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最終更新時間: 2019-09-17 10:36

2019-08-26 Mon

#3773. Wittgenstein の「言語ゲーム」 (3) [language-game][family_resemblance][linguistics][philosophy_of_language][prescriptivism]

 2日間の記事 ([2019-08-24-1], [2019-08-25-1]) に引き続き,Wittgenstein の言語観について.Wittgenstein は言語ゲーム (Sprachspiel, language-game) というとらえ方を示すことによって,言語の体系的研究が不可能であることを示していたと考えられる.言語ゲームと言語研究の不可能性はどのように結びつくのだろうか.服部 (206--08) の考察を引用しよう.

 ウィトゲンシュタインはなぜこのように考えたのだろうか.この疑問に対する答は明らかではないが,いくつかの理由(と思われるもの)を推察することはできる.
 ウィトゲンシュタインは言語使用をゲームになぞらえて考え,それ故「言語ゲーム」という表現を多用する.例えば「言語ゲームにおける「これ」という語…はいったい何を名指しているのか」,「名指すことはそれだけでは言語ゲームにおける動きではまったくない」,等々.ところが,言語ゲームと言われるものすべてに共通する何かある一つのもの,そなわち言語ゲームの本質などというものは,彼によれば,ないのである.たしかに,様々な言語ゲームは互いに似通ってはいるが,それらに共通するものは存在しない.それらは家族的類似性を示しているだけなのである.「私はこの類似性を家族的類似性という語による以外,より良く特徴づける術を知らない」(六七節).もし科学的探究が,何であれ研究対象の本質の存在を前提し,それを探究するものだとするならば,言語には本質などそもそもないのであるから,それについて科学的探究をするということはありえないことになろう.
 また,次のようなことも考えられる.科学は世界の中で何が生起しているか,ということを探究する.ところが,たとえばある語が何を指示するのか,ある文が何を意味するのか,というような問いは言語と世界の間の関係を問うている.したがって,それはウィトゲンシュタインによれば科学的問いではない.これは『論考』以来彼が採用している見解である.とすれば,ここからも,言語についての科学的探究への否定的態度が出て来るであろう.
 あるいはまた,次のような発想もあるのかもしれない.言語には規則性ないし法則性があるとしばしば言われる.いわく,音声に関する法則性,統語論の規則,意味論の規則,等々.そして,実際,言語学者や哲学者(の一部)はこれらの法則性や規則性を見出そう,発見しようと努力しているのである.しかしながら,仮にそのような規則性があるとしても,それは科学的探究の対象となるような種類のものなのだろうか.ウィトゲンシュタインによれば,言語使用に関すかぎり,「すべてはむき出しにそこにあるのであるから,説明されるべきものは何もない」(一二六節)のである.これに対して,惑星の運行の法則性や原子の振舞いについての法則性などは「むき出しに」されてはいないし,したがって「説明」を要求されることが当然起こってくるだろう.
 自然科学の法則性と言語現象に見られる規則性---そのようなものがあるとしての話であるが---の間にはさらに顕著な相違があるように思われる.というのは,後者の規則性が規範としての役割をもっているからである.たとえば,物理学の法則に従って運動している物体はそのように「運動すべき」だからそのように運動しているわけではない.単にその物体の運動にはそのような規則性が見出されるにすぎない.これに対して,「豚の豚足」というような表現は通常用いられないという場合には,単にそのような規則性があるというだけではなく,誰かが「私は豚の豚足を食べたことがある」と述べたならば,「それはおかしい」,「変な表現だ」,「そのような言い方はすべきではない」,と指摘されることになるのである.同じ論点を次のように説明することもできる.すなわち,自然科学の法則性の場合,その法則性を破るような事例---反証事例と言われる---が見出されたならば,その法則性がそもそも怪しい,それは法則ではなかったと,されるのに対して,言語現象に見られる規則性の場合---だけではなく,多くの社会現象に見られる規則性の場合---には,反証事例と見えるものが見出されたときには,その事例に関与した人,例えば「私は豚の豚足を食べたことがある」と言った人は「規則を破った」として批判され,「正しい言い方」をするよう助言されるのである(言語現象でない社会事象で同様のことが起こった場合には,「合理的でない」「非合理的」として批判されるかもしれない.仮に,同じ品質の商品が二つの会社から販売されているときには消費者は値段が安い方を買うという規則性が主張されたとしよう.このとき,ある人が高い方を買ったならば,この規則が正しくなかったとされるのではなく,むしろその人が合理的でなかったとされるわけである.)


 ウィトゲンシュタインの言語思想によれば,言語には本質がなく,したがって科学の対象とはなり得ないということになる.言語は学究的対象にはなり得ず,あくまでゲームの現場にのみ存在する付帯現象にすぎないということになる.

 ・ 服部 裕幸 『言語哲学入門』 勁草書房,2003年.

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2019-08-25 Sun

#3772. Wittgenstein の「言語ゲーム」 (2) [function_of_language][language-game][context][speech_act][pragmatics][semantics][terminology][philosophy_of_language]

 昨日の記事 ([2019-08-24-1]) で Wittgenstein の言語ゲーム (Sprachspiel, language-game) に触れた.Bussmann (262) の用語辞典の定義によると次の通り.

language game
L. Wittgenstein's term referring to complex units of communication that consist of linguistic and non-linguistic activities (e.g. the giving of and complying with commands in the course of collaborating on the building of a house). Signs, words, and sentences as 'tools of language' have in and of themselves no meaning; rather meaning is derived only from the use of these items in particular contexts of language behavior.


 論理実証主義 (logical positivism) から転向した後の Wittgenstein の,このような コンテクスト重視の言語観や意味観は,後の日常言語哲学 (ordinary language philosophy) に大きな影響を与え,発話行為 (speech_act) を含めた語用論 (pragmatics) の発展にも貢献した."the meaning of a word is its use in the language" という意味のとらえ方は,なお問題があるものの,1つの見解とみなされている.
 意味の意味に関連して「#1782. 意味の意味」 ([2014-03-14-1]),「#1990. 様々な種類の意味」 ([2014-10-08-1]),「#2199. Bloomfield にとっての意味の意味」 ([2015-05-05-1]),「#2794. 「意味=定義」説の問題点」 ([2016-12-20-1]),「#2795. 「意味=指示対象」説の問題点」 ([2016-12-21-1]) などの内容とも比較されたい.

 ・ Bussmann, Hadumod. Routledge Dictionary of Language and Linguistics. Trans. and ed. Gregory Trauth and Kerstin Kazzizi. London: Routledge, 1996.

Referrer (Inside): [2019-08-26-1]

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2019-08-24 Sat

#3771. Wittgenstein の「言語ゲーム」 (1) [function_of_language][language-game][speech_act][philosophy_of_language]

 「#1578. 言語は何に喩えられてきたか」 ([2013-08-22-1]) で簡単に触れた程度だが,オーストリア生まれの哲学者 Wittgenstein (1889--1951) は,1953年に出版された後期の著作において,言語を Sprachspiel "language-game" ととらえた.言語ゲームは様々な活動からなる遊びで,次のような活動が含まれる(安藤・澤田,p. 18 より).

 ・ 命令する,命令に従う
 ・ ある事物の外見を記述する,あるいはその測定をする
 ・ ある出来事を報告する
 ・ 出来事について推測する
 ・ 仮説を立て,検証する
 ・ 物語を作る,それを読む
 ・ 演劇
 ・ 輪唱歌曲を歌う
 ・ 謎を解く
 ・ 冗談を言う
 ・ 実際的な数学の問題を解く
 ・ 他の言語に翻訳する
 ・ 質問する,感謝する,ののしる,あいさつする,祈るなど

 これは,ある意味で言語の諸機能を並べたリストといえる.言語の機能については多くの議論があるが,「#1071. Jakobson による言語の6つの機能」 ([2012-04-02-1]) をはじめとして function_of_language の各記事を参照されたい.

 ・ 安藤 貞雄・澤田 治美 『英語学入門』 開拓社,2001年.

Referrer (Inside): [2019-08-26-1] [2019-08-25-1]

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2018-10-22 Mon

#3465. 知的対決としての翻訳 [translation][contact][philosophy_of_language]

 デカルトは『方法序説』を土着語たるフランス語で書いた.母語によって哲学できるということは,革命的な意味をもつ.以下,施 (pp. 61--62) から引く.

 哲学者の長谷川三千子は,デカルトらの近代哲学の始祖たちが「土着語」で哲学するようになったことの意義について,さらに踏み込んだ指摘をいくつか行っている.
 一つは,デカルトら哲学者が行ったラテン語やギリシャ語から「土着語」への翻訳とは,単に外来の語彙や概念をその土地の文脈に移し替えただけではないということである.翻訳作業とは,翻訳される言語と翻訳先の言語との間で綿密な概念の突き合わせが行われ,双方とも厳しい知的吟味にさらされる過程である.長谷川氏は,翻訳先の言語の文化は,翻訳元の文化との言わば知的対決を行うことになり,そのなかで自己認識を獲得し,深め,活性化されていくと指摘する.まさにその通りだ.外来の語彙や概念が触媒となり,土着の文脈が活性化され,発展し,多様化していくのである.


 昨今,英語教育を巡る議論が盛んだが,他言語を学ぶことの本質的な意義について,上のような文章からインスピレーションを得たい.言語と言語のインターフェースというのは,「翻訳」という言葉から連想されるかもしれない穏やかな架け橋などではなく,激しい知的戦いの場なのだ.ここでは,どのくらい精妙なすりあわせをしているかが重要なのであり,一つひとつの単語の置き換えこそが,いちいちに決然たる知的対決というべき戦いなのである.
 このことは,私自身が2017年に Simon Horobin 著 Does Spelling Matter? を『スペリングの英語史』として訳出したときに,身にしみて体感した.日英語間で容易に置き換えられないものを強引に置き換えなければいけないというときに感じる限界,濁し,諦念,ムリヤリ感は,実に苦しい.翻訳というのは言語接触の戦場である.言語接触 (contact) に関心をもつ者として,生々しいほどの現場である.

 ・ 施 光恒 『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 集英社〈集英社新書〉,2015年.

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2016-12-21 Wed

#2795. 「意味=指示対象」説の問題点 [semantics][philosophy_of_language]

 表現の意味は,それが指す何らかの対象,すなわち指示対象であるという説は,現代の意味論ではナイーブにすぎるとして受け入れられない.「エヴェレスト山」と「チョモランマ」を例に取ろう.両者は異なる表現形式である.2つは同一の山を指しているには違いないが,だからといって同じ意味をもっていると言い切ることができるだろうか.
 例えば,「太郎はチョモランマがエヴェレスト山であることを知らない」という文と,「太郎はエヴェレスト山がエヴェレスト山であることを知らない」という文とは,異なる意味をもっているように感じられる.前者は,チョモランマがエヴェレスト山の別名であることを太郎が知らない場合などに用いられるのに対し,後者は,目の前に見えている山がエヴェレスト山であることに太郎が気づいていない場合などに用いられる.しかし,「エヴェレスト山」と「チョモランマ」が同一の山を指すという点で同一の意味であると考えてしまうと,上に述べた2つの文の意味が異なる理由が説明できなくなる.
 この「意味=指示対象」という見解,より正確には「意味は指示対象によって尽くされる」という見解に疑問を投げかけたのが Gottlob Frege (1848--1925) である.服部 (16) より関連する箇所を引用しよう.

フレーゲのアイディアはこうである.語,たとえば「エヴェレスト山」という固有名はある事物,つまりエヴェレスト山そのものを指すが,それはその語の意味を尽くしてはいない.その語の意味には,その語が指すもの――彼はこれに「意味」 (Bedeutung) という名を与えた――とは別に,「意義」 (Sinn) というものがあり,語はその「意義」を通じて「意味」を指すとフレーゲは考えたのである.この場合,二つの表現が同じ「意味」(つまり指示対象)を異なる「意義」を通じて指すということも起こりうる.〔中略〕では,その「意義」とは何なのだろうか.フレーゲによれば,それは「意味」が与えられる様式にほかならない.この「「意味」が与えられる様式」というのがまた曲者で,いささか掴み所がなく,それを明らかにしなければならないのであるが,今はそれを措いておこう.


 ここでいう語の「意義」 (Sinn) とは「指示の仕方」と理解しておいてよい.これを文に拡張すれば,文の「意義」とは「文の真理値が与えられる様式」となるだろう.しかし,残念なことにフレーゲは,「指示の仕方」や「文の真理値が与えられる様式」がいかなるものなのか,その核心について明らかにしていない.
 いずれにせよ,「意味=指示対象」説が単純に受け入れられるものではないことが分かるだろう.この説の問題点については,「#1769. Ogden and Richards の semiotic triangle」 ([2014-03-01-1]),「#1770. semiotic triangle の底辺が直接につながっているとの誤解」 ([2014-03-02-1]) も参照.

 ・ 服部 裕幸 『言語哲学入門』 勁草書房,2003年.

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2014-09-12 Fri

#1964. プロトタイプ [prototype][phonology][phoneme][phonetics][syllable][prosody][terminology][semantic_change][family_resemblance][philosophy_of_language]

 認知言語学では,プロトタイプ (prototype) の考え方が重視される.アリストテレス的なデジタルなカテゴリー観に疑問を呈した Wittgenstein (1889--1951) が,ファジーでアナログな家族的類似 (family resemblance) に基づいたカテゴリー観を示したのを1つの源流として,プロトタイプは認知言語学において重要なキーワードとして発展してきた.プロトタイプ理論によると,カテゴリーは素性 (feature) の有無の組み合わせによって表現されるものではなく,特性 (attribute) の程度の組み合わせによって表現されるものである.程度問題であるから,そのカテゴリーの中心に位置づけられるような最もふさわしい典型的な成員もあれば,周辺に位置づけられるあまり典型的でない成員もあると考える.例えば,「鳥」というカテゴリーにおいて,スズメやツバメは中心的(プロトタイプ的)な成員とみなせるが,ペンギンやダチョウは周辺的(非プロトタイプ的)な成員である.コウモリは科学的知識により哺乳動物と知られており,古典的なカテゴリー観によれば「鳥」ではないとされるが,プロトタイプ理論のカテゴリー観によれば,限りなく周辺的な「鳥」であるとみなすこともできる.このように,「○○らしさ」の程度が100%から0%までの連続体をなしており,どこからが○○であり,どこからが○○でないかの明確な線引きはできないとみる.
 考えてみれば,人間は日常的に事物をプロトタイプの観点からみている.赤でもなく黄色でもない色を目にしてどちらかと悩むのは,プロトタイプ的な赤と黄色を知っており,いずれからも遠い周辺的な色だからだ.逆に,赤いモノを挙げなさいと言われれば,日本語母語話者であれば,典型的に郵便ポスト,リンゴ,トマト,血などの答えが返される.同様に,「#1962. 概念階層」 ([2014-09-10-1]) で話題にした FURNITURE, FRUIT, VEHICLE, WEAPON, VEGETABLE, TOOL, BIRD, SPORT, TOY, CLOTHING それぞれの典型的な成員を挙げなさいといわれると,多くの英語話者の答えがおよそ一致する.
 英語の FURNITURE での実験例をみてみよう.E. Rosch は,約200人のアメリカ人学生に,60個の家具の名前を与え,それぞれがどのくらい「家具らしい」かを1から7までの7段階評価(1が最も家具らしい)で示させた.それを集計すると,家具の典型性の感覚が驚くほど共有されていることが明らかになった.Rosch ("Cognitive Representations of Semantic Categories." Journal of Experimental Psychology: General 104 (1975): 192--233. p. 229) の調査報告を要約した Taylor (46) の表を再現しよう.

MemberRankSpecific score
chair1.51.04
sofa1.51.04
couch3.51.10
table3.51.10
easy chair51.33
dresser6.51.37
rocking chair6.51.37
coffee table81.38
rocker91.42
love seat101.44
chest of drawers111.48
desk121.54
bed131.58
bureau141.59
davenport15.51.61
end table15.51.61
divan171.70
night table181.83
chest191.98
cedar chest202.11
vanity212.13
bookcase222.15
lounge232.17
chaise longue242.26
ottoman252.43
footstool262.45
cabinet272.49
china closet282.59
bench292.77
buffet302.89
lamp312.94
stool323.13
hassock333.43
drawers343.63
piano353.64
cushion363.70
magazine rack374.14
hi-fi384.25
cupboard394.27
stereo404.32
mirror414.39
television424.41
bar434.46
shelf444.52
rug455.00
pillow465.03
wastebasket475.34
radio485.37
sewing machine495.39
stove505.40
counter515.44
clock525.48
drapes535.67
refrigerator545.70
picture555.75
closet565.95
vase576.23
ashtray586.35
fan596.49
telephone606.68


 プロトタイプ理論は,言語変化の記述や説明にも効果を発揮する.例えば,ある種の語の意味変化は,かつて周辺的だった語義が今や中心的な語義として用いられるようになったものとして説明できる.この場合,語の意味のプロトタイプがAからBへ移ったと表現できるだろう.構文や音韻など他部門の変化についても同様にプロトタイプの観点から迫ることができる.
 また,プロトタイプは「#1961. 基本レベル範疇」 ([2014-09-09-1]) と補完的な関係にあることも指摘しておこう.プロトタイプは,ある語が与えられたとき,対応する典型的な意味や指示対象を思い浮かべることのできる能力や作用に関係する.一方,基本レベル範疇は,ある意味や指示対象が与えられたとき,対応する典型的な語を思い浮かべることのできる能力や作用に関係する.前者は semasiological,後者は onomasiological な視点である.

 ・ Taylor, John R. Linguistic Categorization. 3rd ed. Oxford: OUP, 2003.

Referrer (Inside): [2015-07-23-1]

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2013-12-08 Sun

#1686. 言語学的意味論の略史 [history_of_linguistics][semantics][philosophy_of_language]

 イレーヌ・タンバによる『[新版]意味論』を読んだ.訳者あとがきにも述べられているように,導入的な文庫クセジュにしてはやや難解ではないかと思いつつ読んだのだが,2度読んでみたら,随所に鋭い洞察がちりばめられていることがわかった.とりわけ第1章,意味論史の概略は有益だった.以下にその概略の概略を記そう.

 (1) 歴史的語彙意味論が支配的であった比較言語学の進化論.「#1666. semantics の意味の歴史」 ([2013-11-18-1]) でも触れたように,Michel Bréal (1832--1915) が1883年に sémantique を創始した(1897年の著作をもって意味論の誕生とする見解もある).Bréal の意味論は進化論に発想を得ており,意味の進化,進化の一般法則,一般法則の経験的観察からの導出を拠り所としている.これにより,意味論は自然科学の方向と歴史科学の方向へと発展をとげることになった.前者の方向は言語有機体説として Arsène Darmesteter (1846--88) や August Schleicher (1821--68) などにより,後者の方向は Antoine Meillet (1866-1936) などにより盛んとなった.このように,言語学的意味論は進化論の影響を受けながら,哲学,論理学,心理学から区別されるものとして自らの立場を見いだしたが,一方で歴史社会学の方向へ歩み寄ることによって,自ら制御できない領域を作り出すに至った.

 (2) 共時的語彙意味論が特徴の構造主義的時代.ソシュールの登場により言語学は構造主義の時代に入ったが,意味論も,1931年,Jost Trier (1894--1970) による意味場の理論により,構造主義時代に入った.意味場とは,1言語の語彙の総体は構造をなす部分集合(=場)からなっており,有限個の語によって満たされた概念場が指定されるという説である.その延長として,統計による主題場のキーワード分析なども出た.
 意味場と並ぶもう1つの主役は意味素分析である.語の意味は,弁別特徴をもつ有限個の基本意味成文に分解できるという説である.しかし,意味素体系の確立という計画は挫折したようである.

 (3) 文と談話の意味論が出現する形式文法の時代.1963年に Jerrold J. Katz (1932--2002) and Jerry A. Fodor (1935--) が,1965年に Noam Chomsky (1928--) が,文の統語構造と意味構造との関係に着目した新しい意味論を開始した.Chomsky は生成文法に意味解釈部門を導入し,それがもとで1968--72年の間に生成意味論との間に「言語学戦争」が勃発した.生成文法における意味論は行き詰まった感があるが,1970--73年の間に Richard Merett Montague (1930--71) がラムダ計算による数学的手段を導入し,形式文法が進展した.
 一方,談話の意味論も展開を見せた.そこでは,指示記号の働きを巡る論理学的語用論,イギリス哲学の日常言語学派による言語行為の問題,会話の公理,発話の意味論などが考察される.

 (4) 言語の意味形態ではなく,言語活動の認知的側面との関係の中で意味をとらえる概念意味論が現れる認知科学の時代.(3) で示された心理主義の流れは,言語学,生物学,心理学を接近させ,1978年以降の認知機構に基盤をおく意味論が生じた.とりわけこの方向は,1987年に G. Lacoff (1941--) の Women, Fire, and Dangerous Things 及び R. Langacker (1942--) の Foundations of Cognitive Grammar, Vol. 1 が出版されることにより決定づけられた.この認知意味論は,意味を脳の一般的な働きと結びつけることで意味に神経生理学的基盤を与えようとする.そこでは,主として空間表現,カテゴリ化とプロトタイプ,メタファーなどの問題が扱われる.また人工知能 (artificial intelligence) や結合主義 (connectionism) との親和性が高い.

 以上のように,1883年,1931年,1963年,1978年を境に,異なる種類の意味論が現れてきたが,先行するものが後続するものに直接に置換されたわけではない.むしろ,後続するものが新たな層を付け加え,意味論が厚みを増してきたというべきだろう.ただし,お互い部分的に影響を与えながらも,それぞれ比較的独立性が高いのも事実であり,この事実を重視して,著者のタンバは書名を現行の単数形 la sémantique ではなく,複数形で les sémantiques と表現したかったというのが本音のようだ.実際に,1980年以降も意味論の進展は続いており,談話標示理論,関係性理論,語彙・文法理論などの種々のアプローチが生まれている.言語学的意味論は日々学際的になってきており,独自の領域にとどまっていることはできなくなっているのだ.

 ・ イレーヌ・タンバ 著,大島 弘子 訳 『[新版]意味論』 白水社〈文庫クセジュ〉,2013年.

Referrer (Inside): [2015-06-29-1] [2014-09-01-1]

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2013-11-18 Mon

#1666. semantics の意味の歴史 [semantics][semantic_change][terminology][philosophy_of_language]

 言語学の1部門で,意味を扱う分野を semantics (意味論)と呼んでいる.現在ではこの名称が定着しているが,定着するまでには紆余曲折があった.また,定着した後は,形容詞形 semantic とともに意味の拡大,とりわけ意味の一般化を経て,現在に至っている.semantic(s) という語の意味の広がりを通時的に記述した論文を見つけ,読んでみた.
 Read によると,英語における semantic の初出は,John Spencer による A Discourse concerning Prodigies の2版 (1665年) においてである.そこでは,"Semantick Philosophy" として言及されており,これは記号から未来を占う種々の予言のことを意味していた.17世紀の使用がほかにないことから判断すると,これは Spencer が古代ギリシア語でアリストテレスなどによって用いられた形容詞 σημαντικóς (significant) (< σημαίνω (to signify)) を単発に借用したものと考えられる(ラテン語でも semanticus が用いられていた).
 17世紀に上記の単発の使用例が見られた後は,この語は本格的には19世紀後半まで現れない.この語が活躍し始めるのは,意味論の開祖,フランスの言語学者 Michel Bréal (1832--1915) が1883年に論文で使用してからである.以下は,Bréal による sémantique の定義である.

L'étude où nous invitons le lecteur à nous suivre est d'espèce si nouvelle qu'elle n'a même pas encore reçu de nom. En effet, c'est sur le corps et sur la forme des mots que la plupart des linguistes ont exercé leur sagacité: les lois qui président à la transformation des sens, au choix d'expressions nouvelles, à la naissance et à la mort des locutions, ont été laissées dans l'ombre ou n'ont été indiquées qu'en passant. Comme cette étude, aussi bien que la phonétique et la morphologie, mérite d'avoir son nom, nous l'appellerons la SÉMANTIQUE (du verb σημαίνω), c'est-à-dire la science des significations. (quoted by Read , p. 79)


 上の定義でわかるように,sémantique は主として意味の変化の学を指していた.その2年後の1885年にフランスの言語学者 Arsène Darmesteter (1846--88) もその定義を引き継ぎ,世紀末までには英語でも使用が始まった.1897年に Bréal の著書 Essai de Sémantique が出版されると,この名称は広く知れ渡ることとなった.英語においては,1900年の同著の英訳で特別な説明なしに semantics が用いられた.
 しかし,意味についての研究を指す名称としては,19世紀から様々な語が使われており,semantics が独占的な地位を得るまでには時間がかかった.例えば,ライバル表現として,semasiology (a1829--), rhematic (1830), sematology (1831--), glossology (a1871--), comparative ideology (1886), sensifics (1896), significs (1896--), rhematology (1896--), semiotic (ca 1897--), semiology (a1913), orthology (1928--), science of idiom (1944) などがあった.それぞれの表現が指示する研究上の範囲は異なっていたものの,この乱立は著しい.いかに1つの分野としてまとまりを欠いていたかがわかる(ただし,現在でも意味論 = semantics にまとまりがあるかどうかは疑わしい).ドイツの学界では19世紀から Semasiologie が好まれていたが,これに影響を受けたアメリカの学界でも20世紀前半ではいまだ semasiology のほうが semantics よりも好まれていたほどである.意味論の名著 Ogden and Richards の The Meaning of Meaning (1923) でも,semantics は使用されていない.学問名としての semantics の定着は,英語においてもそれほど古い話しではないのである.
 別の流れとして,semantics は,1930年代にウィーンで起こった論理実証主義 (logical positivism) の学派や Alfred Korzybski (1879--1950) による言語哲学においても頻繁に用いられるようになり,この語の認知度を高めた.認知度が高まるにつれて semantic(s) の語義が一般化し,1940年代以降,日常的な用法が目立つようになった.semantic はしばしば verbal と同義の形容詞であり,意味や言葉を表わすあらゆる文脈で使われるようになっている (ex. He did not want to enter into a semantic debate.) .Read (91) は semantic(s) の意味の一般化を,rhetoric の意味の一般化と比較している.

One is reminded here of the fate that has overtaken the word rhetoric: fallen from its high status in the pattern of the medieval schoolmen, it now usually occurs in the phrase 'mere rhetoric,' with reference to discourse that is insincere, pretentious, or mendacious. In similar popular use, semantics often appears in contexts that tend to bolster word-magic rather than to combat it.


 semantic(s) という語は,数世紀の歴史において,それ自身が Bréal の創始した意味の変化の学としての sémantique に素材を提供しているということになる.

 ・ Read, Allen Walker. "An Account of the Word 'SEMANTICS'." Word 4 (1948): 78--97.

Referrer (Inside): [2013-12-08-1]

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2013-08-22 Thu

#1578. 言語は何に喩えられてきたか [history_of_linguistics][language_change][family_tree][wave_theory][language_change][saussure][language_myth][philosophy_of_language]

 「言語は○○である」という比喩は,近代言語学が生まれる以前から様々になされていた.19世紀に近代言語学が花咲いて以来,現在に至るまで新たな比喩が現われ続けている.
 例えば,現在,大学の英語史などの授業で英語の歴史的変化を学んだ学生の多くが,言語は生き物であることを再確認したと述べるが,この喩えは比較言語学の発達した時代の August Schleicher (1821--68) の言語有機体説に直接の起源を有する.また,過去の記事では,「#449. Vendryes 曰く「言語は川である」」 ([2010-07-20-1]) を取り上げたりもした.
 Aitchison (42--46) は,言語学史における主要な「言語は○○である」の比喩を集めている.

 (1) conduit: John Locke (1632--1704) の水道管の比喩に遡る.すなわち,"For Language being the great Conduit, whereby Men convey their Discoveries, Reasonings and Knowledge, from one to another." 当時のロンドンの新しい給水設備に着想を得たものだろう.コミュニケーションの手段や情報の伝達という言い方もこの比喩に基づいており,近現代の言語観に与えた影響の大きさが知られる.
 (2) tree: 上でも述べたように,19世紀以来続く Family Tree Model (=Stammbaumtheorie) は現代の言語学でも根強く信奉されている.言語間の関係を示す系統図のほか,統語分析における樹木構造などにも,この比喩は顔を出す.「#1118. Schleicher の系統樹説」 ([2012-05-19-1]) を参照.
 (3) waves and ripples: 「#999. 言語変化の波状説」 ([2012-01-21-1]) で見たように,Schleicher の系統樹説に対するアンチテーゼとして,弟子の Johannes Schmidt が wave_theory (=Wellentheorie) を唱えた.言語変化が波状に伝播してゆく様を伝える比喩だが,現在に至るまで系統樹説ほどはよく知られていない.
 (4) game: 有名なのは Saussure のチェスの比喩である.チェスの駒にとって重要なのはその材質ではなく,他の駒との関係によって決まる役割である.Saussure はこれによって形相(あるいは形式) (form) と実質 (substance) の峻別を説いた."si je remplace des pièces de bois par des pièces d'ivoire, le changement est indifférent pour le système: mais si je diminue ou augmente le nombre des pièces, ce changement-là atteint profondément la “grammaire” du jeu." また,Wittgenstein は文法規則をゲームのルールに喩えた.ほかにも,会話におけるテニスボールのやりとりなどの比喩に,「言語=ゲーム」の発想が見いだせる.
 (5) chain: グリムの法則 (grimms_law) や大母音推移 (gvs) に典型的に見られる連鎖的推移はよく知られている.とりわけ Martinet が広く世に知らしめた比喩である.
 (6) plants: 上にも述べた言語有機体説を支える強力なイメージ.非常に根強く行き渡っている.ほかに,Saussure は植物を縦に切った際に見える繊維を通時態に,横に切った断面図を共時態に見立てた.
 (7) buildings: Wittgenstein は,言語を大小の街路や家々からなる都市になぞらえた.都市は異なる時代に異なる層が加えられることによって変化してゆく.建物の比喩は,構造言語学の "building blocks" の考え方にもみられる.
 (8) dominator model: (2) の tree の比喩とも関連するが,言語学の樹木構造では上のノードが配下の要素を支配するということが言われる."c-command" や "government and binding" などの用語から,「支配」の比喩が用いられていることがわかる.
 (9) その他: Wittgenstein は言語を labyrinth になぞらえている."Language is a labyrinth of paths. You approach from one side and know your way about; you approach the same place from another side and no longer know your way about."

 比喩は新しい発想の推進力になりうると同時に,自由な発想を縛る足かせにもなりうる.比喩の可能性と限界を認めつつ,複数の比喩のあいだを行き来することが大事なのではないか.

 ・ Aitchison, Jean. "Metaphors, Models and Language Change." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 39--53.

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2012-07-13 Fri

#1173. 言語変化の必然と偶然 [synthesis_to_analysis][inflection][old_norse][contact][causation][historiography][language_change][philosophy_of_language]

 先日,大学の英語史の授業で,英語の屈折の衰退について,[2012-07-10-1]の記事「#1170. 古ノルド語との言語接触と屈折の衰退」で概説した議論を紹介した.屈折の衰退は,英語が総合的言語から分析的な言語 (synthesis_to_analysis へと言語類型を転換させる契機となった大変化であり,それ自身が,言語内的な要因だけでなく古ノルド語との接触といった言語外的な要因によって引き起こされたと考えられている.これは,英語史の多数の話題のなかでも,最もダイナミックで好奇心をくすぐる議論ではないだろうか.なにしろ,仮説であるとはいえ,説得力のある内的・外的な要因がいろいろと挙げられて,英語史上の大変化が見事に説明されるのだから,「そうか,言語変化にもちゃんと理由があるのだなあ」と感慨ひとしお,となるのも必定である.実際に,多くの学生が,この大変化の「原因」や「理由」がよく理解できたと,直接あるいは間接にコメントで述べていた.
 ところが,ある学生のコメントに次のようにあり,目から鱗が落ちた.「言語が今日どうあるかは,本当にぐう然でしかないんだなと思った。」
 こちらとしては,言語変化には原因や理由があり,完全に説明しきれるわけではないものの,ある程度は必然的である,ということを,屈折の衰退という事例を参照して,主張しようとした.実際に,多くの学生がその趣旨で解釈した.しかし,趣旨と真っ向から反する「偶然」観が提示され,完全に意表を突かれた格好となった.
 言語変化の原因論については causation の各記事で扱ってきたように,歴史言語学における最重要の問題だと考える.これは歴史における必然と偶然の問題と重なっており,哲学の問題といってよい.ある言語変化の原因を究明したとしても,その原因で説明できるのはどこまでなのか,どこまでを歴史的必然とみなせるのかという問題が残る.裏を返せば,その変化のどこまでが歴史的偶然の産物なのかという問題にもなる.
 すべて偶然だと言ってしまうと,そこで議論はストップする.すべて必然だと言ってしまうと,すべてに説明を与えなければならず,息苦しい.あるところまでは偶然で,あるところまでは必然だというのが正しいのだろうと考えているが,授業にせよ歴史記述にせよ,話している方も聞いている方も興味を感じるのは,必然の議論,理由があるという議論だろう.説明が与えられないよりも与えられたほうが「腑に落ちる」感覚を味わえるからだ.ただし,上の学生のコメントが誘発する問いは,常に抱いておきたい.

Referrer (Inside): [2016-05-29-1] [2015-06-28-1]

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2012-05-23 Wed

#1122. 協調の原理 [pragmatics][implicature][cooperative_principle][philosophy_of_language]

 協調の原理 (cooperative principle) とは,哲学者 H. Paul Grice (1912?--88) によって提案された会話分析の用語で,会話において正しく効果的な伝達を成り立たせるために,話し手と聞き手がともに暗黙のうちに守っているとされる一般原則を指す.会話の含意 (conversational implicature) ,すなわち言外の意味が,なぜ適切に理解されるのかという問題にも関わる原則で,近年の語用論の発展の大きな拠り所となっている.Huang (25) に掲載されている "Grice's theory of conversational implicature" を示す.

Grice's theory of conversational implicature

a. The co-operative principle
   Make your conversational contribution such as is required, at the state at which it occurs, by the accepted purpose or direction of the talk exchange in which you are engaged.
b. The maxims of conversation
   Quality: Try to make your contribution one that is true.
     (i) Do not say what you believe to be false.
     (ii) Do not say that for which you lack adequate evidence.
   Quantity:
     (i) make your contribution as informative as is required (for the current purposes of the exchange).
     (ii) Do not make your contribution more informative than is required.
   Relation: Be relevant.
   Manner: Be perspicuous.
     (i) Avoid obscurity of expression.
     (ii) Avoid ambiguity.
     (iii) Be brief (avoid unnecessary prolixity).
     (iv) Be orderly.


 協調の原理は,4つの公理 (maxim) を履行することによって遵守されると言われる.その4つとは,質の公理,量の公理,関係の公理,様態の公理である.聞き手は,話し手が会話において協力的であること,上記の原則と公理を守っていることを前提として,話し手の発話を解釈する.例えば,話し手 A の "How is that hamburger?" という疑問に対して聞き手 B が "A hamburger is a hamburger." と答えたとする.B の発話はそれ自体では同語反復であり情報量はゼロだが,A は B が協調の原理を守っているとの前提のもとで B の言外の意味(会話の含意)を読み取ろうとする.協調の原理のもとでは,B は A の質問に対して relevant な答えを返しているはずであるから,A はその返答を「そのハンバーガーはごく平凡なハンバーガーであり,それ以上でも以下でもない」などと解釈することになる.この会話が有意味なものとして成り立つためには,B による会話の含意の読み取りが必要であり,読み取るに当たっては A が協力的であるという前提が必要である.この前提は事前に両者で申し合わせたものではなく,あくまで暗黙の了解であるから,これは会話の一般原則として仮定する必要がある,ということになる.

 ・ Huang, Yan. Pragmatics. Oxford: OUP, 2007.

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2012-03-23 Fri

#1061. Coseriu の言語学史の振子 [linguistics][diachrony][history_of_linguistics][renaissance][philosophy_of_language][philosophy_of_language]

 通常,近代言語学史は,Sir William Jones (1746--1794) の1786年の講演と,それに続く比較言語学の発展において始まったとされる([2010-02-03-1]の記事「#282. Sir William Jones,三点の鋭い指摘」を参照).しかし,この18世紀末の契機は,舞台を西洋に限るとしても,より広い歴史的な視野から評価する必要がある.確かに,18世紀末は,初めて継続的に科学的な態度で言語に注目し始めたという点で,言語学史に一線を画する時代だったことは認めてよい.しかし,それ以前にも常に人々は言語に関心を注いできたのである.1786年を境に以前と以後にわける言語学史のとらえ方を「断絶」と呼ぶのであれば,ルーマニア生まれでドイツの言語学者 Coseriu (1921--2002) の言語学史のとらえ方は「振子」,共時的関心と通時的関心のあいだに揺れる振子として表現できるだろう.加賀野井 (65) に紹介されている Coseriu の図式は以下の通り.

Coseriu's History of Linguistics


 この図式によれば,ルネッサンスと19世紀が歴史主義の時代,その前後と狭間の時代が理論・記述主義の時代ということになる.ルネッサンス以前は,ギリシア語やラテン語を規範とする見方や言語哲学が盛んであり,視点は共時的だった.ルネッサンス期は言語どうしの比較や同一言語の異なる時代の比較へ関心が移り,通時的な傾向を示した.18世紀には,近代語の記述文法の研究が進み,ライプニッツの普遍文法などが出たことから,共時的な関心の時代だったといえる.19世紀には比較言語学によって通時的な側面に光が当てられた.そして,20世紀,特にソシュール以降は共時的な言語学が優勢となった.
 この図から当然の如く湧き出てくるのは,21世紀は,通時的な関心へと振子が揺り戻すのではないかという予想だ.各時代の関心の交替は,何も言語学の分野だけに限ったことではなく,他の学問領域にも広く共通した思想上の傾向だった.そして,現代のように時代の転換期にあるといわれる時代には,歴史を顧みる傾向が強まるとも言われる.20世紀を駆け抜けた共時言語学の拡散と限界から,そろそろ一休みを入れたい気分にならないとも限らない.振子は,人間の退屈しやすい性質,気分転換を欲する性質を反映していると考えれば,そろそろ揺り戻しがあるかもしれないということも十分に考えられる.
 もちろん,Coseriu の振子は,後代から観察した過去の記録にすぎず,未来を決定する力はない.歴史を作るのはそれぞれの時代の人間であり,ここでいえば言語観察者や言語学者である.しかし,20世紀の言語学の達成と発展性を考えると,振子が揺り戻すかもしれないと考えさせる根拠はある.1つは,20世紀の構造言語学や生成文法があまり手をつけずにおいた言語の変異と変化の重要性が,20世紀後半になって認識されてきたこと.2つは,20世紀の共時言語学が上げてきた種々の成果を,かつてソシュールが優先度低しとして棚上げしておいた通時態にも応用してみたくなるのが人情ではないかということ.
 また,これは20世紀言語学の成果とは独立した要因ながら,筆者の日頃考えているところだが,英語などの有力言語の世界的な広がり,国際交流に伴う語学熱,情報化社会に裏打ちされた言語の重要性の喧伝などという現代の社会現象が,人々に言語疲れを引き起こす可能性があるのではないかということだ.言語は役に立つ,言語の力は偉大だなどとあまりに喧伝されると疲れてしまう.むしろ,なぜそうなのか,なぜそうなってきたのかという本質的な問題へ向かう傾向が生じるのではないか.
 とここまで書きながら,上の議論は,英語史や歴史言語学に肩入れしている筆者の願いにすぎないのかもしれないな,と思ったりもする.21世紀の潮流を見極めたい.

 ・ 加賀野井 秀一 『20世紀言語学入門』 講談社〈講談社現代新書〉,1995年.

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2012-03-23 Fri

#1061. Coseriu の言語学史の振子 [linguistics][diachrony][history_of_linguistics][renaissance][philosophy_of_language][philosophy_of_language]

 通常,近代言語学史は,Sir William Jones (1746--1794) の1786年の講演と,それに続く比較言語学の発展において始まったとされる([2010-02-03-1]の記事「#282. Sir William Jones,三点の鋭い指摘」を参照).しかし,この18世紀末の契機は,舞台を西洋に限るとしても,より広い歴史的な視野から評価する必要がある.確かに,18世紀末は,初めて継続的に科学的な態度で言語に注目し始めたという点で,言語学史に一線を画する時代だったことは認めてよい.しかし,それ以前にも常に人々は言語に関心を注いできたのである.1786年を境に以前と以後にわける言語学史のとらえ方を「断絶」と呼ぶのであれば,ルーマニア生まれでドイツの言語学者 Coseriu (1921--2002) の言語学史のとらえ方は「振子」,共時的関心と通時的関心のあいだに揺れる振子として表現できるだろう.加賀野井 (65) に紹介されている Coseriu の図式は以下の通り.

Coseriu's History of Linguistics


 この図式によれば,ルネッサンスと19世紀が歴史主義の時代,その前後と狭間の時代が理論・記述主義の時代ということになる.ルネッサンス以前は,ギリシア語やラテン語を規範とする見方や言語哲学が盛んであり,視点は共時的だった.ルネッサンス期は言語どうしの比較や同一言語の異なる時代の比較へ関心が移り,通時的な傾向を示した.18世紀には,近代語の記述文法の研究が進み,ライプニッツの普遍文法などが出たことから,共時的な関心の時代だったといえる.19世紀には比較言語学によって通時的な側面に光が当てられた.そして,20世紀,特にソシュール以降は共時的な言語学が優勢となった.
 この図から当然の如く湧き出てくるのは,21世紀は,通時的な関心へと振子が揺り戻すのではないかという予想だ.各時代の関心の交替は,何も言語学の分野だけに限ったことではなく,他の学問領域にも広く共通した思想上の傾向だった.そして,現代のように時代の転換期にあるといわれる時代には,歴史を顧みる傾向が強まるとも言われる.20世紀を駆け抜けた共時言語学の拡散と限界から,そろそろ一休みを入れたい気分にならないとも限らない.振子は,人間の退屈しやすい性質,気分転換を欲する性質を反映していると考えれば,そろそろ揺り戻しがあるかもしれないということも十分に考えられる.
 もちろん,Coseriu の振子は,後代から観察した過去の記録にすぎず,未来を決定する力はない.歴史を作るのはそれぞれの時代の人間であり,ここでいえば言語観察者や言語学者である.しかし,20世紀の言語学の達成と発展性を考えると,振子が揺り戻すかもしれないと考えさせる根拠はある.1つは,20世紀の構造言語学や生成文法があまり手をつけずにおいた言語の変異と変化の重要性が,20世紀後半になって認識されてきたこと.2つは,20世紀の共時言語学が上げてきた種々の成果を,かつてソシュールが優先度低しとして棚上げしておいた通時態にも応用してみたくなるのが人情ではないかということ.
 また,これは20世紀言語学の成果とは独立した要因ながら,筆者の日頃考えているところだが,英語などの有力言語の世界的な広がり,国際交流に伴う語学熱,情報化社会に裏打ちされた言語の重要性の喧伝などという現代の社会現象が,人々に言語疲れを引き起こす可能性があるのではないかということだ.言語は役に立つ,言語の力は偉大だなどとあまりに喧伝されると疲れてしまう.むしろ,なぜそうなのか,なぜそうなってきたのかという本質的な問題へ向かう傾向が生じるのではないか.
 とここまで書きながら,上の議論は,英語史や歴史言語学に肩入れしている筆者の願いにすぎないのかもしれないな,と思ったりもする.21世紀の潮流を見極めたい.

 ・ 加賀野井 秀一 『20世紀言語学入門』 講談社〈講談社現代新書〉,1995年.

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