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german - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2022-11-27 10:35

2022-09-15 Thu

#4889. 『言語の標準化を考える』の編者が綴る紹介文,第3弾(高田博行氏) [gengo_no_hyojunka][contrastive_language_history][notice][german][standardisation][notice]

 2日間の記事 ([2022-09-13-1], [2022-09-14-1]) に続き,近刊書『言語の標準化を考える --- 日中英独仏「対照言語史」の試み』(大修館,2022年)について編者自らが紹介するという企画の第3弾(最終回)です.
 ドイツ語史が専門の高田博行氏による本書紹介文です.英語に慣れてしまうと気づかなくなってしまいますが,英語はなかなか「変な」言語であるという議論です.ご本人の許可をいただき,こちらに掲載致します.

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「ドイツ語史から見て英語史で不思議に思えること」

高田 博行


 言語はそれぞれ固有な構造をしていて、言語Aの話者から見ると任意の言語Bは常に「変な」言語に見えてきます。英語話者から見て、同じゲルマン系の言語であるドイツ語がどう変に見えるのかについては、マーク・トウェイン(1835~1910年)による古典的な見立てがあります。トウェインは、ドイツ、スイス、フランス、イタリアを旅したときの体験に基づいて Tramp Abroad(1880年、日本語訳『ヨーロッパ放浪記』彩流社 1999年)を書きましたが、その補遺のひとつとして The Awful German Language (「恐ろしいドイツ語」)というエッセイを残しています。トウェインは、ドイツ語のどこが「恐ろしい」と言っているのでしょうか。名詞に性があること(「木」は男性、「つぼみ」は女性、「葉」は中性なのはどうして?)、名詞と形容詞の語尾変化が複雑であること、parenthesis 「括弧入れ」(大事な要素が文の最後に置かれるために、結果的に文全体が枠で囲まれるようになること。現在のドイツ語文法でいう「枠構造」のこと)のために語順が英語と大きく異なること、そして Unabhängigkeitserklärung「独立宣言」 のような長々しい複合語が遠慮なく作られることが、トウェインの言う恐ろしいドイツ語の正体のようです。
 英語の歴史からすると、名詞の性、そして名詞・形容詞の語尾変化については、英語が時間の経過のなかでいわば「無駄な部分」をそぎ落としていった結果、元来のゲルマン語に近いドイツ語の姿が変に見えるわけです。「括弧入れ」語順については、I think that his father will come to Japan next year.という語順で話す英語話者にとって、同じ文がドイツ語では I think that my father next year to Japan come will. (Ich denke, dass sein Vater nächstes Jahr nach Japan kommen wird.) という並び方になってしまうのは、たしかに反転した鏡像を見ているようで 気持ちが悪いというのも共感できます。これは、ドイツ語の独自の展開の中で枠構造という遠隔配置的な文法規則が形成され、最終的に17世紀に確定したものです。
 このような文法に関わる部分とは異なり、語彙に関わる面については人為的介入の余地がありえます。Unabhängigkeitserklärung 「独立宣言」という複合語が長く見えるのは、Unabhängigkeits-erklärung のようにハイフンを入れたり、Unabhängigkeits Erklärung のように分けて綴ったりすれば可視性が高まるのにそうはしないからです。しかし、このドイツ語の書法上の習慣(規則)だけが、複合語を長々しくする理由ではありません。そもそもドイツ語母語話者たちが長年にわたって、概念を言い表すときにラテン語やフランス語などから語を借用することなく、ドイツ語の造語力を信じて本来の(ゲルマン系の)ドイツ語で言い切ろうとしてきた取り組みの結果が、この複合語の長さを生んでいるのです。「独立宣言」という概念は、英語では declaration of independence のように、近世初期にラテン語から借用された語を用いて分析的に言い表されます。それに対して、ドイツ語の Unabhängigkeitserklärung はその構成部分がすべてドイツ語(ゲルマン系の語)から成り立っています。Unabhängigkeitserklärung は、un(英 un)「否定の接頭辞」+ ab(英 off)「下方へ」+ häng(英 hang)「垂れる」+ ig(英 y)「性質を表す形容詞を派生する接尾辞」+ keit(英 hood)「抽象名詞を派生する接尾辞」+ s(英 s)「語をつなぐ接合辞(本来は所有を表す)」+ er 「獲得・創造を意味する動詞を派生する接頭辞」+ klär(英 clear)+ ung(英 ing)「抽象名詞を派生する接尾辞」から成っています。「独立」を「垂れ下がるような性質ではないこと」のように、「宣言」を「広く明確にすること」のように説明的に表現しています。これはちょうど日本のかつてローマ字主義者が作成した漢語のやまとことば化の提案(福永恭助・岩倉具実『口語辞典 Hanasikotoba o hiku Zibiki』森北出版 1951年)に従うと、「独立宣言」は「ひとりだち いいたて」のように説明的で長くなるのと平行的だと言うこともできるでしょう。
 上に述べたように母語による語彙形成(造語)という意識的な取り組みが際立っているドイツ語史から見ると、なぜ英語は母語の要素による語彙形成を放棄したのかが大変に気になってきます。ノルマン・コンケスト(1066年)のあとフランス語語彙が生活の基本部分に深く入ってきたことで、ゲルマン系言語としての英語のいわば自意識が弱まったことが大きな英語史上の原因であると推測しますが、きっとその後の英語史の展開においても相応の理由があって現在のような語彙の構造になっているものと思います。ちょうど12月10日(土)に日本歴史言語学会で、日中英独仏の5言語について「語彙の近代化」をめぐって言語史を対照するシンポジウムを開催します。そのときにこのあたりのお話を、われらが堀田先生から伺えればと思っています。




 Mark Twain の「英語からみるドイツ語の変なところ」,高田氏の「ドイツ語からみる英語の変なところ」,それぞれお互い様のようなところがあって,おもしろいですね.「日本語からみる諸外国語の変なところ」であれば,無数に指摘できそうです.言葉が異なるのだから変に決まっているという側面はもちろんありますが,言葉のたどってきた歴史がそれぞれ異なっていたからこそ余計に変なのだ,という側面もおおいにあると思います.変である理由を探れるというのも,対照言語史のおもしろさと可能性ではないでしょうか.
 最後の部分で私の名前を言及していただきましたが,12月10日(土)午後に編者3名を含む日中英独仏の5言語史の専門家5名が集まり,日本歴史言語学会にてシンポジウム「日中英独仏・対照言語史―語彙の近代化をめぐって」を開催します(学習院大学でハイブリッド開催予定.案内はこちらです).
 シンポジウムでは,本書で扱った言語標準化と関連させつつも,独立して議論できるテーマとして「語彙の近代化」が選ばれています.上で高田氏が指摘している英独語の語彙の「行き方」の違いについても,何かしら議論することになりそうです.この問題について,私自身もじっくり考えてみようと思います.

 以上,3日間にわたり編者による『言語の標準化を考える』の紹介文を掲載してきました.ぜひ本書を手に取っていただければ幸いです.

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2022-06-08 Wed

#4790. therethey に相当する中英語の it の用法 [personal_pronoun][expletive][syntax][agreement][me][french][german]

 中英語を読んでいると,it の用法が現代英語よりも広くて戸惑うことがある.例えば there is 構文のような存在文における there の代わりに it が用いられることがある(cf. フランス語 il y a, ドイツ語 es gibt). Mustanoja (132) から解説と例文を示そう.動詞が it ではなく意味上の主語に一致していることに注意.

In many instances it occurs in a pleonastic function carried out by there in Pres. E: --- of hise mouth it stod a stem, Als it were a sunnebem (Havelok 591); --- of þe erth it groues tres and gress (Cursor 545, Cotton MS); --- it es na land þat man kan neven ... þat he ne sal do þam to be soght (Cursor 22169, Cotton MS); --- bot it were a fre wymmon þat muche of love had fonde (Harley Lyr. xxxii 3); --- hit arn aboute on þis bench bot berdles chylder (Gaw. & GK 280); --- bot hit ar ladyes innoȝe (Gaw. & GK 1251).


 関連して「#1565. existential there の起源 (1)」 ([2013-08-09-1]),「#1566. existential there の起源 (2)」 ([2013-08-10-1]),「#4473. 存在文における形式上の主語と意味上の主語」 ([2021-07-26-1]) を参照.
 もう1つは,事実上 they に相当するような it の用法だ.こちらも Mustanoja (132--33) より解説と例を示そう.

Another aspect in the ME use of the formal it is seen in the following cases where it is virtually equivalent to 'they:' --- holi men hit were beiene (Lawman B 14811; cf. hali men heo weoren bæien, A); --- it ben aires of hevene alle þat ben crounede (PPl. C vi 59); --- thoo atte last aspyed y That pursevantes and heraudes ... Hyt weren alle (Ch. HF 1323). --- to þe gentyl Lomb hit arn anioynt (Pearl 895); --- hit arn fettled in on forme, þe forme and þe laste ... And als ... hit arn of on kynde (Patience 38--40); --- þei ... cownseld hyr to folwyn hyr mevynggys and hyr steringgys and trustly belevyn it weren of þe Holy Gost and of noon evyl spyryt (MKempe 3). This use goes back to OE. Cf. also German es sind ... and French ce sont ...


 いずれもフランス語やドイツ語に類似した構文が見られるなど興味深い.中英語の構文は,フランス語からの言語接触という可能性はあり得るが,むしろ統語論的な要請に基づくものではないかと睨んでいる.どうだろうか.

 ・ Mustanoja, T. F. A Middle English Syntax. Helsinki: Société Néophilologique, 1960.

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2021-06-30 Wed

#4447. 英語史であまり目立たないドイツ語 [german][germanic][borrowing][loan_word]

 英語史において高地ドイツ語 (german) が登場する機会は非常に少ない.これは,ある意味では驚くべきことかもしれない.英語もドイツ語も同じゲルマン語派に属する姉妹言語だし,地理的にもイギリスとドイツはさほど隔たっているわけでもないのだから,もっと歴史的な交流があったとしもおかしくないのではないか,という疑問は理解できる.
 しかし,英語史においてドイツ語との接触が話題となってくるのは,せいぜい近代に入ってからのことである.英語とドイツ語の間には,確かにゲルマン語派の仲間としての「系統関係」こそあれ,「影響関係」は薄かったといってよい.(系統と影響の区別および GermanGermanic の区別の重要性については「#369. 言語における系統影響」 ([2010-05-01-1]),「#4380. 英語のルーツはラテン語でもドイツ語でもない」 ([2021-04-24-1]),「#4411. German と Germanic の違い --- ややこしすぎる言語名の問題」 ([2021-05-25-1]) を参照.)
 上記の事情で,本ブログでもドイツ語の存在感は薄く,「#2164. 英語史であまり目立たないドイツ語からの借用」 ([2015-03-31-1]),「#2621. ドイツ語の英語への本格的貢献は19世紀から」 ([2016-06-30-1]),「#150. アメリカ英語へのドイツ語の貢献」 ([2009-09-24-1]) などで取り上げてきた程度である.
 連日引用している Hendriks の論文のタイトルは "English in Contact: German and Dutch" であり,GermanDutch よりも先に立っているわけだが,High German の扱いは,1/3ページにも満たない1段落のみ,以下にすべてを引用してしまえる程度の分量である.(ただし,Hendriks (1660) も本論の最初に明言している通り,焦点は11世紀から17世紀までの言語接触であり,18世紀以降の近現代史は考慮から外していることに注意が必要である.)

4.3 Influence from High German
The 16th century is frequently noted as the starting point for lexical influence from High German (Serjeantson 1961: 179; Viereck 1993: 70; Nielsen 2005: 182). During this period, German miners were brought to England to develop the mineral resources industry; it has been suggested (Luu 2005: 31) that the necessary contacts required to recruit southern German miners were established in the late 15th/early 16th century in the commercial center of Antwerp. Some of the words having entered the language as a result of this connection are zinc, cobalt, shale, and quartz. Regarding German influence on English dialects, Wakelin (1977: 23) states: "There has been contact with Germany since the Middle Ages, but from the dialectal point of view it is not until the seventeenth century that there is much to note". Again, this is a reference to mineralogy. A detailed, OED-based study of High German lexical influence on English is Carr (1934). Briefly noting loans prior to 1600, the study focuses primarily on cultural loans in English from the 17th-19th centuries. The words identified are frequently technical scientific terms or are from other domains of influence such as religion, the military, philosophy and music.


 16世紀にドイツの鉱夫が鉱山技術を伝えるべくイングランドにやってきたということ,またそのための商業上の拠点がアントワープにできていたということは初めて知った.
 だが,いずれにせよ英語史においては,近代,実質的には後期近代を待たなければ,ドイツ語はまともに現われてこないといってよさそうだ.

 ・ Hendriks, Jennifer. "English in Contact: German and Dutch." Chapter 105 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1659--70.

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2021-05-25 Tue

#4411. GermanGermanic の違い --- ややこしすぎる言語名の問題 [onomastics][khelf_hel_intro_2021][sobokunagimon][german][germanic][comparative_linguistics][terminology][language_myth]

 英語にはややこしい民族名,国民名,言語名が多々あります.民族も国民も言語もたいてい複雑な固有の歴史を背負ってきているので,それを表わす語もややこしくなってしまうのは致し方のないことかもしれません.しかし,標題の2語はそれにしても誤解を招きやすい点では最右翼に位置づけられるペアといってよいでしょう.「#4380. 英語のルーツはラテン語でもドイツ語でもない」 ([2021-04-24-1]) で触れたような誤解が生まれるのも無理からぬことです.
 言語の呼称としての German は「ドイツ語」を指します.一方,Germanic は比較言語学的に再建された「ゲルマン(祖)語」 (= Proto-Germanic) を指します.形容詞としては,後者は「ゲルマン(祖)語の」あるいは,このゲルマン(祖)語から派生した一群の言語を指して「ゲルマン語派の」ほどを意味します.
 「英語史導入企画2021」より今日紹介するコンテンツは,まさにこの2語のややこしさに焦点を当てた,院生による「A Succinct Account of German and Germanicです.英語による音声コンテンツとなっています.
 英和辞典によると German は「ドイツ人,ドイツ語;ドイツの」ほど,Germanic は「ゲルマン(祖)語;ゲルマン系の,ドイツ的な」ほどとなりますが,すでにこの時点で分かりにくいですね.学習者用英英辞典 OALD8 によると,各々およそ次の通りでした.

German
   adjective:
      from or connected with Germany
   noun:
      1 [countable] a person from Germany
      2 [uncountable] the language of Germany, Austria and parts of Switzerland

Germanic
   adjective:
      1 connected with or considered typical of Germany or its people
      2 connected with the language family that includes German, English, Dutch and Swedish among others


 形容詞としては,"connected with Germany" が共通項となっていますし,やはり分かったような分からないような区別です.
 両語の区別を理解する上で参考になるのは各語の初出年です.German の初出は,名詞としては1387年より前,形容詞としては1536年で,そこそこ古いといえますが,Germanic はまず形容詞として1539年に初出し,「ゲルマン(祖)語」を意味する名詞としてはさらに遅く1718年のことです.つまり「ゲルマン(祖)語」の語義は,言語学用語としての後付けの語義だと分かります.
 後付けであればこそ,後発の強みを活かして誤解を招かない別の用語を選んでもらいたかったところです.いや,実のところ,比較言語学では「ゲルマン祖語」を指すのに Teutonic (cf. 英語 Dutch, ドイツ語 Deutsch) という別の用語を用いる慣習も古くはあったのです.それだけに,紛らわしい Germanic が結局のところ勝利し定着してしまったことは皮肉と言わざるを得ません.
 関連して「#3744. German の指示対象の歴史的変化と語源」 ([2019-07-28-1]) と「#864. 再建された言語の名前の問題」 ([2011-09-08-1]) もご一読ください.

(後記 2021/05/26(Wed):今回紹介した音声コンテンツの文章版が「'German' と 'Germanic' についての覚書」として後日公表されましたので,こちらも案内しておきます.)

Referrer (Inside): [2021-06-30-1]

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2021-04-24 Sat

#4380. 英語のルーツはラテン語でもドイツ語でもない [indo-european][language_family][language_myth][latin][german][germanic][comparative_linguistics][khelf_hel_intro_2021]

 新年度初めのイベントとして立ち上げた「英語史導入企画2021」では,日々学生から英語史に関するコンテンツがアップされてくる.昨日は院生による「英語 --- English --- とは」が公表された.英語のルーツが印欧祖語にさかのぼることを紹介する,まさに英語史導入コンテンツである.
 本ブログを訪れている読者の多くにとっては当前のことと思われるが,英語はゲルマン語派に属する1言語である.しかし,一般には英語がラテン語(イタリック語派の1言語)から生まれたとする誤った理解が蔓延しているのも事実である.ラテン語は近代以降すっかり衰退してきたとはいえ,一種の歴史用語として抜群の知名度を誇っており,同じ西洋の言語として英語と関連があるにちがいないと思われているからだろう.
 一方,少し英語史をかじると,英語にはラテン語からの借用語がやたら多いということも聞かされるので,両言語の語彙には共通のものが多い,すなわち共通のルーツをもつのだろう,という実はまったく論理的でない推論が幅を利かせることにもなりやすい.
 英語はゲルマン系の言語であるということを聞いたことがあると,もう1つ別の誤解も生じやすい.英語はドイツ語から生まれたという誤解だ.英語でドイツ語を表わす German とゲルマン語を表わす Germanic が同根であることも,この誤解に拍車をかける.
 本ブログの読者の多くにとって,上記のような誤解が蔓延していることは信じられないことにちがいない.では,そのような誤解を抱いている人を見つけたら,どのようにその誤解を解いてあげればよいのか.簡単なのは,上記コンテンツでも示してくれたように印欧語系統図を提示して説明することだ.
 しかし,誤解の持ち主から,そのような系統図は誰が何の根拠に基づいて作ったものなのかと逆質問されたら,どう答えればよいだろうか.これは実のところ学術的に相当な難問なのである.19世紀の比較言語学者たちが再建 (reconstruction) という手段に訴えて作ったものだ,と仮に答えることはできるだろう.しかし,再建形が正しいという根拠はどこにあるかという理論上の真剣な議論となると,もう普通の研究者の手には負えない.一種の学術上の信念に近いものでもあるからだ.であるならば,「英語のルーツは○○語でなくて△△語だ」という主張そのものも,存立基盤が危ういということにならないだろうか.突き詰めると,けっこう恐い問いなのだ.
 「英語史導入企画2021」のキャンペーン中だというのに,小難しい話しをしてしまった.むしろこちらの方に興味が湧いたという方は,以下の記事などをどうぞ.

 ・ 「#369. 言語における系統と影響」 ([2010-05-01-1])
 ・ 「#371. 系統と影響は必ずしも峻別できない」 ([2010-05-03-1])
 ・ 「#862. 再建形は実在したか否か (1)」 ([2011-09-06-1])
 ・ 「#863. 再建形は実在したか否か (2)」 ([2011-09-07-1])
 ・ 「#2308. 再建形は実在したか否か (3)」 ([2015-08-22-1])
 ・ 「#864. 再建された言語の名前の問題」 ([2011-09-08-1])
 ・ 「#2120. 再建形は虚数である」 ([2015-02-15-1])
 ・ 「#3146. 言語における「遺伝的関係」とは何か? (1)」 ([2017-12-07-1])
 ・ 「#3147. 言語における「遺伝的関係」とは何か? (2)」 ([2017-12-08-1])
 ・ 「#3148. 言語における「遺伝的関係」の基本単位は個体か種か?」 ([2017-12-09-1])
 ・ 「#3149. なぜ言語を遺伝的に分類するのか?」 ([2017-12-10-1])
 ・ 「#3020. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (1)」 ([2017-08-03-1])
 ・ 「#3021. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (2)」 ([2017-08-04-1])

Referrer (Inside): [2021-06-30-1] [2021-05-25-1]

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2021-02-04 Thu

#4301. 寝かせて熟成させた貯蔵ビール lager [german][suffix][agentive_suffix][etymology]

 昨日の記事「#4300. サッポロ LAGAR が発売されました」 ([2021-02-03-1]) で話題にした(lagar ならぬ)lager について.ラガー(ビール)は,醸造後にたいてい加熱殺菌し貯蔵タンクで熟成させたビールを指す.生ではなく「寝かせた」ビールというのがポイントである.
 語中の /ɡ/ の発音から示唆されるとおり,この語は本来の英単語ではなくドイツ語 Lager(bier) からの借用語である.OED によると,英語での初出は,複合語 lager beer としては1853年,単体の lager としては1855年となっている.
 ドイツ語 Lager は「貯蔵所」を意味する.これと語源的に関連するのは,英語本来語である lair (ねぐら,巣)である.古英語では leġer (寝場所,ベッド)の形態で文証される.
 すでに気づいたかもしれないが,これらの語根の意味は「寝る,横になる」である.現代英語でいえば lie (横たわる)に相当する.lie -- lay -- lain と唱えて覚えた方も多いと想像される,あの自動詞 lie である.ちなみに,対応する他動詞の活用は lay -- laid -- laid だった(cf. 「#3682. 自動詞 lie と他動詞 lay を混同したらダメ (1)」 ([2019-05-27-1]),「#3683. 自動詞 lie と他動詞 lay を混同したらダメ (2)」 ([2019-05-28-1])).
 というわけで,語源的にいえば lager beer はまさに「ねぐらで寝かせておいたビール」ということになる.
 ついでに,動詞 lie には「横たわる」と並んで,同形ながら別語源の「嘘をつく」もある.行為者接尾辞をつけると,前者は lier (横たわる人)で,後者は liar (嘘つき)となるのが,lager と *lagar の関係に似ていておもしろい.サッポロ LAGAR は「嘘から出た誠」のラガービール?

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2020-02-15 Sat

#3946. 古英語の接頭辞 ge- の化石的生き残り [prefix][sound_change][etymology][german]

 古英語の語彙には,ge- という接頭辞がやたらと付加している.様々な品詞にまたがって ge- で始まる単語があまりに多いので,典型的な古英語辞書ではそのような語は g の項目には配置されず,ge- に続く語幹部分の頭文字の文字によって配置されるほどだ.現代ドイツ語の ge- /ɡe/ に相当するゲルマン系の古い接頭辞だが,古英語では /ɡe/ ではなく軟音化した /je/ として発音された.現代の初級古英語校訂本では,軟音の <g> を明示するために点を打って ġe- と表記されることも多い.
 この接頭辞は,古英語期までにすでに軟音化していたくらいだから,その後も弱化の一途を辿る運命であり,中英語には /je/ から /i/ 程度に弱化し,その後期ともなると広範囲で消失した.近代英語期には,接頭辞がそれとわかる形で残っている例は事実上皆無だったといってよいだろう.
 しかし,かつての ge- の痕跡が化石的に生き残っている単語も,実はちらほらと残っている.たとえば enough の語頭の <e> がそれである.古英語の genoh が,音形上ずいぶん薄められながらも,現代まで生き延びてきた例である.
 ほかに afford, alike, aware などの語頭の a- も,古英語の接頭辞 ge- に遡る.各々の古英語形は geforþian, gelīc, gewær である.
 また,古語といってよいが yclept (?と呼ばれる,?という名前の)という語の語頭の <y> もある.これは,古英語で「呼ぶ」を意味する clipian/cleopian という動詞の過去分詞形に由来する(ex. a giant yclept Barbarossa (赤ひげと呼ばれる巨人)).同じ過去分詞形の例としては,やはり古語だが yclad (= clothed) もある.これらは古英語の動詞の過去分詞に一般的に付加された接頭辞 ge- が生き残った,限りなく稀な例といってよい.
 この古英語接頭辞については,「#150. アメリカ英語へのドイツ語の貢献」 ([2009-09-24-1]),「#1253. 古ノルド語の影響があり得る言語項目」 ([2012-10-01-1]),「#1710. of yore」 ([2014-01-01-1]),「#3432. イギリス議会の起源ともいうべきアングロ・サクソンの witenagemot」 ([2018-09-19-1]) の各記事でも触れているので一読を.

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2020-01-03 Fri

#3903. ゲルマン名の atheling, edelweiss, Heidi, Alice [anglo-saxon][oe][onomastics][personal_name][etymology][german][patronymy]

 昨日の記事「#3902. 純アングロサクソン名の Edward, Edgar, Edmond, Edwin」 ([2020-01-02-1]) に引き続き,人名の話題.以下,主として梅田 (13) より.
 標題の単語や人名はいずれも語源素として「高貴な」を意味する WGmc *aþilja にさかのぼる.その古英語の反映形 æþel(e) (高貴な)は重要な語であり,これに父称 (patronymy) を作る接尾辞 -ing を付した æþeling は,現在でも atheling (王子,貴族)として残っている.
 æþel は,アングロサクソン王朝の諸王の名前にも多く確認される.「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) を一瞥するだけでも,Ethelwulf, Ethelbald, Ethelbert, Ethelred, Athelstan などの名前が挙がる.しかし,昨日の記事でも述べたように,ノルマン征服後,これらの名前は衰退していき,現代では見る影もない.
 ところで,ドイツ語で「高貴な」に対応する語は edel であり,「貴族」は Adel である.edelweiss (エーデルワイス)は「高貴なる白」を意味するアルプスの植物だ.形容詞に名詞化語尾をつけた形態が Adelheid であり,古高地ドイツ語の Adalheidis にさかのぼる.これは女性名ともなり,その省略された愛称形が Heidi となる.アニメの名作『アルプスの少女ハイジ』で,厳しい執事のロッテンマイヤーさんは,ハイジのことを省略せずにアーデルハイドと呼んでいる.なお,オーストラリアの South Australia 州の州都 Adelaide は,このドイツ語名がフランス語経由で英語に取り込まれたものである.
 一方,Adalheidis は,フランス語に取り込まれるに及び,短縮・変形したバージョンも現われた.AlalizA(a)liz である.これが中英語に借用されて Alyse や,近現代の Alice となった.もう1つの女性名 Alison は,フランス語で Alice に指小辞が付されたものである.
 「王子」「エーデルワイス」「ハイジ」「アリス」が関係者だったというのは,なかなかおもしろい.

 ・ 梅田 修 『英語の語源事典』 大修館書店,1990年.

Referrer (Inside): [2021-05-12-1]

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2019-10-13 Sun

#3821. Old Saxon からの借用語 [loan_word][borrowing][lexicology][old_saxon][germanic][dutch][flemish][german]

 英語史において,英語と同じ西ゲルマン語群の姉妹言語である Old Saxon の存在感は薄い.しかし,ゼロではない.昨日の記事「#3819. アルフレッド大王によるイングランドの学問衰退の嘆き」 ([2019-10-11-1]) で触れた,アルフレッド大王の教育改革に際して,John という名の古サクソン人が補佐を務めていたという記録がある.また,Genesis B として知られる古英詩には,9世紀の Old Saxon から翻訳された1節が含まれていることも知られている.
 Genesis B には,hearra (lord), sima (chain), landscipe (region), heodæg (today) を含む少数の Old Saxon に由来するとおぼしき語が確認される.いずれも後代に受け継がれなかったという点では,英語史上の意義は小さいといわざるを得ない.しかし,必要とあらばありとあらゆる単語を多言語から借りるという,後に発達する英語の雑食的な特徴が,古英語期にすでに現われていたということは銘記しておいてよい (Crystal 27) .
 一般に,英語史において「遺伝的」関係が近い西ゲルマン語群からの借用語は多くはない.遺伝的関係が近いのであれば,現実の言語接触も多かったはずではないかと想像されるが,そうでもない.たとえば,(高地)ドイツ語からの借用語は「#2164. 英語史であまり目立たないドイツ語からの借用」 ([2015-03-31-1]),「#2621. ドイツ語の英語への本格的貢献は19世紀から」 ([2016-06-30-1]) でみたように,全体としては目立たない.それなりの規模で英語に影響を与えたといえるのは,オランダ語やフラマン語くらいだろう.これらの低地諸語からの語彙的影響については,「#149. フラマン語と英語史」 ([2009-09-23-1]),「#2645. オランダ語から借用された馴染みのある英単語」 ([2016-07-24-1]),「#2646. オランダ借用語に関する統計」 ([2016-07-25-1]),「#3435. 英語史において低地諸語からの影響は過小評価されてきた」 ([2018-09-22-1]),「#3436. イングランドと低地帯との接触の歴史」 ([2018-09-23-1]) を参照されたい.

 ・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 3rd ed. Cambridge: CUP, 2019.

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2019-07-28 Sun

#3744. German の指示対象の歴史的変化と語源 [german][germanic][etymology][ethnic_group]

 昨日の記事「#3743. Celt の指示対象の歴史的変化」 ([2019-07-27-1]) に続き,今回は German という語の指示対象の変遷について.
 古代ローマ人は,中欧から北欧にかけて居住していたゲルマン系諸語を話す民族を Germānī (ゲルマニア人)と呼んでいた.そして,その対応する地域名が,現代の Germany (ドイツ)に連なる Germānia (ゲルマニア)だった.基本的には他称であり,自称として用いられたことはないようだ.
 英語でも後期中英語期に German がゲルマニア人を指す語としてフランス語を介して入ってきたが,近代の16世紀に入ると現代風にドイツ人を指すようになった.それ以前には,英語でドイツ人を指す名称としては AlmainDutch が一般的だった.
 German の語源については諸説ある.1つは,ゴール人が東方のゲルマニア人をケルト語で「隣人」と呼んだのではないかという説だ(cf. 古アイルランド語の gair (隣人)).もう1つは,同じくケルト語 gairm (叫び)に由来するという説もある.つまり「騒々しい民」ほどの蔑称だ.また,ゲルマン語で「貪欲な民」を意味する *Geramanniz (cf. OHG ger "greedy" + MAN) がラテン語へ借用されたものとする説もある.
 しかし,いずれの語源説も音韻上その他の難点があり,未詳といってよいだろう.

Referrer (Inside): [2021-05-25-1]

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2017-06-08 Thu

#2964. calling 「天職」 [reformation][german][bible][semantic_borrowing]

 英語の calling は,格式張ったレジスターで「天職,職業」を意味する.動詞 call の名詞形として,「呼ぶこと」の語義では初期中英語から文証されるが,「天職」の語義は16世紀前半のことである.OED によると,この語義 (8c) での初例は以下の通り.

c. A profession devoted to the service of God; an office or position within the church. Hence in extended use: any profession or way of life which a person feels called or destined to pursue.
. . . .
1544 R. Tracy Supplycacion to Kynge Henry VIII sig. Bviiiv, As the byshop is ignorante in Godes worde, so he admytteth suche as be vnlerned in Gods worde, evyn suche as by noo possybylite can execute the office of their callinge.


 「神による召喚」であるから,聖書と結びつけられている表現であることが予想される.実際,例えば KJV より 1 Cor. 7.20 に,"Let every man abide in the same calling wherein he was called." と見える.
 「神による召喚」から「天職」への意味変化は,英語の calling のみならず,ドイツ語 Beruf にも見られる.いや,正確にいえば,ドイツ語に発した意味変化が,対応する英語に及んだというべきである.つまり,一種の意味借用 (semantic_translation) だ.オランダ語 beroep,デンマーク語 kald,スウェーデン語 kallelse も同様である.
 ドイツ語をはじめとするゲルマン諸語での意味変化は,16世紀のルターによる宗教改革を抜きにしては考えられない.プロテスタンティズムという大きな社会運動とそれに伴う聖書翻訳こそが,この意味変化の駆動者である.マックス・ヴェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 (96--97) より,Beruf の語義について解説した箇所を引用しよう(訳書の傍点は太字で示してある).

さて,〔「職業」を意味する〕ドイツ語の「ベルーフ」》Beruf《というのうちに,また同じ意味合いをもつ英語の「コーリング」》calling《という語のうちにも一層明瞭に,ある宗教的な――神からあたえられた使命 (Aufgabe) という――観念がともにこめられており,個々の場合にこの語に力点をおけばおくほど,それが顕著になってくることは見落としえぬ事実だ.しかも,この語を歴史的にかつさまざまな文化国民の言語にわたって追究してみると,まず知りうるのは,カトリック教徒が優勢な諸民族にも,また古典古代の場合にも,われわれが〔世俗的な職業,すなわち〕生活上の地位,一定の労働領域という意味合いをこめて使っている》Beruf《「天職」という語と類似の語調をもつような表現を見出すことができないのに,プロテスタントの優勢な諸民族の場合にはかならずそれが存在する,ということだ.さらに知りうるのは,その場合何らか国語の民族的特性,たとえば「ゲルマン民族精神」の現われといったものが関与しているのではなくて,むしろこの語とそれがもつ現在の意味合いは聖書の翻訳に由来しており,それも原文の精神ではなく,翻訳者の精神に由来しているということだ.ルッターの聖書翻訳では,まず「ベン・シラの知恵」〔旧約聖書外典中の一書〕の一個所(一一章二〇,二一節)で現代とまったく同じ意味に用いられているように思われる.その後まもなくこの語は,あらゆるプロテスタント諸民族の世俗の用語のなかで現在の意味をもつようになっていったが,それ以前にはこれら諸民族の世俗的文献のどれにもこうした語義の萌芽はまったく認められないし,宗教的文献でも,われわれの知りうるかぎり,ドイツ神秘家の一人のほかにはそれを認めることができない.この神秘家がルッターにおよぼした影響は周知のとおりだ.


 大きな文化史的事件が,小さな語の意味変化を生じさせた顕著な例である.

 ・ マックス・ヴェーバー(著),大塚 久雄(訳) 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 岩波書店,1989年.

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2017-05-12 Fri

#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2) [reformation][printing][medium][history][religion][latin][german]

 [2017-05-02-1]の記事に引き続いての話題.この英語史上の問題に迫るには,先行するドイツ語史における情況を見ておくのが早い.というのは,宗教改革も印刷術もドイツにおいて始まったからだ.宗教改革者ルター (Martin Luther; 1483--1546) と,少々先立つ時代の活版印刷術の発明者グーテンベルク (Johannes Gutenberg; 1400?--68) の時代である.
 ルターのドイツ語訳聖書 (1521) が俗語ドイツ語の地位を高めた事実について,野々瀬 (35--36) の解説を引く.

ルター訳聖書は,ドイツ語史の中でも重要な位置を占めている.当時ドイツ語には,多様な方言が存在し,統一的な共通語はまだ形成されていなかった.ルターは,この翻訳に際して,技巧をこらした複雑な表現ではなく,話し言葉を多く採用した.〔中略〕彼は,官房で使われていた法律家風の言葉だけでなく,民衆の言い回しの中にある豊かな表現を選抜して,それを多用した.ルターの言葉は,突然生み出された新しいものではなく,当時生きていたドイツのすべての言語的な伝統の系譜を集約したような貯水槽であった.ルターは,誰にでもわかる言語形式で聖書の翻訳を試みたのである.このような翻訳に従事することによってルターは,聖書全体を民衆に役立たせようと格闘した.ルター訳聖書は,商品として市場で普通に売買され,一般家庭で読まれるための書物となった.以降ルターのドイツ語訳聖書は,ドイツ語を学ぶための民衆の教材として扱われ,近代ドイツ文学の源泉の一つとなり,国語としてのドイツ語の成立に寄与したことは間違いない.宗教改革運動が聖書の翻訳に加えて教会の典礼での俗語の使用を促進したので,結果としてそのことが,中世では支配的であったラテン語の使用範囲を著しく狭め,俗語の地位を高めることに繋がった.またルター訳聖書は,ティンダル訳や欽定訳などの英訳聖書にも重大な影響を与えたのである.


 ルター訳聖書は,俗語ドイツ語で書かれることによって,不動と思われていたラテン語の権威を脅かしたという点において,ドイツ語史上に大きな意義を有している.これを契機に,何世紀ものあいだカトリック教会の権威と結びつけられ,絶対的な地位を守り続けたラテン語の権威が,相対的に陰りはじめたのである.この影響はすぐに近隣国へも広がり,イングランドにおいても俗語たる英語への聖書翻訳が次々に企画され,実践されていくことになった.おりしも活版印刷はグーテンベルクの発明から半世紀を経て,軌道に乗り始め,宗教改革を支える強力な推進力となった.ドイツ語と同様,英語もラテン語に対抗しうるひとかどの言語として認識されるようになっていく.
 以上を野々瀬 (41) の言葉でまとめよう.

宗教改革運動が,万人司祭主義と聖書中心主義を掲げて,原典に依拠した俗語訳聖書を出版したことによって,民衆にとって聖書は直接触れることのできる身近な存在へと変貌した.聖書の解釈権も俗人に開放された.聖書は,すべての社会層の日常生活の中に浸透し,熱心に読まれ始めたのである.その結果宗教改革は,ヨーロッパの教会におけるラテン語の権威を低下させ,書き言葉としての俗語の地位を高め,標準語の形成に寄与した.グーテンベルクの活版印刷術の発明が,そのような動きを後押しした.


 ・ 野々瀬 浩司 「ドイツ宗教改革期における聖書と共同体」『聖書テクストと共同体』 慶應義塾大学文学部編,2017年,29--42頁.

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2016-07-14 Thu

#2635. ヨーロッパにおける迂言完了の地域言語学 (2) [perfect][syntax][wave_theory][linguistic_area][geolinguistics][geography][contact][grammaticalisation][preterite][french][german][tense][aspect]

 昨日の記事 ([2016-07-13-1]) で,ヨーロッパ西側の諸言語で共通して have による迂言的完了が見られるのは,もともとギリシア語で発生したパターンが,後にラテン語で模倣され,さらに後に諸言語へ地域的に拡散 (areal diffusion) していったからであるとする Drinka の説を紹介した.昨日の記事で (3) として触れた,もう1つの関連する主張がある.「フランス語やドイツ語などで,迂言形が完了の機能から過去の機能へと変化したのは,比較的最近の出来事であり,その波及の起源はパリのフランス語だった」という主張である.
 ここでは,まずパリのフランス語で迂言的完了が本来の完了の機能としてではなく過去の機能として用いられるようになったことが主張されている.Drinka (22--24) によれば,パリのフランス語では,すでに12世紀までに,過去機能としての用法が行なわれていたという.

It is here, then, in Parisian French, that I would claim the innovation actually began. In the 12th century, the OF periphrastic perfect generally had an anterior meaning, but a past sense was already evident in vernacular Parisian French in the 12th and 13th c., connected with more vivid and emphatic usage, similar to the historical present . . . . During the 16th c., perfects had already begun to emerge in French literature in their new function as pasts, and during the 17th and 18th centuries, the past meaning came to replace the anterior meaning completely in the language of the French petite bourgeoisie . . . .


 他のロマンス諸語や方言は遅れてこの流れに乗ったが,拡散の波は,語派の境界を越えてドイツ語にも広がった.特に文化・経済センターとして早くから発展したドイツ南部都市の Augsburg や Nürnberg では,15世紀から16世紀にかけて,完了が過去を急速に置き換えていった事実が指摘されている (Drinka 25) .フランスに近い Cologne や Trier などの西部都市では,12--14世紀というさらに早い段階で,完了が過去として用いられ出していたという証拠もある (Drinka 26) .
 もしこのシナリオが事実ならば,威信をもつ12世紀のパリのフランス語が,完了の過去機能としての用法を一種の流行として近隣の言語・方言へ伝播させていったということになろう.地域言語学 (areal linguistics) や地理言語学 (geolinguistics) の一級の話題となりうる.

 ・ Drinka, Bridget. "Areal Factors in the Development of the European Periphrastic Perfect." Word 54 (2003): 1--38.

Referrer (Inside): [2016-07-15-1]

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2016-06-30 Thu

#2621. ドイツ語の英語への本格的貢献は19世紀から [loan_word][borrowing][statistics][german]

 「#2164. 英語史であまり目立たないドイツ語からの借用」 ([2015-03-31-1]) で触れたように,ドイツ語の英語への語彙的影響は案外少ない.安井・久保田 (20) は次のように述べている.

ドイツ語が1824年に至るまで,英国人に,ほとんどまったくといってよいくらい,顧みられなかったのも,驚くべきことである.ドイツ語からの借用語は16世紀からあるにはあるが,フランス語,オランダ語,スカンジナヴィア語などよりの借用語に比べると,じつに少ないのである.20世紀に入ってからでも,英国人のドイツ語に関する知識は満足すべき段階に達していない.


 なお,引用中の1824年とは,Thomas Carlyle (1795--1881) が Göthe の Wilhelm Meister's Apprenticeship を翻訳出版した年である.
 OED3 により借用語を研究した Durkin (362) によると,19世紀より前にはドイツ借用語は目立っていなかったが,19世紀前半に一気に伸張したという.19世紀後半にはその勢いがピークに達し,20世紀前半に半減した後,20世紀後半にかけて下火となるに至る.  *
 ドイツ借用語は全体として専門用語が多く,それが一般に目立たない理由だろう.Durkin (361) は Pfeffer and Cannon の先行研究を参照しながら,ドイツ語借用の性質と時期について次のように要約している.

Pfeffer and Cannon provide a broad analysis of their data into subject areas; those with the highest numbers of items are (in descending order) mineralogy, chemistry, biology, geology, botany; only after these do we find two areas not belonging to the natural sciences: politics and music. The remaining areas that have more than a hundred items each (including semantic borrowings) are medicine, biochemistry, philosophy, psychology, the military, zoology, food, physics, and linguistics. Nearly all of these semantic areas reflect the importance of German as a language of culture and knowledge, especially in the latter part of the nineteenth century and early twentieth century.


 英語はゲルマン系 (Germanic) の言語であり,ドイツ語 (German) と「系統」関係にあるとは言えるが,上に見たように両言語は歴史的に(近現代に至ってすら)接触の機会が意外と乏しかったために,「影響」関係は僅少である.たまに「英語はドイツ語の影響を受けている」と言う人がいるが,これは系統関係と影響関係を取り違えているか,あるいは Germanic と German を同一視しているか,いずれにせよ誤解に基づいている.この誤解については「#369. 言語における系統影響」 ([2010-05-01-1]),「#1136. 異なる言語の間で類似した語がある場合」 ([2012-06-06-1]),「#1930. 系統と影響を考慮に入れた西インドヨーロッパ語族の関係図」 ([2014-08-09-1]) を参照.

 ・ 安井 稔・久保田 正人 『知っておきたい英語の歴史』 開拓社,2014年.
 ・ Durkin, Philip. Borrowed Words: A History of Loanwords in English. Oxford: OUP, 2014.

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2015-09-12 Sat

#2329. 中英語の借用元言語 [borrowing][loan_word][me][lexicology][contact][latin][french][greek][italian][spanish][portuguese][welsh][cornish][dutch][german][bilingualism]

 中英語の語彙借用といえば,まずフランス語が思い浮かび (「#1210. 中英語のフランス借用語の一覧」 ([2012-08-19-1])),次にラテン語が挙がる (「#120. 意外と多かった中英語期のラテン借用語」 ([2009-08-25-1]), 「#1211. 中英語のラテン借用語の一覧」 ([2012-08-20-1])) .その次に低地ゲルマン語,古ノルド語などの言語名が挙げられるが,フランス語,ラテン語の陰でそれほど著しくは感じられない.
 しかし,実際のところ,中英語は上記以外の多くの言語とも接触していた.確かにその他の言語からの借用語の数は多くはなかったし,ほとんどが直接ではなく,主としてフランス語を経由して間接的に入ってきた借用語である.しかし,多言語使用 (multilingualism) という用語を広い意味で取れば,中英語イングランド社会は確かに多言語使用社会だったといえるのである.中英語における借用元言語を一覧すると,次のようになる (Crespo (28) の表を再掲) .

LANGUAGESDirect IntroductionIndirect Introduction
Latin--- 
French--- 
Scandinavian--- 
Low German--- 
High German--- 
Italian through French
Spanish through French
Irish--- 
Scottish Gaelic--- 
Welsh--- 
Cornish--- 
Other Celtic languages in Europe through French
Portuguese through French
Arabic through French and Spanish
Persian through French, Greek and Latin
Turkish through French
Hebrew through French and Latin
Greek through French by way of Latin


 「#392. antidisestablishmentarianism にみる英語のロマンス語化」 ([2010-05-24-1]) で引用した通り,"French acted as the Trojan horse of Latinity in English" という謂いは事実だが,フランス語は中英語期には,ラテン語のみならず,もっとずっと多くの言語からの借用の「窓口」として機能してきたのである.
 関連して,「#114. 初期近代英語の借用語の起源と割合」 ([2009-08-19-1]),「#516. 直接のギリシア語借用は15世紀から」 ([2010-09-25-1]),「#2164. 英語史であまり目立たないドイツ語からの借用」 ([2015-03-31-1]) も参照.

 ・ Crespo, Begoña. "Historical Background of Multilingualism and Its Impact." Multilingualism in Later Medieval Britain. Ed. D. A. Trotter. Cambridge: D. S. Brewer, 2000. 23--35.

Referrer (Inside): [2015-10-22-1]

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2015-03-31 Tue

#2164. 英語史であまり目立たないドイツ語からの借用 [oed][loan_word][german][lexicology][statistics][lmode][loan_translation][scientific_english]

 ヨーロッパの主要な言語のなかで,ドイツ語は英語の借用語ソースとして意外と目立たない.歴史的にある程度の規模でドイツ借用語が現われるのは後期近代英語からであり,それ以前は僅少である.英語もドイツ語もゲルマン語派 (Germanic) に属し共通の起源をもつということが広く知られている割には,両言語間で借用という横の関係は希薄である.
 英語にドイツ語の語彙的影響が著しくないことは Jespersen (143) や荒木ほか (258) などの英語史概説書でも触れられている通りだが,ドイツ語借用が少ないとはいってもフランス語やラテン語と比べての話しであって,実際にはある程度の数は主として専門用語として入ってきている.近年においても然りのようだ (Algeo 80; 「#874. 現代英語の新語におけるソース言語の分布」 ([2011-09-18-1])) .「#2162. OED によるフランス語・ラテン語からの借用語の推移」 ([2015-03-29-1]) で紹介した Wordorigins.org"Where Do English Words Come From?" でも,次のように述べられている.

Other European languages remain steady, contributing 3--4% of new words throughout the centuries. The exception is German, which starting in the eighteenth century begins to increase its contribution to English vocabulary, reaching 3% of new words all by itself, and nosing ahead of French by the twentieth century.


 上の同じ記事より入手した OED に基づく語種別統計でドイツ借用語の歴史的推移をグラフ化すると,以下のようになる.

Historical Influx of German Loanwords by OED


 宇賀治 (115--17) によれば,ドイツは16世紀に鉱山術や冶金術に長けていたので,その影響が17--18世紀における英語語彙に反映されている(グラフでの若干の高まりも16世紀からである).17世紀以降は食品名の借用も多い.また,ドイツは19世紀に哲学や医学を含む諸学問で飛躍的な発展を遂げたため,専門的な用語や概念が英語へも流れ込んだ(グラフ上も19世紀にピークを迎える).通常の借用のほか,翻訳借用 (loan_translation) が多いのもドイツ語からの借用の特徴といえるかもしれない.以下,分野別にドイツ借用語(翻訳借用も含む)を列挙しよう.

[鉱山・冶金]
cobalt, gneiss, meerschaum, quartz, zinc

[哲学・文芸批評]
folksong, gestalt, leitmotif, nihilism, objective, subjective, superman, transcendental, zeitgeist

[比較言語学]
ablaut, schwa, strong [weak] (declension), Umlaut

[教育制度]
kindergarten, semester, seminar

[物理学・化学]
aniline, dynamo, ohm, protein, relativity, saccharine, sarin, uranium

[医学・薬学]
aspirin, heroin, pepsin, Roentgen-ray [X-ray]

[食品]
delicatessen, frankfurter, hamburger, lager, noodle, pumpernickel, sauerkraut, schnitzel

 ドイツ借用語について紙幅を割いている英語史概説書は多くないが,Carr, Charles T. The German Influence on the English Vocabulary. London: Clarendon, 1934. という研究書があるようである.
 関連して,「#150. アメリカ英語へのドイツ語の貢献」 ([2009-09-24-1]),「#756. 世界からの借用語」 ([2011-05-23-1]) も参照されたい.

(後記 2015/09/06(Sun):Begoña Crespo ("Historical Background of Multilingualism and Its Impact." Multilingualism in Later Medieval Britan. Ed. D. A. Trotter. Cambridge: D. S. Brewer, 2000. p. 29.) によれば,すでに中英語期の15世紀にも,高地ドイツ語からの鉱物学に関する用語がある程度入っていたという.)

 ・ Jespersen, Otto. Growth and Structure of the English Language. 10th ed. Chicago: U of Chicago, 1982.
 ・ 荒木 一雄,宇賀治 正朋 『英語史IIIA』 英語学大系第10巻,大修館書店,1984年.
 ・ Algeo, John. "Vocabulary." The Cambridge History of the English Language. Vol. 4. Cambridge: CUP, 1998. 57--91.

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2015-02-24 Tue

#2129. ドイツ語史における final e の問題 [final_e][ilame][orthography][spelling][prescriptive_grammar][german][hypercorrection]

 英語史における final_e の問題は,発音においても綴字においても重要な問題である.後期古英語から初期中英語にかけて著しく進行した屈折語尾の水平化 (levelling of inflection) の諸症状のうち,final e の消失は後の英語の歴史に最も広範な影響を及ぼしたといってよいだろう.これにより,古英語からの名詞,形容詞,動詞などの屈折体系は大打撃を受け,英語は統語論を巻き込む形で形態論を再編成することとなった.特に形容詞の -e 語尾の問題については,ilame の各記事で扱ってきた.
 後期中英語までには,概ね final e は音声的に無音となっていたと考えられるが,綴字上は保持されたり復活したりすることも多く,規範的な機能を獲得しつつあった.Chaucer の諸写本では,格式が高いものほど final e がよく保たれているなどの事実が確認されており,当時 final e のもつ保守性と規範性が意識されていたことがうかがえる.初期中英語までは屈折語尾として言語的機能を有していた final e が,後期中英語以降になるに及んで社会言語学的・文体的機能を担うようになってきたのである.さらに近代英語期に入ると正書法への関心が高まり,綴字上の final e の保存の規則についての議論もかまびすしくなった.
 final e の社会化とも呼べそうな上記の英語史上の現象は,興味深いことに,近代ドイツ語にも類例がみられる.高田 (113) によれば,ドイツ語における final e の音声上の消失は,15世紀末に拡大し,16世紀前半に普及したという (ex. im Lande > im Land) .これは,英語よりも数世紀ほど遅い.また,17世紀に e が綴字の上で意図的に復活した様子が,ルター聖書諸版や印刷物の言語的修正から,また文法書にみられる規範的なコメントからも知られる.17世紀中葉までには,e の付加が規範的となっていたようだ.
 おもしろいのは,テキストによるが,男性・中世名詞の単数与格の eaus dem windein ihrem hause などのように復活したばかりではなく,人称代名詞や指示代名詞の与格の ezu ihmesieder deme のように復活していたり,-ung, -in, -nis の女性接尾辞にも e が付加されて Zuredunge, nachbarinne, gefengnisse のように現われることだ.これらの e は16世紀以降に一般には復活せず,17世紀の文法書でも誤りとされていたのである(高田,p. 114).一種の過剰修正 (hypercorrection) の例といえる.
 英語史で final e が問題となるのは,方言にもよるが初期中英語から初期近代英語といってよく,英語史研究者にとっては長々と頭痛の種であり続けてきた.ドイツ語史では問題の開始も遅く,それほど長く続いたものではなかったようだが,正書法などの言語的規範を巻き込んでの問題となった点で,両現象は比較される.屈折語尾の水平化というゲルマン諸語の宿命的な現象に起因する final e の問題は,歴史時代の話題ではあるが,ある意味で比較言語学のテーマとなり得るのではないだろうか

 ・ 高田 博行 「ドイツの魔女裁判尋問調書(1649年)に記されたことば」『歴史語用論の世界 文法化・待遇表現・発話行為』(金水 敏・高田 博行・椎名 美智(編)),ひつじ書房,2014年.105--32頁.

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2015-02-02 Mon

#2107. ドイツ語の T/V distinction の略史 [german][politeness][euphemism][t/v_distinction][personal_pronoun][historical_pragmatics][honorific][face][iconicity][solidarity]

 英語史における2人称代名詞に関する語用論的問題,いわゆる T/V distinction の発達と衰退の問題は,t/v_distinction のいくつかの記事で取り上げてきた.今回は,高田に拠ってドイツ語の T/V distinction の盛衰の歴史を垣間見たい.
 ドイツ語史は,T/V distinction について回る「敬意逓減の法則」の好例を提供してくれる.現代ドイツ語の du/Sie の2分法は,紆余曲折の歴史を経て落ち着いた結果としての2分法であり,ここに至るまでには,とりわけ近代期には複雑な段階を経験してきた.17--18世紀には,人々は相手を指すのにどの表現を使えばよいのか思い悩み,数々の2人称代名詞に「踊らされる」時代が続いていた.社会語用論的に不安定な時代と呼んでよいだろう.以下は,高田 (145) のまとめた「ひとりの相手に対するドイツ語呼称代名詞の史的発達」の表である(少々改変済み).上段にある代名詞ほど,相手の社会的身分が高い,あるいは自分と疎遠な関係にあることを示す.

T/V Distinction in the History of German

 この表は,ドイツ語史において2人称単数代名詞の敬称がいかに次々と生み出されてきたかを雄弁に物語っている.ゲルマン語の段階では,古英語などと同様に,2人称単数代名詞としてはT系統の形態が1つあるにすぎなかった.古英語の þū に対応する du である.この時代には王に対しても召使いに対しても対等に du のみが用いられていた.
 9世紀後半になると,2人称複数代名詞であった Ihr が敬意を表す単数として用いられ始めた.これ自体は,「#1126. ヨーロッパの主要言語における T/V distinction の起源」 ([2012-05-27-1]) や「#1552. T/V distinction と face」 ([2013-07-27-1]) で触れたように,英語史やフランス語史にもみられた現象であり,しばしば権力と複数性との写像性 (iconicity) により説明される.ただし,ドイツ語史では英語史に比べてかなり早くにこの用法が現われたことは注目すべきである.こうして9世紀後半に始まった du/Ihr の2分法は,11世紀までには普及し,社会的な権力や地位,すなわち power というパラメータを軸に16世紀まで存続した.
 16世紀になると長期にわたって安定していた du/Ihr の2分法が崩れ始めた.Ihr の敬意が逓減し,社会的な地位の高くない人にまで使われるようになった.その代替手段として der Herr, die Frau といった人物名称が用いられ始めたが,繰り返し使われるにつれて,これらの名詞句を受ける3人称単数代名詞 ersie それ自体も呼称として用いられるようになった.ここに至って,新たな Er/Sie, Ihr, du の3段階システムができあがった.
 18世紀に入ると,ドイツ語の呼称代名詞は「迷路」に迷い込んだ.その頃までには,高位の人に冠する称号として Eure Majestät (陛下)や Eure Ehre (閣下)や Eure Gnaden (閣下)のように,「威厳」「名誉」「恩寵」などの抽象名詞(たいてい女性名詞)を付す呼称が発達していた.これらの女性抽象名詞を前方照応する形で,3人称女性代名詞 sie が用いられていたが,これはたまたま3人称複数代名詞と同音だったために,後者にも敬称の機能が移った.ここに至って,Sie, Er/Sie, Ihr, du の4段階システムが成った.
 18世紀後半には,4段階システムにおける最上位の Sie ですら敬意逓減の餌食となり,指示代名詞の複数形 Dieselben が新たな最上位の敬称として生み出され,5段階システムを形成した.ただし,Dieselben は前方の名詞と照応する形でしか用いられなかったし,書き言葉に限定されていたために,一般化することはなかった.
 だが,世紀の変わり目に向けて,呼称代名詞をめぐる社会語用論の混乱は収束に向かう.最も古く,最も低位の du に「友情崇拝」 (Freundschaftskult) という社会的な価値が付され,積極的に評価されるようになってきたのだ.du に positive politeness の機能が付されるようになったといってもよいし,社会的階級あるいは power に基づく呼称体系から人間関係あるいは solidarity に基づく呼称体系へと移行したとみることもできる (cf. 「#1059. 権力重視から仲間意識重視へ推移してきた T/V distinction」 ([2012-03-21-1])).19世紀以降,du の役割の相対的な上昇と,細かな上位区分の解消により,現在あるような du/Sie の2分法へと落ち着いてゆき,ドイツ語は近代の社会語用論的な迷路から脱出することに成功した.
 ドイツ語史の関連する話題としては「#185. 英語史とドイツ語史における T/V distinction」 ([2009-10-29-1]) と「#1865. 神に対して thou を用いるのはなぜか」 ([2014-06-05-1]) でも触れているので,そちらも参照されたい.

 ・ 高田 博行 「敬称の笛に踊らされる熊たち 18世紀のドイツ語古称代名詞」『歴史語用論入門 過去のコミュニケーションを復元する』(高田 博行・椎名 美智・小野寺 典子(編著)),大修館,2011年.143--62頁.

Referrer (Inside): [2017-10-21-1]

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2014-07-06 Sun

#1896. 日本語に入った西洋語 [loan_word][borrowing][japanese][lexicology][borrowing][portuguese][spanish][dutch][italian][russian][german][french]

 日本語に西洋語が初めて持ち込まれたのは,16世紀半ばである.「#1879. 日本語におけるローマ字の歴史」 ([2014-06-19-1]) でも触れたように,ポルトガル人の渡来が契機だった.キリスト教用語とともに一般的な用語ももたらされたが,前者は後に禁教となったこともあって定着しなかった.後者では,アルヘイトウ(有平糖)(alfeloa) ,カステラ (Castella),カッパ (capa),カボチャ(南瓜,Cambodia),カルサン(軽袗,calsãn),カルタ (carta),コンペイトウ(金平糖,confeitos),サラサ(更紗,saraça),ザボン (zamboa),シャボン (sabão),ジバン(襦袢,gibão),タバコ(煙草,tabaco),チャルメラ (charamela),トタン (tutanaga),パン (pão),ビイドロ (vidro),ビスカット(ビスケット,biscoito),ビロード (veludo),フラスコ (frasco),ブランコ (blanço),ボオロ (bolo),ボタン (botão) などが残った.16世紀末にはスペイン語も入ってきたが,定着したものはメリヤス (medias) ぐらいだった.
 近世中期に蘭学が起こると,オランダ語の借用語が流れ込んでくる.自然科学の語彙が多く,後に軍事関係の語彙も入った.まず,医学・薬学では,エーテル (ether),エキス (extract),オブラート (oblaat),カルシウム (calcium),カンフル (kamfer, kampher),コレラ (cholera),ジギタリス (digitalis),スポイト (spuit),ペスト (pest),メス (mes),モルヒネ (morphine).科学・物理・天文では,アルカリ (alkali),アルコール (alcohol),エレキテル (electriciteit),コンパス (kompas),ソーダ (soda),テレスコープ (telescoop),ピント (brandpunt),レンズ (lenz).生活関係では,オルゴール (orgel),ギヤマン (diamant),コーヒ (koffij),コック (kok),コップ(kop; cf. 「#1027. コップとカップ」 ([2012-02-18-1])),ゴム (gom),シロップ (siroop),スコップ (schop),ズック (doek),ソップ(スープ,soep),チョッキ (jak),ビール (bier),ブリキ (blik),ペン (pen),ペンキ (pek), ポンプ (pomp),ホック (hoek),ホップ (hop),ランプ (lamp).軍事関係では,サーベル (sabel),ピストル (pistool),ランドセル (ransel).
 明治時代には西洋語のなかでは英語が優勢となってくるが,明治初期にはいまだ「コップ」「ドクトル」などオランダ借用語の使用が幅を利かせていた.しかし,大正中期以降は英語系が大半を占めるようになり,オランダ風の「ソップ」が英語風の「スープ」へ置換されたように,発音も英語風へと統一されてくる.英語以外の西洋語としては,大正から昭和にかけてドイツ語(主に医学,登山,哲学関係),フランス語(主に芸術,服飾,料理関係),イタリア語(主に音楽関係),ロシア語も見られるようになった.それぞれの例を挙げてみよう.

 ・ ドイツ語:ノイローゼ(Neurose),カルテ(Karte),ガーゼ(Gaze),カプセル(Kapsel),ワクチン(Vakzin),イデオロギー(Ideologie),ゼミナール(Seminar),テーマ(Thema),テーゼ(These),リュックサック(Rucksack),ザイル(Seil),ヒュッテ(Hütte),オブラート (Oblate), クレオソート (Kreosot).
 ・ フランス語:デッサン(dessin),コンクール(concours),シャンソン(chanson),ロマン(roman),エスプリ(esprit),ジャンル(genre),アトリエ(atelier),クレヨン(crayon),ルージュ(rouge),ネグリジェ(néglige),オムレツ(omelette),コニャック(cognac),シャンパン(champagne),マヨネーズ(mayonnaise)
 ・ イタリア語:オペラ(opera),ソナタ(sonata),テンポ(tempo),フィナーレ(finale),マカロニ(macaroni),スパゲッティ(spaghetti)
 ・ ロシア語:ウォッカ(vodka),カンパ(kampaniya),ペチカ(pechka),ノルマ(norma)

 今日,西洋語の8割が英語系であり,借用の対象となる英語の変種としては太平洋戦争をはさんで英から米へと切り替わった.
 以上,佐藤 (179--80, 185--86) および加藤他 (74) を参照して執筆した.関連して,「#1645. 現代日本語の語種分布」 ([2013-10-28-1]),「#1526. 英語と日本語の語彙史対照表」 ([2013-07-01-1]),「#1067. 初期近代英語と現代日本語の語彙借用」 ([2012-03-29-1]) の記事も参照されたい.

 ・ 佐藤 武義 編著 『概説 日本語の歴史』 朝倉書店,1995年.
 ・ 加藤 彰彦,佐治 圭三,森田 良行 編 『日本語概説』 おうふう,1989年.

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2013-07-07 Sun

#1532. 波状理論語彙拡散含意尺度 (1) [wave_theory][lexical_diffusion][implicational_scale][dialectology][german][geography][isogloss][consonant][neogrammarian][sgcs][germanic]

 「#1506. The Rhenish fan」 ([2013-06-11-1]) の記事で,高地ドイツ語と低地ドイツ語を分ける等語線が,語によって互いに一致しない事実を確認した.この事実を説明するには,青年文法学派 (Neogrammarians) による音韻法則の一律の適用を前提とするのではなく,むしろ波状理論 (wave_theory) を前提として,語ごとに拡大してゆく地理領域が異なるものとみなす必要がある.
 いま The Rhenish fan を北から南へと直線上に縦断する一連の異なる方言地域を順に1--7と名付けよう.この方言群を縦軸に取り,その変異を考慮したい子音を含む6語 (ich, machen, dorf, das, apfel, pfund) を横軸に取る.すると,Second Germanic Consonant Shift ([2010-06-06-1]) の効果について,以下のような階段状の分布を得ることができる(Romain, p. 138 の "Isoglosses between Low and High German consonant shift: /p t k/ → /(p)f s x/" より).

Isoglosses between Low and High German Consonant Shift

  方言1では SGCS の効果はゼロだが,方言2では ich に関してのみ効果が現われている.方言3では machen に効果が及び,方言4では dorf にも及ぶ.順に続いてゆき,最後の方言7にいたって,6語すべてが子音変化を経たことになる.1--7が地理的に直線上に連続する方言であることを思い出せば,この表は,言語変化が波状に拡大してゆく様子,すなわち波状理論を表わすものであることは明らかだろう.
 さて,次に1--7を直線上に隣接する方言を表わすものではなく,ある1地点における時系列を表わすものとして解釈しよう.その地点において,時点1においては SGCS の効果はいまだ現われていないが,時点2においては ich に関して効果が現われている.時点3,時点4において machen, dorf がそれぞれ変化を経て,順次,時点7の pfund まで続き,その時点にいたってようやくすべての語において SGCS が完了する.この解釈をとれば,上の表は,時間とともに SGCS が語彙を縫うようにして進行する語彙拡散 (lexical diffusion) を表わすものであることは明らかだろう.
 縦軸の1--7というラベルは,地理的に直線上に並ぶ方言を示すものととらえることもできれば,時間を示すものととらえることもできる.前者は波状理論を,後者は語彙拡散を表わし,言語変化論における両理論の関係がよく理解されるのではないか.
 さらに,この表は言語変化に伴う含意尺度 (implicational scale) を示唆している点でも有意義である.6語のうちある語が SGCS をすでに経ているとわかっているのであれば,その方言あるいはその時点において,その語より左側にあるすべての語も SGCS を経ているはずである.このことは右側の語は左側の語を含意すると表現できる.言語変化の順序という通時的な次元と,どの語が SGCS の効果を示すかが予測可能であるという共時的な次元とが,みごとに融和している.
 音韻変化と implicational scale については,「#841. yod-dropping」 ([2011-08-16-1]) も参照.

 ・ Romain, Suzanne. Language in Society: An Introduction to Sociolinguistics. 2nd ed. Oxford: OUP, 2000.

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