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sociolinguistics - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2021-09-25 10:18

2017-03-18 Sat

#2882. 生物種と言語変種の存在論と認識論 [dialect][variety][sociolinguistics]

 生物における種の定義について,池田による「種とは何か」を読んだ.現在のところ,教科書に掲載されるような最も一般的な生物種の定義は「その構成員が自然条件の下で自由に交配できる集団」である.これは遺伝的隔離による生物学的種概念というべきものであり,確かに受け入れやすい定義といえそうだ.
 しかし,この定義について注意すべきは,存在論的な定義とはなっていないことだ.池田 (24) が述べるように,「生物学的種概念は,遺伝子の交換が起きるか起きないかといった操作的あるいは事後的概念であって,存在論的意味合いが稀薄な概念だからである」.言い方を変えれば,遺伝子の交換を試してみて初めて,それが成功するか失敗するかが分かるという意味で,存在論的な定義にたどり着いていないということである.では,種概念は,存在論的には定義できないとすれば,何論的な概念といえるのだろうか.池田 (22) 曰く,

種は何よりもまず人間の認識論的な概念であって,本来は存在論的な概念でも客観的な概念でもないのだ.われわれはカブトムシとオオクワガタ,あるいはスズメとメジロを別の種として認知するが,その際,これらの2種の間の存在論的相違について明晰であるわけではない.


 そして,池田 (32) は「種に対して厳密な定義を下せないのは,種が進化することの必然の結果なのである」と結んでいる.
 生物学から言語学へと切り替えよう.言語と言語の区別,あるいは言語と方言の区別は,(社会)言語学の抱えてきた難問であり,そのような区別の問題に立ち入らないで済む用語として変種 (variety) が提案されてきた.言語変種を生物種になぞらえると,その定義に関して共通点が多いことに気づく.例えば,言語変種も生物種と同様に客観的に定義することは困難であり,その意味において存在論的な概念とはいえず,あくまで人間の認識論的な概念である,と言える.また,言語変種に対して厳密な定義を下せないのは,それが変化することの必然の結果である,とも言い得る.
 もちろん,生物における交配や遺伝が,言語において何に相当するのか,あるいは何にも相当しないのか等の問題はあるが,歴史的に連続している対象を離散的にグルーピングして各々に名付けを行なう営みとして,生物種の区分と言語変種の区分は似通っている.生物種も言語変種も,将来的な存在論的区分の可能性を完全に否定するものではないが,まず何よりも認識論的な概念なのである.

 ・ 池田 清彦 「種とは何か」『新しい生物学の教科書』 新潮社,2001年.17--30頁.

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2017-01-31 Tue

#2836. カタカナ語の氾濫問題を solidarity の観点から視る [sociolinguistics][japanese][katakana][loan_word][purism][solidarity][inkhorn_term]

 「カタカナ語」と称される外来語の氾濫は,しばしば日本語の問題として話題となる.本ブログでも,「#1617. 日本語における外来語の氾濫」 ([2013-09-30-1]),「#1630. インク壺語,カタカナ語,チンプン漢語」 ([2013-10-13-1]),「#1999. Chuo Online の記事「カタカナ語の氾濫問題を立体的に視る」」 ([2014-10-17-1]) などで問題にしてきた.
 #1617の記事で触れたように,とりわけ「高齢者の介護や福祉に関する広報紙の記事は,読み手であるお年寄りに配慮した表現を用いることが,本来何よりも大切にされなければならないはず」にもかかわらず,外来語が多用されている現実が問題とされることが多い.「お年寄りに配慮した表現」とは,理解しやすい漢語や和語での言い換え表現であるとか,あるいは少なくとも括弧で説明を付すなどの気遣いのことと把握していたが,社会言語学的な観点,特に solidarity (連帯)の観点から視ると,もう少し根の深い問題がありそうだということが分かる.井上 (190) は,「連帯」の裏返しとしての「排除」について次のように述べている.

日本のお役所ことばにカタカナ語を乱用するのはそれがわからない高齢者などを排除することになる.カタカナ語が問題なのは,意味がわからないことだけではない.連帯と排除の構造を社会に作り出してしまうことこそより問題である.


 つまり,多くのお年寄りがカタカナ語の意味を理解できないという言語コミュニケーション上の問題以上に,お年寄りが,その意味を理解する若年集団と社会的に「連帯」できないという問題,もっと言えば「排除」されてしまうという問題があるという
 この社会言語学的な説明は,ただお年寄りとカタカナ語の問題に限らず,ある言語に借用語が氾濫したときにしばしば生じるアンチ借用語の言語的純粋主義 (purism) を論じるにあたって,一般的に有効なのではないかと思われる.例えば,初期近代英語の「インク壺語論争」(inkhorn_term) においても,ラテン借用語の氾濫は,一般庶民の理解を超えるという点で言語コミュニケーション上の問題と捉えることもできるが,それ以上に,ラテン語を操れる知識層と操れない一般庶民たちの間の断絶という社会的な含意をもった問題と捉えるほうが妥当かもしれない.

 ・ 井上 逸兵 『グローバルコミュニケーションのための英語学概論』 慶應義塾大学出版会,2015年.

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2017-01-28 Sat

#2833. PC の変質と拡大 [political_correctness][sociolinguistics][taboo][euphemism][context]

 「#2827. PC の歴史」 ([2017-01-22-1]),「#2832. PC の特異な点」 ([2017-01-27-1]) に関連して,political_correctness という社会言語学上の運動について.今回は,誕生から半世紀ほどを経た PC が時間のなかでどのように変質・拡大してきたか,Hughes に従って考えてみたい.
 3点ほど指摘できるように思われる.1つは,PC がいくつかの段階を経て社会に受容されてきたという点である.PC は当初はあるイデオロギーをもった内集団で用いられ始めた.それが,内集団の外へも広がっていき,社会的に認知されるようになった.例えば,"political correctness" などのキーワードそれ自体が広く知れ渡ることになった.次に,批判的な反応が,とりわけ皮肉やパロディなどの形で目立つようになってきた.さらに,反抗的な反応として,あえて "politically incorrect language" を用いる "shock jocks" や "rappers" のような存在も現われてきた.このように,PC は受容の拡大と否定的な反応という段階を経ながら成長してきた.しかし,おもしろいのは否定的な反応が目立つようになったとはいえ,PC それ自体は決して失われていないことだ.Hughes (283) は,"Although discredited and mocked, it refuses to go away but appears in new guises." と述べ,これを "the paradox of political correctness" と呼んでいる.
 2つ目に,PC が流行に乗るにつれ,カバーする領域が拡散し,明確に定義できなくなってきたということがある.性や職業名などの問題に始まったが,新しいところでは外見,動物の権利,環境に関する問題まで,広く PC の問題として内包されるようになった.Hughes (284) が挙げている PC の対象となる分野のリストによれば,"fatness, appearance, stupidity, diet, crime, prostitution, race, homosexuality, disability, animal rights, the environment, and still others" が含まれている.別の言い方をすれば,言語や態度や行動のタブー (taboo) の領域が以前と比べて拡大してきた,ということだろう.PC とは,1つの見方によれば,タブー領域の拡大だったのである!
 3つ目に,PC の焦点が,PC 用語のもつ意味的・形態的な側面よりも,誰が誰に対して,いつ,どのような状況でそれを用いるかというコンテクストに当てられるようになってきた.Hughes (286) 曰く,"political correctness has increasingly become less absolute and more contextual, that is to say the emphasis is increasingly less on what is said, but more on who said it and when." 例えば,白人が黒人を指すのに侮蔑的な用語を使うのと,黒人が自らを指すのに同じ用語を使うのとでは,その効果はまったく異なる.用語そのものの問題ではなく,語用的な問題が意識されるようになってきたということだろう.
 このように,PC とは社会とともに成長してきた概念である.

 ・ Hughes, Geoffrey. Political Correctness: A History of Semantics and Culture. Malden, ML: Wiley Blackwell, 2010.

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2017-01-27 Fri

#2832. PC の特異な点 [political_correctness][sociolinguistics]

 「#2827. PC の歴史」 ([2017-01-22-1]) の記事で,近年の社会言語学上の一大運動としての political_correctness の動向に触れた.一般的な意味で言語の正統性 (orthodoxy) を目指す運動や主張は,英語の歴史でも繰り返し生じてきたが,現代の PC には過去の類似した現象には見られなかった特異な点が3つあるという.Hughes (7) より,指摘箇所を引用しよう.

There are three characteristics which make political correctness a unique sociolinguistic phenomenon. Unlike previous forms of orthodoxy, both religious and political, it is not imposed by some recognized authority like the Papacy, the Politburo, or the Crown, but is a form of semantic engineering and censorship not derivable from one recognized or definable source, but a variety. There is no specific ideology, although it focuses on certain inequalities and disadvantaged people in society and on correcting prejudicial attitudes, more especially on the demeaning words which express them. Politically correct language is the product and formation of a militant minority which remains mysteriously unlocatable. It is not the spontaneous creation of the speech community, least of all any particular deprived sector of it. Disadvantaged groups, such as the deaf, the blind, or the crippled (to use the traditional vocabulary), do not speak for themselves, but are championed by other influential public voices.


 要約すれば,(1) PC は特定の権威によって押しつけられるものではなく,様々な源に発する意味工作・検閲の1形態であること,(2) 偏見を正すという大風呂敷の大義はあるにせよ,特定のイデオロギーと関係づけられるものではないこと,(3) 明確に「居所」のつかめない少数派の闘士によるものであること,となろうか.さらにまとめてしまえば,PC は,社会的権威は握っていないが,世の中の偏見を正したいという正義感をもつ少数派の所産ということになる.
 現在進行中である PC 自体の効果,成果,功罪などを適切に評価することは難しいが,このようにある意味で特異な集団がこの運動を牽引し,この運動の存在感を高めてきたという事実は銘記しておきたい.

 ・ Hughes, Geoffrey. Political Correctness: A History of Semantics and Culture. Malden, ML: Wiley Blackwell, 2010.

Referrer (Inside): [2017-01-28-1]

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2017-01-22 Sun

#2827. PC の歴史 [political_correctness][sociolinguistics][politeness][history]

 歴史的な視点を交えた Hughes による Political Correctness の研究書を読んだ.一口に political_correctness といっても,はてしなく広い領域を覆う社会言語学上の問題であることが理解できた.現代的な意味での PC の歴史はまだ数十年しかないが,その淵源はおそらくずっと古い時代にまで遡ることができそうだ.というのは,PC は別の社会言語学的な問題である taboo, euphemism, politeness とも関係が深く,これらはいつの時代でも,どこの文化にもあったと考えられるからだ.
 しかし,20世紀半ばから始まった現代的な PC も,それほど長くない歴史のなかで,その在り方を少なからず変えてきた.Hughes (3--4) は,著書のイントロで,PC を巡る過去数十年間の変遷と PC の効果について,次のように要約している.

Linguistically it started as a basically idealistic, decent-minded, but slightly Puritanical intervention to sanitize the language by suppressing some of its uglier prejudicial features, thereby undoing some past injustices or "leveling of the playing fields" with the hope of improving social relations. It is now increasingly evident in two opposing ways. The first is the expanding currency of various key words . . . , some of a programmatic nature, such as diversity, organic, and multiculturalism. Contrariwise, it has also manifested itself in speech codes which suppress prejudicial language, disguising or avoiding certain old and new taboo topics. Most recently it has appeared in behavioral prohibitions concerning the environment and violations of animal rights. As a result of these transitions it has become a misnomer, being concerned with neither politics nor correctness as those terms are generally understood. / Political correctness inculcates a sense of obligation or conformity in areas which should be (or are) matters of choice. Nevertheless, it has had a major influence on what is regarded as "acceptable" or "appropriate" in language, ideas, behavioral norms, and values. But "doing the right thing" is, of course, an oversimplification. There is an antithesis at the core of political correctness, since it is liberal in its aims but often illiberal in its practices: hence it generates contradictions like positive discrimination and liberal orthodoxy.


 PC はもともとは純粋な差別撤廃の理想主義から出発した運動だった.Hughes は,その結果として,(1) diversity その他の価値を著わすキーワードが世の中に広まったこと,(2) タブーとそれに代わる婉曲表現が様々な領域に拡大していったこと,を挙げている.後者に関しては,あまりに領域が拡大しすぎて,もはや当初の意味での「政治」にも「公正さ」にも直接関係しないものまでもが,PC という包括的な用語のもとに含められるようになってしまったほどである.
 引用の後半の指摘も意味深長である.本来の出発点だった純粋な差別撤廃の思想が,PC 変遷の過程で歪められて,"positive discrimination" (or "affirmative action") や "liberal orthodoxy" に到達してしまったという矛盾のことだ.理想としての自由が,現実としての束縛に至ってしまったことになる.
 これは確かに皮肉であり,PC がしばしば皮肉られる理由もここにあるのだろうと思うが,そのように冷笑的な評価を加えるだけでは不十分だろう.おそらく PC という運動そのものが,自由と束縛の両側面を最初から内包しているのである.数十年間の PC を巡る議論や行動を通じて,この事実が顕著に浮き彫りになってきた,と解釈したい.
 いずれにせよ,PC は20世紀後半から21世紀初頭に至るまで展開してきた,社会言語学上の一大ムーブメントである.

 ・ Hughes, Geoffrey. Political Correctness: A History of Semantics and Culture. Malden, ML: Wiley Blackwell, 2010.

Referrer (Inside): [2017-01-28-1] [2017-01-27-1]

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2017-01-17 Tue

#2822. cross-linguistic influence [world_englishes][variety][language_contact][sla][terminology][sociolinguistics][language_contact]

 「英語が○○語から影響を受けた」あるいは「英語が○○語に影響を与えた」という話題は,英語史でもよく話題とされる.しかし,「英語」も様々な変種の集合体であり,かつ「○○語」も1言語に限定されるわけではなく,無数の言語を指すと考えると,その影響関係は極めて複雑なネットワークとなるだろう.Baugh and Cable によると,このような影響関係は "cross-linguistic influence" (400) と呼ばれる.その実体は多角的で動的であるため,あまり研究も進んでいないようだが,今後の世界の言語状況,特に言語学習を巡る状況を理解する上で,非常に重要な概念となっていくのではないか.Baugh and Cable (400) は,これからの領域として注目している.

In projections of the future status of global languages, there has been little discussion of the reciprocal reinforcement that some of the major languages of the world give to each other---or what is known as "cross-linguistic influence." Spanish and Portuguese in Latin America, for example, indirectly boost the fortunes of English, or at least of English as a proficiently acquired foreign language, in comparison to languages that are less closely related to these Indo-European languages historically and typologically. Similarly, in the opposite direction there is a cross-linguistic influence of English on the learning of Spanish in the United States: knowledge of Spanish is diffused among many native English speakers in Texas in a way that Chinese in Northern California is not. One reason that research and discussion are lacking is that, until recently, most of the scholarship in foreign-language learning has concentrated on the differences between two languages rather than the similarities, with an emphasis on "interference."


 この辺りは,第2言語習得の研究と広い意味での英語史(あるいは歴史社会英語学)と接点となる可能性が高い.もちろん,ほかにも code-switching や借用の研究などの言語接触論や,広く英語教育の議論にも関連してくると思われる.
 英語史の名著の第6版にて,Baugh and Cable が最後に近い節で上のような "cross-linguistic influence" に言及していることは示唆的である.英語史は,21世紀の新しい英語学(より広く「英語の学」)を下から支える,頼りになる土台として,重要なポジションにある.
 上の引用にあるラテン・アメリカにおける英語については,「#2610. ラテンアメリカ系英語変種」 ([2016-06-19-1]) も要参照.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

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2017-01-14 Sat

#2819. 話し言葉中心主義から脱しつつある言語学 [history_of_linguistics][sociolinguistics][medium][writing]

 昨日の記事「#2818. うわさの機能」 ([2017-01-13-1]) で取り上げた松田著『うわさとは何か』を読んでいて,言語学の流れについて考えさせられる機会があった.
 松田によると,従来のうわさの研究はうわさの内容(情報)にこだわる傾向があった.例えば,古典的な「うわさの公式」によると,うわさの強さや流布量 (Rumor) は,当事者に対する問題の重要さ (importance) とその論題についての証拠の曖昧さ (ambiguity) との積に比例する,つまり R〜i×a とされる (23) .だが,ほかにも考えるべき側面はある.例えば,何のメディアで発せられ広がるかというメディアの観点からの考察も必要だろう.松田はこのように,うわさの内容だけではなく形式をも考慮に入れることを説いている.そこで述べていることがおもしろい.「民俗学における口承研究が過去からの伝承や口頭性にこだわるあまり,そのうわさが語られる場や時代――メディアを含む――に対して寄せる関心が薄い」ことを指摘しているのである (154) .
 社会に関する学問でも,19世紀に民俗学が興る以前には書き言葉の資料がむしろ重視されていただろうから,現在はぐるりと一回転して再び書き言葉を含めた各種メディアが注目される時代となってきたものと言えそうだ.
 このような潮流は言語学の歴史にも見ることができる.20世紀の主流派言語学は,研究対象としてもっぱら話し言葉を重視し,その他のメディア,つまり書き言葉を軽視する方向で発展した.「口頭性にこだわるあまり」,ことばが「語られる場や時代に対して寄せる関心が薄」かったのである.ところが,20世紀後半から21世紀にかけては,社会言語学や語用論など,メディアやコンテクストを重視する傾向が強まってきた.近代言語学が興る以前には,むしろ文献学 (philology) と呼ばれる書き言葉偏重の言語研究の伝統が確立していたわけだから,現代はやはりぐるりと一回転して再び各種のメディアに関心が戻ってきた時代と言えそうだ.
 もちろん,一回転して戻ってきたといっても,学問としては一皮むけた状態で戻ってきたということであり,単純な過去への回帰ではないはずである.21世紀の言語学は,話し言葉中心主義,あるいは「内容」中心主義から脱して,他のメディアにも目配りするといった意味での「形式」重視へと舵を切っていると言えるだろう.
 関連して,書き言葉の自立性という話題について,本ブログでも「#2339. 書き言葉の自立性に関する Vachek の議論 (1)」 ([2015-09-22-1]),「#2340. 書き言葉の自立性に関する Vachek の議論 (2)」 ([2015-09-23-1]),「#2431. 書き言葉の自立性に関する Bolinger の議論」 ([2015-12-23-1]),「#2508. 書き言葉の自立性に関する Samuels の議論」 ([2016-03-09-1]) などで議論しているので,ぜひ参照を.

 ・ 松田 美佐 『うわさとは何か』 中央公論新社〈中公新書〉,2014年.

Referrer (Inside): [2019-12-17-1] [2017-04-19-1]

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2017-01-13 Fri

#2818. うわさの機能 [phatic_communion][function_of_language][sociolinguistics][communication][accommodation_theory][solidarity]

 松田著『うわさとは何か』を読んだ.社会学のコミュニケーション論やメディア論の立場からの,うわさ (rumor) の分析だが,社会言語学的な観点からも関心をもって読めた.コミュニケーションを便宜的に,道具的 (instrumental) なものと自己目的的 (consummatory) なものに分けると,うわさは後者のほうに接近している.個人に関するうわさであるゴシップを考えると,内容に情報としての価値もあるにはあるが,多くの場合,ゴシップすること自体が目的である.人々はゴシップのためにわざわざ集まったり,ワイドショーを見たりするのである.
 松田 (109--10) で述べられているが,うわさには「ここだけの話だけれど」という枕詞がつくことが多い.これは参与者の間に親密な人間関係,すなわち solidarity を作り出す言語的手段であり,実際にうわさの内容の秘密性が高ければ,solidarity はさらに高まる.
 また,うわさの拡大は,参与者の「気持ちの共有」とも深く関係する(松田,p. 110).災害や戦時中にうわさやデマが広まりやすいのは,人々が同じように危機的な状況にいるからであり,その状況を解決するための情報を共有したいという事情もあるが,それ以上に,不安を解消するためにみんなと一緒にいたいという気持ちが生じる.うわさを生み出す状況と solidarity が高まる状況とは互いに助長し合う関係にある.
 松田 (113--14) は,ゴシップの3つの機能に言及している.まず,「情報機能」がある.ゴシップそのものがある人についての情報であるということだけではなく,そのゴシップから何らかの教訓を引き出した場合には,間接的な情報を得たことになる.次に,「集団規範の形成・確認機能」がある.人はあるゴシップを他人と共有することで新しい集団を作り出したり,結束を強めたりするのである(いわゆる accommodation_theory とも関連する.「#1482. なぜ go の過去形が went になるか (2)」 ([2013-05-18-1]) 話題を参照).最後に,「エンターテインメントの機能」である.人は会話の促進剤として,単に楽しいものとしてゴシップする.
 当然ながら,うわさやゴシップは言語を用いた談話 (discourse) の1つである.したがって,上記のゴシップの機能は,言語の機能の一部でもあるはずだ.言語の人間関係構築機能ということでいえば,関連して「#1771. 言語の本質的な機能の1つとしての phatic communion」 ([2014-03-03-1]),「#1071. Jakobson による言語の6つの機能」 ([2012-04-02-1]) の記事も要参照.

 ・ 松田 美佐 『うわさとは何か』 中央公論新社〈中公新書〉,2014年.

Referrer (Inside): [2017-01-14-1]

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2017-01-11 Wed

#2816. 18世紀の規範主義の再評価について (2) [prescriptive_grammar][prescriptivism][sociolinguistics]

 昨日の記事に引き続き,18世紀の規範主義と各々の文法家の政治的スタンスについての話題.前の記事で触れたように,18世紀に洪水のように規範文法書が出版され,なかには飛ぶように売れたものもあった.この文法書市場の高まりと各文法家の政治的スタンスとは,いかなる関係にあったのだろうか.
 どうやら,特定の政治的スタンスが文法書に埋め込まれ,それが政治的な意味合いをもって受容され,市場を賑わわせた,ということではなさそうだ.むしろ,市場における文法書の人気が潜在的にあるところに,政治的スタンスという要素が加わり,出版や受容という過程が政治化した,ということのようだ.英文法が政争の具となったとも表現できそうだが,実際にはそこまで悪いように具とされたわけでもないようであり,難しい.Beal (101) を引用する.

The 'doctrine of correctness' was thus invoked by writers of all political persuasions, so it would be a mistake to argue that any set of political circumstances created the market for grammars in the eighteenth and nineteenth centuries. It might be wiser to agree with Crowley that 'language becomes a crucial focus of tension and debate at critical historical moments, serving as the site upon which political positions are contested' (2003: 217). Thus, the emergence of these grammars and the accompanying discussions about language and power are symptomatic of the turbulent times in which they were written.


 本記事の標題では「18世紀の規範主義」と銘打ったが,Beal の議論は,上の引用にもある通り19世紀にも当てはまるというし,さらに読み進めると,20--21世紀にも等しく通じるとも述べられている.一見すると,文法書と政治性というのは結びつかないように思われるが,文法書を「正しい語法の集大成」と解釈すれば,いかに文法というものが社会的な「正しさ」と結びつけられる政治の問題に近寄りうるかということが理解されよう.ひいては,人類の歴史において言葉の問題は常に政治の問題だったとも言えるのかもしれない.
 なお,上の引用で言及されている Crowley は,Crowley, T. Standard English and the Politics of Language. London: Palgrave, 2003. のことである.

 ・ Beal, Joan C. English in Modern Times: 1700--1945. Arnold: OUP, 2004.

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2017-01-07 Sat

#2812. バラ戦争の英語史上の意義 [history][standardisation][lme][monarch][sociolinguistics]

 イングランド史において中世の終焉を告げる1大事件といえば,バラ戦争 (the Wars of the Roses; 1455--85) だろう(この名付けは,後世の Sir Walter Scott (1829) のもの).国内の貴族が,赤バラの紋章をもつ Lancaster 家と白バラの York 家の2派に分かれて,王位継承を争った内乱である.30年にわたる戦いで両派閥ともに力尽き,結局は漁父の利を得るがごとく Lancaster 家の Henry Tudor が Henry VII として王位に就くことになった.この戦いでは貴族が軒並み没落したため,王権は強化されることになり,さらに商人階級が社会的に台頭する契機ともなった.
 バラ戦争は,イングランドが中世の封建制から脱皮して近代へと歩みを進めていく過渡期として,政治・経済・社会史上の意義を付されているが,英語史の観点からはどのように評価できるだろうか.Gramley (98--99) は次のように評価している.

. . . the series of wars that go under this name [= The Wars of the Roses] sped up the weakening of feudal power and strengthened the merchant classes since the wars further thinned the ranks of the feudal nobility and facilitated in this way the easier rise of ambitious and able people from the middle ranks of society. When the conflict was settled under Henry VII, a Lancastrian and a Tudor, power was essentially centralized. From the point of view of the language, this meant that the standard which had begun to emerge in the early fourteenth century would continue with a firm base in the usage which had been crystallizing in the London area at least since Henry IV (reign 1399--1413), the first king since the OE period who was a native speaker of English.


 この評によると,14世紀の前半に始まっていた英語の標準化 (standardisation) が,バラ戦争の結果として王権が強化され,中産階級が台頭したことにより,15世紀後半以降もロンドンを基盤としていっそう推し進められることになった,という.もとより英語の標準化は非常にゆっくりとしたプロセスであり,引用にあるとおりその開始は "the early fourteenth century" のロンドンにあったと考えることができる(「#1275. 標準英語の発生と社会・経済」 ([2012-10-23-1]) を参照).その後,バラ戦争までの1世紀半の間にも標準化は進んでいたが,あくまで緩慢な過程だった.そのように標準化が穏やかに進んでいたところに,バラ戦争という社会的な大騒動が起こり,標準化を利とみる王権と中産階級が大きな影響力をもつに及んで,その動きが促進された,ということだろう.
 その他の歴史的大事件の英語史上の意義については,以下の記事を参照.

 ・ 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1])
 ・ 「#208. 産業革命・農業革命と英語史」 ([2009-11-21-1])
 ・ 「#254. スペイン無敵艦隊の敗北と英語史」 ([2010-01-06-1])
 ・ 「#255. 米西戦争と英語史」 ([2010-01-07-1])

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.

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2016-11-23 Wed

#2767. 自動翻訳機の英語史的意義 [machine_translation][elt][future_of_english][sociolinguistics]

 自動翻訳機の開発が英語やその他の言語に与える衝撃については,いまだ本格的に議論されていないように思われる.ドラえもんの秘密道具の1つ「ほんやくコンニャク」,あるいは英語圏で知られる Babel fish のような夢の翻訳ツールは,数十年前にはSF小説の世界の話しにすぎないと思われていたが,21世紀に入った現在,日進月歩の技術発展により実用化が進みつつある.
 11月17日付の朝日新聞夕刊1面に「ほんやくコンニャク実用化?」と題する,音声自動翻訳機の使用実験に関する記事が掲載されていた.東京オリンピックにむけて,しゃべった日本語がそのまま英語などの他言語に翻訳されて音声として出力される,パナソニックの開発したメガホン「メガホンヤク」が,空港をはじめとする交通機関で実験的に使用され始めているという.技術的には,例えば日英語翻訳の場合には,日本語音声認識→単語ごとに英語へ変換→統計を用いた語順の並び替え→音声合成,という手続きを踏むようで,この全体が1秒ほどで済むという.ほかに,東京メトロでは音声自動翻訳アプリをインストールしたタブレットも試用されるなど,すでに実用化への動きは進んでいる.これらの施策が官民一体となって進められている.
 今世紀初頭には,自動翻訳機の翻訳の精度はまだまだであり,少なくとも数十年はかかるだろうと言われてきたが,その後の技術の進歩は飛躍的である.この問題に詳しい専門家は,「大半の日本人の英語力が機械に負ける日も遠くないだろう」と述べている.立教大学名誉教授の鳥飼玖美子氏も「簡単な内容は機械任せでよくなり,今の英会話中心の授業は不要だろう.小学校からやる必要があるのかも再検討することになるのでは.」「全員が英語を習得する必要はなく,異文化理解のための学習に軸足が移るだろう」とコメントしている.私は,この予測はおよそ当たるだろうと考えている.
 英語教育を始めとする語学教育のあり方も根本的に変わる可能性がある.多くの学習者の動機づけが変化するとともに教員の意識改革が必要となってくるだろうし,語学とはそもそも何のためにあるのかという本質的な議論もなされなければならない.私自身も一英語教員として首がかかっているのでまったく他人事ではないのだが,この問題には,英語史研究者としてワクワクするものを感じている.自動翻訳機の完成と普及は,社会における英語の位置づけを大きく変化させる可能性があり,英語史上,画期的な出来事として刻まれるはずだからである.技術革新は,いつの時代も,言語を言語学的側面においても社会言語学的側面においても変えてきたのである.

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2016-11-14 Mon

#2758. Ferguson による「国家の社会言語学的輪郭」 [sociolinguistics][methodology][typology][world_languages][world_languages][demography]

 昨日の記事「#2757. Ferguson による社会言語学的な「発展」の度合い」 ([2016-11-13-1]) に引き続き,Ferguson の論文に依拠しながら,言語(共同体)を類型化する方法について考える.Ferguson (25) は,言語学者は伝統的に国家という単位をあえて考慮しないという態度を取ってきたが,社会言語学の立場からは,国家を基準として考えることが必要だと主張する.

From many points of view . . . it is desirable to use the nation as the basis for general sociolinguistic descriptions: communication networks, educational systems, and language "planning" are generally on a national basis and national boundaries play at least as important a role in the delimitation of linguistic areas as any other single social barrier.


 Ferguson は,国家を基準として言語の使用状況を記述する作業が不可欠であり,すべての国家について一貫した視点で記述することにより,相互比較もできるようになるし,類型化もできるようになると主張する.このような国別の記述が,"national sociolinguistic profile" (26) である.その一貫した視点については,予備的なものとしながら,次の項目を挙げている (26).

. . . how many major languages are spoken; what is the pattern of language dominance; are there national uses of a LWC [= language of wider communication]; for each major language spoken in the country, what is the extent of written uses of the language (W0. --- W2.) and what is the extent of standardization (St0. --- St2.) and its nature (multimodal? range of variation from the norm?).


 現代までに,およそ Ferguson が提案した通りに「国家の社会言語学的輪郭」の記述が進められていき,Ethnologue のようなデータベースが作られるようになった.

 ・ Ferguson, Charles A. "The Language Factor in National Development." Anthropological Linguistics 4 (1962): 23--27.

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2016-11-13 Sun

#2757. Ferguson による社会言語学的な「発展」の度合い [standardisation][writing][sociolinguistics][methodology][typology][world_languages]

 Ferguson は,言語の "language 'development'" を計測する方法を提案している.'development' と引用符があることから示唆されるように,これは進化論的な言語観に基づいているわけではなく,社会言語学的な発展の度合いを測ろうとする試みである.Ferguson (23) が具体的に挙げているのは,「書き言葉の使用の度合い」 ("the degree of use of written language") と「標準化の性質と程度」 ("the nature and extent of standardization") の2点である.
 1つ目の指標である「書き言葉の使用の度合い」については,大雑把に W0, W1, W2, W3 の4段階が認められるという (23--24) .各段階の説明をみれば分かる通り,当面の便宜的な指標といってよいだろう.

 ・ W0. --- not used for normal written purposes
 ・ W1. --- used for normal written purposes
 ・ W2. --- original research in physical sciences regularly published
 ・ W3. --- languages in which translations and resumés of scientific work in other languages are regularly published

 2つ目の指標である「標準化の性質と程度」は,もっと込み入っている.この指標には2つの側面があり,第1のものは "the degree of difference between the standard form or forms of a language and all other varieties of it" (24) である.つまり,言語変種間の差異性・類似性の度合いに関する側面である(関連して「#1523. Abstand languageAusbau language」 ([2013-06-28-1]) や「#1522. autonomyheteronomy」 ([2013-06-27-1]) を参照されたい).
 第2の側面は "the nature of the standardization and the degree to which a standard form is accepted as such throughout the community" (24) である.Ferguson (24--25) は3段階を設定した.

 ・ St0. --- "a language in which there is no important amount of standardization" (ex. Kurdish) (24)
 ・ St1. --- a language which "requires considerable sub-classification to be of any use. Whatever scheme of classification is developed, it will have to take account in the first instance of whether the standardization is unimodal or bi- or multimodal, and in the case of more than one norm, the nature of the norms must be treated" (ex. bimodal Armenian, Greek, Serbo-Croatian, Norwegian; multimodal Hindi-Urdu) (25)
 ・ St2. --- "a language which has a single, widely-accepted norm which is felt to be appropriate with only minor modifications or variations for all purposes for which the language is used" (24)

 測定のための指標として荒削りではあるが,分かりやすさの点では優れている.
 このような測定値に基づいて,諸言語(共同体)を社会言語学的に類型化しようとする試みは,ほかにもある.「#1519. 社会言語学的類型論への道」 ([2013-06-24-1]) や「#1547. 言語の社会的属性7種」 ([2013-07-22-1]) も要参照.

 ・ Ferguson, Charles A. "The Language Factor in National Development." Anthropological Linguistics 4 (1962): 23--27.

Referrer (Inside): [2019-01-10-1] [2016-11-14-1]

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2016-11-10 Thu

#2754. 国語の機能 --- 内的団結と外的区別 [sociolinguistics][official_language][standardisation]

 近代国家にとって,国語 (national language) の果たす役割は大きい.国家という単位を自覚した為政者たちは,方言の弾圧,言語の標準化,国語の制定などを通じて政治的統治を実現しようとした.その動機としては,内的団結 (internal cohesion) と外的区別 (external distinction) の2種類があった.Haugen (927--28) の指摘と説明が的を射ている.

[The nation] minimizes internal differences and maximizes external ones. On the individual's personal and local identity it superimposes a national one by identifying his ego with that of all others within the nation and separating it from that of all others outside the nation. In a society that is essentially familial or tribal or regional it stimulates a loyalty beyond the primary groups, but discourages any conflicting loyalty to other nations. The ideal is: internal cohesion---external distinction. / Since the encouragement of such loyalty requires free and rather intense communication within the nation, the national ideal demands that there be a single linguistic code by means of which this communication can take place.


 国家にとって,域内の人々のあいだの円滑なコミュニケーションは,統治する上で必須である.ここから,必然的に言語統一の要求が生じる.「内的団結のための国語」の必要性である.一方,国家にとっては,域内の人々が,域外の人々とも同じように円滑にコミュニケーションを取ることができては困る.それは,人々の忠誠心を自分側の国家に引きつけておくのに不都合だからだ.したがって,そのような対外的なコミュニケーションをなるべく非効率にするために,国家は他の国家の規準からなるべく異なる規準を採用しようとする.「外的区別のための国語」の必要性である.
 ある国家が内的団結と外的区別を求めて国語を制定すると,他の国家も防衛的見地から同じような方針で国語を制定するようになるだろう.こうして,近代において「国家」と「国語」が芋づる式に増加していったのである.
 ちなみに,「#2743. 貨幣と言語」 ([2016-10-30-1]),「#2746. 貨幣と言語 (2)」 ([2016-11-02-1]) で考えてきたように,貨幣もコミュニケーションの道具の一種であると考えると,なぜそれが内的団結と外的区別をという指向性をもっているのかが分かる.上の引用文の最後の文で,"a single linguistic code" を "a single monetary system" と置き換えても,そのまま理解できるだろう.

 ・ Haugen, Einar. "Dialect, Language, Nation." American Anthropologist. 68 (1966): 922--35.

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2016-11-09 Wed

#2753. dialect に対する language という用語について [dialect][terminology][sociolinguistics][language_or_dialect]

 昨日の記事「#2752. dialect という用語について」 ([2016-11-08-1]) に引き続き Haugen (923) を参照しながら,dialect という用語と対比しつつ language という用語について考える.両用語が問題を呈するのは,それが記述的・共時的な用語であると同時に,歴史的・通時的な用語でもあるからだ.Haugen (923) 曰く,

In a descriptive, synchronic sense "language" can refer either to a single linguistic norm, or to a group of related norms. In a historical, diachronic sense "language" can either be a common language on its way to dissolution, or a common language resulting from unification. A "dialect" is then any one of the related norms comprised under the general name "language," historically the result of either divergence or convergence.


 共時的には,"language" とは,1つの規範をもった変種を称する場合もあれば,関連する規範をもった複数の変種の集合体に貼りつけられたラベルである場合もある.一方,通時的には,"language" とは,これからちりぢりに分裂していこうとする元の共通祖語につけられた名前である場合もあれば,逆に諸変種が統合していこうとする先の標準変種の呼称である場合もある.
 通時的に単純に図式化すれば「language → dialects → language → dialects → . . . 」となるが,"language" の前後の矢印の段階を輪切りにして共時的にみれば,そこには "language" を頂点として,その配下に "dialects" が位置づけられる図式が立ち現れてくるだろう.一方,"language" の段階では,"language" が唯一孤高の存在であり,配下に "dialects" なるものは存在しない.ここから,"language" には多義性が生じるのである.Haugen (923) は,この用語遣いの複雑さを次のように表現している.

"Language" as the superordinate term can be used without reference to dialects, but "dialect" is meaningless unless it is implied that there are other dialects and a language to which they can be said to "belong." Hence every dialect is a language, but not every language is a dialect.


 最後の「すべての方言は言語だが,すべての言語が方言とはかぎらない」とは,言い得て妙である.

 ・ Haugen, Einar. "Dialect, Language, Nation." American Anthropologist. 68 (1966): 922--35.

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2016-11-04 Fri

#2748. 大母音推移の社会音韻論的考察 (4) [gvs][sociolinguistics][emode][contact][vowel][phonetics][rp][homonymic_clash]

 [2016-10-01-1], [2016-10-11-1], [2016-10-31-1]に続き,第4弾.これまでの記事で,15世紀までに,Chaucer などに代表される階級の子孫たちがもっていたと考えられる母音体系 (System I),南部・中部イングランドで広く行なわれていた体系 (System II),East Anglia などの東部方言にみられる体系 (System III) の3種類が,ロンドンにおいて混じり合っていた状況を示した.System II と System III の話者は,Alexander Gil により各々 "Mopsae" と "Easterners" と呼ばれている.
 これらの体系は1650年頃までに独自の発展を遂げ,イングランドではとりわけ古くからの威信ある System I と,勢いのある System II の2種が広く行なわれるようになっていた.

System I:
   ME /eː/ > EModE /iː/, e.g. meed
   ME /ɛː/ > EModE /eː/, e.g. mead
   ME /aː/, /ai/ > EModE /ɛː/, e.g. made, maid

System II:
   ME /eː/ > EModE /i:/, e.g. meed
   ME /ɛː/, /aː/, /ai/ > EModE /eː/, e.g. mead, made, maid

 ところが,18世紀になると,また別の2種の体系が競合するようになってきた.1つは,System I を追い抜いて威信を獲得し,そのような位置づけとして存続していた System II であり,もう1つはやはり古くから東部で行なわれていた System III である.System III は,[2016-10-31-1]の記事で述べたように,ロンドンでの System I との接触を通じて以下のように変化を遂げていた.

System III:
   ME /eː/, /ɛː/ > ModE /iː/, e.g. meed, mead
   ME /aː, aɪ/ > ModE /eː/, e.g. made, maid

 System III は古くからの体系ではあるが,18世紀までに勢いを増して威信をもち始めており,ある意味で新興の体系でもあった.そして,その後,この System III がますます優勢となり,現代にまで続く規範的な RP の基盤となっていった.System III が優勢となったのは,System II に比べれば同音異義衝突 (homonymic_clash) の機会を少なく抑えられるという,言語内的なメリットも一部にはあったろう.しかし,Smith (110) は,System III と II が濃厚に接触し得る場所はロンドンをおいてほかにない点にも,その要因を見いだそうとしている.

. . . System III's success in London is not solely due to intralinguistic functional reasons but also to extralinguistic social factors peculiar to the capital. System II and System III could only come into contact in a major urban centre, such as London; in more rural areas, the opportunity for the two systems to compete would have been much rarer and thus it would have been (and is) possible for the older System II to have been retained longer. The coexistence of System II and System III in one place, London, meant that it was possible for Londoners to choose between them.


 ・ Smith, Jeremy J. An Historical Study of English: Function, Form and Change. London: Routledge, 1996.

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2016-11-01 Tue

#2745. Haugen の言語標準化の4段階 (2) [standardisation][sociolinguistics][terminology][register][style][language_planning]

 [2016-10-29-1]の記事に引き続き,標準化 (standardisation) の過程に認められる4段階について,Haugen を参照する.標準化は,時系列に (1) Selection, (2) Codification, (3) Elaboration, (4) Acceptance の順で進行するとされるが,この4つの過程と順序は,社会と言語,および形式と機能という2つの軸で整理することができる (下図は Haugen 933 をもとに作成).

 Form Function
Society(1) Selection (4) Acceptance
  
Language(2) Codification   →   (3) Elaboration


 まずは,規範となる変種を選択 (Selection) することから始まる.ここでは,社会的に威信ある優勢な変種がすでに存在しているのであれば,それを選択することになるだろうし,そうでなければ既存の変種を混合するなり,新たに策定するなどして,標準変種の候補を作った上で,それを選択することになろう.
 第2段階は成文化 (Codification) であり,典型的には,選択された言語変種に関する辞書と文法書を編むことに相当する.標準的となる語彙項目や文法項目を具体的に定め,それを成文化して公開する段階である.ここでは,"minimum variation in form" が目指されることになる.
 第3段階の精巧化 (Elaboration) においては,その変種が社会の様々な場面,すなわち使用域 (register) や文体 (style) で用いられるよう,諸策が講じられる.ここでは,"maximum variation in function" が目指されることになる.
 最後の受容 (Acceptance) の段階では,定められた変種が社会に広く受け入れられ,使用者数が増加する.これにより,標準化の全過程が終了する.
 社会・言語,および形式・機能という2つの軸からなるマトリックスにより,標準化の4段階が体系としても時系列としてもきれいに整理されてしまうのが見事である.この見事さもあって,Haugen の理論は,現在に至るまで標準化の議論の土台を提供している.

 ・ Haugen, Einar. "Dialect, Language, Nation." American Anthropologist. 68 (1966): 922--35.

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2016-10-31 Mon

#2744. 大母音推移の社会音韻論的考察 (3) [gvs][sociolinguistics][meosl][me_dialect][contact][vowel][phonetics]

 「#2714. 大母音推移の社会音韻論的考察」 ([2016-10-01-1]),「#2724. 大母音推移の社会音韻論的考察 (2)」 ([2016-10-11-1]) に続き,第3弾.第2弾の記事 ([2016-10-11-1]) で,System II の母音体系をもっていたとされる多くの南部・中部方言話者が,権威ある System I のほうへ過剰適応 (hyperadaptation) したことが大母音推移 (gvs) の引き金となった,との説を紹介した.しかし,Smith (106--07) によると,もう1つ GVS の引き金となった母音体系をもった話者集団がいたという.それは,"Easterners" と呼ばれる,おそらく East Anglia 出身の人々である.
 East Anglia では,14世紀後半から15世紀にかけてロンドンで進行し始めた大母音推移と類似する推移が,ずっと早くに生じていた.背景として,古英語の Saxon 方言の ǣ に対して Anglia 方言では ē をもっていたこと,/d, t, n, s, l, r/ の前位置で上げ (raising) を経ていたことなどがあった.この推移の結果として,East Anglia の母音体系は,3段階の高さで5つの長母音をもつ /iː, uː, eː, oː, aː/ となっていた.
 さて,この Easterners が,15世紀の前半から半ばにかけて都市化の進むロンドンへ移住し,ロンドン英語,特に権威ある System I の話者と接触したときに,もう1つの過剰適応が引き起こされた.3段階の East Anglia の体系が,さらに細かく段階区分された System I と接触したとき,前者は後者の威信ある調音に引かれて,全体として調音位置の調整を迫られることになった.具体的には,Easterners は System I の [æː] を自分たちの /eː/ と知覚して後者として発音し,同様に [eː̝] を /iː/ と知覚して,そのように発音した.3段階しかもたない Easterners にとって,中英語の /eː/ をもつ語と /ɛː/ をもつ語の区別はつけられなかったので,結局いずれも /iː/ として知覚され,発音されることになった.およそ同じことが後舌系列の母音にも起こった.
 System III というべき Easterners のこの母音体系は,実は,後に18世紀までに勢力を得て一般化し,現代標準英語の meed, mead, maid, made などに見られる一連の母音の(不)区別を生み出す母体となった.その点でも,英語母音史上,大きな役割を担った母音体系だったといえるだろう.

 ・ Smith, Jeremy J. An Historical Study of English: Function, Form and Change. London: Routledge, 1996.

Referrer (Inside): [2016-11-04-1]

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2016-10-29 Sat

#2742. Haugen の言語標準化の4段階 [standardisation][sociolinguistics][terminology][language_or_dialect][language_planning]

 昨日の記事「#2741. ascertaining, refining, fixing」 ([2016-10-28-1]) で,17世紀までの英語標準化から18世紀にかけての英語規範化へと続く時代の流れを見た.
 一言で「標準化」 (standardisation) といっても,その過程にはいくつかの局面が認められる.Haugen の影響力の強い論文によれば,ある言語変種が標準化するとき,典型的には4つの段階を経るとされる.Hudson (33) による社会言語学の教科書からの引用を通じて,この4段階を要約しよう.

(1) Selection --- somehow or other a particular variety must have been selected as the one to be developed into a standard language. It may be an existing variety, such as the one used in an important political or commercial centre, but it could be an amalgam of various varieties. The choice is a matter of great social and political importance, as the chosen variety necessarily gains prestige and so the people who already speak it share in this prestige. However, in some cases the chosen variety has been one with no native speakers at all --- for instance, Classical Hebrew in Israel and the two modern standards for Norwegian . . . .

(2) Codification --- some agency such as an academy must have written dictionaries and grammar books to 'fix' the variety, so that everyone agrees on what is correct. Once codification has taken place, it becomes necessary for any ambitious citizen to learn the correct forms and not to use in writing any 'incorrect' forms that may exist in their native variety.

(3) Elaboration of function --- it must be possible to use the selected variety in all the functions associated with central government and with writing: for example, in parliament and law courts, in bureaucratic, educational and scientific documents of all kinds and, of course, in various forms of literature. This may require extra linguistic items to be added to the variety, especially technical words, but it is also necessary to develop new conventions for using existing forms --- how to formulate examination questions, how to write formal letters and so on.

(4) Acceptance --- the variety has to be accepted by the relevant population as the variety of the community --- usually, in fact, as the national language. Once this has happened, the standard language serves as a strong unifying force for the state, as a symbol of its independence of other states (assuming that its standard is unique and not shared with others), and as a marker of its difference from other states. It is precisely this symbolic function that makes states go to some lengths to develop one.


 当然ながら,いずれの段階においても,多かれ少なかれ,社会による意図的で意識的な関与が含まれる.標準語の出来方はすぐれて社会的な問題であり,常に人工的,政治的な匂いがまとわりついている.「社会による意図的な介入」の結果としての標準語という見解については,上の引用に先立つ部分に,次のように述べられている (Hudson 32) .

Whereas one thinks of normal language development as taking place in a rather haphazard way, largely below the threshold of consciousness of the speakers, standard languages are the result of a direct and deliberate intervention by society. This intervention, called 'standardisation', produces a standard language where before there were just 'dialects' . . . .


 関連して,「#1522. autonomyheteronomy」 ([2013-06-27-1]) を参照.

 ・ Haugen, Einar. "Dialect, Language, Nation." American Anthropologist. 68 (1966): 922--35.
 ・ Hudson, R. A. Sociolinguistics. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1996.

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2016-10-26 Wed

#2739. AAVE の Creolist Hypothesis と Anglicist Hypothesis 再訪 [aave][creole][ame][sociolinguistics][dialect][variety][caribbean]

 AAVE の起源について,Creolist Hypothesis と Anglicist Hypothesis が鋭く対立している経緯に関して,「#1885. AAVE の文法的特徴と起源を巡る問題」 ([2014-06-25-1]) で紹介し,その前後で関連する以下の記事も書いてきた

 ・ 「#1886. AAVE の分岐仮説」 ([2014-06-26-1])
 ・ 「#1850. AAVE における動詞現在形の -s」 ([2014-05-21-1])
 ・ 「#1841. AAVE の起源と founder principle」 ([2014-05-12-1])

 Tagliamonte (9) より,両仮説を巡る論争について要領よくまとめている箇所があったので,引用し,補足としたい.

Among the varieties of English that arose from the colonial southern United States is that spoken by the contemporary descendants of the African populations --- often referred to as African American Vernacular English or by its abbreviation AAVE. This variety is quite distinct from Standard North American English. One of the most vexed questions of modern North American sociolinguistics is why this is the case. Early African American slaves would have acquired their variety of English either en route to the United States or more likely on the plantations and homesteads of the American South. But it is necessary to determine the nature of the varieties to which they were exposed. The fact that AAVE is so different has often been traced to the dialects from Northern Ireland, Scotland and England. However, they have as often been traced to African and Caribbean creoles. There is a long history of overly simplistic dichotomies on this issue which can be summarized as follows: (1) a 'creole origins hypothesis', based on linguistic parallels between AAVE and Caribbean creoles; (2) an 'English dialect hypothesis', based on linguistic parallels with the Irish and British dialects spoken by early plantation staff. In reality, the answer probably lies somewhere in between. Many arguments prevail based on one line of evidence or another. Perhaps the most damning is the lack of evidence of which populations were where and under what circumstances. / The debate over the origins of AAVE still rages on with no consensus in sight . . . .


 北米植民の初期に生じた複雑な言語接触とその言語的余波を巡っての論争は,かれこれ100年間続いており,いまだに解決の目処が立っていない.言語接触に関与した種々の人々に関する,緻密な歴史社会言語学の研究が必要とされている.

 ・ Tagliamonte, Sali A. Roots of English: Exploring the History of Dialects. Cambridge: CUP, 2013.

Referrer (Inside): [2021-07-09-1]

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