昨日の記事「#2809. 英語の音位転換は直接隣り合う2音に限られる」 ([2017-01-04-1]) の後半で,日本語の音位転換 (metathesis) では,母音を挟んで2つの子音が交替することに言及した.実は,これは驚くべき事実である.日本語では,仮名書きすると「ぶんぶくちゃがま」と「ぶんぶくちゃまが」のように,「が」と「ま」がひっくり返っているように見えるので,仮名単位あるいはモーラ単位での交替と記述すればスマートのように思われる.「あらた」と「あたら」,「つごもり」と「つもごり」,「したづつみ」と「したつづみ」でも,2モーラの位置が入れ替わっているとみなすのが単純である.
しかし,幼児の言い間違えの例として「てがみ」と「てまぎ」,「めがね」と「めなげ」,「たまご」と「たがも」,「おまけ」と「おかめ」などの例を考えると,文字やモーラの入れ替えとして説明することはできない.ローマ字書きすれば明らかだが,karada と kadara,tegami と temagi,megane と menage,tamago と tagamo,omake と okame のように,問題の2モーラについて母音は据え置かれるが,子音が入れ替わっていると考えられる.前段落に挙げた「あらた」と「あたら」などの例では,たまたま2モーラの母音が同一なので,生じている音位転換はモーラ単位での入れ替えと見えるが,実際にはここでも子音が入れ替わっているものと考えておくほうが,理論的一貫性が保てる.「さざんか」 (sazaNka) と「さんざか」 (saNzaka) のように,モーラ単位で考える必要がある例も見受けられるものの,概ね上記の記述は有効だろう.
その他,様々な例を勘案すると,日本語の音位転換は「3音節以上の語で,2音節以降の隣接する音節間で生じる」ものであり,かつ原則として「子音だけが入れ替わる」ものであることが分かる(藤原,p. 6--7, 9).以上のことは,藤原 (9) が論じたことであり,驚きをもって次のように評している.
日本語はモーラ言語であり,仮名は音節文字である.それゆえ,子音+母音は緊密に結合した単位として,音位転換の場合にも両音が分離することはないと思われるが,実際にはこの結束は破られ,子音だけが入れ替わる.この事実は分析を行った筆者にとっても大きな驚きであった.
英語と日本語以外のさまざまな言語の音位転換の例を分析して,個々の言語における原則を引き出し,音節構造と音位転換との関係を調べると,興味深い事実が発掘できそうである.
・ 藤原 保明 『言葉をさかのぼる 歴史に閉ざされた英語と日本語の世界』 開拓社,2010年.
昨日の記事「#2789. 現代英語の Engl&,中英語の 7honge」 ([2016-12-15-1]) で,本来の表語文字 <&> や <⁊ > が純粋に表音文字として用いられている例を見た.文字遊びとして「おもしろい」と思うかもしれないし,「中英語にもあったなんて」と驚くかもしれないが,ほとんど同じ原理の文字使用が,かつての日本語にもあった.万葉仮名の「借訓」の用法である.むしろ,大陸からもたらされた漢字という文字体系と必死に格闘せざるを得なかった上代の日本人にとっては,このような文字の使い方は,文字遊びであるという以上に,まさに真剣勝負だったのかもしれない.
ここで,上代日本人が,漢字という文字体系をいかにして日本語の書記に適用したかという観点から,漢字の用い方を整理しよう.以下,佐藤 (49--51) より,詳細な分類を再現する.
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(1) 正音(漢語をそのまま用い,字訓で読まれる)
布施(ふせ),餓鬼(がき),双六(すごろく),塔(たふ)
(2) 正訓(日本語の意味が漢字の字義と一致,あるいは共通する度合が高い場合の,日本語の訓を表す)
一字訓:心(こころ),情(こころ),思(おもふ),念(おもふ),音(こゑ・おと)
熟字訓:光儀(すがた),茅子(はぎ),織女(たなばた)
(3) 義訓(語の意味を間接的に喚起する分析的・解説的な表記)
金風(あきかぜ),暖(はる),寒(ふゆ),乞(こそ),不安(くるし)
[表音本意] 真仮名・万葉仮名と称する
(1) 音仮名(借音仮名・借音字とも呼ばれる)
・ 一音節を表示する音仮名
1. 全音仮名(無韻尾字)
阿(あ),伊(い),宇(う),麻(ま),左(さ),知(ち),之(し)
2. 略音仮名(有韻尾字,韻尾を捨てる)
安(あ),散(さ),芳(は),欲(よ),吉(き),万(ま),八(は)
3. 連合仮名(有韻尾字,韻尾を後続音に解消する)
印南(いなみ),吉師(きし),奈伎和多里南牟(なきわたりなむ)
・ 二音節を表示する音仮名(有韻尾字,韻尾に母音を加える.二合仮名とも呼ばれる)
君(くに),粉(ふに),険(けむ),兼(けむ),濫(らむ),越(をち),宿祢(すくね)
(2) 訓仮名(借訓仮名・借訓字とも呼ばれる)
・ 一音節を表示
押奈戸手(おしなべて),田八酢四(たやすし),名津蚊為(なつかし),湯目(ゆめ)(副詞),家呼家名雄母(いへをもなをも)
・ 多音節(一字二音節以上)表示
言借(いふかし)(不審),雲谷裳(くもだにも),夏樫(なつかし),名束敷(なつかしき),奈都炊(なつかしき),慍下(いかりおろし)(碇)
・ 熟合仮名(二字一音節,二字二音節など.熟字訓を利用)
五十日太(いかだ),嗚呼児乃浦(あごのうら),二十物(はたもの)(織物),見左右(みるまでに)
(3) 戯書
1. 字謎
色二山上復有有山者(いろにいでば)
2. 擬声語表記から
神楽声浪(ささなみ),馬声蜂音石花蜘虫厨荒鹿(いぶせくもあるか),追馬喚犬所見喚鶏(そまみえつつ)
3. 九九と関連して
十六自物(ししじもの),八十一隣之宮(くくりのみや),不知二五寸許瀬(いきとをきこせ)(助詞),生友奈重二(いけりともなし)
4. 義訓・熟字訓・熟合仮名の技巧から
恋渡味試(こひわたりなむ)(←舐(助動詞)),事毛告火(こともつげなむ)(←南(助詞)),暮三伏一向夜(ゆふづくよ)(古代朝鮮の木四戯の目),所聞多祢(←喧)
漢字は,表意本意の使い方と表音本意の使い方に大きく2分される.表意本意の用法は,いわばオリジナルの中国風の漢字の用法だが,表音本意の用法,すなわち万葉仮名こそが,日本における新機軸だった.万葉仮名は,見た目は漢字だが,機能としては平仮名・片仮名に類する表音文字として用いられているものである.万葉仮名の表音的用法も細かく下位区分されるが,上の (2) に挙げられている「訓仮名」の原理こそが,英語の <Engl&>, <⁊honge> に見られる原理である.
訓仮名は,ある漢字の和訓が確定し,他の訓で読まれる可能性が少なくなってから生じる用法であるから,常に後に発生するものである.同じように,<&> や <⁊ > も各々 and という「訓読み」が確定していたからこそ,後に表音的にも用いられるようになったものである.<Engl&>, <⁊honge> における <&>, <⁊ > の使い方は,感覚的には,万葉仮名でいえば「夏樫」(なつかし),「偲食」(しのはむ)のタイプの「多音節表示の訓仮名」に近いのではないか.本来的に表意的な文字の意味を取って読み下し,その読み下した音列を,今度はその意味から切り離して,その音を部分的にもつ単語を純粋に表音的に表記するために用いる,という用法だ.言葉で説明するとややこしいが,つまるところ <Engl&> で England と読ませ,<夏樫> で「なつかし」と読ませる原理のことである.
万葉仮名については,「#2386. 日本語の文字史(古代編)」 ([2015-11-08-1]),「#2390. 文字体系の起源と発達 (2)」 ([2015-11-12-1]) を参照.
・ 佐藤 武義 編著 『概説 日本語の歴史』 朝倉書店,1995年.
「#2717. 暗号から始まった点字」 ([2016-10-04-1]) の記事で見たように,ブライユ点字は,シャルル・バルビエの考案した「夜間文字」の応用である12点点字を,ブライユが6点点字に改良したことに端を発する.19世紀始めには,目の不自由な人々にとっての読み書きは,紙に文字を浮き出させた「凸文字」によるものだった.しかし,指で触って理解するには難しく,広く習得されることはなかった.そのような時代に,ブライユが読みやすく理解しやすい点字を考案したことは,画期的な出来事だった.音楽の得意だったブライユは,さらに点字音符表を作成し,点字による楽譜表記をも可能にした.
その後,19世紀後半から20世紀にかけて,ブライユ点字は諸言語に応用され,世界に広がっていく.1854年にフランス政府から公式に認められた後,イギリスでは英国王立盲人協会を設立したトーマス・アーミテージがブライユ点字を採用し,改良しつつ広めた.アメリカでは,ニューヨーク盲学校のウィリアム・ウエイトらがやはりブライユ点字に基づく点字を採用した.1915年に標準米国点字が合意されると,1932年には英米の合議により英語共通の点字も定まった(この点では,アメリカとイギリスで異なる体系を用いている手話の置かれている状況とは一線を画する;see 「#1662. 手話は言語である (1)」 ([2013-11-14-1])).
我が国でも,1887年に東京の盲学校に勤めていた小西信八がブライユ点字を持ち込み,日本語への応用の道を探った.そして,1890年(明治23年)11月1日に石川倉次(=日本点字の父)の案が採用されるに至った.この日は,日本点字制定記念日とされている.
点字を書くための道具に,板,定規,点筆がセットになった「点字盤」がある.板の上に紙をのせた状態で,穴の空いた定規を用いて点筆で右から左へを点を打っていくものである.通常の文字と異なり,点字は紙の裏側から打っていく必要があり,したがって,発信者の書きと受信者の読みの方向が逆となる.これは点字の読み書きに関する顕著な特徴といってよいだろう.また,日本語点字はかな書きで書かれるため,分かち書きをする必要がある点でも,通常の日本語書記と異なる (see 「#1112. 分かち書き (1)」 ([2012-05-13-1])) .現代では,伝統的な点字盤のほか,点字タイプライターやコンピュータにより,簡便に点字を書くことができるようになっている.
日本でも身近なところで点字に出会う機会は増えてきている.電化製品,缶飲料,食品の瓶や容器など,多くの場所で点字が見られるようになった.
・ 高橋 昌巳 『調べる学習百科 ルイ・ブライユと点字をつくった人びと』 岩崎書店,2016年.
「#2698. hyphen」 ([2016-09-15-1]) の記事で tomorrow の話題に触れたことを受け,9月16日付けの掲示板で,morrow という語についての質問が寄せられた.互いに関連する,morn, morning などとともに,これらの語源を追ってみたい.
古英語で「朝」を表わす語は,morgen である.ゲルマン祖語の *murȝanaz に由来し,ドイツ語 Morgen, オランダ語 morgen と同根である.現代英語の morn は,この古英語 morgen の斜格形 morne や mornes などの短縮形,あるいは中英語で発展した morwen, morun, moren などの短縮形に由来すると考えられる.morn は現在では《詩》で「朝,暁」を表わすほか,スコットランド方言で「明日」も表わす.
一方,現代英語で最も普通の morning は,上の morn に -ing 語尾がついたもので,初期中英語に「朝」の意味で初出する.この -ing 語尾は,対になる evening からの類推により付加されたとされる.evening の場合には,単独で「晩」を表わす古英語名詞 ēfen, æfen から派生した動詞形 æfnian (晩になる)が,さらに -ing 語尾により名詞化したという複雑な経緯を辿っているが,morning はそのような途中の経緯をスキップして,とにかく表面的に -ing を付してみた,ということになる.
さて,古英語 morgen のその後の音韻形態的発展も様々だったが,とりわけ第2音節の母音や子音 n が変化にさらされた.n の脱落した morwe などの形から,「#2031. follow, shadow, sorrow の <ow> 語尾」 ([2014-11-18-1]) に述べた変化を経て,morrow が生じた.現在,morrow も使用域は限定されているが,《詩》で「朝;翌日」を意味する.なお,語尾の n の脱落は,対語 even にも生じており,ここから eve (晩;前夜;前日)も初期中英語期に生じている.
さて,本来「朝」を表わしたこれらの語は,同時に「明日」という意味を合わせもっていることが多い.前の晩の眠りに就いた頃の時間帯を基準として考えると,「朝」といえば通常「翌朝」を指す.そこから,指示対象がメトニミー (metonymy) の原理で「翌日の午前中」や「翌日全体」へと広がっていったと考えられる.tomorrow も,「前置詞 to +名詞 morrow」という語形成であり,「(翌)朝にかけて」ほどが原義だったが,これも同様に転じて「翌日に」を意味するようになった.なお,日本語でも,古くは「あした」(漢字表記としては <朝>)で「翌朝」を意味したが,英語の場合と同様の意味拡張を経て「翌日」を意味するようになったことはよく知られている.
なお,上で触れた eve (晩)は,今度は朝起きた頃の時間帯を基準とすると,「昨晩」を指すことが多いだろう.そこから指示対象が「昨日全体」へと広がり,結局「前日」を意味するようにもなった.
「#2680. deixis」 ([2016-08-28-1]) に関わる文法範疇 (category) の1つに,人称 (person) がある.ただし,直接 deixis に関係するのは,1人称(話し手)と2人称(聞き手)のみであり,いわゆる3人称とはそれ以外の一切の事物として否定的に定義されるものである.「私」と「あなた」の指示対象は,会話の参与者が変わればそれに応じて当然変わるものであり,コミュニケーションにとって,このように相対的な指示機能を果たす1・2人称代名詞が是非とも必要だが,3人称については,絶対的にそれを指し示す名詞(句)だけを使っても用を足すことはできる.例えば代名詞「彼」や「彼女」を用いる代わりに,「鈴木」や「山田」と名前を繰り返し用いて済ませることも可能である.したがって,諸言語の人称代名詞体系において最も本質的なものは1,2人称であり,3人称は場合によってなしでも可である.
Huang (137) は,3人称代名詞を欠く言語がありうる理由について,次のように述べている.
Third person is the grammaticalization of reference to persons or entities which are neither speakers nor addressees in the situation of utterance, that is, the 'participant-role' with speaker and addressee exclusion [-S, -A] . . . . Notice that third person is unlike first or second person in that it does not necessarily refer to any specific participant-role in the speech event . . . . Therefore, it can be regarded as the grammatical form of a residual non-deictic category, given that it is closer to non-person than either first or second person . . . . This is why all of the world's languages seem to have first- and second-person pronouns, but some appear to have no third-person pronouns.
具体的に Huang が3人称代名詞を欠く言語として言及しているのは,Dyirbal, Hopi, Yéli Dnye, Yidiɲ, 及びコーカサス諸語である.
実は,日本語にしても,人称代名詞をどのように考えるかという議論はあるが,3人称代名詞については古来指示代名詞の転用が一般的であり,独自のものはなかったといってよい.1人称はア・アレ,ワ・ワレ,2人称ではナ・ナレが固有の語幹としてあったのに対し,3人称は少なくとも独自の語幹をもつほどには発達していなかったからだ.
ところで,日本語でも英語でも小さい子供が自分のことを1人称代名詞ではなく固有名詞で呼ぶ現象があるが,あれは相対的なものの見方や自我の発達と関係があるのだろうか.deixis は,その時々の立ち位置を定めた上での相対的な指示機能であるから,認知能力の発達と関係しそうではある.これは絶対敬語の問題とも関係し,広い意味で語用論の話題,deixis の話題といえる.
・ Huang, Yan. Pragmatics. Oxford: OUP, 2007.
言語史における時代区分については,periodisation の各記事で取り上げてきたが,英語史に関していえば,古英語,中英語,近代英語(現代を含む)と3分する方法が長らく行なわれてきた.文法史という観点から英語史のこの3分法を正当化しようとするならば,1つには印欧祖語由来の屈折がどのくらい保持されているか,あるいは消失しているかという尺度がある.それにより,古英語 = full inflection, 中英語 = levelled inflection, 近代英語 = lost inflection の区分が得られる.2つ目に,それと連動するかたちで,形態統語論的には総合性から分析性 (synthesis_to_analysis) への潮流も観察され,その尺度にしたがって,古英語 = synthetic,中英語 = synthetic/analytic,近代英語 = analytic という区分が得られる.いずれの場合も,中英語は過渡期として中間的な位置づけとなる.
さて,日本語の文法史については,英語の文法史に見られるような大きな潮流や,その内部を区分する何らかの基準はあるのだろうか.森重 (81--83) によれば,日本語文法史には断続から論理への大きな流れが確認され,その尺度にしたがって,断続優勢の古代,断続・論理の不整たる中世,論理優勢の近代と3分されるという.この観点から各々の時代の特徴を概説すると次のようになる.
古代 | 推古天皇の頃から南北朝期末まで | 文における断続の関係が卓越的に表面に出ており,論理的関係は裏面に退いている.断続の関係は,奈良朝期以前から特に係り結びによって表わされており,平安朝中期までに多様化し,成熟した. |
中世 | 室町期初頭から徳川期明和年間まで | 文における断続の関係と論理的関係がいずれも不整に乱れている.断と続が不明瞭で,論理的にも格のねじれた曲流文が成立した.この特徴の成熟は西鶴や近松に顕著にみられる. |
近代 | 徳川期安永年間から現在まで | 文における論理的関係が卓越的に表面に出ており,断続の関係は裏面に退いている. |
「#2559. 小笠原群島の英語」 ([2016-04-29-1]) で,かつて小笠原群島で話されていた英語変種を紹介した.この地域の言語事情の歴史は,180年ほどと長くはないものの,非常に複雑である.ロング (134--35) の要約によれば,小笠原諸島で使用されてきた様々な言語変種の総称を「小笠原ことば」と呼ぶことにすると,「小笠原ことば」の歴史的変遷は以下のように想定することができる.
19世紀にはおそらく「小笠原ピジン英語」が話されており,それが後に母語としての「小笠原準クレオール英語」へと発展した.19世紀末には,日本語諸方言を話す人々が入植し,それらが混淆して一種の「コイネー日本語」が形成された.そして,20世紀に入ると小笠原の英語と日本語が入り交じった,後者を母体言語 (matrix language) とする「小笠原混合言語」が形成されたという.
しかし,このような変遷は必ずしも文献学的に裏付けられているものではなく,間接的な証拠に基づいて歴史社会言語学的な観点から推測した仮のシナリオである.例えば,第1段階としての「小笠原ピジン英語」が行なわれていたという主張については,ロング (134--35) は次のように述べている.
まずは,英語を上層言語とする「小笠原ピジン英語」というものである.これは19世紀におそらく話されていたであろうと思われることばであるが,実在したという証拠はない.というのは,当時の状況からすれば,ピジンが共通のコミュニケーション手段として使われていたと判断するのは最も妥当ではあるが,その文法体系の詳細は不明であるからである.言語がお互いに通じない人々が同じ島に住み,コミュニティを形成していたことが分かっているので,共通のコミュニケーション手段としてピジンが発生したと考えるのは不自然ではない〔後略〕.
同様に,「小笠原準クレオール英語」の発生についても詳細は分かっていないが,両親がピジン英語でコミュニケーションを取っていた家庭が多かったという状況証拠があるため,その子供たちが準クレオール語 (creoloid) を生じさせたと考えることは,それなりの妥当性をもつだろう.しかし,これとて直接の証拠があるわけではない.
上記の歴史的変遷で最後の段階に相当する「小笠原混合言語」についても,解くべき課題が多く残されている.例えば,なぜ日本語変種と英語変種が2言語併用 (bilingualism) やコードスイッチング (code-switching) にとどまらず,混淆して混合言語となるに至ったのか.そして,なぜその際に日本語変種のほうが母体言語となったのかという問題だ.これらの歴史社会言語学的な問題について,ロング (148--55) が示唆に富む考察を行なっているが,解決にはさらなる研究が必要のようである.
ロング (155) は,複雑な言語変遷を遂げてきた小笠原諸島の状況を「言語の圧力鍋」と印象的になぞらえている.
小笠原諸島は歴史社会言語学者にとっては研究課題の宝庫である.島であるゆえに,それぞれの時代において社会的要因を突き止めることが比較的簡単だからである.その社会言語学的要因とは,例えば,何語を話す人が何人ぐらいで,誰と家庭を築いていたか,日ごろ何をして生活していたか,誰と関わり合っていたかなどの要因である.
小笠原のような島はよく孤島と呼ばれる.確かに外の世界から比較的孤立しているし,昔からそうであった.しかし,その代わり,島内の人間がお互いに及ぼす影響が強く,島内の言語接触の度合いが濃い.
内地(日本本土)のような一般的な言語社会で数百年かかるような変化は小笠原のような孤島では数十年程度で起こり得る.島は言語変化の「圧力鍋」である.
・ ロング,ダニエル 「他言語接触の歴史社会言語学 小笠原諸島の場合」『歴史社会言語学入門』(高田 博行・渋谷 勝巳・家入 葉子(編著)),大修館,2015年.134--55頁.
4月5日付の読売新聞朝刊に,東京都文京区小日向の「切支丹屋敷跡」からイタリア人宣教師シドッチ(Giovanni Battista Sidotti; 訛称シローテ; 1668--1714)のものとみられる人骨が発掘されたとの記事が掲載されていた.
シドッチはイタリアのカトリック司祭である.イエズス会士として1704年にマニラにて日本語を学んだ後,1708年にスペイン船で屋久島に単身上陸,キリシタン禁制化の日本に忍び入った最後の宣教師となった.屋久島上陸後,すぐに捕らえられて長崎から江戸へ送られ,小石川切支丹屋敷に監禁された.監禁中,シドッチは新井白石 (1657--1725) に4回にわたり訊問されるなどしたが,その後同屋敷で牢死した.
この事件が日本史上重要なのは,新井白石がシドッチの訊問を通じて,世界知識,天文,地理などを記した『西洋紀聞』 (1715?) と『采覧異言』 (1713?) を執筆したことだ.当初『西洋紀聞』はその性質上,公にはされなかったが,1807年以降に写本が作成されて識者の間に伝わり,鎖国化の日本に洋学の基礎を据え,世界に目を開かせる契機となった.
この事件の日本語書記史上,あるいはローマン・アルファベット史上の意義は,「#1879. 日本語におけるローマ字の歴史」 ([2014-06-19-1]) にも述べたとおり,新井白石がシドッチの訊問を経てローマ字の知識を得たことである.これによって日本語におけるローマ字使用が一般的に促されるということはなく,それは蘭学の発展する江戸時代後期を待たなければならなかったが,間接的な意義は認められるだろう.日本語書記史の観点からより重要なのは,『西洋紀聞』が洋語に対して一貫してカタカナを当てた点である.
今回の新聞記事は,埋葬方法や骨から推定される身長などからシドッチのものとおぼしき人骨が発掘されたとの内容だった.シドッチにとっては無念の獄死だったろうが,彼自身がその後の日本(語)に与えたインパクトは小さくなかったのである.
「#585. 「背広」の語源」 ([2010-12-03-1]) の記事で,日本語の「背広」の語源説の1つとして,ロンドンにある高級紳士服の仕立屋の多い街路 Savile Row に由来するとの見方を紹介した.種々の語源説に関して,服飾評論家の出石が新書で「なぜ「背広」の語源は分かっていないのか」および「「セビロ」は外来語なのか日本語なのか」と題して2章分を割いて論じている.その議論を紹介しよう.
出石は,一般の語源辞典のほか服飾分野の参考図書にも目を通した上で,まず幕末から明治初期に「せびろ」が日本語に入り,定着してから,おそらく大正時代に「背広服」という呼称が現われたらしい点を指摘している (99) .後者は漢字表記としての「背広」を前提としており,英語の civil, Savile Row, Cheviot などが究極の起源となっている可能性は残るにせよ,早い段階で「背広」として日本語に同化していたようだ.出石 (99) 曰く,
「背広服」の言い方が好きであろうとあるいまいと,「背広服」が「背が広い」説の語源をもとに生まれていることだ.仮に「セビロ」の語源を“セイヴィル・ロウ”であると信じていたなら,「セビロ服」の表現は思いつかなかったのではないか.
出石 (101) は結論として次の説を採用している.
要するに幕末から明治のはじめにかけて,たとえば横浜居留地あたりで中国人の洋服職人と日本人職人とが接触をもったことは,おそらく事実であろう.そして中国人が「背広服」と言い始めて,その影響から「背広」が日本語になった,と考えているのに違いない.中国人であったか日本人であったかは別にして広く「背が広い」から説のひとつであることも間違いない.
中国人の仕立てのうまいことは定評だったようだ.この説によれば,「背広」は,英語の何らかの表現から音をとって,それを日本語として当てたのではないことになる.服の構造的特徴に着目し,最初から中国語なり日本語なりの漢字表記を意識して用意された訳語ということになる.
なお,civil clothes の civil を取ってきたという説について,これまで出所が不明確であったが,出石 (102--04) は文献をたどって,荒川惣兵衛がその説を楳垣稔に帰し,後者はさらに師の市河三喜に帰していることが判明した.つまり,これは最終的には市川説と呼んでよさそうだという.英語起源説は,この英語学の大家によって人口に膾炙することになったもののようだ.国語学者の新村出までも,後にこの説を受け入れるに至った (106--07) .さらにいえば,出石 (108) はあくまで推測としているが,Savile Row 説の発案者は福原麟太郎ではないかという.この辺りの「言い出しっぺ捜し」はすこぶるおもしろい.語源学とは,歴史や学者の伝記にも目配りをする必要があるのだろう (cf. 「#466. 語源学は技芸か科学か」 ([2010-08-06-1]),「#727. 語源学の自律性」 ([2011-04-24-1]),「#1791. 語源学は技芸が科学か (2)」 ([2014-03-23-1]) .
・ 出石 尚三 『福沢諭吉 背広のすすめ』 文藝春秋〈文春新書〉,2008年.
2項イディオムとも呼ばれる英語の word pair あるいは binomial について,本ブログでも「#820. 英仏同義語の並列」 ([2011-07-26-1]),「#1443. 法律英語における同義語の並列」 ([2013-04-09-1]),「#2157. word pair の種類と効果」 ([2015-03-24-1]) をはじめ,いくつかの記事で話題にしてきた.
この語法は,特に中英語以降,フランス語やラテン語からの借用語が増えてきたときに,本来語にそれを並置する習慣から生じた.日本語も英語と同じように,諸言語,特に漢語からの借用を広く受け入れてきた経緯があるので,歴史的に似たような状況があったに違いない.この点について,齋藤 (10 fn.) に関連する言及があった.
Cf. "The inaudible and noiseless foot of Time" (Shakespeare: All's Well That Ends Well, V. iii. 41)
"The dark backward and abysm of Time" (Shakespeare: The Tempest, I. ii. 50)
これは昔,わが国の学者が「詩経」の冒頭にある
関関雎鳩,...窈窕淑女,
を,「クヮンクヮンとやはらぎなけるショキウのみさごは,...エゥテゥとゆほびかなるシュクヂョのよきむすめ」と,いわゆる「文選(もんぜん)読み」をしたのに似ている.
文選読みとは,同一の漢語を音と訓で2度読むことで,「豺狼 (サイラウ) のおほかみ」,「蟋蟀 (シッシュツ) のきりぎりす」,「芬芳(フンポウ)トカウバシ」などがこれに当たる.漢文訓読に由来する読み方で,平安時代に流行した,中国の周から梁に至る千年間の詩文集『文選』を読むときにとりわけ用いられたので,この名前がある.英語における本来語と借用語のペアには,後者の意味を理解させるための前者の並置という動機づけがしばしばあったが,文選読みでも同様に,一般には難しく馴染みの薄い漢語を理解しやすくするために和語の訓読を添えるという習慣が発達したものと思われる.これまで話題にしてきた英仏や英羅の単語ペアは,日本語の発想でいうと「音訓複読」というべきものだったわけだ.日英両言語にこのような類似点のあることは,あまり気づかれていないが,ともに豊富な語彙借用の歴史を歩んできたことを考えれば,ある程度は必然的といってもよいのかもしれない(『日本語学研究事典』 p. 117 も参照).
日本語での "binomial" については,「#1616. カタカナ語を統合する試み,2種」 ([2013-09-29-1]) で触れた「アーカイブ〔保存記録〕」「インフォームドコンセント〔納得診療〕」「ワーキンググループ〔作業部会〕」などの表記も,その一例となるだろう.
・ 齋藤 勇 『英文学史概説』 研究社,1963年.
・ 『日本語学研究事典』 飛田 良文ほか 編,明治書院,2007年.
英語の語彙の大部分が諸言語からの借用語から成っていること,つまり世界的 (cosmopolitan) であることは,つとに指摘されてきた.そこから,英語は語彙的にはもはや英語とはいえない,と論じることも十分に可能であるように思われる.英語は,もはや借用語彙なしでは十分に機能しえないのではないか,と.
しかし,Algeo and Pyles (293--94) は,英語における語彙借用の著しさを適切に例証したうえで,なお "English remains English" たることを独自に主張している.少々長いが,意味深い文章なのでそのまま引用する.
Enough has been written to indicate the cosmopolitanism of the present English vocabulary. Yet English remains English in every essential respect: the words that all of us use over and over again, the grammatical structures in which we couch our observations upon practically everything under the sun remain as distinctively English as they were in the days of Alfred the Great. What has been acquired from other languages has not always been particularly worth gaining: no one could prove by any set of objective standards that army is a "better" word than dright or here., which it displaced, or that advice is any better than the similarly displaced rede, or that to contend is any better than to flite. Those who think that manual is a better, or more beautiful, or more intellectual word than English handbook are, of course, entitled to their opinion. But such esthetic preferences are purely matters of style and have nothing to do with the subtle patternings that make one language different from another. The words we choose are nonetheless of tremendous interest in themselves, and they throw a good deal of light upon our cultural history.
But with all its manifold new words from other tongues, English could never have become anything but English. And as such it has sent out to the world, among many other things, some of the best books the world has ever known. It is not unlikely, in the light of writings by English speakers in earlier times, that this could have been so even if we had never taken any words from outside the word hoard that has come down to us from those times. It is true that what we have borrowed has brought greater wealth to our word stock, but the true Englishness of our mother tongue has in no way been lessened by such loans, as those who speak and write it lovingly will always keep in mind.
It is highly unlikely that many readers will have noted that the preceding paragraph contains not a single word of foreign origin. It was perhaps not worth the slight effort involved to write it so; it does show, however, that English would not be quite so impoverished as some commentators suppose it would be without its many accretions from other languages.
英語と同様に大量の借用語からなる日本語の語彙についても,ほぼ同じことが言えるのではないか.漢語やカタカナ語があふれていても,日本語はそれゆえに日本語性を減じているわけではなく,日本語であることは決してやめていないのだ,と.
現在,日本では大和言葉がちょっとしたブームである.これは,1つには日本らしさを発見しようという昨今の潮流の言語的な現われといってよいだろう.ここには,消極的にいえば氾濫するカタカナ語への反発,積極的にいえばカタカナ語を鏡としての和語の再評価という意味合いも含まれているだろう.また,コミュニケーションの希薄化した現代社会において,人付き合いを円滑に進める潤滑油として和語からなる表現を評価する向きが広がってきているともいえる.いずれにせよ,日本語における語彙階層や語彙の文体的・位相的差違を省察する,またとない機会となっている.この機会をとらえ,日本語のみならず英語の語彙について改めて論じる契機ともしたいものである.
関連して,以下の記事も参照されたい.
・ 「#153. Cosmopolitan Vocabulary は Asset か?」 ([2009-09-27-1])
・ 「#334. 英語語彙の三層構造」 ([2010-03-27-1])
・ 「#335. 日本語語彙の三層構造」 ([2010-03-28-1])
・ 「#1296. 三層構造の例を追加」 ([2012-11-13-1])
・ 「#1960. 英語語彙のピラミッド構造」 ([2014-09-08-1])
・ 「#2072. 英語語彙の三層構造の是非」 ([2014-12-29-1])
・ 「#756. 世界からの借用語」 ([2011-05-23-1])
・ 「#390. Cosmopolitan Vocabulary は Asset か? (2)」 ([2010-05-22-1])
・ 「#2359. 英語が非民主的な言語と呼ばれる理由 (3)」 ([2015-10-12-1])
・ Algeo, John, and Thomas Pyles. The Origins and Development of the English Language. 5th ed. Thomson Wadsworth, 2005.
「#2459. 森有礼とホイットニー」 ([2016-01-20-1]),「#2460. William Dwight Whitney」 ([2016-01-21-1]) で,森有礼による日本の英語化についての議論を取り上げた.この森有礼の急進的な英語国語化論に敢然と対抗した一人の知識人がいた.馬場辰猪 (1850--88) である.
馬場は,高知藩士の子として生まれ.福沢諭吉のもと慶応義塾に学び,後にイギリスへ留学し,法学を修めた.その堪能な英語力を駆使して日本を国際的に認知させることを目指すとともに,日本には留学中に学んだ近代思想を導入しようと尽力した.後にアメリカに渡り,フィラデルフィアで肺を病んで客死する.
馬場は,一般にはそれほど知られていないことだが,明治の日本語文法史において注目すべき An Elementary Grammar of the Japanese Language (通称『日本語文典初歩』)を1873年に著わしている.森有礼が日本の英語化の持論をアメリカで発表したのに対し,馬場はこの著書をロンドンで刊行することによってそれに反論し,のちに山田孝雄をして「国語擁護論の大恩人」と言わせしめた.
馬場 (212--23) は,その序論において,森有礼の唱える日本の英語化は,(1) 無駄な時間を費やすことになる,(2) 階級間格差が広がり国民の一体性が失われる,の2点において深刻な問題があり,採るわけにはいかないと力説する.もともとは英語で書かれたものだが,西田訳により引用しよう.
英語は現代語のなかでもっともむずかしい言語のひとつであり,わが国の言葉とはまったく異質のものですから,国民多数がそれを自分のものとするにはたいへん長い時間を要し,多くの貴重な時間が無駄に費やされるでしょう.歴史を繙いてみますと,ある国が他の国から言語を採り入れた例が多く見つかるのは事実です.しかし,たいていの場合は,国が征服された結果,否応なしにそうしたのであって,自らのためにすすんで採り入れたのではありません.ですから,森氏やその他の庶民が日本で行おうと提唱しているものとは,事情がまったく異なります.たとえある国が征服者の威力に屈して言語の採用を余儀なくされる場合でも,その国が,何百年のあいだ使い慣れ,それゆえもっとも便利である母国語を廃棄することはなかったのです.このことは,ウェールズ,アイルランド,スコットランドの国民に見られます.これらの国では,現在,事実二か国語を学んでおり,貴重な時間を無駄にしています.これで,提案の国語置換論の実施はたいへん困難であることがおわかりになるでしょう.
当然のことですが,富裕階級の国民は,貧しい国民層がたえず拘束されている日常の仕事から解放されていますから,その結果,前者は後者より多くの時間を言語の学習にあてることができます.もし,国事が,さらに社交すべてが英語で行われることになれば,下層階級は国全体にかかわる重要問題から閉め出されるでしょう.それは,古代ローマの貴族が jus sacrum (神法),Comitia (民会)等から平民を排斥したのと同じことなのです.その結果,上層階級と下層階級は完全に分離し,両階級のあいだには共通する感情がなくなってしまいます.こうして,国民は一体として行動することを妨げられ,統一体という利点はまったく失われてしまうでしょう.
この序論の結びとして,馬場 (214) は次のように断言する.
すでにわれわれの掌中にあり,それゆえわれわれすべてが知っているものを豊かで完全なものにすべく努めるほうが,それを捨てさり大きな危険を冒してまったく異質の見知らぬものを採用するよりも望ましい,とわれわれも考えるのであります.
馬場の論拠は,これ以上なく妥当なものである.「#2458. 施光恒(著)『英語化は愚民化』と土着語化のすゝめ」 ([2016-01-19-1]) で取り上げた施も,馬場の見解が「現代の目から見ても非常に説得力のあるもの」 (p. 78) であり,「現代の英語化推進派への反駁としても十二分に通用する本質的な指摘である」 (p. 79) としている.
・ 馬場 辰猪,西田 長寿(訳) 「『日本語文典』序文」 『馬場辰猪全集 第1巻』 岩波書店,1987年.209--14頁.
・ 施 光恒 『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 集英社〈集英社新書〉,2015年.
明治時代の英語公用語化論の急先鋒といえば,初代文部大臣を務めた森有礼 (1847--89) の名前が上がる.1870年代,森は日本を欧米列強のように近代化するためには英語で国づくりしなければならないと信じていた.今から思えば極端な思想に思えるが,森は日本語に欧米の先進的な概念を表わす語彙が著しく欠けていたことを真剣に憂いていたのである.
森は,日本の英語公用語化論のための後ろ盾を得ようと,欧米の知識人に手紙を送り,英語の簡易化の要請とともに持論を説いて回った.照会した欧米知識人の一人に,当時のアメリカ言語学会の重鎮でイェール大学の教授である William Dwight Whitney (1827--94) がいた.ところが,おもしろいことに,Whitney は森の勇み足を諫めるような回答を返している.施 (71--72) より,要旨を引用する.
ホイットニーからの返答は,おおよそ次のようなものだった.
母語を棄て,外国語による近代化を図った国で成功したものなど,ほとんどない.しかも,簡易化された英語を用いるというのでは,英語国の政治や社会,あるいは文学などの文明の成果を獲得する手段として覚束ない.そもそも,英語を日本の「国語」として採用すれば,まず新しい言葉を覚え,それから学問をすることになってしまい,時間に余裕のない大多数の人々が,実質的に学問をすることが難しくなってしまう.その結果,英語学習に割く時間のふんだんにある少数の特権階級だけがすべての文化を独占することになり,一般大衆との間に大きな格差と断絶が生じてしまうだろう.
まさに,ホイットニーが懸念したのは,前章で見たラテン語から「土着語」への知識の「翻訳」の努力を通じてヨーロッパの庶民が享受した知的な進歩への道を,日本人が自ら閉ざしてしまうのではないかということだったのだ.
さらに,ホイットニーは次のように述べ,森有礼に日本語による近代化を勧めている.
「たとえ完全に整った国民教育体系をもってしても,多数の国民に新奇な言語を教え,彼らを相当高い知的レベルにまで引き上げるには大変長い時間を要するでしょう.もし大衆を啓蒙しようというのであれば,主として母国語を通じて行われなければなりません」
そしてホイットニーは,日本文化の「進歩」のなかには,「母国語を豊かにする」ことが含まれなければならないと説いた.豊かになった「国語」こそ,日本の文化を増進する手段であり,それが一般大衆を文化的に高めることにつながるというのである.
言語学史上著しい地位を占める Whitney が,このような形で明治日本の英語公用語化論に関わっていたとは知らなかった.
なお,森は極端な欧化主義者とみなされ,後に国粋主義者により暗殺されてしまった.
・ 施 光恒 『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 集英社〈集英社新書〉,2015年.
「#2306. 永井忠孝(著)『英語の害毒』と英語帝国主義批判」 ([2015-08-20-1]) で紹介した書籍の出版とおよそ同時期に,施光恒(著)『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』という,もう1つの英語帝国主義批判の書が公刊されていた.ただし,力点は,英語帝国主義批判そのものというよりも日本の英語化への警鐘に置かれている.この分野の書籍の例に漏れず挑発的なタイトルだが,著者が言語学や教育学の畑ではなく政治学者であるという点で,私にとって,得られた知見と洞察が多かった.
現代日本のグローバル化と英語化の時勢は,近代史がたどってきた流れに逆行しており,むしろ中世化というに等しい,と著者は主張する.西洋近代は,それまで域内の世界語であったラテン語が占有していた宗教的・学問的な特権を突き崩し,英語,イタリア語,スペイン語,フランス語,ドイツ語など土着語の地位を高めることによって,人々の間に分け隔てなく知識を行き渡らせることを可能にした.人々は母語を通じて豊かな情報に接することができるようになり,結果として階級間の格差が小さくなった.これが,近代化の原動力だという.具体的には,聖書の各土着語への翻訳の効果が大きかった.
もし現代世界で進行している英語化がやがて完了し,かつてのラテン語のような特権を享受するようになれば,英語を理解しない非英語母語話者は情報へのアクセスの機会を奪われ,社会のあらゆる側面で不利益を被るだろう.つまり,多くの人々が中世の下級民のような地位,つまり「愚民」の地位へと落ちていくだろう,という.確かに,日本人にとって,日本語という母語・土着語を通じて情報にアクセスするのが,物事の理解・吸収のためには最も効率がよいはずであり,その媒体が英語に取って代わられてしまえば,能率は格段に落ちるはずだ.
著者は,今目指すべきは英語化ではなく,むしろ土着語化であるという逆転の発想を押し出している.では,世界中で英語やその他の言語により発信される価値ある情報は,どのように消化することができるだろうか.その最良の方法は,土着語への翻訳であるという.明治日本の知識人が,驚くべき語学力を駆使して,多くの価値ある西洋語彙を漢語へ翻訳し,日本語に浸透させることに成功したように,現代日本人も,絶え間ない努力によって,英語を始めとする外国語と母語たる日本語とのすりあわせに腐心すべきである,と (see 「#1630. インク壺語,カタカナ語,チンプン漢語」 ([2013-10-13-1])) .
英語が無条件に善いものであるという神話や英語化を前提とする政策の数々が,日本中に蔓延している.この盲目的で一方的な英語観の是正には,英語史を学ぶのが早いだろうと考えている.施 (215) の次の主張も傾聴に値する.
英語の隆盛の一因は,さかのぼれば,イギリス,そしてアメリカの植民地支配の歴史にある.また,第二次世界大戦後,イギリスやアメリカが,植民地を手放す際,旧植民地における実質的な政治力やビジネス上の有利さを残すため,国家戦略の一端として英語の覇権的地位を保ち,推進するよう努めてきた「成果」でもある.
『英語化は愚民化』よりキーワードを拾ったので,次に示しておこう.英語教育改革,英語公用語化論,オール・イングリッシュ,グローバル化史観,啓蒙主義,新自由主義(開放経済,規制緩和,小さな政府),TPP,ボーダレス化,リベラル・ナショナリズム,歴史法則主義.
・ 施 光恒 『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 集英社〈集英社新書〉,2015年.
「文字体系」「書記体系(書記法)」「表記体系(表記法)」という用語は,論者によって使い方が異なるが,私は以下のように考えたい.現代の日本語表記でいえば,そこでは平仮名,片仮名,漢字,ローマ字という独立した「文字体系」が区別される.それぞれの文字体系に関しては独自の「書記法」があり,例えば仮名では仮名遣いが,漢字では常用漢字の使用や熟字訓に関する規範がある.また,文字体系の使い分けや送り仮名の規則など,複数の文字体系の混用に関する標準的な決まりごとがあり,それは日本語の「表記体系」と呼びたい.
この辺りの問題,特に「文字体系」と「表記法」という用語の問題について,河野・西田 (pp. 179--82) が対談している.以下は,西田の発言である.
日本語の文字体系という問題に入りますけれども,まず,文字体系と表記法というのは別の問題だと思うのですね.表記法というのは,どういうふうに日本語を書き表わしているかということです.一方,文字体系というのは,たとえば仮名は仮名で一つの文字体系をもっている.漢字は漢字で一つの文字体系をなしている.ローマ字はローマ字で別の一つの文字体系をもってる.ですから,日本の場合だと,そういう文字体系を混用しているところに特徴があるわけですね.その混用していることをどう考えるかという問題だと思います.
表記法の問題であれば,たとえば今の仮名遣いがそれでいいのか,どういうふうに改良したらいいのかという問題になってきて,これは面倒なことになりますから,あまり個人的な意見をいうのはちょっとむずかしいと思いますので,文字体系が混用されていることをどう考えるかという問題として取り上げたいと思います.
そうすると,日本語の表記には少なくとも三つの文字体系を覚えなければいけない.三つというのは,漢字と仮名――片仮名・平仮名ですね――それからそれに付随してローマ字です.三つの文字体系を覚えなければいけないというのは,記憶に対して非常に負担になるということは一応あるわけですが,それを除いて,三つでも四つでも誰でも記憶できるのだということで考えた場合には,非常に便利ではないかと思うのですね.
文字体系の混用といっても,どの場面にどの文字を使うかが,習慣的にかなりの程度に決まっている.たとえば漢語からきたものは漢字で書く.それから日本的な文法的要素は仮名で書く,欧米からきた借用語は片仮名で書く.そういう,だいたいの配分のようなものが決まっていて,その上で混用されているということになると思います.
たとえば漢字がわからなければ仮名で書いておけばいいわけで,これは非常に便利なことだろうと思います.ほかの言語では,おそらくこのように混用している言語というのは非常に少ない,あるいはほとんどないのではないか.必ずしもそうとはいえないかもしれませんが,そのことはあとでまたちょっと触れたいと思います.
文字の混用はどういう意味があるかといいますと,日本語を書くときに,漢字を使うか,仮名を使うかという選択があった場合に,どちらの文字を使えばより効果的かの一つの判断に立って使っているわけだと思います.漢字の中でも,どの漢字を使うか,たとえばヨロコブには「喜」を使うか,あるいは「慶」を使うか,はたまた「悦」を使うか,これは一つの判断によって決めているわけなんで,そういう文字の選び方は,その文字がもっている本来の価値と付加価値というんですか,その言葉を表記するためにいろいろな人が使っているうちに,自然に付加された価値によっている.それは単に言葉を表記している,意味を表記しているとか,発音を表記しているとか,そういうものだけじゃなくて,歴史の流れの中でそれにプラスされてきた別な価値が生きてくる.その付加価値をどう判断しているかということになると思うのですね.
ですから,字形のもつ価値以外のものは,別に研究していく必要があると思います.
また片仮名を挿入することがどういう意味をもつかということですね.付加価値についての調査はあまりされていないと思うのです.それから複数の文字体系の使用の問題ですが,例えば中国の場合,普通みな漢字だけを使っていると思うわけですけれども,実はそうじゃなくて,拼音文字といわれるローマ字表記が併用されている.もう少し遡った段階では,注音符号という文字が使われていた.ですから,必ずしも文字体系がすべて漢字だけであるとはいえないと思いますね.
このように,とりわけ日本語の表記法の特徴は,ことばを書き記す際に,使用する文字体系やその混用の様式を,書き手がある程度主体的に決められるという点にある.
関連して「#2391. 表記行動」 ([2015-11-13-1]),「#2392. 厳しい正書法の英語と緩い正書法の日本語」 ([2015-11-14-1]),「#2409. 漢字平仮名交じり文の自由さと複雑さ」 ([2015-12-01-1]) を参照されたい.
・ 河野 六郎・西田 龍雄 『文字贔屓』 三省堂,1995年.
書字方向とは,文字を書き進めてゆく向きである.英語では,左から右へと横書きで書き進めて行き,行末に来たら下に行移りして,再び左から右へと書き進める(=左横書き).日本語は英語と同様に横書きもできるが,伝統的には縦書きであり,その場合には上から下へと文字を書き連ね,行移りは右から左へと展開する(=右縦書き).このように普段使い慣れている文字体系については,その書字方向がいかにも自然なもの,必然的なものに感じられるが,これらは伝統的な習慣にすぎない.特定の書字方向が直感されるほど普遍的でないことは,古今東西の様々な例をみれば分かる.
横書きから見てみよう.現在でもアラビア語,ヘブライ語,シリア語などは右から左へと書字を進める右横書きを採用している.ヨーロッパでも,古くは初期ギリシア語や初期ラテン語の碑文などに見られるように,右横書きが行われていた.おもしろいのは牛耕式 (boustrophedon) と呼ばれる書字方向で,これはある行を右から左へ書いたら,次行は左から右へというように交互に逆方向に書き進める方式だった.牛耕式はエジプト聖刻文字,初期ギリシア語,古代小アジアの象形文字などに見られ,鳥などをかたどった象形文字の字形は,典型的に行の向きに応じて左右反転するという特徴があった.ギリシア語やラテン語における右横書きから左横書きへの転換の背景には,より古い段階の牛耕式において,いずれの方向も可能であったという事実が関係していたと思われる.
次に,縦書きについて.縦書き文字の代表選手は,いうまでもなく漢字である.日本,韓国,モンゴル,ベトナムなど漢字に影響を受けた東アジアの文化圏でも,伝統的に縦書きの慣習が採用されてきた.殷墟から発見された漢字の祖型といえる3千数百年前の甲骨文字でも,すでに縦書きが採用されていたが,行移りに関しては,1枚の骨の上ですら,左方向と右方向の両者が確認される.なぜこのように異なる方向の行移りが行われていたのかは詳しく分かっていないが,阿辻 (34)によれば「ただ総じていえば,甲骨文字では骨や甲羅などの記録媒体の周辺部に書かれる文章は外側から内側に行が進み,逆に中心部に書かれる文章では行が内側から外側に進んでいく傾向があるようだ」.しかし,甲骨文字とほぼ同時代の金文では右縦書きが採用されており,これ以降,現在に至るまで漢字文献は右縦書きが基本となっている.この書字方向の定着について,阿辻 (36) は次のように解説している.
行が右から左に進むようになったのは,おそらく竹簡(ちっかん)や木簡(もっかん)のような幅の狭い素材に文字を書き,それを何本も並べて紐で綴じた原始的な書籍の形態に由来するのだろう.何枚もの札をならべて紐で綴じる場合,右利きの人間なら当然,最初の札が一番右端にくるように綴じるはずだ.木簡・竹簡からやがて紙の巻き物に変わっても,紙を右方向に繰り出すのだから,文字を書いた行も右から左に進むこととなった.
とはいっても,漢字の影響を受けたウイグル文字,モンゴル文字,満州文字で,漢字とは逆の左縦書きが採用されている例があるし,屋名池 (49) によれば,幕末から明治にかけての左綴じ洋学書の序文や凡例では日本語でも左縦書きが実践された.
縦書きについて,非常に珍しい事例として,下から上へ書かれる文字がある(阿辻,pp. 37--38).北アフリカで半遊牧生活を送るベルベル人の一部が用いるティフナグ文字というもので,今でも岩壁の碑文などにわずかに残っているという.書き手が下から上へ手を伸ばして刻んでいったものであり,届かない高さになると,行を変えて再び下から書き上げていくということらしい.書き手の背の高さまでおよそ計測できるのがおもしろい.上から下という方向性は重力の影響下に生きる人類にとってほぼ普遍的かと思われたが,それすらも反例があったということである.世界は広い.
最後に,縦書きと横書きを併用できる日本語,中国語,ハングルなどは,古今東西,非常に珍しい文字体系であることに触れておきたい.ほかにもエジプト聖刻文字,梵字,彝文字では縦横両方の書字方向が可能だったが,現代世界で常用されているという点では,日本語のような書字方向の慣習は,きわめて珍しいと言わざるをえない.
書字方向は,当然のことながら,時間軸に沿って1次元的にしか進み得ない線状性 (linearity) に縛られた口頭言語にとっては無縁の話題であり,空間上に展開される書記言語だからこそ論じられる問題である.書字方向は,文字論における「統字論」における重要なトピックであることを言い添えておきたい.関連して,「#1829. 書き言葉テクストの3つの機能」 ([2014-04-30-1]) の記事において触れた,エスカルピの指摘する書記言語の図像的機能も参照.
・ 阿辻 哲次 『一語の辞典 文字』 三省堂,1998年.
・ 屋名池 誠 『横書き登場―日本語表記の近代』 岩波書店〈岩波新書〉,2003年.
「#2408. エジプト聖刻文字にみられる字形の変異と字体の不変化」 ([2015-11-30-1]),「#2412. 文字の魔力,印の魔力」 ([2015-12-04-1]),「#2417. 文字の保守性と秘匿性」 ([2015-12-09-1]) の記事で,文字体系の保守性について議論した.しかし,身近なところで考えてみれば,日本語の表記体系こそ保守的ではないだろうか.確かに,「#2386. 日本語の文字史(古代編)」 ([2015-11-08-1]) や「#2387. 日本語の文字史(近代編)」 ([2015-11-09-1]) で歴史を振り返ったように,日本語の表記体系は様々な変化を経てきたことは事実であり,その意味では「保守的」といえないかもしれない.しかし,やや特殊な位置づけにあるローマ字は別としても,漢字,平仮名,片仮名という3つの文字体系を混合させた表記体系の歴史は,その費用対効果の悪さにもかかわらず,約千年間続いている (cf. "[The writing system of Japanese is] too expensive a cultural luxury for any people in the present age" (qtd. Gardner 349 from Boodberg 20)) .明治以降,ローマ字化 (romanisation) の機運も生じたが,結果的に改革はなされずに混合的な表記体系のまま現在に至っているのである.
この日本語表記体系の保守性は,特にアルファベット文化圏の目線から眺めると異様に映るのかもしれない.日本語(の漢語)のローマ字による翻字 (transliteration) 方法を提案した書籍に対する書評を読んでみた.著者も評者もアルファベット文化圏で育った人物のようであり,その目線からの日本語表記体系の評価は,それを常用し当然視している者にとっては,むしろ新鮮である.
例えば,評者 Gardner は明治期にローマ字化の改革が失敗したことを,英語における綴字改革の成功した試しがないことと比較している.これは,文字体系の保守性という一般的な議論に通じるだろう.". . . societies formed to advocate the use of romanization for Japanese . . . fared little better than societies for the reformation of English spelling" (349).
しかし,とりわけ日本語ローマ字化の失敗の理由を挙げているくだりがおもしろい.Gardner は,(1) 漢字を芸術の対象とみる傾向,(2) 漢字を使いこなす能力を規律,勤勉,権威の象徴とみる傾向,(3) 漢字の表語性の価値を認める傾向,(4) 大量の同音異義語の弁別手段としての漢字の利用,を理由として挙げている.(1) と (2) は文字をめぐる社会文化的な要因,(3) と (4) は言語学的・文字論的な要因といえるだろう.それぞれを説明している部分を Gardner (349) より引用したい.
The passive resistance to romanization draws much of its strength from the high regard for writing as an art. The point is difficult for a westerner to grasp, but good calligraphy is considered as much an index to a man's character as his appearance.
The acquisition of reading and calligraphy represents an investment of long hours of exacting discipline and endless memory work. Why should a statesman, a businessman, or an ordinary citizen---much less a scholar---accept easily the idea of throwing away this proud achievement in order to learn a foreign system that he will read haltingly at first and in which his handwriting will scarcely be distinguishable from a schoolboy's?
[The pronouncement is frequently heard] that the character cannot be separated from the word, or even that the character is the word. The Japanese feel that the understanding of a literary passage would somehow be impaired if the complex reaction to the characters were not brought into play.
Strongest of all is the firm conviction on the part of many Japanese that because of the enormous number of homonyms that exist in the technical and semi-learned language, this would be confusing or unintelligible if reduced to romanization.
日本語の表記体系を外側から,とりわけアルファベットに慣れ親しんでいる者の視点から眺めると,その非常な保守性に気づくことができる.
・ Gardner, Elizabeth F. "Review of UCJ: An Orthographic System of Notation and Transcription for Sino-Japanese. By Peter A. Boodberg. (University of California Publications in East Asiatic Philology, Vol. 1, No. 2, pp. 17--102.) Pp. iii, [86]. Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 1947." Language 26 (1950): 346--55.
「#2392. 厳しい正書法の英語と緩い正書法の日本語」 ([2015-11-14-1]) で話題にしたように,現代日本語の通常の表記法である漢字平仮名交じり文は,古今東西でまれにみる自由さを持ち合わせている.エジプト学者の加藤 (218) は,これに類する例は,エジプト聖刻文字くらいしかないのではないかと述べている.
日本語の文章を書くとき,漢字とカナとを適度に配合できる「自由さ」は,古代エジプト語において表意文字,表音文字,決定詞を配合したような場合を除けば,現在では他の国にほとんど例のない「自由さ」であろう.しかし,この自由さのために,私たちは,日本文を書く場合にも読む場合にも,無意識のうちに,無駄なエネルギーを費やしているのかもしれないし,またこの自由さが,知らず知らずのうちに「正確な文章」よりも「ムードによる文章」をつづらえる傾向を私たちのあいだにうえつけているかもしれない.ともかく,この種の自由さ,便利さは,児童や外国人が日本の文字を習得する場合に,かえって一つの障害となっているのではなかろうか.
なるほど,漢字平仮名交じり文は積極的にとらえれば自由で便利となるが,消極的にとらえれば不正確で主観的ということになる.
また,漢字平仮名交じり文は,日本語母語話者にとっても非母語話者にとっても,学習するうえで難解であることは間違いない.すでにこの慣習に慣れてしまっている者にとっては,その難解さを感じにくいのだが,表語文字体系である漢字と表音文字体系である平仮名を混在させているというのは,理屈の上でたいへん込み入っているということは了解できるだろう.しかも,表語文字体系である漢字のなかでも字音と字訓が区別されており,複雑さが倍増するということも,理屈の上で想像されるだろう.この辺りの事情について,日本語の文字体系の発達史と関連づけながら,藤枝 (217--18) が以下のように鋭く洞察している.
もともと漢字は表音文字であると同時に表意文字であるが,仮名は漢字の表意の方をすてて表音だけを採った.そうなると文章がやたらに長くなるので,日本語の文章の間に漢字をそのまま挟むという芸当をやるようになった.芸当と呼ぶのは,そこで漢字は時に本来の音が無視せられて,日本訓みせられるからである.つまり,表音をすてて表意だけを採る.また,本来の音と意味とをそのままに漢語も挟みこむ.全く融通無碍の芸当という外はない.その結果として,われわれが受けてきた学校教育では,極めて多くの時間,というより年月が,この芸当の習得に充てられることになった.
ここでは,中国語の表語文字体系である漢字が日本において字音,字訓,仮名の3種類へと分化し,その3種がすべて用いられている事実が,驚きとともに述べられている.日本で発達した文字体系とその使用法について,藤枝の説明をもう少し補足しよう.中国語の漢字に形・音・義の3つの属性が備わっていることを前提とすると,日本語表記のために発達した字音,字訓,仮名の3種は,件の漢字の属性を次のように保持したり変化させたりした.
形 | 音 | 義 | |
---|---|---|---|
絖???? | 篆???? | 篆???? | 篆???? |
字訓 | 保持 | 日本語化 | 保持 |
仮名 | 超草書体化 | 保持/日本語化 | 捨象 |
hewayesterdayCHURCHnigotta.
すべてはアルファベットと,その変異であるイタリック体と大文字で書かれている.通常字体の部分は字訓で,大文字体の部分は字音で,イタリック体の部分は日本語音として読むというのがルールである.したがって,この文は /karewakinoːʧaːʧiniitta/ (彼は昨日チャーチに行った)と音読できる.
漢字平仮名交じり文を日常的に読んでいる者は,このようなことを当たり前に実践しているのである.(もっとも,表語文字である漢字を表音文字であるアルファベットに喩えているので,完全な比喩にはならない.あしからず.)
・ 加藤 一郎 『象形文字入門』 講談社〈講談社学術文庫〉,2012年.
・ 藤枝 晃 『文字の文化史』 岩波書店,1971年.1991年.
昨日の記事「#2391. 表記行動」 ([2015-11-13-1]) で,厳しい正書法をもつ現代英語と,正書法の緩い現代日本語の対比に触れた.正書法 (orthography) とは,基本的には語の書き表し方の規則である.英語であれば語の綴り方のことになり,日本語であれば使用漢字の制限,漢字と送り仮名,仮名遣い,同訓異字,外来語表記などの問題が関係する.日本語の正書法について内閣の告示や訓令によって「目安」や「よりどころ」はあるとはいえ,強制力はなく,そこから逸脱したものが即「間違い」になるわけでもないという点では,やはり現代英語の正書法とは異なり,緩いものと見なさざるを得ない(日本語のこの問題に関しては,今野(著)『正書法のない日本語』を参照).
そもそも日本語は漢字,平仮名,片仮名,ローマ字という4つの文字体系で書き表すことができる.英語ではある動物の名前を書き表すのに,書体,字形,大文字・小文字などの区別を無視すれば,<cat> と綴る以外に選択肢はない.しかし,日本語では <猫> のほか,<ねこ> や <ネコ>,また場合によっては <neko> ですら許容され,いずれも間違いとはいえない.日本語の表記においては,書き手の置かれている文脈・場面・状況や書き手の気分により,表記に判断や選択の余地がある.それでも古い日本語に比べれば,現代日本語にはある程度の「目安」や「よりどころ」があるのも事実であり,正書法がまったくないと言うこともできない.
世界の主要な言語に関していえば,書記の近現代史は,程度の差はあれ標準化と規範化の歴史といえる.政府機関やアカデミーが関与して正書法を制定するフランスのような国もあれば,数世紀をかけて下からのたたき上げで正書法を確立したイギリスのような国もある.日本では,明治時代以降,政府が介入して指針を示してきた.多くの言語はその過程でおよそ「厳しい」正書法を確立してきたが,日本語の正書法は,珍しいことにあくまで「緩い」状態にとどまっている.
このように国ごと,言語ごとに正書法確立の歴史は異なっているが,この違いが何に由来するのかを問うことは無意味だろうか.社会,文化,政治,歴史といった社会的要因はもちろん関与するだろうが,そのほかに部分的にであれ,書き表す対象の言語体系や採用されている書記体系の性質そのものに由来する諸要因の関与を想定することはできないだろうか.これは,各言語の表記体系の規範化についての話題だが,その前に各時代における当該の表記体系の記述的な研究がなされなければならないだろう.
・ 今野 真二 『正書法のない日本語』 岩波書店,2013年.
昨日の記事に引き続き,佐藤編著の第4章「近代の文字」 (pp. 63--83) に依拠して近代編をまとめる.
古代,漢字の担い手は一部の教養層に限られていたが,近代になるにつれ,富裕な町人層へ,そして教育を通じて一般に国民へと開かれていった.とはいえ,漢字という難解な文字体系が社会へ広く浸透するには困難を伴ったはずであり,仮名の読み書きに比べて浸透が相対的に遅れたことは確かだろう.漢字の拡がりには,活字による出版という新メディアの登場が一役買ったことは間違いない.室町末期から「古活字版」が盛んに行なわれ,その後,振り仮名も付した「製版」を通じて,人々が漢字を含む文字に触れる機会は増した.なお,実用的な漢字の書体は草書や行書であり,規範的な表記から逸脱した当て字も通行したことを付け加えておこう.
明治時代になると,漢字の使用制限の機運が高まった.前島密は慶応2年 (1867) に「漢字御廃止之議」を建白し,もっぱら仮名書きを提唱した.福沢諭吉は,明治6年 (1873) に,漢字全廃には同意できないが,2, 3千字程度に抑えるべきだと主張した.そのような状況下で文部省は明治33年 (1900) に教育用漢字1200字を定め,その後も戦前・戦中を通じていくつかの漢字制限案を出した.戦後,昭和21年 (1946) には1850字からなる「当用漢字表」が公布された.これは規範としての性格が強いものだった.昭和56年 (1981) には,その改訂版として1945字からなる「常用漢字表」が公布され,こちらは規範性は低くなり「目安」にとどまることになった.
一方,仮名については,近代は字種が統一されていく時代といってよい.近代初期には,普通の文章は漢字平仮名交じり文で書かれており,片仮名は注釈などに限定されていた.片仮名の字体は,古代より比較的よく統一しており,中世でもヴァリエーションはあまりなく,明治33年 (1900) に「小学校令施行規則」で現行の字体に定められた.対照的に,平仮名には近代まで多くの字体,いわゆる変体仮名が認められた.変体仮名にも位置による使い分けなどある種の傾向は見られたが,統一性がみられないまま現代を迎えることになった.
仮名遣いについては,上代より定家仮名遣いが影響力を保ったが,近世になると契沖が元禄8年 (1695) に『万葉集』の注釈に従事しながら定家仮名遣いの不備に気づき,『和字正濫鈔』を著わして,上代文献に基づく仮名遣いへの回帰を主張した.「を」と「お」の分布や「四つがな」(じずぢづ)の問題にも言い及び,後に本居宣長,楫取魚彦などに支持されていくことになる.契沖仮名遣いは,明治時代に入ってからも国学者により採用され,文部省編纂の『小学教科書』(明治6年 (1873))にも採用された.大槻文彦の『言海』(明治24年 (1891))でも受け入れられ,その後,昭和21年 (1946) に「現代かなづかい」が公布されるまで続いた.
もう1つの日本語を書き記す文字体系であるローマ字については,「#1879. 日本語におけるローマ字の歴史」 ([2014-06-19-1]) を参照されたい.
最後に,補助符号の歴史に簡単に触れておこう.濁点(濁音符)は古代の漢字訓読に母型が見られるが,陀羅尼を正確に発音させるために漢字,そして片仮名に付された符号から発達したものといわれる.しかし,濁点の付与は,中世まではキリシタン資料を除けば一貫していなかった.江戸時代前期の上方資料では,濁点の形式も定まり,よく付されるようにはなっているが,いまだ義務的ではない.明治時代以降も『大日本帝国憲法』などの漢字片仮名交りの公用文には濁点は付されていないし,文脈で判断される場合にもしばしば省略された.なお,半濁点(半濁音符)は,ずっと発生が遅れ,現われたのは近代である.キリシタン資料を除けばやはり使用は体系的でなく,江戸時代中期以降になって蘭学者の書記において頻度を増してきた.
句読点の起源は古代に求められる.漢文訓読において,読み手が文章を統語的に区切るのに書き込んだのがその起こりである.室町時代には,読み手の便宜を図って,句読点は活字に組まれるようになった.しかし,句点と読点の使い分けの区別を含め,現行の句読法が確立していったのは,明治40年 (1907) 以降である.これには,西洋の句読法 (punctuation) の影響が関与している.その他,長音記号「ー」や促音符号「っ」の使用も明治時代に定まったものである.「踊り字」と称される種々の繰返し符号(漢字繰返し符号「々」,仮名繰返し符号「ゝ」「ゞ」など)は,古代に発達し,近代にも普通に用いられたが,「現代かなづかい」の告示以降は,ほとんど用いられなくなった.
近代の日本語文字史は,文字が社会に広く浸透し,文字使用への意識の高まりとともに,標準的な書記が模索がされるようになってきた歴史ということができる.
・ 佐藤 武義 編著 『概説 日本語の歴史』 朝倉書店,1995年.
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