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sociolinguistics - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2019-07-23 04:52

2019-07-17 Wed

#3732.『英語教育』の連載第5回「なぜ英語は語順が厳格に決まっているのか」 [rensai][notice][word_order][old_norse][syntax][contact][synthesis_to_analysis][sociolinguistics]

 7月14日に,『英語教育』(大修館書店)の8月号が発売されました.英語史連載記事「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ」の第5回「なぜ英語は語順が厳格に決まっているのか」が掲載されています.ご一読ください.

『英語教育』2019年8月号


 標題の問いに端的に答えるならば, (1) 古英語の屈折が言語内的な理由で中英語期にかけて衰退するとともに,(2) 言語外的な理由,つまりイングランドに来襲したヴァイキングの母語である古ノルド語との接触を通じて,屈折の衰退が促進されたから,となります.
 これについては,拙著『英語史で解きほぐす英語の誤解 --- 納得して英語を学ぶために』(中央大学出版部,2011年)の第5章第4節でも論じましたので,そちらもご参照ください.言語は,そのような社会的な要因によって大きく様変わりすることがあり得るのです.
 関連して,以下の記事もどうぞ.

 ・ 「#1170. 古ノルド語との言語接触と屈折の衰退」 ([2012-07-10-1])
 ・ 「#3131. 連載第11回「なぜ英語はSVOの語順なのか?(前編)」」 ([2017-11-22-1])
 ・ 「#3160. 連載第12回「なぜ英語はSVOの語順なのか?(後編)」」 ([2017-12-21-1])

 ・ 堀田 隆一 「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ 第5回 なぜ英語は語順が厳格に決まっているのか」『英語教育』2019年8月号,大修館書店,2019年7月14日.62--63頁.
 ・ 堀田 隆一 『英語史で解きほぐす英語の誤解 --- 納得して英語を学ぶために』 中央大学出版部,2011年.

Referrer (Inside): [2019-07-18-1]

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2019-06-20 Thu

#3706. 民族と人種 [ethnic_group][race][sociolinguistics][category]

 筆者は学生時代に言語学に関心をもち,そこから歴史言語学,そして社会言語学へと関心を広げてきたが,まさか「民族」と「人種」といった抜き差しならない社会的な問題を扱うことになろうとは夢にも思わなかった.初心に戻って「民族」 (ethnic_group) と「人種」 (race) について整理してみたい.伝統的には前者は文化的なもの,後者は形質的なものととらえてきたが,昨今では必ずしもそのようにとらえられているわけではない.まずは「民族性」 (ethnicity) について見ておこう.A Dictionary of Sociolinguisticsethnicity の項 (100--01) より.

ethnicity An aspect of an individual's social IDENTITY which is closely associated with language. Ethnicity is usually assigned on the basis of descent. In addition, the subjective experience of belonging to a culturally and historically distinct social group is often included in definitions of ethnicity. Thus, DEAF people usually consider themselves to be part of the Deaf community, which is defined by specific cultural and linguistic practices, although they may not have been born into the community (they may have become Deaf only later in life, or they may have grown up among hearing people). Questions of identity and ethnicity are also problematical in the context of migration. Second-generation migrants may not wish to identify with their traditional ethnic group but with the new society (e.g. second-generation German migrants in the USA may see themselves not as German but as American; such shifts in identity are often accompanied by symbolic actions such as name changes --- Karl Müller to Chuck Miller). To assign individuals unambiguously to distinct ethnic groups can be difficult in such contexts. Sometimes RELIGION is also considered to form part of ethnicity.
   Language forms a central aspect and symbol of ethnic identity (see e.g. Smolicz (1981) on language as a 'core value' of an ethnic group). Sociolinguists who study multicultural societies have often included ethnicity as a SOCIAL VARIABLE. Horvath (1985), for example, included speakers from different ethnic groups (Australians of English, Italian and Greek background) in her study of English in Sydney.


 民族性に言語が大きく関わるのは事実だが,言語のみで決定されるカテゴリーというわけでもない.そこには,言語以外の文化・歴史・社会的なカテゴリーもしばしば関与する.それは複合的な要因によって形成されるアイデンティティというべきものである.
 次に「人種」はどうだろうか.こちらも単純に生物学的な区分とみる伝統的な見解もあるが,それ自体がすでに社会化された構造物であるという見方もある.上と同じ用語辞典より引用する.

race Highly contested term. Whilst it has no basis in biological or scientific fact, 'race' is in widespread everyday usage to refer to particular groups or 'races' of people, usually on the basis of physical appearance or geographical location, who are presumed to share a set of definable characteristics. The term ETHNICITY is sometimes used to refer to the identity of different groups on the basis of their assumed or presumed genealogical descent. 'Race' in social studies of language is viewed as a social construct rather than a fact (hence the use of inverted commas around 'race'): that is, 'race' or 'racial groups' only exist because particular physical characteristics (such as skin colour, facial features) are attributed a special kind of significance in society. This attribution usually involves differentiation between 'races' in terms of status and power, resulting from a particular IDEOLOGY. It is acknowledged that 'race' has considerable force in continuing to inform policies, behaviour and attitudes, including those relating to language and behaviour (see discussions in Omi and Winant, 1994). For this reason, 'race', usually within the context of RACISM, has been a focus of study in sociolinguistic research (e.g. Reisgl and Wodak, 2000).


 民族,人種,言語はそれぞれ独立したカテゴリーでありながらも,非常に複雑な仕方で相互関係を保っている.それゆえに各カテゴリーの定義は,部分的に相互参照しながらなされなければならない運命なのだろう.
 関連して,「#1871. 言語と人種」 ([2014-06-11-1]),「#3599. 言語と人種 (2)」 ([2019-03-05-1]) も参照.

 ・ Swann, Joan, Ana Deumert, Theresa Lillis, and Rajend Mesthrie, eds. A Dictionary of Sociolinguistics. Tuscaloosa: U of Alabama P, 2004.

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2019-05-26 Sun

#3681. 言語の価値づけの主体は話者である [sociolinguistics][gender_difference][sapir-whorf_hypothesis]

 「#3672. オーストラリア50ドル札に responsibility のスペリングミス (2)」 ([2019-05-17-1]) で触れたように,スペリングを始めとする特定の言語項にまとわりつく威信 (prestige) や傷痕 (stigma) は,最初からそこに存在するものではなく,あるときに社会によって付与されたものである.その評価はいったん確立してしまうと,その後は強化されながら受け継がれていくことが多い.言語に関する良いイメージ,悪いイメージの拡大再生産である.これは個人個人が必ずしも意識していないところで生じているプロセスであり,それゆえに恐い.平賀 (77) は,英語学の概説書において英語の言語使用における性差について議論した後で,この件について次のようにまとめている.

これらの差異は言語学的には優劣とは無縁であるのですが,人々は社会生活の中でさまざまに価値付けを行い,威信や傷痕を付与してきました.つまり,英語ということばの実践によって,その社会の支配的イデオロギーを正当化し,再生産してきたのだとも言えます.ことばが社会や個人の生活に深く根をおろしていることは誰しも認める事ですが,それは単に社会構造を反映しているというだけでなく,逆にことばの実践によって社会構造の構築に働きかけてもいるのだということを認識すべきでしょう.


 引用の最後のくだりは,サピア=ウォーフの仮説 (sapir-whorf_hypothesis) に関連する重要な点である.言語と社会の関係の双方向を示唆するポイントである.価値づけの主体は社会であり,集団であり,究極的には個々の話者であるということを銘記しておきたい.

 ・ 平賀正子 『ベーシック新しい英語学概論』 ひつじ書房,2016年.

Referrer (Inside): [2019-05-27-1]

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2019-05-17 Fri

#3672. オーストラリア50ドル札に responsibility のスペリングミス (2) [spelling][orthography][sociolinguistics]

 昨日の記事 ([2019-05-16-1]) に引き続き,標記の話題.responsibilityresponsibilty と綴ったところで,何の誤解も生じるはずがない,とすれば世間は何を騒いでいるのか,という向きもあるにちがいない.しかし,現実的には世界中の英語文化に直接・間接に関与する多数の人々(日本人の英語学習者も含む)にとって,<i> を含む「正しい綴字」には威信 (prestige) があり,<i> が抜けている「誤った綴字」には傷痕 (stigma) が付されているという評価が広く共有されている.今回のスペリングミスについてどの程度積極的に非難するかは別として,少なくとも「オーストラリア,やっちゃったな」とチラとでも思っているようであれば,それは「正しい綴字」の威信を感じていることの証左である.
 しかし,そのように感じている人(私も含め)は,なぜ <i> の1文字の有無に左右される「正しい綴字」に威信を認めているのだろうか.今回の「正しい綴字」に積極的・消極的に威信を認めるという行為そのものによって,responsibility という綴字の威信はいやましに高まり,responsibilty を含む正しくない綴字はますます負のレッテルを貼られるようになる.それは英語の正書法全般にもインパクトを与え,ますます「正しい綴字」の威信を高め,「誤った綴字」の傷痕を増す方向へ圧力を加えることになる.威信・傷痕の拡大再生産である.
 この加圧の主体は,英語を使う社会全体である.社会とは集団のことだが,集団とは個人の集まりである.究極的には,この圧力を加えているのは,それぞれ意識はせずとも一人一人の個人である.英語を非母語として学んでいる私たちの各々も,その集団の(はしくれかもしれないが)一員である以上,0.00000001%以下の貢献度ではあるが,無意識的にこの加圧の主体となっているのである.英語母語話者でもないのにそんな言い方はバカバカしいと思われるかもしれないが,これは事実である.とある綴字にもとから自然に威信があるとか,傷痕があるとか理解してはいけない.社会が,そして究極的には個人が(=あなたや私が),その綴字に威信や傷痕を付しているのである.
 発音,文法,語彙,綴字などの言語項それ自体に,おのずからプラスやマイナスの力があるわけはない.それを使う人間が,それらにプラスやマイナスの社会的価値を付しているだけである.responsibilityresponsibilty という綴字そのものに内在的な力があるとは考えられない.一方の綴字にプラスの力を,他方にマイナスの力を付しているのは,一人一人の人間なのである.みなが1字の違いで騒ぐのはアホらしいという意見で一致すれば,ニュースにもスキャンダルにもならないだろう.みなが1字の違いが重要だと思っているからこそ,ニュースになりスキャンダルにもなっているのである.つまり,これは明らかに英語に関与するすべての人々が共同で作り上げたニュースであり,スキャンダルなのだ.

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2019-05-16 Thu

#3671. オーストラリア50ドル札に responsibility のスペリングミス (1) [spelling][orthography][sociolinguistics]

 先週世界を駆け巡ったニュースだが,オーストラリアの最新技術を駆使した新50ドル札に3つめの <i> の抜けた responsibilty (正しくは responsibility)というスペリングミスのあることが発覚した.英語正書法上の大スキャンダル,"spelling blunder" と騒がれている(BBC News の記事 Australia's A$50 note misspells responsibility などを参照).
 Reserved Bank of Australia が昨年発行した50ドル紙幣には,オーストラリア議会初の女性議員 Edith Cowan の肖像画が描かれているが,その左隣にみえる芝生の絵の部分は,実は非常に小さな文字列からなっており,そこに Cowan の議会での初演説からの一節が引用されている.具体的には "It is a great responsibility to be the only woman here, and I want to emphasise the necessity which exists for other women being here." という文が何度も繰り返し印刷されているのだが,いずれの文においても responsibilityresponsibilty と <i> 抜きで綴られていた.虫眼鏡でなければ読めない小さな文字で書かれているので,発行から半年のあいだ誰にも気付かれずにきたらしい.すでに4600万部が印刷されてしまっており回収不可能なので,RBA は「次回の印刷で正します」とのこと.

Australia's $50 Note Spelling Blunder

 オーストラリア人はもとより世界中の多くの人々が,RBA やオーストラリアに対して声高には非難せずとも「やってしまったなぁ」と内心つぶやいていることだろう.私も素直に感想を述べれば「ヘマをやらかしてしまったなあ」である.一方,このようなニュースで世間が騒いでいるのをみて,<i> が抜けた程度でこの単語が誤解されることはない,何を騒ぐのか,という向きもあるだろう.確かに意思疎通という観点からいえば,誤った responsibilty も正しい responsibility と同じように十分な用を足す.
 しかし,言語のその他の要素と同様に,スペリングには言及指示的機能 (referential function) と社会指標的機能 (socio-indexical function) の2つの機能がある (cf. 「#2922. 他の社会的差別のすりかえとしての言語差別」 ([2017-04-27-1])) .今回のミススペリングは,「責任」を意味する語の言及指示的機能を損ねるものではないが,スペリングの社会指標的機能について再考を促すものではある.具体的にいえば,<i> 込みの responsibility には威信 (prestige) があり,<i> 抜きの responsibilty には傷痕 (stigma) が付着しているということだ.それぞれのスペリングに,プラスとマイナスの社会的な価値づけがなされているのである.
 では,なぜそのような価値づけがなされているのか.誰が価値づけしていて,私たちはなぜそれを受け入れているのか.これは正書法を巡る社会言語学上の大問題である.
 さらにいえば,これは歴史的な問題でもある.というのは,1500年を超える英語の歴史のなかで,スペリングの規範を含む厳格な正書法が現代的な意味で確立し,遵守されるようになったのは,たかだか最近の250年ほどのことだからだ.その他の時代には,スペリングに対する寛容さがもっとあった.なぜ後期近代以降,そのような寛容さが英語社会から失われ,<i> 1文字で騒ぎ立てるほどギスギスしてきたのか.
 responsibilty 問題は,英語書記体系そのものに対する関心を呼び起こしてくれるばかりか,正書法の歴史や,言語項への社会的価値づけという深遠な話題への入り口を提供してくれる.向こう数週間の授業で使っていけそうな一級のトピックだ.本ブログでも,続編記事を書いていくつもりである.
 世界的に有名な他の "spelling blunder" としては,アメリカ元副大統領 Dan Quayle の「potato 事件」がある.これについては,Horobin (2--3) あるいはその拙訳 (16--17) を参照.たかが1文字,されど1文字なのである.

 ・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.
 ・ サイモン・ホロビン(著),堀田 隆一(訳) 『スペリングの英語史』 早川書房,2017年.

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2019-05-11 Sat

#3666. 方言を捨てて標準語を採用するのは美容整形するのと同じか? [sociolinguistics][face]

 先日,社会言語学の講義で,標準語と方言という言語変種にみられる社会言語学的「ランク」の話しをした.どの方言も言語も,(伝統的な)言語学の見解によれば互いに平等である.しかし,社会言語学的な観点から実態をみると,古今東西,諸言語・方言間に序列が歴然と存在するのが常態である.その回の講義では,なぜ標準語が偉く,非標準語(いわゆる方言)がその下に位置づけられる傾向があるのかという議論を経た後で,日本語や英語による方言差別や方言撲滅運動の歴史を概観した(cf. 「#1786. 言語権と言語の死,方言権と方言の死」 ([2014-03-18-1]),「#2029. 日本の方言差別と方言コンプレックスの歴史」 ([2014-11-16-1]),「#2030. イギリスの方言差別と方言コンプレックスの歴史」 ([2014-11-17-1])).
 現代の日本でも,母方言を捨て(あるいは「忘れる」というほうが適切か),標準語をピックアップするということは,少なからぬ個人が行なっていることと思われるが,母方言はアイデンティティの手形であるという考えのもとで,そのような態度は薦められるものではないという向きもあるだろう.そんなディスカッションをした後で,リアクションペーパーを書いてもらったのだが,ある学生から次のようなコメントが飛び出した.

方言を矯正すべきなのか?という問いに対し,私はそれは違うと思った.方言は,うまれもった個性であるため,それを変えるのは,極端な話,整形をするのと同じだと思う.


 このコメントを読んだときの私の反応は「すごい比喩,なんだこの感性は!」というものだった.この衝撃というか感心は,たぶん学期に一度のレベルのものではなかろうか.
 標準語という存在をポジティヴに捉えるかネガティヴに捉えるかという問題と,容貌を大きく変えてしまう美容整形の是非という問題は,そこそこパラレルではないかという趣旨のコメントである.このパラレリズムについて考えを巡らせてみたが,1つ大きく異なるのは,整形については一旦手術をしてしまうと,元の容貌に戻すのは不可能(少なくとも簡単にはできない)が,言語については母方言と標準語の間で(両方の能力を保持できている限りにおいて)自由意志のもとで切り替えができることだ.したがって,整形の場合には,その是非が白黒つけられるべき絶対的な問題となりがちだが,言語の場合には,あるときは母方言で,別のときは標準語でとスルスル切り抜けていけばよいという選択肢もあるので,必ずしも絶対的な議論へと発展しないのかもしれない.
 切り替えられるか否かという点でいえば,整形の比喩よりも仮面の比喩のほうが適切かもしれない.すると,それはまさに社会言語学でいう face 理論そのものの発想だ(cf. 「#1564. face」 ([2013-08-08-1])).私がこの学生(おそらく face という概念は未習ではないかと思われる)のセンスの素晴らしさに反応したのは,学生が言語(方言)選択における face の作用(に近いもの)に半ば直観的に気づいてしまっていたからかもしれない.

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2019-04-30 Tue

#3655. 国家が唯一の国語を要求する理由 [sociolinguistics][standardisation][language_planning]

 典型的な近代国家は,領土内で公的に通用する唯一の「国語」の制定を要求する.もちろん複数の公用語を掲げるスイス,ベルギー,カナダなどの国家は少なからず存在するが,近代以降の歴史を振り返れば,国家が理想として目指す方向性は明らかに「1国家=1言語」だった.国家は,原則として1つの言語変種を「国語」としてまつりあげる性癖を有しているのである.そのような近現代の国家に所属している私たちのほとんどは,このことを自明のこととして理解しており,あえて自問することをしないが,改めてなぜ国家は唯一の国語を要求するものなのだろうか.
 最近,英語の標準化の歴史について再考する機会があり,Haugen の古典的な論文を読み直してみた.そこに,近代国家の目指すところは,"internal cohesion" と "external distinction" であるという寸鉄人を刺す文句をみつけた.その前後の文脈もカバーしつつ,引用しよう.

   The definition of a nation is a problem for historians and other social scientists; we may accept the idea that it is the effective unit of international political action, as reflected in the organization of the United Nations General Assembly. As a political unit it will presumably be more effective if it is also a social unit, it minimizes internal differences and maximizes external ones. On the individual's personal and local identity it superimposes a national one by identifying his ego with that of all others within the nation and separating it from that of all others outside the nation. In a society that is essentially familial or tribal or regional it stimulates a loyalty beyond the primary groups, but discourages any conflicting loyalty to other nations. The ideal is: internal cohesion--external distinction.
   Since the encouragement of such loyalty requires free and rather intense communication within the nation, the national ideal demands that there be a single linguistic code by means of which this communication can take place. . . . On the other hand, a nation feels handicapped if it is required to make use of more than one language for official purposes, as is the case in Switzerland, Belgium, Yugoslavia, Canada, and many other countries. (Haugen 927--28)


 国家は対内的には "internal cohesion" を目指し,対外的には "external distinction" を求める.これを国語制定や標準語化という言語政策の観点から言い直せば,国家は,同じく Haugen のいうように言語に対して "minimum variation in form" と "maximum variation in function" を要求するものだ,ということになろう.国民のあいだで政治的忠誠心を培うためには,濃密なコミュニケーションが必要であり,したがって唯一の共通語が求められるという論理のつながりも,非常にわかりやすい.
 関連して,「#2742. Haugen の言語標準化の4段階」 ([2016-10-29-1]) と「#2745. Haugen の言語標準化の4段階 (2)」 ([2016-11-01-1]) も参照されたい.

 ・ Haugen, Einar. "Dialect, Language, Nation." American Anthropologist. 68 (1966): 922--35.

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2019-04-28 Sun

#3653. Ebonics 論争 [aave][sociolinguistics][blend][language_or_dialect]

 「Ebonics 論争」とは,1996年にカリフォルニア州, Oakland の教育委員会の決議に端を発する,黒人英語の位置づけを巡る論争である.この事件で黒人英語を指す Ebonics という用語が一躍有名となったが,言語学では黒人英語のことを AAVE (= African American Vernacular English) と呼ぶことが多い(aave の各記事を参照).ちなみに,Ebonicsebony (黒檀) と phonics (音声)の混成語 (blend) とされる.
 1996年12月18日,カリフォルニア州のオークランド教育委員会が,教室で Ebonics を認知し,保持し,使用することを決定した.黒人の子供たちが最終的に標準英語を流ちょうに使いこなせるようになるためには,教育上,母語である Ebonics の介在が欠かせないという判断からだ.委員会はそこで Ebonics は英語と「遺伝的関係にある」が,英語とは異なる言語であると決議したのである.この決議は1997年1月7日にアメリカ言語協会の満場一致の支持を得た.しかし,注意すべきは,同協会が Ebonics と標準英語との「遺伝的な関係」について,何らかの専門的な見解を述べたわけではないことだ.後に,専門家集団による非専門的な判断と批判を浴びることになった.
 一方,この教育委員会の決議には方々から強い反対意見も出された.同じ1997年の1月に,アメリカ上院の小委員会の公聴会では,黒人からも白人からも批判の声があがった.その後の騒乱により,先の教育委員会は1997年4月の提案書から Ebonics という用語を削除することを余儀なくされたほどである.
 2つの言語変種が,2つの異なる言語なのか,あるいは1つの言語の異なる方言にすぎないのか.language_or_dialect という社会言語学の古くからの問題が,現実の社会問題となった好例として銘記すべきだろう.
 以上,Wardhaugh (371) を参照して執筆した.Wardhaugh からは,関連する文献も複数たどれる.

 ・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.

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2019-04-21 Sun

#3646. 日本語方言の社会的価値の変遷 [japanese][dialect][dialectology][standardisation][sociolinguistics]

 4月9日のことになるが,読売新聞の朝刊11面に「日本語 平成時代の変化」と題する解説文が掲載されていた.解説者は,日本語方言学の大家で,東京外国語大学名誉教授の井上史雄先生である.私も学生時代に先生の社会言語学の講義を受け,大いに学ばせていただいたが,的確な分類や名付けにより現象を分かりやすく解説してくださるのが,当時より先生の魅力だった.今回の解説記事では「方言の社会的価値の分類」が紹介されていたが,これも先生が当時から「我ながらなかなかうまい分類ができた」とおっしゃっていた,お気に入りの持ちネタの披露というわけだ(←その授業を今でもはっきりと覚えています).日本語方言の社会的価値の変遷を実にきれいに表現した分類である.

 類型時代方言への評価使われ方
第1類型撲滅の対象明治〜戦前マイナス方言優位
第2類型記述の対象戦後中立方言・共通語両立
第3類型娯楽の対象戦後〜平成プラス共通語優位


 この分類表の注でも述べられていたが,方言の記述や記録自体はいつの時代でも行なわれてきた.したがって,第2類型の「記述の対象」とは,第1類型と第3類型の時代との相対的な文脈で理解すべき「記述」である.
 井上先生は「全体としては平成の間,方言は衰退した.方言に誇りを持っていた関西でも,若い人は共通語を使うようになった.共通語の使用者数は,終戦後は1割程度,昭和後期で5割程度,平成期は9割程度とみられる.国民の大半が共通語を使うようになる大転換があったのだ.テレビなどメディアの影響が大きい.ただ,方言が衰える一方ではない.新しい方言が各地で生まれ,東京に流入し,全国に広がる例もある.『うざい』,『ちがかった』(違った),語尾の『じゃん』,などだ」と述べている.戦後昭和と平成の時代は,全体として共通語が広がるなかで諸方言が衰退していきつつも,日本語話者のあいだに,方言を楽しんだり取り込んだりするゆとりが生まれた時代と言ってよさそうだ.
 関連して「#1786. 言語権と言語の死,方言権と方言の死」 ([2014-03-18-1]),「#2029. 日本の方言差別と方言コンプレックスの歴史」 ([2014-11-16-1]) も参照されたい.その他,井上先生の洞察を反映した,以下の記事もどうぞ.

 ・ 「#2073. 現代の言語変種に作用する求心力と遠心力」 ([2014-12-30-1])
 ・ 「#2074. 世界英語変種の雨傘モデル」 ([2014-12-31-1])
 ・ 「#2132. ら抜き言葉,ar 抜き言葉,eru 付け言葉」 ([2015-02-27-1])
 ・ 「#2133. ことばの変化のとらえ方」 ([2015-02-28-1])

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2019-04-04 Thu

#3629. ウクライナにおけるロシア語 [map][russian][ukrainian][sociolinguistics][slavic][language_shift]

 クリミア半島情勢を巡ってウクライナ共和国が揺れている.目下,ウクライナは大統領選の最中だが,争っている候補者たちは反ロシア,新欧米の路線という点では一致している.
 ウクライナとロシアの問題は,互いにスラヴという言語・民族・文化上の共通点があるがゆえに厄介だ.このような構図は古今東西ありふれているが,ありふれているからといって解決がたやすいわけではない.むしろ逆のことが多いだろう.
 ウクライナ語とロシア語の関係についていえば,「#1469. バルト=スラブ語派(印欧語族)」 ([2013-05-05-1]) で触れたとおり「Ukrainian はウクライナで約5000万人によって話されている大言語だが,国内では歴史的に威信のあるロシア語と競合しており,民族主義的な運動によりロシア語からの区別化が目指されている」というように,ウクライナ語話者の意識的なロシア語からの離反がある."sociolinguistic distancing" の典型例といってよいだろう.一方,歴史的にはウクライナ語からロシア語への言語交替 (language_shift) が生じてきたために,現在まで状況が複雑化してきたのである(「#1540. 中英語期における言語交替」 ([2013-07-15-1]) で関連した事情に一言触れてある).
 現代のウクライナにおける言語分布について,やや古いが2001年の国税調査の結果が3月29日の読売新聞朝刊に掲載されていた.リビウ,イワノ・フランコフスク,キエフなどの中部・西部諸州ではウクライナ語が圧倒しているが,南部のオデッサ州ではほぼ半々であり,東部のドネツク州や目下問題のクリミア自治共和国ではロシア語が圧倒している.国家全体としてみれば,,ウクライナ語が約2/3と上回っているが,社会言語学的不安定さは容易に予想される比率である.  *
 ウクライナといえば,印欧祖語の故地の有力候補ともなっており,歴史言語学の世界でも名の知られた国である(cf. 「#637. クルガン文化印欧祖語」 ([2011-01-24-1])).また,英語語彙との絡みでいえば,「#834. ウクライナ語からの借用語」 ([2011-08-09-1]) にも注意したいところである.そして,上にも述べたように,意外かもしれないが,母語話者人口でいえば3千万人を超える,世界30位程度にランクインする大言語であることも銘記しておきたい.
 ウクライナ大統領選の行方も要注目だ.

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2019-01-23 Wed

#3558. 言語と言語名の記号論 [world_languages][sociolinguistics][dialect][variety][scots_english][celtic]

 ある言語を何と呼ぶか,あるいはある言語名で表わされている言語は何かという問題は,社会言語学的に深遠な話題である.言語名と,それがどの言語を指示するかという記号論的関係の問題である.
 日本の場合,アイヌ語や八重山語などの少数言語がいくつかあることは承知した上で,事実上「言語名=母語話者名=国家名=民族名」のように諸概念の名前が「日本」できれいに一致するので,言語を「日本語」と呼ぶことに何も問題がないように思われるかもしれない(cf. 「#3457. 日本の消滅危機言語・方言」 ([2018-10-14-1])).しかし,このように諸概念名がほぼ一致する言語は,世界では非常に珍しいということを知っておく必要がある.
 アジア,アフリカ,太平洋地域はもとより,意外に思われるかもしれないがヨーロッパ諸国でも言語,母語話者,国家,民族は一致せず,したがってそれらを何と呼称するかという問題は,ときに深刻な問題になり得るのだ(cf. 「#1374. ヨーロッパ各国は多言語使用国である」 ([2013-01-30-1])).たとえば,本ブログでは「#1659. マケドニア語の社会言語学」 ([2013-11-11-1]) や「#3429. マケドニアの新国名を巡る問題」 ([2018-09-16-1]) でマケドニア(語)について論じてきたし,「#1636. Serbian, Croatian, Bosnian」 ([2013-10-19-1]) では旧ユーゴの諸言語の名前を巡る話題も取り上げてきた.
 本ブログの関心から最も身近なところでいえば,「英語」という呼称が指すものも時代とともに変化してきた.古英語期には,"English" はイングランドで話されていた西ゲルマン語群の諸方言を集合的に指していた.しかし,中英語期には,この言語の話者はイングランド以外でも,部分的にではあれスコットランド,ウェールズ,アイルランドでも用いられるようになり,"English" の指示対象は地理的も方言的にも広まった.さらに近代英語期にかけては,英語はブリテン諸島からも飛び出して,様々な変種も含めて "English" と呼ばれるようになり,現代ではアメリカ英語やインド英語はもとより世界各地で行なわれているピジン英語までもが "English" と呼ばれるようになっている.「英語」の記号論的関係は千年前と今とでは著しく異なっている.
 前段の話題は "English" という名前の指す範囲の変化についての semasiological な考察だが,逆に A と呼ばれていたある言語変種が,あるときから B と呼ばれるようになったという onomasiological な例も挙げておこう.「#1719. Scotland における英語の歴史」 ([2014-01-10-1]) で紹介した通り,スコットランド低地地方に根付いた英語変種は,15世紀以前にはあくまで "Inglis" の1変種とみなされていたが,15世紀後半から "Scottis" と称されるようになったのである.この "Scottis" とは,本来,英語とは縁もゆかりもないケルト語派に属するゲール語を指していたにもかかわらずである.平田 (57) が指摘する通り,このような言語名の言い換えの背景には,必ずやその担い手のアイデンティティの変化がある.

古スコッツ語は,一一〇〇年から一七〇〇年まで初期スコッツ語,中期スコッツ語と変遷した歴史を持つが,もっとも大きな変化は,一五世紀末に呼び名が変わったこと,すなわちイングリスがスコティス(Scottis は Scottish の古スコッツ語異形.Scots は Scottis の中間音節省略形)と呼ばれるようになったことである.かつてスコティスという言葉はあきらかにハイランド(とアイルランド)のゲール語を指していた.スコットランド性はゲール語と結びつけられていた.ところが,ローランド人は,この言語変種の呼び名はスコティスであると主張した.これははっきりとした自己認識の転換であった.スコティスはこれ以後はゲール語以外の言語を指すようになった.これはスコットランドの言語的なアイデンティティが転換したことを示しているのである.


 言語と言語名の記号論ほど,すぐれて社会言語学的な話題はない.

 ・ 平田 雅博 『英語の帝国 ―ある島国の言語の1500年史―』 講談社,2016年.

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2019-01-02 Wed

#3537. 17世紀のネガティヴ・ポライトネス化の社会語用論的背景 [address_term][politeness][t/v_distinction][emode][title][sociolinguistics][pragmatics][historical_pragmatics][personal_pronoun]

 「#3527. 呼称のポライトネスの通時変化,代名詞はネガティヴへ,名詞はポジティヴへ」 ([2018-12-23-1]) でみたように,近代英語の呼称を用いたポライトネス戦略は,なかなか複雑なものだったようだが,椎名 (66--67) は,呼称を通時的に調べてみると貧弱化や単純化の方向が確認されるという.その社会語用論的な背景についてコメントされている箇所があるので,引用しよう.

通時的に見ると,使用される語彙や意味の変化,修飾語 (modification) の減少による address terms の構造の単純化など,幾つかの変化が見られる.原因としては,識字率の向上・郵便制度の整備・プライバシーの尊重・社会的階層構造の流動化があげられている.簡単に言うと,幅広い階級において識字率が向上すると同時に,郵便制度が完備することにより,上流階級に限られていた手紙を書く習慣が庶民にも広がり,多くの人によって頻繁に書かれるようになったことである.もう片方には,人々の階級の流動性が高まり,人々の敬称が複雑化したことがあげられる.そうした社会的・文化的な諸事情により address terms が単純化していったのである.つまり,人々の階級の変動が多い時代には,礼を失することのない安全策として negative politeness の度合いの高い address terms を使うようになっていったということである.


 「安全策として」説は,2人称単数代名詞 thou/you の対立が,近代英語期にネガティヴ・ポライトネスを表わす後者の you の方向へ解消されたのがなぜかを説明するのにも,しばしば引き合いに出される (cf. 「#1336. なぜ thou ではなく you が一般化したか? (2)」 ([2012-12-23-1])).当時の社会背景を汲み取った上で再訪してみたい問題である.

  ・ 椎名 美智 「第3章 歴史語用論における文法化と語用化」『文法化 --- 新たな展開 ---』秋元 実治・保坂 道雄(編) 英潮社,2005年.59--74頁.

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2018-12-26 Wed

#3530. 言語変化は「社会的に望ましい」方向に進んでいるのか否か? [language_change][sociolinguistics]

 昨日の記事「#3529. 言語は進歩しているのか,堕落しているのか?」 ([2018-12-25-1]) に続いての話題.Aitchison は,「完璧な言語」が規定できない以上,言語が進歩しているのか堕落しているのかを判断することはできないと論じた.その議論の後,では,価値観を伴った「進歩」や「堕落」という用語は横に置いておき,言語が何かしら一定の方向へ変化し続けているという証拠はあるのだろうかと問題を設定し直した.しかし,特に一定方向に変化している証拠はないという結論に至る.ということは,言語変化については,「進歩」と「堕落」の対立はおろか,「良い」と「悪い」の対立もなければ,「上」と「下」も,「左」も「右」も何もないということになる.ただただ変化するのが言語である,と.
 ところが,議論の最後で Aitchison (246) は「いくつかの場合には,言語変化は社会的に望ましくないことがある」と述べている.

   Continual language change is natural and inevitable, and is due to a combination of psycholinguistic and sociolinguistic factors.
   Once we have stripped away religious and philosophical preconceptions, there is no evidence that language is either progressing or decaying. Disruption and therapy seem to balance one another in a perpetual stalemate. These two opposing pulls are an essential characteristic of language.
   Furthermore, there is no evidence that languages are moving in any particular direction from the point of view of language structure---several are moving in contrary directions.
   Language change is in no sense wrong, but it may, in certain circumstances, be socially undesirable. Minor variations in pronunciation from region to region are unimportant, but change which disrupts the mutual intelligibility of a community can be socially and politically inconvenient. If this happens, it may be useful to encourage standardization --- the adoption of a standard variety of one particular language which everybody will be able to use, alongside the existing regional dialects or languages. Such a situation must be brought about gradually, with tact and care, since a population will only adopt a language or dialect it wants to speak.

   
 Aitchison は,「完璧な言語」が規定できないために「進歩・堕落」という対立は無意味であると論じた.しかし,「社会的に望ましい・望ましくない」という対立はあり得ると認めているということは,「社会的に望ましい言語」が規定できていることになる.しかし,それを規定することは「完璧な言語」の規定と同じくらい難しいように思われるのだが,どうだろうか.
 時代や地域によって,また個々の言語共同体によって,「社会的に望ましい」言語の姿は異なるだろう.標題も,あくまで相対的な問題設定のように思われる.

 ・ Aitchison, Jean. Language Change: Progress or Decay. 4th ed. Cambridge: CUP, 2013.

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2018-11-25 Sun

#3499. "Standard English" と "General English" [standardisation][koine][sociolinguistics][terminology][writing][speech]

 昨日の記事「#3498. hybrid Englishes」 ([2018-11-24-1]) で触れたが,"Standard English" と "General English" という2つの用語を区別すると便利なケースがあるように思われる.両者は必ずしも明確に区別できるわけではないが,概念としては対立するものと理解しておきたい.Gramley (129) は,初期近代英語期のロンドンで展開した英語の標準化 (standardisation) や共通化 (koinéisation) の動きと関連して,この2つの用語に言及している.

Although the written standard differed from the spoken language of the capital, the two together provided two national models, a highly prescriptive one, Standard English (StE), for writing and a colloquial one, which may be called General English (GenE) (cf. Wells 1982: 2ff), which is considerably less rigid. The latter was not the overt, publicly recognized standard, but the covert norm of group solidarity. It was GenE which would evolve into a supra-regional, nationwide covert standard. Both it and StE would eventually also be valid for Scotland, then Ireland, and then the English-using world beyond the British Isles.


 両者の対比を整理すると以下のようになるだろうか.

 Standard EnglishGeneral English
Normsovertcovert
Mediawritingspeech
Prescriptionmore rigidless rigid
Fixing/focusingfixedfocused
Related processstandardisationkoinéisation


 標準化に関連する各種の用語については,「#3207. 標準英語と言語の標準化に関するいくつかの術語」 ([2018-02-06-1]) を参照.

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.
 ・ Wells, J. C. Accents of English. Vol. 1. An Introduction. Cambridge: CUP, 1982.

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2018-11-24 Sat

#3498. hybrid Englishes [world_englishes][new_englishes][variety][sociolinguistics][terminology]

 現在,世界中で現地化した○○英語が用いられており,これらは総称して "Englishes" と呼ばれている.Franglais, Singlish, Taglish などの名前で知られているものも多く,"nativized Englishes" あるいは "hybrid Englishes" とも言われる.しかし,"nativized Englishes" と "hybrid Englishes" という2つの呼称の間には,微妙なニュアンスの違いがある.Gramley (360) は "hybrid Englishes" について,次のように解説している.

Hybrid Englishes are forms of the language noticeably influenced by a non-English language. Examples include Franglais (French with English additions), Spanglish (ditto for Spanish), Singlish (Singapore English --- with substrate enrichment), TexMex (English with Spanish elements), Mix-Mix (Tagalog/Pilipino English), which may be more English (Engalog) or more Tagalog (Taglish). Such Englishes do not have the extreme structural change typical of pidgins and creoles. Rather, the non-English aspect of these hybrids depends on local systems of pronunciation and vocabulary. Marginally, they will also include structural change. The are likely, in any case, to be difficult for people to understand who are unfamiliar with both languages. In essence hybrid forms are not really different from the nativized Englishes . . .; the justification for a separate term may best be seen in the fact that hybrids are the result of covert norms while nativized Englishes are potentially to be seen on a par with StE.


 "nativized Englishes" と "hybrid Englishes" は本質的には同じものを指すと考えてよいが,前者は当該社会において標準英語と同じ,あるいはそれに準ずる価値をもつとみなされている変種を含意するのに対して,後者はそのような価値をもたない変種を含意する.「#1255. "New Englishes" のライフサイクル」 ([2012-10-03-1]) や「#2472. アフリカの英語圏」 ([2016-02-02-1]) で使った用語でいえば,前者は endonormative な変種を,後者は exonormative な変種を指すといってよい.あるいは,前者は威信と結びつけられる overt norms の結果であり,後者は団結と結びつけられる covert norms の結果であるともいえる.また,この差異は,書き言葉標準英語(いわゆる Standard English) と話し言葉標準英語(いわゆる General English) の違いとも平行的であるように思われる.

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.

Referrer (Inside): [2018-11-25-1]

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2018-11-09 Fri

#3483. アクセントによって方言差をつける日本語とつけない英語 [stress][prosody][japanese][sociolinguistics]

 服部 (67) は,英語と日本語における音声上の重要な相違点として,アクセント体系の利用の仕方を挙げている.

一般に,英語は強さ(強勢)アクセントの言語,日本語は高さ(ピッチ)アクセントの言語といわれる.英語をはじめとする強勢アクセントの言語では,強勢体系は英語の各種変種・方言間でほとんど変わらない.つまり,ある語の強勢位置が方言によって異なるということは,少数の例外を除けば,ほとんどない.一方,日本語のような高さアクセントの言語では,各語のアクセント型は方言によって著しく異なるというのが実態である.この差がいかなる原因で生じるのかは判然としない.今後の研究が俟たれるところである.


 なるほど地域方言をはじめとする諸変種の区別化にアクセントが利用される度合いは,確かに日本語では高く,英語では低いと思われる.変種の「訛り」は典型的に発音に現われるものと思われるが,発音といってもそこには分節音の目録,異音の種類,イントネーション,アクセントなど様々なものが含まれ,区別化のために何をどの程度利用するかは,言語ごとに異なるだろう.しかし,引用した文章によれば,アクセントの種類と変種区別のためのアクセント利用度の間には相関関係があるということらしい.
 強勢には様々な機能がある.「#926. 強勢の本来的機能」 ([2011-11-09-1]) でみたように対比による語の同定という機能が中心的であるという構造主義的な立場もあるが,実際には「#1647. 言語における韻律的特徴の種類と機能」 ([2013-10-30-1]) の記事でみた多種多様な役割があるだろう.そのなかでも「変種の区別化」は,後者の記事の (viii) で挙げられている機能の一部だろう.つまり,「個人を同定する.韻律は,話者の社会言語学的な所属や話者の用いる使用域 (register) を指示する (indexical) 機能をもつ」ということだ.では,なぜ(高さアクセントを用いる)日本語は,とりわけこの役割を強勢に担わせているのだろうか.確かによく分からない.アクセントがいかなる社会言語学的役割を担うかについての広い類型論的調査が必要だろう.
 関連して「#1503. 統語,語彙,発音の社会言語学的役割」 ([2013-06-08-1]),「#2672. イギリス英語は発音に,アメリカ英語は文法に社会言語学的な価値を置く?」 ([2016-08-20-1]) を参照.また,言語におけるアクセントのタイプの違いについては「#2627. アクセントの分類」 ([2016-07-06-1]) を参照.

 ・ 服部 義弘 「第3章 音変化」 服部 義弘・児馬 修(編)『歴史言語学』朝倉日英対照言語学シリーズ[発展編]3 朝倉書店,2018年.47--70頁.

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2018-11-07 Wed

#3481. 日本語のガ行鼻濁音の奥深さ? [phonology][phoneme][phonaesthesia][language_myth][sociolinguistics][phonetics][consonant][nasal]

 11月2日の読売新聞朝刊に「鼻濁音 大人の奥深さ醸し出す」と題する記事が掲載されていた.ボサ・ノヴァ・アーティストの中村善郎氏による「もったいない語辞典」の記事である.

 〽夕焼け空がマッカッカ とんびがくるりと輪を描いた――.三橋美智也の「夕焼けとんび」で,子供の頃心に残った一節.「とんびが」の「が」が「ンガ」という感じに近く,見事な鼻濁音.その頃知識はなかったけれど,話し言葉と違い,歌の中では甘く丸く響く.それが綺麗だな,と思っていた.
 鼻濁音は鼻に抜くと云うか,僕の印象では鼻の奥を後ろに広げて響かせる.普通に発音すると浅くがさつで耳障りな濁音を,柔らかく奥行きのある音に.邦楽や昭和の歌謡曲などでは必須の鼻濁音だが,ほぼ姿を消した.鼻濁音が醸し出すのは一定の距離感を崩さない大人の佇まいと奥深さ.濁音は押し付けがましく幼い自己主張.時にはそれが可愛さにも繋がるが.普段着のままの濁音,居住まいを正す鼻濁音,そんな面もある気がする.
 ポルトガル語で歌うボサ・ノヴァは鼻音系を駆使する.ポル語自体の特徴であるがそれ以上に,生の感情を投げつけるような無粋さとは対極のあり方が,より美しい発音を求める…….ジョアン・ジルベルトを聴くとそんな風に思う.
 鼻音を駆使する事は身体の後ろにも声を広げ,身体全体を響かせる事を可能に.その場を埋め尽くす声.発信すると云うよりは場の空気を変える.そう云ったかつての表現にも学ぶことは多いと思う.


 距離を置く大人の /ŋ/ と押しつけがましい子供っぽい /g/ という対比がおもしろい.ガ行鼻濁音鼻濁音が「甘く丸く響く」というのも,不思議と共感できる.ガ行鼻濁音が喚起するポジティヴなイメージは,広く共有されるものかもしれない.
 音声学や音韻論の立場からいえば,もちろんガ行鼻濁音も1子音にすぎない.日本語(共通語)では /g/ の異音,英語では独立した音素という違いはあるが,各言語を構成する1音にすぎず,機能的には他の異音や音素と変わるところがない.そこに何らかのイメージが付随しているとすれば,上記のような聴覚心理的な音感覚性 (phonaesthesia) の問題か,あるいは社会音声学的な問題だろう.
 英語の /ŋ/ を社会音声学的な観点から扱った話題としては,-ing 語尾に関するものが知られている(「#1363. なぜ言語には男女差があるのか --- 女性=保守主義説」 ([2013-01-19-1]),「#1370. Norwich における -in(g) の文体的変異の調査」 ([2013-01-26-1]),「#1508. 英語における軟口蓋鼻音の音素化」 ([2013-06-13-1]),「#1764. -ing と -in' の社会的価値の逆転」 ([2014-02-24-1]) を参照).厳密には /ŋ/ 音そのものの問題というよりも,/ŋ/ 音を含む形態素の異形態の問題というべきだが,これらの記事を読んでもらえば分かるように,音に付随するイメージは,普遍的なものというよりも,多分に言語共同体に依存する社会的なものかもしれない.標題の「日本語のガ行鼻濁音の奥深さ」も,自然なものというよりも,社会的なものなのかもしれない.

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2018-10-27 Sat

#3470. 言語戦争の勝敗は何にかかっているか? [japanese][world_languages][lingua_franca][elf][demography][sociolinguistics]

 徳川 (245--46) は,日本語史における東西方言(江戸方言と上方方言)の優位をめぐる争いを「言語戦争」の例としながら,一般に言語戦争の勝敗が何によって左右されるのか,されないのかについて論じている.

 まず第一に,言語戦争の勝敗は,単純な言語の使用人口などによってきまるものではない,ということである.ひとにぎりの権力者の言語が,多数の庶民の上に君臨するといった場合がある.
 また,言語戦争の帰趨は,一般的に,なにも言語それ自体の構造によってきまるものでもない.
 たとえば,母音の数が多いから戦に負けるとか,名詞に性と数の別があるから勝つ,といったものではない.ただし,その言語が,言語機能に関して,新しい社会に適応できる性質を具備しているかどうか,といった問題はある.現代にひきつけていえば,複雑な社会機構に対応できるかといった,たとえば表現文体の種類の問題や,原子物理学がその言語で処理できるか,といった内容の問題などがある.さらに,言語コミュニケーションが,他のコミュニケーションチャンネルと,どれほど切り離されているか,といった問題などもあるかもしれない.このことは,おそらく,書きことばの文体の確立と,不離の関係にある.
 さきに単なる使用人口の差は言語戦争の勝敗の鍵にならないとしたが,もし多数者の使用言語が,その社会の複雑さと対応して,すでに述べた言語機能を高め,今後さらに多くの人びとをのみ込んでいく包容力といったものを備えているということと結びつくようになれば,それは,ある程度利いてくる条件と言えるであろう.これに対して,土俗的な小言語は,こうした言語機能の面で,将来性について劣る場合が多そうに思われる.また,言語の使用人口の多さが,その言語社会の経済的・政治的・文化的な優位に結びついて,言語の威信といったものの背景になることはありうる.“東西のことば争い”の歴史を考えるにあたっても,こうしたことへの配慮が必要となってくる.


 ここで徳川は慎重な議論を展開している.話者人口や言語構造そのものが直接に言語戦争の勝利に貢献するということはないが,それらが当該言語の社会的な機能を高める方向に作用したり,利用されたりすれば,その限りにおいて間接的に貢献することはありうるという見方である.結局のところ,社会的な要素が介在して初めて勝敗への貢献について論じられるということなので,話者人口や言語構造の「直接的な」貢献度はほぼゼロと考えてよいのだろう.英語の世界的拡大や「世界語化」を考える上で,とても重要な論点である.
 英語の世界語化の原因を巡っては,関連する話題として「#1072. 英語は言語として特にすぐれているわけではない」 ([2012-04-03-1]),「#1082. なぜ英語は世界語となったか (1)」 ([2012-04-13-1]),「#1083. なぜ英語は世界語となったか (2)」 ([2012-04-14-1]),「#1607. 英語教育の政治的側面」 ([2013-09-20-1]),「#1788. 超民族語の出現と拡大に関与する状況と要因」 ([2014-03-20-1]),「#2487. ある言語の重要性とは,その社会的な力のことである」 ([2016-02-17-1]),「#2673. 「現代世界における英語の重要性は世界中の人々にとっての有用性にこそある」」 ([2016-08-21-1]),「#2935. 「軍事・経済・宗教―――言語が普及する三つの要素」」 ([2017-05-10-1]) を参照.

 ・ 徳川 宗賢 「東西のことば争い」 阪倉 篤義(編)『日本語の歴史』 大修館書店,1977年.243--86頁.

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2018-10-15 Mon

#3458. 標準口語英語の確立 [speech][standardisation][variety][sociolinguistics][cockney][shakespeare][bible][emode]

 英語史における標準化 (standardisation) の話題といえば,第1義的に書き言葉の標準化が念頭に置かれているように思われる.本ブログでも,書き言葉の標準化については様々に紹介してきたが,話し言葉の標準化については扱いが薄かった.「#3356. 標準発音の整備は18世紀後半から」 ([2018-07-05-1]) では発音の標準化を取り上げており,これは話し言葉の標準化の話題の一部を成しはするものの,「話し言葉」と「発音」とは同一ではない.話し言葉には,発音以外に文法や語彙などその他の側面もある.
 話し言葉の標準化について,松浪ほかの「標準口語英語の確立」 (93) に記されている概要を引用する.

書き言葉の標準英語は既に15世紀前半頃までに,ロンドンを中心に形成され,その後教育の普及にともなって急速に広まったと考えられているが,話し言葉の標準語はまだその頃にはなく,EModE 期になって確立した.16世紀になって宮廷を中心に上流階級,文人,大学等で使われた話し言葉が標準語として確立した.これはロンドンで活躍した支配階級の言葉であるから階級方言であって,同じロンドンでも,下層階級の言葉は標準語とは別物で,後にコックニー (Cockney) として発達した.まだ,文法も辞書もない時代のことで,この標準語は,現代語からみれば発音・文法両面で統一性に欠けた,ある意味で自由奔放な英語でもあった.このような英語の状況を背景に登場し,活躍したのが,いうまでもなく英文学史上最大の作家シェイクスピア (William Shakespeare, 1564--1616) である.この大詩人の英語は〔中略〕欽定訳聖書と並んで,近代英語の2つの源泉と呼ばれている.


 ポイントは,話し言葉の標準化が,書き言葉の標準化よりも1世紀ほど遅れて始まったことである.また,その基盤となった変種がロンドンの支配階級の口語だったことも重要である.標準化の最初期には,その変種とて一様ではなく,相当程度の変異を許容する「緩い」ものだったといってよいが,少なくとも現代の標準口語英語の源泉をそこに見出すことができる.私たちの学んでいる「英会話」は,500年前のロンドンの上流サークルのおしゃべりに起源をもつということである.

 ・ 松浪 有 編,小川 浩,小倉 美知子,児馬 修,浦田 和幸,本名 信行 『英語の歴史』 大修館書店,1995年.

Referrer (Inside): [2018-11-20-1]

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2018-10-13 Sat

#3456. Wardhaugh 曰く「性による言語変異は,その他の社会的なカテゴリーによる言語変異と変わるところがない」 [gender][gender_difference][sociolinguistics][sapir-whorf_hypothesis][variation]

 昨日の記事「#3455. なぜ言語には男女差があるのか --- 3つの立場」 ([2018-10-12-1]) で依拠した Wardhaugh は,言語による性差は,社会や個人の認識というレベルでの性差に由来するのだろうと考えている.つまり「社会・文化・認識→言語」の因果関係こそが作用しているのであり,その逆ではないという立場だ.そして,そのような差異は,性に限らず教育水準や社会階級や出身地域などに基づく他の社会的パラメータにもみられるものであり,性だけを取り上げて,それを特に重視することができるのかと疑問を呈している.次の議論を聞いてみよう.

[W]e must be prepared to acknowledge the limits of proposals that seek to eliminate 'sexist' language without first changing the underlying relationship between men and women. Many of the suggestions for avoiding sexist language are admirable, but some, as Lakoff points out with regard to changing history to herstory, are absurd. Many changes can be made quite easily; early humans (from early man); salesperson (from salesman); ordinary people (from the common man); and women (from the fair sex). However, other aspects of language may be more resistant to change, e.g., the he-she distinction. Languages themselves may not be sexist. Men and women use language to achieve certain purposes, and so long as differences in gender are equated with differences in access to power and influence in society, we may expect linguistic differences too. For both men and women, power and influence are also associated with education, social class, regional origin, and so on, and there is no question in these cases that there are related linguistic differences. Gender is still another fact that relates to the variation that is apparently inherent in language. While we may deplore that this is so, variation itself may be inevitable. Moreover, we may not be able to pick and choose which aspects of variation we can eliminate and which we can encourage, much as we might like to do so. (350)


 社会的な男女差というものは,たやすく水平化できない根強い区別であり,それが言語上にも反映しているととらえるのが妥当だと,Wardhaugh は考えている.さらに,私見として次のように述べながら性差に関する章を閉じている.

My own view is that men's and women's speech differ because boys and girls are brought up differently and men and women often fill different roles in society. Moreover, most men and women know this and behave accordingly. If such is the case, we might expect changes that make a language less sexist to result from child-rearing practices and role differentiations which are less sexist. Men and women alike would benefit from the greater freedom of choice that would result. However, it may be utopian to believe that language use will ever become 'neutral'. Humans use everything around them --- and language is just a thing in that sense --- to create differences among themselves. (354)


 ・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.

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