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spelling - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-04-26 08:56

2016-01-01 Fri

#2440. flowerflour (2) [doublet][spelling][shakespeare][johnson][orthography][standardisation]

 年が明けました.2016年も hellog を続けます.新年の一発目は,以前にも「#183. flowerflour」 ([2009-10-27-1]) で取り上げた話題でお届けします.
 この2つの単語は,先の記事で説明したように,もともと1つの語のなかの2つの異なる語義だった.しかし,おそらく語義が離れすぎてしまったために,多義語としてではなく同音異義語として認識されるようになり,少なくとも綴字上は区別するのがふさわしいと感じられるようになったのだろう,近代英語期には綴り分ける傾向が生じていた.
 さて,この語が「花」の意味でフランス語から借用されたのは13世紀初頭のことである.MEDflour (n.(1)) によれば,"c1230(?a1200) *Ancr. (Corp-C 402) 92a: & te treou .. bringeð forð misliche flures .. uertuz beoð .. swote i godes nease, smeallinde flures." が初例である.一方,関連する「小麦粉(=粉のなかの最も上等の「華」)」の意味でも13世紀半ばには英語で初例が現われている.MEDflour (n.(2)) によれば," a1325(c1250) Gen. & Ex. (Corp-C 444) 1013: Kalues fleis and flures bred..hem ðo sondes bed." が初例となっている.見出し語の綴字や例文の綴字を見ればわかるように,当初はいずれの語義においても <flour> や <flur> が普通だった.
 その後,近代英語では両語義の関係が不明瞭となり,「花」が「小麦粉」から分化して,中英語以来のマイナーな異綴字であった <flower> を採用するようになった.綴字上の棲み分けは意外と遅く18世紀頃のことだったが,その後も19世紀までは「小麦粉」が <flower> と綴られるなどの混用がみられた.綴り分けるか否かは,個人によっても異なっていたようで,Shakespeare や Cruden の Concordance to the Bible (1738) では現在のような区別が付けられていたが,Johnson の辞書では,いまだ flower という1つの見出しのもとに両語義が収められている.OED の flour, n. の語源欄でも "Johnson 1755 does not separate the words, nor does he recognize the spelling flour." と述べられているが,Horobin (150) が指摘しているように Johnson の辞書の biscotin の定義のなかでは "A confection made of flour, sugar, marmalade, eggs. Etc." のように <flour> が使用されている.綴り分けが定着するには,ある程度の時間がかかったということだろう.標準綴字の定着,正書法の確立は,かくも心許なく緩慢な過程である.

 ・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.

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2015-12-29 Tue

#2437. 3文字規則に屈したイギリス英語の <axe> [spelling][orthography][ame_bre][three-letter_rule]

 現代英語の綴字に関する「#2235. 3文字規則」 ([2015-06-10-1]) の記事で,斧を意味する語の綴字 <ax> あるいは <axe> に触れた.英英辞書を引くと,Longman Advanced American Dictionary, 2nd ed. などのアメリカ系では見出しに "ax, axe" の順序で挙げられており,Longman Dictionary of Contemporary English, 5th ed. などのイギリス系では "axe (also ax American English)" の順序で挙げられている.このように現在では綴字の英米差をなすペアといってよいが,19世紀後半には,イギリス英語でも2文字の <ax> のほうが推奨されていたようである.Horobin (167) がこの点に言及している.

The various factors involved in the adoption of a particular spelling as the OED headword is apparent from a comparison of the treatment of axe in the first and second editions. The first edition (published in 1885) employed the spelling ax for its headword, noting that this spelling is 'better on every ground, of etymology, phonology, and analogy, than axe, which has of late become prevalent'. But, despite its continued support for the spelling ax, the second edition of 1989 adopted axe for its headword, noting that, despite its many advantages, ax had by this time fallen out of use entirely.


 イギリス英語において慣用として <axe> が通用されるようになったので,OED としてもそちらを採用するという記述だが,なぜ <axe> が通用されるようになったのかという問題については触れられていない.ここで,3文字規則がその答えの少なくとも一部であろうということは主張できそうである.イギリス英語において <ax> が潰えた今となっては,明らかな例外は ox のみとなる.
 なお,OED Online によれば,語源欄の記述が2版から少々変更されており,"The spelling ax is better on every ground, of etymology, phonology, and analogy, than axe, which became prevalent during the 19th century; but it is now disused in Britain." となっていることを付け加えておこう.

 ・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.

Referrer (Inside): [2017-10-07-1] [2017-09-21-1]

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2015-12-25 Fri

#2433. advisor の綴字と発音の相互作用 [suffix][pronunciation][spelling][spelling_pronunciation][agentive_suffix][agentive_suffix]

 綴字と発音の相互作用について,「#894. shortening の分類 (2)」 ([2011-10-08-1]) や「#2407. margarine の発音」 ([2015-11-29-1]) で触れてきた.同じ相互作用の観点から,adviseradvisor の差異化を扱った McDavid による記事をみつけたので紹介したい.
 adviseradvisor は,「#1748. -er or -or」 ([2014-02-08-1]) で例示したように,異なる行為者接尾辞 (agentive suffix, subject suffix) をもつペアである.意味上は,adviser が一般的な助言者を指すのに対して,advisor は特にアメリカ英語で大学の指導教官を指す傾向が強い.両語の接尾辞が異なるとはいっても,それは綴字上のみであり,発音においては通常いずれも /ədˈvaɪzɚ/ となる.しかし,以下に述べるように,McDavid が論考を発表した1942年という段階では,advisor に対して /ədˈvaɪzˌɔɚ/ のような発音も聞かれたらしい.
 McDavid は,advisor の綴字と発音の発達を次のように分析している.まず,一般的な意味での adviser のみが存在していたところに,大学における「指導教官」を意味するものとして <advisor> なる綴字が生み出された.これは,adjustor, auditor, chancellor, editor, mortgagor, sailor, settlor, tailor など,-or 接尾辞をもつ語の多くが専門的な役職や職業を表わしていたために,これに乗じて書記上の差異化を生み出そうとした結果だろう.また,advisorysupervisor のような綴字の類似も関わっていたかもしれない.このように綴字上の区別が生み出されたあとに,advisor は綴字発音 (spelling_pronunciation) の原理により,最終音節がやや過剰に /ɔɚ/ と発音されるようになった.
 つまり,advisor はまず狭められた意味として生命を得て,次に綴字において新たに作り出され,そして最後に発音が変形を受けたことによって,従来の adviser から独立した語彙素として独立したということになる.ただし,その後は上述の通り adviser と同じ発音へと回帰していったのであり,現在では advisor は視覚的に独立した語彙素 (cf. 「#2432. Bolinger の視覚的形態素」 ([2015-12-24-1])) として機能していると解釈すべきだろう.

 ・ McDavid, Raven I., Jr. "Adviser and Advisor: Orthography and Semantic Differentiation." Studies in Linguistics 1 (1942).

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2015-12-24 Thu

#2432. Bolinger の視覚的形態素 [writing][morpheme][grapheme][grammatology][homophony][polysemy][spelling][orthography][phonaesthesia][suffix][punctuation][agentive_suffix]

 昨日の記事「#2431. 書き言葉の自立性に関する Bolinger の議論」 ([2015-12-23-1]) で,Bolinger の視覚的形態素 (visual morpheme) という用語を出した.それによると,書記言語の一部には,音声言語を媒介しない直接的な表形態素性を示す事例があるという.Bolinger (335--38) は現代英語の正書法の綴字を題材として,いくつかの種類に分けて事例を紹介している.説明や例を,他からも補いながら解説しよう.

 (1) 同音異綴語 (homonyms) .例えば,"Sea is an ocean and si is a tone, as you can readily see." という言葉遊びに見られるような例だ.ここでは文脈のヒントが与えられているが,3語が単体で発音されれば区別がつかない.しかし,書記言語においては3者は明確に区別される.したがって,これらは目に見える形で区別される形態素と呼んでよい.おもしろいところでは,"The big clock tolled (told) the hour." や "The danger is safely passed (past)." のように,単語対の使い分けがほとんど意味の違いに結びつかないような例もある.

 (2) 綴字の意味発達 (semantic evolution of spellings) .本来的には同一の単語だが,綴字を異ならせることにより,意味・機能を若干違えるケースがある.let uslet'sgood andgood などがその例である.graygrey では,前者が She has lovely gray eyes. などのように肯定的に用いられる傾向があるのに対して,後者は It was a grey, gloomy day. などのように否定的に用いられるとも言われる.check/cheque, controller/comptroller, compliment/complement なども類例ととらえられるかもしれない.なお,Hall (17) は,この (2) の種類を綴字の "semantic representation" と呼んでおり,文学ジャンルとしての fantasy と幻想としての phantasy の違いや,Ye Olde Gifte Shoppe などにおける余剰的な final_e の効果に注目している (cf. 「#13. 英国のパブから ye が消えていくゆゆしき問題」 ([2009-05-11-2]),「#1428. ye = the」 ([2013-03-25-1])) .(1) と (2) の違いは,前者が homonymy で,後者が polysemy に対応すると考えればよいだろうか.

 (3) 群集 (constellations) .ある一定の綴字をもつ語群が,偶然に共有する意味をもつとき,その綴字と意味が結びつけられるような場合に生じる.例えば,行為者接尾辞 (agentive suffix, subject suffix) の -or は,adjustor, auditor, chancellor, editor, mortgagor, sailor, settlor, tailor などに示唆されるように,-er に比べて専門性や威信の高さを含意するようである (see 「#1748. -er or -or」 ([2014-02-08-1])) .また,接尾辞 -y と -ie では,後者のほうが指小辞 (diminutive) としての性格が強いように感じられる.このような事例から,音声言語における phonaesthesia の書記言語版として "graphaesthesia" なる術語を作ってもよいのではないか.

 (4) 視覚的な掛詞 (visual paronomasia) .視覚的な地口として,収税吏に宛てた手紙で City Haul であるとか,意図的な誤綴字として古めかしさを醸す The Compleat Military Expert など.「海賊複数の <z>」 ([2011-07-05-1]) や「#825. "pronunciation spelling"」 ([2011-07-31-1]) の例も参照.

 (5) 綴字ではなく句読点 (punctuation) を利用するものもある.the dog's mastersthe dogs' masters は互いに異なる意味を表わすし,the longest undiscovered veinthe longest-undiscovered vein も異なる.「#1772. greengrocer's apostrophe」 ([2014-03-04-1]) も,この種類に数えられるだろう.

 以上の "visual morpheme" は,いずれも書記言語にのみ与えられている機能である.

 ・ Bolinger. "Visual Morphemes." Language 22 (1946): 333--40.
 ・ Hall, Robert A., Jr. "A Theory of Graphemics." Acta Linguistica 8 (1960): 13--20.

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2015-12-16 Wed

#2424. digraph の問題 (2) [alphabet][grammatology][writing][digraph][spelling][grapheme][orthography][phoneme][diacritical_mark][punctuation]

 昨日の記事 ([2015-12-15-1]) に引き続いての話題.現代英語の二重字 (digraph) あるいは複合文字素 (compound grapheme) のうち,<ch>, <gh>, <ph>, <sh>, <th>, <wh> のように2つめの文字素が <h> であるものは少なくない.すべてにあてはまるわけではないが,共時的にいって,この <h> の機能は,第1文字素が表わす典型的な子音音素のもつ何らかの弁別特徴 (distinctive feature) を変化させるというものだ.前舌化・破擦音化したり,摩擦音化したり,口蓋化したり,歯音化したり,無声化したり等々.その変化のさせかたは一定していないが,第1文字素に対応する音素を緩く「いじる」機能をもっているとみることができる.音素より下のレベルの弁別特徴に働きかける機能をもっているという意味においては,<h> は機能的には独立した文字というよりは発音区別符(号) (diacritical mark; cf. 「#870. diacritical mark」 ([2011-09-14-1]) に近い.このように機能としては補助的でありながら,体裁としては独立した文字素 <h> を騙っているという点が,あなどれない.
 日本語の仮名に付す発音区別符号である濁点を考えよう.メインの文字素「か」の右肩に,さほど目立たないように濁点を加えると「が」となる.この濁点は,濁音性(有声性)という弁別特徴に働きかけており,機能としては上述の <h> と類似している.同様に,フランス語の正書法における <é>, <è>, <ê> などのアクサンも,メインとなる文字素 <e> に補助的に付加して,やや閉じた調音,やや開いた調音,やや長い調音などを標示することがある.つまり,メインの音価の質量にちょっとした改変を加えるという補助的な機能を果たしている.日本語の濁点やフランス語のアクサンは,このように,機能が補助的であるのと同様に,見栄えにおいてもあくまで補助的で,慎ましいのである.
 ところが,複合文字素 <th> における <h> は事情が異なる.<h> は,単独でも文字素として機能しうる.<h> はメインもサブも務められるのに対し,濁点やアクサンは単独でメインを務めることはできない.換言すれば,日本語やフランス語では,サブの役目に徹する発音区別符号というレベルの単位が存在するが,英語ではそれが存在せず,あくまで視覚的に卓立した <h> という1文字が機能的にはメインのみならずサブにも用いられるということである.昨日に引き続き改めて強調するが,このように英語の正書法では,機能的にレベルの異なるものが,形式上区別なしに用いられているという点が顕著なのである.
 なお,2つの異なるレベルを分ける方策として,合字 (ligature) がある.<ae>, <oe> は2つの単独文字素の並びだが,合字 <æ>, <œ> は1つの複合文字素に対応する.いや,この場合,合字はすでに複合文字素であることをやめて,新しい単独文字素になっていると見るべきだろう (see 「#2418. ギリシア・ラテン借用語における <oe>」 ([2015-12-10-1]),「#2419. ギリシア・ラテン借用語における <ae>」 ([2015-12-11-1])) .

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2015-12-15 Tue

#2423. digraph の問題 (1) [alphabet][grammatology][writing][digraph][spelling][grapheme][terminology][orthography][final_e][vowel][consonant][diphthong][phoneme][diacritical_mark][punctuation]

 現代英語には <ai>, <ea>, <ie>, <oo>, <ou>, <ch>, <gh>, <ph>, <qu>, <sh>, <th>, <wh> 等々,2文字素で1単位となって特定の音素を表わす二重字 (digraph) が存在する.「#2049. <sh> とその異綴字の歴史」 ([2014-12-06-1]),「#2418. ギリシア・ラテン借用語における <oe>」 ([2015-12-10-1]),「#2419. ギリシア・ラテン借用語における <ae>」 ([2015-12-11-1]) ほかの記事で取り上げてきたが,今回はこのような digraph の問題について論じたい.beautiful における <eau> などの三重字 (trigraph) やそれ以上の組み合わせもあり得るが,ここで述べる digraph の議論は trigraph などにも当てはまるはずである.
 そもそも,ラテン語のために,さらに遡ればギリシア語やセム系の言語のために発達してきた alphabet が,それらとは音韻的にも大きく異なる言語である英語に,そのままうまく適用されるということは,ありようもない.ローマン・アルファベットを初めて受け入れた古英語時代より,音素の数と文字の数は一致しなかったのである.音素のほうが多かったので,それを区別して文字で表記しようとすれば,どうしても複数文字を組み合わせて1つの音素に対応させるというような便法も必要となる.例えば /æːa/, /ʤ/, /ʃ/ は各々 <ea>, <cg>, <sc> と digraph で表記された (see 「#17. 注意すべき古英語の綴りと発音」 ([2009-05-15-1])) .つまり,英語がローマン・アルファベットで書き表されることになった最初の段階から,digraph のような文字の組み合わせが生じることは,半ば不可避だったと考えられる.英語アルファベットは,この当初からの問題を引き継ぎつつ,多様な改変を加えられながら中英語,近代英語,現代英語へと発展していった.
 次に "digraph" という用語についてである.この呼称はどちらかといえば文字素が2つ組み合わさったという形式的な側面に焦点が当てられているが,2つで1つの音素に対応するという機能的な側面を強調する場合,"compound grapheme" (Robert 14) という用語が適切だろう.Robert (14) の説明に耳を傾けよう.

We term ai in French faire or th in English thither, compound graphemes, because they function as units in representing single phonemes, but are further divisible into units (a, i, t, h) which are significant within their respective graphemic systems.


 compound grapheme (複合文字素)は連続した2文字である必要もなく,"[d]iscontinuous compound grapheme" (不連続複合文字素)もありうる.現代英語の「#1289. magic <e>」 ([2012-11-06-1]) がその例であり,<name> や <site> において,<a .. e> と <i .. e> の不連続な組み合わせにより2重母音音素 /eɪ/ と /aɪ/ が表わされている.
 複合文字素の正書法上の問題は,次の点にある.Robert も上の引用で示唆しているように,<th> という複合文字素は,単一文字素 <t> と <h> の組み合わさった体裁をしていながら,単一文字素に相当する機能を果たしているという事実がある.<t> も <h> も単体で文字素として特定の1音素を表わす機能を有するが,それと同時に,合体した場合には,予想される2音素ではなく新しい別の1音素にも対応するのだ.この指摘は,複合文字素の問題というよりは,それの定義そのもののように聞こえるかもしれない.しかし,ここで強調したいのは,文字列が横一列にフラットに表記される現行の英語書記においては,<th> という文字列を見たときに,(1) 2つの単一文字素 <t>, <h> が個別の資格でこの順に並んだものなのか,あるいは (2) 1つの複合文字素 <th> が現われているのか,すぐに判断できないということだ.(1) と (2) は文字素論上のレベルが異なっており,何らかの書き分けがあってもよさそうなものだが,いずれもフラットに th と表記される.例えば,<catham> と <catholic> において,同じ見栄えの <th> でも前者は (1),後者は (2) として機能している.(*)<cat-ham>, *<ca(th)olic> などと,丁寧に区別する正書法があってもよさそうだが,一般的には行われていない.これを難なく読み分けられる読み手は,文字素論的な判断を下す前に,形態素の区切りがどこであるかという判断,あるいは語としての認知を先に済ませているのである.言い換えれば,英語式の複合文字素の使用は,部分的であれ,綴字に表形態素性が備わっていることの証左である.
 この「複合文字素の問題」はそれほど頻繁に生じるわけでもなく,現実的にはたいして大きな問題ではないかもしれない.しかし,体裁は同じ <th> に見えながらも,2つの異なるレベルで機能している可能性があるということは,文字素論上留意すべき点であることは認めなければならない.機能的にレベルの異なるものが,形式上区別なしにフラットに並べられ得るという点が重要である.

 ・ Hall, Robert A., Jr. "A Theory of Graphemics." Acta Linguistica 8 (1960): 13--20.

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2015-12-11 Fri

#2419. ギリシア・ラテン借用語における <ae> [etymological_respelling][spelling][latin][greek][loan_word][diphthong][spelling_pronunciation_gap][digraph]

 昨日の記事「#2418. ギリシア・ラテン借用語における <oe>」 ([2015-12-10-1]) に引き続き,今回は <ae> の綴字について,Upward and Davidson (219--20) を参照しつつ取り上げる.
 ギリシア語 <oi> が古典期ラテン語までに <oe> として取り入れられるようになっていたのと同様に,ギリシア語 <ai> はラテン語へは <ae> として取り入れられた (ex. G aigis > L aegis) .この二重字 (digraph) で表わされた2重母音は古典期以降のラテン語で滑化したため,綴字上も <ae> に代わり <e> 単体で表わされるようになった.したがって,英語では,古典期以降のラテン語やフランス語などから入った語においては <e> を示すが,古典ラテン語を直接参照しての借用語や綴り直しにおいては <ae> を示すようになった.だが,単語によっては,ギリシア語のオリジナルの <oi> と合わせて,3種の綴字の可能性が現代にも残っている例がある (ex. daimon, daemon, demon; cainozoic, caenozoic, cenozoic) .
 近代英語では <ae> で綴られることもあったが,後に <e> へと単純化して定着した語も少なくない.(a)enigma, (a)ether, h(a)eresy, hy(a)ena, ph(a)enomenon, sph(a)ere などである.一方,いまだに根強く <ae> を保持しているのは,イギリス綴字における専門語彙である.aegis, aeon, aesthetic, aetiology, anaemia, archaeology, gynaecology, haemorrhage, orthopaedic, palaeography, paediatrics などがその例となるが,アメリカ綴字では <e> へ単純化することが多い.Michael という人名も,<ae> を保守している.
 なお,20世紀までは,<oe> が合字 (ligature) <œ> として印刷されることが普通だったのと同様に,<ae> も通常 <æ> として印刷されていた.また,aerial が合字 <æ> や単字 <e> で綴られることがないのは,これがギリシア語の aerios に遡るものであり,2重字 <ai> に由来するものではなく,あくまで個別文字の組み合わせ <a> + <e> に由来するものだからである.

 ・ Upward, Christopher and George Davidson. The History of English Spelling. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2011.

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2015-12-10 Thu

#2418. ギリシア・ラテン借用語における <oe> [etymological_respelling][spelling][latin][greek][french][loan_word][diphthong][spelling_pronunciation_gap][digraph]

 現代英語の <amoeba>, <Oedipus>, <onomatopoeia> などの綴字に見られる二重字 () の傾向により従来の <e> の代わりに <oe> が採用されたり,後者が再び廃用となるなど,単語によっても揺れがあったようだ.例えば Phoebus, Phoenician, phoenix などは語源的綴字を反映しており,現代まで定着しているが,<comoedy>, <tragoedy> などは定着しなかった.
 現代英語の綴字 <oe> の採用の動機づけが,近代以降に借用されたラテン・ギリシア語彙や語源的綴字の傾向にあるとすれば,なぜそれが特定の種類の語彙に偏って観察されるかが説明される.まず,<oe> は,古典語に由来する固有名詞に典型的に見いだされる.Oedipus, Euboea, Phoebe の類いだ.ギリシア・ローマの古典上の事物・概念を表わす語も,当然 <oe> を保持しやすい (ex. oecist, poecile) .科学用語などの専門語彙も,<oe> を例証する典型的な語類である (ex. amoeba, oenothera, oestrus dioecious, diarrhoea, homoeostasis, pharmacopoeia, onomatopoeic) .
 なお,<oe> は16世紀以降の印刷において,合字 (ligature) <œ> として表記されることが普通だった.<oe> の発音については,イギリス英語では /iː/ に対応し,アメリカ英語では /i/ あるいは稀に /ɛ/ に対応することを指摘しておこう.また,数は少ないが,フランス借用語に由来する <oe> もあることを言い添えておきたい (ex. oeil-de-boeuf, oeillade, oeuvre) .
 以上 OEDo の項からの記述と Upward and Davidson (221--22) を参照して執筆した.

 ・ Upward, Christopher and George Davidson. The History of English Spelling. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2011.

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2015-12-07 Mon

#2415. 急進的表音主義の綴字改革者 John Hart による重要な提案 [spelling_reform][spelling][grapheme][alphabet][emode][hart][orthography][j][v]

 初期近代英語期の綴字改革者 John Hart (c. 1501--74) について,「#1994. John Hart による語源的綴字への批判」 ([2014-10-12-1]),「#1942. 語源的綴字の初例をめぐって」 ([2014-08-21-1]),「#1940. 16世紀の綴字論者の系譜」 ([2014-08-19-1]),「#1939. 16世紀の正書法をめぐる議論」 ([2014-08-18-1]),「#1407. 初期近代英語期の3つの問題」 ([2013-03-04-1]),「#583. ドイツ語式の名詞語頭の大文字使用は英語にもあった」 ([2010-12-01-1]),「#441. Richard Mulcaster」 ([2010-07-12-1]) の記事で言及してきた.
 Hart は,当時,表音主義の立場にたつ綴字改革の急先鋒であり,「1文字=1音」の理想へと邁進していた.しかし,後続の William Bullokar (fl. 1586) とともに,あまりに提案が急進的だったために,当時の人々にまともに取り上げられることはなかった.それでも,Hart の提案のなかで,後に結果として標準綴字に採用された重要な項目が2つある.<u> と <v> の分化,そして <i> と <j> の分化である.それぞれの分化の概要については,「#373. <u> と <v> の分化 (1)」 ([2010-05-05-1]),「#374. <u> と <v> の分化 (2)」 ([2010-05-06-1]),「#1650. 文字素としての j の独立」 ([2013-11-02-1]) で触れた通りだが,これを意図的に強く推進しようとした人物が Hart その人だった.Horobin (120--21) は,この Hart の貢献について,次のように評価している.

In many ways Hart's is a sensible, if slightly over-idealized, view of the spelling system. Some of the reforms introduced by him have in fact been adopted. Before Hart the letter <j> was not a separate letter in its own right; in origin it is simply a variant form of the Roman letter <I>. In Middle English it was used exclusively as a variant of the letter <i> where instances appear written together, as in lijf 'life', and is common in Roman numerals, such as iiij for the number 4. . . . Hart advocated using the letter <j> as a separate consonant to represent the sound /dʒ/, as we still do today. A similar situation surrounds the letters <u> and <v>, which have their origins in the single Roman letter <V>. In the Middle English period they were positional variants, so that <v> appeared at the beginning of words and <u> in the middle of words, irrespective of whether they represented the vowel or consonant sound. Thus we find Middle English spellings like vntil, very, loue, and much. Hart's innovation was to make <u> the vowel and <v> the consonant, so that their appearance was dependent upon use, rather than position in the word.


 現代の正書法につらなる2対の文字素の分化について,Hart のみの貢献と断じるわけにはいかない.しかし,彼のラディカルな提案のすべてが水泡に帰したわけではなかったということは銘記してよい.

 ・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.

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2015-11-29 Sun

#2407. margarine の発音 [spelling_pronunciation_gap][spelling][pronunciation][g]

 標題の単語は「マーガリン」を意味するが,通常,発音は /ˌmɑːʤəˈriːn/ である.<a> の前位置の <g> は /g/ で発音するという一般の綴字規則に従って,第2子音を /g/ とする発音も皆無ではない.しかし,一般的には不規則な /ʤ/ で発音する.この非常にまれな綴字と発音の非対応は,<gaol> = /ʤeɪl/ にもみられるが,これについては「#94. gaoljail」 ([2009-07-30-1]) で解説した通りである.では,<margarine> = /ˌmɑːʤəˈriːn/ には,どういう理由があるのだろうか.
 この語は,マルガリン酸グリセリドという化合物を表わす化学用語 margarin /ˈmɑːʤərɪn/ に由来する.その真珠色にちなんで,ギリシア語 márgaron (pearl) の語幹を利用したフランス語形 margarine を借用元として 英語では margarin(e) の形態で1821年より用いられるようになった.一方,すべての油脂はマルガリン酸を含むという誤解から,1873年に,語尾を変形させた margarine という形態により,食卓になじみ深いマーガリンを指すようになった.
 いずれの単語についても,OED の初版 (1905) によれば規則通りに /g/ をもっていたという.1931年からは英口語として /g/ をもった Maggie Ann というニックネームでも呼ばれるようになった.しかし,20世紀の早い段階から,新しい /ʤ/ の発音も現われていた.1913年に出版された Phonetic Dict. Eng. Lang. (Ed. H. Michaelis and D. Jones) によると,すでにマイナーな発音として /ʤ/ も行われていたようである.また,1922年には,省略形 marge が /ʤ/ として用いられたとの言及もある.その後20世紀後半には,本来の /g/ はまれとなり,/ʤ/ が一般的となった.
 /g/ → /ʤ/ の置換の背景には,おそらく様々な要因が関わっている.『英語語源辞典』では margin などとの連想かとしながら,参考として Margaret -- Margery, Margie などの愛称形に関連する /g/ と /ʤ/ の交替にも言い及んでいる.おそらく,書記と音韻のあいだに相互作用が働き,その交渉の過程で混同が生じたものと思われる.そして,最終的にふたを開けてみたら,<g(a)> が /ʤ/ に対応するという結果となっていた,ということだろう.書記と音韻の相互作用という話題については,「#894. shortening の分類 (2)」 ([2011-10-08-1]) を参照.

Referrer (Inside): [2015-12-25-1]

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2015-11-27 Fri

#2405. 綴字と発音の乖離 --- 英語綴字の不規則性の種類と歴史的要因の整理 [spelling_pronunciation_gap][spelling][pronunciation][writing][orthography][hel_education][alphabet][link][grahotactics]

 現代英語における綴字と発音の乖離の問題については,spelling_pronunciation_gap の多くの記事で取り上げてきた.とりわけその歴史的要因については,「#62. なぜ綴りと発音は乖離してゆくのか」 ([2009-06-28-2]) でまとめた.今回は英語綴字について言われる不規則性の種類と,それが生じた歴史的要因に注目し,改めて関連する事情を箇条書きで整理したい.各項の説明は,関連する記事のリンクにて代える.

[ 不規則性の不満の背後にある前提 ]

 (1) アルファベットは表音文字体系を標榜している以上「1文字=1音」を守るべし (see #1024)
 (2) 綴字規則に例外あるべからず (see #503)
 (3) 1つの単語に対して1つの決まった綴字があるべし,という正書法 (orthography)の発想 (see ##53,54,194)

[ 不規則性の種類 ]

 (1) 1つの文字(列)に対して複数の音: <o> で表わされる音は? <gh> で表わされる音は? (see ##210,1195)
 (2) 1つの音に対して複数の文字(列): /iː/ を表わす文字(列)は? /k/ を表わす文字(列)は? (see #2205)
 (3) 黙字 (silent_letter): climb, indict, doubt, imbroglio, high, hour, marijuana, know, half, autumn, receipt, island, listen, isthmus, liquor, answer, plateaux, randezvous
 (4) 形態音韻上の交替: city/cities, swim/swimming, die/dying (see #1284)
 (5) 綴字のヴァリエーション: color/colour, center/centre, realize/realise, jail/gaol (see #94)

[ 不規則性の歴史的要因 ]

 (1) 英語は,音素体系の異なるラテン語を表記するのに最適化されたローマン・アルファベットという文字体系を借りた (see ##423,1329,2092)
 (2) 英語は,諸言語から語彙とともに綴字体系まで借用した (see #2162)
 (3) 綴字の標準を欠く中英語期の綴字習慣の余波 (see ##562,1341,1812)
 (4) 各時代の書写の習慣,美意識,文字配列法 (graphotactics) (see ##91,223,446,1094,2227,2235)
 (5) 語源的綴字 (see etymological_respelling)
 (6) 表音主義から表語主義への流れ (see ##1332,1386,1760,2043,2058,2059,2097,2312,2344)
 (7) 音はひたすら変化するが,文字は保守的 (see ##15,2292)
 (8) 綴字標準化の間の悪さ (see ##1902,297,871,312)
 (9) 変種間,位相間の綴字ヴァリエーション (see #ame_bre spelling)
 (10) 綴字改革の難しさ (see spelling_reform)

[ 前提を疑う必要 ]

 (1) アルファベットは表音文字体系だが,単語を表記するためにそれを組み合わせた単位である綴字は表語的である
 (2) 1つの単語に対して1つの決まった綴字があるべしという正書法の発想は,多くの言語において近代以降に特徴的な考え方である (see #2392)
 (3) 綴字規則には例外が多いが,個々の例外の多くは歴史的に説明される

 ・ 大名 力 『英語の文字・綴り・発音のしくみ』 研究社,2014年.
 ・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.

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2015-11-26 Thu

#2404. <nacio(u)n> → <nation> の綴字変化 (2) [etymological_respelling][spelling][spelling_reform][consonant][latin][emode]

 「#2018. <nacio(u)n> → <nation> の綴字変化」 ([2014-11-05-1]) に引き続いての話題.ただし,nation という1単語にとどまらず,一般にラテン語の -tiō に遡る語尾をもつ語彙の綴字が,中英語の -<cion> から近代英語の -<tion> へと変化した事情に注目する.
 先の記事で示唆したように,この <c> → <t> の変化は語源的綴字 (etymological_respelling) と考えられる.語源的綴字は,ある程度は類型化できるものの,たいていはいくつかの語において単発的に生じるものであり,体系的な現象ではない.しかし,そのなかでもラテン語 -tiō を参照した <c> → <t> の変化はおよそ規則的に生じたようであり,その程度において意識的だったといえる.規則的で意識的だったということは,見方によればこの変化は綴字改革 (spelling_reform) の成果だったと言えなくもない.英語の綴字改革の歴史において,多少なりとも成功した試みは Noah Webster のものくらいしかない(それとてあくまで部分的)と言われるが,初期近代英語の <c> → <t> はもう1つの例外的な成功例とみることができるかもしれない.
 Venezky (38) は,-<tion> のみならず -<tial> も含めて,この変化について以下のように触れている.

. . . a number of graphemic substitutions, introduced mostly between the times of Chaucer and Shakespeare, must be treated separately. One of these is the substitution of t for c in suffixes like tion and tial, e.g., nation, essential (cf. ME, nacion, essenciall). Early Modern English scribes, instilled with the fervor of classical learning, brought about in these substitutions one of the few true spelling reforms in English orthographic history.


 ・ Venezky, Richard L. The Structure of English Orthography. The Hague: Mouton, 1970.

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2015-11-15 Sun

#2393. <Crist> → <Christ> [loan_translation][etymology][spelling][etymological_respelling][eebo][capitalisation][hebrew]

 この重要な名前の起源は,ヘブライ語で「聖油で清める」を意味する māshīaχ (> PDE Messiah) にある.これをギリシア語で翻訳借用したもの,いわば「なぞり」が,ギリシア語の Khrīstós (cf. khríein (v.)) であるここからラテン語 Chrīstus を経由して,英語やその他の言語へ入った.古高地ドイツ語では <crist>, <krist> のほかに <christ> もあったが,古英語では <crist> の綴字で現われ,中英語でも <ch-> の綴字はほとんど現われない.ただし,ギリシア文字を模して,<xpist>, <xps> などの表記はありえた.
 OED によると,"This word and its derivatives and cognates (including CHRISM n. and its derivatives) were very rarely (and perhaps only accidentally) spelt with ch- in Middle English, but this has been the regular fashion since 1500; in French it began in the preceding century." とある.
 また,『英語語源辞典』によると,<ch> の綴字は1500年以降に標準化したとあり,語頭の大文字使用が普通になるのは17世紀初めからであるという.なお,古英語における母音 /iː/ の発音は,アイルランド系宣教師の影響によるものという興味深い記述もあった.
 15--16世紀に <ch-> が現われたということ,またフランス語ではそれより少し早く同じ綴字が行われていたということは,英語史の潮流から考えるに,ルネサンス期とその前夜に特徴的な語源的綴字 (etymological_respelling) のもう1つの例と考えるのが妥当だろう.また,OED の言及しているように中英語で "accidentally" にではあれ,<ch-> が稀に生起したというのもおもしろい.というのは,ルネサンス期と結びつけられやすい語源的綴字の多くの例が,実は中英語期の段階でも散発的に生起しているという事実があるからだ.この点においても,<Christ> は典型的な語源的綴字の例と呼ぶことができそうだ.
 EEBO (Early English Books Online) の自作テキストデータベースから簡易検索してみたところ,15世紀後半では <c-> のみがヒットし,<ch-> の例は見当たらなかった.ところが,16世紀前半になると,100万語当たりで従来の <c-> が60回の頻度で用いられているのに対して,新興の <ch-> は234回も生起している.16世紀後半になると,旧綴字はほぼ廃用となった.全体として,16世紀中に,新綴字が爆発的な勢いで伸張したといえる.

Referrer (Inside): [2018-03-22-1]

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2015-11-14 Sat

#2392. 厳しい正書法の英語と緩い正書法の日本語 [grammatology][writing][orthography][kanji][hiragana][katakana][romaji][japanese][spelling][standardisation]

 昨日の記事「#2391. 表記行動」 ([2015-11-13-1]) で,厳しい正書法をもつ現代英語と,正書法の緩い現代日本語の対比に触れた.正書法 (orthography) とは,基本的には語の書き表し方の規則である.英語であれば語の綴り方のことになり,日本語であれば使用漢字の制限,漢字と送り仮名,仮名遣い,同訓異字,外来語表記などの問題が関係する.日本語の正書法について内閣の告示や訓令によって「目安」や「よりどころ」はあるとはいえ,強制力はなく,そこから逸脱したものが即「間違い」になるわけでもないという点では,やはり現代英語の正書法とは異なり,緩いものと見なさざるを得ない(日本語のこの問題に関しては,今野(著)『正書法のない日本語』を参照).
 そもそも日本語は漢字,平仮名,片仮名,ローマ字という4つの文字体系で書き表すことができる.英語ではある動物の名前を書き表すのに,書体,字形,大文字・小文字などの区別を無視すれば,<cat> と綴る以外に選択肢はない.しかし,日本語では <猫> のほか,<ねこ> や <ネコ>,また場合によっては <neko> ですら許容され,いずれも間違いとはいえない.日本語の表記においては,書き手の置かれている文脈・場面・状況や書き手の気分により,表記に判断や選択の余地がある.それでも古い日本語に比べれば,現代日本語にはある程度の「目安」や「よりどころ」があるのも事実であり,正書法がまったくないと言うこともできない.
 世界の主要な言語に関していえば,書記の近現代史は,程度の差はあれ標準化と規範化の歴史といえる.政府機関やアカデミーが関与して正書法を制定するフランスのような国もあれば,数世紀をかけて下からのたたき上げで正書法を確立したイギリスのような国もある.日本では,明治時代以降,政府が介入して指針を示してきた.多くの言語はその過程でおよそ「厳しい」正書法を確立してきたが,日本語の正書法は,珍しいことにあくまで「緩い」状態にとどまっている.
 このように国ごと,言語ごとに正書法確立の歴史は異なっているが,この違いが何に由来するのかを問うことは無意味だろうか.社会,文化,政治,歴史といった社会的要因はもちろん関与するだろうが,そのほかに部分的にであれ,書き表す対象の言語体系や採用されている書記体系の性質そのものに由来する諸要因の関与を想定することはできないだろうか.これは,各言語の表記体系の規範化についての話題だが,その前に各時代における当該の表記体系の記述的な研究がなされなければならないだろう.

 ・ 今野 真二 『正書法のない日本語』 岩波書店,2013年.

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2015-11-13 Fri

#2391. 表記行動 [grammatology][writing][orthography][spelling]

 『日本語百科大事典』 (p. 310) に挙げられていた「表記行動の過程」と題する図に興味をひかれた.以下に,ほぼ忠実に再現しよう.

            ┌────┐      ┌────────┐
            │表記体系│      │文脈・場面・状況│
            └──┬─┘      └───┬────┘
                  │                  │
          ┌───┼─────────┼────────┐
          │      │                  ↓                │
          │      │            ┌────┐            │
          │      │          ┌┤表記主体├─┐        │
          │      │          │└──┬─┘  │        │
          │      │          ↓      │      ↓        │
          │      │    ┌────┐  │  ┌────┐  │
          │      │    │表記記号│  │  │表記手段│  │
          │      │    └──┬─┘  │  └─┬──┘  │
          │      │          │      │      │        │
          │      ↓          ↓      ↓      ↓        │
┌──┐  │    ┌─────────────────┐  │    ┌──┐
│表現├─┼─→│    表  記  の  決  定  過  程    ├─┼─→│表記│
└──┘  │    └──┬──────────────┘  │    └──┘
    ↑    │          │                                │
    └──┼─────┘                                │
          └──────────────────────┘

 表記するという行動,表記が生み出されてくる過程には,図のような様々な参与者や要因が関与する.この図は,表現(左下)が表記(右下)として出力されるまでの過程を示したものである.この過程の中心には,当然のことながら,書き手である表記主体がいる.表記主体の下にある表記記号は,文字体系を構成する文字や補助符号などの要素であり,表記主体はそれによって制限を受けることがある.例えば,常用漢字のみを用いるとか,アルファベットの小文字のみを用いるなどの条件である.同じように,表記主体は表記手段によっても影響を受ける.表記手段とは一般には筆記用具の類いを指すが,近年の電子的なタイピングなども含む.これによって,字形や書体の選択や,表記のありようなどが変わることがある.
 枠の外にある表記体系とは表記規則の集成であり,これによっても,当然,表記は影響を受ける.また,文脈・場面・状況も,表記主体がどの表記記号や表記手段を用いて表記を行うかに関与する.例えば,正式な手紙であれば楷書体で筆を用いて書くとか,くだけたメッセージであれば略記を多く含めた電子メールを書くなどの TPO の考慮のことだ.しかし,最終的に主導権を握っているのは,表記主体であることは間違いない.なお,「表記の決定過程」から「表現」へ矢印が戻っているのは,例えば,漢字や綴字が分からなくて,表現そのものを変えてしまおうというケースが相当する.
 表記体系や正書法がよく確立している現代英語のような言語においては,その分,表記主体に判断や選択の余地がないため,決定過程は比較的単純となる.一方,そのような標準的な規則が緩い現代日本語のような言語の表記においては,表記主体の主体的な決定が重要な位置を占める.日英語の表記の対照研究や,各言語の表記の歴史的研究において,「表記行動の過程」という視点を加えて考察するとおもしろそうだ.

 ・ 『日本語百科大事典』 金田一 春彦ほか 編,大修館,1988年.

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2015-10-31 Sat

#2378. 先行する長母音を表わす <e> の先駆け (2) [final_e][grapheme][spelling][orthography][emode][printing][mulcaster][spelling_reform][diacritical_mark]

 昨日に引き続いての話題.Caon (297) によれば,先行する長母音を表わす <e> を最初に提案したのは,昨日述べたように,16世紀後半以降の Mulcaster や同時代の綴字改革者であると信じられてきたが,Salmon を参照した Caon (297) によれば,実はそれよりも半世紀ほど遡る16世紀前半に John Rastell なる人物によって提案されていたという.

In the sixteenth and seventeenth centuries linguists and spelling reformers attempted to set down rules for the use of final -e. Richard Mulcaster is believed to have been the one who first formulated the modern rule for the use of the ending. In The First Part of the Elementarie (1582) he proposed to add final -e in certain environments, that is, after -ld; -nd; -st; -ss; -ff; voiced -c, and -g, and also in words where it signalled a long stem vowel (Scragg 1974:79--80, Brengelman 1980:348). His proposals were reanalysed later and in the eighteenth century only the latter function was standardised (see Modern English hop--hope; bit--bite). However. according to Salmon (1989:294). Mulcaster was not the first one to recommend such a use of final -e; in fact, the sixteenth-century printer John Rastell (c. 1475--1536) had already suggested it in The Boke of the New Cardys (1530). In this book of which only some fragments have survived, Rastell formulated several rules for the correct spelling of English words, recommending the use of final -e to 'prolong' the sound of the preceding vowel.


 早速 Salmon の論文を入手して読んでみた.John Rastell (c. 1475--1536) は,法律印刷家,劇作家,劇場建築者,辞書編纂者,音楽印刷家,海外植民地の推進者などを兼ねた多才な人物だったようで,読み書き教育や正書法にも関心を寄せていたという.問題の小冊子は The boke of the new cardys wh<ich> pleyeng at cards one may lerne to know hys lett<ers,> spel [etc.] という題名で書かれており,およそ1530年に Rastell により印刷(そして,おそらく書かれも)されたと考えられている.現存するのは断片のみだが,関与する箇所は Salmon の論文の末尾 (pp. 300--01) に再現されている.
 Rastell の綴字への関心は,英訳聖書の異端性と必要性が社会問題となっていた時代背景と無縁ではない.Rastell は,印刷家として,読みやすい綴字を世に提供する必要を感じており,The boke において綴字の理論化を試みたのだろう.Rastell は,Mulcaster などに先駆けて,16世紀前半という早い時期に,すでに正書法 (orthography) という新しい発想をもっていたのである.
 Rastell は母音や子音の表記についていくつかの提案を行っているが,標題と関連して,Salmon (294) の次の指摘が重要である."[A]nother proposal which was taken up by his successors was the employment of final <e> (Chapter viii) to 'perform' or 'prolong' the sound of the preceding vowel, a device with which Mulcaster is usually credited (cf. Scragg 1974: 79)."
 しかし,この早い時期に正書法に関心を示していたのは Rastell だけでもなかった.同時代の Thomas Poyntz なるイングランド商人が,先行母音の長いことを示す diacritic な <e> を提案している.ただし,Poyntz が提案したのは,Rastell や Mulcaster の提案とは異なり,先行母音に直接 <e> を後続させるという方法だった.すなわち,<saey>, <maey>, <daeys>, <moer>, <coers> の如くである (Salmon 294--95) .Poyntz の用法は後世には伝わらなかったが,いずれにせよ16世紀前半に,学者たちではなく実業家たちが先導する形で英語正書法確立の動きが始められていたことは,銘記しておいてよいだろう.

 ・ Caon, Louisella. "Final -e and Spelling Habits in the Fifteenth-Century Versions of the Wife of Bath's Prologue." English Studies (2002): 296--310.
 ・ Salmon, Vivian. "John Rastell and the Normalization of Early Sixteenth-Century Orthography." Essays on English Language in Honour of Bertil Sundby. Ed. L. E. Breivik, A. Hille, and S. Johansson. Oslo: Novus, 1989. 289--301.

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2015-10-30 Fri

#2377. 先行する長母音を表わす <e> の先駆け (1) [final_e][grapheme][spelling][orthography][emode][mulcaster][spelling_reform][meosl][diacritical_mark]

 英語史において,音声上の final /e/ の問題と,綴字上の final <e> の問題は分けて考える必要がある.15世紀に入ると,語尾に綴られる <e> は,対応する母音を完全に失っていたと考えられているが,綴字上はその後も連綿と書き続けられた.現代英語の正書法における発音区別符(号) (diacritical mark; cf. 「#870. diacritical mark」 ([2011-09-14-1])) としての <e> の機能については「#979. 現代英語の綴字 <e> の役割」 ([2012-01-01-1]), 「#1289. magic <e>」 ([2012-11-06-1]) で論じ,関係する正書法上の発達については 「#1344. final -e の歴史」 ([2012-12-31-1]), 「#1939. 16世紀の正書法をめぐる議論」 ([2014-08-18-1]) で触れてきた.今回は,英語正書法において長母音を表わす <e> がいかに発達してきたか,とりわけその最初期の様子に触れたい.
 Scragg (79--80) は,中英語の開音節長化 (meosl) に言い及びながら,問題の <e> の機能の規則化は,16世紀後半の穏健派綴字改革論者 Richard Mulcaster (1530?--1611) に帰せられるという趣旨で議論を展開している(Mulcaster については,「#441. Richard Mulcaster」 ([2010-07-12-1]) 及び mulcaster の各記事を参照されたい).

One of the most far-reaching changes Mulcaster suggested was for the use of final unpronounced <e> as a marker of vowel length. Of the many orthographic indications of a long vowel in English, the one with the longest history is doubling of the vowel symbol, but this has never been regularly practised. . . . Use of final <e> as a device for denoting vowel length (especially in monosyllabic words such as mate, mete, mite, mote, mute, the stem vowels of which have now usually been diphthongised in Received Pronunciation) has its roots in an eleventh-century sound-change involving the lengthening of short vowels in open syllables of disyllabic words (e.g. /nɑmə/ became /nɑːmə/). When final unstressed /ə/ ceased to be pronounced after the fourteenth century, /nɑːmə/, spelt name, became /nɑːm/, and paved the way for the association of mute final <e> in spelling with a preceding long vowel. After the loss of final /ə/ in speech, writers used final <e> in a quite haphazard way; in printed books of the sixteenth century <e> was added to almost every word which would otherwise end in a single consonant, though the fact that it was then apparently felt necessary to indicate a short stem vowel by doubling the consonant (e.g. bedde, cumme, fludde 'bed, come, flood') shows that writers already felt that final <e> otherwise indicated a long stem vowel. Mulcaster's proposal was for regularisation of this final <e>, and in the seventeenth century its use was gradually restricted to the words in which it still survives.


 Brengelman (347) も同様の趣旨で議論しているが,<e> の規則化を Mulcaster のみに帰せずに,Levins や Coote など同時代の正書法に関心をもつ人々の集合的な貢献としてとらえているようだ.

It was already urged in the last quarter of the sixteenth century that final e should be used as a vowel diacritic. Levins, Mulcaster, Coote, and others had urged that final e should be used only to "draw the syllable long." A corollary of the rule, of course, was that e should not be used after short vowels, as it commonly was in words such as egge and hadde. Mulcaster believed it should also be used after consonant groups such as ld, nd, and st, a reasonable suggestion that was followed only in the case of -ast. . . . By the time Blount's dictionary had appeared (1656), the modern rule regarding the use of final e as a vowel diacritic had been generally adopted.


 いずれにせよ,16世紀中には(おそらくは15世紀中にも),すでに現実的な綴字使用のなかで <e> のこの役割は知られていたが,意識的に使用し規則化しようとしたのが,Mulcaster を中心とする1600年前後の改革者たちだったということになろう.実際,この改革案は17世紀中に根付いていくことになり,現在の "magic <e>" の規則が完成したのである.

 ・ Scragg, D. G. A History of English Spelling. Manchester: Manchester UP, 1974.
 ・ Brengelman, F. H. "Orthoepists, Printers, and the Rationalization of English Spelling." JEGP 79 (1980): 332--54.

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2015-10-20 Tue

#2367. 古英語の <c> から中英語の <k> へ [grapheme][graphemics][spelling][palatalisation][i-mutation][phonemicisation][anglo-norman][vowel][consonant][causation][language_change]

 古英語で典型的に <cyning> あるいは <cyng> と綴られていた語が,中英語では典型的に <king> と綴られるようになっている.音素 /k/ を表わす文字が <c> から <k> へと置き換えられたということだが,ここにはいかなる動機づけがあったのだろうか.
 /k/ に対応する文字が <c> から <k> へ置換された経緯について,Scragg (45) は機能主義的な立場から次のように述べている.

. . . Old English orthography continued to represent the two sounds [= [k] and [ʧ]] by <c> (i.e. both of these words in late Old English were spelt cinn or cynn). Although <c> could still unambiguously represent /k/ before back vowels and consonants (as it still does in cat, cot, cut, climb, crumb), there was no agreed way of distinguishing the sounds graphically before front vowels. The use of <k> for the plosive appeared sporadically from the ninth century but it was not until the thirteenth that it was fully established in words like king and keen, by which time <ch> had been adopted for the affricate.


 <c> から <k> への変化は,/y/ の非円唇化という母音の変化が関与していることがわかる.古英語では口蓋化 (palatalisation) の効果により,前母音に先行する /k/ は [ʧ] として実現されるようになっていた.しかし,後母音に先行する /k/ は [k] として実現され続けており,互いに相補分布をなしたため,両音はあくまで同一音素の異なる実現であるにすぎなかった.したがって,それを表わす文字も <c> 1つで事足りた.
 ところが,後母音 /u/ が i-mutation により前母音 /y/ となり,さらに非円唇化して /i/ へと変化すると,cinn [ʧin]と cynn [kin] の対立が生まれ,相補分布が崩れる.こうして /ʧ/ が /k/ とは異なる音素として区別されるようになった.音素化 (phonemicisation) の過程である.
 この段階において,異なる音素は異なる文字で表現するのがふさわしいという機能主義的な発想が生じることになる.考えられる解決法はいくつかあり得たが,数世紀の実験と実用の期間を経て落ち着いたのは,/k/ に対して <k> を,/ʧ/ に対して <ch> をあてがう方法だった.従来の <c> そのものが残っていないことに注意されたい.
 初期中英語にかけて <k> と <ch> が採用された背景には,これらの綴字を用いるアングロ・ノルマン写字生の習慣も関与していただろう.Scragg の見解が音素と文字素の対応に関する機能主義的な説明に終始しているのに対し,OED の K, n. の記述は,アングロ・ノルマンの綴字習慣にも言い及んでおり,よりバランスの取れた説明といえる.

Yet, in the Old English use of the Roman alphabet, both the guttural and the palatal sound were represented by C, although in the practice of individual scribes K was by no means infrequent for the guttural, especially in positions where C would have been liable to be taken as palatal, or would at least have been ambiguous, as in such words as Kent, kéne, kennan, akenned, kynn, kyning, kyðed, folkes, céak, þicke. But, even in these cases, C was much more usual down to the 11th century; and K can be regarded only as a supplemental symbol occasionally used instead of C for the guttural sound. After the Conquest, however, the Norman usage gradually prevailed, in accordance with which C was retained for the original guttural only before a, o, u, l, r, and K was substituted for the same sound before e, i, y, and (later) n; while the palatalized Old English c, now advanced to /ʧ/, was written Ch. Hence, in native words, initial K now appears only before e, i, y (y being moreover usually merged in i), and before n ( < Old English cn-), where it is no longer pronounced in Standard English, though retained in some dialects.


 ただし,古英語でもすでに <k> が用いられていたことには注意すべきである.文字素や綴字の変化も含め,言語変化には,常に複数の条件や要因が関与しているということ (multiple causation of language change) を忘れてはならない.
 関連して,/k/ に対応する文字の歴史的問題について「#1824. <C> と <G> の分化」 ([2014-04-25-1]) を参照.

 ・ Scragg, D. G. A History of English Spelling. Manchester: Manchester UP, 1974.

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2015-10-15 Thu

#2362. haplology [haplology][phonetics][spelling][etymology][terminology]

 haplology (重音脱落)は,一種の音便である.類似する音や音節が連続するときに,片方が脱落する現象だ.例えば,probablyb が連続するために,俗語では probly として発音されることがある.同様に,libry (< library), nesry (< necessary), tempry (< temporary), pa (< papa) もよく聞かれる.歴史的にも,humbly は古い humblely から haplology を経て生まれた音形だし,「#1145. EnglishEngland の名称」 ([2012-06-15-1]) と「#2250. English の語頭母音(字)」 ([2015-06-25-1]) でみたように EnglandEnglaland から la が1つ脱落したものである.morphophonemic の代わりに morphonemic を用いることも十分に認められている.
 haplology という用語は,1893年に初出する.ギリシア語の haplo- + -logy からなり,前者の haplo- は「単一の,一つの」を意味する ha- と「?重」を意味する -pl(o) からなる.「#352. ラテン語 /s/ とギリシャ語 /h/ の対応」 ([2010-04-14-1]) でみたように,ギリシア語 h はラテン語 s に対応するので,haplo-simple は同根である.
 上記の haplology は音声上の脱落だが,似たような脱落は綴字上にもみられ,これは haplography (重字脱落)と呼ばれる.<philology> を <philogy> と書いたり,<repetition> を <repetion>,<Mississippi> を <Missippi> と書くような類いである.なお,逆に字を重複させる dittography (重複誤写)という現象もある.<literature> を <literatature> とするような例だ.近年は,手書きよりもタイピングの機会が多くなり,haplography や dittography の事例はむしろ増えているのではないか.
 音声であれ綴字であれ重複部分の脱落は,当初はだらしない誤用ととらえられることが多いが,時間とともに正用として採用されるようになったものもある.このようなケースでは,haplology や haplography は通時的な過程ととらえる必要がある.以下に,歴史上の例を『新英語学辞典』 (529) からいくつか挙げてみよう.

OE eahtatiene > ME eightetene > eighteen
OE eah(ta)tiġ > eighty
ME honestetee > honesty
OE sunnandæġ > Sunday
OE Mōn(an)dæġ > Monday
OE fēowertēneniht > fortnight
Missis > Miss
Gloucester > [ˈglɔstə]
Leicester > [ˈlestə]
OE berern > ME beren > barn
OF cirurgien → ME surgien > surgeon
Poleland > Poland


 関連して,Merriam-Webster の辞書より haplology も参照.

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2015-09-23 Wed

#2340. 書き言葉の自立性に関する Vachek の議論 (2) [writing][medium][history_of_linguistics][phonetics][spelling][sign][semiotics][spelling_reform]

 昨日の記事 ([2015-09-22-1]) に引き続き,Vachek の論文を参照して,書き言葉の自立性について考える.Vachek は,思いも寄らないところから,書き言葉と話し言葉の対等な関係を主張する.音声表記 (phonetic transcription) と綴字読み上げ (spelling out) である.
 音声表記,特に精密な音声表記 (narrow phonetic transcription) は,実用目的にはあまりに読みにくい.音声学の専門書でこそ有用だが,それで日常的に読み書きの用を足すことになったら不便きわまりない.なんとか我慢して読もうとするならば,音声表記をたどりながら,いったん声に出すか頭の中で音声化することによって,事後的にあの単語のことか,と認識して理解することになるだろう.書かれた音声表記を見てから内容を理解するまでに,いくつかの行程を経なければならない.音声表記ではなく,いわゆる通常の文字と綴字であれば,見てから内容を理解するまでの行程は,もっとずっと直接的である.
 綴字読み上げとは,1文字ずつ声に出してスペルアウトするもので,例えば apple であれば,1文字ずつ [eɪ piː piː ɛl iː] (= A P P L E) と読み上げる,あのやり方である.耳で [ðɪs ɪz ən æpl] (= This is an apple.) と聞けば,そのまま内容が理解されるところを,[tiː eɪʧ aɪ ɛs aɪ ɛs eɪ ɛn eɪ piː piː ɛl iː] (= T H I S I S A N A P P L E) と1文字ずつ読み上げられたらどうだろう.聞きながら1文字ずつ追っていき,頭の中で綴字を組み立てて,This is an apple. のことかと思い至る,なんとも回りくどい経験をすることになる.1文字ずつの読み上げを聞きながら内容を理解するまでに,いくつもの行程を経なければならない.音声表記と綴字読み上げは,その開始と終了の媒介こそ互いに異なっているが,理解までの行程がひどく回りくどい点で共通している.もちろん,まさにその理由により,いずれも日常的には用いられないのである.
 音声表記と綴字読み上げの共通項を,Vachek のことばで表現すれば,いずれも "a sign of the second order",つまり記号の記号であるということだ.それに対して,話し言葉における言語音や書き言葉における文字・綴字は,"a sign of the first order",つまり直接的な記号である.これらの関係を以下の図で示してみた.

+---------------+----------------+--------------------------+
|               |                |                          |
|               |     Speech     |         Writing          |
|               |       |        |            |             |
+---------------+-------+--------+------------+-------------+
|               |       |        |            |             |
|               |       |        |            |             |
|               |     phones     |         letters          |
| First order   |    phonemes    |        graphemes         |
|               |                |        spellings         |
|               |           \   |  /                      |
|               |             \ |/                        |
+---------------+---------------×--------------------------+
|               |             / |\                        |
|               |           /   |  \                      |
|               |                |                          |
| Second order  |  spelling out  |  phonetic transcription  |
|               |                |                          |
|               |                |                          |
|               |                |                          |
+---------------+----------------+--------------------------+

 綴字読み上げ (spelling out) は出力こそ話し言葉 (speech) の世界に属しているが,間接的に再現しているのは,実は,書き言葉の文字・綴字 (letters / graphemes / spellings) である.音声表記 (phonetic transcription) は出力こそ書き言葉 (writing) の世界に属しているが,間接的に再現しているのは,実は,話し言葉の音・音素 (phones / phonemes) である.このような関係であるから,回りくどいにきまっている.私たちは,日常的にはこのような回りくどい second order の記号を用いず,first order の記号で用を足している.話し言葉であれば直接に音を,書き言葉であれば直接に文字・綴字を利用する.
 このような話し言葉と書き言葉の対照的かつ対称的な関係を示されると,それぞれが対等かつ独立した言語の媒介であるという謂いにも納得がいく.それぞれが,独自の目的をもって,言語的実現の媒介となっているのだ.
 この見方は,音声表記を目指す綴字改革にとっても重要な教訓となるだろう.そのような改革は,first order の記号を,わざわざ回りくどい second order の記号へと格下げしようとしていると解釈できることになるからだ.この問題については,「#2312. 音素的表記を目指す綴字改革は正しいか?」 ([2015-08-26-1]) も参照.

 ・ Vachek, Josef. "Some Remarks on Writing and Phonemic Transcription." Acta Linguistica 5 (1945--49): 86--93.

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