「Ebonics 論争」とは,1996年にカリフォルニア州, Oakland の教育委員会の決議に端を発する,黒人英語の位置づけを巡る論争である.この事件で黒人英語を指す Ebonics という用語が一躍有名となったが,言語学では黒人英語のことを AAVE (= African American Vernacular English) と呼ぶことが多い(aave の各記事を参照).ちなみに,Ebonics は ebony (黒檀) と phonics (音声)の混成語 (blend) とされる.
1996年12月18日,カリフォルニア州のオークランド教育委員会が,教室で Ebonics を認知し,保持し,使用することを決定した.黒人の子供たちが最終的に標準英語を流ちょうに使いこなせるようになるためには,教育上,母語である Ebonics の介在が欠かせないという判断からだ.委員会はそこで Ebonics は英語と「遺伝的関係にある」が,英語とは異なる言語であると決議したのである.この決議は1997年1月7日にアメリカ言語協会の満場一致の支持を得た.しかし,注意すべきは,同協会が Ebonics と標準英語との「遺伝的な関係」について,何らかの専門的な見解を述べたわけではないことだ.後に,専門家集団による非専門的な判断と批判を浴びることになった.
一方,この教育委員会の決議には方々から強い反対意見も出された.同じ1997年の1月に,アメリカ上院の小委員会の公聴会では,黒人からも白人からも批判の声があがった.その後の騒乱により,先の教育委員会は1997年4月の提案書から Ebonics という用語を削除することを余儀なくされたほどである.
2つの言語変種が,2つの異なる言語なのか,あるいは1つの言語の異なる方言にすぎないのか.language_or_dialect という社会言語学の古くからの問題が,現実の社会問題となった好例として銘記すべきだろう.
以上,Wardhaugh (371) を参照して執筆した.Wardhaugh からは,関連する文献も複数たどれる.
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
4月9日のことになるが,読売新聞の朝刊11面に「日本語 平成時代の変化」と題する解説文が掲載されていた.解説者は,日本語方言学の大家で,東京外国語大学名誉教授の井上史雄先生である.私も学生時代に先生の社会言語学の講義を受け,大いに学ばせていただいたが,的確な分類や名付けにより現象を分かりやすく解説してくださるのが,当時より先生の魅力だった.今回の解説記事では「方言の社会的価値の分類」が紹介されていたが,これも先生が当時から「我ながらなかなかうまい分類ができた」とおっしゃっていた,お気に入りの持ちネタの披露というわけだ(←その授業を今でもはっきりと覚えています).日本語方言の社会的価値の変遷を実にきれいに表現した分類である.
類型 | 時代 | 方言への評価 | 使われ方 | |
---|---|---|---|---|
第1類型 | 撲滅の対象 | 明治?戦前 | マイナス | 方言優位 |
第2類型 | 記述の対象 | 戦後 | 中立 | 方言・共通語両立 |
第3類型 | 娯楽の対象 | 戦後?平成 | プラス | 共通語優位 |
クリミア半島情勢を巡ってウクライナ共和国が揺れている.目下,ウクライナは大統領選の最中だが,争っている候補者たちは反ロシア,新欧米の路線という点では一致している.
ウクライナとロシアの問題は,互いにスラヴという言語・民族・文化上の共通点があるがゆえに厄介だ.このような構図は古今東西ありふれているが,ありふれているからといって解決がたやすいわけではない.むしろ逆のことが多いだろう.
ウクライナ語とロシア語の関係についていえば,「#1469. バルト=スラブ語派(印欧語族)」 ([2013-05-05-1]) で触れたとおり「Ukrainian はウクライナで約5000万人によって話されている大言語だが,国内では歴史的に威信のあるロシア語と競合しており,民族主義的な運動によりロシア語からの区別化が目指されている」というように,ウクライナ語話者の意識的なロシア語からの離反がある."sociolinguistic distancing" の典型例といってよいだろう.一方,歴史的にはウクライナ語からロシア語への言語交替 (language_shift) が生じてきたために,現在まで状況が複雑化してきたのである(「#1540. 中英語期における言語交替」 ([2013-07-15-1]) で関連した事情に一言触れてある).
現代のウクライナにおける言語分布について,やや古いが2001年の国税調査の結果が3月29日の読売新聞朝刊に掲載されていた.リビウ,イワノ・フランコフスク,キエフなどの中部・西部諸州ではウクライナ語が圧倒しているが,南部のオデッサ州ではほぼ半々であり,東部のドネツク州や目下問題のクリミア自治共和国ではロシア語が圧倒している.国家全体としてみれば,ウクライナ語が約2/3と上回っているが,社会言語学的不安定さは容易に予想される比率である. *
ウクライナといえば,印欧祖語の故地の有力候補ともなっており,歴史言語学の世界でも名の知られた国である(cf. 「#637. クルガン文化と印欧祖語」 ([2011-01-24-1])).また,英語語彙との絡みでいえば,「#834. ウクライナ語からの借用語」 ([2011-08-09-1]) にも注意したいところである.そして,上にも述べたように,意外かもしれないが,母語話者人口でいえば3千万人を超える,世界30位程度にランクインする大言語であることも銘記しておきたい.
ウクライナ大統領選の行方も要注目だ.
ある言語を何と呼ぶか,あるいはある言語名で表わされている言語は何かという問題は,社会言語学的に深遠な話題である.言語名と,それがどの言語を指示するかという記号論的関係の問題である.
日本の場合,アイヌ語や八重山語などの少数言語がいくつかあることは承知した上で,事実上「言語名=母語話者名=国家名=民族名」のように諸概念の名前が「日本」できれいに一致するので,言語を「日本語」と呼ぶことに何も問題がないように思われるかもしれない(cf. 「#3457. 日本の消滅危機言語・方言」 ([2018-10-14-1])).しかし,このように諸概念名がほぼ一致する言語は,世界では非常に珍しいということを知っておく必要がある.
アジア,アフリカ,太平洋地域はもとより,意外に思われるかもしれないがヨーロッパ諸国でも言語,母語話者,国家,民族は一致せず,したがってそれらを何と呼称するかという問題は,ときに深刻な問題になり得るのだ(cf. 「#1374. ヨーロッパ各国は多言語使用国である」 ([2013-01-30-1])).たとえば,本ブログでは「#1659. マケドニア語の社会言語学」 ([2013-11-11-1]) や「#3429. マケドニアの新国名を巡る問題」 ([2018-09-16-1]) でマケドニア(語)について論じてきたし,「#1636. Serbian, Croatian, Bosnian」 ([2013-10-19-1]) では旧ユーゴの諸言語の名前を巡る話題も取り上げてきた.
本ブログの関心から最も身近なところでいえば,「英語」という呼称が指すものも時代とともに変化してきた.古英語期には,"English" はイングランドで話されていた西ゲルマン語群の諸方言を集合的に指していた.しかし,中英語期には,この言語の話者はイングランド以外でも,部分的にではあれスコットランド,ウェールズ,アイルランドでも用いられるようになり,"English" の指示対象は地理的も方言的にも広まった.さらに近代英語期にかけては,英語はブリテン諸島からも飛び出して,様々な変種も含めて "English" と呼ばれるようになり,現代ではアメリカ英語やインド英語はもとより世界各地で行なわれているピジン英語までもが "English" と呼ばれるようになっている.「英語」の記号論的関係は千年前と今とでは著しく異なっている.
前段の話題は "English" という名前の指す範囲の変化についての semasiological な考察だが,逆に A と呼ばれていたある言語変種が,あるときから B と呼ばれるようになったという onomasiological な例も挙げておこう.「#1719. Scotland における英語の歴史」 ([2014-01-10-1]) で紹介した通り,スコットランド低地地方に根付いた英語変種は,15世紀以前にはあくまで "Inglis" の1変種とみなされていたが,15世紀後半から "Scottis" と称されるようになったのである.この "Scottis" とは,本来,英語とは縁もゆかりもないケルト語派に属するゲール語を指していたにもかかわらずである.平田 (57) が指摘する通り,このような言語名の言い換えの背景には,必ずやその担い手のアイデンティティの変化がある.
古スコッツ語は,一一〇〇年から一七〇〇年まで初期スコッツ語,中期スコッツ語と変遷した歴史を持つが,もっとも大きな変化は,一五世紀末に呼び名が変わったこと,すなわちイングリスがスコティス(Scottis は Scottish の古スコッツ語異形.Scots は Scottis の中間音節省略形)と呼ばれるようになったことである.かつてスコティスという言葉はあきらかにハイランド(とアイルランド)のゲール語を指していた.スコットランド性はゲール語と結びつけられていた.ところが,ローランド人は,この言語変種の呼び名はスコティスであると主張した.これははっきりとした自己認識の転換であった.スコティスはこれ以後はゲール語以外の言語を指すようになった.これはスコットランドの言語的なアイデンティティが転換したことを示しているのである.
言語と言語名の記号論ほど,すぐれて社会言語学的な話題はない.
・ 平田 雅博 『英語の帝国 ―ある島国の言語の1500年史―』 講談社,2016年.
「#3527. 呼称のポライトネスの通時変化,代名詞はネガティヴへ,名詞はポジティヴへ」 ([2018-12-23-1]) でみたように,近代英語の呼称を用いたポライトネス戦略は,なかなか複雑なものだったようだが,椎名 (66--67) は,呼称を通時的に調べてみると貧弱化や単純化の方向が確認されるという.その社会語用論的な背景についてコメントされている箇所があるので,引用しよう.
通時的に見ると,使用される語彙や意味の変化,修飾語 (modification) の減少による address terms の構造の単純化など,幾つかの変化が見られる.原因としては,識字率の向上・郵便制度の整備・プライバシーの尊重・社会的階層構造の流動化があげられている.簡単に言うと,幅広い階級において識字率が向上すると同時に,郵便制度が完備することにより,上流階級に限られていた手紙を書く習慣が庶民にも広がり,多くの人によって頻繁に書かれるようになったことである.もう片方には,人々の階級の流動性が高まり,人々の敬称が複雑化したことがあげられる.そうした社会的・文化的な諸事情により address terms が単純化していったのである.つまり,人々の階級の変動が多い時代には,礼を失することのない安全策として negative politeness の度合いの高い address terms を使うようになっていったということである.
「安全策として」説は,2人称単数代名詞 thou/you の対立が,近代英語期にネガティヴ・ポライトネスを表わす後者の you の方向へ解消されたのがなぜかを説明するのにも,しばしば引き合いに出される (cf. 「#1336. なぜ thou ではなく you が一般化したか? (2)」 ([2012-12-23-1])).当時の社会背景を汲み取った上で再訪してみたい問題である.
・ 椎名 美智 「第3章 歴史語用論における文法化と語用化」『文法化 --- 新たな展開 ---』秋元 実治・保坂 道雄(編) 英潮社,2005年.59--74頁.
昨日の記事「#3529. 言語は進歩しているのか,堕落しているのか?」 ([2018-12-25-1]) に続いての話題.Aitchison は,「完璧な言語」が規定できない以上,言語が進歩しているのか堕落しているのかを判断することはできないと論じた.その議論の後,では,価値観を伴った「進歩」や「堕落」という用語は横に置いておき,言語が何かしら一定の方向へ変化し続けているという証拠はあるのだろうかと問題を設定し直した.しかし,特に一定方向に変化している証拠はないという結論に至る.ということは,言語変化については,「進歩」と「堕落」の対立はおろか,「良い」と「悪い」の対立もなければ,「上」と「下」も,「左」も「右」も何もないということになる.ただただ変化するのが言語である,と.
ところが,議論の最後で Aitchison (246) は「いくつかの場合には,言語変化は社会的に望ましくないことがある」と述べている.
Continual language change is natural and inevitable, and is due to a combination of psycholinguistic and sociolinguistic factors.
Once we have stripped away religious and philosophical preconceptions, there is no evidence that language is either progressing or decaying. Disruption and therapy seem to balance one another in a perpetual stalemate. These two opposing pulls are an essential characteristic of language.
Furthermore, there is no evidence that languages are moving in any particular direction from the point of view of language structure---several are moving in contrary directions.
Language change is in no sense wrong, but it may, in certain circumstances, be socially undesirable. Minor variations in pronunciation from region to region are unimportant, but change which disrupts the mutual intelligibility of a community can be socially and politically inconvenient. If this happens, it may be useful to encourage standardization --- the adoption of a standard variety of one particular language which everybody will be able to use, alongside the existing regional dialects or languages. Such a situation must be brought about gradually, with tact and care, since a population will only adopt a language or dialect it wants to speak.
Aitchison は,「完璧な言語」が規定できないために「進歩・堕落」という対立は無意味であると論じた.しかし,「社会的に望ましい・望ましくない」という対立はあり得ると認めているということは,「社会的に望ましい言語」が規定できていることになる.しかし,それを規定することは「完璧な言語」の規定と同じくらい難しいように思われるのだが,どうだろうか.
時代や地域によって,また個々の言語共同体によって,「社会的に望ましい」言語の姿は異なるだろう.標題も,あくまで相対的な問題設定のように思われる.
・ Aitchison, Jean. Language Change: Progress or Decay. 4th ed. Cambridge: CUP, 2013.
昨日の記事「#3498. hybrid Englishes」 ([2018-11-24-1]) で触れたが,"Standard English" と "General English" という2つの用語を区別すると便利なケースがあるように思われる.両者は必ずしも明確に区別できるわけではないが,概念としては対立するものと理解しておきたい.Gramley (129) は,初期近代英語期のロンドンで展開した英語の標準化 (standardisation) や共通化 (koinéisation) の動きと関連して,この2つの用語に言及している.
Although the written standard differed from the spoken language of the capital, the two together provided two national models, a highly prescriptive one, Standard English (StE), for writing and a colloquial one, which may be called General English (GenE) (cf. Wells 1982: 2ff), which is considerably less rigid. The latter was not the overt, publicly recognized standard, but the covert norm of group solidarity. It was GenE which would evolve into a supra-regional, nationwide covert standard. Both it and StE would eventually also be valid for Scotland, then Ireland, and then the English-using world beyond the British Isles.
両者の対比を整理すると以下のようになるだろうか.
Standard English | General English | |
---|---|---|
Norms | overt | covert |
Media | writing | speech |
Prescription | more rigid | less rigid |
Fixing/focusing | fixed | focused |
Related process | standardisation | koinéisation |
現在,世界中で現地化した○○英語が用いられており,これらは総称して "Englishes" と呼ばれている.Franglais, Singlish, Taglish などの名前で知られているものも多く,"nativized Englishes" あるいは "hybrid Englishes" とも言われる.しかし,"nativized Englishes" と "hybrid Englishes" という2つの呼称の間には,微妙なニュアンスの違いがある.Gramley (360) は "hybrid Englishes" について,次のように解説している.
Hybrid Englishes are forms of the language noticeably influenced by a non-English language. Examples include Franglais (French with English additions), Spanglish (ditto for Spanish), Singlish (Singapore English --- with substrate enrichment), TexMex (English with Spanish elements), Mix-Mix (Tagalog/Pilipino English), which may be more English (Engalog) or more Tagalog (Taglish). Such Englishes do not have the extreme structural change typical of pidgins and creoles. Rather, the non-English aspect of these hybrids depends on local systems of pronunciation and vocabulary. Marginally, they will also include structural change. The are likely, in any case, to be difficult for people to understand who are unfamiliar with both languages. In essence hybrid forms are not really different from the nativized Englishes . . .; the justification for a separate term may best be seen in the fact that hybrids are the result of covert norms while nativized Englishes are potentially to be seen on a par with StE.
"nativized Englishes" と "hybrid Englishes" は本質的には同じものを指すと考えてよいが,前者は当該社会において標準英語と同じ,あるいはそれに準ずる価値をもつとみなされている変種を含意するのに対して,後者はそのような価値をもたない変種を含意する.「#1255. "New Englishes" のライフサイクル」 ([2012-10-03-1]) や「#2472. アフリカの英語圏」 ([2016-02-02-1]) で使った用語でいえば,前者は endonormative な変種を,後者は exonormative な変種を指すといってよい.あるいは,前者は威信と結びつけられる overt norms の結果であり,後者は団結と結びつけられる covert norms の結果であるともいえる.また,この差異は,書き言葉標準英語(いわゆる Standard English) と話し言葉標準英語(いわゆる General English) の違いとも平行的であるように思われる.
・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.
服部 (67) は,英語と日本語における音声上の重要な相違点として,アクセント体系の利用の仕方を挙げている.
一般に,英語は強さ(強勢)アクセントの言語,日本語は高さ(ピッチ)アクセントの言語といわれる.英語をはじめとする強勢アクセントの言語では,強勢体系は英語の各種変種・方言間でほとんど変わらない.つまり,ある語の強勢位置が方言によって異なるということは,少数の例外を除けば,ほとんどない.一方,日本語のような高さアクセントの言語では,各語のアクセント型は方言によって著しく異なるというのが実態である.この差がいかなる原因で生じるのかは判然としない.今後の研究が俟たれるところである.
なるほど地域方言をはじめとする諸変種の区別化にアクセントが利用される度合いは,確かに日本語では高く,英語では低いと思われる.変種の「訛り」は典型的に発音に現われるものと思われるが,発音といってもそこには分節音の目録,異音の種類,イントネーション,アクセントなど様々なものが含まれ,区別化のために何をどの程度利用するかは,言語ごとに異なるだろう.しかし,引用した文章によれば,アクセントの種類と変種区別のためのアクセント利用度の間には相関関係があるということらしい.
強勢には様々な機能がある.「#926. 強勢の本来的機能」 ([2011-11-09-1]) でみたように対比による語の同定という機能が中心的であるという構造主義的な立場もあるが,実際には「#1647. 言語における韻律的特徴の種類と機能」 ([2013-10-30-1]) の記事でみた多種多様な役割があるだろう.そのなかでも「変種の区別化」は,後者の記事の (viii) で挙げられている機能の一部だろう.つまり,「個人を同定する.韻律は,話者の社会言語学的な所属や話者の用いる使用域 (register) を指示する (indexical) 機能をもつ」ということだ.では,なぜ(高さアクセントを用いる)日本語は,とりわけこの役割を強勢に担わせているのだろうか.確かによく分からない.アクセントがいかなる社会言語学的役割を担うかについての広い類型論的調査が必要だろう.
関連して「#1503. 統語,語彙,発音の社会言語学的役割」 ([2013-06-08-1]),「#2672. イギリス英語は発音に,アメリカ英語は文法に社会言語学的な価値を置く?」 ([2016-08-20-1]) を参照.また,言語におけるアクセントのタイプの違いについては「#2627. アクセントの分類」 ([2016-07-06-1]) を参照.
・ 服部 義弘 「第3章 音変化」 服部 義弘・児馬 修(編)『歴史言語学』朝倉日英対照言語学シリーズ[発展編]3 朝倉書店,2018年.47--70頁.
11月2日の読売新聞朝刊に「鼻濁音 大人の奥深さ醸し出す」と題する記事が掲載されていた.ボサ・ノヴァ・アーティストの中村善郎氏による「もったいない語辞典」の記事である.
〽夕焼け空がマッカッカ とんびがくるりと輪を描いた――.三橋美智也の「夕焼けとんび」で,子供の頃心に残った一節.「とんびが」の「が」が「ンガ」という感じに近く,見事な鼻濁音.その頃知識はなかったけれど,話し言葉と違い,歌の中では甘く丸く響く.それが綺麗だな,と思っていた.
鼻濁音は鼻に抜くと云うか,僕の印象では鼻の奥を後ろに広げて響かせる.普通に発音すると浅くがさつで耳障りな濁音を,柔らかく奥行きのある音に.邦楽や昭和の歌謡曲などでは必須の鼻濁音だが,ほぼ姿を消した.鼻濁音が醸し出すのは一定の距離感を崩さない大人の佇まいと奥深さ.濁音は押し付けがましく幼い自己主張.時にはそれが可愛さにも繋がるが.普段着のままの濁音,居住まいを正す鼻濁音,そんな面もある気がする.
ポルトガル語で歌うボサ・ノヴァは鼻音系を駆使する.ポル語自体の特徴であるがそれ以上に,生の感情を投げつけるような無粋さとは対極のあり方が,より美しい発音を求める…….ジョアン・ジルベルトを聴くとそんな風に思う.
鼻音を駆使する事は身体の後ろにも声を広げ,身体全体を響かせる事を可能に.その場を埋め尽くす声.発信すると云うよりは場の空気を変える.そう云ったかつての表現にも学ぶことは多いと思う.
距離を置く大人の /ŋ/ と押しつけがましい子供っぽい /g/ という対比がおもしろい.ガ行鼻濁音鼻濁音が「甘く丸く響く」というのも,不思議と共感できる.ガ行鼻濁音が喚起するポジティヴなイメージは,広く共有されるものかもしれない.
音声学や音韻論の立場からいえば,もちろんガ行鼻濁音も1子音にすぎない.日本語(共通語)では /g/ の異音,英語では独立した音素という違いはあるが,各言語を構成する1音にすぎず,機能的には他の異音や音素と変わるところがない.そこに何らかのイメージが付随しているとすれば,上記のような聴覚心理的な音感覚性 (phonaesthesia) の問題か,あるいは社会音声学的な問題だろう.
英語の /ŋ/ を社会音声学的な観点から扱った話題としては,-ing 語尾に関するものが知られている(「#1363. なぜ言語には男女差があるのか --- 女性=保守主義説」 ([2013-01-19-1]),「#1370. Norwich における -in(g) の文体的変異の調査」 ([2013-01-26-1]),「#1508. 英語における軟口蓋鼻音の音素化」 ([2013-06-13-1]),「#1764. -ing と -in' の社会的価値の逆転」 ([2014-02-24-1]) を参照).厳密には /ŋ/ 音そのものの問題というよりも,/ŋ/ 音を含む形態素の異形態の問題というべきだが,これらの記事を読んでもらえば分かるように,音に付随するイメージは,普遍的なものというよりも,多分に言語共同体に依存する社会的なものかもしれない.標題の「日本語のガ行鼻濁音の奥深さ」も,自然なものというよりも,社会的なものなのかもしれない.
徳川 (245--46) は,日本語史における東西方言(江戸方言と上方方言)の優位をめぐる争いを「言語戦争」の例としながら,一般に言語戦争の勝敗が何によって左右されるのか,されないのかについて論じている.
まず第一に,言語戦争の勝敗は,単純な言語の使用人口などによってきまるものではない,ということである.ひとにぎりの権力者の言語が,多数の庶民の上に君臨するといった場合がある.
また,言語戦争の帰趨は,一般的に,なにも言語それ自体の構造によってきまるものでもない.
たとえば,母音の数が多いから戦に負けるとか,名詞に性と数の別があるから勝つ,といったものではない.ただし,その言語が,言語機能に関して,新しい社会に適応できる性質を具備しているかどうか,といった問題はある.現代にひきつけていえば,複雑な社会機構に対応できるかといった,たとえば表現文体の種類の問題や,原子物理学がその言語で処理できるか,といった内容の問題などがある.さらに,言語コミュニケーションが,他のコミュニケーションチャンネルと,どれほど切り離されているか,といった問題などもあるかもしれない.このことは,おそらく,書きことばの文体の確立と,不離の関係にある.
さきに単なる使用人口の差は言語戦争の勝敗の鍵にならないとしたが,もし多数者の使用言語が,その社会の複雑さと対応して,すでに述べた言語機能を高め,今後さらに多くの人びとをのみ込んでいく包容力といったものを備えているということと結びつくようになれば,それは,ある程度利いてくる条件と言えるであろう.これに対して,土俗的な小言語は,こうした言語機能の面で,将来性について劣る場合が多そうに思われる.また,言語の使用人口の多さが,その言語社会の経済的・政治的・文化的な優位に結びついて,言語の威信といったものの背景になることはありうる.“東西のことば争い”の歴史を考えるにあたっても,こうしたことへの配慮が必要となってくる.
ここで徳川は慎重な議論を展開している.話者人口や言語構造そのものが直接に言語戦争の勝利に貢献するということはないが,それらが当該言語の社会的な機能を高める方向に作用したり,利用されたりすれば,その限りにおいて間接的に貢献することはありうるという見方である.結局のところ,社会的な要素が介在して初めて勝敗への貢献について論じられるということなので,話者人口や言語構造の「直接的な」貢献度はほぼゼロと考えてよいのだろう.英語の世界的拡大や「世界語化」を考える上で,とても重要な論点である.
英語の世界語化の原因を巡っては,関連する話題として「#1072. 英語は言語として特にすぐれているわけではない」 ([2012-04-03-1]),「#1082. なぜ英語は世界語となったか (1)」 ([2012-04-13-1]),「#1083. なぜ英語は世界語となったか (2)」 ([2012-04-14-1]),「#1607. 英語教育の政治的側面」 ([2013-09-20-1]),「#1788. 超民族語の出現と拡大に関与する状況と要因」 ([2014-03-20-1]),「#2487. ある言語の重要性とは,その社会的な力のことである」 ([2016-02-17-1]),「#2673. 「現代世界における英語の重要性は世界中の人々にとっての有用性にこそある」」 ([2016-08-21-1]),「#2935. 「軍事・経済・宗教―――言語が普及する三つの要素」」 ([2017-05-10-1]) を参照.
・ 徳川 宗賢 「東西のことば争い」 阪倉 篤義(編)『日本語の歴史』 大修館書店,1977年.243--86頁.
英語史における標準化 (standardisation) の話題といえば,第1義的に書き言葉の標準化が念頭に置かれているように思われる.本ブログでも,書き言葉の標準化については様々に紹介してきたが,話し言葉の標準化については扱いが薄かった.「#3356. 標準発音の整備は18世紀後半から」 ([2018-07-05-1]) では発音の標準化を取り上げており,これは話し言葉の標準化の話題の一部を成しはするものの,「話し言葉」と「発音」とは同一ではない.話し言葉には,発音以外に文法や語彙などその他の側面もある.
話し言葉の標準化について,松浪ほかの「標準口語英語の確立」 (93) に記されている概要を引用する.
書き言葉の標準英語は既に15世紀前半頃までに,ロンドンを中心に形成され,その後教育の普及にともなって急速に広まったと考えられているが,話し言葉の標準語はまだその頃にはなく,EModE 期になって確立した.16世紀になって宮廷を中心に上流階級,文人,大学等で使われた話し言葉が標準語として確立した.これはロンドンで活躍した支配階級の言葉であるから階級方言であって,同じロンドンでも,下層階級の言葉は標準語とは別物で,後にコックニー (Cockney) として発達した.まだ,文法も辞書もない時代のことで,この標準語は,現代語からみれば発音・文法両面で統一性に欠けた,ある意味で自由奔放な英語でもあった.このような英語の状況を背景に登場し,活躍したのが,いうまでもなく英文学史上最大の作家シェイクスピア (William Shakespeare, 1564--1616) である.この大詩人の英語は〔中略〕欽定訳聖書と並んで,近代英語の2つの源泉と呼ばれている.
ポイントは,話し言葉の標準化が,書き言葉の標準化よりも1世紀ほど遅れて始まったことである.また,その基盤となった変種がロンドンの支配階級の口語だったことも重要である.標準化の最初期には,その変種とて一様ではなく,相当程度の変異を許容する「緩い」ものだったといってよいが,少なくとも現代の標準口語英語の源泉をそこに見出すことができる.私たちの学んでいる「英会話」は,500年前のロンドンの上流サークルのおしゃべりに起源をもつということである.
・ 松浪 有 編,小川 浩,小倉 美知子,児馬 修,浦田 和幸,本名 信行 『英語の歴史』 大修館書店,1995年.
昨日の記事「#3455. なぜ言語には男女差があるのか --- 3つの立場」 ([2018-10-12-1]) で依拠した Wardhaugh は,言語による性差は,社会や個人の認識というレベルでの性差に由来するのだろうと考えている.つまり「社会・文化・認識→言語」の因果関係こそが作用しているのであり,その逆ではないという立場だ.そして,そのような差異は,性に限らず教育水準や社会階級や出身地域などに基づく他の社会的パラメータにもみられるものであり,性だけを取り上げて,それを特に重視することができるのかと疑問を呈している.次の議論を聞いてみよう.
[W]e must be prepared to acknowledge the limits of proposals that seek to eliminate 'sexist' language without first changing the underlying relationship between men and women. Many of the suggestions for avoiding sexist language are admirable, but some, as Lakoff points out with regard to changing history to herstory, are absurd. Many changes can be made quite easily; early humans (from early man); salesperson (from salesman); ordinary people (from the common man); and women (from the fair sex). However, other aspects of language may be more resistant to change, e.g., the he-she distinction. Languages themselves may not be sexist. Men and women use language to achieve certain purposes, and so long as differences in gender are equated with differences in access to power and influence in society, we may expect linguistic differences too. For both men and women, power and influence are also associated with education, social class, regional origin, and so on, and there is no question in these cases that there are related linguistic differences. Gender is still another fact that relates to the variation that is apparently inherent in language. While we may deplore that this is so, variation itself may be inevitable. Moreover, we may not be able to pick and choose which aspects of variation we can eliminate and which we can encourage, much as we might like to do so. (350)
社会的な男女差というものは,たやすく水平化できない根強い区別であり,それが言語上にも反映しているととらえるのが妥当だと,Wardhaugh は考えている.さらに,私見として次のように述べながら性差に関する章を閉じている.
My own view is that men's and women's speech differ because boys and girls are brought up differently and men and women often fill different roles in society. Moreover, most men and women know this and behave accordingly. If such is the case, we might expect changes that make a language less sexist to result from child-rearing practices and role differentiations which are less sexist. Men and women alike would benefit from the greater freedom of choice that would result. However, it may be utopian to believe that language use will ever become 'neutral'. Humans use everything around them --- and language is just a thing in that sense --- to create differences among themselves. (354)
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
標題は社会言語学の最重要問題の1つであり,本ブログでも「#1361. なぜ言語には男女差があるのか --- 征服説」 ([2013-01-17-1]),「#1362. なぜ言語には男女差があるのか --- タブー説」 ([2013-01-18-1]),「#1363. なぜ言語には男女差があるのか --- 女性=保守主義説」 ([2013-01-19-1]) をはじめ gender_difference の多くの記事で話題にしてきた.様々な議論があり,昨今活況を呈している分野といってよいが,社会言語学の定番教科書を著わしている Wardhaugh (346--47) は,大きく3つの立場があり得ると述べている.
(1) 「男女の生物学的な差異が言語にも重大な影響を及ぼしている」
The first claim is that men and women are biologically different and that this difference has serious consequences for gender. Women are somehow predisposed psychologically to be involved with one another and to be mutually supportive and non-competitive. On the other hand, men are innately predisposed to independence and to vertical rather than horizontal relationships. (346)
この立場はある意味でスッキリしている仮説とはいえるが,証拠に乏しく,ステレオタイプを追認するにすぎないとの批判があることを付け加えておく.
(2) 「男女の言語差は,力の上下関係に基づいている」
The second claim is that social organization is best perceived as some kind of hierarchical set of power relationships. Moreover, such organization by power may appear to be entirely normal, justified both genetically and evolutionarily, and therefore natural and possibly even preordained. Language behavior reflects male dominance. Men use what power they have to dominate each other and, of course, women, and, if women are to succeed in such a system, they must learn to dominate others too, women included. (346)
(3) 「男女の言語差は,各々が異なる環境で言語を修得してきた結果である」
The third claim . . . is that men and women are social beings who have learned to use language in different ways. Language behavior is largely learned behavior. Men learn to talk like men and women learn to talk like women because society subjects them to different life experiences. This is often referred to as the difference (sometimes also deficit) view as opposed to the dominance view . . . . (347)
ジェンダー問題に広く見受けられるように,それぞれの立場に微妙なニュアンスの違いがある.(1) から (3) にかけて,生物学的な性差 (sex) から社会的な性差 (gender) を重視する立場へと切り替わっていくが,どこが境目なのかはよく分からない.(3) のさらに先には,言語の男女差はまったく特殊な差ではなく,階級差,民族差,国民差などの他の区別と同様に,人間社会において極めてありふれた1つの社会的な差異にすぎないという見方もある.それによれば,言語そのものは "sexist" ではなく,単に性に基づいて variationist であるにすぎないということになる.Wardhaugh は,どうやらこの立場を取っているようだ.
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
昨日の記事「#3435. 英語史において低地諸語からの影響は過小評価されてきた」 ([2018-09-22-1]) を受けて,Chamson の論文に拠り,英語と低地諸語の話者たちが歴史上いかなる機会に接触してきた(はず)か,略述したい.
両者の接触の歴史は,時間幅でいえば,5世紀のアングロサクソンのブリテン島への移動の前後の時期から,オランダが超大国として覇権を握った17世紀まで,千年以上に及ぶ.このなかで注目に値するのは,(1) アングロサクソンの渡来の前後,(2) ノルマン征服とその後,(3) 両地域間に毛織物貿易の発達した14--15世紀,(4) オランダの繁栄期である16--17世紀の4つの時期だろう.それぞれについて述べていく.
(1) アングロサクソンの渡来の前後
5世紀のアングル人,サクソン人,ジュート人のブリテン島への移動の前後から,他の低地ゲルマン語派の諸部族も同じくブリテン島へ渡っていたことが分かっている.しかし,このように時代が古ければ古いほど,互いの言語の類似性も大きく,借用の決定的な証拠は得にくい.しかし,イングランドの地名のなかに "Frisians" や "Flemings" の存在を示すものが少なくないことに注意すべきである.例えば,Dunfries, Freseley, Freswick, Frisby, Friesden, Friesthorpe, Frieston, Friezland, Frisby, Frisdon, Frizenham, Frizinghall, Frizingon, Fryston; Flemingtuna, Flameresham, Flemdich, Flemingby など.人名でも,Flandrensis, Fleemeng, Flammeng, Flameng, Flemang, Fleamang, Flemmyng, Flamenc, Flemanc などの "Flemings" の異形が,現代でもイギリス人に多く残っている.
(2) ノルマン征服とその後
ノルマン征服の折に William に付き従った外国軍のなかには,多くのフランドル人がいた.また,William の妻 Matilda はフランドル伯 Baldwin V の娘だったこともあり,フランドル人の貢献は際立っていた.征服後もこれらのフランドル人はブリテン島にとどまったらしい.
1107年頃にフランドルで洪水があった際に,Henry I は,被災したフランドル人がイングランド北部に移住することを許可した.それに伴って大量のフランドル人が押し寄せ,世紀半ばには彼らを Wales の南西端 Pembrokeshire に再移住させるなどの事態にも発展している (see 「#3292. 史上最初の英語植民地 Pembroke」 ([2018-05-02-1])) .結果として,Pembrokeshire 南部ではウェールズ人を押しのけてフランドル人が定住するようになり,その人口状況は16世紀の記述にもみられるほどである.
ほかに,12世紀後半には,Henry II とその子供たちの争いにおいてフランドル人の軍隊が利用されたこともあった.さらに,12世紀以降には,Norwich や Norfolk などのイングランド東部の町は,低地帯からの入植者で満たされ,フランドルとの羊毛貿易でおおいに栄えた(特に Norwich は London に次ぐ人口の町となった).彼らは,征服者アングロノルマン人とイングランド人のつなぎの役目を果たした可能性もある.
(3) 両地域間に毛織物貿易の発達した14--15世紀
上記のように征服後間もない頃から,羊毛・織物産業を基盤とする両地域の貿易は大いに栄えてきたが,必ずしも常に仲むつまじい関係だったわけではない.14世紀からは貿易摩擦に由来する敵対心が芽生えたこともあった.イングランド東部やスコットランドに多数のフランドル人が移住し,イングランドの労働者の間に不満が生じるほどになった.国王は,貿易による利益獲得とイングランド国民の経済的保護とのあいだで難しい舵取りを迫られていたのである.しかし逆にいえば,この時代,両者が日常的に密に接触していた証左でもある.
(4) オランダの繁栄期である16--17世紀
16--17世紀には,低地帯はヨーロッパ全体に巨大な影響力を及ぼす地域へと成長しており,アントワープやブリュージュはヨーロッパを代表する都市となっていた.16世紀後半,低地帯はスペイン支配からの独立を巡る争いのなかで,プロテスタントの北部とスペイン支配が続く南部とに分裂した.この争いを受けて,南部からの移民が大量にイングランドに渡ってきた.その後も宗教・政治的争いに起因する万単位の移民の波が17世紀半ばまで数十年間も続き,低地帯とイングランドの人々の間に,歴史上最も大規模で親密な関係が築かれることとなった.
以上,具体的な言語接触の過程や結果には触れなかったが,歴史上,両者の接触が間断なく続いていたことを,Chamson の論文に拠って示した.これは,語彙借用を含む言語的な影響を相互に容易たらしめた社会言語学的条件と見ることができるだろう.
・ Chamson, Emil. "Revisiting a Millennium of Migrations: Contextualizing Dutch/Low-German Influence on English Dialect Lexis." Contact, Variation, and Change in the History of English. Ed. Simone E. Pfenninger, Olga Timofeeva, Anne-Christine Gardner, Alpo Honkapohja, Marianne Hundt and Daniel Schreier. Amsterdam/Philadelphia: Benjamins, 2014. 281--303.
ギリシアは北の隣国「マケドニア共和国」の国名使用に反対してきたが,両国政府の話し合いにより,「マケドニア共和国」の新国名を「北マケドニア共和国」 (Republic of North Macedonia) とする案が,6月12日に合意されたという.マケドニアでは9月末に国名変更の是非を問う国民投票を実施し,賛成多数となれば正式な決定への重要な一歩となる(その後,ギリシア議会による批准も必要とされる).マケドニアにとってEUへの加盟の足かせとなってきた問題であり,今回の提案により前進する可能性が出てきた.ただし,マケドニアで主として使用されている言語については,従来通り「マケドニア語」と呼び続けるようだ.
もっとも,上記の合意は政府レベルの合意であり,ギリシア国民の多くが納得しているわけではない.9月8日の BBC News の報道 Greek riot police fire tear gas at Macedonia name protesters では,ギリシア北部のマケドニア地方の都市テッサロニキにて暴動が起こったことが伝えられた.ギリシアの「マケドニア」地方と,その北の隣国「マケドニア」共和国の名称が重なっているのが,そもそも大問題だったのだ
ギリシアは,アレクサンダー大王で有名な古代ギリシアのマケドニア王国を,ギリシアの歴史の一部として認識してきた.背景には歴史,民族,国家,言語を巡る非常に複雑な経緯がある.「#1659. マケドニア語の社会言語学」 ([2013-11-11-1]) ほか,以下の BBC News の記事を参照されたい.
・ Macedonia country profile (2018/07/10): 国の輪郭
・ Macedonia and Greece: Deal after 27-year row over a name (2018/07/12): 問題の由来が歴史の観点から説明されている
・ Macedonia and Greece: Backlash over name deal (2018/07/13): 7月の政治的合意について
「#1585. 閉鎖的な共同体の言語は複雑性を増すか」 ([2013-08-29-1]) で "esoterogeny" という概念に触れた.ある言語共同体が,他の共同体に対して排他的な態度をとるようになると,その言語をも内にこもった複雑なものへと,すなわち "esoteric" なものへと変化させるという仮説だ.裏を返せば,他の共同体に対して親密な態度をとるようになれば,言語も開かれた単純なものへと,すなわち "exoteric" なものへと変化するとも想定されるかもしれない.この仮説の真偽については未解決というべきだが,刺激的な考え方ではある.Campbell and Mixco の用語集より,両術語の解説を引用する.
esoterogeny 'A sociolinguistic development in which speakers of a language add linguistic innovations that increase the complexity of their language in order to highlight their distinctiveness from neighboring groups' . . . ; 'esoterogeny arises through a group's desire for exclusiveness' . . . . Through purposeful changes, a particular community language becomes the 'in-group' code which serves to exclude outsiders . . . . A difficulty with this interpretation is that it is not clear how the hypothesized motive for these changes --- conscious (sometimes subconscious) exclusion of outsiders . . . --- could be tested or how changes motivated for this purpose might be distinguished from changes that just happen, with no such motive. The opposite of esoterogeny is exoterogeny. (55)
exoterogeny 'Reduces phonological and morphological irregularity or complexity, and makes the language more regular, more understandable and more learnable' . . . . 'If a community has extensive ties with other communities and their . . . language is also spoken as a contact language by members of those communities, then they will probably value their language for its use across community boundaries . . . it will be an "exoteric" lect [variety]' . . . . Use by a wider range of speakers makes an exoteric lect subject to considerable variability, so that innovations leading to greater simplicity will be preferred.
The claim that the use across communities will lead to simplification of such languages does not appear to hold in numerous known cases (for example, Arabic, Cuzco Qechua, Georgian, Mongolian, Pama-Nyungan, Shoshone etc.). The opposite of exoterogeny is esoterogeny. (59--60)
exoterogeny と esoterogeny という2つの対立する概念は,カルヴェのいう「#1521. 媒介言語と群生言語」 ([2013-06-26-1]) の対立とも響き合う.平たくいえば,「開かれた」言語(社会)と「閉ざされた」言語(社会)の対立といっていいが,これが言語の単純化・複雑化とどう結びつくのかは,慎重な議論を要するところだ.「#1482. なぜ go の過去形が went になるか (2)」 ([2013-05-18-1]) では,私はこの補充法の問題について esoterogeny の考え方を持ち出して説明したことになるし,「#1247. 標準英語は言語類型論的にありそうにない変種である」 ([2012-09-25-1]) で紹介した Hope の議論も,標準英語の偏屈な文法を esoterogeny によって説明したもののように思われる.だが,これも1の仮説の段階にとどまるということは意識しておかなければならない.
そもそも言語の「単純化」 (simplification) とは何を指すのかについて,諸家の間で議論があることを指摘しておこう (cf. 「#928. 屈折の neutralization と simplification」 ([2011-11-11-1]),「#1839. 言語の単純化とは何か」 ([2014-05-10-1]),「#3228. Joseph の言語変化に関する洞察,5点」 ([2018-06-07-1])) .また,どのような場合に単純化が生じるかについても,言語接触 (contact) との関係で様々な考察がある (cf. 「#1788. 超民族語の出現と拡大に関与する状況と要因」 ([2014-03-20-1]),「#3151. 言語接触により言語が単純化する機会は先史時代にはあまりなかった」 ([2017-12-12-1])) .
・ Campbell, Lyle and Mauricio J. Mixco, eds. A Glossary of Historical Linguistics. Salt Lake City: U of Utah P, 2007.
「#1585. 閉鎖的な共同体の言語は複雑性を増すか」 ([2013-08-29-1]) で "esoterogeny" という概念に触れた.ある言語共同体が,他の共同体に対して排他的な態度をとるようになると,その言語をも内にこもった複雑なものへと,すなわち "esoteric" なものへと変化させるという仮説だ.裏を返せば,他の共同体に対して親密な態度をとるようになれば,言語も開かれた単純なものへと,すなわち "exoteric" なものへと変化するとも想定されるかもしれない.この仮説の真偽については未解決というべきだが,刺激的な考え方ではある.Campbell and Mixco の用語集より,両術語の解説を引用する.
esoterogeny 'A sociolinguistic development in which speakers of a language add linguistic innovations that increase the complexity of their language in order to highlight their distinctiveness from neighboring groups' . . . ; 'esoterogeny arises through a group's desire for exclusiveness' . . . . Through purposeful changes, a particular community language becomes the 'in-group' code which serves to exclude outsiders . . . . A difficulty with this interpretation is that it is not clear how the hypothesized motive for these changes --- conscious (sometimes subconscious) exclusion of outsiders . . . --- could be tested or how changes motivated for this purpose might be distinguished from changes that just happen, with no such motive. The opposite of esoterogeny is exoterogeny. (55)
exoterogeny 'Reduces phonological and morphological irregularity or complexity, and makes the language more regular, more understandable and more learnable' . . . . 'If a community has extensive ties with other communities and their . . . language is also spoken as a contact language by members of those communities, then they will probably value their language for its use across community boundaries . . . it will be an "exoteric" lect [variety]' . . . . Use by a wider range of speakers makes an exoteric lect subject to considerable variability, so that innovations leading to greater simplicity will be preferred.
The claim that the use across communities will lead to simplification of such languages does not appear to hold in numerous known cases (for example, Arabic, Cuzco Qechua, Georgian, Mongolian, Pama-Nyungan, Shoshone etc.). The opposite of exoterogeny is esoterogeny. (59--60)
exoterogeny と esoterogeny という2つの対立する概念は,カルヴェのいう「#1521. 媒介言語と群生言語」 ([2013-06-26-1]) の対立とも響き合う.平たくいえば,「開かれた」言語(社会)と「閉ざされた」言語(社会)の対立といっていいが,これが言語の単純化・複雑化とどう結びつくのかは,慎重な議論を要するところだ.「#1482. なぜ go の過去形が went になるか (2)」 ([2013-05-18-1]) では,私はこの補充法の問題について esoterogeny の考え方を持ち出して説明したことになるし,「#1247. 標準英語は言語類型論的にありそうにない変種である」 ([2012-09-25-1]) で紹介した Hope の議論も,標準英語の偏屈な文法を esoterogeny によって説明したもののように思われる.だが,これも1の仮説の段階にとどまるということは意識しておかなければならない.
そもそも言語の「単純化」 (simplification) とは何を指すのかについて,諸家の間で議論があることを指摘しておこう (cf. 「#928. 屈折の neutralization と simplification」 ([2011-11-11-1]),「#1839. 言語の単純化とは何か」 ([2014-05-10-1]),「#3228. Joseph の言語変化に関する洞察,5点」 ([2018-06-07-1])) .また,どのような場合に単純化が生じるかについても,言語接触 (contact) との関係で様々な考察がある (cf. 「#1788. 超民族語の出現と拡大に関与する状況と要因」 ([2014-03-20-1]),「#3151. 言語接触により言語が単純化する機会は先史時代にはあまりなかった」 ([2017-12-12-1])) .
・ Campbell, Lyle and Mauricio J. Mixco, eds. A Glossary of Historical Linguistics. Salt Lake City: U of Utah P, 2007.
石黒が社会言語学の入門書で,「社会言語学の大切な前提」として (1) 種類,(2) 選択,(3) 変化の3点を挙げている.実に分かりやすい.石黒 (45) のまとめの文章を引用すると,
(1) 種類……言葉は,話し手や聞き手,状況や伝達方法に合った多様な種類がある.
(2) 選択……言葉は,話し手がそうした多様な種類のなかから選ぶものである.
(3) 変化……言葉は,多様な種類のなかから多数の話し手が取捨選択を重ねた結果,社会的に変化する.
英語でいえば,(1) variation, (2) selection, (3) change といったところだろう.これは確かに variationist を標榜する社会言語学の前提ではあるが,同時に言語変化論における前提でもある.
言語変化 (language_change) に先だって,まず (1) variation や variants が存在していなければならない(cf. 「#1040. 通時的変化と共時的変異」 ([2012-03-02-1]),「#1426. 通時的変化と共時的変異 (2)」 ([2013-03-23-1]),「#2574. 「常に変異があり,常に変化が起こっている」」 ([2016-05-14-1])).
次に,話者(集団)がそれらの variants の選択肢のなかからいずれかを選び取る (2) selection の過程がある.
そして,選択,採用,採択など呼び方は様々だが,この過程を経て真の意味での (3) change が生じることになるのだ(cf. 「#1056. 言語変化は人間による積極的な採用である」 ([2012-03-18-1]) と「#2139. 言語変化は人間による積極的な採用である (2)」 ([2015-03-06-1])).
この3つの前提は,「#2012. 言語変化研究で前提とすべき一般原則7点」 ([2014-10-30-1]) で取り上げた Weinreich et al. の掲げる諸原則ともおおいに重なる.
・ 石黒 圭 『日本語は「空気」が決める 社会言語学入門』 光文社〈光文社新書〉,2013年.
・ Weinreich, Uriel, William Labov, and Marvin I. Herzog. "Empirical Foundations for a Theory of Language Change." Directions for Historical Linguistics. Ed. W. P. Lehmann and Yakov Malkiel. U of Texas P, 1968. 95--188.
標題の2つの言語学の分野は,何かと対比されることが多い.両分野をまたいで仕事をする研究者もいるが,デフォルトの身の置き場はいずれかであるという向きが多い.20世紀の主流は理論言語学であり,そのために単に「言語学」といえば,狭い意味でそちらを指す.21世紀でも,社会言語学から「社会」を省略するわけにはいかないという状況は続いており,まだまだ理論言語学はメジャーである.
一方,大きな潮流ということでいえば,20世紀後半から21世紀にかけて社会言語学的な発想がおおいに強まってきていることは確かである.この言語学史的な背景としては,「#1081. 社会言語学の発展の背景と社会言語学の分野」 ([2012-04-12-1]) や「#2884. HiSoPra* に参加して (2)」 ([2017-03-20-1]) を参照されたい.
さて,理論言語学と社会言語学とでは,具体的に何がどのように異なるのだろうか.石黒 (34) は,両者の違いを以下のように対比的に示している.
関心の所在 | 言葉の在処 | 分析の対象 | 分析の観点 | 分析の方法 | |
---|---|---|---|---|---|
理論言語学 | 言葉の普遍性・共通性 | 頭のなかにある | 言葉の能力 | 構造と規則 | 演繹的・内省的 |
社会言語学 | 言葉の個別性・差異性 | 社会のなかにある | 言葉の使用 | 種類と選択 | 帰納的・記述的 |
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