英語にはややこしい民族名,国民名,言語名が多々あります.民族も国民も言語もたいてい複雑な固有の歴史を背負ってきているので,それを表わす語もややこしくなってしまうのは致し方のないことかもしれません.しかし,標題の2語はそれにしても誤解を招きやすい点では最右翼に位置づけられるペアといってよいでしょう.「#4380. 英語のルーツはラテン語でもドイツ語でもない」 ([2021-04-24-1]) で触れたような誤解が生まれるのも無理からぬことです.
言語の呼称としての German は「ドイツ語」を指します.一方,Germanic は比較言語学的に再建された「ゲルマン(祖)語」 (= Proto-Germanic) を指します.形容詞としては,後者は「ゲルマン(祖)語の」あるいは,このゲルマン(祖)語から派生した一群の言語を指して「ゲルマン語派の」ほどを意味します.
「英語史導入企画2021」より今日紹介するコンテンツは,まさにこの2語のややこしさに焦点を当てた,院生による「A Succinct Account of German and Germanic」です.英語による音声コンテンツとなっています.
英和辞典によると German は「ドイツ人,ドイツ語;ドイツの」ほど,Germanic は「ゲルマン(祖)語;ゲルマン系の,ドイツ的な」ほどとなりますが,すでにこの時点で分かりにくいですね.学習者用英英辞典 OALD8 によると,各々およそ次の通りでした.
German
adjective:
from or connected with Germany
noun:
1 [countable] a person from Germany
2 [uncountable] the language of Germany, Austria and parts of Switzerland
Germanic
adjective:
1 connected with or considered typical of Germany or its people
2 connected with the language family that includes German, English, Dutch and Swedish among others
形容詞としては,"connected with Germany" が共通項となっていますし,やはり分かったような分からないような区別です.
両語の区別を理解する上で参考になるのは各語の初出年です.German の初出は,名詞としては1387年より前,形容詞としては1536年で,そこそこ古いといえますが,Germanic はまず形容詞として1539年に初出し,「ゲルマン(祖)語」を意味する名詞としてはさらに遅く1718年のことです.つまり「ゲルマン(祖)語」の語義は,言語学用語としての後付けの語義だと分かります.
後付けであればこそ,後発の強みを活かして誤解を招かない別の用語を選んでもらいたかったところです.いや,実のところ,比較言語学では「ゲルマン祖語」を指すのに Teutonic (cf. 英語 Dutch, ドイツ語 Deutsch) という別の用語を用いる慣習も古くはあったのです.それだけに,紛らわしい Germanic が結局のところ勝利し定着してしまったことは皮肉と言わざるを得ません.
関連して「#3744. German の指示対象の歴史的変化と語源」 ([2019-07-28-1]) と「#864. 再建された言語の名前の問題」 ([2011-09-08-1]) もご一読ください.
(後記 2021/05/26(Wed):今回紹介した音声コンテンツの文章版が「'German' と 'Germanic' についての覚書」として後日公表されましたので,こちらも案内しておきます.)
日本英語英文学会30周年記念号として,こちらの本が出版されています(先日ご献本いただきまして,関係の先生方には感謝申し上げます).
・ 渋谷 和郎・野村 忠央・女鹿 喜治・土居 峻(編) 『今さら聞けない英語学・英語教育学・英米文学』 DTP出版,2020年.
上記リンク先より目次が閲覧できますが,英語学・英語教育学・英米文学の各分野から,重要なキーワード,トピック,テーマが厳選されています.ページがきれいに偶数で揃っていることからも想像できる通り,すべての話題がページ見開きで簡潔に記述されているというのが本書の最大の特徴だと思います.ありそうでなかった試みとして,この工夫には感心してしまいました.各々の記述は簡潔ではあるものの,他の文献への参照も多く施されており,卒業論文やレポートなどの研究テーマ探しにもたいへん役立つのではないかと思いました(私自身もさっそくゼミ生などに紹介しました).
英語学分野で取り上げられている話題を一覧すると,各著者の専門分野に応じて理論的なものから文献学的ものまで幅広くカバーされていますが,ここでは英語史の観点から2つほどピックアップしてみます.
野村忠央氏による「定形性」(§52)は,動詞の定形 (finite form) と非定形 (non-finite form) という用語・概念に関する導入となっています.英語史において動詞の現在形,接続法(あるいは仮定法),命令形,不定詞は形態がおよそ「原形」に収斂してきた経緯がありますが,形態が同じだからといって機能が同じわけではないことが理論的かつ平易に解説されています.また,形が常に一定で変わらないのに「不定詞」という呼び方はおかしいのではないか,という誰しもが抱く疑問にも易しく答えています.
定形とも非定形とも考えられそうな歴史上の「接続法現在」について,村上まどか氏が「仮定法原形」(§64)で取り上げているので,こちらも紹介します.I demand that the student go to school regularly. のような文における go の形態や関連する統語を巡る問題です.この問題についていくつかの参考文献を挙げながら解説し,この用法においては that 節が省略されにくいなどの興味深い事実を指摘しています.こちらも英語史上の重要問題です.
上記2つの問題と関連する hellog からの記事セットをこちらにまとめましたので,関心のある方はどうぞ.
本書で参照されている参考文献を利用して視野を広げていけば,よい研究テーマにたどり着く可能性があります.教育的配慮の行き届いた書としてお薦めします.
・ 渋谷 和郎・野村 忠央・女鹿 喜治・土居 峻(編) 『今さら聞けない英語学・英語教育学・英米文学』 DTP出版,2020年.
擬人法 (personification) は,文学的・修辞的な技法として知られているが,専門用語というよりは一般用語としても用いられるほどによく知られた用語・概念でもある.広く認知されているがゆえに,学術的に扱おうとするとなかなか難しい種類の話題かもしれない.
とりわけ言語学的に扱おうとする場合,どのようなアプローチが可能なのだろうか.この問題について本格的に考えたこともないので,まず取っ掛かりとして,種々の英語学辞典に当たってみた.最初は『英語学要語辞典』から.
personification 〔体〕(擬人化,擬人法) Fair science frowned not on his humble birth.---T. Gray, Elegy (美しき学問は彼の卑しい素性をいといはしなかった)のように,抽象概念や無生物に人間と同様の性質を与える修辞上の技巧.隠喩の一種で,英文学においては古英詩(特に謎詩)で用いられ始め,中世の道徳劇,寓意詩にもみられる.小説でもその用法は散見され,ゴシック小説では表現上の重要な特性とされている.なお,<+有生>など名詞の素性および選択規則という変形理論の適用により,擬人法を統一的に記述・説明することが可能である.
次に『新英語学辞典』より.
personification 〔修〕(擬人化,擬人法)
無生物や抽象概念を生物扱いしたり,感情など人間特有の性質を持つものとして表現する修辞技巧.擬人化は prosopropeia とも呼ばれ,隠喩 (METAPHOR) の一種で詩で古くから用いられた.Leech (1969) は 'an angry sky' や 'graves yawned' のように,無生物に生物の属性を付与するものを the animistic metaphor, 'this friendly river' や 'laughing valeys' のように,人間以外のものに人間特有の性質を付与するものを the humanizing [anthropomorphic] metaphor と名づけている.I. A. Richards (1929) が指摘しているように,人間以外の生物や無生物に対して抱く感情や思考は,人間相互の感情や思考と共通するもので,従って日常の言語ではもっぱら人間について用いる形容詞・動詞・代名詞を人間以外のものに適用するのはきわめて自然と言えよう.
擬人化は中世の寓意詩にまで遡ることができるが,その伝統を受けついだ Milton は "all things smil'd, With fragrance and with joy my heart oreflowd"---Paradise Lost 8: 265--66 のように,この修辞法を好んで用いた.擬古典主義の時代に入ると,Thomas Parnell, Richard Savage, Edward Young など,18世紀の詩人の言語の大きな特色となり,ますます装飾的な性格を帯びるようになった.しかし,やがてロマン派が台頭し,'the very language of men' を詩の言語たらしめることを標榜した Wordsworth は,慣習的な擬人化を 'a mechanical device of style' として斥けた (Preface to Lyrical Ballads, 1798).
このように,擬人化は詩の言語の伝統的手法であって,散文における比喩表現は直喩 (SIMILE) の形式をとるのがふつうであるが,詩的な散文では効果的に用いられることがある.例えば,Thomas Hardy が Egdon Heath を描写している次のパラグラフでは,観察者の存在を暗示する appeared, seemed, could be imagined 以外の動詞は,闇夜の荒野を擬人化して描き出している: The place became full of watchful intentness now; for when other things sank brooding to sleep the heath appeared slowly to awake and listen. Every night its Titanic form seemed to await something; but it had waited thus, unmoved, during so many centuries, through the crises of so many things, that it could only be imagined to await one last crisis---the final overthrow.---The Return of the Native. Bk. I, Ch. I.
英語における擬人法は,上記の通り,およそ修辞学的・文学史的な観点から話題にされてきたものであり,言語学的・意味論的なアプローチは稀薄だったように思われる.そもそも後者のアプローチとしては,どのようなものがあるのだろうか.探ってみる必要がありそうだ.関連して,「#2191. レトリックのまとめ」 ([2015-04-27-1]) の「擬人法」を参照.
・ 寺澤 芳雄(編) 『英語学要語辞典』 研究社,2002年.
・ 大塚 高信,中島 文雄(監修) 『新英語学辞典』 研究社,1982年.
品詞 (parts of speech) のなかでも,名詞 (noun) は最も基本的なものの1つである.とりあえず「モノの名前」といっておけばおよそ理解できそうな,自然な品詞のように思われる.実際にはそう簡単でもないのだが,細かい前提を抜きにしてとりあえず語り始められる語類にはちがいない.
名詞を下位分類する方法は立場によっていろいろあるだろうが,Crystal (208) を参考にすると,主として意味論的,副として統語論的な観点から以下のように分類される.
┌── Proper │ ┌── Concrete Nouns ──┤ ┌── Count ───┤ │ │ └── Abstract └── Common ──┤ │ ┌── Concrete └── Noncount ──┤ (Mass) └── Abstract
英語の語彙や意味の問題として,婉曲語法 (euphemism) は学生にも常に人気のあるテーマである.隣接領域として taboo, swearing, slang のテーマとも関わり,社会言語学寄りの語彙の問題として広く興味を引くもののようだ.
そもそも euphemism とは何か.まずは Cruse の用語辞典より解説を与えよう (57--58) .
euphemism An expression that refers to something that people hesitate to mention lest it cause offence, but which lessens the offensiveness by referring indirectly in some way. The most common topics for which we use euphemisms are sexual activity and sex organs, and bodily functions such as defecation and urination, but euphemisms can also be found in reference to death, aspects of religion and money. The main strategies of indirectness are metonymy, generalisation, metaphor and phonological deformation.
Sex:
intercourse go to bed with (metonymy), do it (generalisation)
penis His member was clearly visible (generalisation)
Bodily function:
defecate go to the toilet (metonymy), use the toilet (generalisation)
Death:
die pass away (metaphor), He's no longer with us (generalisation)
Religion:
God gosh, golly (phonological deformation)
Jesus gee whiz (phonological deformation)
Hell heck (phonological deformation)
この種の問題に関心をもったら,まずは本ブログより「#469. euphemism の作り方」 ([2010-08-09-1]),「#470. toilet の豊富な婉曲表現」 ([2010-08-10-1]),「#992. 強意語と「限界効用逓減の法則」」 ([2012-01-14-1]) を始めとして (euphemism) の記事群,それから taboo の記事群にも広く目を通してもらいたい.
その後,以下の概説書の該当部分に当たるとよい.
・ Williams, Joseph M. Origins of the English Language: A Social and Linguistic History. New York: Free P, 1975. pp. 198--203.
・ Hughes, G. A History of English Words. Oxford: Blackwell, 2000. pp. 43--49.
・ Brinton, Laurel J. and Leslie K. Arnovick. The English Language: A Linguistic History. Oxford: OUP, 2006. pp. 80--81.
書籍レベルとしては,Bussmann (157) と McArthur (387) の参考文献リストより,以下を掲げる.
・ Allan, K. and K. Burridge. Euphemism and Dysphemism: Language Used as a Shield and Weapon. New York: OUP, 1991.
・ Ayto, J. Euphemisms: Over 3,000 Ways to Avoid Being Rude or Giving Offence. London: 1993.
・ Enright, D. J., ed. Fair of Speech: The Uses of Euphemism. Oxford: OUP, 1985.
・ Holder, R. W. A Dictionary of American and British Euphemisms: The Language of Evasion, Hypocrisy, Prudery and Deceit. Rev. ed. London: 1989. Bath: Bath UP, 1985.
・ Lawrence, J. Unmentionable and Other Euphemisms. London: 1973.
・ Rawson, Hugh. A Dictionary of Euphemisms & Other Doubletalk. New York: Crown, 1981.
具体的な語の調査にあたっては,もちろん OED,各種の類義語辞典 (thesaurus),Room の語の意味変化の辞典などをおおいに活用してもらいたい.
・ Cruse, Alan. A Glossary of Semantics and Pragmatics. Edinburgh: Edinburgh UP, 2006.
・ Bussmann, Hadumod. Routledge Dictionary of Language and Linguistics. Trans. and ed. Gregory Trauth and Kerstin Kazzizi. London: Routledge, 1996.
・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.
・ Room, Adrian, ed. NTC's Dictionary of Changes in Meanings. Lincolnwood: NTC, 1991.
Samuel Johnson の辞書 A Dictionary of the English Language (1755) には,名詞を示す略号として,現在見慣れている n. ではなく n.s. が用いられている.名詞 stone の項目の冒頭をみてみよう.
見出し語に続いて,イタリック体で n. ʃ. が見える.(当時の小文字 <s> はいわゆる long <s> と呼ばれるもので,現在のものと異なるので注意.long <s> については,「#584. long <s> と graphemics」 ([2010-12-02-1]),「#2997. 1800年を境に印刷から消えた long <s>」 ([2017-07-11-1]),「#3869. ヨーロッパ諸言語が初期近代英語の書き言葉に及ぼした影響」 ([2019-11-30-1]),「#3875. 手書きでは19世紀末までかろうじて生き残っていた long <s>」 ([2019-12-06-1]) などを参照.)
n.s. は,伝統的に名詞を指した noun substantive の省略である.現在の感覚からはむしろ冗長な名前のように思われるかもしれないが,ラテン語文法の用語遣いからすると正当だ.ラテン語文法の伝統では,格により屈折する語類,すなわち名詞と形容詞をひっくるめて "noun" とみなしていた.後になって名詞と形容詞を別物とする見方が生まれ,前者は "noun substantive",後者は "noun adjective" と呼ばれることになったが,いずれもまだ "noun" が含まれている点では,以前からの伝統を引き継いでいるともいえる.Dixon (97) から関連する説明を引用しよう.
Early Latin grammars used the term 'noun' for all words which inflect for case. At a later stage, this class was divided into two: 'noun substantive' (for words referring to substance) and 'noun adjective' (for those relating to quality). Johnson had shortened the latter to just 'adjective' but retained 'noun substantive', hence his abbreviation n.s.
引用にもある通り,形容詞のほうは n.a. ではなく現代風に adj. としているので,一貫していないといえばその通りだ.形容詞 stone の項目をみてみよう.
ちなみに,ここには動詞 to stone の見出しも見えるが,品詞の略号 v.a. は,verb active を表わす.今でいう他動詞 (transitive verb) をそう呼んでいたのである.一方,自動詞 (intransitive verb) は,v.n. (= verb neuter) だった.
文法用語を巡る歴史的な問題については,「#1257. なぜ「対格」が "accusative case" なのか」 ([2012-10-05-1]),「#1258. なぜ「他動詞」が "transitive verb" なのか」 ([2012-10-06-1]),「#1520. なぜ受動態の「態」が voice なのか」 ([2013-06-25-1]),「#3307. 文法用語としての participle 「分詞」」 ([2018-05-17-1]),「#3983. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (1)」 ([2020-03-23-1]),「#3984. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (2)」 ([2020-03-24-1]),「#3985. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (3)」 ([2020-03-25-1]),「#4317. なぜ「格」が "case" なのか」 ([2021-02-20-1]) などを参照.
・ Dixon, R. M. W. The Unmasking of English Dictionaries. Cambridge: CUP, 2018.
本ブログでは種々の文法用語の由来について「#1257. なぜ「対格」が "accusative case" なのか」 ([2012-10-05-1]),「#1258. なぜ「他動詞」が "transitive verb" なのか」 ([2012-10-06-1]),「#1520. なぜ受動態の「態」が voice なのか」 ([2013-06-25-1]),「#3307. 文法用語としての participle 「分詞」」 ([2018-05-17-1]),「#3983. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (1)」 ([2020-03-23-1]),「#3984. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (2)」 ([2020-03-24-1]),「#3985. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (3)」 ([2020-03-25-1]) などで取り上げてきた.今回は「格」がなぜ "case" と呼ばれるのかについて,連日参照・引用している Blake (19--20) より概要を引用する.
The term case is from Latin cāsus, which is in turn a translation of the Greek ptōsis 'fall'. The term originally referred to verbs as well as nouns and the idea seems to have been of falling away from an assumed standard form, a notion also reflected in the term 'declension' used with reference to inflectional classes. It is from dēclīnātiō, literally a 'bending down or aside'. With nouns the nominative was taken to be basic, with verbs the first person singular of the present indicative. For Aristotle the notion of ptōsis extended to adverbial derivations as well as inflections, e.g. dikaiōs 'justly' from the adjective dikaios 'just'. With the Stoics (third century BC) the term became confined to nominal inflection . . . .
The nominative was referred to as the orthē 'straight', 'upright' or eutheia onomastikē 'nominative case'. Here ptōsis takes on the meaning of case as we know it, not just of a falling away from a standard. In other words it came to cover all cases not just the non-nominative cases, which in Ancient Greek were called collectively ptōseis plagiai 'slanting' or 'oblique cases' and for the early Greek grammarians comprised genikē 'genitive', dotikē 'dative' and aitiatikē 'accusative'. The vocative which also occurred in Ancient Greek, was not recognised until Dionysius Thrax (c. 100 BC) admitted it, which is understandable in light of the fact that it does not mark the relation of a nominal dependent to a head . . . . The received case labels are the Latin translations of the Greek ones with the addition of ablative, a case found in Latin but not Greek. The naming of this case has been attributed to Julius Caesar . . . . The label accusative is a mistranslation of the Greek aitiatikē ptōsis which refers to the patient of an action caused to happen (aitia 'cause'). Varro (116 BC--27? BC) is responsible for the term and he appears to have been influenced by the other meaning of aitia, namely 'accusation' . . . .
この文章を読んで,いろいろと合点がいった.英語学を含む印欧言語学で基本的なタームとなっている case (格)にせよ declension (語形変化)にせよ inflection (屈折)にせよ,私はその名付けの本質がいまいち呑み込めていなかったのだ.だが,今回よく分かった.印欧語の形態変化の根底には,まずイデア的な理想形があり,それが現世的に実現するためには,理想形からそれて「落ちた」あるいは「曲がった」形態へと堕する必要がある,というネガティヴな発想があるのだ.まず最初に「正しい」形態が設定されており,現実の発話のなかで実現するのは「崩れた」形である,というのが基本的な捉え方なのだろうと思う.
日本語の動詞についていわれる「活用」という用語は,それに比べればポジティヴ(少なくともニュートラル)である.動詞についてイデア的な原形は想定されているが,実際に文の中に現われるのは「堕落」した形ではなく,あくまでプラグマティックに「活用」した形である,という発想がある.
この違いは,言語思想的にも非常におもしろい.洋の東西の規範文法や正書法の考え方の異同とも,もしかすると関係するかもしれない.今後考えていきたい問題である.
・ Blake, Barry J. Case. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2001.
世界の諸言語について,主要な格 (case) のあり方という観点から分類するとき,英語のような nominative-accusative タイプの言語と,バスク語やグルジア語のような absolutive-ergative タイプの言語に大きく分けられる.前者は対格言語 (accusative language),後者は能格言語 (ergative language) と呼ばれる.
英語のような対格言語の格体系は,私たちが当然視しているものであり,ほとんど説明を要しないだろう.He opened the door. と The door opened. の2文において,各々文頭に立っている名詞句 He と The door が主語の役割を果たす主格 (nominative case) に置かれているのに対し,第1文の the door は目的語の役割を果たす対格 (accusative case) に置かれているといわれる.
しかし,能格言語においては,第1文と第2文の両方の the door が絶対格 (absolutive case) に置かれ,第2文の He は能格 (ergative case) に置かれる.いずれの文でも,自然に開こうが誰かが開こうが,結果的に開いている「扉」は絶対格に置かれ,第2文のみに明示されている,その状態を能動的に引き起こした「彼」が能格に置かれるのだ.
類型論などでしばしば言及される能格言語というものは,世界の諸言語のなかでは稀なタイプの言語だと思い込んでいたが,それほど稀でもないようだ.対格言語に比べれば圧倒的な少数派であることは間違いないが,世界言語の2割ほどはこのタイプだと知って驚いた.Blake (121) によると,分布は世界中に広がっている.
Ergative systems are often considered rare and remote, but in fact they make up at least twenty per cent of the world's languages. Ergative systems are to be found in all families of the Caucasian phylum, among the Tibeto-Burman languages, in Austronesian, in most Australian languages, in some languages of the Papuan families, in Zoque and the Mayan languages of Central America and in a number of language families in South America: Jé, Arawak, Tupí-Guaraní, Panoan, Tacanan, Chibchan and Carib. Outside these phyla and families where ergative systems of marking are common, ergativity is also to be found in some other languages including Basque, Hurrian and a number of other extinct languages of the Near East, Burushaski (Kashmir, Tibet), Eskimo, Chukch, and Tsimshian and Chinook (these last two being Penutian languages of British Columbia).
ちなみに,英語は能格言語ではないが,上の例で挙げた open(ed) のように自動詞にも他動詞にも用いられる動詞を指して能格動詞 (ergative verb) と呼ぶことがある.
・ Blake, Barry J. Case. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2001.
印欧語言語学では,伝統的に格 (case) の1つとして呼格 (vocative) が認められてきた.例えば,ギリシア語やラテン語において呼格は主格などと異なる特別な形態をとる場合があり (ex. Quō vādis, domine? の domine など),その点で呼格という格を独立させて立てる意義は理解できる.
しかし,昨日の記事「#4311. 格とは何か?」 ([2021-02-14-1]) で掲げた格の定義を振り返れば,"Case is a system of marking dependent nouns for the type of relationship they bear to their heads." である.いわゆる呼格というものは,文の構成要素としては独立し遊離した存在であり,別の要素に依存しているわけではないのだから,依存関係が存在することを前提とする格体系の内側に属しているというのは矛盾である.呼格は依存関係の非存在を標示するのだ,というレトリックも可能かもしれないが,必ずしもすべての言語学者を満足させるには至っていない.構造主義的厳密性をもって主張する言語学者 Hjelmslev は格として認めていないし,英語学者 Jespersen も同様だ.英語学者の Curme も,主格の1機能と位置づけているにすぎない.
しかし,いわゆる呼格の機能である「呼びかけ」には,統語上の独立性のみならず音調上の特色がある.言語学的には,何らかの方法で他の要素と区別しておく必要があるのも確かである.言い換えれば,形態的な観点から格としてみなすかどうかは別にしても,機能や用法の観点からはカテゴリー化しておくのがよさそうだ.
「呼格」には限られた特殊な語句が用いられる傾向があるということも指摘しておきたい.名前,代名詞 you,親族名称,称号,役職名が典型だが,そのほかにも (my) darling, dear, honey, love, (my) sweet; old man, fellow; young man; sir, madam; ladies and gentlemen などが挙げられる.
・ 大塚 高信,中島 文雄(監修) 『新英語学辞典』 研究社,1982年.
格 (case) は,人類言語に普遍的といってよい文法カテゴリーである.系統の異なる言語どうしの間にも,格については似たような現象や分布が繰り返し観察されることから,それは言語体系の中枢にあるものに違いない.
学校英文法でも主格,目的格,所有格などの用語がすぐに出てくるほどで,多くの学習者になじみ深いものではあるが,そもそも格とは何なのか.これに明確に答えることは難しい.ずばり Case というタイトルの著書の冒頭で Blake (1) が与えている定義・解説を引用したい.
Case is a system of marking dependent nouns for the type of relationship they bear to their heads. Traditionally the term refers to inflectional marking, and, typically, case marks the relationship of a noun to a verb at the clause level or of a noun to a preposition, postposition or another noun at the phrase level.
この文脈では,節の主要部は動詞ということになり,句の主要部は前置詞,後置詞,あるいは別の名詞ということになる.平たくいえば,広く文法的に支配する・されるの関係にあるとき,支配される側に立つ名詞が,格の標示を受けるという解釈になる(ただし支配する側が格の標示を受けるも稀なケースもある).
引用中で指摘されているように,伝統的にいえば格といえば屈折による標示,つまり形態的な手段を指してきたのだが,現代の諸理論においては一致や文法関係といった統語的な手段,あるいは意味役割といった意味論的な手段を指すという見解もあり得るので,議論は簡単ではない.
確かに普段の言語学の議論のなかで用いられる「格」という用語の指すものは,ときに体系としての格 (case system) であり,ときに格語尾などの格標示 (case marker) であり,ときに格形 (case form) だったりする.さらに,形態論というよりは統語意味論的なニュアンスを帯びて「副詞的対格」などのように用いられる場合もある.私としては,形態論を意識している場合には "case" (格)という用語を用い,統語意味論を意識している場合には "grammatical relation" (文法関係)という用語を用いるのがよいと考えている.後者は,Blake (3) の提案に従った用語である.後者には "case relation" という類似表現もあるのだが,Blake は区別している.
It is also necessary to make a further distinction between the cases and the case relations or grammatical relations they express. These terms refer to purely syntactic relations such as subject, direct object and indirect object, each of which encompasses more than one semantic role, and they also refer directly to semantic roles such as source and location, where these are not subsumed by a syntactic relation and where these are separable according to some formal criteria. Of the two competing terms, case relations and grammatical relations, the latter will be adopted in the present text as the term for the set of widely accepted relations that includes subject, object and indirect object and the term case relations will be confined to the theory-particular relations posited in certain frameworks such as Localist Case Grammar . . . and Lexicase . . . .
・ Blake, Barry J. Case. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2001.
音素 (phoneme) は,言語学の入門書でも必ず取り上げられる言語の基本的単位であるといわれながら,実は定義が様々にあり,言語学上もっとも問題含みの概念・用語の1つである.学史上も論争が絶えず,軽々に立ち入ることのできないタームである.言語学では,往々にしてこのような問題含みの議論がある.例えば,語 (word) という基本的な単位すら,言語学ではいまだ盤石な定義が与えられていない (cf. 「語の定義がなぜ難しいか」の記事セット) .
音素の定義というのっぴきならない問題にいきなり迫るわけにもいかないので,まずは用語辞典の記述に頼ってみよう.ただ,いくつか当たってみたのだが,問題のややこしさを反映してか,どれも記述がストレートでない.そのなかでも分かりやすい方だったのが Crystal の用語辞典だったので,取っ掛かりとして長々と引用したい.ただし,これとて絶対的に分かりやすいかといえば疑問.それくらい,初心者には(実は専門家にも)取っつきにくい用語・概念.
phoneme (n.) The minimal unit in the sound SYSTEM of a LANGUAGE, according to traditional PHONOLOGICAL theories. The original motivation for the concept stemmed from the concern to establish patterns of organization within the indefinitely large range of sounds heard in languages. The PHONETIC specifications of the sounds (or PHONES) heard in speech, it was realized, contain far more detail than is needed to identify the way languages make CONTRASTS in MEANINGS. The notion of the phoneme allowed linguists to group together sets of phonetically similar phones as VARIANTS, or 'members', of the same underlying unit. The phones were said to be REALIZATIONS of the phonemes, and the variants were referred to as allophones of the phonemes . . . . Each language can be shown to operate with a relatively small number of phonemes; some languages have as few as fifteen phonemes; othes as many as eighty. An analysis in these terms will display a language's phonemic inventory/structure/system. No two languages have the same phonemic system.
Sounds are considered to be members of the same phoneme if they are phonetically similar, and do not occur in the same ENVIRONMENT (i.e. they are in COMPLEMENTARY DISTRIBUTION) --- or, if they do, the substitution of one sound for the other does not cause a change in meaning (i.e. they are in FREE VARIATION). A sound is considered 'phonemic', on the other hand, if its substitution in a word does cause a change in meaning. In a phonemic transcription, only the phonemes are given symbols (compared with phonetic TRANSCRIPTIONS, where different degrees of allophonic detail are introduced, depending on one's purpose). Phonemic symbols are written between oblique brackets, compared with square brackets used for phonetic transcriptions; e.g. the phoneme /d/ has the allophones [d] (i.e. an ALVEOLAR VOICED variant), [d̥] (i.e. an alveolar devoiced variant), [d̪] (i.e. a DENTAL variant) in various complementary positions in English words. Putting this another way, it is not possible to find a pair of words in English which contrast in meaning solely on account of the difference between these features (though such contrasts may exist in other languages). The emphasis on transcription found in early phonemic studies is summarized in the subtitle of one book on the subject: 'a technique for reducing languages to writing'. The extent to which the relationship between the phonemes and the GRAPHEMES of a language is regular is called the 'phoneme-grapheme correspondence'.
On this general basis, several approaches to phonemic analysis, or phonemics, have developed. The PRAGUE SCHOOL defined the phoneme as a BUNDLE of abstract DISTINCTIVE FEATURES, or OPPOSITIONS between sounds (such as VOICING, NASALITY), and approach which was developed later by Jakobson and Halle . . . , and GENERATIVE phonology. The approach of the British phonetician Daniel Jones (1881--1967) viewed the phoneme as a 'family' of related sounds, and not as oppositions. American linguists in the 1940s also emphasized the phonetic reality of phonemes, in their concern to devise PROCEDURES of analysis, paying particular attention to the DISTRIBUTION of sounds in an UTTERANCE. Apart from the question of definition, if the view is taken that all aspects of the sound system of a language can be analysed in terms of phonemes --- that is, the SUPRASEGMENTAL as well as the SEGMENTAL features --- then phonemics becomes equivalent to phonology (= phonemic phonology). This view was particularly common in later developments of the American STRUCTURALIST tradition of linguistic analysis, where linguists adopting this 'phonemic principle' were called phonemicists. Many phonologists, however (particularly in the British tradition), prefer not to analyse suprasegmental features in terms of phonemes, and have developed approaches which do without the phoneme altogether ('non-phonemic phonology', as in PROSODIC and DISTINCTIVE FEATURE theories).
最後の段落に諸派の見解が略述されているが,いや,実に厄介.
音声 (phone) と音素 (phoneme) との違いについて,これまでに次のような記事を書いてきたので,そちらも参照.
・ 「#669. 発音表記と英語史」 ([2011-02-25-1])
・ 「#3717. 音声学と音韻論はどう違うのですか?」 ([2019-07-01-1])
・ 「#4232. 音声学と音韻論は,車の構造とスタイル」 ([2020-11-27-1])
・ Crystal, David, ed. A Dictionary of Linguistics and Phonetics. 6th ed. Malden, MA: Blackwell, 2008. 295--96.
一昨日と昨日の記事「#4292. Trier の「意味の場」の言語学史上の意義 (1)」 ([2021-01-27-1]) と「#4293. Trier の「意味の場」の言語学史上の意義 (2)」 ([2021-01-28-1]) では,Trier の「意味の場」 (semantic_field) の学史的背景をみた.今回は,Trier と同じ時代にかなり異なる種類の「意味の場」を提起した Porzig に注目してみたい.参照する論文は昨日と同じ Öhman である.
Trier の「意味の場」が paradigmatic な視点からのものであるのに対し,Porzig の「意味の場」は syntagmatic である.現代の術語でいえば語の共起 (collocation),あるいは共起制限の発想に近い.また,Trier は「意味の場」を論じるのに名詞を重視するが,Porzig は動詞や形容詞などの述語的な語彙を重視する.
The field concept of Porzig is of quite a different type than Trier's. Porzig finds certain "essential semantic relationships" between verbs and nouns or between adjectives and nouns. 'To go' presupposes 'the feet', 'to grasp' presupposes 'the hand', and 'blond' (in German and English) presupposes 'the hair'. These relationships form the basic articulations of the meaning system and therefore Porzig calls them "elementary semantic fields" (elementare Bedeutungsfelder). The nucleus of such a semantic field can only consist of a verb or an adjective, because these classes of words have a predicative function and are therefore less ambiguous than nouns. One can grasp with the hand only, but one can do many things with the hand. (129)
両者のもう1つの大きな違いは,Trier の「意味の場」が最終的には意味や語彙の全体を覆う大構造を前提としているのに対して,Porzig のそれは基本的で具体的な場に主たる関心があるという点だ.後者には現代の認知意味論的な風味も感じられる.
Trier protests against Porzig's use of the term "field" in this new sense. Trier based his theory on the entire vocabulary, dividing it into large field units, and subdividing these until he reached the smallest entities---single words. Porzig's field, on the other hand, is conceived as primitive concrete situations linguistically designated. By means of it the speech community succeeds in grasping higher and more abstract spheres.
現在の言語学でも「意味の場」の概念・用語は,かなり緩いものとして用いられているように見受けられる.この緩さの背景を理解するのに学史を振り返ってみることも重要だと,今回感じた.
・ Öhman, Suzanne. "Theories of 'the Linguistic Field'." Word 9 (1953): 123--34.
昨日の記事に引き続き,Trier に帰せられる「意味の場」について.院生に教えてもらった Öhman による関連する論文を読んだが,言語の「場」 (Feld, or field) を巡る学史が要領よくまとまっていて勉強になった.
Humboldt に端を発し,20世紀前半の Ipsen, Trier, Jolles, Porzig へとつながるドイツを中心とした言語学界において,様々な「場」の捉え方が提案されることになった.その背景には,ゲシュタルト心理学の影響があるという (Öhman 124) .語彙や意味も個々の項を原子的に眺めているだけでは不十分であり,項の集団を全体としてとらえる視点が必要であるとされた.言い換えれば,個々の項も構造のなかで理解する必要があるということであり,これはまさにソシュールの創始した構造主義の言語観にほかならない.
ただ,一口に「場」といっても,Ipsen, Trier, Porzig の「場」の捉え方はそれぞれ異なっている.Öhman 論文では各々の解説と評価がなされているが,ここでは現代に至るまで強い影響力を持ち続けている Trier の「意味の場」理論に注目したい.
現代では「意味の場」 (semantic_field) は「語彙の場」 (lexical field) とほぼ同義で用いられており,若干の力点の置き方の違いを除けば,明確に区別されていないように見受けられる.しかし,Trier は,両者は互いに関係するものの,2つの異なる「場」であると考えていた.
Trier investigates language as ergon or, in the Saussurean terminology, as langue rather than parole. His (sic) distinguishes conceptual and lexical fields. The conceptual field exists independently of, or at least beside, the lexical fields. The lexical field is formed by a word and its conceptual cognates and corresponds to the entirety of the conceptual field. The latter is divided into parts by the word mosaic (Wortdecke) of the lexical field. A word alone has not meaning but acquires one only through the opposition between it and neighboring words in the pattern. For instance, in the grading of examination results as excellent, good, fair, poor, very poor, the word poor acquires a meaning only when one knows that the scale of grading consists of five degrees and that poor lies in the lower half between fair and very poor. (Öhman 126--27)
また,Trier は,いずれの場についても,複数の場が集まって,より大きな場を作り上げ,最終的には当該言語が表わす意味や語彙の総体にたどり着くという,壮大な場の体系を考えていた.
The linguistic field, Trier stresses, is no isolated sphere in the vocabulary, even if this at first appears to be the case. Just as sections of a lexical field border on one another and form a whole, corresponding to the conceptual field, so do the lexical as well as the conceptual fields, according to Trier's theory, join together to form in turn fields of higher orders, until finally the entire vocabulary is included. The fields of lower order "articulate" (ergliedern sich) to form those of higher order, while the fields of higher order "resolve" (gliedern sich aus) into those of lower order. In treating his field as a closed unit, Trier uses a working hypothesis which is necessary to make the analysis at all possible. (Öhman 127)
いかにも構造主義的な言語観ではある.しかし,後の意味論研究が明らかにしてきたように,実際の意味にせよ語彙にせよ,水も漏らさぬ理想的な場の体系を作っているわけではなく,むしろ重なり合い,動的でもある複雑な体系なのだ.その点では,Trier の意味の場の理論も,時代による限界があったと言わざるを得ない.とはいえ,意味論の学史上,重要な転機の1つであったとは評価できるだろう.
・ Öhman, Suzanne. "Theories of 'the Linguistic Field'." Word 9 (1953): 123--34.
ソシュール (Ferdinand de Saussure; 1857--1913) に発する構造言語学の流れのなかで,語彙意味論の領域で「場」 (Feld, or field) の概念を確立したのはドイツの文献学者 Jost Trier (1894--1970) である.1931年の Der deutsche Wortschatz im Sinnbezirk des Verstandes: Die Geschichte eines sprachlichen Feldes (Heidelberg: Carl Winter) により「場」,特に「語場」の理論 (Wortfeldtheorie) を創唱した.
Trier は「意味の場」 (Bedeutungsfeld, or semantic_field) の理論の確立者として言及されることもあるが,正確にいえば,この用語は先立つ Ipsen のものである.Ipsen, Porzig, Weisgerber と Trier とが,時代の趨勢の中で協働して「場」の概念を言語学に広めていったと言えばよいだろうか.
「言語の場」 (sprachliche Felder) とは一般的な用語であり,その下位区分に Wordfelder (さらにその下に morphologische Felder と syntagmatische Felder)と Gedankenfelder (さらにその下に Begriffsfelder と Kontextfelder)がある.これらは「特定の相互関係によって結びつき,一定のまとまりをなすような語の集合を指し,ある言語の語彙はこのような集合の階層組織として成立していると見なされる」と解説される(山中ほか,p. 24).
「意味の場」をはじめとした「場」の概念を持ち込むことによって Trier らが生み出した功績は,語の意味や意味変化の分析において,個々の語に注目するのではなく,語集合である「場」を単位とする分析の基盤を提供したことにある.今となっては珍しくもない,何らかの分類による「語群」単位によって意味を研究するという方法論が初めて体系化されたのだった.この発想に依拠して,ある単語の意味変化というものが,その単語だけの問題としてではなく,関連する語群が構成する「場」の編成替え (Umgliederung der Wortfelder) の問題として扱えるようになったのだ.新たに考察すべき「単位」が設定されたという点で,学史上の意義を有する.
語彙のなかの閉じたサブセットとしての「意味の場」は,範囲が限定されているだけに研究しやすいともいえる.一方,それがいかなる一般性を示し得るのか,という問題もあることは指摘しておきたい.
・ 山中 桂一,原口 庄輔,今西 典子 (編) 『意味論』 研究社英語学文献解題 第7巻.研究社.2005年.
我が国の学校文法における Jespersen の文法の影響力は,現在に至るまで続いている.20--21世紀の新しい言語学の興隆により,Jespersen の影も徐々に薄くなっているようにも感じられるが,実際の支持はまだ根強いのではないだろうか.
Jespersen の貢献は数多あるが,統語論に関していえば標題の "nexus" と "junction" の区別はとりわけ重要である.この用語を知らずとも,多くの人が英語の構文の解釈においてこの区別を重視しているはずである.まずは Jespersen 自身の説明を引用しよう.
1.41. C. Nexus, i. e. a combination implying predication and as a rule containing a subject and either a verb or a predicative or both. Besides these a nexus may contain one or more objects, often a direct and an indirect object.
1.31. B. Junction, i. e. a combination of words which does not denote predication, but which serves to make what we are speaking about more precise. Here we meet with the distinction of ranks. A very poor widow contains a tertiary (very), a secondary (poor) and a primary (widow); corresponding examples are extremely cold weather, a furiously barking dog. In other combinations we may have quaternaries or quinaries, e. g. a not (5) particularly (4) well (3) constructed (2) plot (1).
具体的に示せば,I found a dog barking. において a dog barking は "nexus" を体現している.およそ I found that a dog was barking. とパラフレーズできるように,主語と述語に相当する要素をもった構造とみることができる.一方,I found a barking dog. では a barking dog は "junction" を体現している.I found it. とまとめ上げられることから分かるように,そこに主述の関係は含意されているとはいえ that a dog was barking という節に展開され得る統語関係ではない.
理論的にも実践的にも,この2つの関係を峻別しておくことの意義は大きい.以下の例文において斜体部分は,一見すると "junction" にみえるかもしれないが,実際には "nexus" と理解すべきものである.
・ The difficulties overcome makes the rest easy. (こうした困難が克服されたので後は容易である.)
・ That's a great load off my mind. (それでほっとした.)
・ I sat with all the windows and the door wide open. (窓も戸も開け放して坐っていた.)
・ He being rich and I poor, everybody took his side against me. (彼が金持ちで私が貧しいため,みんな彼の肩を持って私に反対した.)
・ Jespersen, Otto. A Modern English Grammar on Historical Principles. Part 5. Copenhagen: Munksgaard, 1954.
ソシュール (Ferdinand de Saussure; 1857--1913) は,言語の共時態 (synchrony) と通時態 (diachrony) を区別したことで知られる (2つの態についてはこちらの記事セットを参照).ソシュールは通時的次元を「諸価値の変動のことであり,それは有意単位の変動ということにほかならない」(丸山,p. 310)と定義している.この「変動」は,フランス語 déplacement (英語の displacement)の訳語だが,むしろ「置換」と理解したほうが分かりやすい.ソシュールは,シニフィエ (signifié) とシニフィアン (signifiant) の結合から成る記号 (signe) の変化は,両者の「ずれ」というよりも,別の記号による「置換」と考えている節があるからだ.
同じ丸山『ソシュール小事典』より déplacement の項 (284) を繰ってみると訳語としてこそ「ずれ,変動」と記されているが,内容をよく読んでみると実際には「置換」にほかならない.以下,引用する.
déplacement [ずれ,変動]
ラングなる体系内での辞項 (terme) の布置が変り,その結果として価値 (valeur) の変動が起こること.「辞項と諸価値のグローバルな関係のずれ (frag. 1279) .動詞形の déplacer (ずらす)も用いられた「いかなるラングも(…)変容 (altération) の諸要因に抗するすべはない.その結果,時とともにシニフィエ (signifie) に対するシニフィアン (signifiant) のトータルな関係 (rapport) がずらされる」 (frag. 1259) .このずれは,シーニュ (signe) 内での不可分離な二項がずれるという意味ではなく,シーニュの輪郭を決定する分節線そのものがずれて新しいシーニュが誕生することを意味するが,古いシーニュと新しいシーニュを比較する際,語る主体 (sujet parlant) にとってはシニフィアンとシニフィエがずれたように錯覚されるのである.
つまり,"déplacement" という用語を,記号内のシニフィエとシニフィアンの関係の「ずれ,変動」を指すものであるかのように使っているが,実際にソシュールが意図していたのは「ずれ」ではなく「置換」なのである(「再生」ですらない).とすると,語の音声変化や意味変化も,シニフィエかシニフィアンの片方は固定していたが他方がずれたのである,とはみなせなくなる.古いシーニュが新しいシーニュに置き換えられたのだと,みなすことになろう.
・ 丸山 圭三郎 『ソシュール小事典』 大修館,1985年.
intensifier は通常「強意語」と訳されるが,専門的に広義には,意味の緩和,つまりマイナス方向の「強意」をも含む用語としてとらえておく必要がある.Quirk et al. (§§8.104--115) によると,intensifier は意味論の観点から以下のように下位区分される.
INTENSIFIERS
・ AMPLIFIERS
・ Maximizers: absolutely, altogether, completely, entirely, extremely, fully, perfectly, quite, thoroughly, totally, utterly, in all respects, most
・ Boosters: badly, bitterly, deeply, enormously, far, greatly, heartily, highly, intensely, much, severely, so, strongly, terribly, violently, well, a great deal, a good deal, a lot, by far, very much
・ DOWNTONERS
・ Approximators: almost, nearly, practically, virtually, as good as, all but
・ Compromisers: kind of, sort of, quite, rather, enough, sufficiently, more or less
・ Diminishers: mildly, partially, partly, quite, slightly, somewhat, in part, in some respects, to some extent, a bit, a little, least (of all), only, merely, simply, just, but
・ Minimizers: barely, hardly, little, scarcely, in the least, in the slightest, at all, a bit
この数日間に「#4233. なぜ quite a few が「かなりの,相当数の」の意味になるのか?」 ([2020-11-28-1]),「#4235. quite a few は,下げて和らげおきながら最後に皮肉で逆転?」 ([2020-11-30-1]) の記事で副詞 quite の用法に注目してきたが,上の分類によると quite は Maximizers と Compromizers の2つのリストのなかに現われる.一般に,程度の概念を伴わない語句と共起する場合には Maximizer として機能し,程度を有する語句と共起する場合には Compromiser として機能するとされる.それぞれ例文を挙げておこう.
[ Maximizer として ]
・ Flying is quite the best way to travel.
・ I quite forgot about her birthday.
・ I quite understand.
・ The bottle is quite empty.
・ You're quite right.
[ Compromizer として ]
・ He plays quite well.
・ I quite enjoyed the party, but I've been to better ones.
・ It is quite cold, isn't it?
・ She quite likes him, but not enough to marry him.
・ The food in the cafeteria is usually quite good.
頻度の高い副詞だが,案外使い方は難しい.
・ Quirk, Randolph, Sidney Greenbaum, Geoffrey Leech, and Jan Svartvik. A Comprehensive Grammar of the English Language. London: Longman, 1985.
言語学史上,類推作用 (analogy) については多くが論じられてきた.「音韻法則に例外なし」を謳い上げた19世紀の比較言語学者たちは analogy を言語変化の例外を集めたゴミ箱として扱った一方で,英語史を含め個別言語の言語史記述においては,analogy を引き合いに出さなければ諸問題を考察することすら不可能なほどに,概念・用語としては広く浸透した(cf. 「#555. 2種類の analogy」 ([2010-11-03-1]),「#1154. 言語変化のゴミ箱としての analogy」 ([2012-06-24-1])).analogy を巡る様々な立場の存在は,それが日常用語でもあり学術用語でもあるという点に関わっているように思われる.学術用語としても,言語学のみならず心理学や認知科学などで各々の定義が与えられており,比較するだけで頭が痛くなってくる.
ここ数日の記事で引用している Fertig (12) は,言語学における analogy という厄介な代物を本格的に再考し,改めて導入しようとしている.読みながら多くのインスピレーションを受けているが,とりわけ重要なのは Fertig なりの analogy の定義である.これが本書の序盤 (12) に提示されるので,こちらに引用しておきたい.
(3a) analogy1 [general sense] is the cognitive capacity to reason about relationships among elements in one domain based on knowledge or beliefs about another domain. Specifically, this includes the ability to make predictions/guesses about unknown properties of elements in one domain based on knowledge of one or more other elements in that domain and perceived parallels between those elements and sets of known elements in another domain.
(3b) analogy2 [specific sense] is the capacity of speakers to produce meaningful linguistic forms that they may have never before encountered, based on patterns they discern across other forms belonging to the same linguistic system.
(3c) an analogical formation is a form (word, phrase, clause, sentence, etc.) produced by a speaker on the basis of analogy2.
(3d) associative interference is an analogical formation and/or a product of associative interference that deviates from current norms of usage.
(3f) an analogical change is a difference over time in prevailing usage within (a significant portion of) a speech community that corresponds to an analogical innovation or a set of related innovations.
定義というのは,それだけ読んでもなぜそのようになっているのか,なぜそこまで精妙な言い回しをするのか分からないことも多いが,それはこの analogy についても当てはまる.Fertig の新機軸の1つは,従来の analogy 観に (3d) の項目を付け加えたことである.伝統的な「比例式」を用いた analogy の定義には当てはまらないが,別の観点からは analogy とみなせる事例を加えるために,新たに検討されたのが (3d) だった.
もちろん Fertig の定義とて1つの定義,1つの学説にすぎず,精査していく必要があるだろう.
・ Fertig, David. Analogy and Morphological Change. Edinburgh: Edinburgh UP, 2013.
Fertig (7) に "Change vs. diachronic correspondence" と題する節をみつけた.この2つは歴史言語学において区別すべき重要な概念である.この区別を意識していないと,思わぬ誤解に陥ることがある.
Linguists often use 'change' to refer to correspondences among forms that may be separated by centuries or millennia, e.g. Old English stān and Modern English stone or Middle English holp and Modern English helped. For purposes of comparative reconstruction, diachronic correspondences that relate forms separated by hundreds of years may be just what one needs, but such correspondences often mask a complex sequence of smaller developments that may have taken a very circuitous route. Linguists who are serious about understanding how change actually happens often point to the fallacies that arise from treating diachronic correspondences as if they directly reflected individual changes. Where plentiful data allows us to examine the course of a change in fine-grained detail, the picture that emerges is often very different from what we would posit if we only had evidence of the 'before' and 'after' states . . . .
異なる2つの時点において(主として形式について)対応関係が認められる1組の言語項があるとき,その2つの言語項は何らかの通時的な線で結びつけられて然るべきである.この通時的な線こそが,その言語項が遂げた変化の実態である.しかし,時間に沿ってよほど細かな証拠が得られない限り,その線が直線なのか曲線なのか,曲線であればどんな形状の曲線なのか,分からないことが多い.その過程を慎重に推測し,せいぜい点線でつなげることができれば及第点であり,厳密に実線で描けるという幸運な状況は稀のように思われる.否,根本的な問いとして,最初に対応関係を認めた2つの言語項が,本当に対応関係があるものとみなしてよいのか,というところから議論しなければならないかもしれないのである.
具体例を1つ挙げよう.現代標準英語には「古い」を意味する old という語がある.一方,古英語にも同義の eald という語が確認される.千年の時間の隔たりはあるものの,意味や用法はほぼ一致しており,形式的にも十分に近似しているため,この2つの言語項の間に通時的対応関係が認められるとは言えそうだ.しかし,通時的対応関係を認めたとしても,音変化を通じて直線的に eald → old へと発展したと結論づけるのは早計である.丁寧に音変化を考察すれば分かるが,eald は古英語ウェストサクソン方言における形態であり,現代標準英語の old という形態の直接の祖先ではないからだ.むしろ古英語アングリア方言の ald に遡るとみるべきである.だとすれば,eald と old の関係は,直接的でも直線的でもないことになる.ald と old がなす直接的・直線的な関係に対して,eald が初期の部分で斜めに絡んできている,というのが正しい解釈となる.
点と点を結ぶ線(直線か曲線か)に関して,「点と点」の部分が通時的対応関係を指し,「線」の部分が言語変化を指すと考えておけばよい.
・ Fertig, David. Analogy and Morphological Change. Edinburgh: Edinburgh UP, 2013.
昨日の記事 ([2020-11-09-1]) に引き続き強意複数 (intensive_plural) の話題について.この用語は Quirk et al. などには取り上げられておらず,どうやら日本の学校文法で格別に言及されるもののようで,たいていその典拠は Kruisinga 辺りのようだ.それを参照している荒木・安井(編)の辞典より,同項を引用する (739--40) .昨日の記事の趣旨を繰り返すことになるが,あしからず.
intensive plural (強意複数(形)) 意味を強調するために用いられる複数形のこと.質量語 (mass word) に見られる複数形で,複数形の個物という意味は含まず,散文よりも詩に多く見られる.抽象物を表す名詞の場合は程度の強いことを表し,具象物を表す名詞の場合は広がり・集積・連続などを表す: the sands of Sahara---[Kruisinga, Handbook] / the waters of the Nile---[Ibid.] / The moon was already in the heavens.---[Zandvoort, 19757] (月はすでに空で輝いていた) / I have my doubts.---[Ibid.] (私は疑念を抱いている) / I have fears that I may cease to be Before my pen has glean'd my teeming brain---J. Keats (私のペンがあふれんばかりの思いを拾い集めてしまう前に死んでしまうのではないかと恐れている) / pure and clear As are the frosty skies---A Tennyson (凍てついた空のように清澄な) / Mrs. Payson's face broke into smiles of pleasure.---M. Schorer (ペイソン夫人は急に喜色満面となった) / To think is to be full of sorrow And leaden-eyed despairs---J. Keats (考えることは悲しみと活気のない目をした絶望で満たされること) / His hopes to see his own And pace the sacred old familiar fields, Not yet had perished---A. Tennyson (家族に会い,なつかしい故郷の神聖な土地を踏もうという彼の望みはまだ消え去っていなかった) / All the air is blind With rosy foam and pelting blossom and mists of driving vermeil-rain.---G. M. Hopkins (一面の大気が,ばら色の泡と激しく舞い落ちる花と篠つく朱色の雨のもやで眼もくらむほどになる) / The cry that streams out into the indifferent spaces, And never stops or slackens---W. H. Auden (冷淡な空間に流れ出ていって,絶えもしないゆるみもしない泣き声).
同様に,石橋(編)の辞典より,Latinism の項から関連する部分 (477) を引用する.
(3) 抽象名詞を複数形で用いる表現法
いわゆる強意複数 (Intensive Plural) の一種であるが,とくにラテン語の表現法を模倣した16世紀後半の作家の文章に多く見られ,その影響で後代でも文語的ないし詩的用法として維持されている.たとえば,つぎの例に見られるような hopes, fears は,Virgil (70--19 B.C.) や Ovid (43 B.C.--A.D. 17?) に見られるラテン語の amōrēs [L amor love の複数形], metūs [L metus fear の複数形] にならったものとみなされる.Like a young Squire, in loues and lusty-hed His wanton dayes that ever loosely led, . . . (恋と戯れに浮き身をやつし放蕩に夜も日もない若い従者のような…)---E. Spenser, Faerie Qveene I. ii. 3 / I will go further then I meant, to plucke all feares out of you. (予定以上のことをして,あなたの心配をきれいにぬぐい去って上げよう)---Sh, Meas. for M. IV. ii. 206--7 / My hopes do shape him for the Governor. (どうやらその人はおん大将と見える)---Id, Oth. II. i. 55.
ほほう,ラテン語のレトリックとは! それがルネサンス・イングランドで流行し,その余韻が近現代英語に伝わるという流れ.急に呑み込めた気がする.
・ Quirk, Randolph, Sidney Greenbaum, Geoffrey Leech, and Jan Svartvik. A Comprehensive Grammar of the English Language. London: Longman, 1985.
・ Kruisinga, E A Handbook of Present-Day English. 4 vols. Groningen, Noordhoff, 1909--11.
・ 荒木 一雄,安井 稔(編) 『現代英文法辞典』 三省堂,1992年.
・ 石橋 幸太郎(編) 『現代英語学辞典』 成美堂,1973年.
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