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hellog〜英語史ブログ / 2011-06-30

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2011-06-30 Thu

#794. グリムの法則と歯の隙間 [grimms_law][phonetics][consonant][fricativisation]

 Grimm's Law については,[2009-08-08-1]の記事「グリムの法則とは何か」やその他で様々に扱ってきた.この法則は,印欧祖語の閉鎖音系列のそれぞれが調音特徴の1項目をシフトさせてゆく過程として説明される.例えば,*bh > *b の変化は,調音点と声の有無はそのままに,調音様式のみを変化させた(aspiration を失った)ものとして説明される.また,*b > *p の変化は,調音点と調音様式はそのままに,無声化したものとして説明される.
 ところが,*p > *f の変化は調音に関する2項目が変化している.無声である点は変わっていないが,調音様式が閉鎖から摩擦へ変化しているばかりでなく,調音点も両唇から唇歯へと変化している.歯茎音系列も同様で,*dh > *d, *d > *t の変化は1項目のシフトで説明されるが,*t > *þ の変化は「閉鎖から摩擦へ」と「歯茎から歯へ」の2項目のシフトが関与している.確かに,両唇と唇歯,歯茎と歯はそれぞれ調音点としては極めて近く,問題にするほどのことではないかもしれないが,これではグリムの法則の売りともいえる「見るも美しい体系的変化」に傷が入りそうだ.
 この疑問を長らく漠然と抱いていた.*p > *f を想定するのは,後の印欧諸語の証拠や理論的再建の手続きからは受け入れられるが,無声両唇閉鎖音の *p は対応する摩擦音 *ɸ へ変化するのが自然のはずではないか.[ɸ] は日本語の「ふ」に現われる子音としても馴染みがあり不自然な音とは思えないし,グリムの法則が *ɸ ではなく最初から *f への推移を前提としているのにはやや違和感を感じていた.
 しかし,調音音声学に関して Martinet の「歯の隙間」についての説明を読んだときに,この問題が解決したように思った.無声両唇摩擦音 [ɸ] は確かに日本語に存在するが,一般的にいって摩擦音としては不安定な調音のようだ.一方,日本語にない無声唇歯摩擦音 [f] は,摩擦音としては安定した調音だという.その理屈はこうである.調音器官には本来的に閉鎖音向きのものと摩擦音向きのものがある.両唇は互いの密着度が高く,呼気のストッパーとしてよく機能し,まさに閉鎖音向きの調音器官だ.両唇を摩擦音に用いたとしても,その性質にそぐわないために,調音が不安定にならざるをえない.逆に,歯は隙間があるために呼気のストッパーとなりにくい.歯は本来的に摩擦音向きの調音器官なのである.

Du fait des interstices entre les dents, une occlusion labio-dentale est difficilement réalisable. On constate donc que la position des organes qui est la plus recommandée pour l'articulation fricative, ne vaut rien pour l'occlusion et, vice cersa, que la position favorable à l'occlusion ne permet pas de produits fricatifs satisfaisnts. Cette situation se retrouvera ailleurs. (Martinet 67)

歯と歯の間に隙間があるために,唇歯閉鎖は実現するのが難しい.したがって,摩擦音の調音に最もふさわしい器官の位置は閉鎖にはまるで役に立たず,逆も同様で,閉鎖に都合のよい位置は適切な摩擦音の産出を許さないということが分かる.この状況は,他の場合にも見いだされる.


 以上の調音器官の物理的特性を考えると,グリムの法則の無声閉鎖音系列の摩擦音化の効果は,調音器官を歯茎から歯の方向に少しシフトしてやることで最大となる.*p は摩擦音化するにあたって *ɸ へ変化するよりも,歯を用いた *f へシフトするほうが,摩擦音として存続しやすい.同様に,*t は摩擦音化するにあたって *s へ変化するよりも,歯を用いた *θ へシフトするほうが,摩擦音として存続しやすい.また,*s がすでに印欧祖語に存在していたという事実から,*θ へのシフトは融合を回避する効果があったのかもしれない.
 グリムの法則が関与するもう1つの無声閉鎖音 *k については,*x への変化はストレートだが,結果的に *h へ変化したことを考えると,ここでも [x] の摩擦音としての不安定さが関与しているのかもしれない.軟口蓋と舌との組み合わせもどちらかというとストッパー仕様であり,摩擦音向きではない.反対に,[h] の調音に用いられる声門はどちらかというと摩擦音向きのように思える.
 摩擦音と歯は相性がよいという発見は新鮮だった.「安定的な摩擦音系列への移行」がグリムの法則の表わす音変化の重要な特性の1つだったとすれば,両唇の *p や歯茎の *t がそれぞれ歯茎摩擦音ではなく歯摩擦音へと変化した理由が理解しやすくなる.

 ・ Martinet, André. Éléments de linguistique générale. 5th ed. Armand Colin: Paris, 2008.

Referrer (Inside): [2017-08-22-1]

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最終更新時間: 2024-11-26 08:10

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