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japanese - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-04-26 08:56

2021-12-21 Tue

#4621. モーラ --- 日本語からの一般音韻論への貢献 [syllable][phonology][grammatology][syllabary][hiragana][katakana][japanese][writing][terminology][mora]

 文字論研究史を概説している Daniels (63) に,日本語の仮名(平仮名と片仮名)がモーラに基づく文字であることが言及されている.この事実そのものは日本語学では当然視されており目新しいことでも何でもないが,音節 (syllable) ではなくモーラ (mora) という音韻論的単位が言語学に持ち込まれた契機が,ほかならぬ日本語研究にあったということを初めて知った.日本語の仮名表記や音韻論を理解・説明するのにモーラという概念は是非とも必要だが,否,まさにそのために導入された概念だったのだ.

The term 'mora' was introduced into modern linguistics by McCawley (1968) to render a term (equivalent to 'letter') for the characters in the two Japanese 'syllabaries' ('kana'), hiragana and katakana, which denote not merely the (C)V syllables of the language but also a syllable-closing nasal or length.


 モーラと音節が異なる単位であることは,以下の例からも分かる.要するに,長音,促音,撥音のような特殊音素は,独立した音節にはならないが独立したモーラにはなる.

 ・ 「ながさき」 (Nagasaki) は4モーラで4音節
 ・ 「おおさか」 (Ōsaka) は4モーラで3音節
 ・ 「ロケット」 (roketto) は4モーラで3音節
 ・ 「しんぶん」 (shimbun) は4モーラで2音節

 音節とは異なるが,日本語母語話者にとっては明らかに独立した部品とみなされているもう1つの音韻論的単位,それが日本語のモーラである.仮名の各文字には,およそきれいに1つのモーラが対応している.

 ・ Daniels, Peter T. "The History of Writing as a History of Linguistics." Chapter 2 of The Oxford Handbook of the History of Linguistics. Ed. Keith Allan. Oxford: OUP, 2013. 53--69.
 ・ McCawley, James D. The Phonological Component of a Grammar of Japanese. The Hague: Mouton, 1968.

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2021-12-15 Wed

#4615. 『中高生の基礎英語 in English』の連載第10回「なぜ英語には省略語が多いの?」 [notice][sobokunagimon][rensai][abbreviation][shortening][blend][word_formation][morphology][japanese]

 NHKラジオ講座「中高生の基礎英語 in English」の1月号のテキストが発売となりました.連載中の「英語のソボクな疑問」の第10回は「なぜ英語には省略語が多いの?」です.piano, bus, cute, sport, Paralympics, AI, CEO, GDP, EU, USA などの英単語は,ほぼそのまま日本語にも入ってきている日常語といってよいですが,なんといずれも何らかの点で省略されている語なのです.それぞれオリジナルの長い形を復元できるでしょうか.かなり難しいのではないでしょうか.

『中高生の基礎英語 in English』2022年1月号



 英語にも日本語にもその他の言語にも省略語は存在します.すべてを口にするには長ったらしいけれども情報量が詰まっていて有用な表現というものは,たくさんあるものですね.そのような表現をぐっと約めて簡潔な1単語に省略できれば,便利に違いありません.言語には省略語が付きものです.
 省略の方法についていえば種類は限られています.連載記事で詳しく述べていますが,基本となるのは「切り落とし」「切り貼り」「イニシャル取り」の3種です.それぞれの例をたくさん挙げていますので,どうぞご覧ください.
 言語には省略語が付きものとは述べましたが,英語に関する限り,とりわけ20世紀以降におびただしい省略語が生み出されてきたという事情があります.過去にもまして現代は省略語の時代といってもよいほどです.なぜなのでしょうか.連載記事では,この謎解きも披露しています.

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2021-11-13 Sat

#4583. 『中高生の基礎英語 in English』の連載第9回「なぜ英語の語順は SVO なの?」 [notice][sobokunagimon][rensai][word_order][syntax][japanese]

 NHKラジオ講座「中高生の基礎英語 in English」の12月号のテキストが発売となりました.連載中の「英語のソボクな疑問」の第9回は「なぜ英語の語順は SVO なの?」について取り上げました.

『中高生の基礎英語 in English』2021年12月号



 6節からなる今回の連載記事の小見出しはそれぞれ以下の通りです.

 1. 「私」「話します」「英語」
 2. 世界の言語の語順
 3. 基本語順とは?
 4. 昔の英語は SVO ばかりではなかった!
 5. 「助詞」に相当するものが消えてしまって
 6. 語順というのは,割とテキトー!?

 英語は語順の言語ですね.日本語についての文法用語は多く知らずとも,英語について「5文型」や「SVO」などの用語を聞いたことのない人はいないのではないでしょうか.英文法といえば語順の文法のことだといって大きな間違いはありません.語の並べ方がしっかり決まっているのが英語という言語の著しい特徴です.
 しかし,です.確かに現代の英語は語順の言語といってよいのですが,歴史を遡って古い英語を覗いてみると,実は語順は比較的自由だったのです.英語のおよそ千年前の姿である古英語 (Old English) でも SVO 語順は確かに優勢ではあったものの,SOV も普通にみられましたし VSO などもありました.現代ほどガチガチに語順が決まっている言語ではなかったのです.
 私も初めてこの事実を知ったときには腰を抜かしそうになりましたね.英語は最初から語順の言語だったわけではなく,歴史を通じて語順の言語へ変化してきたということなのです.
 では,いつ,どのようにして,なぜ語順の言語となったのか.これは英語史における最も重要な問題の1つであり,その周辺の問題と合わせて今なお議論が続いています.
 今回の連載記事では,英語史におけるこの魅力的な問題をなるべく易しく紹介しました.どれくらい成功しているかは分かりませんが,少なくとも p. 132 の古英語の叙事詩『ベーオウルフ』にちなんだ主人公ベーオウルフと怪物グレンデルのイラストは必見!?(←イラストレーターのコバタさん,いつもありがとうございます)

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2021-09-17 Fri

#4526. 井上逸兵(著)『英語の思考法 ー 話すための文法・文化レッスン』 [review][politeness][japanese][face][pragmatics][sociolinguistics][t/v_distinction][heldio][inoueippei]

 去る7月に,ちくま新書より井上逸兵(著)『英語の思考法 ー 話すための文法・文化レッスン』が出版されました.著者は私の慶應義塾大学文学部英米文学専攻の同僚です(井上さん,ご献本いただきましてありがとうございます!).
 著者の井上氏には本日,私が6月から放送している「英語の語源が身につくラジオ」(heldio) に特別ゲストとして出演していただいています(←同僚としての役得に甘えました).新書についてのおしゃべりです.10分×2本の収録となっていますので,2本目もお聞き逃しなく! しかも,2本目の最後は5秒ほど時間が足りなくてお尻が切れています(泣).



 日本語(文化)には厄介なタテマエとホンネがありハッキリとものを言いにくいのに対して,英語(文化)ではそういうものがないのでハッキリ主張することが好ましい.これは,日本人の英語学習者の多くが感じていることではないでしょうか.しかし,井上氏が本書で軽妙なオヤジギャグと豊富な用例により次々と明らかにしていくのは,そうではないということです.英語(文化)にもタテマエとホンネはちゃんとある.ただし,日本語(文化)のそれとは違った形で存在している,ということです.
 では,どう違っているのかといえば,英語(文化)の基盤には「独立」「つながり」「対等」への志向があるということです.「個人として対等な関係を保ちながらつながりを求める」のが英語流ということですね.個性や独立心が比較的弱く,上下関係のつながりを重視する伝統的な日本語(文化)の発想とは,確かに大きく異なります.
 私が英語史の観点から抱いた関心は,英語的な「独立」「つながり」「対等」への志向は,いつ生まれたのだろうかということです.中世まではさほど強くなかったように思われるからです.おそらく近代に入ってからではないかと.社会的上下関係を内包する2人称代名詞の you/thou の区別が解消していくのも,近代期(17世紀以降)だった事実が思い出されます.
 本書の中心テーマは日英語文化比較やポライトネスといったところだと思いますが,英語学研究者としての著者の真骨頂は,副題の「文法・文化レッスン」に現われているように思われます.文法という言語学的な堅い代物にも,その担い手の社会に特有の文化や思考回路が色濃く反映されているのだという点です.
 一方,本書はすぐに使える英語の用例が豊富で,実用書的に読むこともできます.実際,私も英語を話したり書いたりするときに,早速いくつかの語法を活用しています.You lost me. とか Let me share with you . . . . とか.ですが,褒められたときに Can you tell my wife that? と返すのは,私には歯が浮いて言えなさそうです.
 笑いながら読める英語本です.ぜひご一読ください.

 ・ 井上 逸兵 『英語の思考法 ー 話すための文法・文化レッスン』 筑摩書房〈ちくま新書〉,2021年.

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2021-08-10 Tue

#4488. 英語が分布を縮小させてきた過去と現在の事例 [history][world_englishes][irish_english][japanese][french][spanish][portuguese][pidgin]

 英語は,現代世界のリンガ・フランカ (lingua_franca) として世界中に分布を拡大させている.英語はある意味では,はるか昔,紀元前の大陸時代より,ブリテン諸島のケルト民族や新大陸の先住民をはじめ世界中の多くの民族の言語の分布を縮小させ,自らの分布を拡大させてきた歴史をもつ.
 一見すると「負け知らず」の言語のように思われるかもしれないが,必ずしもそうではない.他の言語との競争に敗れて分布を縮小させたり,ときに不使用となる場合すらあったし,現在もそのような事例がみられるのである.今回は,この英語(史)の意外な事例をいくつかみていきたい.参照するのは Trudgill の "English in Retreat" と題する節 (27--29) である.
 歴史的に古いところから始めると,12--15世紀のアイルランドの事例がある.Henry II は,1171年にアングロ・ノルマン軍を送り込んでアイルランド侵攻を狙い,その一画に英語話者を入植させた.しかし,彼らはやがて現地化するに至り,英語が根づくことはなかった.英語としては歴史上初めて本格的な分布拡大に失敗した機会だったといえる(cf. 「#1715. Ireland における英語の歴史」 ([2014-01-06-1]),「#2361. アイルランド歴史年表」 ([2015-10-14-1])).
 ぐんと現代に近づいて19世紀のことになるが,私たちにとって非常に重要な --- しかしほとんど知られていない --- 英語の敗北の事例がある.舞台はなんと小笠原群島である.この群島はもともと無人だったが,1543年にスペイン人により発見され,その後,主に欧米系の人々により入植が進み,19世紀には英語ベースの「小笠原ピジン英語」 (Bonin English) が展開していた.しかし,19世紀後半から日本がこの地の領有権を主張し,島民の日本への帰化を進めた結果,日本語が優勢となり,現在までに小笠原ピジン英語はほぼ廃用となっている.詳しくは「#2559. 小笠原群島の英語」 ([2016-04-29-1]),「#2596. 「小笠原ことば」の変遷」 ([2016-06-05-1]),「#3353. 小笠原諸島返還50年」 ([2018-07-02-1]) を参照されたい.
 現在の事例でいえば,カナダのケベック州が挙げられる.フランス語が優勢な同州において,英語が劣勢に立たされていることはよく知られている(cf. 「#1733. Canada における英語の歴史」 ([2014-01-24-1])).住人の帰属意識を巡る政治・歴史問題が関わっており,「世界の英語」といえども単純に分布を広げられるわけではないことをよく示している.
 また,あまり知られていないが,中央アメリカのカリブ海沿岸にも,英語母語話者集団でありながら言語的・社会的に劣勢に立たされている人々の住まう土地が点在している.彼らのルーツは19世紀後半よりジャマイカなどから中央アメリカの大陸沿岸地域へ展開した人々で,しばしば奴隷として社会的地位の低い集団とみなされていた.現在でも,関連する各国の公用語であるスペイン語のほうが威信が高く,当地では英語使用に負のレッテルが張られている.関連する記事として「#1679. The West Indies の英語圏」 ([2013-12-01-1]),「#1702. カリブ海地域への移民の出身地」 ([2013-12-24-1]),「#1711. カリブ海地域の英語の拡散」 ([2014-01-02-1]),「#1713. 中米の英語圏,Bay Islands」 ([2014-01-04-1]),「#1714. 中米の英語圏,Bluefields と Puerto Limon」 ([2014-01-05-1]),「#1731. English as a Basal Language」 ([2014-01-22-1]) を挙げておく.
 ほかにも,19世紀半ばにアメリカ南北戦争で敗者となった南部人がブラジルに逃れた子孫が,今もブラジルに英語母語話者集団として暮らしているが,同国の公用語であるポルトガル語に押されて劣勢である.また,1890年代に社会主義的ユートピアを求めてパラグアイに移住したオーストラリア人の子孫が今も暮らしているが,若者の間では土地の言語である Guaraní への言語交替が進行中である.
 英語は過去にも現在にも「負け知らず」だったわけではない.

 ・ Trudgill, Peter. "The Spread of English." Chapter 2 of The Oxford Handbook of World Englishes. Ed. by Markku Filppula, Juhani Klemola, and Devyani Sharma. New York: OUP, 2017. 14--34.

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2021-05-21 Fri

#4407. 人力車,jinrikisharickshaw [japanese][loan_word][semantic_change][shortening][vowel][etymology][khelf_hel_intro_2021]

 「英語史導入企画2021」より本日紹介するコンテンツは,学部生による「変わり果てた「人力車」」という話題です.1874年,日本(語)の「人力車」が英語に jinrikisha として借用されました.その後まもなくの1879年には,英語化し,約まった 形で rickshaw として現われています.いずれも当初はまさに私たちのイメージする「人力車」の意味で用いられていたのですが,1900年には rickshaw はタイのトゥクトゥクなどでお馴染みの,東南アジアなどで日常的にみられる,自転車やバイク駆動の三輪タクシーのようなものを指す語へと進化を遂げています.OED からの情報や写真を豊富に含めて読みやすいコンテンツに仕上がっていますので,もはや全然「人力車」じゃないじゃん,というツッコミとともにご一読ください.
 そもそも「人力車」が jinrikisha として英語に入ったきっかけは何だったのでしょうか.Barnhart の語源辞書に参考になる記述があったので,引用しておきます.

jinrikisha or jinricksha (jinrik'shô) n. small, two-wheeled carriage pulled by one or more men. 1874, borrowed from Japanese jinrikisha (jin man + riki power + sha cart, carriage).
   It is possible the carriage is the invention of a Baptist missionary named Goble in 1869, who is said to have devised the vehicle for his wife who suffered from arthritis, and the first commercial operation of such vehicles was apparently sanctioned in Tokyo that same year.


 確かな記述ではないものの,バプテスト派の愛妻家 Goble さんによる発明品で,その種の乗り物が東京で認可されたのもその年だったらしいということです.だが,これだけではイマイチよく分からないですね.
 一方,日本の「人力車」について調べたところ,『ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2010』に上記と関連はするが異なる記述を見つけました.真の発明者は誰なのでしょうか.

客を乗せ,人力で引張る2輪車。東京鉄砲洲の和泉要助と本銀町の高山幸助らが,舶来の馬車の形から案出したもの。明治2 (1869) 年に試運転し,翌年3月に「新造車」として開業を出願した。まず日本橋のたもとに3台おいたという。初期のものは車体に4本柱を立てて屋根をかけ,幕などを張りめぐらした。翌4年に秋葉大助が車体を改良,蒔絵を散らした背板などをつくった。1873年頃までに大流行し,全国に3万4200両も普及したと記録されている。後年タイヤ車に改良され,さらに普及するとともに,中国,東南アジアにも洋車 (ヤンチョ,東洋=日本車) として多く輸出され,「ジンリキシャ」「リキシャ」の英語呼びまでできるほど普及した。1900年3月には発明関係者が賞勲局から表彰されたりしたが,すでにその頃から日本では電車,自動車におされて衰微が始り,やがて花柳界など特殊な世界以外ではすたれた。


 いずれにせよ jinrikisha,およびそこから転じた rickshaw は,19世紀末に英語で用いられるようになったわけですが,やがて指示対象となる乗り物自体がズレてきてしまったというのがおもしろい点です.上記コンテンツで「借用語は,往々にして元の意味から少しずれた意味を持ってしまうことが少なくないと考えられるが〔中略〕,rickshaw もそのひとつなのだろうか」と述べられている通りですね.最近の「#4386. 「火鉢」と hibachi, 「先輩」と senpai」 ([2021-04-30-1]),「#4391. kamikazebikini --- 心がザワザワする語の意味変化」 ([2021-05-05-1]) でも取り上げられた話題ですが,例はいくらでも挙げられそうです.親のもとから巣立っていった子が,親の手の届かないところで,親の期待とは裏腹に,独自に成長していってしまうことと似ています.
 今回のコンテンツは借用語の意味がズレていくという話題でしたが,ズレていくのは意味だけではなく,形式もまたズレるのが普通です.jinrikisha から rickshaw へと短縮されたこともそうですし,日本語「車」 /ʃa/ が,英単語のほうでは /ʃɑː/ あるいは /ʃɔː/ と発音されるようになったのも小さな形式上のズレです.近代英語期以降,他言語の /a/ が入ってくる際には,このように /ɑː/ や /ɔː/ として取り込まれました.しばしば両音の間で揺れることが多く,実際 jinrikisharickshaw の語末部においても両母音間で揺れを示しています.その揺れと連動して,綴字のほうも語末音節にて <sha> と <shaw> の揺れを示しているものと考えられます.éclat /eɪˈklɑː/, spa /spɑː/, vase /vɑːz/ などでは現在は /ɑː/ が基本ですが,古くは /ɔː/ もありました (Jespersen 428) .
 なお,「リクショー」は,参照したいくつかの国語辞典には載っていませんでしたが,学生時代に東南アジア方面へのパックパッカーをやっていた筆者としては,個人語としての日本語のボキャブラリーのなかにしっかり定着しています.

 ・ Barnhart, Robert K. and Sol Steimetz, eds. The Barnhart Dictionary of Etymology. Bronxville, NY: The H. W. Wilson, 1988.
 ・ Jespersen, Otto. A Modern English Grammar on Historical Principles. Part 1. Sounds and Spellings. London: Allen and Unwin, 1909.

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2021-05-18 Tue

#4404. 日本語由来の敬称 san [vocative][honorific][pragmatics][japanese][loan_word][title][khelf_hel_intro_2021][hypocorism]

 昨日「英語史導入企画2021」に公表されたコンテンツは,大学院生による「意味深な SIR」でした.伝統的な英語学・英語史研究では,呼びかけ語 (vocative) は周辺的な話題にとどまり,主要な調査対象とはなり得ないとみなされてきました.しかし,(歴史)語用論の台頭により,今では重要な研究テーマととらえられています.今回のコンテンツは,男性に対する敬称 (honorific) の呼びかけ語 sir (と対応する女性版の madam)について,歴史語用論の観点から紹介するものです.呼びかけ語の歴史を追究する魅力に気づいてもらえればと思います.
 コンテンツ内で,日本の学校での英語の授業で,英語で学生を呼ぶときにどのような敬称を使うのがふさわしいかという悩みが綴られています.確かに難しいですね.伝統的かつ典型的には Mr.Miss (or Mz.?) でしたが,昨今様々な事情で使いにくくなっています.私個人としては日本語由来の san 「さん」の使用がふさわしいと思っており,一般の英語使用においても,もっと流行ってくれればよいと期待しています.敬称としての san は,OED でも san, n.3 として見出し語が立てられており,今やれっきとした英単語です.

   A Japanese honorific title, equivalent to Mr., Mrs., etc., suffixed to personal or family names as a mark of politeness; also colloquial or in imitation of the Japanese form, suffixed to other names or titles (cf. mama-san n.).
      When suffixed to a female personal name, and in more polite endearment, san is often coupled with the prefix O- (see quot. 1922).

   1878 C. Dresser in Jrnl. Soc. Arts 26 175/1 Mr. Sakata, or, as they would say Sakata San, who was appointed..as one of my escort through Japan.
   . . . .
   . . . .
   1922 J. Joyce Ulysses ii. xii. [Cyclops] 313 The fashionable international world attended en masse this afternoon at the wedding... Miss Grace Poplar, Miss O Mimosa San.
   . . . .
   . . . .
   1972 J. Ball Five Pieces Jade xiv. 188 It would make me the greatest pleasure, Nakamura san.


 san は,大学の同僚等,日本(語)事情に精通した英語母語話者と英語で話すときには,ごく普通に使えます.老若男女問わず一般的に利用できる敬称でもあり,その点でも都合がよいのです.これがもっと国際的に流行ってくれれば,単語としても語用としても,日本語からの大きな貢献になるだろうと思っています.
 なお,日本語の「さん」自体は,敬意の高い「さま」の短縮した異形で,その点でも敬意が高すぎず低すぎずちょうどよい位置づけにあります.一方,もっと転訛した異形「ちゃん」は愛称形 (hypocorism) ですね.

Referrer (Inside): [2022-12-28-1]

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2021-05-07 Fri

#4393. いまや false friends? --- photogenic と「フォトジェニック」 [khelf_hel_intro_2021][japanese][loan_word][false_friend][suffix][worf_formation][semantic_change]

 昨日,「英語史導入企画2021」の一環として学部生よりコンテンツ「フォトジェニックなスイーツと photogenic なモデル」がアップされた.日常的な話題で,言語接触とその効果をリアルタイムで眺めているかのような読後感を得られる内容となっている.
 英単語 photogenic の意味や語形成については上記コンテンツに詳しいが,3つの学習者英英辞書の定義を示せば次のようになる.

 ・ OALD8: looking attractive in photographs
 ・ LDOCE5: always looking attractive in photographs
 ・ CALD3: having a face that looks attractive in photographs

 辞書では「被写体」の限定はなされていない.人でも物でもよいはずだ.しかし,挙げられている例文はすべて人(の容姿)を対象としている.コーパスで検索された多数の例文を眺めてみても,物(特に風景)を対象とした例はあるにはあるが,大多数の用例が写真うつりの良い「人」に関するものである.いくつか典型例を挙げよう.

 ・ She is very photogenic but fortunately she knows that being photogenic is not enough in this business.
 ・ There were many pictures of the family as well, they must be a photogenic kind of family because there was so many family shots of them all dressed up.
 ・ Sarah's eye for a photogenic face has made her fortune.

 ところが,昨今日本語に取り込まれてカタカナ語となっている「フォトジェニック」は,インスタグラムの「インスタ映え」の類義語であるかのように多用されている.その際の被写体は,今度は人に用いられることは稀で,圧倒的に物を対象としているのがおもしろい.
 photogenic と「フォトジェニック」は,(当たり前ながらも)語源および「写真映えする」という基本的語義を共有しているものの,形容詞として記述・描写の対象としているものが典型的に前者では人,後者では物であるという点で,用法の相違を生み出している.最新の英日語に関する "false friends" (Fr. "faux amis") の例,あるいは少なくともその兆しを見せてくれている例といえないだろうか.
 ところで,-genic を始め,ラテン語 gēns (clan, race) と同根であり,かつ英語に入ってきた単語は多いが,gentle, genteel, jauntry, ,そして今回の -genic など語義がポジティヴな(に転じた)ものが多いのは偶然だろうか.
 なお,「テレビ映りが良い」は
telegenic, 「ラジオ聞こえ(?)が良い」は radiogenic というようで,-genic'' がメディア名に後続する接尾辞 (suffix) として存在感を示し始めている様子が窺える.新語の語形成は目が離せない.

Referrer (Inside): [2021-07-24-1]

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2021-05-05 Wed

#4391. kamikazebikini --- 心がザワザワする語の意味変化 [japanese][loan_word][semantic_change][khelf_hel_intro_2021][metaphor][false_friend]

 昨日「英語史導入企画2021」にアップされた学部ゼミ生からのコンテンツ「お酒なのにkamikaze」は,すこぶるおもしろい話題であり,同時に心がざわつく話題でもあった.
 最近の「#4386. 「火鉢」と hibachi, 「先輩」と senpai」 ([2021-04-30-1]) でも話題となったように,近年でも日本語の単語が英語に借用される例は少なからずあり,しかもその語義が日本語のオリジナルの語義から変化してしまっているものも多い.今回取り上げられた kamikaze (神風)もその1つである.
 もちろん英単語としての kamikaze とて,日本語「神風」の原義を示しはする.13世紀末の元寇の折に日本を守ってくれた,かの「神風」の語義はしっかり保持しているし,太平洋戦争時の「神風特攻隊」の語義も保っている.しかし,上記コンテンツにも詳説されているように,比喩的に「危険を顧みずに突っ込んでいく人」という語義は日本語には認められない英語特有の語義だし,それお飲むことが自殺行為であるほどに度数が高いというメタファーに基づいたウォッカベースのカクテルを指す語として,日本語で一般に知られているともいえない.
 先の記事「#4386. 「火鉢」と hibachi, 「先輩」と senpai」 ([2021-04-30-1]) でも指摘したように,他言語に取り込まれた単語の意味が,独特の文脈で用いられるに及び大きく変容するということは日常茶飯であると述べた.いわゆる false_friend の例の創出である.いずれの言語にとってもお互い様の現象であり,非難しだしたらキリがないということも述べた.そうだとしても,やはり気になってしまうのが母語話者の性である.他言語に入って妙な意味変化を経ているとなれば,心穏やかならぬこともあろう.「神風」がメタファーとはいえカクテルの名称になっているというのは,やはり心がザワザワする.私としては,バー・カウンターで kamikaze を注文する気にはちょっとなれない.言語学者として語の意味変化を客観的に跡づける必要は認めつつも,その立場から一歩離れれば,おおいに心理的抵抗感がある.
 同じようなザワザワ感を,かつて別の単語について感じたことがあったと思い出した.水爆実験地として歴史的に知られる「ビキニ環礁」と女性用水着「ビキニ」の関係である.「#537. bikini」 ([2010-10-16-1]) で紹介した有力な語源説によると,bikini 「(女性用水着)ビキニ」の語義の発生は,1946年に同水着が初めてパリのショーで現われたときの衝撃と同年のビキニ環礁での水爆実験の衝撃とを引っかけたことに由来するという.ここでの語義変化のメカニズムは,言語学的にいえば kamikaze の場合と同様,広く緩くメタファーといってよいだろう.しかし,それとは別に,内心はまずもって悪趣味で不謹慎な語義転用との印象をぬぐえない.
 kamikazeninja, samurai, fujiyama などとは別次元の「文化語」として英語に取り込まれ、英語において独自の語義展開を示したということは,英語史上の語義変化の話題としては純正だろう.しかし,日本語母語話者として何とも心がザワザワする.

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2021-05-02 Sun

#4388. The grass is always greener. 「隣の芝は青い」の色彩語問題 [proverb][alliteration][etymology][bct][japanese][khelf_hel_intro_2021]

 何年も大学で英語史ゼミを担当してきたが,毎年度のように卒業論文の話題として人気のテーマがある.日英語間の色彩語に関するギャップである.「色」という身近な関心事から日英語文化の差異に迫ることのできるテーマとして,安定的な需要がある.先行研究も豊富なだけに,オリジナルな研究をなすことは決して易しくないのだが,それでも引きつけられる学生が跡を絶たない.
 昨日学部ゼミ生より公表された「英語史導入企画2021」のためのコンテンツは,この人気のテーマに迫ったもの.タイトルは「信号も『緑』になったことだし,渡ろうか」である.多くの読者はすぐにピンとくるだろう.日本語の「青信号」は英語では the green light に対応するという,あの問題である.信号機の導入の歴史や,人口に膾炙している諺 (proverb) である The grass is always greener (on the other side of the fence). 「隣の芝は青い」を題材に,青,緑,bluegreen の関係について分かりやすく導入してくれている.
 日々の学生からのコンテンツは私のインスピレーションの源泉なのだが,今回は上記コンテンツでも取り挙げられている先の諺に注目することにした.この諺の教えは「他人のものは自分のものよりもよく見えるものである」ということだ.日本語では,ほかに「隣の花は赤い」とか「隣の糂汰味噌」という諺もあるそうだ.日本語「隣の芝は青い」は,英語 The grass is always greener (on the other side of the fence). をほぼ直訳して取り入れたものであり,本来は日本語の諺ではない.
 では,この英語諺のルーツはどこにあるかといえば,OED によると意外と新しいようで,初出はアメリカ英語の1897年の Grass is always greener であるという.西洋文化を見渡すと,近似した諺としてラテン語に fertilior seges est aliēnīs semper in agrīs ("the harvest is always more fruitful in another man's fields") というものがあるそうだが,一般に諺というのは普遍的な教えであるから,英語版がこのラテン語版をアレンジしたものかどうかは分からない.むしろ grassgreen を引っかけている辺り,少なくとも形式には,英語オリジナルといってよさそうだ.
 grassgreen の引っかけというのは,もちろん頭韻 (alliteration) を念頭において述べたものである.また,The grass is always greener. は,きれいな「弱強弱強弱強弱」の iambic となっていることも指摘しておきたい.いや,頭韻を踏んでいるというのもある意味では妙な言い方で,そもそも grassgreen も印欧祖語で「育つ」 (to grow) を意味する *ghrē- に遡るのだから,語頭子音が同じだからといって驚くことではない.The grass grows green. という文は,したがって,語源的に解釈すれば「育つ草が草のような草色の草に育つ」のようなトートロジカルな文なのである.
 色彩語は,一般言語学でも集中的に扱われてきた重要テーマである.基本色彩語 (Basic Color Terms) については,"bct" のタグのついた記事群を参照されたい.
 おまけに,信号機の歴史について補足的に『21世紀こども百科 もののはじまり館』 (p. 80) より引用しておく.へえ,そうだったのかあ.

世界ではじめての信号機は1868年,ロンドンにできた.ガス灯の信号機だった.日本では,1919年に東京・上野広小路交差点に手動式がはじめてできた.電気を使った信号機は,1918年にニューヨークにでき,日本では1930年に東京・日比谷交差点にアメリカから輸入されたものが使われた.


 関連して,重要な参考文献として小松秀雄著『日本語の歴史 青信号はなぜアオなのか』も挙げておきましょう.

 ・ 『21世紀こども百科 もののはじまり館』 小学館,2008年.
 ・ 小松 秀雄 『日本語の歴史 青信号はなぜアオなのか』 笠間書院,2001年.

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2021-05-01 Sat

#4387. なぜ名詞(句)が副詞的に用いられることがあるのですか? [sobokunagimon][preposition][adverbial_accusative][adverbial_genitive][adverb][case][dative][japanese][khelf_hel_intro_2021]

 次の各文の赤字の部分をみてください.いずれもその形態だけみれば名詞(句)ですが,文中での働き(統語)をみれば副詞として機能しています.前置詞 (preposition) がついていれば分かりやすい気もしますが,ついていません.形式は名詞(句)なのに機能は副詞というのは何か食い違っているように思えますが,このような例は英語では日常茶飯で枚挙にいとまがありません.

 ・ I got up at five this morning.
 ・ Every day they run ten kilometers.
 ・ He repeated the phrase twice.
 ・ She lives just three doors from a supermarket.
 ・ We cook French style.
 ・ You are all twenty years old.
 ・ They travelled first-class.

 上記のような副詞的に用いられる名詞句は,歴史的には副詞的対格 (adverbial_accusative),副詞的与格 (adverbial dative),副詞的属格 (adverbial_genitive) などと呼ばれます.本ブログでも歴史的な観点から様々に取り上げてきた話題です.
 昨日大学院生により公表された「英語史導入企画2021」のためのコンテンツ「先生、ここに前置詞いらないんですか?」は,この問題に英語史の観点から迫った,読みやすい導入的コンテンツです.古英語の事例を提示しながら,最後は「名詞が副詞の働きをするというのは,格変化が豊かであった古英語時代の用法が現代にかすかに生き残ったものなのである」と締めくくっています.
 古英語期に名詞(句)が格変化して副詞的に用いられていたものが,中英語期以降に格変化を失った後も化石的に生き残ってきたという説明は,およそその通りだと考えています.一方で,それだけではないとも思っています.とりわけ時間,空間,様態に関わる副詞が,名詞(句)から発達するということは,歴史的な格変化を念頭におかずとも,通言語的にありふれているように思われるからです.日本語の,「昨日」「今日」「明日」「先週」「来年」はもとより「短時間」「半世紀」「未来永劫」や「突然」「畢竟」「誠心誠意」も形態的には典型的な名詞句のようにみえますが,機能的には副詞で用いられることも多いでしょう.
 上記コンテンツで例示されているように,古英語には名詞が対格・与格・属格に屈折して副詞として用いられている例は多々あります.しかし,例えば hwīlum ("sometimes, once"; > PDE whilom) などは,語源・形態的には語尾の -um は複数与格を表わすとはいえ,すでに古英語の時点で語彙化していると考えられます.名詞 hwīl (> PDE while) が格屈折したものであるという意識は,古英語話者にすら稀薄だったのではないかと想像されるのです.屈折の衰退を待たずして,古英語期にも名詞由来の hwīlum がすでに副詞として認識されていた(もし仮に認識されることがあったとして)のではないかと思われます.
 中英語期以降の格変化の衰退が,現代につながる「副詞的名詞(句)」の拡大に貢献したことは認めつつも,歴史的経緯とは無関係に,時間,空間,様態などを表わす名詞(句)が副詞化する傾向は一般的にあるのではないでしょうか.

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2021-04-30 Fri

#4386. 「火鉢」と hibachi, 「先輩」と senpai [japanese][loan_word][false_friend][semantic_change][khelf_hel_intro_2021]

 日本語で「火鉢」といえば,歴史文化的な用語なりつつあるものの「灰を入れ,炭火をいけて使う暖房具」(『岩波国語辞典第六版』)であることは本ブログ読者には了解されよう.しかし,この日本語単語をソースとして英語に借用された hibachi は,なんとワビもサビもないバーベキュー道具を指す用語となり下がっていたことをご存じだろうか.LDOCE 第2版2によれば,"a small piece of equipment for cooking food outdoors, over burning charcoal" とある通りである.
 暖を取るはずの「火鉢」が料理用具の hibachi として英語で用いられているというのは驚くべきことだが,このような食い違いは,実際には言語間の語の借用においてしばしばみられることである.ある文化に特有の単語が,別の文化に誤解されて吸収されていくというのはまったくの日常茶飯事である.「火鉢」と hibachi のような関係を表わすのに "false friends" (Fr. "faux amis") という名前がつけられているほどだ.このような事態に対して借用元の言語の母語話者が抗議する気持ちは分からないでもないが,借用先の言語にいったん取り込まれてしまえば,もう手遅れというのが言語における借用のならいである.この問題については,お互い様というほかない.
 現在進行中とおぼしき類例として,senpai 「先輩」を挙げられるかもしれない.「英語史導入企画2021」のために昨日学部生よりアップされたコンテンツ「『先輩』が英語になったらどういう意味だと思いますか」では,この日本語発の英単語が取り上げられている.
 同コンテンツにあるように,senpai 「先輩」は,借用の最初期においては,本来の日本語の語義に忠実に「学校や会社などの社会集団において自分よりも年上の人や,自分よりも早くからその環境に身を置いている人」を意味するものとして借用されていたようだ.しかし,今や新しい語義「(典型的な学園ものの少女マンガにおける男子の先輩のように)自分の気持ちに気づいてくれない人」が発達しつつあるという.下級生の女子生徒が,思いを寄せる先輩男子生徒を senpai 「先輩」と呼ぶ,あの特有の雰囲気から生じてきたものらしい.英単語 senpai は,今やアニメファンの界隈において新しいコノテーションを獲得しつつ,独特な用法をも発達させているようなのだ.
 もっとも,senpai という語やその新語義が狭い界隈から抜け出して,より広く用いられることになるかどうかは分からない.いまだ主要な英語辞書にも登録されておらず,日本語からの借用語の最先端の事例といえそうだ.hibachi と似たような語義展開をたどっていくのだろうか.今後の展開が楽しみである.
 関連して「#142. 英語に借用された日本語の分布」 ([2009-09-16-1]) も参照.

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2021-04-18 Sun

#4374. No. 1 を "number one" と読むのは英語における「訓読み」の例である [abbreviation][latin][spelling][japanese][kanji][sobokunagimon][grammatology][khelf_hel_intro_2021]

 英語の話題を扱うのに,日本語的な「訓読み」(や「音読み」)という用語を持ち出すのは奇異な印象を与えるかもしれないが,実は英語にも音訓の区別がある.そのように理解されていないだけで,現象としては普通に存在するのだ.表記のように No. 1 という表記を,英語で "number one" と読み下すのは,れっきとした訓読みの例である.
 議論を進める前に,そもそもなぜ "number one" が No. 1 と表記されるのだろうか.多くの人が不思議に思う,この素朴な疑問については,「英語史導入企画2021」の昨日のコンテンツ「Number の略語が nu.ではなく、 no.である理由」に詳しいので,ぜひ訪問を.本ブログでも「#750. number の省略表記がなぜ no. になるか」 ([2011-05-17-1]) や「#4185. なぜ number の省略表記は no. となるのですか? --- hellog ラジオ版」 ([2020-10-11-1]) で取り上げてきたので,こちらも確認していただきたい.
 さて,上記のコンテンツより,No. 1 という表記がラテン語の奪格形 numerō の省略表記に由来することが確認できたことと思う.英語にとって外国語であるラテン語の慣習的な表記が英語に持ち越されたという意味で,No. 1 は見映えとしては完全によそ者である.しかし,その意味を取って自言語である英語に引きつけ,"number one" と読み下しているのだから,この読みは「訓読み」ということになる.
 これは「昨日」「今日」「明日」という漢語(外国語である中国語の複合語)をそのまま日本語表記にも用いながらも,それぞれ「きのう」「きょう」「あした」と日本語に引きつけて読み下すのと同じである.日本語ではこれらの表記に対してフォーマルな使用域で「さくじつ」「こんにち」「みょうにち」という音読みも行なわれるが,英語では No. 1 をラテン語ばりに "numero unus" などと「音読み」することは決してない.この点においては英日語の比較が成り立たないことは認めておこう.
 しかし,原理的には No. 1 を "number one" と読むのは,「明日」を「あした」と読むのと同じことであり,要するに「訓読み」なのである.この事実を文字論の観点からみれば,No.1 も,ここでは表音文字ではなく表語文字として,つまり漢字のようなものとして機能している,と言えばよいだろうか.漢字の音訓に慣れた日本語使用者にとって,No. 1 問題はまったく驚くべき問題ではないのである.
 関連して「#1042. 英語における音読みと訓読み」 ([2012-03-04-1]) も参照.

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2021-04-17 Sat

#4373. tsunami で英語史,英語学 [japanese][loan_word][corpus][coha][glowbe][oed][htoed][khelf_hel_intro_2021]

 「英語を呑み込む 'tsunami'」と題するコンテンツが,昨日「英語史導入企画2021」の第11作目としてゼミ大学院生よりアップされました.英単語としての tsunami の使用について歴史的に迫る好コンテンツです.調査とインスピレーションのために使われているリソースは,Twitter に始まり,COHA (Corpus of Historical American English), GloWbE (= Corpus of Global Web-Based English), OED (= Oxford English Dictionary), 地震データベース,映画と幅広いです.内容としては,自然科学と社会科学と人文科学を融合させた総合的英語史コンテンツというべき,非常に啓発的な出来映えとなっています.まさに「英語史導入企画2021」の趣旨にピッタリ! ぜひ皆さんに読んでもらいたいと思います.
 同コンテンツ内でも触れられている通り,日本語「津波」が英語 tsunami として英語に借用され,初めて用いられたのは1897年のことです.明治期には数々の日本語の単語が英語に持ち込まれましたが,この単語もその1つです(cf. 「#3872. 英語に借用された主な日本語の借用年代」 ([2019-12-03-1])).しかし,英語に借用されたからといって,必ずしも当初から頻繁に用いられていたわけではありません.コンテンツ内でも触れられているように,tsunami が「津波」を意味する一般的な語として用いられるようになったのは,つい最近のことといってもよいのです.
 それまでは「津波」を意味する英単語としては tidal wave を用いるのが普通でしたし,現在でもこの tidal wavetsunami と共存しています.しかし,よく考えてみると tidal wave というのは誤解を招きやすい表現です.「潮の(大)波」と言われれば何となく納得しそうにもなりますが,「潮」は津波とは相容れない定期的な海洋現象で,これがなぜ「津波」を意味するようになったのか判然としません.実際,Durkin (397) などは tidal wave を "misleading" と評価しています(←この箇所を教えてくれた学生に感謝!).

A special case is shown by tsunami (1897), which, since it denotes a widespread natural phenomenon, can be used freely in English without any implicit associations with Japanese (or even generalized Eastern) culture, and is now preferred by most speakers to the misleading term tidal wave.


 なぜ近年になって,tsunamitidal wave に代わり急速に用いられるようになってきたのでしょうか.これは,まさに上記のコンテンツが英語史的なアプローチにより解決しようとしている問題です.
 以下は私のブレスト結果にすぎませんが,この問題に関わってきそうな他の英語学的な観点をいくつか挙げてみたいと思います.いずれも tsunami という語のインパクト・ファクターに注目する視点です.

 ・ 意味論的にいえば,tsunamitidal wave の denotation こそ基本的に受け継いでいるものの,津波の強力さや恐ろしさなどを想起させる種々の connotation が加わっており,独自の存在価値をもつ語として受容されるようになってきたのではないか.
 ・ 形態論(語形成論)的にいえば,tidal wave のような複合語ではなく,単体語であるということ(日本語としてみれば「津」+「波」の2形態素だが)は,上記の種々の connotation を(分析的ではなく)総合的に含み込んでいることとマッチする.
 ・ 音韻論的にいえば,「#3949. 津波が現代英語の音素体系に及ぼした影響」 ([2020-02-18-1])」で触れたとおり,onset における /ts/ の生起は英語史的にはかなり新しい現象であり,それだけで多少なりとも異質で目立つことになる.近年の借用語であることが語頭で一発で示されることにもなる.それと連動して,語頭の綴字 <ts> も英語らしくないので,やはり借用語であることが視覚的にも一目瞭然となる.これらが当該単語のインパクトに貢献している.
 ・ 韻律的にいえば,おもしろいことに同じ3音節でも tídal wàve (強弱強)と tsunámi (弱強弱)は正反対である.このように韻律上の差異があることも,相対的に後者の新鮮さを浮き彫りにしているのかもしれない.
 ・ 社会言語学的にいえば,地質学や海洋学などの特殊レジスターに属する単語という位置づけから,一般レジスターへ進出したとみることができる.

 以上,当の海洋現象は望ましくないものの英単語としては広まってしまった tsunami について,英語史・英語学してみた次第です.tsunami については「#1432. もう1つの類義語ネットワーク「instaGrok」と連想語列挙ツール」 ([2013-03-29-1]) の記事でも軽く触れています.
 なお,上記の Durkin の言及について教えてくれた学生から,あわせて「Tsunami or Tidal Wave? --- 舘林信義」というウェブ上の記事も教えてもらいました.たいへん貴重な情報.多謝.

 ・ Durkin, Philip. Borrowed Words: A History of Loanwords in English. Oxford: OUP, 2014.

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2021-02-19 Fri

#4316. 日本語型 SOV 言語は形態的格標示をもち,英語型 SVO 言語はもたない [typology][case][syntax][word_order][morphology][japanese]

 標題は,類型論的な傾向として指摘されている.日本語などの SO 語順をもつ言語は,何らかの形態的な格標示をもつ可能性が高いという.実際,日本語には「が」「を」「の」などの格助詞があり,名詞句に後接することで格が標示される仕組みだ.一方,英語を典型とする SV 語順をもつ言語は,そのような形態的格標示を(顕著には)もたないという.英語にも人称代名詞にはそれなりの格変化はあるし,名詞句にも 's という所有格を標示する手段があるが,全般的にいえば形態的な格標示の仕組みは貧弱といってよい.英語も古くは語順が SV に必ずしも固定されておらず,SO などの語順もあり得たのだが,上記の類型論が予測する通り,当時は形態的な格標示の仕組みが現代よりも顕著に機能していた.
 上記の類型論上の指摘は,Blake を読んでいて目にとまったものだが,もともとは Greenberg に基づくもののようだ.Blake (15) より関係する箇所を引用する.

It has frequently been observed that there is a correlation between the presence of case marking on noun phrases for the subject-object distinction and flexible word order and this would appear to hold true. From the work of Greenberg it would also appear that there is a tendency for languages that mark the subject-object distinction on noun phrases to have a basic order of subject-object-verb (SOV), and conversely a tendency for languages lacking such a distinction to have the order subject-verb-object (SVO) . . . . The following figures are based on a sample of 100 languages. They show the relationship between case and marking for the 85 languages in the sample that exhibit one of the more commonly attested basic word orders. The notation [+ case] in this context means having some kind of marking, including appositions, on noun phrases to mark the subject-object distinction . . . .


VSO[+ case]3SVO[+ case]9SOV[+ case]34
[- case]6[- case]26[- case]7



The SVO 'caseless' languages are concentrated in western Europe (e.g. English), southern Africa (e.g. Swahili) and east and southeast Asia (e.g. Chinese and Vietnamese).


 この類型論的傾向が示す言語学的な意義は何なのだろうか.

 ・ Blake, Barry J. Case. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2001.

Referrer (Inside): [2022-06-11-1]

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2020-09-10 Thu

#4154. 借用語要素どうしによる混種語 --- 日本語の例 [japanese][hybrid][shortening][borrowing][loan_word][etymology][word_formation][contact][purism][covid]

 先日の記事「#4145. 借用語要素どうしによる混種語」 ([2020-09-01-1]) を受けて,日本語の事例を挙げたい.和語要素を含まない,漢語と外来語からなる混種語を考えてみよう.「オンライン授業」「コロナ禍」「電子レンジ」「テレビ電話」「牛カルビ」「豚カツ」などが思い浮かぶ.ローマ字を用いた「W杯」「IT革命」「PC講習」なども挙げられる.
 『新版日本語教育事典』に興味深い指摘があった.

最近では,「どた(んば)キャン(セル)」「デパ(ート)地下(売り場)めぐり」のように,長くなりがちな混種語では,略語が非常に盛んである.略語の側面から多様な混種語の実態を捉えておくことは,日本語教育にとっても重要な課題である. (262)


 なるほど混種語は基本的に複合語であるから,語形が長くなりがちである.ということは,略語化も生じやすい理屈だ.これは気づかなかったポイントである.英語でも多かれ少なかれ当てはまるはずだ.実際,英語における借用語要素どうしによる混種語の代表例である television も4音節と短くないから TV と略されるのだと考えることができる.
 日本語では,借用語要素どうしによる混種語に限らず,一般に混種語への風当たりはさほど強くないように思われる.『新版日本語教育事典』でも,どちらかというと好意的に扱われている.

混種語の存在は,日本語がその固有要素である和語を基盤にして,外来要素である漢語,外来語を積極的に取り込みながら,さらにそれらを組み合わせることによって造語を行ない,語彙を豊富にしてきた経緯を物語っている. (262)


 英語では「#4149. 不純視される現代の混種語」 ([2020-09-05-1]) で触れたように,ときに混種語に対する否定的な態度が見受けられるが,日本語ではその傾向は比較的弱いといえそうだ.

 ・ 『新版日本語教育事典』 日本語教育学会 編,大修館書店,2005年.

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2020-08-27 Thu

#4140. 英語に借用された日本語の「いつ」と「どのくらい」 [oed][japanese][borrowing][loan_word][lexicology][statistics]

 「#3872. 英語に借用された主な日本語の借用年代」 ([2019-12-03-1]),「#142. 英語に借用された日本語の分布」 ([2009-09-16-1]) などの記事で見てきたように,英語には意外と多くの日本語単語が入り込んでいる.両言語の接触は16世紀以降のことであり (cf. 「#4131. イギリスの世界帝国化の歴史を視覚化した "The OED in two minutes"」 ([2020-08-18-1])),日本語単語の借用は英語史の観点からすると比較的新しい現象とはいえるが,そこそこの存在感を示しているといってよい.このことは「#45. 英語語彙にまつわる数値」 ([2009-06-12-1]),「#126. 7言語による英語への影響の比較」 ([2009-08-31-1]),「#2165. 20世紀後半の借用語ソース」 ([2015-04-01-1]) などでも触れてきた.
 OED Online には,様々なパラメータにより,どの時代にどのくらいの単語が英語語彙に加わったかを視覚化してくれる "Timelines" という便利な機能がある.たとえば「日本語が語源である単語」を指定すると,日本語からの借用語が「いつ」「どのくらい」英語に流入したのかを即座にグラフ化してくれる.その結果は以下の通り.

Japanese Loanwords in English Chronologically by OED

 数としては19世紀後半から爆発的に増え始め,現代に至ることがわかる.19世紀後半といえば,もちろん我が国が英米を含む西洋諸国との濃密な接触を開始した幕末・明治維新の時代である.
 棒グラフをクリックすると,該当する単語のリストも得られる.ここまで簡単な操作でグラフ化してくれるとは本当に便利な世の中になったなあ.

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2020-08-15 Sat

#4128. なぜ英語では「兄」も「弟」も brother と同じ語になるのですか? --- hellog ラジオ版 [hellog-radio][sobokunagimon][hel_education][japanese][semantics][lexeme][sobokunagimon][sapir-whorf_hypothesis][fetishism][lexical_gap]

 hellog ラジオ版の第16回は,多くの英語学習者が「初学者の頃からずっと気になっていた」とつぶやく素朴な疑問です.日本語では「兄」と「弟」の区別はほぼ常に重要ですが,英語では両者を brother と1語にまとめあげるのが普通です.確かに英語にも elder brotheryounger brother などの表現はありますが,これは年齢の上下が問題となり得る特殊な状況で用いられる特殊な表現というべきで,やはりデフォルトの表現は brother でしょう.なぜ日英語間には,単語の意味の守備範囲について,このような食い違いがみられるのでしょうか.では,解説の音声をどうぞ.



 端的にいえば,各言語(の世界観)には独自の「顕点」があるということです.日本語(文化)は年齢の上下関係を重視する発想をもっており「上下関係」が顕点となっていますが,英語(文化)では「上下関係」は顕点ではありません.日本語にみられる上下関係という顕点は,伝統的な儒教文化に負うところが大きいと思われます.各言語の示す顕点には,しばしば文化的背景が関わっています.
 しかし,言語間で単語の意味の守備範囲が異なっている事例のすべてを文化的背景で説明することはできません.文化的背景による安易な説明は,自文化優越論にも発展しやすく,注意が必要だと思っています.日英語から特定の単語を取り上げて,その意味の違いを喧伝し,日本語文化と英語文化の対照を安易に論じることには慎重であるべきと考えます.「一単語文化論」には要注意です.
 今回の素朴な疑問は,言語相対論 (linguistic_relativism) やサピア=ウォーフの仮説
  (sapir-whorf_hypothesis) などの言語論上の大きな問いに繋がってきます.関連して,##3779,1868,1894,2711,1337の記事セットを是非お読みください.

Referrer (Inside): [2022-11-09-1]

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2020-07-31 Fri

#4113. 日本語のコロナ関連語録 [japanese][neologism][waseieigo][katakana][borrowing][shortening][false_friend][semantic_change][lexicology][word_formation][sociolinguistics]

 戦争,飢餓,疫病など苦難の時代には,言語も荒波に揉まれてきた.目下のコロナ禍では言語の何が変わるのだろうか.すでにいくつか候補が挙げられるようにも思う.
 たとえば,英語でいえば,「#4105. 銅像破壊・撤去,新PC,博物館」 ([2020-07-23-1]) でみたように,BLM運動との関連で人種差別を喚起させる特定の語句や表現が槍玉にあげられたり,自主的に置換されるという事態が生じている.これは厳密にいえばコロナ禍の直接的な影響によるものではないが,既存の社会問題がコロナ下の不安と憤懣のなかで増幅して爆発した結果とみなすならば,間接的には関与しているといえる.
 日本語では,様々なコロナ関連表現が,きわめて短期間のうちに生まれ定着してきたことは,肌身に感じられるだろう.7月25日(土)の読売新聞朝刊の特別面(11面)に「コロナ時代の言葉たち」と題する特集が掲載されていた.出現順に挙げるとおもしろそうだが,順番は意識せずに一覧を掲げてみる.

3密,8割削減,10万円給付,Go To トラベル,PCR,Skype,WHO,Zoom,あつ森,アクリル板,アビガン,アベノマスク,アマビエ・アマビコ,ウーバーイーツ,ウィズコロナ,ウェブ面接,エクモ,エッセンシャルワーカー,オーバーシュート,オンライン授業,クラスター,クルーズ船,コロナ (COVID-18),ステイホーム,スペイン風邪,チャーター便,テレワーク,ドライブスルー,ニューノーマル,パンデミック,フェースシールド,ライブハウス,リモートマッチ,ロックダウン,医療崩壊,一世休校,院内感染,屋形船,感染経路不明,緩み,休業要請,緊急事態宣言,県をまたぐ移動,抗原検査,抗体検査,行動変容,再生産数,持ちこたえている,自粛警察,社会的距離(ソーシャル・ディスタンス),手作りマスク,手指消毒,手洗い,収束/終息,出口戦略,新しい生活様式,瀬戸際,正念場,接触確認アプリ,接触感染,専門家会議,巣ごもり,大阪モデル,第2波,置き配,昼カラオケ,転売ヤー,東京アラート,濃厚接触,買い占め,飛沫感染,不要不急の外出自粛,武漢,分散登校,無観客,夜の街,臨時休講


 新語(句)の形成法としては,和製英語あり,借用あり,漢熟語あり,省略ありと,なかなかに新旧の方法が入り交じった賑やかな様相を呈している.新語(句)というよりは,既存の語(句)に新たな語義が付け加えられたり,ニュアンスが変化したりという,意味変化の事例も多い.この一覧を用いて語形成や意味論の基本を論じる講義を準備できるのではないかとすら感じた.

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2020-02-18 Tue

#3949. 津波が現代英語の音素体系に及ぼした影響 [phonology][phoneme][phonemicisation][phonotactics][consonant][japanese][loan_word]

 現代英語では [ts] の発音は珍しくも何ともない.cats, hits, let's, nights, watts など,t で終わる基体に複数や3単現の -s が付加すれば,すぐに現われる音連鎖だ.しかし,この破擦音は2つの形態素をまたぐ位置に生じるため,音韻論的にはあくまで音素 /t/ と音素 /s/ が各々独立した立場で,この順に並んだものと解釈される.つまり,[ts] の音素表記はあくまで /ts/ であり,/t͡s/ ではない.
 しかし,借用語まで視野に入れると,形態素境界をまたぐわけではない [ts] も現に存在する.ロシア語からの借用語 tsar/czar (皇帝)は [zɑː] とも発音されるが,[tsɑː] とも発音される.日本語からの借用語 tsunami も [ts] で発音される.数は多くないが語末以外に [ts] が現われる借用語は近代以降増えてきており,/ts/ ではなく /t͡s/ の意識が芽生えてきているともいえるかもしれない.もしそうであれば最新の音素化 (phonemicisation) の事例となり,英語音韻史上の意義をもつ.この点で Minkova (148) の議論が参考になる.

. . . /ts/ is phonotactically non-native but not universally unattested. The earliest <ts->-initial borrowing in English is from Slavic: tsar (1555); the voiceless alveolar affricate onset [t͡s-] in this word and its many derived forms is most commonly assimilated to a singly articulated [z-], though the affricate [t͡s-] pronunciation is also recorded. Only three more [t͡s-] words were added in the sixteenth to seventeenth century, nine in the eighteenth century, and twenty-three between 1901 and 1975, with sources from languages from all over the world: Burmese, Chinese, German, Greek and Japanese. All of the most recent borrowing preserve the [t͡s-]; apparently the phonotactic constraint which generated the [z-] in tsar is no longer part of the system: no one would say [t͡s-] or [zuːˈnɑmi]. In other words, [t͡s-], although of more recent lineage, is likely to join [ʒ] ... as an addition to the consonantal inventory. The still marginal acceptability of a [t͡s-] onset can be related to its relative complexity and lower frequency of occurrence, though tsunami is hardly a rare item in English after 2011.


 [t͡s-] で始まる単語がまだ少なく,たいてい頻度も低いので,/t͡s/ の音素化が起こっているとはいえ,あくまで緩やかなものだという議論だが,引用の最後にあるように tsunami は決してレアな単語ではない.自然災害や気象など地球環境の変化に懸念を抱いている現代世界の多くの人々が注目するキーワードの1つである.この単語が高頻度化するというのは私たちにとって望ましくないことだが,英語の音素体系の側からみれば /t͡s/ の着実な音素化に貢献しているともいえる.
 過去の最新の音素化といえば,引用にも触れられているように /ʒ/ が挙げられるし,/ŋ/ もある.前者については「#1222. フランス語が英語の音素に与えた小さな影響」 ([2012-08-31-1]) の (2) を,後者については「#1508. 英語における軟口蓋鼻音の音素化」 ([2013-06-13-1]) を参照.

 ・ Minkova, Donka. A Historical Phonology of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2014.

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