あるいはそれを論駁しようとする陣営にとっても,等しく困難な問題である.
 この問題について,Campbell (275--76) が "Chance Similarities" と題する1節で Doerfer の先行研究に言及しながら論じている.偶然性には2種類あるという趣旨だ.

Doerfer (1973: 69--72) discusses two kinds of accidental similarity. "Statistical chance" has to do with what sorts of words and how many might be expected to be similar by chance; for example, the 79 names of Latin American Indian languages which begin na- (e.g., Nahuatl, Naolan, Nambicuara, etc.) are similar by sheer happenstance, statistical chance. "Dynamic chance" has to do with forms becoming more similar through convergence, that is, lexical parallels (known originally to have been different) which come about due to sounds converging through sound change. Cases of non-cognate similar forms are well known in historical linguistic handbooks, for example, French feu 'fire' and German Feuer 'fire' . . . (French feu from Latin focus 'hearth, fireplace' [-k- > -g- > -ø; o > ö]; German Feuer from Proto-Indo-European *pūr] [< *puHr-, cf. Greek pür] 'fire,' via Proto-Germanic *fūr-i [cf. Old English fy:r]).


 共時的・通言語的な偶然の一致が "statistical chance" であり,通時的な音変化の結果,形態が似てしまったという偶然が "dynamic chance" である.比較言語学で2言語からそれぞれ取り出された1対の語を比べる際に,だまされてはいけない2つの注意すべき点として銘記しておきたい.
 "dynamic chance" の1例として「#4072. 英語 have とラテン語 habere, フランス語 avoir は別語源」 ([2020-06-20-1]) を参照.

 ・ Campbell, Lyle. "How to Show Languages are Related: Methods for Distant Genetic Relationship." Handbook of Historical Linguistics. Ed. Brian D. Joseph and Richard D. Janda. Oxford: Blackwell, 262--82.
 ・ Doerfer, Gerhard. Lautgesetz und Zufall: Betrachtungen zum Omnikomparatismus. Innsbruck: Institut für vergleichende Sprachwissenschaft der Universität Innsbruck, 1973.

Referrer (Inside): [2022-02-24-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2021-04-21 Wed

#4377. 擬音語における英語の /z/ と日本語の /b/ [onomatopoeia][phonetics][phonaesthesia][sound_symbolism][arbitrariness][khelf_hel_intro_2021]

 「英語史導入企画2021」の一環として昨日学部ゼミ生より提供されたされたのは「MAZDA Zoom-Zoom スタジアムの Zoom って何」という,非常に身近に感じられる話題.擬音語やオノマトペ (onomatopoeia) に関心がある向きには「へぇ,なるほど」と読めるコンテンツだと思います.
 コンテンツ内で詳述されているとおり,車がエンジンを吹かして疾走する音は日本語では「ブーン」辺りが一般的ですが,英語では zoom などとなるわけですね./z/ と /b/ は子音として調音点も調音様式も異なっており,普通は結びつかない2音だと思います.英語耳と日本語耳とではかなりの差があるということでしょうか.(別の学生より,zip (ビュッ)の例も挙がってきました.)
 ここで思い出したのが,以前私が書いた「#4196. なぜ英語でいびきは zzz なのですか?」 ([2020-10-22-1]) です.日本語のいびきの音「グーグー」に対して,英語では zzz と発音・表記されることはよく知られています.しかし,zzz は本来はいびきの音というよりも虫の羽音を表わす擬音語としてスタートしました.日本語で虫の羽音といえば「ブーン」や「ブンブン」が典型だと思いますが,ここでも英語の /z/ と日本語の /b/ が対応していることになりますね.英語耳と日本語耳はおおいに違っていそうですが,その違い方にはパターンがあるのかもしれません.
 一般に言語学では,オノマトペは言語の恣意性 (arbitrariness) の反例を提供するといわれます.これは,言語が異なってもそこそこ似てくるものだということを含意しています.しかし,上記の日英両言語の対応例をみていると,だいぶん違うなあという印象を抱きますね.「#3850. 英語の動物の鳴き声」 ([2019-11-11-1]) なども日英語を比べてみると,いろいろと発見があると思います.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2020-01-09 Thu

#3909. 相同 (homology) と相似 (analogy) [biology][evolution][terminology][onomatopoeia][arbitrariness][borrowing]

 「#3905. 系統学の歴史言語学への適用について (1)」 ([2020-01-05-1]) と「#3906. 系統学の歴史言語学への適用について (2)」 ([2020-01-06-1]) で,生物学と言語学の連携可能性に触れた.以前から生物進化の分野で気になっている用語・概念に,相同 (homology) と相似 (analogy) がある.2つのものが互いに「似ている」とき,似ている理由には2種類があるという洞察だ.中尾 (11) による解説が簡潔で要を得ている.

祖先種 A が形質 α を持っていたという理由で子孫種 B と C も形質 α を保持しているのであれば,この形質 α は相同であるといわれる.他方,祖先種 A が形質 α を持っておらず,子孫種 B と C がそれぞれ別個に類似した環境に適応して形質 α を獲得していた場合,この形質は相似であるといわれる.


 Encyclopaedia Britannica からの解説も挙げておこう.

Homologous structures develop from similar embryonic substances and thus have similar basic structural and developmental patterns, reflecting common genetic endowments and evolutionary relationships. In marked contrast, analogous structures are superficially similar and serve similar functions but have quite different structural and developmental patterns. The arm of a man, the wing of a bird, and the pectoral fins of a whale are homologous structures in that all have similar patterns of bones, muscles, nerves, blood vessels, and similar embryonic origins; each, however, has a different function. The wings of birds and those of butterflies, in contrast, are analogous structures---i.e., both allow flight but have no developmental processes in common.


 この2種類の「似ている」を言語に当てはめるとどうなるだろうか.2つの言語において形式・機能ともに似ている言語項(たとえば単語)がみられる場合,やはり相同と相似の2種類が区別される.同一語源にさかのぼるがゆえに似ている場合,たとえば英語の one とフランス語の un は,相同である.一方,英語の bow-wow とフランス語の ouah-ouah は犬の鳴き声 (cf. onomatopoeia) を独立して模した結果,似ているケースと考えられるので,相似といえる.
 しかし,生物にはほとんどみられず,言語には普通にみられる第3の「似ている」がある.借用 (borrowing) だ(ただし,生物にも「交雑」の事例はあるにはある).英語の people とフランス語の peuple は似ているが,これは前者が後者を借用したからである.借用を言語における「遺伝」の1パターンととらえるのであれば一種の相同関係ともいえなくはないが,これには異論もあるだろう.借用は相似ではないし,相同ともいいにくい.言語の世界に特有の「似ている」だ.
 関連して「#1136. 異なる言語の間で類似した語がある場合」 ([2012-06-06-1]) も参照.

 ・ 中尾 央 「文化の過去を復元すること 文化進化のパターンとプロセス」『文化系統学への招待』中尾 央・三中 信宏(編),勁草書房,2012年.1--16頁.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2019-08-23 Fri

#3770. 人間の言語の特徴,8点 [linguistics][double_articulation][arbitrariness][saussure]

 「#1281. 口笛言語」 ([2012-10-29-1]),「#1327. ヒトの言語に共通する7つの性質」 ([2012-12-14-1]) などで人間の言語の特徴を何点か挙げてきた.それらと多く重複するが,安藤・澤田 (10--16) が解説しながら挙げている8点の特徴を,私自身のコメントを加えながら示す.

 (1) 言語は媒体として音声を用いる
   もちろん書き言葉では文字が媒体となるし,身体言語 (body language) や身振り言語 (gesture language) もあれば,手話 (sing language) などもあるのは事実である.しかし,それらはより一般的な記号学 (semiotics) で扱われる対象というべきである.人間の諸言語にみられる最大公約数的な特徴としては,音声を媒体としていることが挙げられる.「#1063. 人間の言語はなぜ音声に依存しているのか (1)」 ([2012-03-25-1]),「#1064. 人間の言語はなぜ音声に依存しているのか (2)」 ([2012-03-26-1]),「#2535. 記号 (sign) の種類 --- 伝える手段による分類」 ([2016-04-05-1]) を参照.

 (2) 言語は恣意的な記号である
   きわめて重要な言語の特徴である.「#1108. 言語記号の恣意性,有縁性,無縁性」 ([2012-05-09-1]),「#2224. ソシュールによる言語の恣意性と線状性」 ([2015-05-30-1]),「#2445. ボアズによる言語の無意識性と恣意性」 ([2016-01-06-1]) ほか arbitrariness の各記事を参照.

 (3) 言語は構造をもつ体系 (system) である
   言語においては,要素がデタラメに並んでいるわけではなく,一定の決まりにしたがって並べられている.これについては,「#2245. Meillet の "tout se tient" --- 体系としての言語」 ([2015-06-20-1]),「#2246. Meillet の "tout se tient" --- 社会における言語」 ([2015-06-21-1]) を参照.

 (4) 言語は社会制度である
  言語は,ある言語共同体の中で一種の社会契約として作られた記号の体系である.個人が勝手に変えられるものではなく,社会的に築きあげられた体系である.

 (5) 言語は形相 (form) であって,実質 (substance) ではない.
   ソシュールは,言語記号を考える上で形相と実質を区別すべきことを主張した.チェスにおいては,コマが木製だろうが象牙製だろうが,ゲームにとっては無関係である.ゲームにとって大事なのは,チェスのルールで定められているコマの機能,あるいは価値である.この場合,コマの機能・価値が形相に当たり,コマの材質が実質に当たる.関連して「#1074. Hjelmslev の言理学」 ([2012-04-05-1]) を参照.

 (6) 転移言語 (displaced speech)
   今ここに関与するもの以外のこと(昨日のことや,別の場所で起こっていることなど)を話題とすることができる性質のことである.動物の鳴き声などは,その時その場に限られており,時間的・空間的に離れたものを指し示すことができない.人間の言語は,時間的・空間的に離れたものを話題にできるばかりか,現実にないこと(うそ・皮肉・冗談)を表わすこともできる.

 (7) 創造性 (creativity)
   言語要素を自由かつ生産的に組み合わせて,無限に新しい語や文を生み出すことができる.

 (8) 二重分節 (double articulation)
   「#767. 言語の二重分節」 ([2011-06-03-1]),「#1062. 言語の二重分節は本当にあるか」 ([2012-03-24-1]) を参照.

 動物のコミュニケーションには,(1) 以外の特徴がみられないことに注意したい.

 ・ 安藤 貞雄・澤田 治美 『英語学入門』 開拓社,2001年.

Referrer (Inside): [2023-09-30-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-03-22 Thu

#3251. <chi> は「チ」か「シ」か「キ」か「ヒ」か? [digraph][h][phoneme][arbitrariness][alphabet][grammatology][grapheme][graphemics][spelling][consonant][diacritical_mark][sobokunagimon]

 イタリアの辛口赤ワイン CHIANTI (キャンティ)を飲みつつ,イタリア語の <chi> = /ki/ に思いを馳せた.<ch> という2重字 (digraph) に関して,ヨーロッパの諸言語を見渡しても,典型的に対応する音価はまちまちである.前舌母音字 <i> を付して <chi> について考えてみよう.主要な言語で代表させれば,英語では chill, chin のように /ʧi/,フランス語では Chine, chique のように /ʃi/,イタリア語では chianti, chimera のように /ki/,ドイツ語では China, Chinin のように /çi/ である.同じ <ch> という2重字を使っていながら,対応する音価がバラバラなのはいったいなぜだろうか.
 この謎を解くには,文字記号の恣意性 (arbitrariness) と,各言語の音韻体系とその歴史の独立性について理解する必要がある.まず,文字記号の恣意性から.アルファベットを例にとると,<a> という文字が /a/ という音と結びつくはずと考えるのは,長い伝統と習慣によるものにすぎず,実際には両者の間に必然的な関係はない.この対応関係がアルファベットを使用する多くの言語で見られるのは,当該のアルファベット体系を借用するにあたって,借用元言語に見られたその結び付きの関係を引き継いだからにすぎない.特別な事情がないかぎりいちいち関係を改変するのも面倒ということもあろうが,確かに文字と音との関係は代々引き継がれることは多い.しかし,何らかの特別な事情があれば――たとえば,対応する音が自分の言語には存在しないのでその文字が使われずに余ってしまう場合――,<a> を廃用にすることもできるし,まったく異なる他の音にあてがうことだってできる.たとえば,言語共同体が <a> = /t/ と決定し,同意しさえすれば,その言語においてはそれでよいのである.文字記号は元来恣意的なものであるから,自分たちが合意しさえすれば,他人に干渉される筋合いはないのである.<ch> は単字ではなく2重字であるという特殊事情はあるが,この2文字の結合を1つの文字記号とみなせば,この文字記号を各言語は事情に応じて好きなように利用してよい.その言語に存在するどんな子音に割り当ててもよいし,極端なことをいえば母音に割り当てても,無音に割り当ててもよい.つまり,<ch(i)> の読みは,まずもって絶対的,必然的に決まっているわけではないと理解することが肝心である.
 次に,各言語の音韻体系とその歴史の独立性について.言うまでもないことだが,同系統の言語であろうがなかろうが,それぞれ独自の音韻体系をもっている.英語には /f, l, θ, ð, v/ などの音素があるが,日本語にはないといったように,言語ごとに特有の音素セットがあるのは当然である.各言語の音韻体系の発展の歴史も,原則として独立的である.音韻の借用などがあった場合でも,その影響は限定的だ.したがって,異なる言語には異なる音素セットがあり,音素セット間で互いに対応させようとしても数も種類も違っているのだから,きれいに揃うということは望めないはずである.表音文字たるアルファベットは原則として音素を写すものだから,音素セット間でうまく対応しないものを文字セット間において対応させようとしたところで,やはり必ずしもきれいには揃わないはずである.
 上で挙げた西ヨーロッパの主要な言語は,歴史の経緯からともにローマン・アルファベットを受容したし,範となるラテン語において <ch> という2重字が活用されていることも知っていた.また,原則としての恣意性や独立性は前提としつつも,互いの言語を横目で見てきたのも事実である.そこで,2重字 <ch> を活用しようというアイディア自体は,いずれの言語も自然に抱いていたのだろう.ただし,<ch> をどの音にあてがうかについては,各言語に委ねられていた.そこで,各言語では <c> で典型的に表わされる音と共時的・通時的に関係の深い別の音に対応する文字として <ch> をあてがうことにした,というわけだ.つまり,英語では /ʧi/,フランス語では /ʃi/,イタリア語では /ki/,ドイツ語では /çi/ である.たいていの場合,各言語の歴史において,もともとの /k/ が歯擦音化した音を表わすのに <ch> が用いられている.
 まとめれば,いずれの言語も,歴史的に <ch> という2重字を使い続けることについては共通していた.しかし,各言語で歴史的に異なる音変化が生じてきたために,<ch> で表わされる音は,互いに異なっているのである.
 英語における <ch> = /ʧ/ に関する話題については,以下の記事も参照.

 ・ 「#1893. ヘボン式ローマ字の <sh>, <ch>, <j> はどのくらい英語風か」 ([2014-07-03-1])
 ・ 「#2367. 古英語の <c> から中英語の <k> へ」 ([2015-10-20-1])
 ・ 「#2393. <Crist> → <Christ>」 ([2015-11-15-1])
 ・ 「#2423. digraph の問題 (1)」 ([2015-12-15-1])

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-09-26 Tue

#3074. 「文字は公認の暗号である」 [cryptology][language][semiotics][saussure][arbitrariness][sign][writing]

 通常,少数の人によってしか共有されていない文字を指して暗号と呼ぶが,標題のように裏からとらえて「文字は公認の暗号である」と表現することもできる.これは,みごとな逆転の発想である.長田 (136--37) を引用する.

 音声言語を表記するためにどのような文字を使用するかはどうでもよいことであって,要はその文字の使い方が首尾一貫していれば,記号としての役目を果たすことができる.フェルディナン・ド・ソシュールは,「記号の不易性と可易性」について次のように述べている.「能記は,その表はす観念と照し合はす時は,自由に選ばれたものとして現はれるとすれば,逆にこれを用ひる言語社会と照し合はす時は,自由ではなくて,賦課されたものである.社会大衆は一つも相談にあづからず,言語の選んだ能記は他のものと代へるわけにはいきかねる.この矛盾を含むかに思はれる事実は,平たくいへば『脅迫投票』とでもいふべきか.言語に向って『選びたまへ』と言つたそばから,『この記号だぞ,ほかのでなくて』と附加へる」(小林英夫訳『言語学原論』)
 これはそのまま換字式暗号にあてはまる原理である.変換する記号としてはどのようなものを選んでもさしつかえないが,一度選んだならば,その規約を使用する間はけっして変更することは許されない.ただ換字式暗号の違う点は,言語とその表記の関係が第三者に秘匿されていることである.
 一般に文字言語を「社会公認公用の暗号法」と呼ぶのは,このような相対関係によるものである.


 また,次のようにも述べている (137--38)

ウェルズは,その『世界史』に,「文字は,それが発明されたとき,初めのうちは関係の人だけの秘密通信に使われていた」と書いている.これは,識字率の低い間は文字そのものが秘密の表記であったことを的確にとらえた言葉である.


 文字も暗号も恣意的な記号であるという点では共通している.顕著な差異を1つ挙げるとすれば,文字は通常多数の人に共有されているが,暗号は少数の人にしか知られていないということだろう.それを知っている人の数というパラメータを度外視すれば,文字はすなわち暗号であり,暗号はすなわち文字であるといえる.言語学的文字論と暗号学がいかなる相互関係にあるのか,一気に呑み込めた気がする.
 関連して,「#2699. 暗号学と言語学」 ([2016-09-16-1]),「#2700. 暗号によるコミュニケーションの特性」 ([2016-09-17-1]) と「#2701. 暗号としての文字」 ([2016-09-18-1]) も参照されたい.

 ・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-11-11 Fri

#2755. 貨幣と言語 (3) [saussure][langue][arbitrariness][sign][semiotics][linguistics][diachrony]

 「#2743. 貨幣と言語」 ([2016-10-30-1]),「#2746. 貨幣と言語 (2)」 ([2016-11-02-1]) に引き続いての話題.[2016-11-02-1]の記事の最後で,「貨幣は物理的な価値と結びついているが,言語はあくまで概念的な価値と結びついているにすぎないという点は,むしろ両者の大きな相違点だろう」と述べた.この言及と関連して,ソシュールに記号としての貨幣と言語を対照している箇所がある.ソシュールによれば,両者は記号として根本的に異なる種類に属するという.この議論を通じて,言語記号の恣意性 (arbitrariness) に由来する二重性,すなわち共時態と通時態の本質的な相互独立性が浮き彫りになる.
 この議論を理解するために,まずソシュールの言語論における「価値」 (valeur) について見ておかなければならない.丸山 (68--69) によれば,

 ソシュールの体系は,何よりもまず関係としての価値の体系である.そこでは,自然的・絶対的特性によって定義される個々の要素が寄り集まって全体を作るのではなく,全体との関連と他の要素との相互関係の中ではじめて個の価値が生ずる.しかも,ラングなる体系は,動物としてのヒトの本能図式の反映ないしは敷き写しではなく,人間の歴史・社会的実践によってはじめて決定される価値の体系であり,既成の事物がどう配置されどう関係付けられているかというのではなく,もともと単位という客観的な実体は存在しない体系なのである.ラングはそれが体系である限り,不連続な単位の存在を想定させる.しかしその単位は,ア・プリオリに自存する実体ではない.ソシュールをまず驚かせ,ついで彼を終始苦しませた問題は,この単位の非実在性であった.ソシュールの体系は,言語の本質に関わる恣意性,形相性,示差性,否定性と切り離して論ずることはできないと言えるだろう.
 「コトバは根柢的に,対立に基盤を置く体系という性格をもつ.これはちょうど,さまざまな駒に付与された力のさまざまな組み合わせから成り立つチェスゲームのようなものだ」.それにもかかわらず実体としての単位はどこにも与えられていない.「コトバの中に自然に与えられている事物を見る幻想の根は深い」とは言え,在るものは関係を樹立する人間の視点(=共同主観)だけである.「人が樹立する事物間の絆は,事物に先立って存在し,事物を決定する働きをなす.〔…〕人はこの視点によって二次的に事物を創造する.〔…〕いかなる事物も,いかなる対象も,いかなる瞬間においても即自的には与えられていない」のだ.


 ソシュールにとって,言語的な価値にはこのように自然的・絶対的な実体の支えがないのであるから,それは貨幣の価値とは比べるべくもない,ということになる.ソシュールは第3回講義で,この点について触れている.丸山 (116) より説明を引くと,

ソシュールによれば,言語記号は,他のどのような記号,どのような制度にもにない根源的な二重性を持っている.たとえば,ある広さの土地につけられる貨幣的な価値などは,時代を追ってその変化を調べることができるだろう.これは,貨幣という一種の記号が,しかじかの土地という不変の自然的対象をその外部に持っているからで,そういう意味でこの記号は本質的に「単一」なのである.ところが言語記号には,こうした自然の支えはどこにもないのであり,あるのはただ「聴覚映像」と「概念」の二つの項,言語の一状態が生む束の間の関係によってしか保証されていない二つの項,ということになる.これらの項は,それを測定するどのような尺度もないところで,根柢からの変化をこうむる.変化を説明できる支えは状態のうちにはないし,ある状態を求めた理由も変化のうちには見出せない.こうしたことはすべて,言語記号が「事物の自然的関係」にもとづかない恣意的「契約」であることからくるので,共時言語学と通時言語学を別々に打ち立てる必然性も,実はここに根ざしているわけである.


 ここでは,言語記号のもつ恣意性と貨幣記号の非恣意性が,明確に対立せられている.この性質の違いゆえに,貨幣記号については,共時態と通時態の区別を特に意識せずに「単一」に扱うことができるのに対し,言語記号については両態を常に区別して扱わなければならないという「二重性」が生じるのだという.このことを主張している箇所を Saussure (115--16) から引用しよう.

   Il est certain que toutes les sciences auraient intérêt à marquer plus scrupuleusement les axes sur lesquels sont situées les choses dont elles s'occupent ; il faudrait partout distinguer selon la figure suivante : 1o l'axe des simultanéités (AB), concernant les rapports entre choses coexistantes, d'où toute intervention du temps est exclue, et 2o l'axe des successivités (CD), sur lequel on ne peut jamais considérer qu'une chose à la fois, mais où sont situées toutes les choses du premier axe avec leur changements.
   Pour les sciences travaillant sur des valeurs, cette distinction devient une nécessité pratique, et dans certains cas une nécessité absolue. Dans ce domaine on peut mettre les savants au défi d'organiser leurs recherches d'une façon rigoureuse sans tenir compte de deux axes, sans distinguer le système des valeurs considérées en soi, de ces mêmes valeurs considérées en fonction du temps.
   C'est au linguiste que cette distinction s'impose le plus impérieusement ; car la langue est un système de pures valeurs que rien ne détermine en dehors de l'état momentané de ses termes. Tant que par un de ses côtés une valeur a sa racine dans les choses et leurs rapports naturels (comme c'est le cas dans la science économique --- par exemple un fonds de terre vaut en proportion de ce qu'il rapporte), on peut jusqu'à un certain point suivre cette valeur dans le temps, tout en se souvenant qu'à chaque moment elle dépend d'un système de valeurs contemporaines. Son lien avec les choses lui donne malgré tout une base naturelle, et par là les appréciations qu'on y rattache ne sont jamais complètement arbitraire ; leur variabilité est limitée. Mais nous venons de voir qu'en linguistique les données naturelles n'nont aucune place.


 記号としての貨幣と言語の比較対照を通じて,それぞれの性質が浮き彫りになってきた.

 ・ 丸山 圭三郎 『ソシュール小事典』 大修館,1985年.
 ・ Saussure, Ferdinand de. Cours de linguistique générale. Ed. Tullio de Mauro. Paris: Payot & Rivages, 2005.

Referrer (Inside): [2021-01-26-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-06-14 Tue

#2605. 言語学における音象徴の位置づけ (3) [phonaesthesia][sound_symbolism][arbitrariness][homonymy]

 「#1269. 言語学における音象徴の位置づけ」 ([2012-10-17-1]),「#2222. 言語学における音象徴の位置づけ (2)」 ([2015-05-28-1]) に引き続いての話題.音感覚性 (phonaesthesia) やオノマトペ (onomatopoeia) を含む音象徴 (sound_symbolism) に対しては,多くの言語学者,とりわけ英語学者が関心を寄せてきた.
 しかし,この問題については批判も少なくない.特に phonaesthsia についてよく聞かれる批判は,うまく当てはまる例があると思えば,同じくらい例外も多いということだ.例えば,英語で前舌高母音が小さいものを表わすという音感覚性は,little には当てはまるが,big には当てはまらない.「#2222. 言語学における音象徴の位置づけ (2)」 ([2015-05-28-1]) で引用した Ullmann は,音と意味がうまく当てはまる場合には,それは立派な phonaesthesia となり,そうでない場合には phonaesthesia の効果が現われないと,トートロジーのようなことを述べているが,それが真実なのではないかと思う.英語の言語変化を理論的に論じた Samuels もこの問題について論考し,Ullmann のものと類似してはいるが,通時的な観点を含めたさらに一歩踏み込んだ議論を展開している.

The answer to such objections is that the validity of a phonaestheme is, in the first instance, contextual only: if it 'fits' the meaning of the word in which it occurs, the more its own meaning is strengthened; but if the phoneme or phonemes in question do not fit the meaning, then their occurrence in that context is of the common arbitrary type, and no question of correlation arises. (Samuels 46)


 ある語において音と意味のフィット感が文脈上偶然に現われると,原初の phonaestheme というべきものが生まれる.そのフィット感がその語1つだけでなく,ほかの語にもたまたま感じられると,フィット感は互いに強め合い,緩く類似した意味をもつ語へ次から次へと波及していく.そのような語が増えれば増えるほど,phonaesthesia の効果は大きくなり,その存在感も強くなる.これは,phonaesthesia の発生,成長,拡散という通時的な諸段階の記述にほかならない.続けて Samuels は,phonaestheme の homonymy という興味深い現象について指摘している.

Furthermore, just as a phonaestheme may or may not be significant, depending on its context, so it may have two or more separate values which are again contextually determined. It may often be possible to treat them as one, e.g. Firth classed all exponents of /sl-/ together as 'pejorative'; but, firstly, this entails a great loss of specificity, and secondly, it is clear from the historical evidence that we are dealing with two patterns that have in the main developed independently from separate roots containing the meanings 'strike' and 'sleep' in Germanic. It is therefore preferable to reckon in such cases with homonymous phonaesthemes; if connections subsequently develop that suggest their unity, this is no more than may happen with normal homonymy of free morphemes, as in the historically separate words ear (for hearing) and ear (of corn). (Samuels 46)


 共時的にそれと認められる phonaesthemes や phonaesthesia は,このような文脈上の偶然の発達の結果として認識されているのであって,歴史の過程で作られてきた語群であり感覚なのである.もとより,反例があると声高に指摘するのにふさわしいほど普遍的な性格をもつ現象ではないだろう.
 なお,後の引用に名前の挙がっている Firth は,phonaestheme という用語の発案者である (Firth, J. R. Speech (London, 1930) and The Tongues of Men (London, 1937), both reprinted in one volume, London, 1964. p. 184.) .

 ・ Samuels, M. L. Linguistic Evolution with Special Reference to English. London: CUP, 1972.

Referrer (Inside): [2017-05-15-1] [2016-06-22-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-01-06 Wed

#2445. ボアズによる言語の無意識性と恣意性 [category][linguistic_relativism][sapir-whorf_hypothesis][arbitrariness][history_of_linguistics]

 Sebeok, Thomas A., ed. Portraits of Linguists. 2 vols. Bloomington, Indiana UP, 1966 を抄訳した樋口より,アメリカの言語学者 Franz Boas (1858--1942) について紹介した文章を読んでいる.そこで議論されている言語における範疇 (category) の無意識性の問題に関心をもった.樋口 (83--85) から引用する.

ボアズは Handbook of American Indian Languages (1991年)のすばらしい序論において、次のように述べている「言語学がこの点で持っている大いなる利点は次のような事実である。すなわち設定されている範疇は常に意識されず、そしてそのためにその範疇が形成される過程は、誤解を招いたり障害となったりするような二次的説明をしないで辿ることが出来る。なおそのような説明は民族学では非常に一般的なのである…。」
 この文章は、ボアズが表明した最も大胆かつ生産性に富んでいて、先駆的役割を担う考え方の一つと私共には思われる。事実、この言語現象が意識されないという特性のために言語を理論的に取り扱う人々にとって難問が多く、今もなお彼らを悩ませている。ソシュール (Ferdinand de Saussure) にとってさえも解決困難な二律背反であった。彼の意見では、言語の一生におけるそれぞれの状態は偶然の状態なのだ。なぜなら、個人はほとんど言語法則など意識していないのだから。ボアズはまさにこれと同じ出発点から始めた。言語の基底となる諸概念は言語共同体で絶えず使用されているが、通常その構成員の意識にはのぼってこない。しかし伝統的なしきたりは、言語使用の過程での無意識な状態によって永久に伝えられるようになってきた。ところが、ボアズは(またサピアもこの点では正に同じ道をたどるのだが)このような領域で妥当な結論を導く方法を知っていた。個人の意識というのは通常文法及び音韻の型と衝突することはないし、したがって二次的な推論や解釈のし直しをひきおこすことはない。ある民族の基本的な習慣を個人が意識的に解釈し直すと、それらの習慣を形成してきた歴史のみならずその形成自身をあいまいにしたり、複雑にしたりすることがあり得る。一方、ボアズが強調しているように言語構造の形成は、これらの誤解を招きやすく邪魔になる諸要素なしで後を辿ることが出来、明らかになる。基本的な言語上の諸単位が機能する際に、各単位が個人の意識にのぼったりする必要はない。これらの諸単位はお互いに孤立していることはほとんどあり得ない。したがって言語において、個人の意識が相互に干渉しないという関係は、その言語の型が持つ厳密で肝要な特性を説明している。つまりすべての部分がしっかりと結びついている全体なのだ。慣習化した習慣に対する意識が弱ければ弱いほど、習慣となっている仕組がより定式化され、より標準化され、より統一化される。したがって、多様な言語構造の明解な類型が生まれ、とりわけボアズの心に繰返し強い印象を残した基本的な諸原理の普遍的統一性が存在する。言いかえれば関係的機能が世界中のあらゆる言語の文法や音素の必要な要素を提供する。
 多様な民族に関する現象の中で、言語の過程否むしろ言語の運用は極めて印象的且つ平明に無意識の論理を具体的に示す。このような理由でボアズは主張している。「言語の過程の無意識というまさにこの現象が、民族に関する現象をより明確に理解するのに役立つ。これは軽く見過ごすことができない点である。」その他の社会的組織と関連して考える場合の、言語の地位と民族に関する多様な諸形式式に対する徹底した洞察という言語学の意味は、それまでこれほど精密に述べられたことはなかった。近代言語学は社会人類学の様々な分野を研究する人々にいろいろ参考になる情報を提供する筈である。


 ここで述べられていることは,言語の諸規則や諸範疇は,個人の無意識のうちにしっかり定着しているものであるということだ.逆に言えば,共時的観察により,言語に内在する慣習化した習慣を引き出すことができれば,その構成員の無意識に潜む思考の型を突き止められるということにもなる.この考え方は Humboldt の「世界観」理論 (Weltanschauung) と近似しており,後のサピア=ウォーフの仮説 (sapir-whorf_hypothesis) や言語相対論 (linguistic_relativism) にもつながる言語観である.
 なお,「すべての部分がしっかりと結びついている全体」は,疑いなく Meillet の "système où tout se tient" から取られたものだろう (see 「#2245. Meillet の "tout se tient" --- 体系としての言語」 ([2015-06-20-1]),「#2246. Meillet の "tout se tient" --- 社会における言語」 ([2015-06-21-1])) .
 引き続き,樋口 (90) は,言語の恣意性 (arbitrariness) に関するボアズの見解について,次のように紹介している.

我々は以下のことをすでに知っていた。個々の言語は外界を区別する仕方においてそれぞれ恣意的であるが、ホイットニーやソシュールによる伝統的な説明はボアズによってその内容を本質的な点で制限されることになる。事実、その著作で、個々の言語は空間あるいは時間において他の言語の視点からのみ恣意的であり得ると彼は言っている。未発達であろうと文明化していようと、母語に関しては、その話し手にとってどのような区別の仕方も恣意的ではあり得ない。そのような区別の仕方は個人においても民族全体においてもそれと気づかぬうちに形成され、そして一種の言葉における神話を作り上げる。その神話は話し手の注意と言語共同体の心理活動を一定の方向に導く。このように言語形式が詩と信仰のみならず思考及び科学的見解にさえも影響を及ぼす。文明化したにしてもあるいは発達のものにしても、すべての言語の文法的型は永久に論理的推理と相入れないもので、それにもかかわらずすべての言語は同時に文化のいかなる言語上の必要にも、また思考の比較的一般化された形式にも充分に適合出来る。それらの諸形式は新しい表現で、以前には慣用的でなかったものに価値を与えるものである。文明化すると語彙と表現法はそれに順応せざるを得ない。一方、文法は変化しない状態で続くことができる。


 ソシュールの論じた言語の恣意性が絶対的な恣意性であるのに対し,ボアズが論じたのは相対的な恣意性である.母語話者にとって,個々の言語記号は恣意的でも何でもなく,むしろ必然に感じられる.日本語話者にとって,/イヌ/ という能記が「犬」という所記と結びついているのはあまりに自然であり,「必然」とすら直感される.関連して,「#1108. 言語記号の恣意性,有縁性,無縁性」 ([2012-05-09-1]) を参照されたい.
 このように,ボアズは言語の範疇の無意識性や恣意性という問題について真剣に考察した言語学者として記憶されるべきである.

 ・ 樋口 時弘 『言語学者列伝 ?近代言語学史を飾った天才・異才たちの実像?』 朝日出版社,2010年.

Referrer (Inside): [2019-08-23-1] [2016-01-07-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2015-05-30 Sat

#2224. ソシュールによる言語の恣意性と線状性 [saussure][popular_passage][arbitrariness][linearity][linguistics][terminology]

 言語のもつ諸々の性質について「#1327. ヒトの言語に共通する7つの性質」 ([2012-12-14-1]) などで取り上げてきたが,ソシュールがとりわけ重要な性質として,いな「二大原理」として挙げたのは,恣意性 (arbitrariness) と線状性 (linearity) である.今回は,この2つの性質について,直接ソシュールから原文を引用して味わいたい.
 言語の恣意性については,「#1108. 言語記号の恣意性,有縁性,無縁性」 ([2012-05-09-1]) ほかで簡単に触れた程度だったが,Saussure (100) では,次のように紹介されている.

PREMIER PRINCIPE : L'ARBITRAIRE DU SIGNE.
   Le lien unissant le signifiant au signifié est arbitraire, ou encore, puisque nous entendons par signe le total résultant de l'association d'un signifiant à un signifié, nous pouvons dire plus simplement: -le signe linguistique est arbitraire-.
   Ansi l'idée de «sœur» n'est liée par aucun rapport intérieur avec la suite de sons s-ö-r qui lui sert de signifiant ; il pourrait être aussi bien représenté par n'importe quelle autre : à preuve les différences entre les langues et l'existence même de langues différentes : le signifié «bœf» a pour signifiant b-ö-f d'un côté de la frontière, et o-k-s (Ochs) de l'autre.


 言語の線状性については,「#766. 言語の線状性」 ([2011-06-02-1]),「#2114. 言語の線状性の力」 ([2015-02-09-1]) ほか,linearity の各記事で考察したが,Saussure (103) 自身の言葉によれば,次の通りである.

SECOND PRINCIPE ; CARACTÈRE LINÉAIRE DU SIGNIFIANT.
   Le signifiant, étant de nature auditive, se déroule dans le temps seul et a les caractères qu'il emprunte au temps : a) il représente une étendue, et b) cette étendue est mesurable dans une seule dimension : c'est une ligne.


 ・ Saussure, Ferdinand de. Cours de linguistique générale. Ed. Tullio de Mauro. Paris: Payot & Rivages, 2005.

Referrer (Inside): [2019-08-23-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2015-05-28 Thu

#2222. 言語学における音象徴の位置づけ (2) [sound_symbolism][onomatopoeia][phonaesthesia][arbitrariness][history_of_linguistics]

 オノマトペ (onomatopoeia) や音感覚性 (phonaesthesia) といった音象徴 (sound_symbolism) の例は,言語記号の恣意性 (arbitrariness) の反例としてしばしば言及される.言語記号がしばしば恣意的でなく,自然の動機づけをもっているらしいことは,古くから議論されてきたし,信じられてもきた.古代ギリシアでは「#1315. analogist and anomalist controversy (1)」 ([2012-12-02-1]) と「#1316. analogist and anomalist controversy (2)」 ([2012-12-03-1]) でみたように,大きな論争となったし,古代日本では「#1876. 言霊信仰」 ([2014-06-16-1]) として信じられた.
 音象徴を擁護する言語学者は,現在でも跡を絶たない.本ブログでも,これまで「#242. phonaesthesia と 遠近大小」 ([2009-12-25-1]),「#243. phonaesthesia と 現在・過去」 ([2009-12-26-1]),「#800. you による ye の置換と phonaesthesia」 ([2011-07-06-1]),「#1269. 言語学における音象徴の位置づけ」 ([2012-10-17-1]) で事例を紹介したり,議論してきた通りである.一方で,このような議論に反対する者も少なくない.
 擁護派は常に分が悪い.たやすく例外がみつかるからだ.反対派は,頑張らずとも攻める材料が手に入る.しかし,事はそれほど単純ではないはずだ.現代の音象徴の擁護派は,言語のすべてが音象徴で説明できるなどとは主張しておらず,音象徴の事例が(たいてい思いのほか多く)あると主張するにとどまるからである.擁護派は最初から「例外」が大量にあることは暗黙裏に認めているのであり,反対派がそのような「例外」を持ち出してきたところであまり応えていないのである.かくして論争は平行線をたどり,生産的な議論に発展せず,尻すぼみで閉じることになる.古代ギリシアから続くパターンだ.
 この状況については,Ullmann (87) が妥当な見解を示している.

   The principle of harmony between sound and sense explains some apparent anomalies which have often perplexed students of onomatopoeia. It is, for instance, generally agreed that the vowel |i| is admirably adapted to convey an idea of smallness and is frequently found in adjectives and nouns of that meaning: little, wee, French petit, Hungarian kicsi; bit, tit, whit, jiffy and many more. Yet this tendency seems to be contradicted by the adjectives big and small, and also by such examples as German Riese 'giant' and Hungarian apró 'tiny'. The explanation is quite simple: where a sound happens to occur with a meaning to which it is naturally attuned, it will become onomatopoeic and will add its own expressive force to the sense by a kind of 'resonance' effect. Where there is no intrinsic harmony the sound will remain neutral, there will be no resonance, the word will be opaque and inexpressive.
   It has often been suggested that the vitality of words may be affected, among other things, by phonetic motivation The Latin word for 'small', parvus, for example, was ill fitted by its form to convey that meaning and was therefore replaced by more expressive rivals such as French petit, Italian piccolo, Rumanian mic, etc. This sounds plausible enough, but the undiminished vitality of English small, which must have suffered from the same handicap and has yet withstood the pressure of its more expressive synonym little, is a warning that too much importance should not be attached to such factors.


 音象徴の議論のもう1つの難しさは,ある音が自然に何らかの意味を喚起するか否かの感受性が個人によって異なるものであり,同じ個人でも環境や文脈によって異なるものであることだ.要するに,主観が入らざるを得ない.Ullmann (88--89) 曰く,

More than half a century ago, Maurice Grammont enunciated an important principle concerning onomatopoeia: 'Un mot n'est une onomatopée qu'à condition d'être senti comme tel.' This introduces a subjective element into the study of phonetic motivation. While there would be a fair measure of agreement on the more obvious types of onomatopoeia, such as imitative interjections, the more subtle and more interesting cases will often be a matter of personal opinion; their evaluation will depend on the speaker's sensitivity, his imagination, his cultural background, and other imponderables. It might be possible to devise some statistical method . . . to establish a kind of average reaction to specific words, but there would still be the influence of context to reckon with, and one may wonder whether the statistical net would be fine enough to catch these delicate and elusive phenomena.


 ・ Ullmann, Stephen. Semantics: An Introduction to the Science of Meaning. 1962. Barns & Noble, 1979.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2015-05-18 Mon

#2212. 固有名詞はシニフィエなきシニフィアンである [onomastics][personal_name][sign][semantic_change][semantics][semiotics][arbitrariness][saussure]

 固有名詞の本質的な機能は,個物や個人を特定することにある.このことに異論はないだろう.確かに世の中には John Smith や鈴木一郎はたくさんいるかもしれないが,その場その場では,ある人物を特定するのに John Smith や鈴木一郎という名前で十分なことがほとんどである.固有名詞の最たる役割は,identification である.
 固有名詞には,その機能を果たす目的と関連の深い,付随した特徴がいくつかある.立川・山田 (100--08) は,言語論において固有名詞がいかに扱われてきたか,その歴史を概観しながら,固有名詞の特徴として以下の4点ほどに触れている.

 (1) 固有名詞は一般概念としてのシニフィエをもたず,個物や個人を直接的に指示する.すなわち,シニフィエ (signifié) なきシニフィアン (signifiant),空虚なシニフィアンである.
 (2) 固有名詞は翻訳不可能である.
 (3) 固有名詞は言語のなかにおける外部性を体現している.
 (4) 固有名詞は意味生成の拠点である.

 (1) は,端的に言えば固有名詞には意味がないということだ.普通名詞のもっているような象徴化機能を欠いているということもできる.一方で,指示対象は明確である.指示対象を特定するのが固有名詞の役割であるから,明確なのは当然である.意味あるいはシニフィエをもたずに,指示対象を直接に指すことができるというのが固有名詞の最も際立った特徴といえるだろう.「#1769. Ogden and Richards の semiotic triangle」 ([2014-03-01-1]) の図でいえば,底辺が直接に矢印で結ばれるようなイメージだ.
 (2) 以下の特徴も,(1) から流れ出たものである.(2) の固有名詞の翻訳不可能性は,固有名詞にもともと意味(シニフィエ)がないからである.翻訳というのは,シニフィエは(ほとんど)同一だが,シニフィアンが言語によって異なるような2つの記号どうしの関連づけである.したがって,シニフィエがない固有名詞には,翻訳という過程は無縁である.人名の Smith は「鍛冶屋」,鈴木は「鈴の木」であるから,意味があると議論することもできそうだが,人名として用いるときに意味は意識されることはないし,他言語への翻訳にあたって,通常,意味を取って訳すことはしない.
 (3) は,固有名詞が紛れもなく言語を構成する一部であるにもかかわらず,ソシュールの唱えるような差異の体系としての言語体系にはうまく位置づけられないことを述べたものである.言語が差違の体系であるということは,語彙でいえば,ある語は他の語との主として意味的な関係において相対的に存在するにすぎないということである.例えば,「男」という名詞は「女」という名詞との意味の対比において語彙体系内に特定の位置を占めているのであり,逆もまた然りである.語彙体系は,主として意味における対立を基本原理としているのだ.ところが,固有名詞は意味をもたないのであるから,主として意味に立脚する語彙体系には組み込まれえない.固有名詞は,言語内的な意味を経由せずに,直接に外界の指示対象を示すという点で,内部にありながらも外部との連絡が強いのである.固有名詞という語類は,ソシュール的な言語体系のなかに明確な位置づけをもたない.コトバとモノの狭間にある特異な存在である.
 (4) は逆説的で興味深い指摘である.固有名詞は,確かにシニフィエはもたないが,シニフィアンをもっている以上,外面的に記号の体裁は保っている.半記号とでも呼ぶべきものであり,少なくとも記号の候補ではあろう.そのようにみると,固有名詞には一人前の記号となるべく何らかのシニフィエを獲得しようとする力が働くものなのではないか,とも疑われてくる.固有名詞のシニフィアンに対応するシニフィエは無であるからこそ,その穴を埋めるべく何らかのシニフィエが外から押し寄せてくる,という考え方である.これは,意味生成 (signifiance) の過程にほかならない.立川・山田 (104--05) は,固有名詞の意味生成について次のように述べる(原文の傍点は下線に替えてある).

さらに興味深いのは、語る主体にたいする固有名詞の効果である。通常の語がすでに意味によって充満しているのにたいして、意味をもたない〈空虚なシニフィアン〉である固有名詞は、その空虚=シニフィエ・ゼロをめざして押し寄せてくる主体のさまざまな情念や想像にとらえられ、ディスクールのレベルでは逆に多義性を獲得してしまう。つまり、固有名詞はラングのレベルでシニフィエをもたないがゆえに、語る主体たちのファンタスムを迎えいれ、それと同時にみずから核となってファンタスムを増殖させていくのである。


 「#1108. 言語記号の恣意性,有縁性,無縁性」 ([2012-05-09-1]),「#1184. 固有名詞化 (1)」 ([2012-07-24-1]),「#1185. 固有名詞化 (2)」 ([2012-07-25-1]) などで,普通名詞の固有名詞化は意味の無縁化としてとらえることができると示唆したが,一旦固有名詞になると,今度は意味を充填しようとして有縁化に向けた過程が始動するということか.有縁化と無縁化のあいだの永遠のサイクルを思わずにいられない.
 立川・山田 (100) は「固有名詞という品詞をいかに定義するか。それは、それぞれの言語理論の特性を浮かびあがらせてしまう試金石であるといってもよい。」と述べている.

 ・ 立川 健二・山田 広昭 『現代言語論』 新曜社,1990年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2014-06-16 Mon

#1876. 言霊信仰 [kotodama][japanese][taboo][sound_symbolism][arbitrariness][semiotics]

 言霊(ことだま)とは,言葉に宿る霊力を指し,古代日本人は言葉を神秘的な働きをするものと信じていた.秋山・三好 (19) による説明を引こう.

呪言や呪詞など日常の言葉とは異なる働きをする言葉には、不思議な霊力が宿ると考えられていた。口に出して言い立てた言葉は、そのまま事実として実現され、よい言葉・美しい言葉はサキハヒ(幸)をもたらし、悪い言葉はワザハヒ(禍)をもたらすという、“言”と“事”の同一性が信じられていたのである。こうした言葉に宿る霊力(言霊)に対する信仰を言霊信仰と呼んでいる。


 言霊という語は,『万葉集』に3例現われる.

 ・ そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり (巻五・山上憶良の長歌の一部)
 ・ 言霊の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 夕占(ゆうけ)問ふ 占(うら)正(まさ)に告(の)る 妹(いも)はあひ寄らむ (巻十一・柿本人麻呂歌集)
 ・ 磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の国は 言霊の 幸(さきは)ふ国ぞ ま幸(さき)くありこそ (巻十三・柿本人麻呂歌集)


 最初と最後の歌は,いずれも遣唐使派遣にかかわる歌であり,「対外的な緊張の中で,国家意識の目ざめとともに〈言霊〉への信仰が自覚された」(秋山・三好,p. 19)とされる.最後の歌を参照して,日本は「言霊の幸ふ国」(言霊の霊妙な働きによって栄える国)と呼ばれることがあるが,実際には言霊への信仰は日本(語)に限らず,古今東西に例がある.むしろ,言語をもつ人類にとって一般的な現象と考えられる.
 祝詞,神託,呪文はとりわけ古代社会で重視された言霊信仰の反映であるし,忌詞 (taboo) の慣習と,それによって引き起こされる婉曲語法 (euphemism) の発達は,現代の諸言語にも広く見られる.記号の恣意性 (arbitrariness) への反例として広く観察される音象徴 (sound_symbolism) やオノマトペ (onomatopoeia) ,また古代ギリシアで起こった「#1315. analogist and anomalist controversy (1)」 ([2012-12-02-1]) の論争も,記号とその指示対象とを同一視しようとする傾向と深く関係している.五十音図の並びに深遠な意義があると説く江戸時代の音義説や,ユダヤ教で発展した「#1455. gematria」 ([2013-04-21-1]) などの言葉占いも,言霊信仰の現われである.Ogden and Richards の「#1770. semiotic triangle の底辺が直接につながっているとの誤解」 ([2014-03-02-1]) への警鐘も,人々が「記号=指示対象」と同一視してしまう根強い性向への危機感からであった.言霊信仰は,決して前近代的な慣習ではなく,現代でも息づいている「言語の盲信」である.
 言語情報にあふれた現代には,一方で「言語の不信」という問題がある.言語の盲信と不信という問題を意味論や記号論の立場で解決しようとするならば,まずは記号と指示対象との関係を正しく理解することから始める必要があろう.言霊信仰という話題は,この議論に絶好の材料を提供してくれる.

 ・ 秋山 虔,三好 行雄(編著) 『原色シグマ新日本文学史』 文英堂,2000年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2014-03-28 Fri

#1796. 言語には構造的写像性がない [iconicity][arbitrariness][rhetoric][linguistics]

 鈴木 (12--16) は,言語の記号にソシュールの言うような恣意性という特徴があるのはその通りだが,さらに記号間の対応関係それ自体に恣意性という特徴があるということを指摘しており,後者を構造的写像性 (structural iconicity) の欠如と表現している.具体的には,次のような事実を指す.「大」「小」という記号(語)において能記と所記の関係が恣意的であることはいうまでもないが,この2つの記号間の関係もまた恣意的である.なぜならば,大きいことを意味する「大」が小さいことを意味する「小」よりも,大きな声で発音されるわけでもないし,大きな文字で書かれるわけでもないからだ.「ネズミ」と「ゾウ」では,ネズミのほうが明らかに小さいのに,音としては1モーラ分より大きい(長い)し,文字としても1文字分より大きい(長い).この事実は,記号間の関係が現実世界にある指示対象の関係と対応していないこと,構造的写像性がないことを示している.
 言語に構造的写像性がないということは,当たり前すぎてあえて指摘するのも馬鹿げているように思われるかもしれないが,これは非常に重要な言語の特徴である.数字の 1 と 10,000,000 には 1:10,000,000 もの大きな比があるのだが,言語化すれば「いち」と「いちおく」という 1:2 の比にすぎなくなる.言語に構造的写像性がないからこそこれほどの経済性を実現できるのであり,その効用は計り知れない.佐藤 (256--57) も同じ趣旨のことを述べている.

瞬間と光年というふたつの単語の外形の大きさは、いっこうにその内容の大きさの差を反映していないし、一瞬間を何ページにもわたって語る長い文章もあれば、宇宙の十億光年の距離を一行の文句で記述することもできる。それはあたりまえのはなしで、人間の言語がこれほど知性的になったのは、とりもなおさずその外形と中身のサイズの比例を断ち切ることに成功したからであった。それは人間の言語の本質的性格のひとつでもあった。


 しかし,言語において構造的写像性が完全に欠如しているかといえば,そうではない.「#113. 言語は世界を写し出す --- iconicity」 ([2009-08-18-1]) やその他の iconicity の記事で示してきたように,言語記号は時に現実世界を(部分的に)反映することがある.例えば,接辞添加や reduplication により名詞の指示対象の複数性を示したり (ex. book -- books, 「山」 -- 「山々」),程度を強調するのに語を繰り返したり,延ばしたりすること (ex. very very very happy, 「ちょーーー幸せ」) は普通にみられる.
 実際,言語は,自らの本質的な特徴である構造的写像性の欠如に対して謀反を起こすことがある.あたかも,言語があまりに知性的で文明的になってしまったことに嫌気がさしたかのように.

しかし、ときどき、文明人ではなくなりたいと、ふと思うこともないわけではない。子どもが、《こんなにたくさん……》という意味内容をあらわすために思いきり両手をひろげる、また、いい年をした男が、釣りそこなった魚のくやしい大きさを両手であらわすのを見るとき、私たちは、文明言語があまりにも抽象的になってしまったことを思い出す。そして、内容量をその体格そのものであらわしてしまうような言語を、奇妙なノスタルジーをもって思うことがある。(佐藤、p. 257)


 だが,言語には,この謀反の欲求を満足させるための方策すら用意されているのだ.レトリックでいう列叙法 (accumulation) がそれである.これについては明日の記事で.

 ・ 鈴木 孝夫 『教養としての言語学』 岩波書店,1996年.
 ・ 佐藤 信夫 『レトリック感覚』 講談社,1992年.

Referrer (Inside): [2014-03-29-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2013-12-14 Sat

#1692. 意味と形態の関係 [sign][arbitrariness][double_articulation][diachrony][semantic_change][polysemy][semantics]

 記号の恣意性については,arbitrariness の記事を中心に,とりわけ「#1108. 言語記号の恣意性,有縁性,無縁性」 ([2012-05-09-1]) で議論した.そこでは,恣意性,規約性,有縁性・無縁性を区別する必要があることに触れた.signifié と signifiant との関係,平たくいえば意味と形態との関係についてを真剣に考察するのがソシュール以来の(特にフランス)言語学の伝統といえるが,意味論学者であればなおのこと,この問題に並々ならぬ関心を示す.
 タンバの第2章は,ほとんど意味と形態の関係の考察に費やされている.タンバは,言語の二重分節性について「#767. 言語の二重分節」 ([2011-06-03-1]) で紹介した Martinet の用語を引き合いに出して説明しながら,記号における signifié と signifiant の関係の問題へ迫っていく.タンバの示唆的な評言をいくつか引用しよう.

意味は一方では,それを示す形態から分離できないが,言語の意味と形態の不分離の結合は1対1の対応をなしておらず,形態の特定は意味を特定するのに充分ではない.このパラドックスによって,言語の意味と形態の関係を明らかにする必要が生じる.(54)


記号内容は,定義によると,第1次分節の単位であるから,音素にならって作られた意味素ノエームなどの意味の原子である第2次分節の有限の要素には還元できない.(56)


共時的,通時的という2重の観点は,記号表現のレベルよりも記号内容のレベルでの方が不鮮明だということが明らかになる.確かに,一定の言語態の中で語の意味を定めることと,その歴史的進化を研究することとは明らかに異なる2つのアプローチである.〔中略〕さまざまな時期に現れたいくつかの意味も,多様性という風に考えれば,同時代のものだということにもならないだろうか.そして,新しいものは,しばしば既存のパターンを用いるので――ソシュールは,「言語は共ぎれでつぎはぎをした衣である」とのべている.」(『講義』,235頁).一定の意味関係は1つの共時態から他の共時態へと生き続け,1種の無意識的記号論が作り出されることもある.無意識的記号論は,超時的原型にならって1つの言語の意味形態を形成するのである.(61)


記号意味の対立は,閉じられた音韻体系の中で生じるものではなく,開かれた語彙体系の中で生じるものである.故に,音韻的相違にならって意味の相違を把握することはできない.(62)


 歴史的言語学的な関心からは,とりわけ3番目の引用で触れられている,共時的な多義性と通時的な意味変化との関係についての考察が目を引く.意味変化は時間とともに徐々に進行し,新しい意味は必ずしも古い意味を置き換えず,むしろ両方の意味が累積していくことも多い.累積した結果は,共時的には多義となる.この共時的多義性は,1人の話者が作り出したものではなく,集団的に数世代を経て作り出されたものであるという点で,無意識的記号論と呼びうるし,共時態と通時態とを超越した超時間的記号論とも呼びうるだろう.
 上記のように意味は累積しうるが,形態には累積という概念はそれほどうまく当てはまらないように思われる.すると,形態における無意識的,超時間的な次元というものは,より考えにくいということになるだろう.この辺りに,意味と形態の特徴の大きな差があるのではないか.

 ・ イレーヌ・タンバ 著,大島 弘子 訳 『[新版]意味論』 白水社〈文庫クセジュ〉,2013年.

Referrer (Inside): [2014-06-14-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2013-11-14 Thu

#1662. 手話は言語である (1) [sign_language][linguistics][arbitrariness][double_articulation][medium][iconicity]

 読売新聞10月5日の朝刊38面に「「手話は言語」鳥取県で条例化」の記事が掲載された.「手話言語条例」案によると,手話は「独自の言語体系を有する文化的所産」として認められるとともに,公的にその普及努力が求められることになる.日本の自治体としては初の画期的な条例であり,言語としての手話の認知度が上がる重要な契機となるだろう.  *
 言語学的には,手話は音声や文字を媒介とする言語と同じ緒特徴を共有する記号体系である.言語学の概説書でもそのように話題にされるし,Ethnologue のような言語に関する情報機関でも手話は正式の言語として扱われている.しかし,一般的には,手話は正式な言語というよりは洗練されたジェスチャーであるとか絵画的な表現手段であるなどという認識がいまだ根強く,記号体系としての価値が正当に評価されていないのが事実である.その理由の1つは,手話が典型的に聾者及びその関係者により習得される言語にとどまっており,その他の多くの人々に実態が知られていないためだろう.
 しかし,手話はれっきとした言語である.ヒトの言語の媒体としては,4つの形態が認められる.音声言語 (speech),文字言語 (writing),コンピュータ媒介言語 (CMC = computer-mediated communication),そして手話 (sign_language) である.いずれもヒトの言語を特徴づける諸性質が体系的に認められるがゆえに正当に言語と呼ばれるのであり,手話もその1つとして他と同列である.例えば,手話は2重分節性 (double_articulation) を有しているし,構成する記号には恣意性 (arbitrariness) が備わっている.生産性 (reproductivity) もあれば,異空間・異時間伝達性 (displacement) もある.ほかにも,「#1327. ヒトの言語に共通する7つの性質」 ([2012-12-14-1]) や「#1281. 口笛言語」 ([2012-10-29-1]) で取り上げた言語のもつ性質をすべて示す.
 手話における記号の恣意性について付け加えておこう.一見すると手話記号は恣意的というよりはイコン的・類像的 (iconic) であるように思われるかもしれない.確かに,指示対象に特徴的な形や動きを示すなど,発生としては iconic とみなすことができる記号も多い.しかし,それは手話という媒体に限ったことではなく,音声言語や文字言語にも程度の差はあれ見られるものである.例えば,「馬」という漢字を知っている者にとっては,それは馬をかたどった象形文字に見えるために iconic と呼べそうに思えるが,知らない者にとっては,かの動物を指す文字だとは思いも寄らないだろう.手話記号も,発生としては iconic なものだったとしても,実際上は意味を推測することのできない恣意的な記号だとみなしてよい.したがって,異なる手話体系では,ある記号表現が異なる記号内容を表わすということは普通である.ASL (American Sign Language)日本手話 (JSL = Japanese Sign Language) が互いに通じないのはもとより,ASL と BSL (British Sign Language) も互いに通じないということは,一般にはあまり知られていない.
 言語としての手話の体系性については,音韻論 (phonology) において弁別的な単位である音素 (phoneme) が設定されるのと同様の関係が認められる.手話において対応する弁別的な単位は chereme と呼ばれ,それを研究する分野は cherology と呼ばれることがある.chereme には location, configuration, action の3レベルが認められ,sign space 上にそれらの可能な組み合わせが実現することによって,記号が表現される.記号の体系性という点で,手話と単なるジェスチャーとは,天と地ほど異なるのである.
 以上,Crystal (159--63) を要約する形で執筆した.関連して,「#79. 手話言語学からの inspiration」 ([2009-07-16-1]) を参照されたい.また,「#1064. 人間の言語はなぜ音声に依存しているのか (2)」 ([2012-03-26-1]) の記事に対してして頂いた本ブログ読者からのコメントも参照されたい(恥ずかしながら,手話に対する私の無知をさらけ出した発言が含まれていました).

 ・ Crystal, David. How Language Works. London: Penguin, 2005.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2013-08-24 Sat

#1580. 補充法研究の限界と可能性 [suppletion][analogy][arbitrariness][frequency][taboo][preterite-present_verb]

 補充法 (suppletion) は広く関心をもたれる言語の話題である.go -- went -- gone, be -- is -- am -- are -- was -- were -- been, good -- better -- best, bad -- worse -- worst, first -- second -- third など,なぜ同一体系のなかに異なる語幹が現われるのか不思議である.言語における不規則性の極みのように思われるから,とりわけ学習者の目にとまりやすい.
 しかし,専門の言語学においては,補充法への関心は必ずしも高くない.補充法を掘り下げて研究することには限界があると感じられているからだろう.その理由としては,(1) 単発であること,(2) 形態的に不規則で分析不可能であること,(3) 範列的な圧力 (paradigmatic pressure) から独立しており,形態的な類推 (analogy) が関与しないこと,などが挙げられる.つまり,個々の補充形は,文法のなかで体系的に扱うことができず,語彙項目として個別に登録されているにすぎないものと理解されている.一般にある語がなぜその形態を取っているのかが恣意的 (arbitrary) であるのと同様に,補充形がなぜその形態なのかも恣意的であり,より深く掘り下げられる種類の問題ではないということだろう.補充法の特徴を何かあぶりだせるとすれば,一握りの極めて高頻度の語にしか見られないということくらいである.
 Hogg は,一見すると矛盾するように思われる "Regular Suppletion" という題名を掲げて,補充法研究の限界を打ち破り,可能性を開こうとした.補充法は,形態理論の研究に重要な意味をもつという.Hogg は,英語史からの補充法の例により,次の4点を論じている.
 1つ目は,"the replacement of one suppletion by another" の例がみられることである.すでに古英語では yfel -- wyrsa -- wyrsta の補充法の比較が行なわれていたが,中英語では原級の語幹が入れ替わり,現代英語の bad -- worse -- worst へと至った.現在では,前者は evil -- more evil -- most evil となっている.yfel は極めて一般的な語義「悪い」を失い,宗教的な語義へ転じていったことにより,worse -- worst に対応する原級の地位を失い,後から一般的な語義を獲得した bad に席を譲ったということになる.Hogg は,古英語 *bæd はタブーだったために文証されていないだけであり,実際には14--18世紀に文証される badder -- baddest とともに,規則的な比較変化を示していたはずだと推測している (72) .あくまで仮説ではあるが,evilbad について,比較級変化は以下のような歴史的変化を経ただろうとしている (72) .

evilworseworse, more evilmore evil
badbadderworse, badderworse


 2つ目は,"the preference for suppletion over regularity" であり,go -- went に例をみることができる."to go" の補充過去形として古英語 ēode が中英語 went に置き換えられたことはよく知られている.それによって went の本来の現在形 wendwended という規則的な過去形を獲得したことが,英語史上も話題になっている.went の例で重要なのは,規則形よりも補充形が好まれるという補充法の傾向を示すものではないかということだ.ただし,北部方言やスコットランド方言では,別途,規則形 gaidgaed が生み出されたという事実もある.
 3つ目は,"the addition of regularity without disturbance of the suppletion" である.古英語 bēon の3人称複数現在形の1つ syndon は,印欧祖語 *-es からの歴史的な発展形である syndsynt という補充形に,過去現在動詞 (preterite-present_verb) の現在複数屈折語尾 -on を加えたものである.本来的に形態的類推を寄せつけないはずの語幹に,形態的類推による屈折語尾を付加した興味深い例である.これは,上で触れた (2), (3) の反例を提供する.
 4つ目は,"the creation of a new regular inflection on the basis of suppletion" である.古英語 bēon の1人称現在単数形の1つ (e)am は,Anglia 方言では語尾 -m の類推により非歴史的な bīom を生み出した.同方言ではこれが一般動詞に及び,非歴史的な1人称現在単数形 flēom (I flee) や sēom (I see) をも生み出すことになった.本来,補充形の内部にあって分析されないはずの -m がいまや形態素化したことになる.
 Hogg (80--81) は,以上のように補充法の語彙的,形態的な注目点を明らかにしたうえで,"[S]uppletion is not merely a linguistic freak which does no more than give a small amount of pleasure to a rather giggling schoolboy. . . . [S]uppletion is a dynamic process." と述べ,補充法研究の可能性を探りながら,論文を閉じている.

 ・ Hogg, Richard. "Regular Suppletion." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 71--81.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2012-12-14 Fri

#1327. ヒトの言語に共通する7つの性質 [linguistics][double_articulation][arbitrariness]

 動物が利用する種々のコミュニケーション手段と対比して,ヒトの言語のもつ特徴は何か.多くの言語学者が,この言語学の本質的な問題に挑んできた.本ブログ記事としては,最近では,「#1281. 口笛言語」 ([2012-10-29-1]) で,Crystal の指摘する3点 (reproductiveness, double_articulation, displacement) を紹介した.
 西江 (139--52) によれば,世界の言語に共通する性質は7つある.ヒト以外の動物のなかには,これらの性質のいくつかをもっているものもあるが,7つすべてを満たしているものはない.逆からみれば,この7つすべてを満たしているならば,そのコミュニケーション手段は言語であるといえる.

 (1) 二重分節性(「#767. 言語の二重分節」 ([2011-06-03-1]) 及び double_articulation を参照)
 (2) 生産性
 (3) 恣意性 (arbitrariness を参照)
 (4) 異空間・異時間伝達性
 (5) 老若男女共通性(動物にはオスとメス,子と親とで伝え合いの方法が異なるのが普通)
 (6) 分離性(必ずしも額面通りには表現しないという性質)
 (7) 後天性・文化性

 言語の媒介 (medium) ,言語の機能 (function_of_language), 言語の起源 (origin_of_language) のような一般言語学の諸問題を考察する際にも,これらの性質の理解が不可欠になろう.

 ・ 西江 雅之 『新「ことば」の課外授業』 白水社,2012年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2012-10-17 Wed

#1269. 言語学における音象徴の位置づけ [sound_symbolism][onomatopoeia][phonaesthesia][arbitrariness][origin_of_language]

 音象徴 (sound_symbolism) と,その下位区分である onomatopoeia 及び phonaesthesia は,言語記号の恣意性を公理とするソシュール以降の言語学にとっては,周辺的な話題である.しかし,周辺的だからこそ関心を惹くという側面もあり,ことに日本語母語話者にとっては,日本語に擬音語・擬態語という現象があるだけに,余計に関心をそそられる.今回は,音象徴が言語学のなかで周辺的でありながらもある位置づけを保っているという点について考えてみたい.
 音象徴の投げかける最大の問題は,言語記号の恣意性 (arbitrariness) への反例という問題だ.Jespersen はとくとくとこの問題について論じているし,Bloomfield も,非常に慎重なやり方ではあるが,音象徴の意味作用や音象徴の型について紙面を割いている([2010-01-10-1]の記事「#258. 動きや音を示唆する phonaethesia」を参照).20世紀の後半以降も,##207,242,243 で見たように,Samuels や Smith などが音象徴に熱いまなざしを向けている.
 しかし,彼らの論考は,音象徴が「記号の随意性を拒否するというよりも,むしろ随意性をきわめて周辺的に制限するものである」(ムーナン,p. 87)との主張とも解釈することができ,結果的に言語記号の恣意性の原則が強調されているともいえる.音象徴の制限的な性格については,Jespersen も十分に認識しており,「《ある種の》語について[だけ]は音の響きのシンボル表現のようなものが存在する」,「音声的シンボル表現を最大限にまで利用している言語はない」,「この音声的シンボル表現がなりたつ領域は何か,どのような音の場合にそれがなりたつのか,それに答えるのが将来の言語学者の仕事だろう」と述べている(ムーナン,p. 88).Jespersen の議論においてすら,音象徴は周辺にとどまらざるをえなかったのだ.
 音象徴のもつ別の言語学的な意義は,言語の起源にかかわるものである.[2010-07-02-1]の記事「#431. 諸説紛々の言語の起源」で見たように,言語の起源を onomatopoeia に見いだそうとする説があるからだ.しかし,この方向で有意義な議論が発展するとは考えられず,やはり周辺にとどまらざるをえない.
 音象徴の今ひとつの意義は,アメリカの分布主義者たちによる言語単位の切り出しの手法に関連する.Bloomfield や Harris という手堅い研究者ですら,there, then, thither, this, that などの語群から th という音象徴的な単位を切り出せるのではないかという誘惑に駆られた([2010-01-11-1]の記事「#259. phonaesthesia異化」を参照).Harris は,glide, gleam などの例を挙げつつ,「たとえ gl- のような要素連続に形態素としての資格を認めるべきだと主張することが困難だとしても,gl- で始まる要素連続のうちに意味作用の部分的類似性をもつものがそれほど多いという事実を説明しないでほうっておくこともまた感心できない」と述べている(ムーナン,p. 208).
 上に挙げてきた,音象徴に関心を寄せる研究者がすべて英語学に基盤をもつ言語学者であることに注目すべきである.ムーナン (87, 209) の示唆するところによると,印欧諸語のなかでも,ゲルマン諸語,とりわけ英語はすぐれて音象徴の例が豊富らしいのだ.非英語系の言語学者が比較的この問題に冷静なのに対して,英語系の言語学者は概ね熱い.そして,擬音語・擬態語の豊富な日本語を母語とする英語研究者もまた,この問題に熱くなりがちということがあるのかもしれない.

 ・ ジョルジュ・ムーナン著,佐藤 信夫訳 『二十世紀の言語学』 白水社,2001年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow