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pchron - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-11-21 08:03

2022-07-05 Tue

#4817. standard の語源 [etymology][latin][french][terminology][oed][standardisation][pchron]

 近刊書,高田 博行・田中 牧郎・堀田 隆一(編著)『言語の標準化を考える --- 日中英独仏「対照言語史」の試み』 大修館,2022年の紹介と関連して,ここしばらくの間,言語の標準化 (standardisation) について議論する機会が多くなってきている.しかし,そもそも standard の語源は何なのか.これまで hellog で取り上げてきたことがなかったので,今回注目してみたい.
 OED で standard, n., adj., and int. を引いてみると,語形欄,語源欄,語の比較言語学的事実,そして語義記述に至るまで詳細な情報が与えられていることに圧倒される.これを読み解くだけでも一苦労だ.日々英語という言語と格闘している OED 編者たちの,この語への思い入れの強さが,ひしひしと伝わってくる.彼らにとって standard は様々な意味で「重い」単語なのだろう.  *
 standard は古仏語からの早い借用語で,英語での初出は12世紀半ばのことである.中英語の最初期の文献とされる The Peterborough Chronicle (pchron) の The Final Continuation より,1138年の記述のなかで「軍旗」の意味で初出する.

?a1160 Anglo-Saxon Chron. (Laud) (Peterborough contin.) anno 1138 Him [sc. the king of Scotland] com togænes Willelm eorl of Albamar..& to [read te] other æuez men mid fæu men & fuhten wid heom & flemden þe king æt te Standard.


 古仏語/アングロノルマン語の estandart, standarde を借用したものということだが,このフランス単語自体の語源に諸説あり,事情は複雑なようである.OED の語源欄より引用する.

Origin: A borrowing from French. Etymons: French standarde, estandart.
Etymology: < Anglo-Norman standarde, Anglo-Norman and Old French estandart, Old French estendart (Middle French estandart, estendart, French étendard) military flag or banner, also as a (fortified) rallying point in battle (c1100), (figuratively) person worth following (c1170), upright post (a1240), large candle (a1339, only in Anglo-Norman), of uncertain origin, probably either (a) < a West Germanic compound with the literal sense 'something that stands firm' < the Germanic base of STAND v. + the Germanic base of HARD adv., or (b) < classical Latin extendere to stretch out (see EXTEND v.), or (c) < a Romance reflex of classical Latin stant-, stāns, present participle of stāre to stand (see STAND v.) + Old French -ard -ARD suffix.


 3つの語源説が紹介されているが,(a) 説をとれば,西ゲルマン語の stand + hard がフランス語に入り,これが後に改めて英語に入ったということになる.また,原義の観点からいえば「直立しているもの」か「伸びているもの」かという2つの語源説があることになる.

Referrer (Inside): [2022-07-06-1]

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2021-11-06 Sat

#4576. The Anglo-Saxon ChronicleThe Anglo-Saxon Chronicles [anglo-saxon_chronicle][pchron][manuscript][textual_transmission][englishes][comparative_linguistics][family_tree]

 日本語で『アングロサクソン年代記』と訳されている古英語テキストの英題は The Anglo-Saxon Chronicle である.しかし,同テキストには様々なヴァージョンがあり,複数形で The Anglo-Saxon Chronicles と称すべきではないかという議論がある.『アングロサクソン年代記』を巡る単複問題である.これはテキストの系統図 (stemma) をどのように解釈するのかという問題でもある.
 「#4573. Peterborough Chronicle のテキストの後半における文体や言語の変容」 ([2021-11-03-1]) で参照した Watts (59--60) は,明らかに複数形論者だ.

   The Anglo-Saxon Chronicles are a unique set of manuscripts from scriptoria in different parts of the country, written in Anglo-Saxon, documenting events from the birth of Christ (or from Julius Caesar's abortive attempt to conquer Britain) to the time at which the scribe is entering his annal, which is generally not the immediate present of making the entry. Paleographical evidence indicates that scribes may not always have made the entries immediately after the year that they were recording, but may have chosen to write up entries for a set of years. . . .
   There is some dispute over whether it is more appropriate to refer to the ASC in the singular or to use the plural form. Those in favour of just one chronicle base their argument on the fact that successive copies were made from one master copy, and . . . there is undoubtedly more than a grain of truth in this argument. However, some scholars have found it safer and, in view of the complexity of the existing manuscript situation, more expedient to consider the manuscripts that have survived as being, at least in part, independent versions. Many of the chronicles make use of sources other than the original Alfredian Chronicle . . . , and there are clear cases of changes having been made to chronicle entries at later dates in history, often for propaganda purposes.


 これは複数のヴァージョンを互いに "independent" とみなすべきかどうかという微妙な判断の問題である.客観的な事実が提供されていたとしても,ある程度は主観的な判断に依存せざるを得ない問題でもある.
 この議論を(比較)言語学の領域に引きつければ,"English" なのか "Englishes" なのかも,ほぼ平行的な問題と考えてよいだろう.

 ・ Watts, Richard J. Language Myths and the History of English. Oxford: OUP, 2011.

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2021-11-03 Wed

#4573. Peterborough Chronicle のテキストの後半における文体や言語の変容 [anglo-saxon_chronicle][pchron][pragmatics][history]

 英語史研究において,古英語の The Anglo-Saxon Chronicle の伝統を引くテキストの中でも The Peterborough Chronicle (pchron) というヴァージョンの存在意義は大きい.古英語の最も遅い時代(実際,後半部分は中英語にさしかかっている)のテキストであるということ,そして後半部分に書かれている英文は必ずしも後期ウェストサクソン標準語に縛られておらず,同時代の英語を表わしているという点で,言語変化の著しかった当時の言語を反映しているとされる希少なテキストであるということが,その理由である.詳しくは「#721. The Peterborough Chronicle の英語史研究上の価値」 ([2011-04-18-1]),「#722. The Peterborough Chronicle の統語論の革新性と保守性」 ([2011-04-19-1]) を参照されたい.
 実際に Peterborough Chronicle を読んでいると,いわゆる "The First Continuation" と "The Second Continuation" と呼ばれる全体の後半部分については,前半部分である "The Copied Annals" と比べて,英語のモードがガラッと変わったという印象を強く受ける.写本上の筆跡,文体,英語の体系が目に見えて変わるのだが,それだけではない.記述されている内容や,書き手のテキストに対する関心や態度という根幹部分までもが大きく変化している.
 このギャップと違和感の原因について,Watt が丁寧に議論している.Watt (80) は,Peterborough Chronicle の "The First Continuation" と "The Second Continuation" をとりわけ念頭に置きつつ,中英語への過渡期にあって,古英語期から続く The Anglo-Saxon Chronicle の伝統が変容したことを,テキストに観察される次の事実に基づいて指摘している.

 - longer and less easily memorised annals
 - a move towards more narrative structure with the increasing use of metapragmatic linguistic expressions to effect narrative evaluation: that is, an increase in inscribed orality ending, as we have seen, in the narrator-centred history of the Second Continuation
 - an increase, particularly in the Peterborough Chronicle, in the focus on local rather than national topics
 - an empathetic, critical narrative persona, particularly in the First and Second Continuations of the Peterborough Chronicle
 - an overt sympathy for common people, especially in the Second Continuation


 原文を読んだことのある者にとって,たいへん納得できる指摘ではないだろうか.ここで述べられているのは,2つの "The Continuations" が,その前に置かれている "The Copied Annals" とは異なり,国の公式な記録であることをやめ,地域の個人的な記録へと変容しているということだ.これ以降の中英語期には,国としての歴史は原則として大陸諸国と同様にラテン語で書かれることになり,英語では書かれなくなるのだが,公式言語としての英語の衰退が,このテキスト後半部分から匂い立つ私的な性格に予見されているように思われる."The Continuations" は形式的には前時代からの惰性として英語で書かれており,一見すると継続性を認めることができそうだが,その内容も文体も言語も本質的に私的な方向へ変容しており,むしろそこに見られるのは断絶であると Watts は主張する.
 上で「私的」という言い方をしたが,正確にいえば Watts (58) が持ち出しているのは,「#230. 話しことばと書きことばの対立は絶対的か?」 ([2009-12-13-1]) で紹介した Koch and Oesterreicher の理論でいうところの「近いことば」 (Sprache der Nähe; immediacy) である.「遠いことば」で書かれていた古英語の The Anglo-Saxon Chronicle が,The Peterborough Chronicle の後半分にあっては「近いことば」に変容している,というのが Watts の主張である.

 ・ Watts, Richard J. Language Myths and the History of English. Oxford: OUP, 2011.
 ・ Koch, Peter and Wulf Oesterreicher. "Sprache der Nähe -- Sprache der Distanz: Mündlichkeit und Schriftlichkeit im Spannungsfeld von Sprachtheorie und Sprachgeschichte." Romanistisches Jahrbuch 36 (1985): 15--43.

Referrer (Inside): [2021-11-06-1]

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2019-07-25 Thu

#3741. 中英語の不定詞マーカー forto [infinitive][preposition][grammaticalisation][pchron][caxton]

 現代英語で不定詞マーカーといえば to である.別に原形不定詞というものもあるが,こちらはゼロのマーカーととらえられる.to 不定詞は原形不定詞と並んで古英語から用いられてはいたが,一気に拡大したのは後期古英語から初期中英語にかけての時期である (Mustanoja 514) .
 中英語期までに to は完全に文法化 (grammaticalisation) を成し遂げ,形態・機能ともに弱化したこともあり,それを補強するかのように前置詞 for を前置した2音節の forto/for to が新たな不定詞マーカーとして用いられるようになった.MEDfortō adv. & particle (with infinitive) によると,初例は Peterborough Chronicle からであり,中英語の最初期から使用されていたことがわかる.

a1131 Peterb.Chron. (LdMisc 636) an.1127: Se kyng hit dide for to hauene sibbe of se earl of Angeow.


 この新しい不定詞マーカー forto はかなりの頻度で用いらるようになったが,結局は to と同様に弱化の餌食となっていった.衰退の時期は14世紀から15世紀とみられ,Elizabeth 朝までにはほぼ廃用となった(非標準変種では現在も使われている).ただし,中英語期を通じて両者の揺れは観察され,Caxton の Morte Darthur では,時代錯誤的に forto のほうが優勢なくらいだった.
 付け加えれば,中英語期には toforto に比べてずっと稀ではあったが,単体の fortill, for till, at といった別の不定詞マーカーもあった (Mustanoja 515) .現代と異なり,不定詞の形は様々だったのである.

 ・ Mustanoja, T. F. A Middle English Syntax. Helsinki: Société Néophilologique, 1960.

Referrer (Inside): [2019-08-01-1]

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2017-12-29 Fri

#3168. 12月,December,師走 [calendar][etymology][numeral][pchron][word_family][month]

 いよいよ本年も終わりに近づいてきているので,この辺りで December (12月)の語源の話題を提供しよう.
 この英単語は,ラテン語で decem (10)を第1要素として作られた合成語 *decemmembris (< *decem-mēnsris < decem + mēnsis) に遡ると考えられる.このラテン単語がフランス語を経由して英語に入ってきたのは中英語の最初期のことで,Peterborough Chronicle の1122年の記述に初出している.古英語では,この月は se ǣrra ġeōla (the earlier Yule) と称されていた.
 decem の印欧語根は *dekm̥ であり,英語本来語としては ten, -teen, -ty, tithe (cf. 「#3105. tithetenth」 ([2017-10-27-1])) 等が関係するほか,実は hundred (そしてラテン語経由で cent その他)も,さらには thousand も関係する.この問題については,「#100. hundred と印欧語比較言語学」 ([2009-08-05-1]),「#1150. centumsatem」,「#2240. thousand は "swelling hundred"」 ([2015-06-15-1]),「#2285. hundred は "great ten"」 ([2015-07-30-1]),「#2286. 古英語の hundseofontig (seventy), hundeahtatig (eighty), etc.」 ([2015-07-31-1]),「#2304. 古英語の hundseofontig (seventy), hundeahtatig (eighty), etc. (2)」 ([2015-08-18-1]) を参照されたい.
 さて,この印欧語根 *dekm̥ を受け継ぐラテン語からの借用語を挙げれば,decemvir (十大官の一人), decimal (10進法の), decimate (多くの人を殺す), decuple (10倍の), decussate (十字形に交わる), denarius (デナリウス), denier (ドゥニエ貨), dicker (10個の一組), dime (ダイム,10セント硬貨), Dixie (飯ごう), dozen (ダース,12個), duodecimal (12進法の).ギリシア語からは,dean (学部長), decade (10年), decanal (学部長の), dodecagon (12角形), doyen (古参者), Pentecost (ペンテコステ,五旬祭)が英語に入っている.
 日本語で陰暦12月を表わす「師走」(しわす)の語源は未詳とされる.よく知られている民間語源によれば「師馳す」,つまり師匠(の僧)が経をあげるために走り回る月であるという.この解釈は平安末期の『色葉字類抄』にすでに「俗に師馳と云ふ,釈有り」として知られていた.他の説としては,四季の果てる「四極」(しはつ),すべてをなし終える「為果つ」(しはつ)や「年果つ」(としはつ)に基づくとするものなどがある.
 月名シリーズの他の記事も参照.「#2910. 月名の由来」 ([2017-04-15-1]),「#2890. 3月,March,弥生」 ([2017-03-26-1]),「#2896. 4月,April,卯月」 ([2017-04-01-1]),「#2939. 5月,May,皐月」 ([2017-05-14-1]),「#2983. 6月,June,水無月」 ([2017-06-27-1]),「#3000. 7月,July,文月」 ([2017-07-14-1]),「#3046. 8月,August,葉月」 ([2017-08-29-1]),「#3073. 9月,September,長月」 ([2017-09-25-1]),「#3103. 10月,October,神無月」 ([2017-10-25-1]),「#3167. 11月,November,霜月」 ([2017-12-28-1]) .

Referrer (Inside): [2018-02-28-1] [2018-01-17-1]

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2017-04-17 Mon

#2912. AElfric's Life of King Oswald [oe][literature][popular_passage][pchron][oe_text]

 Ælfric の説教集の第3弾とされる The Lives of the Saints は,998年までに書かれたとされる.そのなかから Life of King Oswald の冒頭部分をサンプル・テキストとして取り上げよう.King Oswald は633--641年にノーサンブリアを治めた王で,その子孫とともに十字架を篤く崇拝した者として知られている.ルーン文字の刻まれたノーサンブリアの有名な Ruthwell Cross も,そのような十字架崇拝の伝統の所産だろう.
 Ælfric の説教集は多くの写本で現存しているが,以下の Smith 版テキストは,MS London, British Library Cotton Julius E.vii のものである.現代英語訳も付けて示す (Smith 132--33) .

Æfter ðan ðe Augustīnus tō Engla lande becōm, wæs sum æðele cyning, Oswold gehāten, on Norðhumbra lande, gelȳfed swyþe on God. Sē fērde on his iugoðe fram his frēondum and māgum tō Scotlande on sǣ, and þǣr sōna wearð gefullod, and his gefēran samod þe mid him sīðedon. Betwux þām wearð ofslagen Eadwine his ēam, Norðhumbra cynincg, on Crīst gelȳfed, fram Brytta cyninge, Ceadwalla gecīged, and twēgen his æftergengan binnan twām gēarum; and se Ceadwalla slōh and tō sceame tūcode þā Norðhumbran lēode æfter heora hlāfordes fylle, oð þæt Oswold se ēadiga his yfelnysse ādwǣscte. Oswold him cōm tō, and him cēnlīce wið feaht mid lȳtlum werode, ac his gelēafa hine getrymde, and Crīst gefylste tō his fēonda slege. Oswold þā ærǣrde āne rōde sōna Gode tō wurðmynte, ǣr þan þe hē tō ðām gewinne cōme, and clypode tō his gefērum:`Uton feallan tō ðǣre rōde, and þone Ælmihtigan biddan þæt hē ūs āhredde wið þone mōdigan fēond þe ūs āfyllan wile. God sylf wāt geare þæt wē winnað rihtlīce wið þysne rēðan cyning tō āhreddenne ūre lēode.' Hī fēollon þā ealle mid Oswolde cyninge on gebedum; and syþþan on ǣrne mergen ēodon tō þām gefeohte, and gewunnon þǣr sige, swā swā se Eallwealdend heom ūðe for Oswoldes gelēafan; and ālēdon heora fȳnd, þone mōdigan Cedwallan mid his micclan werode, þe wēnde þaet him ne mihte nān werod wiðstandan.


After Augustine came to England, there was a certain noble king, called Oswald, in the land of the Northumbrians, who believed very much in God. He travelled in his youth from his friends and kinsmen to Dalriada ("Scotland in sea"), and there at once was baptised, and his companions also who travelled with him. meanwhile his uncle Edwin, king of the Northumbrians, who believed in Christ, was slain by the king of the Britons, named Ceadwalla, as were two of his successors within two years; and that Ceadwalla slew and humiliated the Northumbrian people after the death of their lord, until Oswald the blessed put an end to his evil-doing. Oswald came to him, and fought with him boldly with a small troop, but his faith strengthened him, and Christ assisted in the slaying of his enemies. Oswald then immediately raised up a cross in honour of God, before he came to the battle, and called to his companions: "Let us kneel to the cross, and pray to the Almighty that he rid us from the proud enemy who wishes to destroy us. God himself knows well that we strive rightly against this cruel king in order to redeem our people." They then all knelt with King Oswald in prayers; and then early on the morrow they went to the fight, and gained victory there, just as the All-powerful granted them because of Oswald's faith; and they laid low their enemies, the proud Ceadwalla with his great troop, who believed that no troop could withstand him.


・ Smith, Jeremy J. Old English: A Linguistic Introduction. Cambridge: CUP, 2009.

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2017-04-14 Fri

#2909. Peterborough Chronicle の Early Britain の記述 [oe][literature][popular_passage][pchron][oe_text][pictish]

 何回目かになる,古英語のテキストとその現代英語訳を挙げるシリーズ(oe_text) .今回は,The Anglo-Saxon Chronicle のE写本,いわゆる Peterborough Chronicle からのテキストで,ブリテン島の地理,民族,言語,歴史が述べられている部分を抜粋する.初学者用に綴字の標準化された市川・松浪版 (86--89) より,現代英語訳も合わせて示そう.

Brytene īeȝland is eahta hund mīla lang, and twā hund mīla brād. And hēr sind on þȳs īeȝlande fīf ȝeþēodu: Englisc, and Brytwilisc, and Scyttisc, and Pyhtisc, and Bōclæden. Ǣrest wǣron būend þisses landes Bryttas; þā cōmon of Armenia, and ȝesǣton sūðewearde Brytene ǣrest. Þā ȝelamp hit þæt Pyhtas cōmon sūþan of Scithian, mid langum scipum, nā manigum. And þā cōmon ǣrest on Norþ-Ibernia ūp, and þǣr bǣdon Scottas þæt hīe ðǣr mōsten wunian. Ac hīe noldon him līefan, for ðǣm hīe cwǣdon þæt hīe ne mihten ealle ætgædere ȝewunian þǣr. And þā cwǣdon þā Scottas, `Wē ēow magon þēah hwæðere rǣd ȝelǣran, wē witon ōþer īeȝland hēr bē ēastan, þǣr ȝē magon eardian ȝif ȝē willað, and ȝif hwā ēow wiðstent, wē ēow fultumiað þæt ȝē hit mæȝen ȝegān.'
   ðā fērdon þā Pyhtas, and ȝefērdon þis land norþanweard, and sūþanweard hit hæfdon Bryttas, swā wē ǣr cwǣdon. And þā Pyhtas him ābǣdon wīf æt Scottas, on þā ȝerād þæt hīe ȝecuren hiera cynecynn ā on þā wīfhealfe. Þæt hīe hēoldon swā lange siððan. And þā ȝelamp hit ymbe ȝēara ryne þæt Scotta sum dǣl ȝewāt of Ibernian on Brytene, and þæs landes sumne dǣl ȝeēodon. And wæs hiera heretoga Reoda ȝehāten, from þǣm hie sind ȝenemnode Dǣl Reodi.

The island of Britain is eight hundred miles long, and two hundred miles broad. And here in this island are five languages: English, British, Pictish, and Latin. At first the inhabitants of this island were Britons; they came from Armenia, and first occupied Britain in the south (i.e. the southern part of Britain). Then it happened that the Picts came from the south from Scythia, with warships, not many. And they first landed in North Ireland, and there begged the Scots that they might dwell there. But they (= the Scots) would not allow them, because they said that they could not live there all together. And then the Scots said, `We can, however, give you advice: we know another island to the east from here, where you can dwell, if you wish; and if anyone resists you, we will help you that you may conquer it.'
   Then the Picts went away, and conquered the northern part of this land, and the Britons had the southern part of it, as we have said before. And the Picts asked wives for them from the Scots, on the conditions that they should choose their royal line always on the female side. They kept it for a long time. And it happened then, in the course of years, that some portion of the Scots departed from Ireland to Britain, and conquered some part of the land, And their leader was called Reoda; from him they are named (the people) of Dal Rialda.


・ 市河 三喜,松浪 有 『古英語・中英語初歩』 研究社,1986年.

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2015-10-21 Wed

#2368. 古英語 sprecen からの r の消失 [phonetics][manuscript][scribe][pchron]

 現代英語の speak, speech は,それぞれ形態的には古英語の sprecan, sprǣc などに遡るが,歴史の過程で r が消失してきたことに気づく.現代ドイツ語の対応語 sprechen, Sprache にも r が含まれていることから分かるとおり,r を含むゲルマン祖語形が共通の起源である (PGmn *sprekan, *sprǣkjō) .
 OED や語源辞典で調べると,英語の語形における r の消失はすでに後期古英語から観察され,11世紀には一般的になった.一方で,古い r を有する形態は12世紀半ば以降に廃れていった.この r の消失は,OHG, MHG, MDu. の対応形においても稀に見いだされるようだが,英語内部での類例としては pang (< ME prange) が参照されているほどにすぎず,広く生じた音韻過程ではないことは明らかである.
 上の記述によると11--12世紀に新旧形の交代と共存がみられたことになるが,MED で旧形の sprēcen (v.) を引くと,挙げられている用例のほとんどが The Peterborough Chronicle からである.13世紀からの例も1つ挙げられているが,12世紀前半から半ばにかけて書かれた The Peterborough Chronicle が,r 形の常用を示す事実上最後のテキストとみなしてよいだろう.
 ちょうど最近 The Peterborough Chronicle の1123年を読んでいて,r を示す興味深い事例に出会った.Earle and Plummer 版からその箇所を引用する.

. . . se king rad in his der fald and se biscop Roger of Seres byrig on an half him. and se biscop Rotbert Bloet of Lincolne on oðer half him. 7 riden þær sp`r'ecende.


 Henry I が仲間たちと狩猟に出かけ,「おしゃべりをしながら」馬に乗ってるシーンである.引用の最後に現在分詞形として綴られている sp`r'ecende が問題の語形だが,写字生は最初 specende と綴り,その後に rp の前に挿入した形跡がある.r の挿入の位置についてはケアレスミスと考えてよいだろうが,興味深いのは,r をわざわざ挿入して,同テキスト内の他の sprecon などの形態と合わせていることである.
 この写字生の行動の動機を想像してみよう.おそらく写字生の話し言葉において,すでに r のない specen のような形態が普通だったのではないか.それで,思わず書き言葉上でも specende と綴ってしまった.しかし,文章語においては,当時までにすでに古めかしく,格式張った響きを帯びるようになった変異形 sprecen のほうがふさわしいと思い直し,r を挿入したのではないか.1121年以前のいわゆる "Copied Annals" 部を書写するなかで,この写字生は古英語の標準的な書き言葉で語を綴ることに慣れており,続く "First Continuation" の部分を書く際にも,規範性を引きずっていた形跡があちらこちらに見られる.写字生の r の挿入は,このような文脈のなかで捉える必要があるのではないか.
 もしこのシナリオが妥当だとすれば,sprecen から r が消失していった過程のみならず,12世紀前半の東中部方言において新旧各形の帯びていた register も垣間見られるということになる.

 ・ Earle, John and Charles Plummer, eds. Two of the Saxon Chronicles Parallel with Supplementary Extracts from the Others. London: OUP, 1892. 2 vols.

Referrer (Inside): [2016-10-20-1]

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2012-09-27 Thu

#1249. 中英語はクレオール語か? (2) [creole][me][old_norse][contact][historiography][pchron]

 [2012-09-01-1]の記事「#1223. 中英語はクレオール語か?」で,Bailey and Maroldt による(中)英語=クレオール語説に対する Görlach の激しい反論を概観した.中英語=クレオール説は,Bailey and Maroldt のみならず,Poussa などの複数の追随者を生み出してきた(論争の概括は,Brandy Ryan 氏によるこちらの論説を参照).
 Bailey and Maroldt 及び Poussa の論考に直接当たってみたが,両者ともに,あまりに大胆で理解不能の議論が目立つ.彼らは,何らかの理由で,英語をどうしても creolisation の産物に仕立て上げたいらしい.論文中の "creolisation" を "(strong) influence from another language" と読み替えれば大体通ることから,結局のところ,他言語からの影響の程度をどう見るか,それをどの術語を用いて表現するかという,定義に関わる問題に行き着くように思われる."influence" というより一般的な用語で満足せずに,"creolisation" という専門的な,そして loaded な用語を敢えて用いる必要と利点がどこにあるのか,まるで呑み込めない.
 この種の議論が話題を呼ぶのは,証拠不在の時代の(社会)言語学的状況をどのように再建し,英語史全体をどのように紡ぎ直すかという英語史記述に関わる大問題が提起されるからである.既存の見解に対する挑戦あるいは挑発であるという点で見物としては楽しいのだが,議論としては最初から破綻していると言わざるを得ない.
 例えば,Poussa は,古英語と古ノルド語との creole 説を唱えているが,その結論は以下の通りである.

It is argued that the fundamental changes which took place between standard literary OE and Chancery Standard English: loss of grammatical gender, extreme simplification of inflexions and borrowing of form-words and common lexical words, may be ascribed to a creolization with Old Scandinavian during the OE period. The Midland creole dialect could have stabilized as a spoken lingua franca in the reign of Knut. Its non-appearance in literature was due initially to the prestige of the OE literary standard. (84)


 Görlach が正当に議論しているように,文法性の消失と屈折の単純化は,古ノルド語の関与があり得る以前の時代からの自然な発達に端を発しており,古ノルド語との接触により加速されたことは確かだが,あくまで自然な路線の延長である.基本語彙の借用については,[2012-07-23-1]の記事「#1183. 古ノルド語の影響の正当な評価を目指して」で触れた問題が関わる.creolisation には基本語彙の置換が付きものであり,基本語彙が置換されれば,それは creolisation なのだ,という閉じた議論が前提とされているように思われる.Knut がリンガ・フランカとしての新生 creole を推奨したという議論も評価しがたいし,creole が文献に反映されなかった理由にも納得しかねる.文献量は確かに少ないが,The Peterborough Chronicle の Continuations のように,古英語から中英語への言語変化の連続性を示唆する証拠があるからだ.
 何よりも,クレオール語説について理解できないのは,通常,"creol(isation)" とはまるで異なった2言語間の関係について言われることなのではないか,という点である.古英語と古ノルド語のような系統的にも類型的にも類似した,方言ともいうべき言語同士が混じり合う場合には,creolisation とは何を意味するのか.creole や creolisation の研究において,より盤石な定義や特徴づけがなされない限り,その用語の濫用は,問題の言語接触の理解を損ねてしまうのではないか.

・ Görlach, Manfred. "Middle English --- a Creole?" Linguistics across Historical and Geographical Boundaries. Ed. D. Kastovsky and A. Szwedek. Berlin: Gruyter, 1986. 329--44.
 ・ Poussa, Patricia. "The Evolution of Early Standard English: The Creolization Hypothesis." Studia Anglica Posnaniensia 14 (1982): 69--85.
 ・ Bailey, Charles James N. and Karl Maroldt. "The French Lineage of English." Langues en contact --- Pidgins --- Creoles --- Languages in contact. Ed. Jürgen M. Meisel. Tübingen: Narr, 1977. 21--51.

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2011-12-22 Thu

#969. Mayster Nichol of Guldeuorde [onomastics][owl_and_nightingale][pchron][preposition]

 [2010-12-08-1]の記事「#590. last name はいつから義務的になったか」で,ノルマン征服以降,イングランドで名前に last name を付す慣習が発達したことを取り上げた.
 last name の典型は,of を伴って出身地などの地名を用いるものであり,その最も有名な初期の例の1つが,The Owl and the Nightingale の l. 191 に現われる(そして作者その人ではないかと疑われる) Mayster Nichol of Guldeuorde である.Atkins 版 (19) では次のような注記がある.

191. Maister Nichole of Guldeforde. The full designation of Nicholas is not without its interest, pointing as it does to certain changes characteristic of the 11th and 12th centuries. Under Norman influence the single personal names of the O.E. period had become supplemented by surnames denoting, amongst other things, place of birth. Thus in the later sections of the A. S. Chron. such names as Rotbert de Bælesne 81104), Willelm of Curboil (1123), Hugo of Mundford (1123) are found.


 固有人名に限るわけではないが,人を表わす名詞と地名とを結びつける of については,OED の "of", prep. 47.a. に説明がある.この of の本来の意味は「?出身の,?から来た」であり,古英語の an monn of ðǣre byriȝÐa men of Lunden byriȝ などに見られるが,11世紀には必ずしも出自を示すわけではなく「?に住む」という所属の意味へと変化していった.
 関連して,[2011-07-19-1]の記事「#813. 英語の人名の歴史」を参照.

 ・ Atkins, J. W. H., ed. The Owl and the Nightingale. New York: Russel & Russel, 1971. 1922.

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2011-12-01 Thu

#948. Be it never so humble, there's no place like home. (1) [proverb][negative][syntax][subjunctive][pchron]

 標記の文のような,譲歩を表わす特殊な表現が現代英語にある.前半部分が "however humble" あるいは "no matter how humble" ほどの意味に相当する,仮定法現在を用いた倒置表現だ.倒置を含まずに,ifthough を用いたり,仮定法過去を用いたりすることもある.OED の定義としては,"never" の語義4として以下のようにある.

never so, in conditional clauses, denoting an unlimited degree or amount.


 以下に,辞書やコーパスから例文を挙げてみよう.

 ・ She would not marry him, though he were never so rich.
 ・ Some vigorous effort, though it carried never so much danger, ought to be made.
 ・ Were the critic never so much in the wrong, the author will have contrived to put him in the right.
 ・ 'I am at home, and that is everything.' Be it never so gloomy --- is there still a sofa covered with black velvet?


 辞書では《古》とレーベルが貼られているし,BNCWeb で "be it never so" を検索するとヒットは7例のみである.いずれにせよ,頻度の高い表現ではない.
 倒置や仮定法を用いるということであれば,古い英語ではより多く用いられたに違いない.実際に中英語ではよく使われた表現で,MED, "never" 2 (b) には幾多の例が挙げられている.定義は以下の通り.


(b) ~ so, with adj. or adv.: to whatever degree; extremely; ~ so muchel (mirie, hard, wel, etc.), no matter how much, however much, etc.; also with noun: if he be ~ so mi fo, however great an enemy he may be to me;


 OED によると,この表現の初例は12世紀 Peterborough Chronicle の1086年の記事ということなので,相当に古い表現ではある.

Nan man ne dorste slean oðerne man, næfde he nævre swa mycel yfel ȝedon.


 中英語最初期から現代英語まで長く使われてきた統語的イディオムだが,なぜ上記の意味が生じてくるのか理屈がよく分からない.否定の never と譲歩が合わされば,「たとえ?でないとしても」と実際とは裏返しの意味になりそうなところである.

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2011-06-28 Tue

#792. she --- 最も頻度の高い語源不詳の語 [personal_pronoun][she][etymology][pchron][homonymic_clash]

 [2009-12-28-1]の記事「西暦2000年紀の英語流行語大賞」で見たとおり,American Dialect Society の選んだ西暦2000年紀のキーワードは she だった.12世紀半ばに初めて英語に現われ,2000年世紀の後期にかけて,語そのものばかりでなくその referent たる女性の存在感が世界的に増してきた事実を踏まえての受賞だろう.その英語での初出は The Peterborough Chronicle の1140年の記録部分で,scæ という綴字で現われる.この scæ の指示対象が,Henry I の娘で王位継承を巡って Stephen とやりあった,あの男勝りの Matilda であるのが何ともおもしろい.結局 Matilda は後に息子を Henry II としてイングランド王位につけることに成功し,事実上の Plantagenet 朝創始の立役者ともいえる,歴史的にも重要な scæ だったことになる.該当箇所を Earle and Plummer 版より引用.

Þer efter com þe kynges dohter Henries þe hefde ben Emperice in Alamanie. 7 nu wæs cuntesse in Angou. 7 com to Lundene 7 te Lundenissce folc hire wolde tæcen. 7 scæ fleh 7 for les þar micel.


 ところが,この she という語は,英語史では有名なことに,語源不詳である.[2010-03-02-1]の記事「現代英語の基本語彙100語の起源と割合」で she を古ノルド語からの借用語として触れたのだが,これは一つの説にすぎない.英語語彙のなかでは最も頻度の高い語源不詳の語といってよいだろう.
 提案されている各説ともに,理屈は複雑である.諸説の詳細はいずれ紹介したいと思うが,ここではある前提が共有されていることを指摘しておきたい.古英語の3人称女性単数代名詞 hēo やその異形は,中英語までに母音部を滑化させ,古英語の3人称男性単数代名詞 や3人称複数代名詞 hīe の諸発達形と同じ形態になってしまった.この同音異義衝突 ( homonymic clash ) の圧力は,起源のよく分からない she を含めた数々の異形が3人称女性単数代名詞のスロットに入り込む流れを促した.後の3人称複数代名詞 they の受容も,同音異義衝突によって始動した人称代名詞の再編成の結果として理解できる.
 she の起源を探る研究は,数々の異形の方言分布,初出年代,音声的特徴,類推作用などの関連知識を総動員しての超難関パズルである.hēo, hīe, sēo, sīo, hjō, sho, yo, ha, ho, ȝho, scæ, etc. これらの中からなぜ,どのようにして she が選択され,定着してきたのか.英語語源学の最大の難問の1つである.

 ・ Earle, John and Charles Plummer, eds. Two of the Saxon Chronicles Parallel with Supplementary Extracts from the Others. London: OUP, 1892. 2 vols.

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2011-04-20 Wed

#723. be nihtes [pchron][synthesis_to_analysis]

 中英語の形態論や統語論を扱う場合,英語史上のより大きな問題である「総合 (synthesis) から分析 (analysis)」 への類型変化を視野に入れていることが多い (see synthesis_to_analysis) .大まかに言えば,総合とは屈折に依存する性質を指し,分析とは語順や前置詞・助動詞の使用に依存する性質を指す.純粋に synthetic あるいは analytic な言語(の段階)はないとすると,マクロにみて,どの言語も synthesis と analysis を両端とする線上のどこか中間に位置づけられることになる.古英語から中英語にかけては,この中間点が analytic の方向へ大きく動いたものとしてとらえられる.一方,ミクロにみると,ある表現を観察するとき,その表現の内部に synthetic な手段と analytic な手段が混在していることに気づく.初期中英語から取られたその興味深い例の1つが,標題に掲げた be nihtes である.
 連日取り上げている,East Midland 方言で書かれた重要な初期中英語テキスト The Peterborough Chronicle の1137年の記述から,次のような例文を示そう(引用は Clark 版より;赤字は引用者;現代英語の拙訳つき).

Þa namen hi þa men þe hi wenden ðat ani god hefdeˈnˈ, bathe be nihtes 7 be dæies, . . . (year 1137, lines 17--19)

PDE translation: "Then they took the men that they thought had any property, both by night and by day, . . ."


 問題の箇所 be nihtes 7 be dæies で両名詞の -es 語尾は起源としては複数語尾ではなく単数属格語尾である.[2009-07-18-1]で話題にしたが,現代英語の once, twice, always, sometimes, nowadays, besides, else, needs などの /s/ 語尾も,起源は単数属格語尾である.古英語には「副詞的属格」 ( adverbial genitive ) と呼ばれる属格の用法があり,主に時間を表わす名詞に -es を付加して副詞相当語を作った.単独で副詞として機能したので,前置詞は必要なかったのである.古英語では,「夜に」は nihtes,「昼に」は dæges だった.ところが,中英語にかけて英語の分析的傾向が強まってくると,現代英語の "by night" や "by day" に相当する前置詞を用いた表現が現われてくる.このように言語類型の推移していた時期に,古英語的な総合性と近代英語的な分析性を兼ね備えた中英語的な混合形 be nihtes 7 be dæies が現われたのである.
 ちなみに,古英語の副詞的属格に由来する nights は現在でも特に《米略式》として用いられている.

 ・ Clark, Cecily, ed. The Peterborough Chronicle 1070-1154. 2nd ed. London: OUP, 1970.

Referrer (Inside): [2016-10-22-1] [2015-03-02-1]

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2011-04-19 Tue

#722. The Peterborough Chronicle の統語論の革新性と保守性 [word_order][syntax][synthesis_to_analysis][pchron]

 昨日の記事[2011-04-18-1]で,初期中英語テキスト The Peterborough Chronicle が英語史上の大変化を垣間見せてくれる貴重な資料であることを紹介した.それぞれ筆記した写字生こそ異なるが,The First Continuation と The Final Continuation のテキストを隔てる20年ほどの短期間に顕著な言語の違いが見られることから,当時,言語変化が激しく生じていたことを疑わざるを得ない.ことに語順において革新性が指摘されることが多い.編者 Clark によると,The Final Continuation の "modernity" は疑い得ないという.

The modernity of this language [The Final Continuation] appears also in its syntax. In studying the morphology we have already noted the great simplification of the case-system, in particular the disuse of the dative, and the corresponding adjustments in syntax, including a great increase in the use of analytic constructions. And Rothstein demonstrated how frequently certain constructions typical of Old English, such as inversion of subject and verb after an introductory adverbial phrase, are here abandoned in favour of word-order nearer to that of Modern English. (lxvi)


 しかし,昨日の書誌に挙げた Mitchell の研究によると,PChron の後半部分の言語の "modernity" は過大評価されているという.Mitchell は彼一流の緻密な語順タイプの場合分けにより,語順で見る限り,特に際だって modern である証拠は少ないと論じる.

The word-order of the two Continuations therefore contains much which is common to Old and Modern English, much which cannot occur in Modern English, and nothing which cannot be paralleled in Old English. (138)


 もちろん,Mitchell はある語順タイプが例証されるかしないかという binary な問題ではなく,各語順タイプの相対頻度の問題であることは認識しており,全体としては確かに "modern" な方向に進んでいるとは認めている.また,主節において,目的語が代名詞でなく名詞である場合の SOV 構文が The Continuations では皆無である点を指摘し,唯一の際だった "modernity" であるとも認めている.しかし,あくまで Mitchell は古英語からの断絶ではなく連続性のほうを重視している.
 進行中の大きな言語変化を体現するテキストとしての PChron の評価は,このように議論含みである.しかし,古英語の最後のテキスト,中英語の最初のテキストとも言われるように,区分線上にあるような資料の評価が様々なのは理解できる.線をまたぐことに関わる問題は,線がどこにあるかという問題と切り離せない.[2009-12-20-1]の記事で Sweet による英語史時代区分を紹介したが,PChron の属する時代を "Transition Old English" と呼びたくなる気持ちが分かる.
 古英語から中英語への語順の発達過程については[2009-09-06-1]の記事を参照.

 ・ Clark, Cecily, ed. The Peterborough Chronicle 1070-1154. London: OUP, 1958.
 ・ Mitchell, Bruce. "Syntax and Word-Order in The Peterborough Chronicle 1122--1154." Neuphilologische Mitteilungen 65 (1964): 113--44.

Referrer (Inside): [2021-11-03-1]

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2011-04-18 Mon

#721. The Peterborough Chronicle の英語史研究上の価値 [word_order][syntax][synthesis_to_analysis][pchron]

 英語史では,古英語から中英語にかけてとりわけ大きな言語変化が生じていたことが強調される.言語の類型が synthesis から analysis へと大転換し ( see synthesis_to_analysis ) ,印象としては前後の時代の間に連続性よりも断絶が強く感じられるからである.いや,印象だけでなく,客観的にも確かに断絶を認めることができるのである ([2009-11-04-1]) .文書でしか残されていない当時の言語資料から進行中の言語変化を直接に観察することは難しいが,テキストの言語を慎重に分析すれば言語変化の進行に迫ることができる例もある.そのようなテキストの1つが,The Peterborough Chronicle (以降 PChron )という年代記だ.
 PChron は,Bodleian, Laud Misc. 636 に所収されているテキストで,1154年までのイングランドの歴史が年代記として綴られている.King Alfred の治世 (871--99) に編纂の始まった The Anglo-Saxon Chronicle の1ヴァージョン(一般にEヴァージョンとして言及される)である.1121年までの記録を伝える The Copied Annals ,1122--1131年までを記述する The First Continuation ,1132--1154年を扱う The Final Continuation の3部分からなる.後半の2部分は,Peterborough 出身の写字生が同時代の言語で同時代の出来事を記したテキストであり,言語研究上 holograph としての価値がある.そのため,英語史研究でも重要なテキストとしてしばしば取り上げられる.PChron の英語史研究上の価値は,編者 Clark (1958) が次のように的確に表現している.

These Peterborough annals are not merely one of the earliest Middle-English documents: they are also the earliest authentic example of that East-Midland language which was to be the chief ancestor of our modern Standard English. (lxvi)


 The Continuations の言語の新しさは,随所に見ることができる.格の体系は古英語のそれから確実に衰退しており,与格は消えつつある.性の体系も同様に崩れてきている.拙論によれば (Hotta 109--15) ,名詞複数形態全体で現代風の -s 語尾をとる割合は,The Copied Annals で4割,The First Continuation で6割,The Final Continuation で8割となっており,変化が目に見えるようだ.統語的には分析的 (analytic) な傾向が強く見られ,古英語に見られた語順のタイプからの逸脱が観察される.重要な語でいえば,PChron の1140年の記録に,人称代名詞 scæ "she" が英語史上初めて現われていることを指摘しておこう( she の語源は不詳であり,諸説紛々としている.[2010-03-02-1]の記事を参照.).
 この重要なテキストについては刊本,研究書,論文などがたくさんあるが,Web上でアクセスできるものも含めて,何点か重要と思われるものを示す.

1. Editions

 ・ Burrow, J. A. and Thorlac Turville-Petre, eds. A Book of Middle English. 3rd ed. Malden, Mass.: Blackwell, 2005.
 ・ Clark, Cecily, ed. The Peterborough Chronicle 1070-1154. 2nd ed. London: OUP, 1970.
 ・ Earle, John and Charles Plummer, eds. Two of the Saxon Chronicles Parallel with Supplementary Extracts from the Others. London: OUP, 1892. 2 vols.
 ・ Garmonsway, G. N., ed. and trans. The Anglo-Saxon Chronicle. London: J. M. Dent, 1972.
 ・ Irvine, Susan, ed. The Anglo-Saxon Chronicle: A Collaborative Edition, Vol. 7, MS. E. Cambridge: Brewer, 2004.
 ・ Jebson, Tony, ed. "The Anglo-Saxon Chronicle: An edition with TEI P4 markup, expressed in XML and translated to XHTML1.1 using XSLT." Available online at http://asc.jebbo.co.uk/. Accessed on 18 April 2011.
 ・ Whitelock, Dorothy, ed. The Peterborough Chronicle. Copenhagen: Rosenkilde and Bagger, 1954.

2. Modern English translations

 ・ Killings, Douglas B., trans. The Anglo-Saxon Chronicle: Online Medieval and Classical Library Release #17. Available online at http://www.omacl.org/Anglo/. Accessed on 18 April 2011.
 ・ Whitelock, Dorothy, trans. The Anglo-Saxon Chronicle: A Revised Translation. London: Eyre, 1961.

3. Monographs and articles

 ・ Behm, O. P. The Language of the Later Part of the Peterborough Chronicle. Diss. Upsala, 1884.
 ・ Kubouchi, T. and K. Ikegami, eds. Language of Peterborough Chronicle 1066-1154. Tokyo: Gakushobo, 1984. [in Japanese]
 ・ Mitchell, Bruce. "Syntax and Word-Order in The Peterborough Chronicle 1122--1154." Neuphilologische Mitteilungen 65 (1964): 113--44.


 ・ Clark, Cecily, ed. The Peterborough Chronicle 1070-1154. London: OUP, 1958.
 ・ Hotta, Ryuichi. The Development of the Nominal Plural Forms in Early Middle English. Hituzi Linguistics in English 10. Tokyo: Hituzi Syobo, 2009.

Referrer (Inside): [2021-11-03-1] [2011-04-19-1]

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2009-07-23 Thu

#87. 日食とオカルト [etymology][derivative][pchron]

 昨日は,東南アジアから日本列島にかけて日食で沸いた.日本の皆既日食帯は悪天候だったために,地上からはコロナやダイヤモンドリングを拝むことができなかったようだが,すでに皆既日食のYouTube動画がたくさんアップされている.感動ものである.
 皆既日食のクライマックスである第二接触の前後には,真っ昼間だというのに辺り一面が夜のように暗くなり,星が現れ,気温も数度下がるという.動物は夜と間違えて恐れおののき,鳥は巣に帰る.日食のカラクリを知っている現代の人間ですら畏怖の念に襲われるのだから,カラクリを知らない古代・中世の一般民衆が凶兆と解したことは容易に想像できる.
 各国の古い文献でも,日食は記録されていることが多い.日本では,『日本書紀』の推古天皇36年3月2日(西暦628年4月10日)の日食が最古の記録である.英国では,古英語の文献により日食の記録が確認できる.たとえば,古英語の最後期の言語で筆写された『ピーターバラ年代記』 ( The Peterborough Chronicle ) では,538年のエントリーに次のような記述がある.(記事の末尾のHPを参照.)

Her sunne aðestrode on .xiiii. kalendas Martii from ærmorgene oþ underne.

現代英語に訳すと,"This year the sun was eclipsed, fourteen days before the calends of March, from before morning until nine." ということになる.
 古英語では,今はなき aðestrode という過去形の動詞で,「暗くなった」( = darkened ) を表していた.現代英語訳では was eclipsed となっており,動詞 eclipse 「覆い隠す」が使われている.eclipse は名詞としては「食」の意であり,日食は solar eclipse,皆既日食は total solar eclipse という.eclipse は究極的にはギリシャ語起源であり,古英語でこの語が使われていないのは,フランス語を経由して英語に入ってきたのが,およそ1300年くらいのことだからである.
 さて,eclipse は,ある天体が背後にある他の天体を覆い隠す現象だが,普通には日食か月食のことを指す.「食」は原理としては太陽や月以外の星にも起こるわけであり,その場合には「星食」「掩蔽(えんぺい)」という専門用語が使われるそうだ.そして,この「掩蔽」を指す英単語が occultation であり,「掩蔽する」という動詞形が occult である.いずれも,15世紀から16世紀にかけての近代科学の幕開けの時代に,ラテン語から借用された天文学用語である.ラテン語では oc- + cēlāre ( "against" + "cover" ) と分析され,語幹の cēlāre はまさに「覆い隠す」の意味である.ここから,conceal 「隠す.隠匿する」,cell 「(隠匿された)独房,細胞」,cellar 「(隠匿された)地下室,貯蔵庫」などの語も派生し,英語へ借用された.
 日本語でもなじみ深い occult 「オカルト,秘術」は,cēlāre の原義「覆い隠す」から意味が発展したものであることは,容易に理解できるだろう.
 日食にしろオカルトにしろ,人は覆い隠されるものに畏れを抱き,同時に関心を引かれる.次の皆既日食は,日本では2035年9月2日に能登半島から関東地方にかけて起こるらしい.今から楽しみである.

 ・The Modern English Translation of the Anglo-Saxon Chronicle Online
 ・The Online Edition of the Anglo-Saxon Chronicle

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