「カタカナ語」と称される外来語の氾濫は,しばしば日本語の問題として話題となる.本ブログでも,「#1617. 日本語における外来語の氾濫」 ([2013-09-30-1]),「#1630. インク壺語,カタカナ語,チンプン漢語」 ([2013-10-13-1]),「#1999. Chuo Online の記事「カタカナ語の氾濫問題を立体的に視る」」 ([2014-10-17-1]) などで問題にしてきた.
#1617の記事で触れたように,とりわけ「高齢者の介護や福祉に関する広報紙の記事は,読み手であるお年寄りに配慮した表現を用いることが,本来何よりも大切にされなければならないはず」にもかかわらず,外来語が多用されている現実が問題とされることが多い.「お年寄りに配慮した表現」とは,理解しやすい漢語や和語での言い換え表現であるとか,あるいは少なくとも括弧で説明を付すなどの気遣いのことと把握していたが,社会言語学的な観点,特に solidarity (連帯)の観点から視ると,もう少し根の深い問題がありそうだということが分かる.井上 (190) は,「連帯」の裏返しとしての「排除」について次のように述べている.
日本のお役所ことばにカタカナ語を乱用するのはそれがわからない高齢者などを排除することになる.カタカナ語が問題なのは,意味がわからないことだけではない.連帯と排除の構造を社会に作り出してしまうことこそより問題である.
つまり,多くのお年寄りがカタカナ語の意味を理解できないという言語コミュニケーション上の問題以上に,お年寄りが,その意味を理解する若年集団と社会的に「連帯」できないという問題,もっと言えば「排除」されてしまうという問題があるという
この社会言語学的な説明は,ただお年寄りとカタカナ語の問題に限らず,ある言語に借用語が氾濫したときにしばしば生じるアンチ借用語の言語的純粋主義 (purism) を論じるにあたって,一般的に有効なのではないかと思われる.例えば,初期近代英語の「インク壺語論争」(inkhorn_term) においても,ラテン借用語の氾濫は,一般庶民の理解を超えるという点で言語コミュニケーション上の問題と捉えることもできるが,それ以上に,ラテン語を操れる知識層と操れない一般庶民たちの間の断絶という社会的な含意をもった問題と捉えるほうが妥当かもしれない.
・ 井上 逸兵 『グローバルコミュニケーションのための英語学概論』 慶應義塾大学出版会,2015年.
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