現代英語の3人称代名詞 it は,古英語では語頭に <h> の付された <hit> という綴字で用いられていた.[2009-09-29-1]に掲げた古英語の人称代名詞体系を見れば分かるとおり,すべての屈折形が <h> で始まっており,非常にきれいな体系をなしている.このなかで特に中性単数主格の <hit> は「軽い」参照機能を果たすときに語頭が弱まり,it へ変化して定着したと考えられている.古英語後期ですでに it の形態が確認されており,1200年頃からは強勢が置かれる環境ですら it が用いられるようになってくる.一方 hit は中英語期に衰退し,1500年頃まで細々と続いていたが,現在では北部方言で強調表現として使われる het, hit などを除いては廃用となっている.これが,古英語 hit が徐々に it に置換された歴史として一般的に語られる記述である.
しかし,その前史として興味深い説がある ( Scragg, p. 42fn ) .古英語の hit はより古い段階ではやはり <h> のない <it> であり,後に他の人称代名詞の屈折に合わせようとする類推作用 ( analogy ) によって <h> が加えられたのではないかという.つまり,[2009-09-29-1]に掲げた「すべてが <h> で始まるきれいな体系」は「きれいにされた」ものではないかという.これによると,it の歴史は,<h> のない形態から開始して,古英語期に類推によって <h> をとるようになったが,後に再び語頭音の弱化で <h> のない形態に回帰したということになる.
他のゲルマン語の同根語 ( cognate ) には,Old Saxon や Middle Low German の it,Low German の et,Gothic の ita,Old High German の ëz, Old Icelandic es があり,いずれも <h> をもっていない.しかし,Old Frisian や Middle Dutch には hit があるので,上記の説を正当化するならば,この2言語でも古英語と同様に類推が起こったと考えなければならないのだろう.
仮にこの説を受け入れるとして,it → hit → it と回帰した現代英語で将来的に再び hit になる可能性はあるだろうか.恐らくないだろう.現代英語の人称代名詞では,<h> を語頭にもつのは男性単数の he の屈折だけになってしまったので,古英語のときに働いた(とされる)「体系の要請する語頭音揃えの圧力」はすでに弱いのだから.
・ Scragg, D. G. A History of English Spelling. Manchester: Manchester UP, 1974.
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow