英語史の授業で英語が経てきた言語変化を概説すると,「言語はどんどん便利な方向へ変化してきている」という反応を示す学生がことのほか多い.これは,「#432. 言語変化に対する三つの考え方」 ([2010-07-03-1]) の (2) に挙げた「言語変化はより効率的な状態への緩慢な進歩である」と同じものであり,言語進歩観とでも呼ぶべきものかもしれない.しかし,その記事でも述べたとおり,言語変化は進歩でも堕落でもないというのが現代の言語学者の大方の見解である.ところが,かつては,著名な言語学者のなかにも,言語進歩観を公然と唱える者がいた.デンマークの英語学者 Otto Jespersen (1860--1943) もその1人である.
. . . in all those instances in which we are able to examine the history of any language for a sufficient length of time, we find that languages have a progressive tendency. But if languages progress towards greater perfection, it is not in a bee-line, nor are all the changes we witness to be considered steps in the right direction. The only thing I maintain is that the sum total of these changes, when we compare a remote period with the present time, shows a surplus of progressive over retrogressive or indifferent changes, so that the structure of modern languages is nearer perfection than that of ancient languages, if we take them as wholes instead of picking out at random some one or other more or less significant detail. And of course it must not be imagined that progress has been achieved through deliberate acts of men conscious that they were improving their mother-tongue. On the contrary, many a step in advance has at first been a slip or even a blunder, and, as in other fields of human activity, good results have only been won after a good deal of bungling and 'muddling along.' (326)
. . . we cannot be blind to the fact that modern languages as wholes are more practical than ancient ones, and that the latter present so many more anomalies and irregularities than our present-day languages that we may feel inclined, if not to apply to them Shakespeare's line, "Misshapen chaos of well-seeming forms," yet to think that the development has been from something nearer chaos to something nearer kosmos. (366)
Jespersen がどのようにして言語進歩観をもつに至ったのか.ムーナン (84--85) は,Jespersen が1928年に Novial という補助言語を作り出した背景を分析し,次のように評している(Novial については「#958. 19世紀後半から続々と出現した人工言語」 ([2011-12-11-1]) を参照).
彼がそこへたどり着いたのはほかの人の場合よりもいっそう、彼の論理好みのせいであり、また、彼のなかにもっとも古くから、もっとも深く根をおろしていた理論の一つのせいであった。その理論というのは、相互理解の効率を形態の経済性と比較してみればよい、という考えかたである。それにつづくのは、平均的には、任意の一言語についてみてもありとあらゆる言語についてみても、この点から見ると、正の向きの変化の総和が不の向きの総和より勝っているものだ、という考えかたである――そして彼は、もっとも普遍的に確認されていると称するそのような「進歩」の例として次のようなものを列挙している。すなわち、音楽的アクセントが次第に単純化すること、記号表現部〔能記〕の短縮、分析的つまり非屈折的構造の発達、統辞の自由化、アナロジーによる形態の規則化、語の具体的な色彩感を犠牲にした正確性と抽象性の増大である。(『言語の進歩、特に英語を照合して』) マルティネがみごとに見てとったことだが、今日のわれわれにはこの著者のなかにあるユートピア志向のしるしとも見えそうなこの特徴が、実は反対に、ドイツの比較文法によって広められていた神話に対する当時としては力いっぱいの戦いだったのだと考えて見ると、実に具体的に納得がいく。戦いの相手というのは、諸言語の完全な黄金時期はきまってそれらの前史時代の頂点に位置しており、それらの歴史はつねに形態と構造の頽廃史である、という神話だ。(「語の研究」)
つまり,Jespersen は,当時(そして少なからず現在も)はやっていた「言語変化は完全な状態からの緩慢な堕落である」とする言語堕落観に対抗して,言語進歩観を打ち出したということになる.言語学史的にも非常に明快な Jespersen 評ではないだろうか.
先にも述べたように,Jespersen 流の言語進歩観は,現在の言語学では一般的に受け入れられていない.これについて,「#448. Vendryes 曰く「言語変化は進歩ではない」」 ([2010-07-19-1]) 及び「#1382. 「言語変化はただ変化である」」 ([2013-02-07-1]) を参照.
・ Jespersen, Otto. Language: Its Nature, Development, and Origin. 1922. London: Routledge, 2007.
・ ジョルジュ・ムーナン著,佐藤 信夫訳 『二十世紀の言語学』 白水社,2001年.
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