昨日の記事「#1612. 道路案内標識,ローマ字から英語表記へ」 ([2013-09-25-1]) で話題にした道路案内標識の英語表記化の施策について,言語計画 (language_planning) という観点から議論を続けたい.カルヴェによると,このような問題は「言語環境」あるいは「地域の言語記号化」というキーワードのもとで議論される.少々長いが,カルヴェ (62--65) より「言語環境」と題された1節のほとんどを引用する.
町で通りを散歩したり、空港に着いたり、ホテルの部屋でテレビのチャンネルをつけたりすると、ポスターや広告、テレビ番組、シャンソンなどに用いられている言語を通じて、言語状況に関する情報を直ちに入手できる。と同時に、社会言語学的状況を注意深く調査して、そこに存在する言語や言語変種をよく知るにつれて、その多くがメディアに登場していないことに気づく。
日常生活のなかで、言語が口語や文語の形で存在したり、存在していないことを「言語環境」と呼ぶ。一例をあげるなら、ニューヨークでは店の看板に英語や中国語、イタリア語、アラビア語といった言語が見られることから、その地誌を作成することができるし、その環境における言語変種を通じて、現在の変化を見守ることもできる。あるいはまた、イギリスによる中国への香港返還の期日(一九九七年)が近づくにつれて、一九九〇年代の香港の言語環境には中国語の伸張と英語の後退が認められた。
ニューヨークや香港、また他の首都の言語状況は多くの情報に満ちあふれ、生体のなかにあると言えるが、実験室のなかの言語計画もそのような状況に介入しうるのだ。ある言語話者の日常生活にアルファベットが現われないのに、その言語にアルファベットを与えても何の役にも立たないからだ。通りの名称を示すプレートや道路標識、車両のナンバープレート、宣伝ポスター、ラジオやテレビ番組は、言語振興の目的で介入するのには格好の場である。たとえば、二十年の間隔を経て、一九九〇年代にビルバオ〔スペインの北部バスク地方の港町〕やバルセロナの空港に降り立った旅行者は、ビルバオにはバスク語の表示があり、バルセロナにはカタルーニャ語の表示があることに驚くだろう。この表示は言語環境に計画的な介入が行なわれ、それまで排除されていた言語がその環境を征服した、あるいは挽回したということを示している。同様に、表記環境という観点からすると、一九七〇年から一九八〇年の間に、アルジェの街の通りは、完全に変わってしまった。先に述べたすべての機能の点において、アラビア語がフランス語に取って代わった。このような「地域の言語記号化」は、それが自然に生まれた実践の結果であれ、計画的な実践の結果であれ、社会を記号論的に読みとく道具を提供している。そこに現われる言語には、掲示されているものもあれば、なかなか目にすることのないものもあり、その言語の社会言語学的な重要度やその将来とも無関係ではないのだ。
したがって、言語計画は環境に働きかけて、諸々の言語の重要性やその象徴的な威信に影響を及ぼすのだ。そしてさらに、互いに多少異なっているとはいえ、実験室のなかの活動は生体のなかの活動方法を用い、そこから着想を得る。たとえば、パリのマグレブ人の肉屋がアラビア語で屋号を掲示するといった自然な言語実践と、屋号はアラビア語の他にフランス語でも提示(つまり翻訳)されねばならないとする公権力による介入との間には、言語(ここでは文字表記)を通じたアイデンティティの表明について同様の意志が認められる。このアイデンティティを求めるアプローチはそれぞれ異なっている、一方は自然な行動から、他方は法の介入によって、アイデンティティを求めているのである。
だが、この二つの場合でも、地域の言語記号化という機能は同じである。ニューヨークやパリの通りに見られるアラビア語、中国語、ヘブライ語の掲示は、二段階のメッセージを作っている。まず明示的レベルでは、この言語を読むことのできる者だけがメッセージを解読できるという点で、潜在的に受信者をかなり限定する。と同時に、共示的レベルでは、この掲示は別の種類のメッセージとなっている。アラビア語や中国語を読めなくても、その文字体系を識別することができるし、その存在は象徴的役割や証言の役割を果たしている。たとえば、レストランのドアの上にある「広東料理店」という中国語による掲示は二つのことを伝えている。まず、中国語を読める人に「ここは広東料理の店だ」と伝えていると同時に、中国語を読めない人には「これは中国語だ」と伝えている。さらに近くの店が何軒も互いに屋号を中国語で掲げていれば、このような掲示が共存していることから、「これは中国人の通りだ」ということや、「ここは中華街だ」ということがわかる。このような二段階の読解からも、文字環境の重要性がわかる。国家がこの分野への介入を決定すれば、大多数の人びとはしばらくのあいだ、新たに掲示される言語が読めないかもしれない。もちろん、これは住民の識字率による。それでも、これは文字表記として知覚され、その文字の存在は政治による選択を象徴する。
カルヴェの主旨を今回の道路案内標識の英語表記化という文脈に当てはめると,次のように議論できるだろうか.言語的介入の格好の的である道路案内標識を英語化するという施策を通じて,日本政府は計画的に日本の言語環境を変化させようとしており,英語の伸張を後押ししているということになる.この施策が国民に受け入れられると仮定すると,道路案内標識の英語表記は,明示的レベルと共示的レベルの2つのメッセージを作ることになろう.例えば,"Kanda Sta. West" は,明示的レベルでは,英語表記を理解する者にそれが「神田駅西口」であることを伝える.一方,共示的レベルでは,英語表記を理解する者にもしない者にも,日本は道路案内標識に英語表記を用いることを選択した国であるというメッセージを,そして日本は英語の重要性やその象徴的な威信を政治的に認めているというメッセージを伝える.
道路案内標識の英語表記化の議論は,この「地域の言語記号化」という視点からなされるべきではないか.
「言語環境」というキーワードと関連して,「#278. ニュージーランドにおけるマオリ語の活性化」 ([2010-01-30-1]) や「#601. 言語多様性と生物多様性」 ([2010-12-19-1]) で触れた "ecology of language" や "ecolinguistics" という分野も関わりが深い.一方,「地域の言語記号化」は,「#1543. 言語の地理学」 ([2013-07-18-1]) で扱われるべき問題の1つだろう.
・ ルイ=ジャン・カルヴェ(著),西山 教行(訳) 『言語政策とは何か』 白水社,2000年.
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