日本語における「外来語の氾濫」の問題は,長らくメディアを賑わわせている.最近目についたところでは,9月4日(水)の朝日新聞朝刊13面に「耕論 カタカナ語の増殖」として3名の識者による議論が掲載されていた.「フランス語の未来」協会長のアルベール・サロン氏による「過剰な英語化,無味乾燥」,英語言語帝国主義批判の論客,津田幸男氏による「「言語法」で日本語を守れ」,クリエーティブディレクター岡康道氏による「取り込んで,面白がろう」の3論である.サロン氏は英語支配の観点から,津田氏は英語支配および日本の伝統維持という立場からそれぞれカタカナ語の氾濫を厳しく批判しているが,岡氏は日本語の同化力と創造力を評価して外来語の流入を歓迎している. *
確かに,戦前から戦後を経て21世紀初頭の現在に至るまで,主として英語起源のカタカナ語の流入はおびただしい.この「氾濫」に対して,上記の議論のように様々な立場から反論が加えられてきたし,逆に擁護論が展開されたりもしてきた.しかし,とりわけ目につくのは反対論のほうである.このような問題における支持論は,およそ反対論に対する反論として唱えられるのが常であるようだ.
『新版日本語教育事典』 (261) によると,外来語問題とは次の通りである.
「カタカナ語の氾濫」として問題にされ,急増している外来語への対応がさまざまな角度から議論される。背景には,英語とアメリカ文明の圧倒的な優位があるといってよい。議論の方向は,大きく2つの立場に分かれる。一つは,日本語そのものが良き文化的伝統とともに崩壊するのではないかと懸念する伝統重視の立場からのもの,もう一つは,一般になじみのうすい外来語が出まわることによって,基本的な情報のやりとりや意志疎通に支障が生ずることを問題視する機能重視の立場からのものである。後者に関しては,とくに公共性の高い場面における外来語使用について,個々の語の定着度に配慮した適切な対応を求める動きが国のレベルでも見られる。
このような問題意識を受けて,昨日の記事「#1616. カタカナ語を統合する試み,2種」 ([2013-09-29-1]) でも触れたとおり,2002年より国立国語研究所の「外来語」委員会が「外来語」言い換え提案について議論することになった次第である.委員会設立趣意書では,機能主義の立場から外来語の問題点を指摘している.
外来語・外国語の問題点
近年,片仮名やローマ字で書かれた目新しい外来語・外国語が,公的な役割を担う官庁の白書や広報紙,また,日々の生活と切り離すことのできない新聞・雑誌・テレビなどで数多く使われていると指摘されています。例えば,高齢者の介護や福祉に関する広報紙の記事は,読み手であるお年寄りに配慮した表現を用いることが,本来何よりも大切にされなければならないはずです。多くの人を対象とする新聞・放送等においても,一般になじみの薄い専門用語を不用意に使わないよう十分に注意する必要があります。ところが,外来語・外国語の使用状況を見ると,読み手の分かりやすさに対する配慮よりも,書き手の使いやすさを優先しているように見受けられることがしばしばあります。
日本語教育の立場からも,外来語の問題点が指摘されている.以下,遠藤(編) (205--06) より引用するが,これも広い意味では機能主義的な議論の一種だろう.
日本語の中に外来語が多いことは、日本人にとってだけでなく、日本語学習者にとっても、いろいろな問題を生んでいる。
日本人にとっては、次々に生まれるカタカナの外来語の意味するところがわからなくて、困惑する人が多くなっている。政府関係の白書に使われる外来語の多さが、論議を呼び、外来語使用を自粛するように通達も出されたこともある。しかし、減る気配はいっこうに見えなくて、意思疎通に支障を来すことをおそれて国立国語研究所が言い換え案を出すことになった。その効果についてはまだ、報告されていない。
ショートステイ・ケアマネージャー・ケアプログラム・バリアフリーなど、福祉関係の用語が外来語で占められているが、これではその主な対象者である高齢者にはわかりにくい。ノーマライゼーション・アカウンタビリティなどのように新しい概念を移入するとき、原語をそのままカタカナにするために、外来語が増えるのであるが、そのカタカナの表す音と原語の発音の差が大きすぎて、原語のわかる人にもそのカタカナ語はわからない。まして、日本で適当に原語を組み合わせて作られる語(=和製語)は、原語を知っている人でもまったく類推が利かない。
そのために、英語の話者は倍の苦労をする。日本人はカタカナの語を見ると、英語だと思い、外国人には英語で言えば通じると思う。しかし、それは英語でも何でもない日本での造語である。英語話者に通じるはずがないのに、通じると思われて多く使ってこられるとしたら、ますます負担は大きくなるのである。
発音のわかりにくい、英語もどきのことばより、いっそ本来の日本語で言ってくれたほうがはるかにわかりやすいと、日本語を知る英語話者は嘆いているのである。
日本語を教える際に、カタカナ外来語は、原語とは関連がなく、まったく新たな日本語であるということを認識しておく必要がある。
このように外来語の氾濫は様々な批判の対象とはなっているが,実際のところ,多くの日本語母語話者は外来語の受容と使用について議論こそすれ,本格的に敵視し排除しようというわけではなさそうだ.外来語を法によって規制しようという動きにまで発展したことはないし,今後もそこまで行くかどうかは疑問だ.全体として現状肯定,あるいは消極的な支持という向きが支配的のように思う.
・ 『新版日本語教育事典』 日本語教育学会 編,大修館書店,2005年.
・ 遠藤 織枝(編) 『日本語教育を学ぶ 第二版』 三修社,2011年.
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