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reestablishment_of_english - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2020-03-27 07:04

2020-03-16 Mon

#3976. 英語史における黒死病の意義 [black_death][link][reestablishment_of_english]

 新型コロナウィルス (COVID-19) が世界中で大流行しています.一刻も早く事態が終息することを願っています.英語史ブログ運営者としては,この時節に及んで中世ヨーロッパにもたらされた災禍である黒死病 (black_death) に触れないわけにはいきません.あえてこの話題を取り上げる次第です.
 とはいえ,新しいことは何もありません.本ブログでは,英語史における黒死病の意義についてすでに多くの記事で検討してきました.以下にリンクを張りましたので,ぜひ関連する記事をご一読ください.とりわけお薦めは「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]) です.これは,2017年9月2日に朝日カルチャーセンター新宿教室で開いた「講座 歴史の動きと英語の変化」の第3回として「黒死病と英語」の題目の下で話した内容にもとづいています.エッセンスのみを記載していますが,ポイントは押さえているはずです.

 ・ 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1])
 ・ 「#139. 黒死病と英語復権の関係について再々考」 ([2009-09-13-1])
 ・ 「#144. 隔離は40日」 ([2009-09-18-1])
 ・ 「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1])
 ・ 「#2990. Black Death」 ([2017-07-04-1])
 ・ 「#3053. 黒死病により農奴制から自由農民制へ」 ([2017-09-05-1])
 ・ 「#3054. 黒死病による社会の流動化と諸方言の水平化」 ([2017-09-06-1])
 ・ 「#3055. 黒死病による聖職者の大量死」 ([2017-09-07-1])
 ・ 「#3056. 黒死病による人口減少と技術革新」 ([2017-09-08-1])
 ・ 「#3057. "The Pardoner's Tale" にみる黒死病」 ([2017-09-09-1])
 ・ 「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1])
 ・ 「#3061. 誤用と正用という観念の発現について」 ([2017-09-13-1])
 ・ 「#3062. 1665年のペストに関する Samuel Pepys の記録」 ([2017-09-14-1])
 ・ 「#3065. 都市化,疫病,言語交替」 ([2017-09-17-1])
 ・ 「#3196. 中英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-26-1])
 ・ 「#3212. 黒死病,死の舞踏,memento mori」 ([2018-02-11-1])
 ・ 「#3780. Foley による「標準英語の発展」の記述」 ([2019-09-02-1])

 1348年に初めてイギリスに飛び火した黒死病は,1066年のノルマン征服により下落していた英語の地位を回復するのにあずかって大きかったとするのが英語史の通説です.逆にいえば,もし黒死病が起こらなかったらば,英語は近代の入り口までにイングランドの国語としての地位を回復できなかった,あるいは回復したとしてももっと遅かっただろうという結論になります.さらに想像力をたくましくすれば,後の英語の世界的展開もなかった,あるいは遅れた,あるいは異なる形をとっていた,ということにもなり得ます.そうであれば,読者の皆さんも英語など学んでいなかったかもしれませんし,この英語史ブログも存在しなかったかもしれません.
 上記の通説は英語史の一面を正しくとらえた説であると私も考えています.一方で黒死病の流行は世界史上著名な事件としてあまりによく知られているだけに,その効果や意義が過大評価されやすいという側面もあるのではないかと(自戒を込めて)考えています.英語復権 (reestablishment_of_english) の歩みは,ノルマン征服直後より始まっており,その後ゆっくりとではあるものの着実に進んでいたというのが歴史的事実です.黒死病はそのような従来の緩慢な傾向に,14世紀半ばというタイミングで拍車をかけたということでしょう.黒死病は英語の復権に一役買ったとはいえ,あくまで多数の要因の1つだったという解釈が妥当でしょう.
 では,その他の多数の要因とは何でしょうか.これについては,英語の復権に関する reestablishment_of_english の記事群を読んでいただければと思います.そのなかでとりわけ重要な記事にのみ,以下にリンクを張っておきます.

 ・ 「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1])
 ・ 「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1])
 ・ 「#139. 黒死病と英語復権の関係について再々考」 ([2009-09-13-1])
 ・ 「#706. 14世紀,英語の復権は徐ろに」 ([2011-04-03-1])
 ・ 「#1207. 英語の書き言葉の復権」 ([2012-08-16-1])
 ・ 「#1821. フランス語の復権と英語の復権」 ([2014-04-22-1])
 ・ 「#2334. 英語の復権と議会の発展」 ([2015-09-17-1])
 ・ 「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1])
 ・ 「#3894. 「英語復権にプラス・マイナスに貢献した要因」の議論がおもしろかった」 ([2019-12-25-1])

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2019-12-25 Wed

#3894. 「英語復権にプラス・マイナスに貢献した要因」の議論がおもしろかった [reestablishment_of_english][history][hel_education]

 今学期の英語学演習の授業では,英語史の古典的名著の1つ Baugh and Cable を読みつつ,グループでの議論を繰り広げてきた.とりわけ議論として盛り上がって楽しかったのは,ノルマン征服によって地下に潜った英語が13世紀以降徐々に復権していく過程にあって,英語の復権に最も貢献したのは具体的にどの事件・出来事・潮流だったと考えるかというディスカッションである.
 Baugh and Cable の6章 "The Reestablishment of English, 1200--1500" を読んでいたところで,以下の節のタイトルを「英語復権にプラス・マイナスに貢献した要因」として掲げ,みなで各要因の効き具合を議論した上で,最強の要因を決定するという趣旨だった.様々な意見が出て,なかなかおもしろかった.

 94. The Loss of Normandy
 95. Separation of the French and English Nobility
 96. French Reinforcements
 97. The Reaction against Foreigners and the Growth of National Feeling
 98. French Cultural Ascendancy in Europe
 100. Attempts to Arrest the Decline of French
 101. Provincial Character of French in England
 102. The Hundred Years' War
 103. The Rise of the Middle Class

 英語の復権にプラスに作用した要因としては 94, 95, 97, 101, 102, 103 が挙げられ,議論の対象となった.一方,英語の復権にマイナスに働いた要因(あるいは相対的にフランス語の威信の高揚に作用した要因)としては 96, 98, 100 が指摘された.「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1]) でも取り上げたようにこの評価はもっともなのだが,そこに様々な意見が飛び交うのがおもしろい.
 たとえば,「96. French Reinforcements」では,Henry III がフランス人とフランス語を重用し,相対的に英語を軽視したという記述がみられるが,「#2567. 13世紀のイングランド人と英語の結びつき」 ([2016-05-07-1]) でも述べたように,むしろその後の反動「98. French Cultural Ascendancy in Europe」を考えれば,英語復権のための呼び水になったともいえ,間接的には英語復権にとってプラスに作用したと穿った解釈をすることもできる.
 また,2歩進んで1歩下がるかのような数世紀にわたる緩慢な英語復権の歩みに関して,一連の要因の皮切りである「94. The Loss of Normandy」が起こらなかったあら,そもそも英語の復権が緒に就くことはなかったという点で,これこそが最重要という見方も出る一方で,むしろ一連の要因の締めくくりである「102. The Hundred Years' War」が最重要という意見も飛び出した.さらに,地味ではあるが「103. The Rise of the Middle Class」が決定的ではないかという見解も出た.参加者それぞれが一家言もっているようで,実に楽しい議論となった.
 各要因の効き具合を検討するということは,その要因がなかったら英語の復権はならなかった(あるいは遅れた)のではないかという可能性を考察するということであり,すなわち「歴史の if」のシミュレーションでもある.しばしば妄想が入り込むにせよ,英語史においても「歴史の if」の思考実験は必要であると実感した.
 「歴史の if」については「#3097. ヤツメウナギがいなかったら英語の復権は遅くなっていたか,早くなっていたか」 ([2017-10-19-1]),「#3108. ノルマン征服がなかったら,英語は・・・?」 ([2017-10-30-1]) の記事も参照.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

Referrer (Inside): [2020-03-16-1] [2019-12-26-1]

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2018-10-28 Sun

#3471. 百年戦争による英語の復権 [hundred_years_war][reestablishment_of_english][monitoring]

 指 (30) は,百年戦争による英語の復権の過程と関連して,イングランド軍隊でフランス語使用が禁止されていた点に触れている.

この戦争によってもたらされた注目すべき変化に、英語の「復権」がある.ノルマン系の王族や貴族たちは,フランス語を常用語とし,宮廷内や公の文書にもフランス語が用いられていた.大陸領土を失っても,フランス語使用の習慣は続いていたが,百年戦争に際し,英語使用への積極的な転換がみられた.敵国の言葉を使うことによる士気の低下を恐れ,エドワード三世は軍隊でのフランス語使用を禁止したのである.これを契機に英語が公の言葉として復活することになったが,二世紀もの間,表舞台から駆逐されていた英語は,その間「書き言葉」としては使用されなかったため,以前の古英語とはかなり異なったものになっていた.


 なるほど,エドワード3世や彼に仕える取り巻きたちは,実のところフランス語シンパだったのだろうが,前線で戦う兵士の大半は英語しか知らないイングランド人である.イングランド軍隊の内部で敵兵の言語であるフランス語が飛び交っていたら,兵士たちの士気は上がらないだろう.王とて,兵卒の一人ひとりに協力してもらわなければ首尾よく戦いを進められない.そこで,自軍の兵卒とその母語たる英語に対して「妥協」する必要が生じる.このような論理で,百年戦争は英語の復権に着実な貢献をなしたのだろう.
 また,指は,古英語から中英語への言語的な大変化の原因について「『書き言葉』としては使用されなかったため」としている.言語学的には屈折の衰退や語順の確立などを含め,ほかに言うべきこともあるが,社会言語学的な立場からは,この見解は確かに正しい.英語が地位の低い言語に下落したために,公式な書き言葉の世界から排除され,結果として話し言葉の世界に閉じ込められることになった.しかし,それは英語が書き言葉に特有の規制や monitoring の圧力から解放されたことを意味し,そのような圧力の存在しない話し言葉の世界において,英語が融通無碍に変異し,変化し得る条件が整えられたことを意味するのだ.
 百年戦争と英語の復権の関係については,「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1]),「#706. 14世紀,英語の復権は徐ろに」 ([2011-04-03-1]),「#2334. 英語の復権と議会の発展」 ([2015-09-17-1]),「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1]) を参照.

 ・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.

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2018-09-21 Fri

#3434. 近代英語期までもつれこんだ英語の公用語化 [reestablishment_of_english][me][french][latin][law_french][norman_conquest]

 ノルマン征服により,イングランドの公用語はフランス語およびラテン語となった.英語は非公式の言語として地下に潜ったわけだが,その後の数世紀をかけてゆっくりと,しかし着実に復権を遂げていった.この経緯については,reestablishment_of_english の数々の記事で取り上げてきたが,とりわけ以下の記事を挙げておこう.

 ・ 「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1])
 ・ 「#324. 議会と法廷で英語使用が公認された年」 ([2010-03-17-1])
 ・ 「#336. Law French」 ([2010-03-29-1])
 ・ 「#1207. 英語の書き言葉の復権」 ([2012-08-16-1])
 ・ 「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1])
 ・ 「#3265. 中世から初期近代まで行政の書き言葉標準はずっとラテン語だった」 ([2018-04-05-1])

 君塚 (134--35) は,公用語としての英語の復権を13世紀以降の流れのなかで描いているが,その終点はといえば,近代に入った1649年である.

 なお,「ノルマン征服」以後,イングランド貴族の日常言語はフランス語であり,公式の文書などにはラテン語が用いられてきた.これがジョンによる「ノルマン喪失」以降,貴族間でも英語が日常的に使われ,エドワード3世治世下の一三六三年からは議会での日常語は正式に英語と定められた.庶民院にはフランス語ができない層が数多くいたこととも関わっていた.
 議会の公式文書のほうは,一五世紀前半まではラテン語とともにフランス語が使われていたが,一四八九年からは法令の草稿も英語となった(議会制定法自体はラテン語のまま).最終的に法として認められる「国王による裁可」(ロイヤル・アセント)も,一七世紀前半まではフランス語が使われていたが,共和制の到来(一六四九年)とともに英語に直され,以後今日まで続いている.


 だが,さらに後の話題もある.法律を含めた公文書が英語で書かれなければならなくなる,いわゆる「ラテン語の全廃」は,ハノーヴァー朝の1713年のことである.イングランドは,ノルマン征服以降,英語を公的な場に完全に取り戻すのに,ざっと650年を要したことになる.

 ・ 君塚 直隆 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』 中央公論新社〈中公新書〉,2015年.

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2018-04-05 Thu

#3265. 中世から初期近代まで行政の書き言葉標準はずっとラテン語だった [latin][french][standardisation][chancery_standard][reestablishment_of_english][statute_of_pleading]

 15世紀前半に Chancery Standard という書き言葉英語の変種が芽生えたことについて,「#3214. 1410年代から30年代にかけての Chancery English の萌芽」 ([2018-02-13-1]) をはじめとする chancery_standard の記事で述べてきた.これは行政上の文書を記すために用いられた英語変種を指すが,行政の書き言葉標準ということでいえば,イングランド(及びその後の英国)におけるそれは18世紀前半に至るまでラテン語であり続けたという事実は押さえておく必要がある.つまり,真の "Chancery Standard" とは,英語の1変種のことなどではなく,ラテン語のことなのである.Schaefer (214) が次のように書いている.

English was not the language of the administration, but rather the minor partner of French and Latin. As Benskin (2004: 38) unmistakably states: "Chancery Standard was Latin, and save for nine years during the Commonwealth, it remained so until 1731, when for official purposes it was abolished altogether by Act of Parliament.


 英語の書き言葉標準の元祖といわれる Chancery Standard は,"Standard" と呼ばれこそすれ,実際にはより威信の高いラテン語やフランス語の書き言葉に比べれば,マイナーな位置づけにすぎなかったという指摘がおもしろい.
 このように中世から初期近代にかけてのイングランドの公的な書き言葉を巡る状況を俯瞰的に眺めると,しばしば英語の復権 (reestablishment_of_english) を象徴するとみなされている1362年の "Statute of Pleading" (裁判所における訴訟手続の英語化を定めた法律)も,所詮はラテン語とフランス語の盤石な権威に対する小さな抵抗にすぎないとも見えてくる(cf. 「#324. 議会と法廷で英語使用が公認された年」 ([2010-03-17-1])).Schaefer (217) より,関連する言及を引く.

The so-called "Statute of Pleading" of 1362 --- which is so often judged as having considerably raised the status of English --- indeed mandates that English be the (spoken) language of pleading at court. Yet it does so in French --- and in the complicated left-branching syntax of "courtly style" --- because, at the time, French was the language in which royal statutes where (sic) published; and it also regulates that the pleas be "entered and enrolled" in Latin, because this was the language of permanent record.


 ・ Schaefer, Ursula. "Standardization." Chapter 11 of The History of English. Vol. 3. Ed. Laurel J. Brinton and Alexander Bergs. Berlin/Boston: De Gruyter, 2017. 205--23.
 ・ Benskin, Michael. "Chancery Standard." New Perspectives on English Historical Linguistics. Selected Papers from 12 ICEHL, Glasgow, 21--26 August 2002. Vol. 2. Lexis and Transmission. Ed. Christian Kay, Carole Hough, and Irené Wotherspoon. Amsterdam/Philadelphia: John Benjamins, 2004. 1--40.

Referrer (Inside): [2018-09-21-1]

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2018-03-12 Mon

#3241. 1422年,ロンドン醸造組合の英語化 [chancery_standard][reestablishment_of_english][language_shift][monarch][standardisation][politics][lancastrian]

 「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1]),「#2562. Mugglestone (編)の英語史年表」 ([2016-05-02-1]),「#3214. 1410年代から30年代にかけての Chancery English の萌芽」 ([2018-02-13-1]) で触れた通り,1422年にロンドン醸造組合 (Brewers' Guild of London) が,議事録と経理文書における言語をラテン語から英語へと切り替えた.この決定自体はラテン語で記録されているが,趣旨は以下のようなものだった.Fisher (22--23) からの孫引きだが,Chambers and Daunt の英訳を引用する.

Whereas our mother-tongue, to wit the English tongue, hath in modern days begun to be honorably enlarged and adorned, for that our most excellent lord, King Henry V, hath in his letters missive and divers affairs touching his own person, more willingly chosen to declare the secrets of his will, for the better understanding of his people, hath with a diligent mind procured the common idiom (setting aside others) to be commended by the exercise of writing; and there are many of our craft of Brewers who have the knowledge of writing and reading in the said english idiom, but in others, to wit, the Latin and French, before these times used, they do not in any wise understand. For which causes with many others, it being considered how that the greater part of the Lords and trusty Commons have begun to make their matters to be noted down in our mother tongue, so we also in our craft, following in some manner their steps, have decreed to commit to memory the needful things which concern us [in English]. (Chambers and Daunt 139)


 Henry V に言及していることからも推測される通り,この頃すでに,トップダウンで書き言葉の英語化路線がスタートしていたらしい.折しも国王のお膝元の Chancery において,後に "Chancery Standard" と名付けられることになる標準英語の書き言葉の萌芽のようなものも出現していたと思われる.書き言葉の英語化を巡って,王権による政治と庶民の生活とがどのような関係にあったのかは興味深い問題だが,いずれにせよ1422年は,15世紀前半の英語史上の転換期において象徴的な意味をもつ年といえるだろう.関連して,「#3225. ランカスター朝の英語国語化のもくろみと Chancery Standard」 ([2018-02-24-1]) も参照.

 ・ Fisher, John H. "A Language Policy for Lancastrian England." Chapter 2 of The Emergence of Standard English. John H. Fisher. Lexington: UP of Kentucky, 1996. 16--35.
 ・ Chambers, R. W. and Marjorie Daunt, eds. A Book of London English. Oxford: Clarendon-Oxford UP, 1931.

Referrer (Inside): [2018-03-13-1]

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2018-02-17 Sat

#3218. 講座「スペリングでたどる英語の歴史」の第3回「515通りの through --- 中英語のスペリング」 [slide][spelling][spelling_pronunciation_gap][norman_conquest][chaucer][manuscript][reestablishment_of_english][timeline][me_dialect][minim][orthography][standardisation][digraph][hel_education][link][asacul]

 朝日カルチャーセンター新宿教室で開講している講座「スペリングでたどる英語の歴史」も,全5回中の3回を終えました.2月10日(土)に開かれた第3回「515通りの through --- 中英語のスペリング」で用いたスライド資料を,こちらにアップしておきました.
 今回は,中英語の乱立する方言スペリングの話題を中心に据え,なぜそのような乱立状態が生じ,どのようにそれが後の時代にかけて解消されていくことになったかを議論しました.ポイントとして以下の3点を指摘しました.

 ・ ノルマン征服による標準綴字の崩壊 → 方言スペリングの繁栄
 ・ 主として実用性に基づくスペリングの様々な改変
 ・ 中英語後期,スペリング再標準化の兆しが

 全体として,標準的スペリングや正書法という発想が,きわめて近現代的なものであることが確認できるのではないかと思います.以下,スライドのページごとにリンクを張っておきました.その先からのジャンプも含めて,リンク集としてどうぞ.

   1. 講座『スペリングでたどる英語の歴史』第3回 515通りの through--- 中英語のスペリング
   2. 要点
   3. (1) ノルマン征服と方言スペリング
   4. ノルマン征服から英語の復権までの略史
   5. 515通りの through (#53, #54), 134通りの such
   6. 6単語でみる中英語の方言スペリング
   7. busy, bury, merry
   8. Chaucer, The Canterbury Tales の冒頭より
   9. 第7行目の写本間比較 (#2788)
   10. (2) スペリングの様々な改変
   11. (3) スペリングの再標準化の兆し
   12. まとめ
   13. 参考文献

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2018-02-13 Tue

#3214. 1410年代から30年代にかけての Chancery English の萌芽 [standardisation][chancery_standard][reestablishment_of_english][monarch][hundred_years_war][spelling][koine]

 1410年代から30年代にかけて,標準英語に直接つながっていくとされる Chancery English の萌芽が見出される.標準英語の形成を考える上で,無視することのできない重要な時期である.
 英語の完全な復権と新しい標準変種の形成の潮流は,1413年に Henry IV がイングランド君主として初めて英語で遺書を残したことから始まる.1417年には玉璽局 (Signet Office) が Henry V の手紙を英語で発行し始めた.一方,1422年に,巷ではロンドンの醸造組合が会計上の言語として英語を採用するようになった.国会の議事録が英語で書かれるようになるのも,ほぼ同時期の1423年である.そして,1430年に,大法官庁が玉璽局の英語変種の流れを汲んで,East Midland 方言に基盤をもつコイネー (koine) を公的な書き言葉に採用したのである(Lancaster 朝の君主の英語使用については,「#1207. 英語の書き言葉の復権」 ([2012-08-16-1]) も参照).
 この時代の潮流において,後に Chancery Standard と呼ばれることになる変種(の卵)を採用したのが,社会的影響力をもつ君主自身やその周辺であった点が大きい.Nevalainen and Tieken-Boon van Ostade (274) も次のように述べている.

Chancery English has a precursor in the form of English used by Henry V's Signet Office, the king's private secretariat which travelled with him on his foreign campaigns. It is significant that the selection of the variety which was to develop into what is generally referred to as the Chancery Standard originated with the king and his secretariat: the implementation of a standard variety can only be successful when it has institutional support.


 もう1つ,Henry V が積極的に英語を使用した背景に,政治的な目論見があったのではないかという見解に注目すべきである (Nevalainen and Tieken-Boon van Ostade 274) .

. . . the case of Henry V possibly reflects not so much a decision made by an enlightened monarch and his council as political and practical motives: by writing in English, Henry first and foremost identified himself as an Englishman at war with France, while at the same time seeking to curry favour with the the English-speaking merchants, who might be prevailed upon to finance his campaigns.


 1410年代から1430年代にかけての英語の公用化,さらには標準英語形成の背景には,社会的な力を巡る動きがおそらく関与していたと思われる.後の時代に標準的なものとして採用されていくことになる多くの綴字や形態が,上記のような政治性に彩られていた可能性があるということは知っておく必要があるだろう.
 綴字からの例を挙げれば,lightknight にみられる <gh> の2重字 (digraph),過去(分詞)形の語尾として <t> ではなく <d> を用いる習慣,1人称単数代名詞にみられる I の大文字使用,その他 which, should, such, much, but, ask などは Chancery English の特徴を保持している.形態については,2人称単数代名詞としての ye/you,3人称複数代名詞としての they, them, their,再帰代名詞語尾としての self/selves,指示代名詞の複数形 thosetho の代わりに),副詞語尾の -ly(-liche の代わりに),過去分詞語尾の -n の使用や,動詞の現在複数の無語尾(-n 語尾の代わりに)など,多数挙げることができる.

 ・ Nevalainen, Terttu and Ingrid Tieken-Boon van Ostade. "Standardisation." Chapter 5 of A History of the English Language. Ed. Richard Hogg and David Denison. Cambridge: CUP, 2006. 271--311.

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2018-02-08 Thu

#3209. 言語標準化の7つの側面 [standardisation][sociolinguistics][terminology][language_planning][reestablishment_of_english][spelling_reform]

 言語の標準化の問題を考えるに当たって,1つ枠組みを紹介しておきたい.Milroy and Milroy (27) にとって,standardisation とは言語において任意の変異可能性が抑制されることにほかならず,その過程には7つの段階が認められるという.selection, acceptance, diffusion, maintenance, elaboration of function, codification, prescription である.これは古典的な「#2745. Haugen の言語標準化の4段階 (2)」 ([2016-11-01-1]) に基づいて,さらに精密化したものとみることができる.Haugen は,selection, codification, elaboration, acceptance の4段階を区別していた.
 Milroy and Milroy の7段階という枠組みを用いて標準英語の形成を歴史的に分析・解説したものとしては,Nevalainen and Tieken-Boon van Ostade の論考が優れている.そこではもっぱら現代標準英語の発達の歴史が扱われているが,同じ方法で英語史における大小様々な「標準化」を切ることができるだろうと述べている.かぎ括弧つきの「標準化」は,何らかの意味で個人や集団による人為的な要素が認められる言語改革風の営みを指している.具体的には,10世紀のアルフレッド大王による土着語たる古英語の公的な採用(ラテン語に代わって)や,Chaucer 以降の書き言葉としての英語の採用(フランス語やラテン語に代わって)や,12世紀末の Orm の綴字改革や,19世紀の William Barnes による母方言たる Dorset dialect を重用する試みや,アメリカ独立革命期以降の Noah Webster による「アメリカ語」普及の努力などを含む (Nevalainen and Tieken-Boon van Ostade 273) .互いに質や規模は異なるものの,これらのちょっとした言語計画 (language_planning) というべきものを,「標準化」の試みの事例として Milroy and Milroy 流の枠組みで切ってしまおうという発想は,斬新である.
 日本語史でいえば,現代標準語の形成という中心的な話題のみならず,仮名遣いの変遷,言文一致運動,常用漢字問題,ローマ字問題などの様々な事例も,広い意味での標準化の問題としてカテゴライズされ得るということになろう.

 ・ Milroy, Lesley and James Milroy. Authority in Language: Investigating Language Prescription and Standardisation. 2nd ed. London and New York: Routledge, 1991.
 ・ Nevalainen, Terttu and Ingrid Tieken-Boon van Ostade. "Standardisation." Chapter 5 of A History of the English Language. Ed. Richard Hogg and David Denison. Cambridge: CUP, 2006. 271--311.

Referrer (Inside): [2018-03-31-1]

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2018-01-26 Fri

#3196. 中英語期の主要な出来事の年表 [timeline][me][history][chronology][norman_conquest][reestablishment_of_english][monarch][hundred_years_war][black_death][wycliffe][chaucer][caxton]

 「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1]) に引き続き,中英語期の主要な出来事の年表を,Algeo and Pyles (123--24) に拠って示したい,

1066The Normans conquered England, replacing the native English nobility with Anglo-Normans and introducing Norman French as the language of government in England.
1204King John lost Normandy to the French, beginning the loosening of ties between England and the Continent.
1258King Henry III was forced by his barons to accept the Provisions of Oxford, which established a Privy Council to oversee the administration of the government, beginning the growth of the English constitution and parliament.
1337The Hundred Years' War with France began and lasted until 1453, promoting English nationalism
1348--50The Black Death killed an estimated one-third of England's population, and continued to plague the country for much of the rest of the century
1362The Statute of Pleadings was enacted, requiring all court proceedings to be conducted in English.
1381The Peasants' Revolt led by Wat Tyler was the first rebellion of working-class people against their exploitation; although it failed in most of its immediate aims, it marks the beginning of popular protest.
1384John Wycliffe died, having promoted the first complete translation of scripture into the English language (the Wycliffite Bible).
1400Geoffrey Chaucer died, having produced a highly influential body of English poetry.
1476William Caxton, the first English printer, established his press at Westminster, thus beginning the widespread dissemination of English literature and the stabilization of the written standard.
1485Henry Tudor became king of England, ending thirty years of civil strife and initiating the Tudor dynasty.


 中英語の外面史は,まさに英語の社会的地位の没落とその後の復権に特徴づけられていることがよくわかる.

 ・ Algeo, John, and Thomas Pyles. The Origins and Development of the English Language. 5th ed. Thomson Wadsworth, 2005.

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2017-10-19 Thu

#3097. ヤツメウナギがいなかったら英語の復権は遅くなっていたか,早くなっていたか [reestablishment_of_english][monarch][history][norman_conquest][hundred_years_war]

 昨日の記事「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1]) に引き続き,英語の復権のスピードについての話題.
 William I が1066年のノルマン征服で開いたノルマン朝は,英語とフランス語の接触をもたらした.続いて,Henry I から Stephen の時代の政治的混乱を経た後に,1154年に Henry II が開いたプランタジネット朝は,イングランド全体とフランスの広大な部分からなるアンジュー帝国を出現させた.英仏海峡をまたいで両側に領土をもつという複雑な統治形態により,イングランドの言語を巡る状況も複雑化した.それ以降,英語は,フランス語と密接な関係を持ち続けずに存在することがもはやできなくなったといえるからだ.その後も14--15世紀の百年戦争に至るまで厄介な英仏関係が続いたが,関係の泥沼化がこのように進んでいなければ,英語とフランス語の関係も,そしてイングランドにおける英語の復権も,別のコースをたどっていた可能性が高い.
 このようなことを考えていたところに,Henry I と Stephen の息子 Eustace がヤツメウナギ (lamprey) を食して亡くなったという逸話を読んだ(石井,p. 41).歴史の if の妄想ということで,ツイッターで独りごちた.以下,ツイッター口調で(実際にツイートなので)再現してみたい.

同じ食用魚でもヤツメウナギ (lamprey) とウナギ (eel) は生物学的にはまったくの無関係.名前や姿形でだまされてはいけない.


ヤツメウナギ (lamprey) を食し,中毒でポックリ逝ったノルマン朝の King Henry I と,King Stephen の息子 Eustace の2人.ノルマン朝の王族って,そんなにヤツメウナギ好きだったの?


ヤツメウナギ (lamprey) で Eustace がやられなかったら,Henry II に王位が渡らず,プランタジネット朝が開かれなかったかも.すると,イングランドはフランスとさほど摩擦せず,国内の英語の復権はもっと早かったかも.その後の英語史はどうなっていたことか?


プランタジネット朝の開祖 Henry II のフランスの領土保有により,フランスとの泥沼の関係が持続したわけで,それで国内の英語の復権が遅くなった.後に,英語はその遅れの焦りによる「火事場の馬鹿力」的な瞬発力で国内での復権を一気になしとげ,さらに国外へ飛躍できたと考えられる.


結論として,ヤツメウナギがいなかったら,むしろ英語はもう少し長く停滞していたかも!? そして,後に世界語となる機会を逸していたかも!!?? 以上.


「ヤツメウナギが英語を世界語にした」張りの「ハッタリの英語史〜歴史の if シリーズ(仮称)」より,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]) もどうぞ.


 Henry II は医者の再三の注意を無視してヤツメウナギを大量に食べ続けたというから,相当の好物だったのだろう.歴史は,たやすく偶然に左右されるものかもしれない.
 こちらからツイッターもどうぞ.フォローは

 ・ 石井 美樹子 『図説 イギリスの王室』 河出書房,2007年.

Referrer (Inside): [2019-12-25-1] [2017-10-30-1]

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2017-10-18 Wed

#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに [reestablishment_of_english][history][toc][hundred_years_war]

 似たようなタイトルの記事「#706. 14世紀,英語の復権は徐ろに」 ([2011-04-03-1]) を以前に本ブログで書いているが,「14世紀」を今回のタイトルのように「中英語期」(1100--1500年)と入れ替えても,さして問題はない.「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1]) で示した年表や,その他の reestablishment_of_english の記事で論じてきたように,イングランドにおける英語の地位の回復は,3世紀ほどのスパンでとらえるべき長々とした過程だった.
 Baugh and Cable の英語史概説書の第6章は "The Reestablishment of English, 1200--1500" と題されており,この長々とした過程を扱っているのだが,最初にこの箇所を初めて読んだときに,なんてダラダラとして読みにくい章かと思ったものである.1200--1500年のイングランドにおける英語とフランス語を巡る言語事情とその変化が説明されていくのだが,英語の復権がようやく2歩ほど進んだかと思えば,フランス語のしぶとい権威保持のもとで今度は1歩下がるといった,複雑な記述が続くのだ.英語の復権とフランス語の権威保持という2つの相反する流れが並行して走っており,実にわかりづらい.
 改めて Baugh and Cable の第6章を読みなおしたところ,結局のところ同章の冒頭に近い文章が,この時代の内容を最もよくとらえているということが分かった.

As long as England held its continental territory and the nobility of England were united to the continent by ties of property and kindred, a real reason existed for the continued use of French among the governing class in the island. If the English had permanently retained control over the two-thirds of France that they once held, French might have remained permanently in use in England. But shortly after 1200, conditions changed. England lost an important part of its possessions abroad. The nobility gradually relinquished their continental estates. A feeling of rivalry developed between the two countries, accompanied by an antiforeign movement in England and culminating in the Hundred Years' War. During the century and a half following the Norman Conquest, French had been not only natural but also more or less necessary to the English upper class; in the thirteenth and fourteenth centuries, its maintenance became increasingly artificial. For a time, certain new factors helped it to hold its ground, socially and officially. Meanwhile, however, social and economic changes affecting the English-speaking part of the population were taking place, and in the end numbers told. In the fourteenth century, English won its way back into universal use, and in the fifteenth century, French all but disappeared. (122)


 先に,この時代の英語の復権は2歩進んで1歩下がるかのようだと表現したが,Baugh and Cable の第6章を構成する第93--110節のいくつかのタイトルを「英語の復権を後押しした要因」と「フランス語の権威を保持した要因」とに粗く,緩く2分すると,次のようになる.



[ 英語の復権を後押しした要因 ]

 94. The Loss of Normandy
 95. Separation of the French and English Nobility
 97. The Reaction against Foreigners and the Growth of National Feeling
 101. Provincial Character of French in England
 102. The Hundred Years' War
 103. The Rise of the Middle Class
 104. General Adoption of English in the Fourteenth Century
 105. English in the Law Courts
 106. English in the Schools
 107. Increasing Ignorance of French in the Fifteenth Century
 109. The Use of English in Writing

[ フランス語の権威を保持した要因 ]

 96. French Reinforcements
 98. French Cultural Ascendancy in Europe
 100. Attempts to Arrest the Decline of French
 108. French as a Language of Culture and Fashion



 節の数の比からいえば,英語の復権は3歩進んで1歩下がるほどのスピードで推移したことになろうか.
 Baugh and Cable の目次については,「#2089. Baugh and Cable の英語史概説書の目次」 ([2015-01-15-1]),「#3091. Baugh and Cable の英語史概説書の目次よりランダムにクイズを作成」 ([2017-10-13-1]) を参照.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

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2017-09-10 Sun

#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド [black_death][reestablishment_of_english][history][sociolinguistics][slide][link][map][hel_education][asacul]

 ここ数日,集中的に英語史における黒死病の意義を考えてきた.これまで書きためてきた black_death の記事を総括する意味で「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド (HTML) を作ってみたので,こちらよりご覧ください.
 13枚からなるスライドで,目次は以下の通り.

 1. 英語史における黒死病の意義
 2. 要点
 3. 黒死病 (Black Death) とは?
 4. ノルマン征服による英語の地位の低下
 5. 英語の復権の歩み (#131)
 6. 黒死病の社会(言語学)的影響 (1)
 7. 黒死病と社会(言語学)的影響 (2)
 8. 英語による教育の始まり (#1206)
 9. 実は中英語は常に繁栄していた
 10. 黒死病は英語の復権に拍車をかけたにすぎない
 11. 村上,pp. 176--77
 12. まとめ
 13. 参考文献

 HTML スライドなので,そのまま hellog 記事にリンクを張ったり辿ったりでき,とても便利.英語史スライドシリーズとして,ほかにも作っていきたい.  *  *

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2017-09-08 Fri

#3056. 黒死病による人口減少と技術革新 [black_death][reestablishment_of_english][history][demography][sociolinguistics][printing]

 英語史における黒死病 (black_death) の意義は,黒死病→人口減少→英語母語話者の社会的台頭→英語の復権といった因果関係の連鎖に典型的にみることができる.しかし,もっと広い視野から歴史の因果関係を考察すると,黒死病→人口減少→賃金上昇→技術革新という連鎖も認められ,この技術革新が間接的に英語の復権をサポートしたという側面もありそうだ.
 ケリーが『黒死病 ペストの中世史』のなかの「必要が新しい技術を生む」という節で,次のように述べている (376--77) .

人口減少は技術革新にも大きな影響を及ぼした.労働力が急激に減少したことから,人手を省くための装置の開発が各分野で進み,書籍作りにもその動きが見られた.十三世紀と十四世紀には,商人や大学教育を受けた専門職や職人などの階級が成長したことから,書籍への需要が着実に伸びた.しかし,中世の造本はきわめて労働集約的な作業だった.まず,数人の写字生が手分けして一冊の本を一折りずつ書き写す.労働賃金が安かった黒死病以前の時代には,この方法でも儲けが出たが,黒死病以後の高賃金の時代になると,そうはいかなかった.そこでドイツのマインツに生まれた野心家の若者ヨハネス・グーテンベルクの登場である.大量死の時代からおよそ百年後の一四五三年,グーテンベルクは世界初の印刷機を世に送り出した.


 以上より,1世紀ほどの時間幅があるとはいえ,黒死病→人口減少→賃金上昇→技術革新→印刷術の発明,という連鎖が得られた.印刷術の発明の後に続く連鎖については,「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]) と「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]) を参照されたい.黒死病が,最終的には英語の社会的地位の向上につながる.
 ケリー (377--79) は,黒死病に起因する技術革新や制度変化が,造本のほか,鉱業,漁業,戦争形態,医療,公衆衛生,高等教育など多くの分野で生じたことを示しており,すでに近代的な科学の方法論を取り入れる素地ができあがりつつあったとも述べている.例えば,高等教育の変化について「ペスト流行後の学問の衰退と聖職者兼教育者の不足」に言及している(ケリー,p. 379).当時の大学の置かれていた状況については「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1]) および「#3055. 黒死病による聖職者の大量死」 ([2017-09-07-1]) を参照.

 ・ ジョン・ケリー(著),野中 邦子(訳) 『黒死病 ペストの中世史』 中央公論新社,2008年.

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2017-09-07 Thu

#3055. 黒死病による聖職者の大量死 [black_death][reestablishment_of_english][history][demography][sociolinguistics]

 連日,黒死病 (black_death) の話題を取りあげている.昨日の記事「#3054. 黒死病による社会の流動化と諸方言の水平化」 ([2017-09-06-1]) では Gooden の英語史読本を参照したが,黒死病を手厚く扱っているもう1つのポピュラーな英語史読本として,Bragg (60--61) を挙げよう.黒死病の英語史における意義に関して特に目新しことを述べているわけではないが,さすがに読ませる書き方ではある.

In 1348 Rattus rattus, the Latin-named black rodent, was the devil in the bestiary. These black rats deserted a ship from the continent which had docked near Weymouth. They carried a deadly cargo, a term that modern science calls Pasteurella pestis, that the fourteenth century named the Great Pestilence and that we know as the Black Death.
   The worst plague arrived in these islands, and much, including the language, would be changed radically.

The infected rats scaled out east and then north. They sought out human habitations, building nests in the floors, climbing the wattle and daub walls, shedding the infected fleas that fed on their blood and transmitted bubonic plague. It has been estimated that up to one-third of England's population of four million died. Many others were debilitated for life. In some places entire communities were wiped out. In Ashwell in Hertfordshire, for instance, in the bell tower of the church, some despairing soul, perhaps the parish priest, scratched a short poignant chronicle on the wall in poor Latin. "The first pestilence was in 1350 minus one . . . 1350 was pitiless, wild, violent, only the dregs of the people live to tell the tale."
   The dregs are where our story of English moves on. These dregs were the English peasantry who had survived. Though the Black Death was a catastrophe, it set in train a series of social upheavals which would speed the English language along the road to full restoration as the recognised language of the natives. The dregs carried English through the openings made by the Black Death.
   The Black Death killed a disproportionate number of the clergy, thus reducing the grip of Latin all over the land. Where people lived communally as the clergy did in monasteries and other religious orders, the incidence of infection and death could be devastatingly high. At a local level, a number of parish priests caught the plague from tending their parishioners; a number ran away. As a result the Latin-speaking clergy was much reduced, in some parts of the country by almost a half. Many of their replacements were laymen, sometimes barely literate, whose only language was English.
   More importantly, the Black Death changed society at its roots --- the very place where English was most tenacious, where it was still evolving, where it roosted.
   In many parts of the country there was hardly anyone left to work the land or tend the livestock. The acute shortage of labour meant that for the first time those who did the basic work had a lever, had some power to break from their feudal past and demand better conditions and higher wages. The administration put out lengthy and severe notices forbidding labourers to try for wage increases, attempting to force them to keep to pre-plague wages and demands, determined to stifle these uneasy, unruly rumblings. They failed. Wages rose. The price of property fell. Many peasants, artisans, or what might be called working-class people discovered plague-emptied farms and superior houses, which they occupied.


 引用中に,聖職者が特にペストの餌食となったことにより,イングランド社会におけるラテン語の影響力が減じたとある.含意として,相対的に大多数の人々の母語である英語が影響力を増したと読める.しかし,聖職者がとりわけ被害を受けたというのが本当なのかどうかについては論争があり,真実は必ずしも明らかにされていない.とはいえ,「聖職者というのは,埋葬に立ち会い,終油の秘蹟をさずけ,あるいは救助活動に身を捧げたりで,患者や死者との接触度が一般人よりもはるかに大きく,それだけ危険度も高かった」(村上,p. 131)というのは,理に適っているように思われる.なお,聖職者は教育者でもあったことも付け加えておこう (cf. 「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1])) .

 ・ Bragg, Melvyn. The Adventure of English. New York: Arcade, 2003.
 ・ 村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.

Referrer (Inside): [2020-03-16-1] [2017-09-08-1]

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2017-09-06 Wed

#3054. 黒死病による社会の流動化と諸方言の水平化 [black_death][reestablishment_of_english][history][demography][me_dialect][sociolinguistics][dialect_levelling]

 英語史では中世における英語の復権と関連して,たいてい黒死病のことが触れられる.しかし,簡単に言及されるにとどまり,突っ込んだ説明のないものも多い.そのなかで,一般向けの英語史読本を著わした Gooden (67--68) は,黒死病に対して1節を割くほどの関心を示している.読み物としておもしろいので引用しておこう.なお,引用の第2段落の1部は,Black Death の語源と関連して「#2990. Black Death」 ([2017-07-04-1]) でも取りあげた.

The Black Death had a devastating effect on the British Isles, as on the rest of Europe. The population of England was cut by anything between a third and a half. Probably originating in Asia, the plague arrived in a Dorset port in the West country in 1348, rapidly spreading to Bristol and then to Gloucester, Oxford and London. If a rate of progress were to be allotted to the plague, it was advancing at about one-and-a-half miles a day. The major population centres, linked by trading routes, were the most obviously vulnerable but the epidemic had reached even the remotest areas of western Ireland by the end of the next decade. Symptoms such as swellings (the lumps or buboes that characterize bubonic plague), fever and delirium were almost invariably followed within a few days by death. Ignorance of its cause heightened panic and public fatalism, as well as hampering effectual preventive measures. Although the epidemic petered out in the short term, the disease did not go away, recurring in localized attacks and then major outbreaks during the 17th century which particularly affected London. One of them disrupted the preparations for the coronation of James I in 1603; the last major epidemic killed 70,000 Londoners in 1665.
   The term 'Black Death' came into use after the Middle Ages. It was so called either because of the black lumps or because in the Latin phrase atra mors, which means 'terrible death', atra can also carry the sense of 'black'. To the unfortunate victims, it was the plague, or, more often, the pestilence. So Geoffrey Chaucer calls it in The Pardoner's Tale, where he makes it synonymous with death. The words survive in modern English even if with a much diminished force in colloquial use: 'He's a pest.' 'Stop plaguing us!' Curiously, although pest in the sense of 'nuisance' has its roots in pestilence, the word pester comes from a quite different source, the Old French empêtrer ('entangle', 'get in the way of').
   The impact of the pestilence on English society was profound. Quite apart from the psychological effects, there were practical consequences. Labour shortages meant a rise in wages and more fluid social structure in which the old feudal bonds began to break down. Geographical mobility would also have helped in dissolving regional distinctions and dialect differences.


 黒死病による人口減少により,生き残った労働者の賃金が上がり,彼らの社会的地位が上昇するとともに彼らの母語である英語の社会的地位も上昇した,というのが黒死病の英語史上のインパクトと言われる.しかし,引用の最後にあるように,人々が社会的にも地理的にも流動化したという点にも注目すべきである.これにより,人々がますます混交し,とりわけロンドンのような都会では諸方言が水平化してゆく契機となった (cf. dialect levelling) .黒死病は,確かに英語の行く末に間接的な影響を与えたといえるだろう.

 ・ Gooden, Philip. The Story of English: How the English Language Conquered the World. London: Quercus, 2009.

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2017-09-05 Tue

#3053. 黒死病により農奴制から自由農民制へ [black_death][reestablishment_of_english][history][demography][sociolinguistics]

 1348年に起こった黒死病 (black_death) について,本ブログでも何度か取りあげてきた(cf. 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]),「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1]),「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1])).今回は,英語史における黒死病の意義を考えるにあたって,特に農業経済の変化に焦点を当てつつ,広い視野から当時の歴史的背景を紹介したい.
 黒死病に関する McDowall (46--47) からの文章を引こう.

Probably more than one-third of the entire population of Britain died, and fewer than one person in ten who caught the plague managed to survive it. Whole villages disappeared, and some towns were almost completely deserted until the plague itself died out.
   The Black Death was neither the first natural disaster of the fourteenth century, nor the last. Plagues had killed sheep and other animals earlier in the century. An agricultural crisis resulted from the growth in population and the need to produce more food. Land was no longer allowed to rest one year in three, which meant that it was over-used, resulting in years of famine when the harvest failed. This process had already begun to slow down population growth by 1300.
   After the Black Death there were other plagues during the rest of the century which killed mostly the young and healthy. In 1300 the population of Britain had probably been over four million. By the end of the century it was probably hardly half that figure, and it only began to grow again in the second half of the fifteenth century. Even so, it took until the seventeenth century before the population reached four million again.
   The dramatic fall in population, however, was not entirely a bad thing. At the end of the thirteenth century the sharp rise in prices had led an increasing number of landlords to stop paying workers for their labour, and to go back to serf labour in order to avoid losses. In return villagers were given land to farm, but this tenanted land was often the poorest land of the manorial estate. After the Black Death there were so few people to work on the land that the remaining workers could ask for more money for their labour. We know they did this because the king and Parliament tried again and again to control wage increases. We also know from these repeated efforts that they cannot have been successful. The poor found that they could demand more money and did so. This finally led to the end of serfdom.
   Because of the shortage and expense of labour, landlords returned to the twelfth-century practice of letting out their land to energetic freeman farmers who bit by bit added to their own land. In the twelfth century, however, the practice of letting out farms had been a way of increasing the landlord's profits. Now it became a way of avoiding losses. Many "firma" agreements were for a whole life span, and some for several life spans. By the mid-fifteenth century few landlords had home farms at all. These smaller farmers who rented the manorial lands slowly became a new class, known as the "yeomen". They became an important part of the agricultural economy, and have always remained so.
   Overall, agricultural land production shrank, but those who survived the disasters of the fourteenth century enjoyed a greater share of the agricultural economy. Even for peasants life became more comfortable. For the first time they had enough money to build more solid houses, in stone where it was available, in place of huts made of wood, mud and thatch.


 黒死病の勃発する1358年より前にも,疫病,人口増加,農地不足はすでに大きな問題となっており,農業経済は行き詰まっていた.農奴制 (serfdom) も持ちこたえられなくなっており,賃金労働者たる自由農民 (yeoman) という新しい身分が出現し始めていた.そこへ黒死病が到来し,生産者人口が激減するに及んで,生き残った生産者の社会的地位が高まった.このようにして,とりわけ自由農民の層が15世紀にかけて存在感と発言力を増していった.そして,彼らの話す言葉こそが,英語だったのである.
 McIntyre (15) が述べている通り,"the greater the influence a particular group has within society, the more likely it is that the language spoken by that group will be seen as prestigious."である.英語は,中世イングランドの農業経済の変化(農奴制から自由農民制へ)とともに復権を果たしたといえる.
 ただし,黒死病が必ずしも農業経済に直接の影響を及ぼしたわけではない,それは旧来の学説だとする見方も,近年影響力を高めてきているようではあるマクニール(下巻,p. 58 を参照).

 ・ McDowall, David. An Illustrated History of Britain. Harlow: Longman 1989.
 ・ McIntyre, Dan. History of English: A Resource Book for Students. Abingdon: Routledge. 2009.
 ・ ウィリアム・H・マクニール(著),佐々木 昭夫(訳) 『疫病と世界史 上・下』 中央公論新社〈中公文庫〉,2007年.

Referrer (Inside): [2020-03-16-1]

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2017-02-25 Sat

#2861. Cursor Mundi の著者が英語で書いた理由 [popular_passage][norman_conquest][norman_french][reestablishment_of_english][language_shift][eme][me_text]

 ノルマン征服 (norman_conquest) の後,イングランドに定住することになったノルマン人とその子孫たちは,しばらくの間,自分たちの母語である norman_french を話し続けた.イングランド社会の頂点に立つノルマン人の王侯貴族とその末裔たちは,特に公的な文脈において,フランス語使用をずっと長く続けていたことは事実である.この話題については,以下の記事を始めとして,いろいろと取り上げてきた.

 ・ 「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1])
 ・ 「#661. 12世紀後期イングランド人の話し言葉と書き言葉」 ([2011-02-17-1])
 ・ 「#1204. 12世紀のイングランド王たちの「英語力」」 ([2012-08-13-1])
 ・ 「#1461. William's writ」 ([2013-04-27-1])
 ・ 「#2567. 13世紀のイングランド人と英語の結びつき」 ([2016-05-07-1])
 ・ 「#2604. 13世紀のフランス語の文化的,国際的な地位」 ([2016-06-13-1])

 特に,1300年頃に Robert of Gloucester の著わした Chronicle では,ノルマン人がフランス語を使用し続けている現状について,著者がぼやいている箇所があるほどだ(「#2148. 中英語期の diglossia 描写と bilingualism 擁護」 ([2015-03-15-1]) の引用を参照).
 しかし,考えなければいけないことは,上に述べた状況は,およそノルマン人の王侯貴族にのみ当てはまったということだ.比較的身分の低いノルマン人たちは,周囲にいる大多数の英語母語話者たるイングランド人の圧力のもとで,早くにフランス語から離れ,英語へ乗り換えていた.
 このような言語事情ゆえに,すでに1300年頃には,英語母語話者のなかには,英語でものを書こうという「個人的な」動機づけは十分にあったはずだ.ただ,英語で書くことは社会的慣習の外にあったので,「社会的に」ためらわれるという事情があっただけである.だが,その躊躇を振り切って,英語でものする書き手も現れ始めていた.1300年頃に北部方言で書かれた長詩 Cursor Mundi の著者も,その1人である.なぜ英語で書くのかという理由をあえて書き記している箇所 (Prologue, II, ll. 232--50) を,Gramley (72--73) 経由で引用しよう.

þis ilk bok es translate
Into Inglis tong to rede
For the loue of Inglis lede,
Inglish lede of Ingland,
For the commun at understand.
Frankis rimes here I redd,
Comunlik in ilk[a] sted;
Mast es it wroght for frankis man,
Quat is for him na Frankis can?
In Ingland the nacion,
Es Inglis man þar in commun;
þe speche þat man wit mast may spede;
Mast þarwit to speke war nede.
Selden was for ani chance
Praised Inglis tong in France;
Give we ilkan þare langage,
Me think we do þam non outrage.
To laud and Inglish man I spell
þat understandes þat I tell.


 英語で書く理由をあえて書き記しているということから,逆にそれが社会的にはまだ普通の行いではなかったことが示唆される.

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.

Referrer (Inside): [2017-07-02-1]

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2017-01-08 Sun

#2813. Bokenham の純粋主義 [purism][french][latin][lme][reestablishment_of_english]

 「#2147. 中英語期のフランス借用語批判」 ([2015-03-14-1]) で触れたように,Polychronicon を15世紀に英訳した Osbern Bokenham (1393?--1447?) という人物がいる.ノルマン征服以来,英語がフランス語やその他の言語と混合して崩れた言語になってしまったこと,英語話者がろくでもない英語を使うようになってしまったことを嘆いた純粋主義 (purism) の徒である.Bokenham の批判の直接の対象は,フランス語やラテン語にかぶれたイングランド社会の風潮であり,結果として人々がどの言語を用いるにせよ野蛮な言葉遣いしかできなくなっている現状だった.Bokenham のぼやきを,Gramley (110) からの引用で示そう.

And þis corrupcioun of Englysshe men yn þer modre-tounge, begunne as I seyde with famylyar commixtion of Danys firste and of Normannys aftir, toke grete augmentacioun and encrees aftir þe commyng of William conquerour by two thyngis. The firste was: by decre and ordynaunce of þe seide William conqueror children in gramer-scolis ageyns þe consuetude and þe custom of all oþer nacyons, here owne modre-tonge lafte and forsakyn, lernyd here Donet on Frenssh and to construyn yn Frenssh and to maken here Latyns on þe same wyse. The secounde cause was þat by the same decre lordis sonys and all nobyll and worthy mennys children were fyrste set to lyrnyn and speken Frensshe, or þan þey cowde spekyn Ynglyssh and þat all wrytyngis and endentyngis and all maner plees and contravercyes in courtis of þe lawe, and all maner reknyngnis and countis yn howsoolde schulle be doon yn the same. And þis seeyinge, þe rurales, þat þey myghte semyn þe more worschipfull and honorable and þe redliere comyn to þe famyliarite of þe worthy and þe grete, leftyn hure modre tounge and labouryd to kunne spekyn Frenssh: and thus by processe of tyme barbariȝid thei in bothyn and spokyn neythyr good Frenssh nor good Englyssh.


 実際には15世紀にはイングランド人のフランス語やラテン語の能力はぐんと落ちていたはずであり,どの階層の人々も日常的に英語を用いる時代になって久しかったのだから,これらの外国語を母語たる英語に対する本格的な脅威として見ていたわけではないだろう(関連して「#2612. 14世紀にフランス語ではなく英語で書こうとしたわけ」 ([2016-06-21-1]),「#2622. 15世紀にイングランド人がフランス語を学んだ理由」 ([2016-07-01-1]) を参照).だが,これらの言語からの借用語などの「遺産」は英語において累々と積み重ねられており,それが Bokenham の言語的純粋主義を刺激していたものと思われる.むしろ英語の復権が事実上達成された後の時代における不満,あるいはいまだフランス語やラテン語にかぶれている貴族階級を中心とするイングランド人への非難,というように聞こえる.

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.

Referrer (Inside): [2017-07-27-1]

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2016-07-01 Fri

#2622. 15世紀にイングランド人がフランス語を学んだ理由 [reestablishment_of_english][french][bilingualism][lme][law_french]

 「#2612. 14世紀にフランス語ではなく英語で書こうとしたわけ」 ([2016-06-21-1]) で取り上げたように,後期中英語期にはイングランド人のフランス語使用は減っていった.14世紀から15世紀に入るとその傾向はますます強まり,フランス語は日常的に用いられる身近な言語というよりは,文化と流行を象徴する外国語として認識されるようになっていった.フランス語は,ちょうど現代日本における英語のような位置づけにあったのだ.
 15世紀初頭に John Barton がフランス語学習に関する Donet François という論説を書いており,イングランド人がフランス語を学ぶ理由は3つあると指摘している.1つ目は,フランス人と意思疎通できるようになるから,という自然な理由である.なお,イングランド人の間での日常的なコミュニケーションのためにフランス語を学ぶべきだという言及は,どこにもない.後者の用途でのフランス語使用はすでに失われていたと考えてよいだろう.
 2つ目は,いまだ法律がおよそフランス語で書かれていたからである.3つ目は,紳士淑女はフランス語で手紙を書き合うのにやぶさかではなかったからである.
 2つ目と3つ目の理由は後世には受け継がれなかったが,特に3つ目の理由に色濃く感じられる「フランス語=文化と流行の言語」のイメージそのものは存続した.フランス語のこの方面での威信は,後の18世紀に最高潮に達したが,その余韻は現在も息づいていると言ってよいだろう.フランス借用語彙に宿っているオシャレな含意と相まって,英語(話者)にとってのフランス語のイメージは,中世から大きく変化していないのである.以上,Baugh and Cable (147) を参照した.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

Referrer (Inside): [2017-01-08-1]

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