「#1537. 「母語」にまつわる3つの問題」 ([2013-07-12-1]) や「#1926. 日本人≠日本語母語話者」 ([2014-08-05-1]) で「母語」という用語についてあれこれと考えた.一般に言語(学)のディスコースには,「母」がよく顔を出す.「母語」や「母方言」はもとより,比較言語学では諸言語の系統的な関係を「母言語」「娘言語」「姉妹言語」と表現することが多い.なぜ「父」や「息子」や「兄弟」ではないのかと考えると,派生関係を表わす系統図では生む・生まれる(産む・産まれる)の関係が重視されるからだろうと思われる.言語の派生においては,男女のペアから子が生まれるという前提はなく,いわば「単為生殖」(より近似した比喩としてはセイヨウタンポポなどに代表される「産雌単為生殖」)である.これに関連しては「#807. 言語系統図と生物系統図の類似点と相違点」 ([2011-07-13-1]),「#1578. 言語は何に喩えられてきたか」 ([2013-08-22-1]),「#1579. 「言語は植物である」の比喩」 ([2013-08-23-1]) も参照されたい.
「母語」や「母・娘言語」については上のようなことを考えており,言語のディスコースにおける「女系」性に気づいていたが,ある授業で学生がもう1つの興味深い例を指摘してくれた.標題に掲げた「母音」という用語である.盲点だったので,なるほどと感心した.確かに,なぜ「父音」ではなく「母音」なのだろうか.少し調べてみた.
英語で「母音」は vowel,対する「子音」は consonant である.これらの英語の用語の語源には,特に母とか子とかいう概念は含まれていない.前者はラテン語 vōcālem (有声の)に遡り,語根は vōx (声)である.後者は,ラテン語 consonans (調和する,一緒に響く)に遡り,これ自体はギリシア語 súmphōnon([母音と]ともに発音するもの)のなぞりである.つまり,特に親子の比喩は関与していない.他の西洋語も事情は似たり寄ったりである.
とすると,「母音」「子音」という呼称は,日本語独自のものらしいということになる.『日本国語大辞典』によると「ぼいん」には【母音】と【母韻】の項が別々にあり,それぞれ次のようにある.
【母音】*百学連環(1870--71頃)〈西周〉一「文字に consonants (子音)及び vowel (母音)の二種あり」*病牀譫語(1899)〈正岡子規〉五「父音母音の区別無き事等に因る者にして,其解し難きは,同音の字多き漢語を仮名に直したるに因るなり」*金毘羅(1909)〈森鴎外〉「苦しい間に,をりをり一言づつ云ふ詞が,濁音勝で母音を長く引くので」
【母韻】「ぼいん(母音)」に同じ.*小学日本文典(1874)〈田中義廉〉一・二「此五十音のうち,アイウエオの五字を,母韵と云ひ」*広日本文典(1897)〈大槻文彦〉三二「也行の発生は,甚だ阿行の『い』に似,和行の発生は,甚だ阿行の『う』に似て,更に,之に母韻を添へて,二母韻,相重なりて発するものの如し」*国語のため第二(1903)〈上田万年〉促音考「第一 P(H)TKRS 等の子音が Unaccented の母韻に従はれて,P(H)TKS を以てはじめらるるシラブルの前に立つ時は」
ここで【母音】の項の例文として触れられている「父音」という用語に着目したい.これは,今日いうところの子音の意味で使われている.では,同じ辞典で【父音】(ふいん)の項を引いてみる.
「しいん(子音)」に同じ.*広日本文典別記(1897)〈大槻文彦〉一七「英の Consonant を,子音,又は,父音(フイン)など訳するあるは,非なり」*国語音声学(1902)〈平野秀吉〉一四・一「父音は,其の音質の上から区別すれば,左の二類となる.有声父音 無声父音」
近代言語学が入ってきた明治初期には,consonant の訳語として「子音」とともに「父音」という言い方が行われていたようだ.「母」に対するものは「父」なのか「子」(=娘?)なのかという競合を経て,最終的には「子」で収まったということのようだ.ここでいう「子」の性別は分からないが,音声学のディスコースにおいて「父」権が失墜したようにも見えるから,「娘」である可能性が高い(?).
さらに,根本となる【母】(ぼ)とは何かを同辞典で調べてみると,
(2)親もと.帰るべきところ.そだった所./母岩,母艦,母港,母船,母校,母国,母語,母斑/(3)物を生じるもととなるもの./酵母,字母/母音,母型,母集団,母数,母船/
とある.その中で「母音」(なるほど「字母」という用語もあった!)は,「物を生じるもととなるもの」の意の「母」の用例として挙げられている.
ここで思い浮かぶのは,韻律音韻論における音節構造の記述だ.現在最も広く導入されている音節構造 (cf. 「#1563. 音節構造」 ([2013-08-07-1])) の記述では,onset, rhyme, nucleus, coda などの位置をもった階層構造が前提とされている.音節構造において核であり母体となるのは文字通り nucleus であり,典型的にはそこに母音が収まり,その周辺に「ともに響く音」としての子音が配される.母音は比喩的に「母体」や「母艦」などと表現したくなる位置に収まる音であり,一方で子音はその周辺に配される「子分」である(なお「子分」というとむしろ男性のイメージだ).明治初期と韻律音韻論というのは厳密にはアナクロだが,「母音」「子音」という言葉遣いの背景にある基本的な音韻のとらえ方とは関わってくるだろう.
上記のように,「母」とは,何かを派生的に生み出す源であり,生成文法の発想に近いこともあって,日本語の言語学のディスコースには女系用語の伝統がすでに根付いて久しいということかもしれない.
歴史語用論では,従来の主流派言語学からは周辺的とみなされるような話題が表舞台に立つ.談話標識 (discourse marker),間投詞 (interjection),挿入詞 (insert) と呼ばれる語句も,近年,にわかに脚光を浴びるようになった.英語史研究でも,well や please や um 等がようやくまともに扱われるようになった.
これらの語句には様々な分類の仕方があり,統一した呼称もない.ためしに参考書で使われている用語を列挙してみると,"discourse marker" や "interjection" のほかにも "discourse particle", "mystery particle", "implicit anchoring device" など様々である (Jucker and Taavitsainen 55) .しかし,これらの語句を体系化しようとする試みの一つに Jucker and Taavitsainen (56) による "Inserts and pragmatic noise" の図がある.説明の都合で少々改変したものを以下に示そう.
この図には "Inserts", "Pragmatic noise", "Discourse markers", "Primary interjections", "Secondary interjections", "Words", "Vocalisations" などの用語がちりばめられており,それぞれの境目があえて曖昧に示されているが,これは Jucker and Taavitsainen がこれらの語用的な諸機能をプロトタイプ的にみているからである.
まず,図は大きく左右に二分される.図のおよそ左側を占める Inserts は,他の品詞の機能を共有しているものが多く,実質的な意味内容を有している.対する右側の Pragmatic noise は,他の品詞の機能をもたず,実質的な意味も希薄で,もっぱら語用的,対人的な役割に特化した語句といえる.さて,左側の Inserts の内部でもよりプロトタイプ的な Inserts である左端の Discourse markers と,より周辺的な右寄りの Interjections に分けられる.その Interjections も,同音語として他の品詞にも供するか否かによって Secondary interjections と Primary interjections に分かれる.図全体として左右へのグラデーションを描く語句の集合体を表現しているのがわかるだろう.なお,右端には Ha ha や he he などの Vocalisations としか言いようのない役割の限定された表現がみられる.
さらに interjections の3分類を見ておこう.Yuk! や ouch! などの感情的 (emotive) なもの,aha!, Oh!, Well! などの認知的 (cognitive) なものは合わせて表現的 (expressive) な間投詞と呼ばれる.次に,聞き手に強く働きかけ,指示したり,注意を促したり,返答を求める動能的 (conative) な間投詞として shh!, eh?, hey!, ho!, Look! がある.最後に交感的 (phatic) な間投詞として,相づちを打つための mhm!, uh-huh! などが区別される (Jucker and Taavitsainen 57--58) .
これらは現代英語における区分ではあるが,英語歴史語用論にもおよそそのまま当てはまる汎用的な区分だろう.
・ Jucker, Andreas H. and Irma Taavitsainen. English Historical Pragmatics. Edinburgh: Edinburgh UP, 2013.
昨日の記事「#2009. 言語学における接触,干渉,2言語使用,借用」 ([2014-10-27-1]) で,「借用」 (borrowing) などの用語の問題に言及した.厳密にいえば,言語における「借用」という用語は矛盾をはらんでいる.A言語からB言語へある言語項が「借用」されるとき,B言語にわたるのはその言語項の複製(コピー)であり,本体はA言語に残るものだからだ.この「借用」の基本的な性質と,用語の矛盾については,「#44. 「借用」にみる言語の性質」 ([2009-06-11-1]) で見たとおりである.
借用の構造的な制約を論じた Moravcsik (99 fn) も,言語学用語としての借用と,一般にいう事物の借用とのズレについて以下のように述べている.
Needless to say, this use of the term "borrowing" is very different from the way the term is used in everyday language. Whereas, according to everyday usage, an object is borrowed if it passes from the use of the owner into the temporary use of someone else and thus at no point in time is it being used by both, according to linguistic usage the source language may continue to include the particular property that has been "borrowed" from it. Thus, what the latter implies is 'permanently' acquiring a copy of an object,' rather than 'temporarily' acquiring an object itself.'
なるほど,言語における借用は「コピーを永久的に獲得すること」だという指摘は納得できる.これは,先の記事 ([2009-06-11-1]) の (3) について述べたものと理解してよいだろう.ここから,言語変化の拡散とは革新的な言語項のコピーがある話者からその隣人へ移動することの連続であるという見方が可能となる.
言語における借用(あるいはより一般的に言語変化の拡散)とは,コピー(の連続)であるという理解と関連して思い出されるのは,イタリアの新言語学 (neolinguistics) の立場だ.彼らは,言語変化の拡散に際して生じているのはコピーではないと言い切る.話者は隣人から革新的な言語項の「複製」 (copy) を受け取っているのではなく,その言語項を「模倣」 (imitation) あるいは「再創造」 (re-creation) しているのだと主張する.Bonfante (356) 曰く,
The neolinguists assert that linguistic creations, whether phonetic, morphological, syntactic, or lexical, spread by imitation. Imitation is not a slavish copying; it is the re-creation of an impulse or spiritual stimulus received from outside, a re-creation which gives to the linguistic fact a new shape and a new spirit, the imprint of the speaker's own personality.
言語において借用という用語が矛盾をかかえているという基本的な問題から発して,それは正確にはコピー(複製)と呼ぶべきだという結論に落ち着いたかと思いきや,新言語学の視点から,いやそれは模倣であり再創造であるという新案が提出された.「#1069. フォスラー学派,新言語学派,柳田 --- 話者個人の心理を重んじる言語観」 ([2012-03-31-1]) でも述べたが,新言語学の言語観には,話者個人の創造性を重視する姿勢がある.言語学史において新言語学は主流派になることはなく,今となっては半ば忘れ去られた存在だが,不思議な魅力をもった,再評価されるべき学派だと思う.
・ Moravcsik, Edith A. "Language Contact." Universals of Human Language. Ed. Joseph H. Greenberg. Vol. 1. Method & Theory. Stanford: Stanford UP, 1978. 93--122.
・ Bonfante, Giuliano. "The Neolinguistic Position (A Reply to Hall's Criticism of Neolinguistics)." Language 23 (1947): 344--75.
標記に挙げた用語は,言語接触の分野で頻出する用語であり,おおむねその理解は日常的にも共有されているように思われる.しかし,細かくみればその定義は研究者により異なっており,学問的に議論するためには,その定義から確認しておく必要のある厄介な用語群でもある.例えば借用 (borrowing) という用語1つとってみても,「#900. 借用の定義」 ([2011-10-14-1]),「#1661. 借用と code-switching の狭間」 ([2013-11-13-1]),「#1985. 借用と接触による干渉の狭間」 ([2014-10-03-1]) で示唆したように,種々の難しさをはらんでいる.
昨日の記事「#2008. 言語接触研究の略史」 ([2014-10-26-1]) で触れたように,言語接触の分野の金字塔の1つとして Weinreich の Languages in Contact が挙げられる.その本論の冒頭に,標題の用語の定義が与えられている.
In the present study, two or more languages will be said to be IN CONTACT if they are used alternately by the same persons. The language-using individuals are thus the locus of the contact.
The practice of alternately using two languages will be called BILINGUALISM, and the persons involved, BILINGUAL. Those instances of deviation from the norms of either language which occur in the speech of bilinguals as a result of their familiarity with more than one language, i.e. as a result of language contact, will be refereed to as INTERFERENCE phenomena. It is these phenomena of speech, and their impact on the norms of either language exposed to contact, that invite the interest of the linguist. (Weinreich 1)
この引用に続く段落で,構造主義の立場から,"interference" は構造の組み替えを含意するものであるとし,そのような含意をもつとは限らない "borrowing" とは区別すべきだと述べている.構造の組み替えを伴わない表面的な語彙の借用などを指して "borrowing" と呼ぶことはできそうだとしても,語彙の借用とて既存の語彙や意味の構造に影響を与えることがありうる以上,"borrowing" という用語の使用には慎重であるべきだとも示唆している.
本書の最大の主張の1つが,上記引用の第2文(すなわち本書本論の第2文)に集約されている.言語接触の場は,バイリンガル個人であるということだ.また,バイリンガルという用語は最大限に広く解釈されていることにも注意されたい.質と量を問わず,2つの変種(非常に異なる言語から非常に近い方言を含む)が何らかの様式で混合したり交替したりする言語使用が bilingualism であり,それを実践する個人が bilingual である.したがって,この定義によれば,単なる語の「借用」も,一見すると高度な技術にみえる code-switching も,ともに bilingualism の例ということになる.そして,その一つひとつの具体的な言語項の現われが,干渉の例ということになる.
これくらい広い定義だと,関連して考え得るあらゆる現象が言語接触の話題となる.用語のアバウトさ,あるいは気前のよさが,昨日の記事 ([2014-10-26-1]) で見たように,当該分野の無限の拡大を呼んだということかもしれない.
・ Weinreich, Uriel. Languages in Contact: Findings and Problems. New York: Publications of the Linguistic Circle of New York, 1953. The Hague: Mouton, 1968.
今日は,昨日の記事「#1980. 主観化」 ([2014-09-28-1]) を発展させた話題として間主観化 (intersubjectification) について取り上げる.Traugott は,"nonsubjective > subjective" という意味変化の延長線上に "subjective > intersubjective" というもう1つの段階があり得ることを提案している.まず,間主観化 (intersubjectification) の行き着く先である間主観性 (intersubjectivity) について,Traugott (128) の説明をみてみよう.
[I]ntersubjectivity is the explicit expression of the SP/W's attention to the 'self' of addressee/reader in both an epistemic sense (paying attention to their presumed attitudes to the content of what is said), and in a more social sense (paying attention to their 'face' or 'image needs' associated with social stance and identity). (128)
そして,間主観化 (intersubjectification) とは,"the development of meanings that encode speaker/writers' attention to the cognitive stances and social identities of addressees" (124) と説明される.
英語から間主観的な表現の例を挙げよう.Actually, I will drive you to the dentist. の "Actually" が間主観的な役割を果たしているという.この "Actually" は,「あなたはこの提案を断るかもしれないことを承知であえて言いますが」ほどの意味を含んでおり,聞き手の face に対してある種の配慮を表わす話し手の態度を表わしている.また,かつての英語における2人称代名詞 you と thou の使い分け (cf. t/v_distinction) も,典型的な間主観的表現である.
間主観化を示す例を挙げると,Let's take our pills now, Roger. における let's がある.本来 let's は,let us (allow us) という命令文からの発達であり,let's へ短縮しながら "I propose" ほどの奨励・勧告の意を表わすようになった.これが,さらに親が子になだめるように動作を促す "care-giver register" での用法へと発展したのである.奨励・勧告の発達は主観化とみてよいだろうが,その次の発展段階は,話し手(親)の聞き手(子)への「なだめて促す」思いやりの態度をコード化しているという点で間主観化ととらえることができる.命令文に先行する please や pray などの用法の発達も,同様に間主観化の例とみることができる.さらに,「まあ,そういうことであれば同意します」ほどを意味する談話標識 well の発達ももう1つの例とみてよい.
聞き手の face を重んじる話し手の態度を埋め込むのが間主観性あるいは間主観化だとすれば,英語というよりはむしろ日本語の出番だろう.実際,間主観性や間主観化の研究では,日本語は引っ張りだこである.各種の敬譲表現に始まり,終助詞,談話標識としての「さて」など,多くの表現に間主観性がみられる.Traugott の "nonsubjective > subjective > intersubjective" という変化の方向性を仮定するのであれば,日本語は,そのどん詰まりにまで行き切った表現が数多く存在する,比較的珍しい言語ということになる.では,どん詰まりにまで行き切った表現のその後はどうなるのか.次の発展段階がないということになれば,どん詰まりには次々と表現が蓄積されることになりそうだが,一方で廃用となっていく表現も多いだろう.Traugott (136) は,次のように想像している.
. . . by hypothesis, intersubjectification is a semasiological end-point for a particular form-meaning pair; onomasiologically, however, an intersubjective category will over time come to have more or fewer members, depending on cultural preference, register, etc.
・ Traugott, Elizabeth Closs. "From Subjectification to Intersubjectification." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 124--39.
語用論 (pragmatics) や文法化 (grammaticalisation) や意味変化 (semantic_change) の研究では,主観化 (subjectification) ということがしばしば話題にされる.一言でいえば,「指示的,命題的意味からテキスト的,感情表出的,あるいは,対人的 (interpersonal) への意味変化」(秋元,p. 11)である.命題の意味が話者の主観的態度に重きをおく意味へと変化する過程であり,文法化において典型的にみられる方向性であるといわれる.図式的にいえば,"propositional > textual > expressive/interpersonal" という方向だ.
秋元 (11--13) に従って英語史からの例を挙げると,運動から未来の意志・推論を表わす be going to の発達,法助動詞 must, may などの義務的用法 (deontic) から認識的用法 (epistemic) への発達,談話標識の発達,強調副詞の発達などがある.より具体的に,動詞 promise の経た主観化をみてみよう.中英語にフランス語から借用された 動詞 promise は,本来は有生の主語をとり,約束という発話内行為を行うことを意味した.16世紀には名詞目的語を従えて「予告する,予言する」の意味を獲得し,無声の主語をも許容するようになる.18世紀には,非定形補文をとって統語的繰り上げの用法を発達させ,非意志的・認識的な意味を獲得するに至る.結果,The conflict may promise to escalate into war. のような文が可能になった.動詞 promise が経てきた主観化のプロセスは,"full thematic predicates > raising predicates > quasi-modals > modal operator" と図式化できるだろう.
もう1つ,形容詞 lovely の主観化についても触れておこう.本来この形容詞は人間の属性を意味したが,18世紀頃から身体の特性を表わすようになり,次いで価値を表わすようになった.19世紀中頃からは強意語 (intensifier) としても用いられるようになり,ついにはさらに「素晴らしい!」ほどを意味する反応詞 (response particle) としての用法も発達させた.過程を図式化すれば "descriptive adjective > affective adjective > intensifier/pragmatic particle" といったところか.関連して,形容詞が評価的な意味を獲得する事例については「#1099. 記述の形容詞と評価の形容詞」 ([2012-04-30-1]),「#1100. Farsi の形容詞区分の通時的な意味合い」 ([2012-05-01-1]),「#1400. relational adjective から qualitative adjective への意味変化の原動力」 ([2013-02-25-1]) で取り上げたので,参照されたい.強意語の発達については,「#992. 強意語と「限界効用逓減の法則」」 ([2012-01-14-1]),「#1220. 初期近代英語における強意副詞の拡大」 ([2012-08-29-1]) を参照.
ほかにも,Traugott (126--27) によれば,after all, in fact, however などの談話標識としての発達,even の尺度詞としての発達,only の焦点詞としての発達などが挙げられるし,日本語からの例として,文頭の「でも」の談話標識としての発達や,文末の「わけ」の主観的な態度を含んだ理由説明の用法の発達なども指摘される.
この種の意味変化の方向性という話題になると,必ず反例らしきものが指摘される.実際に,反主観化 (de-subjectification) と目される例もある.例えば,criminal law の criminal は客観的で記述的な意味をもっているが,歴史的にはこの形容詞では a criminal tyrant におけるような主観的で評価的な意味が先行していたという.また,英語では歴史的に受動態が発達してきたが,受動態は典型的に動作主を明示しない点で反主観的な表現といえる.
・ 秋元 実治 『増補 文法化とイディオム化』 ひつじ書房,2014年.
・ Traugott, Elizabeth Closs. "From Subjectification to Intersubjectification." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 124--39.
昨日の記事「#1974. 文法化研究の発展と拡大 (1)」 ([2014-09-22-1]) を受けて,文法化 (grammaticalisation) 研究の守備範囲の広さについて補足する.Bussmann (196--97) によると,文法化がとりわけ関心をもつ疑問には次のようなものがある.
(a) Is the change of meaning that is inherent to grammaticalization a process of desemanticization, or is it rather a case (at least in the early stages of grammaticalization) of a semantic and pragmatic concentration?
(b) What productive parts do metaphors and metonyms play in grammaticalization?
(c) What role does pragmatics play in grammaticalization?
(d) Are there any universal principles for the direction of grammaticalization, and, if so, what are they? Suggestions for such 'directed' principles include: (i) increasing schematicization; (ii) increasing generalization; (iii) increasing speaker-related meaning; and (iv) increasing conceptual subjectivity.
昨日記した守備範囲と合わせて,文法化研究の潜在的なカバレッジの広さと波及効果の大きさを感じることができる.また,秋元 (vii) の目次より文法化理論に関連する用語を拾い出すだけでも,この分野が言語研究の根幹に関わる諸問題を含む大項目であることがわかるだろう.
第1章 文法化
1.1 序
1.2 文法化とそのメカニズム
1.2.1 語用論的推論 (Pragmatic inferencing)
1.2.2 漂白化 (Bleaching)
1.3 一方向性 (Unidirectionality)
1.3.1 一般化 (Generalization)
1.3.2 脱範疇化 (Decategorialization)
1.3.3 重層化 (Layering)
1.3.4 保持化 (Persistence)
1.3.5 分岐化 (Divergence)
1.3.6 特殊化 (Specialization)
1.3.7 再新化 (Renewal)
1.4 主観化 (Subjectification)
1.5 再分析 (Reanalysis)
1.6 クラインと文法化連鎖 (Grammaticalization chains)
1.7 文法化とアイコン性 (Iconicity)
1.8 文法化と外適応 (Exaptation)
1.9 文法化と「見えざる手」 (Invisible hand) 理論
1.10 文法化と「偏流」 (Drift) 論
文法化は,主として言語の通時態に焦点を当てているが,一方で主として共時的な認知文法 (cognitive grammar) や機能文法 (functional grammar) とも親和性があり,通時態と共時態の交差点に立っている.そこが,何よりも魅力である.
・ Bussmann, Hadumod. Routledge Dictionary of Language and Linguistics. Trans. and ed. Gregory Trauth and Kerstin Kazzizi. London: Routledge, 1996.
・ 秋元 実治 『増補 文法化とイディオム化』 ひつじ書房,2014年.
認知言語学では,プロトタイプ (prototype) の考え方が重視される.アリストテレス的なデジタルなカテゴリー観に疑問を呈した Wittgenstein (1889--1951) が,ファジーでアナログな家族的類似 (family resemblance) に基づいたカテゴリー観を示したのを1つの源流として,プロトタイプは認知言語学において重要なキーワードとして発展してきた.プロトタイプ理論によると,カテゴリーは素性 (feature) の有無の組み合わせによって表現されるものではなく,特性 (attribute) の程度の組み合わせによって表現されるものである.程度問題であるから,そのカテゴリーの中心に位置づけられるような最もふさわしい典型的な成員もあれば,周辺に位置づけられるあまり典型的でない成員もあると考える.例えば,「鳥」というカテゴリーにおいて,スズメやツバメは中心的(プロトタイプ的)な成員とみなせるが,ペンギンやダチョウは周辺的(非プロトタイプ的)な成員である.コウモリは科学的知識により哺乳動物と知られており,古典的なカテゴリー観によれば「鳥」ではないとされるが,プロトタイプ理論のカテゴリー観によれば,限りなく周辺的な「鳥」であるとみなすこともできる.このように,「○○らしさ」の程度が100%から0%までの連続体をなしており,どこからが○○であり,どこからが○○でないかの明確な線引きはできないとみる.
考えてみれば,人間は日常的に事物をプロトタイプの観点からみている.赤でもなく黄色でもない色を目にしてどちらかと悩むのは,プロトタイプ的な赤と黄色を知っており,いずれからも遠い周辺的な色だからだ.逆に,赤いモノを挙げなさいと言われれば,日本語母語話者であれば,典型的に郵便ポスト,リンゴ,トマト,血などの答えが返される.同様に,「#1962. 概念階層」 ([2014-09-10-1]) で話題にした FURNITURE, FRUIT, VEHICLE, WEAPON, VEGETABLE, TOOL, BIRD, SPORT, TOY, CLOTHING それぞれの典型的な成員を挙げなさいといわれると,多くの英語話者の答えがおよそ一致する.
英語の FURNITURE での実験例をみてみよう.E. Rosch は,約200人のアメリカ人学生に,60個の家具の名前を与え,それぞれがどのくらい「家具らしい」かを1から7までの7段階評価(1が最も家具らしい)で示させた.それを集計すると,家具の典型性の感覚が驚くほど共有されていることが明らかになった.Rosch ("Cognitive Representations of Semantic Categories." Journal of Experimental Psychology: General 104 (1975): 192--233. p. 229) の調査報告を要約した Taylor (46) の表を再現しよう.
Member | Rank | Specific score |
---|---|---|
chair | 1.5 | 1.04 |
sofa | 1.5 | 1.04 |
couch | 3.5 | 1.10 |
table | 3.5 | 1.10 |
easy chair | 5 | 1.33 |
dresser | 6.5 | 1.37 |
rocking chair | 6.5 | 1.37 |
coffee table | 8 | 1.38 |
rocker | 9 | 1.42 |
love seat | 10 | 1.44 |
chest of drawers | 11 | 1.48 |
desk | 12 | 1.54 |
bed | 13 | 1.58 |
bureau | 14 | 1.59 |
davenport | 15.5 | 1.61 |
end table | 15.5 | 1.61 |
divan | 17 | 1.70 |
night table | 18 | 1.83 |
chest | 19 | 1.98 |
cedar chest | 20 | 2.11 |
vanity | 21 | 2.13 |
bookcase | 22 | 2.15 |
lounge | 23 | 2.17 |
chaise longue | 24 | 2.26 |
ottoman | 25 | 2.43 |
footstool | 26 | 2.45 |
cabinet | 27 | 2.49 |
china closet | 28 | 2.59 |
bench | 29 | 2.77 |
buffet | 30 | 2.89 |
lamp | 31 | 2.94 |
stool | 32 | 3.13 |
hassock | 33 | 3.43 |
drawers | 34 | 3.63 |
piano | 35 | 3.64 |
cushion | 36 | 3.70 |
magazine rack | 37 | 4.14 |
hi-fi | 38 | 4.25 |
cupboard | 39 | 4.27 |
stereo | 40 | 4.32 |
mirror | 41 | 4.39 |
television | 42 | 4.41 |
bar | 43 | 4.46 |
shelf | 44 | 4.52 |
rug | 45 | 5.00 |
pillow | 46 | 5.03 |
wastebasket | 47 | 5.34 |
radio | 48 | 5.37 |
sewing machine | 49 | 5.39 |
stove | 50 | 5.40 |
counter | 51 | 5.44 |
clock | 52 | 5.48 |
drapes | 53 | 5.67 |
refrigerator | 54 | 5.70 |
picture | 55 | 5.75 |
closet | 56 | 5.95 |
vase | 57 | 6.23 |
ashtray | 58 | 6.35 |
fan | 59 | 6.49 |
telephone | 60 | 6.68 |
昨日の記事「#1961. 基本レベル範疇」 ([2014-09-09-1]) で,概念階層 (conceptual hierarchy) あるいは包摂関係 (hyponymy) という術語を出した.後者の包摂関係は語彙的な関係を念頭においた見方であり,「家具」と「いす」の例で考えれば,「家具」は「いす」の上位語 (hypernym) であるといわれ,「いす」は「家具」の下位語 (hyponym) であるといわれる.一方,前者の概念階層は概念間の関係を念頭においた見方であり,上位と下位の関係が幾重にも広がり,巨大なネットワークが展開されているととらえる.
概念階層を理解するは,具体的にある意味場 (semantic_field) を取り上げ,関係を図示してみるのがよい.生物学における界 (kingdom),門 (phylum or division),綱 (class),目 (order),科 (family),属 (genus),種 (species) の分類図はよく知られた概念階層であるし,比較言語学の系統図 (family_tree) もその一種である.以下では中野 (17) に挙げられている日本語「家具」の意味場における概念階層と,英語 COOK(動詞)の意味場における概念階層を示す.
「家具」について[用途]と[形状・構造]というノードがあるが,これはそれ以下の分類が視点に基づいたものであることを示す.意味場に応じてあり得る視点も変わるだろうし,個人によっても異なる可能性があるので,上の図は1つのモデルと考えたい.
すぐに気づくように,概念階層は語彙学習にも役立つ.上記の COOK は動詞の例だが,FURNITURE, FRUIT, VEHICLE, WEAPON, VEGETABLE, TOOL, BIRD, SPORT, TOY, CLOTHING などの名詞の概念階層を描いてみると勉強になりそうだ.
・ 中野 弘三(編)『意味論』 朝倉書店,2012年.
昨日の記事「#1960. 英語語彙のピラミッド構造」 ([2014-09-08-1]) の最後で,「語彙階層は,基本性,日常性,文体的威信の低さ,頻度,意味・用法の広さといった諸相と相関関係にある」と述べた.言語学では,しばしば「基本的な語彙」が話題になるが,何をもって基本的とするかについては様々な立場がある.直感的には,基本的な語彙とは,日常的に用いられ,高頻度で,子供にも早期に習得される語彙であると済ませることもできそうだし,確かにそれで大きく外れていないと思う.しかし,どこまでを基本語彙と認めるかという問題や,個別言語ごとに異なるものなのか,あるいは通言語的にある程度は普遍的なものなのかという問題もあり,易しいようで難しいテーマである.例えば,言語学史的には「#1128. glottochronology」 ([2012-05-29-1]) を提唱した Swadesh の綴字した基礎語彙に対して,猛烈な批判が加えられたという事例もあったし,実用的な目的で唱えられた Basic English (cf. 「#960. Basic English」 ([2011-12-13-1]),「#1705. Basic English で書かれたお話し」 ([2013-12-27-1])) とその基本語彙についても,疑念の目が向けられたことがあった.
基本的な語彙ということでもう1つ想起されるのは,認知意味論でしばしば取り上げられる基本レベル範疇 (Basic Level Category) である.語彙的な関係の1つに,概念階層 (conceptual hierarchy) あるいは包摂関係 (hyponymy) というものがある.例えば,「家具」という意味場 (semantic_field) を考えてみる.「家具」という包括的なカテゴリーの下に「いす」や「机」のカテゴリーがあり,それぞれの下に「肘掛けいす」「デッキチェア」や「勉強机」「パソコンデスク」などがある.さらに上にも下にも,そして横にもこのような語彙関係が広がっており,「家具」の意味場に巨大な語彙ネットワークが展開しているというのが,意味論や語彙論の考え方だ.ここで「家具」「いす」「肘掛けいす」という3段階の包摂関係について注目すると,最も普通のレベルは真ん中の「いす」と考えられる.「ちょっと疲れたから,いすに座りたいな」は普通だが,「家具に座りたいな」は抽象的で粗すぎるし,「肘掛けいすに座りたいな」は通常の文脈では不自然に細かすぎる.「いす」というレベルが,抽象的すぎず一般的すぎず,ちょうどよいレベルという感覚がある.ここでは,「いす」が Basic Level Category を形成しているといわれる.
では,この Basic Level Category は何によって決まるのだろうか.Taylor (52) は,プロトタイプ理論の権威 Rosch に依拠しながら,次のような機能主義的な説明を支持している.
Rosch argues that it is the basic level categories that most fully exploit the real-world correlation of attributes. Basic level terms cut up reality into maximally informative categories. The basic level, therefore, is the level in a categorization hierarchy at which the 'best' categories can emerge. More precisely, Rosch hypothesizes that basic level categories both
(a) maximize the number of attributes shared by members of the category;
and
(b) minimize the number of attributes shared with members of other categories.
「いす」は,その配下の様々な種類のいす,例えば「肘掛けいす」や「デッキチェア」と多くの共通の特性をもつ点で (a) にかなう.また,「いす」は,「机」や様々な種類の机,例えば「勉強机」や「パソコンデスク」と共有する特性は少ないので,(b) にかなう.これは「いす」を中心にして考えた場合だが,同じように「家具」あるいは「肘掛けいす」を中心に考えて (a) と (b) にかなうかどうかを検査してみると,いずれも「いす」ほどには両条件を満たさない.
Basic Level Category の語彙は,認知的に重要と考えられている.また,日常的に最もよく使われ,子供によって最初に習得され,大人も最も速く反応することが知られている.ある種の基本性を備えた語彙といえるだろう.
基本語彙の別の見方については,「#308. 現代英語の最頻英単語リスト」 ([2010-03-01-1]),「#1874. 高頻度語の語義の保守性」 ([2014-06-14-1]),「#1101. Zipf's law」 ([2012-05-02-1]) の記事も参照されたい.
・ Taylor, John R. Linguistic Categorization. 3rd ed. Oxford: OUP, 2003.
言語の意味とは,その指示対象 (referent) そのものではなく,それが喚起する概念 (concept) であるというのが,現代の意味論では主流の考え方である.しかし,この概念というものが一体どのようなものであるかは,今ひとつはっきりしない.この「意味=概念」説は,大きく2つの立場に分かれる.
「概念」説には2種あり,一つは形式(記号)論理学の流れを汲む伝統的意味論の考え方であり,もう一つは新しい認知言語学の考え方である.伝統的意味論では,概念(=意味)を,言語表現が表わす事物や事象がカテゴリー(類)として持つ特性の集合体と考える.たとえば,「犬」という語の概念(=意味)は,現実に存在する多様な犬がカテゴリーとして持つ特性(哺乳類である,四つ足で尻尾がある,人間によくなつく,など)の束であると考える.伝統的意味論での概念は,このように,それが適用される事物や事象の定義として働く.また,このような考え方の概念は,言語表現の音声形式と同じように,言語使用の場においては既存のものとして扱われ,そのため当の概念がどのような過程を経て形成されるかという概念形成の過程は問題にされない.
これに対し,言語研究において人間の認知能力を重要視する認知言語学では,言語表現が表わす概念は,概念化 (conceptualization) と呼ばれる,言語使用者の外界の捉え方 (construal) を反映した概念形成法によって形成されるものと考えられ,言語使用者から離れて存在する(既存の)ものとはみなされない.概念を固定したものでなく,言語使用者が使用の場に応じて弾力的に形成するものとするこの認知言語学の概念観は,概念(カテゴリー)の可変性や比喩表現に見られる概念の拡張を説明するのに非常に有効である.(中野,p. vii--viii)
伝統的意味論における概念を,もう少し詳しく説明すると,次のようになる(「#1931. 非概念的意味」 ([2014-08-10-1]) も参照).
概念 (concept) とは,事物や出来事をカテゴリー(類)として把握することから生まれる認識で,この認識は事物や出来事の個別的・差異的特徴を排除し,共通的・本質的要素を抽出することによって得られる.(中野,p. 13--14)
このように,伝統的意味論において,言語の意味(=概念)とは客観的,静的で形の定まった固体という風である.一方,新しい認知意味論の立場では,言語の意味(=概念)とは主観的,動的で形の定まらない流体という風である.
この30年ほどの間に急成長してきた認知言語学 (cognitive_linguistics) の分野には,生成文法などの学派には典型的な,これぞという金科玉条があるわけではない.言語(の意味)に関して様々な関心をもった複数の研究者が緩やかに呼応し,徐々に共通の認識を築きあげてきた結果,台頭してきた分野である.その緩やかな共通認識のいくつかとは,谷口 (7) によると,次のものである.
・ ことばは「記号」である.つまり,「形式」と「意味」の結びつきで成り立っている.
・ ことばの「形式」が違えば「意味」も必ず違う.
・ 同じ「形式」に結びつく意味が複数ある場合,その意味は相互に関連性を持ち,1つのまとまりを形成している.
・ ことばの「意味」は,客観的な意味内容だけに限らず,私がちがそれをどのように捉えたかという,認知的な作用も含んでいる.
4つ目で示唆されているように,認知意味論においては,ことばの意味(=概念)はあくまで流動的なものである.
・ 谷口 一美 『学びのエクササイズ 認知言語学』 ひつじ書房,2006年.
・ 中野 弘三(編)『意味論』 朝倉書店,2012年.
日本語や英語などについて言語学的な話をしているときに,「日本人は?」「イギリス人は?」「アメリカ人は?」という言い方がなされることがある.厳密には「日本語母語話者は?」「イギリス(変種の)英語母語話者は?」「アメリカ(変種の)英語母語話者は?」というべきところだが,長ったらしいのでそのように簡便に言うのである.しかし,以上のことを了解していたとしても,私はそのようなショートカットはできるだけ用いるべきではないと考えている.
その理由は,「日本人は?」の類いは,その個人の国籍(あるいはさらに緩く民族)を問題にしている言い方であって,話す言語,とりわけ母語を問題としているものではないからだ.移民のように,国籍は日本人であっても母語が日本語以外であるという人はいるし,逆に母語は日本語でも国籍は日本にない人もいる.言語の話をする限り,「日本人」ではなく「日本語(母語)話者」という(残念ながら長ったらしい)表現を使うのが厳密だろう.ましてや,「英語母語話者」というべきところを「アメリカ人」で代表させるようなカジュアルな言い方は,何重もの誤解を含んでいる(あるいは誤解を招く)表現であり,避けたいと思っている.民族,国籍,言語は当然ながら互いに関連することも多く,社会言語学はまさにその関係を究明しようとしているのだが,一方で原則としてそれらを別々のパラメータとしてみることが社会言語学では常識となっている.この点で,私は小松 (14) の見解に賛成する.
日本語話者……○日本語を日常的に使う環境で育ち,日本語を自然に身につけた人たち,すなわち,日本語のネイティヴスピーカー(生得話者,native speakers)をさす.○日本語話者の大多数は日本国籍であるが,日本に定住している外国籍の人たちにも日本語話者はたくさんいる.○このような文章は,「日本人なら?」というように書き始めるのが常識になっているが,言語に関して日本人という排他的用語を使用すべきではない.○それと同じ理由で,母国語という用語も好ましくない.国籍にかかわらず,日本語話者にとって日本語は母語(native language,mother tongue)である.英語を母語とする人たちはイギリス人だけではないし,カナダ人やスイス人に母国語はない.このような用語に最新の注意を払うことが,グローバルに日本語を位置づけて考えるための第一歩である.
関連するもう1つの問題として,厳密にいえば「?語母語話者」という長いほうの言い方ですら,注意を要することに触れておく.この件については,「#1537. 「母語」にまつわる3つの問題」 ([2013-07-12-1]) を参照されたい.
上記から明らかなように,言語,及びそれを話す個人・集団を論じる言語学という分野にとっては致命的なことに,使いやすい適当な日本語表現がないのである.「日本語母語話者」や「英語母語話者」はあまりに長ったらしい言い方なので,私自身繰り返して発するのに辟易することもあり,なんとか便利な用語を作り出そうと思案してみるのだが,「日本語者」や「日本語人」は馴染まないし,英語で "L1 Japanese Speakers" というのも,むしろなおさら長い.「#1539. ethnie」 ([2013-07-14-1]) で示唆したように,「日本語エスニー」などと呼んでみるのは一案かもしれないと思っているが,モーラ数では特に短くなっていない.難しい.
・ 小松 秀雄 『日本語の歴史 青信号はなぜアオなのか』 笠間書院,2001年.
現代英語で but は多義語の1つである.用法が非常に多く,品詞だけみても接続詞,前置詞,代名詞,副詞,名詞,動詞までと範囲が広い.このなかで副詞としての用法に注目したい.文語において only の意味で用いられる but がある.例文を挙げよう.
・ He is but a child.
・ There is but one answer to your question.
・ There were a lot of famous people there: Tom Hanks and Julia Roberts, to name but two.
・ I heard it but now.
・ I don't think we'll manage it. Still, we can but try.
but のこの意味・用法は歴史的にはどこから来たのだろうか.考えてみれば,He is but a child. という文は He is nothing but a child. とも言い換えられる.後者では but は「?を除いて」の意の前置詞と分析され全体としては否定構造となるが,前者の肯定構造と事実上同義となるのは一見すると不思議である.しかし,歴史的には only の意味の but は,まさに nothing but のような否定構造から否定辞が脱落することによって生じたのである.短縮あるいは省略の事例である.Stern (264) は次のように述べている.
In English, an original ne--butan has been shortened to but: we nabbað her buton fif hlafas and twegen fiscas > we have here but five loafs and two fishes (Horn, Sprachkörper 90), he nis but a child > he is but a child (NED but 6). The immediate cause of the omission of the negation is not quite certain. It is not impossible that influence from other uses of but may have intervened.
OED の but, prep., adv., conj., n.3, adj., and pron. の語義6aにも同趣旨の記述が見られる.
By the omission of the negative accompanying the preceding verb . . ., but passes into the adverbial sense of: Nought but, no more than, only, merely. (Thus the earlier 'he nis but a child' is now 'he is but a child'; here north. dialects use nobbut prep., conj., and adv. = nought but, not but, 'he is nobbut a child'.)
なお,OED ではLangland (1393) がこの用法の初例となっているが,MED の but (conj. (also quasi adj., adv., and prep.)) 2a によれば,13世紀の The Owl and the Nightingale より例が見られる.
短縮・省略現象としては,ne butan > but の変化は,"negative cycle" として有名なフランス語の ne . . . pas > pas の変化とも類似する.pas は本来「一歩」 (pace) ほどの意味で,直接に否定の意味を担当していた ne と共起して否定を強める働きをしていたが,ne が弱まって失われた結果,pas それ自体が否定の意味を獲得してしまったものである(口語における Ce n'est pas possible. > C'est pas possible. の変化を参照).この pas の経た変化は,本来の意味を失い,否定の意味を獲得したという変化であるから,「#1586. 再分析の下位区分」 ([2013-08-30-1]) で示した Croft の術語でいえば "metanalysis" の例といえそうだ.
確かに,いずれももともと共起していた否定辞が脱落する過程で,否定の意味を獲得したという点では共通しており,統語的な短縮・省略の例であると当時に,意味の観点からは意味の転送 (meaning transfer) とか感染 (contagion) の例とも呼ぶことができそうだ.しかし,but と pas のケースでは,細部において違いがある.前田 (115) から引用しよう(原文の圏点は,ここでは太字にしてある).
ne + pas では,否定辞 ne の意味が pas の本来の意味〈一歩〉と完全に置き換えられたのに対して,この but の発達では,butan の意味はそのまま保持され,そのうえに ne の意味が重畳されている.この例に関して興味深いのは,否定辞 ne は音声的に消えてしまったのに,意味だけがなおも亡霊のように残っている点である.つまり,この but の用法では,省略された要素の意味が重畳されているぶん,but の他の用法に比べて意味が複雑になっている.
したがって,but の経た変化は,Croft のいう "metanalysis" には厳密に当てはまらないように見える.前田は,but の経た変化を,感染 (contagion) ではなく短縮的感染 (contractive contagion) と表現し,pas の変化とは区別している.なお,Stern はいずれのケースも意味変化の類型のなかの Shortening (より細かくは Clipping)の例として挙げている(「#1873. Stern による意味変化の7分類」 ([2014-06-13-1]) を参照).
・ Stern, Gustaf. Meaning and Change of Meaning. Bloomington: Indiana UP, 1931.
・ 前田 満 「意味変化」『意味論』(中野弘三(編)) 朝倉書店,2012年,106--33頁.
「#1895. 古英語のラテン借用語の綴字と借用の類型論」 ([2014-07-05-1]) の記事で,後期古英語のラテン借用語は,英語化した綴字ではなくラテン語のままの綴字で取り込む傾向があることを指摘した.それ以前のラテン借用語は英語化した綴字で受け入れる傾向があったことを考えると,借用の類型論の観点からいえば,後期古英語に向かって substitution の度合いが大きくなったと表現できるのではないか,と.
さて,中英語期に入ると,英語の綴字体系は別の展開を示した.大量のフランス借用語が流入するにつれ,それとともにフランス語式綴字習慣も強い影響を持ち始めた.この英語史上の出来事で興味深いのは,フランス語式綴字習慣に従ったのはフランス借用語のみではなかったことだ.それは勢い余って本来語にまで影響を及ぼし,古英語式の綴字習慣を置き換えていった.主要なものだけを列挙しても,古英語の <c> (= /ʧ/) はフランス語式の <ch> に置換されたし,<cw> は <qw> へ, <s> の一部は <ce> へ,<u> は <ou> へと置換された.ゆえに,本来語でも現代英語において <chin>, <choose>, <queen>, <quick>, <ice>, <mice>, <about>, <house> などと綴るようになっている.これは綴字体系上のノルマン・コンクェストとでもいうべきものであり,この衝撃を目の当たりにすれば,古英語のラテン語式綴字による軽度の substitution など,かわいく見えてくるほどだ.これは,フランス語式綴字習慣が英語に及んだという点で,「#1793. -<ce> の 過剰修正」 ([2014-03-25-1]) で触れたように,一種の過剰修正 (hypercorrection) と呼んでもよいかもしれない(ほかに「#81. once や twice の -ce とは何か」 ([2009-07-18-1]) および「#1153. 名詞 advice,動詞 advise」 ([2012-06-23-1]) も参照).ただし,通常 hypercorrection は単語単位で単発に作用する事例を指すことが多いが,上記の場合には広範に影響の及んでいるのが特徴的である.フランス語式綴字の体系的な substitution といえるだろう.
Horobin (89) が "rather than adjust the spelling of the French loans to fit the native pattern, existing English words were respelled according to the French practices" と述べたとき,それは,中英語がフランス語を英語化しようとしたのではなく,中英語自らがフランス語化しようとしていた著しい特徴を指していたのである.
「#1208. フランス語の英文法への影響を評価する」 ([2012-08-17-1]) や「#1222. フランス語が英語の音素に与えた小さな影響」 ([2012-08-31-1]) で話題にしたように,フランス語の英語への影響は,語彙を除けば,綴字にこそ最も顕著に,そして体系的に現われている.通常,単発の事例に用いられる substitution や hypercorrection という用語を,このような体系的な言語変化に適用すると新たな洞察が得られるのではないかという気がするが,いかがだろうか.
・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.
昨日の記事「#1910. 休止」 ([2014-07-20-1]) で触れたので,修辞学のトポスの1つとしての黙説(断絶法,頓絶法,話中頓絶,黙過;reticence, aposiopesis, silence)についれ触れておきたい.昨日は,発話における無音区間を言語学的機能という観点から取り上げたが,今日はそれを修辞的技法という観点から眺めたい.
黙説とは,語らぬことによって語る言葉のあやだが,最初から語らないのでは話しにならない.語っている途中で突然黙ることに意味がある.続きが期待されるところで実際には続かないことにより,聞き手はサスペンス状態におかれる.聞き手は,続きを自らの力で補う立場に立たされる.いわば,いままで話し手の調子に合わせて気持ちよく波に乗っていたのに,予期せぬタイミングでバトンを渡されたという感じである.余韻や余情を感じさせられる程度で済むならばよいが,穴を埋めなければならない責任感を感じるほどにサスペンス状態に追い込まれたとすれば,聞き手はその後で主体的なメッセージ解読作業に参与していかざるをえない.こうなれば話し手にとっては,してやったりで,語らぬことにより実際に語る以上の効果を示すことができたというものである.
以上の黙説の解説は,佐藤 (41) の秀逸な論考を拝借したものにすぎない.
すぐれた《黙説》表現は,表現の量を減少させることによって,意味の産出という仕事を半分読者に分担させる.受動的であった想像力に能動的な活動をもとめる.聞き手が謎解きに参加することによってはじめてことばの意味は活性化する……という原理は,なにも黙説のばあいだけのことではなく,そもそも言語による表現が成立するための根源的な条件であるが,レトリックの《黙説》はその原理を極端なかたちで表現しようとする冒険にほかならない.
私たちはとかく,メッセージとは相手から受けとるものだと考えがちである.が,《黙説》は――すぐれた黙説は――,メッセージをその真の正体である「問いかけ」に変えるのだ.疑問文ばかりが問いかけなのではない.すべてのメッセージが問いかけなのである.
黙説を含むレトリック技法の本領は,Grice の「#1122. 協調の原理」 ([2012-05-23-1]) (cooperative principle) に意図的に反することにより,会話の参与者にショックを与えることである.話し手は,聞き手の期待を裏切ることによって,聞き手を,それまで常識として疑うことのなかった会話の原理・原則にまで立ち返らせるのだ.佐藤が「すべてのメッセージが問いかけなのである」と述べているとおり,発せられるすべての文の先頭には,言外に "I ask you to understand what I am going to say: " や "Tell me what you have to say to what I am going to say: " が省略されていると考えることができる.語用論では,このような前置きに相当する表現を IFID (Illocutionary Force Indicating Device) と呼んでいるが,効果的に用いられた黙説は,それだけで強力な IFID の機能を果たしているということになる.
休止や黙説は,すぐれて話し言葉的な現象と思われるかもしれないが,むしろ書き言葉にこそ巧みに応用されている.音声上はゼロにもかかわらず,書記上に反映されることがあるのだ.日本語の「……」しかり,英語の ". . . ." しかり.休止や黙説の担うコミュニケーション上の価値が無であるとすれば,表記する必要もないはずである.しかし,あえてそれが表記されるというのは,そこに談話上の意味がある証拠だろう.
・ 佐藤 信夫 『レトリック認識』 講談社,1992年.
言語学・韻律論における休止 (pause) あるいは休止現象 (pausal phenomena) とは,話者が発話の途中におく無音区間である.生理学的な観点からみれば,休止は発話中の息継ぎのために必要な時間とも言えるし,次の発話のための準備の時間とも言えるだろう.言語学的な観点からみると,言語音が発せられないのだから何も機能を果たさないかのように考えられそうだが,それは誤りである.黙説や無言が修辞的な効果をもちうるように,休止もまた言語学的な機能を果たす.
佐藤 (57) によれば,休止とは「話し手にとって,プロミネンスと連動して効果をあげるための無音区間であり,聞き手にとって,聴取した内容を整理し,記憶を強化するために必要な時間」と定義される.この定義では,休止が話し手の産出,聞き手の理解に重要な役割を果たしていることが明示されている.統語上,意味上,談話上のプロミネンス(卓立)を標示するのを前後からサポートする機能といえるだろう.
休止のもつもう1つの言語学的機能は,文法的な境界を標示することである (Crystal 355) .話者は,文の構造上の切れ目で休止を入れることにより,聞き手の分析にかかる負担を減らしてあげることができる.Crystal はこの機能を juncture pause と呼んでいるが,橋本萬太郎の用語でいえば「#976. syntagma marking」 ([2011-12-29-1]) に相当するだろう.この機能は強勢や抑揚など他の韻律的な手段によっても実現されうるのだから,休止も,音声上はゼロであるとはいえ,これらの手段と同列に位置づけるのが妥当だろう.
また,通常の発話では一語一語の間に休止を入れているわけではないが,潜在的にはどの語境界(場合によっては形態素境界)にも休止を置くことができるので,語 (word) を同定する潜在的機能をもっているともいえる.これは potential pause と呼ばれる.この概念は,語の内部で休止を置くことが絶対にできないということを含意するものではないが,語の内部よりは語の境界で休止するほうがずっと普通であることは間違いない.語(の境界)を定義するということは言語学上の最大の難問の1つだということを「#910. 語の定義がなぜ難しいか (1)」 ([2011-10-24-1]),「#911. 語の定義がなぜ難しいか (2)」 ([2011-10-25-1]),「#912. 語の定義がなぜ難しいか (3)」 ([2011-10-26-1]),「#921. 語の定義がなぜ難しいか (4)」 ([2011-11-04-1]),「#922. 語の定義がなぜ難しいか (5)」 ([2011-11-05-1]) の記事で扱ってきたが,休止という「言語らしくない」現象がこの問題に鍵を与えてくれるというのが興味深い.
休止がより長く,より意図的に置かれると,それは談話的・修辞的な意味を帯び始め,黙説や無言というカテゴリーへ移行するだろう.ここでは考察を割愛するが,改めて論じるべき休止のもう1つの言語学的な機能である.
なお,広い意味での休止は,文字通りの無音のもの (silent pause) だけでなく,ah や er などのつなぎ語 (filler) として実現される有音の休止 (filled pause) も含みうる.filled pause は,上述の構造的な機能 (juncture pause) からは少なくとも部分的に独立しており,もっぱら躊躇を示すので,区別して hesitation pause と呼ぶこともある.
・ 佐藤 武義(編著) 『展望 現代の日本語』 白帝社,1996年.
・ Crystal, David, ed. A Dictionary of Linguistics and Phonetics. 6th ed. Malden, MA: Blackwell, 2008. 295--96.
「#1890. 歳とともに言葉遣いは変わる」 ([2014-06-30-1]) の記事で,age-grading という社会言語学上の概念と用語を紹介した.言語変化の実証的研究において,age-grading の可能性は常に念頭においておかなければならない.というのは,観察者が,現在起こっている歴史的な(したがって単発の)言語変化とであると思い込んでいた現象が,実際には毎世代繰り返されている age-grading にすぎなかったということがあり得るからだ.逆に,毎世代繰り返される age-grading と信じている現象が,実際にはその時代に特有の一回限りの言語変化であるかもしれない.
では,観察中の言語現象が真正の言語変化なのか age-grading なのかを見分けるには,どうすればよいのだろうか.現在進行中の言語変化を観察する方法論として,2種類の視点が知られている.apparent time と real time である.Trudgill の用語集より,それぞれ引用しよう.
apparent-time studies Studies of linguistic change which attempt to investigate language changes as they happen, not in real time (see real-time studies), but by comparing the speech of older speakers with that of younger speakers in a given community, and assuming that differences between them are due to changes currently taking place within the dialect of that community, with older speakers using older forms and younger speakers using newer forms. As pointed out by William Labov, who introduced both the term and the technique, it is important to be able to distinguish in this comparison of age-groups between ongoing language changes and differences that are due to age-grading (Trudgill 9--10)
real-time studies Studies of linguistic change which attempt to investigate language changes as they happen, not in apparent time by comparing the speech of older speakers with that of younger speakers in a given community, but in actual time, by investigating the speech of a particular community and then returning a number of years later to investigate how speech in this community has changed. In secular linguistics, two different techniques have been used in real-time studies. In the first, the same informants are used in the follow-up study as in the first study. In the second, different informants, who were too young to be included in the first study or who were not then born, are investigated in the follow-up study. One of the first linguists to use this technique was Anders Steinsholt, who carried out dialect research in the southern Norwegian community of Hedrum, near Larvik, in the late 1930s, and then returned to carry out similar research in the late 1960s. (Trudgill 109)
apparent-time studies は,通時軸の一断面において世代差の言語使用を比較対照することで,現在進行中の言語変化を間接的に突き止めようとする方法である.現在という1点のみに立って調査できる方法として簡便ではあるが,明らかになった世代差が,果たして真正の言語変化なのか age-grading なのか,別の方法で(通常は real-time studies によって)見極める必要がある.
一方,real-time studies は,通時軸上の複数の点において調査する必要があり,その分実際上の手間はかかるが,真正の言語変化か age-grading かを見分けるのに必要なデータを生で入手することができるという利点がある.
理論的,実際的な観点からは,言語変化を調査する際には両方法を組み合わせるのが妥当な解決策となることが多い.結局のところ,共時的な調査を常に続け,調査結果をデータベースに積み重ねて行くことが肝心なのだろう.同じ理由で,定期的に共時的コーパスを作成し続けていくことも,歴史言語学者にとって重要な課題である.
apparent time と real time については「#919. Asia の発音」 ([2011-11-02-1]) でも触れたので,参照を.
・ Trudgill, Peter. A Glossary of Sociolinguistics. Oxford: Oxford University Press, 2003.
「#1888. 英語の性を自然性と呼ぶことについて」 ([2014-06-28-1]) に引き続き,自然性 (grammatical gender) という用語について.その記事で参照した Curzan によれば,英語史上で初期中英語期に起こった性の変化は「文法性から自然性へ」の変化としばしば言及されるが,この自然性 (natural gender) という用語はあまりにナイーヴではないかという.自然性とは,素直に解釈すれば,語の指示対象の生物学的な性ということになるが,実際には中英語,近代英語,現代英語を通じて,語には社会的な性 (social gender) が暗に付与され,その含意をもって用いられてきた.その意味で,文法性により置き換えられた英語の性は,自然性などではなく,社会的な性が読み込まれた語彙・意味上の性であると論じることができるかもしれない.
Curzan (574) は,この議論を踏まえた上で,英語の性をあえて "natural gender" と呼び続けることは可能だと指摘している.
Nevalainen--Raumolin-Brunberg . . . refer to the English gender system as notional gender in an attempt to move away from the misconceptions bound up with the description natural gender. But it is possible to retain the description natural gender with the understanding that its definition rests not purely on biological sex but instead on social concepts of sex and gender, and the flexibility in reference that this system allows speakers is natural and highly patterned.
Curzan のこの呼び続けの提案には一種の皮肉も混じっているのではないかと穿ってみるが,いずれにせよこれは言語における性の起源について考えさせてくれる意見ではある.社会には男性・女性の各性に関する期待や偏見が存在している.これは,社会の人間観や世界観の現れの一部としての gender 観としてとらえることができる.この gender 観が,強く言語的に反映され固定化するに至ると,それは語彙・意味,統語,形態などの諸部門に及ぶ広範な文法性の体系として確立する.文法性の体系が言語内にいったん確立すると,たとえ後世の社会でそれを生み出した母体である gender 観が薄まったとしても,惰性により末永く生き続けるかもしれない.
英語では,主として形態論の再編というきわめて形式的な契機により,印欧祖語以来伝統的に引き継いできた文法性の体系が,初期中英語期に解体した.しかし,その直後から,再び新しい gender 観の創造と発展のサイクルが回り出したともいえるのではないか.以前の文法性の体系が示したほどの一貫性や盤石性はないが,個々の擬人性 (personification) の例,語彙・意味上の性の含意の例,性の一致の例などを寄せ集めれば,中英語,近代英語,現代英語にも社会的な性格を帯びた性が埋め込まれていることが分かってきそうだ.
英語史における古い文法性と,それが解体した後に生じた新しい性との間には,案外,大きな違いはないのかもしれない.少なくとも性の誕生と発展のプロセスという観点からみると,むしろ類似しているのかもしれない.
・ Curzan, Anne. "Gender Categories in Early English Grammars: Their Message in the Modern Grammarian." Gender in Grammar and Cognition. Ed. Barbara Unterbeck et al. Berlin: Mouton de Gruyter, 2000. 561--76.
人の言葉遣いは,一生の中でも変化する.世の中の言葉遣いが変化すれば個人もそれに応じて変化するということは,誰しも私的に体験している通りである.新語や死語などの語彙の盛衰はいうに及ばず,発音,語法,文法の変化にも気づかないうちに応じている.生成理論などでは,個人の文法は一度習得されると生涯固定され,文法変化は次世代の子供による異分析を通じてのみ起こりうると考えられているが,実際の言語運用においては,社会で進行している言語変化は,確かに個人の言語に反映されている.世の中で通時的に言語変化が進んでいるのであれば,同じタイミングで通時的に生きている話者がそれを受容し,自らの言葉遣いに反映するというのは,自然の成り行きだろう.
しかし,上記の意味とは異なる意味で,「歳とともに言葉遣いは変わる」ことがある.例えば,世の中で通時的に起こっている言語変化とは直接には関係せずに,歳とともに使用語彙が変化するということは,みな経験があるだろう.幼児期には幼児期に特有の話し方が,修学期には修学期を特徴づける言葉遣いが,社会人になれば社会人らしい表現が,中高年になれば中高年にふさわしいものの言い方がある.個人は,歳とともにその年代にふさわしい言葉遣いを身につけてゆく.このパターンは,世の中の通時的な言語変化に順応して生涯のなかで言葉遣いを変化させてゆくのと異なり,通常,毎世代繰り返されるものであり,成長とともに起こる変化である.これを社会言語学では age-grading と呼んでいる.この概念と用語について,2点引用しよう.
age-grading A phenomenon in which speakers in a community gradually alter their speech habits as they get older, and where this change is repeated in every generation. It has been shown, for example, that in some speech communities it is normal for speakers to modify their language in the direction of the acrolect as they approach middle-age, and then to revert to less prestigious speech patterns after they reach retirement age. Age-grading is something that has to be checked for in apparent-time studies of linguistic change to ensure that false conclusions are not being drawn from linguistic differences between generations. (Trudgill 6)
. . . it is a well attested fact that particularly young speakers use specific linguistic features as identity markers, but give them up in later life. That is, instead of keeping their way of speaking as they grow older, thereby slowly replacing the variants used by the speakers of the previous generations, they themselves grow out of their earlier way of speaking. (Schendl 75)
Wardhaugh (200-01) に述べられているカナダ英語における age-grading の例を挙げよう.カナダの Ontario 南部と Toronto では,子供たちはアルファベットの最後の文字を,アメリカ発の未就学児向けのテレビ番組の影響で "zee" と発音するが,成人に達すると "zed" へとカナダ化する.これは何世代にもわたって繰り返されており,典型的な age-grading の例といえる.
また,小学生の言語は,何世紀ものあいだ受け継がれてきた保守的な形態に満ちていると一般に言われる.古くから伝わる数え方や遊び用語などが連綿と生き続けているのである.また,青年期には自分の世代と数歳上の先輩たちの世代との差別化をはかり,革新的な言葉遣いを生み出す傾向が,いつの時代にも見られる.成人期になると,仕事上の目的,また "linguistic market-place" の圧力のもとで,多かれ少なかれ標準的な形態を用いる傾向が生じるともいわれる (Hudson 14--16) .このように,年代別の言語的振る舞いは,時代に関わらずある種の傾向を示す.
東 (91--92) より,「#1529. なぜ女性は言語的に保守的なのか (3)」 ([2013-07-04-1]) で簡単に触れた age-grading について引用する.
さまざまな社会で,年齢と言語のバリエーションの関係が研究されているが,おもしろい発見の1つは,どの社会階級のグループについてもいえるのだが,思春期(あるいはもう少し若い)年代の若者は社会的に低くみられているバリエーションを大人よりも頻繁に好んで使う傾向があるということであり,これは covert prestige (潜在的権威)と呼ばれている.〔中略〕別な言い方をすれば,年齢が上がるにつれて,社会的に低いと考えられている文法使用は少なくなっていくということになる(これは age grading とよばれている).
各年齢層には社会的にその層にふさわしいと考えられている振る舞いが期待され,人々は概ねそれに従って社会生活を営んでいる.この振る舞いのなかには,当然,言葉遣いも含まれており,これが age-grading の駆動力となっているのだろう.
関連して,「#866. 話者の意識に通時的な次元はあるか?」 ([2011-09-10-1]) も参照.
・ Trudgill, Peter. A Glossary of Sociolinguistics. Oxford: Oxford University Press, 2003.
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
・ Schendl, Herbert. Historical Linguistics. Oxford: OUP, 2001.
・ Hudson, R. A. Sociolinguistics. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1996.
・ 東 照二 『社会言語学入門 改訂版』,研究社,2009年.
昨日の記事「#1887. 言語における性を考える際の4つの視点」 ([2014-06-27-1]) で,英語史における「文法性から自然性への変化」を考える際に関与するのは,grammatical gender, lexical gender, referential gender の3種であると述べた.しかし,これは正確な言い方ではないかもしれない.そこには social gender もしっかりと関与している,という批判を受けるかもしれない.Curzan は,英語史で前提とされている「文法性から自然性への変化」という謂いの不正確さを指摘している.
自然性 (natural gender) という用語が通常意味しているのは,語の性は,それが指示している対象の生物学的な性 (biological sex) と一致するということである.例えば,girl という語は人の女性を指示対象とするので,語としての性も feminine であり,father という語は人の男性を指示対象とするので,語としての性も masculine となる,といった具合である.また,book の指示対象は男性でも女性でもないので,語としての性は neuter であり,person の指示対象は男女いずれを指すかについて中立的なので,語としては common gender といわれる.このように,自然性の考え方は単純であり,一見すると問題はないように思われる.昨日導入した用語を使えば,自然性とは,referential gender がそのまま lexical gender に反映されたものと言い換えることができそうだ.
しかし,Curzan は「自然性」のこのような短絡的なとらえ方に疑問を呈している.Curzan は,Joschua Poole, William Bullokar, Alexander Gil, Ben Jonson など初期近代英語の文法家たちの著作には,擬人性への言及が多いことを指摘している.例えば,Jonson は,1640年の The English Grammar で,Angels, Men, Starres, Moneth's, Winds, Planets は男性とし,I'lands, Countries, Cities, ship は女性とした.また,Horses, Dogges は典型的に男性,Eagles, Hawkess などの Fowles は典型的に女性とした (Curzan 566) .このような擬人性は当然ながら純粋な自然性とは質の異なる性であり,当時社会的に共有されていたある種の世界観,先入観,性差を反映しているように思われる.換言すれば,これらの擬人性の例は,当時の social gender がそのまま lexical gender に反映されたものではないか.
上の議論を踏まえると,近代英語期には確立していたとされるいわゆる「自然性」は,実際には (1) 伝統的な理解通り,referential gender (biological sex) がそのまま lexical gender に反映されたものと,(2) social gender が lexical gender に反映されたもの,の2種類の gender が融合したもの,言うなれば "lexical gender based on referential and social genders" ではないか.この長い言い回しを避けるためのショートカットとして「自然性」あるいは "natural gender" と呼ぶのであれば,それはそれでよいかもしれないが,伝統的に理解されている「自然性」あるいは "natural gender" とは内容が大きく異なっていることには注意したい.
Curzan (570--71) の文章を引用する.
The Early Modern English gender system has traditionally been treated as biologically "natural", which it is in many respects: male human beings are of the masculine gender, females of the feminine, and most inanimates of the neuter. But these early grammarians explicitly describe how the constraints of the natural gender system can be broken by the use of the masculine or feminine for certain inanimate nouns. Their categories construct the masculine as representing the "male sex and that of the male kind" and the feminine as the "female sex and that of the female kind", and clearly various inanimates fall into these gendered "kinds". Personification, residual confusion, and classical allegory are not sufficient explanations, as many scholars now recognize in discussions of similar fluctuation in the Modern English gender system. An alternative explanation is that what the early grammarians label "kind" is synonymous with what today is labeled "gender"; in other words, "kind" refers to the socially constructed attributes assigned to a given sex.
この議論に基づくならば,英語史における性の変化の潮流は,より正確には,「grammatical gender から natural gender へ」ではなく「grammatical gender から lexical gender based on referential and social gender へ」ということになるだろうか.
英語における擬人性については,関連して「#1517. 擬人性」 ([2013-06-22-1]),「#1028. なぜ国名が女性とみなされてきたのか」 ([2012-02-19-1]),「#890. 人工頭脳系 acronym は女性名が多い?」 ([2011-10-04-1]),「#852. 船や国名を受ける代名詞 she (1)」 ([2011-08-27-1]) 及び「#853. 船や国名を受ける代名詞 she (2)」 ([2011-08-28-1]),「#854. 船や国名を受ける代名詞 she (3)」 ([2011-08-29-1]) も参照.
・ Curzan, Anne. "Gender Categories in Early English Grammars: Their Message in the Modern Grammarian." Gender in Grammar and Cognition. Ed. Barbara Unterbeck et al. Berlin: Mouton de Gruyter, 2000. 561--76.
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